ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

向日市(京都府)

下居神社(宇治市宇治下居)

1月12日の宇治市ウォーキングで若宮社の次に下居神社を参拝しました。
境内には万葉歌人、額田王の歌碑がありました。

下居(おりい)神社:宇治市宇治下居                   2019,01,12  08:16 AM







                   下 居 神 社
 祭神 伊邪那美命 創造神
     建玉男命   水の神
     黄泉事解命  祓の神
 祭祀 3月23日  新年祭
     11月23日 新嘗祭
創建を明らかにしないが斉明天皇行宮跡とも明日香親王別行跡とも
伝えられている古社である。
尚 万葉歌人として知られる額田王の故地である この 神域は京都府
より下居神社文化財環境保護地区に指定されている。
本殿は三間社流造 瓦葺で京都府の登録文化財である。
                     宇治市宇治下居 下居神社社務所

万葉歌人 額田王の歌碑



    
   秋の野の草刈り 葺き宿れりし宇治の 京の仮廬(かりほ)し思ほゆ

  この歌は、皇極天皇の大和から近江への行幸につきそった額田王の歌と
  伝えられ、「秋の野の草を刈って、その草で屋根を葺いて泊まった、宇治の
  みやこの仮小屋のことをなつかしく思われる」という意味である。
                          平成4年10月  宇治市

    仮廬(かりいお):仮に作ったいおり。旅先などでの仮の宿り。
            仮庵とも書く


2月2日:23470歩

竹の径(向日市)

向日市史跡・神社めぐりで、途中で道を聞いた方が親切で、淳和天皇火葬
塚、竹の道等を教えて頂きました。
竹林の道は京都嵐山の代表的な観光名所のひとつですが、こちらはあまり
有名でないのか、散策中に誰にも会いませんでした。

竹の径(たけのみち):京都府向日市寺戸町芝山~物集女町長野

2019,01,11  01:22 PM






良質な筍の産地として知られている向日市北西部にある向日丘陵の竹林。
この竹林の景観を保全し、さらには観光に繋げることを目的に、平成12年度
(2000)から整備されてきたのが「竹の径」です。
「竹の径」は、竹の枝を束ねた「竹穂垣」をはじめ、丸みを帯びた古墳の形を
表現した「古墳垣」、かぐや姫の十二単衣の襟元をイメージした「かぐや垣」な
どオリジナルを含めて、8種類の竹垣が整然と連なる全長約1.8kmにおよぶ
竹林道です。                      (向日市ホームページより)

淳和天皇火葬塚(向日市物集女町出口)

物集女城跡を案内してくださった親切な方は、次に淳和天皇火葬塚
までついてきてくださいました。

淳和(じゅんな)天皇火葬塚:向日市物集女町出口                    2019,01,11  00:55 PM











淳和天皇は、第53代天皇で、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、母
は藤原百川の娘旅子です。 兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し、
嵯峨天皇の第1皇子の仁明天皇に皇位を譲りました。
在位中は、政治改革を行うとともに「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成
を行いました。 承和7年(840)に55歳で死去し、遺言により火葬にして京
都市大原野の西山に散骨されました。            
ここは、天皇を火葬した場所とされています。  (向日市ホームページより)


1月30日:20841歩

物集女城跡(向日市物集町中条)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で「旭米顕彰碑」の次に物集女城跡
を見つけました。
ここは分かりにくく、途中で道を聞いた方が親切で、城跡まで案内してくだ
さいました。その後私が向日市の史跡めぐりをしていることがわかると、近
くの淳和天皇の火葬塚、竹の道等を教えて頂きました。

物集女城跡:京都府向日市物集町中条           2019,01,11  00:46 PM





                 物集女城跡
物集女城は、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の
居城と考えられています。
長享元年(1487)上久世庄(現京都市)公文に、「郷々出銭」を申しいれた「
惣国」の代表者6人の中に物集女四朗右衛門光重の署名が見られます。
この物集女氏はおそらく幕府の西岡被官衆の一人で、応仁の乱後、惣国の
結集に参加したものでしょう。
織田信長が山城地域を鎮圧したのち、天正元年(1573)細川藤孝は桂川西
岸一帯の一職を与えられ、国人たちの領土を安堵しました。安堵を受けた国
人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきでありまし
たが物集女氏の当主忠重入道宗入は、代々の自分の領域であり参上するい
われはないと拒絶したため、勝竜寺で誘殺され、以後、同氏は衰退しました。
城域は、この付近にある土塁と濠によって確認できます。
土塁は、幅7~12m、高さ1.0~1.5mの規模で、北東隅の一部と東辺45mが
残っています。濠は、幅5~10mを測り、深さ1m以上あります。現在も水を貯
えて利卯部分は、昔から地域の人々の用水池として利用されてきました。
こうした遺構から、域は東西100m、南北75mの規模を有していたことがわか
ります。ここ大きなムクの木のあるところは少し高くなっており櫓跡と推測できま
す。敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、
東側が配下の者達の住居等のあった副郭と思われます。
また、この地域は、中海道9席(弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地の
あたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地としての人々の生活の足跡
が残されている処でもあります。              向日市教育委員会

安堵(あんど):
①物事がうまく行って安心すること
          ②封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。

1月29日:22439歩

旭米顕彰碑(向日市物集女町森ノ上)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で「物集女車塚古墳」の次に
「旭米顕彰碑」を見つけました。
美味しい米の新品種「旭」を栽培した山本新次郎の功績を称える
石碑です、コシヒカリなど現在作られているおいしい米の多くは、「
旭」が遠い先祖にあたります。

旭米顕彰碑: 京都府向日市物集女町森ノ上12−7                    2019,01,11  00:34 PM


 


                                                 旭 米 顕 彰 碑
                                                                       大正3年(1914)12月建立
この石碑は、明治時代の終わりに稲の新品種「旭」を発見した山本新次郎の功績を
たたえて、建立されたものです、山本新次郎(1849~1918)は、京都の東山に生ま
れ、幼くして向日町(現向日市)物集女の農家の養子となりました、天性温厚で農業
に励み、研究熱心だった新次郎は、明治41年(1908)、当時広く栽培されていた稲
の品種「日の出」と「神力」の間から、悪天候にも倒れない株を見つけ出しました。
良い籾を選び出し、栽培を重ねて新品種とすることに成功し「日の出」より優れた
「朝日」と名付けました。私心のない新次郎は、求められるままに近隣に籾を分け与
え、質の良い米は評判になりました。明治44年には、桂に設置されていた府立農事
試験場で試験栽培の結果、優良と認められ、すでに同名の品種があったため、「旭」
の文字に改められました。「旭」の特長は、1つの穂につく籾は少ないが、株分かれが
多く増収が見込め、粒がおおきくて味が良いことです。大正時代に奨励品種となり、昭
和10年代には、西日本各地でもっとも広い栽培面積を占めるようになりました。また「
旭」からは次々と改良品種が生み出され、コシヒカリなど現在作られているおいしい米
の多くは、「旭」が遠い先祖にあたります。
石碑の建立を発起した「西国同行」とは、青年期に西国三十三所巡礼を一緒にまわっ
た人々の集まりのことで、物集女では終生深い親交を結びます。若い頃からの仲間や
、同じ町内の人々によって、物集女の水田を望む街道沿いにたてられたこの碑は、今
も続く米つくりを見守っているようです。                                 平成25年3月


1月28日:21099歩

物集女車塚古墳(向日市)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で「長岡宮跡」の次に「物集女車塚
古墳」を見つけました。
古墳は解放されており、古墳の頂上にのぼることができました。

物集女車塚(もずめくるまづか)古墳:向日市物集女町南条   2019,01,11  00:29 PM







                                          物集女車塚古墳
古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳です。

淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が、「車塚」の名の
由来とされています。

全長約46メートル、後円部が直径約24から32メートル、高さ9メートル、前方部
が長さ約18から23メートル、幅約39メートル、高さ約8メートルです。

後円部、前方部とも二段築成で、墳丘にはごく一部に葺石が施され、埴輪が並
べられていました。

埋葬施設は「畿内型」の「横穴式石室」と呼ばれ、整備して形がきれいに残って
いることから、毎年、内部が一般公開されています。

石室奥壁に沿って置かれた石棺は「組合せ式家型石棺」と呼ばれ、大阪府と奈
良県の境にある生駒山系の二上山で採石された凝灰岩製の板材を組み合わせ
てつくられています。蓋や底の石にある出っ張りは縄掛突起と呼ばれ、重い石に
縄をかけて運んだと考えられています。

石室の構造や副葬品(馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、武器、土
器等)から、埋葬者は6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物
と考えられています。



頂上からの眺め



1月27日:20291歩

長岡宮大極殿跡(向日市鶏冠井町)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で「元稲荷古墳」の次に「長岡宮跡」
を見つけました。
この地域はわずか10年間(784年~793年)ですが日本の政治・経済・文
化の中心でした。
この都は、東西4.3km、南北5.3kmと平城京、平安京に匹敵する広大な
もので、向日市、長岡京市、大山崎町と京都市の一部の地域に及んでい
ました。
政治の中心である長岡宮(ながおかきゅう)は向日市、経済の中心である
市(いち)は長岡京市、表玄関口にあたる港(山崎津・淀津)は大山崎町大
山崎・京都市伏見区淀にあり、諸国から多くの人々が往来する日本の政
治・経済・文化の中心地となりました。

向日市で見つけたのは政治の中心大極殿跡などです。



長岡宮跡:向日市鶏冠井町大極殿    鶏冠井町(かいでちょう)  2019,01,11  11:39 AM













1月26日:31901歩

元稲荷古墳(向日市向日町北山)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で「説法石」の石碑の次に元稲荷
古墳を見つけました、向日神社のそばにある勝山公園の中にありまし
た。

元稲荷古墳:京都府向日市向日町北山35                  2019,01,11  10:22 AM







  元稲荷古墳    所在地 京都府向日市向日町北山35
元稲荷古墳は三世紀後半ごろにつくられた最古の大型前方後方墳で、桂
川流域を束ねた王の墓と考えられています。
この古墳は、京都盆地が一望できる丘陵の先端部に位置します。
墳丘は、王の亡骸を埋葬した後方部は三段に築かれ50m四方の正方形
に、前方部は二段で側面の形は「ハ」の字形に大きく直線的にひろがり
ます、墳丘全体が小堀川から採取したを詰め込み、まるで石の山のよう
に築かれています。
亡き王の政治経済的な実力を示す墳丘の規模は長さが94mであり、同じ
頃につくられた神戸市西求女塚古墳と双子のように形と大きさを同じくし
ています。
埋葬施設は後方部中央に竪穴式石室が設けられ、内部空間は板石を積
み上げて家形となるようにつくられており、他に類を見ない特徴を有してい
ます。
副葬品は江戸時代の大きな盗掘により、鏡をはじめとする宝器の多くは失
われていましたが、刀・剣・槍・鉾・鎧等が残され、土師器直口壺も確認さ
れました。
墳頂での祭りには埴輪は使われ、後方部と前方部の中央に壺と器台のセ
ットが並べられ、さらに後方部では讃岐に由良する大型の二重口縁壺もそ
なえられました。
このように、元稲荷古墳は大王墓級の古墳づくりと共通する設計や技術が
みられ、最古の埴輪も備わるなど、亡き王と初期「倭王権」の緊密な関連性
をうかがわせます。

礫  読み方:れき、つぶて、こいし  意味:小さい石のこと。
私は神戸市西求女塚古墳を2018年9月に見学しました。
西求女塚古墳(灘区都通)





1月25日:20091歩

説法石(向日市)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で「向日神社」の鳥居のそばで
「説法石」の石碑と石の枠に囲まれた大きな石を見つけました。
下記の向日市のホームページによると、他の宗派から迫害を受けた日
蓮の孫弟子の日像がこの石に座り説法をし法華経の信者が増えて
行ったそうです。

説法石:向日市 向日神社の鳥居横                     2019,01,11  09:49 AM








向日市ホームページより


1月24日:20113歩

向日神社(向日市向日町北山)

向日市の神社・史跡めぐりウォーキング で一文橋の次に見つけた神社が「向
日神社」です。
本殿は応永25年(1418年)建立の古い神社で室町時代の流造を代表す
るものとして、国の重要文化財に指定されています。
また明治神宮本殿は、向日神社の本殿を1.5倍のスケールにした設計で
あるそうです。


向日(むこう)神社:京都府向日市向日町北山65                                2019,01,11  09:34 AM

長い参道







                                         向 日 神 社
  御祭神 向日神  火雷神  玉依姫神  神武天皇
   縁起  当社は延喜式神名帳に記載された式内社で、神名式においては山
    城国乙訓向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日
    に至っている、この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向日神社は
    上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた、当社の創立は、大歳神の御
    子、御歳神がこの峰に来られ向日山と称され、この地に長く鎮座された
    ことにより御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことに
    より、御祭神を向日神と申し上げることとなったのである。社伝によると
    養老2年(718年)である。
       上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ神は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬
        の特に高い神社であった事は古書に数多く見られるところである。
  祭 礼
  例    祭 5月1日
  氏子祭  5月第二日曜日
     祭礼は三日前に当社から大神様を御鳳輦にお遷し、鶏冠井御旅所(芝斎
      場)を経て上植野御旅所へお移しする神幸祭(おいで)に始まり上植野御
      旅所から各地区を巡行し当社へお還りになる還幸祭(おまつり)に至る。
  本殿建物
   現在の御本殿(三間社流造)は応永25年(1418年)に事始を行い建造され
   たもので、室町時代の流造様式の代表的建造物として現在国の重要文化財
   に指定されている。
 宝物
   棟札  (応永・慶長年間等の御本殿棟札五枚・国指定重要文化財の附)
   日本書記 (神代紀下巻・延喜4年藤原清貫奥書・国指定重要文化財)
   扁額  (小野道風筆の正一位向日大明神の額)
   古印  (向日社政印の銅印)
   委任状 豊臣秀吉および徳川歴代将軍の朱印状
 境内社 
   天満神社・勝山稲荷神社・稲荷神社・五社神社・祖霊社・春日神社 
   神変大菩薩・勝山身代不動尊明王・増井神社・神石・御霊神社



 
御鳳輦
(ごほうれん):①屋根の上に金色の鳳凰の飾りをつけた輿
               ②天皇の乗り物。






1月23日:23503歩
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