ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

旧街道

御鮨街道(岐阜市)

岐阜市内ウォーキングで金神社参拝後、御鮨街道の石碑と駒札(立札)
を見つけました。

御鮨(おすし)街道:岐阜市                                                                2019,08,25  11:31 AM







                御鮨街道について
「御鮨街道」は、長良川の鵜飼でとれた鮎を飯とともに発酵させた鮎鮨を、
江戸の将軍家へ献上するために搬送した街道です。
鮎鮨は、岐阜町が幕府領の時代から江戸へ運ばれるようになり、元和5年
(1619年)に岐阜町が尾張藩領になると尾張藩から幕府への献上品となり
ました。
鴨が獲った鮎は、御鮨所に運ばれ、まず塩漬けにされます、それを塩出し
したのち、エラなどを取って腹に飯を詰めて桶に並べ、水をとおした飯を上か
らふりかけ、これを繰り返して桶一杯に漬け込みました。
これが運ばれるうちに発酵して、江戸に着く時期に食べごろになりました。
毎年旧暦5月から8月までの間に、江戸時代の前半には20回、後半には
10回、鮎鮨は岐阜から江戸まで運ばれました。
老中証文を受けた特別輸送で夜も休まず運んだため、わずか4~5日間
で江戸に届いています。
この輸送は、文久2年(1862年)まで続きました。          岐阜市



9月30日:18275歩

中山道加納宿当分本陣跡(岐阜市)

岐阜市内ウォーキングで加納城跡を散策後、岐阜駅方面に戻る途中で
「中山道加納宿当分本陣跡」の石碑を見つけました。
当分本陣とは当分の間本陣として定めらていた臨時の本陣、江戸時
代に参勤交代の時、大名が宿泊しました。

本陣(ほんじん): 江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、幕府役人、
           勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家。
           原則として一般の者を泊めることは許されておらず
          、営業的な意味での「宿屋の一種」とはいえない。
   

中山道加納宿当分本陣跡:岐阜市加納本町2丁目26                       2019,08,25  10:17 AM



排水溝の蓋にも中山道の文字





9月27日:33692歩

旧東海道(旧三条街道)JR山科駅付近

京阪三条駅から歩き始めた山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで「史跡
 五条別れ道標」の次に旧東海道(旧三条街道)の説明板を見つけました。

旧東海道(旧三条街道)   JR山科駅付近                          2019,01,13  10:11 AM





               旧東海道(旧三条街道)

この地を東西に貫く街道は、古代から都と東国を結ぶ日本の大動脈であった。
関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、支配確立の一策とし
て、道路制度の改革と整備に乗り出した。
この時整備した五街道の一つが東海道である。起点である江戸の日本橋から
終点の京都三条大橋の間に宿場が五十三箇所あったことから、これらを総称
して東海道五十三次といい、葛飾北斎や歌川(安藤)広重の浮世絵や、十返舎
一九の「東海道中膝栗毛」など、絵画や文学の題材ともなった。
 五街道では幕末まで車の往来が禁じられていたが、都に近い大津・京都間だ
けは例外で、人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分け、車道には
雨後のぬかるみに車輪が取られないよう、車石という石が敷き並べられた。今
の山科駅前にはかつて奴茶屋という茶店があり、近世の地誌に紹介されるほど
著名であったが、平成二十一年に惜しくも廃業した。また、当地の西方、日ノ岡
峠の麓には、東海道では市内唯一の一里塚が設けられていたが、残念ながら
残っていない。                              京 都 市

 車石 車石とは「京阪京津線跡」



JR山科駅



2月19日:19597歩

史跡 五条別れ道標(山科区)

京阪三条駅から歩き始めた山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで「天智
天皇山科陵」の次にJR山科駅の手前で道しるべの石柱を見つけました。

かつての都であった京都には、東海道を始め、西国街道、山陰街道、若
狭街道、鳥羽街道、鞍馬街道、伏見街道などの多くの街道があり、賑わ
っていました。
「五条別れ道標」は、旧東海道沿いに残る古い道標です。

史跡 五条別れ道標(山科区)                                                        2019,01,13  09:55 AM






     彫られている文字

①  「右ハ三条通」

②  「左ハ五条橋・ひがしにし六条大仏・今ぐまきよ水道」

③  「願主沢村道範建立」

④  「宝永四年十一月吉日」


      文字の意味
①  右は三条通りから五条通りに抜ける道の分岐点にある。    

②  左は五条橋・東と西の本願寺と六条の方広寺にあった大仏のこと、
    今熊野神社、清水(きよみず)寺に通じる道。

③  沢村道範という人が建立した。

④  宝永4年11月吉日
 

JR山科駅

旧東海道(山科区 九条山地区)

京阪三条駅から歩き始めた山科区の神社・史跡めぐりウォーキングで京津線
の跡「九条山車石広場」を過ぎて山科駅方面に向かって歩いている時
道路が二つに分かれていたので細い方の道を進んでいくと「旧東海道」の
プレートがありました。

旧東海道:京都市山科区 九条山地区











鯖街道口(京都市上京区青龍町)

京阪宇治駅で下車して、若宮社と下居神社を参拝した後、京阪出町柳駅
まで戻り、特に下調べをしていなかったので、出町柳駅の近辺を当てもな
く歩きました。
最初に出町橋の西側で「鯖街道口」の石碑を見つけました。

鯖街道口:京都府京都市上京区青龍町231            2019,01,12  00:44 PM





              碑文
小浜からの、いくつもの峠越えの道のうち若狭街道が
いつしか「鯖街道」と呼ばれるようになりました。
若狭湾でとれた鯖に塩をふり、担ぎ手によって険しい
山越えをして、京の出町に至る、この食材の道は、今に
息づく長き交流の歴史を語り続けます。

出町桝形商店街



2月3日:23784歩

巡礼街道(羽曳野市)

古代の水路跡「古市大溝」のそばに「巡礼街道」の説明板がありました。
説明板によると、むかし西国33カ所観音巡りのうち、第4番 槇尾山施福寺
(和泉市)より第5番 紫雲山葛井寺(藤井寺市)へ行く近道が、羽曳野市の
尺度から軽里付近を通っており、順(巡)礼街道と呼ばれ順礼の人々に利
用されていたそうです。

巡礼街道:羽曳野市軽里                                                2019,01,01  10:49 AM





                                         巡(順)礼街道
観世音菩薩への信仰にもとずいて、観音様を安置する各地の寺院を
拝して巡ることは、平安時代の末に始まり、主に僧や修験者、貴族な
どよって行われていました。江戸時代になると観音の功徳にあずかる
ことを願う庶民の間でも、観音霊場を参拝してまわる巡礼が各地で盛
んになりました。
西国33カ所観音巡りも、有名な霊場めぐりの一つで、那智山青岸渡寺
(和歌山県)を第一の札所として近畿各地をまわり、谷汲山華厳寺(岐
阜県)を33番札所としています。
このうち第4番 槇尾山施福寺(和泉市)より第5番 紫雲山葛井寺(藤井
寺市)へ行く近道が、羽曳野市の尺度から軽里付近を通っており、順
(巡)礼街道と呼ばれ順礼の人々に利用されていました。
今は路傍に立つ石の道しるべが、むかしの旅人がたどった道筋を伝え
ています。 



1月6日:20445歩

竹内街道と駒ヶ谷(羽曳野市駒ヶ谷)

羽曳野市神社めぐりで、次の目的地、杜本神社に向かって竹内街道を
歩いている時、駒ヶ谷小学校のそばに「竹内街道と駒ヶ谷」の説明板が
ありました。

竹内街道(羽曳野市駒ヶ谷)

駒ヶ谷小学校

2018,11,03  00:21 PM



                竹内街道と駒ヶ谷
二上山を仰ぎ飛鳥川が流れる駒ヶ谷は、古代以来の長い歴史に彩られて
います。
江戸時代の駒ヶ谷村は竹内街道を中心にて家々が建ち並び、寛延3(1750
)年には、家の数約134戸、人口は約630人を数えたといいます。
飛鳥川に沿った平地となだらかな丘には田畑が開かれ、それを潤すため池
があちらこちらに点在し、稲作と綿作が盛んで豊かな村であったようです。
春と秋に開けれる牛市は広く知られ、おもに中国地方各地から集められた牛
が多い時には600頭も取引されて、河内はもとより和泉や大和の村々に売ら
れてゆき、農作業の支えとなりました。
現在、栽培が盛んなぶどうは、すでに江戸時代には家の庭先などで作られて
いたようで、明治時代以後には丘陵や山地の急な斜面まで畑を広げ、国内有
数のぶどう山地に発展しました。
明治22(1889)年の現在のJR関西本線、昭和4(1929)年の現在の近鉄南大
阪線の開通までは、豊かな農産物が運ばれ、人々が賑やかに行き来する竹内
街道が、駒ヶ谷の繁栄に大きな役割を果たしていたと言えるでしょう。


日本最古の官道「竹内街道」



11月18日:28350歩

東高野街道・道路改修記念碑(東大阪市)

昨日(11月3日)は羽曳野市の神社めぐりをしました、羽曳野市に向かう
途中の東大阪市の「喜利川南」の信号の所の「安全安心スレーション」の前に
記念碑と説明板がありました。

東高野街道・道路改修記念碑:東大阪市 喜利川南交差点

2018,11,03  07:11 AM

          東高野街道・道路改修記念碑
この前の道は、東高野街道です、京道、紀伊道ともいわれていま
す、京都九条の教王護国寺(東寺)から伏見を経て、木津川を渡
り、山城との国境である洞ケ峠を越え、旧河内国に入り、生駒山脈
の西麓を経て、大和川を渡り、石川沿いに南下して、紀見峠を超
えて高野山へ至る街道です。治承年間(1177~1181年)に開かれ
たと伝えられていますが、当時高野詣での宗教街道として、大いに
利用されたため、この伝承があるのでしょう。古代において、河内
の平野部は池や低湿地のため、この山麓ぞいの道は河内で唯一
の南北道であり、かなり古いころから、重要な交通的役割を果たし
たことでしょう。
道路改修記念碑は、昭和11年、枚岡村が大阪府に対し、現在の
府道大阪・枚岡・奈良線(産業道路)大坂市内から箱殿付近まで
は副員も広げ、整備されているが、それ以上は、狭くて路面も悪く
、全国唯一の針金製造地なのに、大型自動車が通行できないの
で改築してほしいという請願をしていました、昭和12年6月、貞明
皇太后の枚岡神社行啓に際し、周辺の道路が、大きく改築された
り、新しく敷設されたのを記念して、大阪府が建碑したものです、
位置は若干移動されています。
もとは、ここに東高野街道の里程標が建てられていました。
                平成3年3月  東大阪市教育委員会


喜利川南交差点

旧野崎道の跡(城東区今福南)

9月25日の鶴見区と城東区の史跡めぐりウォーキングは「徳庵納豆ゆか
りの地」の次に旧野崎道の跡の碑をみつけました。

京阪電鉄京橋駅付近で、京街道から分岐する古堤(ふるづつみ)街道
(生駒市に至る)は、野崎道ともいわれました。これは大東市野崎の慈
眼(じげん)寺(通称野崎観音)への参詣道として元禄期(17世紀末)か
ら明治末期頃まで賑わったことによります。参詣はこの堤道を歩く者や
、寝屋川を屋形船で行く人たちもおり双方から遊山気分でののしり合い
、口論する独特の風景が見聞され、落語にも取り上げられています。

旧野崎道跡:大阪市城東区今福南2丁目1−1

2018,09,25  01:25 PM




かって屋形船が通った現在の寝屋川   上流側

下流側


10月7日:26931歩
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