ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

秀吉公・三成公 出逢いの像「JR長浜駅前)

長浜市内ウォーキング
9月1日は長浜市内をウォーキンクで最初に見つけたのは「秀吉公・三成公 出逢
いの像」です。
JR長浜駅前すぐの所にありました。


秀吉公・三成公 出逢いの像「JR長浜駅前)                            2019,09,01  08:05 AM





                  秀吉公・三成公 出逢いの像
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に法華寺(長浜市木之本町古
橋)へ立ち寄りました、 汗をかいた様子の秀吉公を見た寺の小姓・
佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。
秀吉公がもう一杯頼むと、佐吉は先ほどよりも少し熱いお茶を茶碗半分
ぼど差し出しました。そこでさらに一杯所望したところ、今度は小さな茶
碗に熱いお茶を入れて出してきました、秀吉公は、茶の入れ方ひとつに
も気を配る佐吉を気に入り、召し抱えました。
少年は後の石田三成公で、この出逢いは「三献の茶」として語り継がれ
ています。
三成公は、ここから5km東の長浜市石田町で土豪の子として生まれまし
た、今も出生地付近は、官名にちなみ ”治部” という小字名が残っていま
す。 また、法華寺跡が残る古橋は三成公の母の故郷であり、関ケ原合
戦後に三成公が隠れた「大蛇の岩瀬」や、ゆかりの逸話が今に伝わって
います。                           長浜市


:鷹狩の途中に立ち寄ったのは観音寺(米原市)という説もあります。



10月19日:25887歩

板垣退助遭難の地(岐阜公園)

岐阜市内ウォーキング
岐阜公園の中で次に見つけたのが板垣退助の像です。
明治15年4月6日午後一時、時の自由党総裁板垣退助がこの場所で
演説後に襲撃された場所なのです。
なおこの像は二代目で旧像は大正7年除幕で昭和18年金属供出のた
め撤去。新しい像は昭和25年除幕されました。

板垣退助(1837年5月21日~1919年)7月16日)82才没
明治の政治家。土佐高知藩出身。旧姓は乾(いぬい),名は正形。会津
戦争の功績で,戦後藩政の改革を主導。1871年参議。1874年愛国公
党を組織し,民撰議院設立建白書を提出。1875年大阪会議で参議に
なるが,下野し民権運動を推進。1881年自由党の党首。1884年運動
の激化で解党し,
板垣の政治生命は事実上終わるが,1898年大隈重
信とともに隈板(わいはん)内閣を組織し,その内相を務めて引退.


下野(げや):官職を辞めて民間に下ること。与党が政権を失い野党となること


板垣退助像(岐阜公園)                            2019,08,25  01:51 PM







              板垣退助遭難の地
明治15年4月6日午後一時、時の自由党総裁板垣退助が中教院にて
演説を行う参会者百余名夕刻
板垣そうrすべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚褧 
が総理の胸を刺す。
総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。
即ち板垣総理遭難の地である。




10月6日:20680歩

織田信長公像(地名「岐阜」の由来)

8月25日は青春18キップを使って岐阜市へ3度目(一度目福井、二度目尾道)
の日帰り旅行をしました。
岐阜市内ウォーキングで最初に見つけたのがJR岐阜駅前(北口)にあった織田
信長公像でした。
下記説明の石碑によると「井の口」という地名から「岐阜」に改めたのは織田
信長公だそうです。

織田信長公像:JR岐阜駅                                                                  2019,08,25  09:05 AM









永禄10年(1567年)「井の口」から「岐阜」と地名を改め
た織田信長公は、楽市楽座など、新たな政策を取り入れ、
岐阜のまちの発展に尽力しました。
マントを羽織り、右手に西洋兜を持ち、まっすぐ前を見つめ
るこの像は、常に時代の最先端を歩き「変革」を目指した
信長公の姿を象徴しており、都市再生を図る岐阜のまちの
未来を表現するものとなっています。
    平成21年9月26日 岐阜市
                寄贈「信長公の銅像を贈る会」
                (市制120周年記念)

岐阜市内ウォーキングを終えて帰りに撮影  2019,08,25  03:12 PM



9月24日:18245歩

林芙美子像(尾道市)

尾道市内ウォーキングで尾道本通り商店街アーケイドの入口前で「林芙美子像」
を見つけました。


林芙美子像 :広島県尾道市東御所町3                         2019,08,11  10:53 AM

    海が見えた 海が見える 五年振りに見る 尾道の海は なつかしい
                 林芙美子「放浪記」より



JR尾道駅から徒歩約2分

林芙美子 はやし-ふみこ
1903~1951 昭和時代の小説家。
明治36年12月31日生まれ。行商人の子として貧しさのなかで各地を
転々とする。大正11年上京,種々の職業につきながらアナーキストの
詩人や作家の影響をうける。昭和5年刊行の自伝的小説「放浪記」が
ベストセラーとなった。昭和26年6月28日死去。47歳。山口県出身。
尾道高女卒。本名はフミコ。作品はほかに「風琴と魚の町」「晩菊」「浮
雲」など。
【格言など】花のいのちは短くて,苦しきことのみ多かりき(「放浪記」)

林芙美子文学記念碑



9月11日:14136歩

井伊直政公像(JR彦根駅)

7月20日青春18キップでの福井市内ウォーキングを終えて帰りに南彦根駅で
途中下車したくなったのでそのためには彦根駅で各駅停車の電車に乗り
換える為彦根駅で約15分の待ち時間があったので駅の外に出て散策中
に駅前で「井伊直政公像」を見つけたので紹介します。

井伊直政公像:JR彦根駅     滋賀県彦根市古沢町                            2019,07,20  03:55 PM





               井伊直政公像
永禄4年(1561年)現在の静岡県伊谷に生まれ、幼少の頃から文武
両道に励み、慶長5年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分
け目の合戦で知られる関ケ原の戦で功をあげ石田光成の居城であ
った佐和山城を与えられ18万石の大名となった。
その後、城を現在の彦根山に移そうとしたが、同7年(1602年)41歳
で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ20年の歳月を費やし元和8
年(1622年)彦根城を完成させた、こうして、彦根35万石初代藩主井
伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。

岡倉天心像(福井中央公園)

7月20日の福井市内ウォーキングの時、福井中央公園内で岡倉天心の像
を見つけました。

岡倉天心像  福井中央公園                                 2019,07,20  10:24 AM








       岡 倉 天 心
       1862~1913
哲学者 美術史家 世界人たる彼の理念
は西洋を東洋の理想に目覚めさせました
 米国ボストン美術館 館長 シャン ホンティン



 岡倉天心    文久2年~大正2年(1862~1913)
名は覚三、越前藩士の子として生まれ、幼少より英文、漢籍に
親しみ東京大学を卒業後に、文部省に奉職、日本美術の振興
、文化財の保護に尽力、東京美術学校長を辞職後、雅邦、大観
、春草、武山らを率いて日本美術院を創立し、近代日本画を育
成、米国に渡りボストン美術館東洋部長として「東洋の理想」「日
本の覚醒」「茶の本」など英文著書を著わす一方、米国各地で
講演しその高い識見、円満なる人格は西欧人より深く尊敬され
た。
初めて日本と東洋の「心」を西洋に紹介した超人的な業績は不
滅であり、伝統の尊重と模倣を排し、創造を説いた言葉は永遠
の真理として生き続けるであろう。
     昭和52年(1977)11月 岡倉天心先生顕彰会
                    会長 中川 平太夫

結城秀康公像(福井県庁前)

7月20日の福井市内ウォーキングは駅前で恐竜のモニュメントを見tけた後、
次に県庁前で「結城秀康公」の像を見つけました。

結城秀康(ゆうき ひでやす)
徳川家康の次男にして羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子という二人の天
下人を親に持ち(「秀」「康」の字をそれぞれ受け継ぐ)、後に結城晴
朝の養子となって名跡・結城
を継ぎ、関ヶ原の戦い後には越前藩
主となる。


結城秀康公像 :福井市大手3丁目17(県庁舎前広場)                        2019,07,20  10:04 AM



                  結城秀康公
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、越前68万石の大名となった結城
秀康公(徳川家康の次男)は、翌6年に北庄(後の福井)に入り、新しい城
の建設と、柴田勝家にはじまる城下町の大改造に着手した。多くの民の
力と汗に支えられ、およそ6年の歳月をかけて完成した城下は、都市とし
ての福井の原型をかたちづくり、今日の福井市発展の礎となった。
     平成14年4月   (財)歴史のみえるまちづくり協会




8月31日:21895歩

紫式部像(宇治市の宇治橋左岸)

6月17日の宇治市神社めぐりウォーキングは京阪宇治駅を降りてスタートしました、
宇治橋を渡ったところに「紫式部像」がありました。
紫式部は、源氏物語を書きました。その源氏物語の最後の舞台が宇治なの
です。

紫式部像:宇治市の宇治橋左岸(南側)



                紫 式 部 (978~1016?)
紫式部は「源氏物語」54帖の作者として知られる女流文学者。ここ宇治一
帯に華やかな貴族文化が開いた王朝時代に登場した才女とは知られてい
ても、その生涯には謎が多く、生・没年さえ正確にはわかっていない、999
年頃藤原宣孝と結ばれたが、宣孝の死後は寡婦生活の日を送り、「源氏物
語」の執筆はこの頃から始められたらしい。
やがて今をときめく左大臣藤原道長から、一条天皇の中宮になった娘の影
子の女房として仕えるようにと召し出され、宮仕えの身となる。
「源氏物語」が当寺の宮廷社会の実情をリアルに描写し、因果応酬の人生観
を有する人間性を追求した長編にまとめられているのは、紫式部自身の境
遇によるものであろうと思われる。
紫式部には、女房として宮仕えをしていたころの生活を綴った「紫式部日記」
や(1008秋~1010春)や、歌人としての非凡な才能が知られる「紫式部集」
があり、当時の公家のようすを伝える貴重な遺作となっている。
         宇治ライオンズクラブ 結成40周年記念事業 2003年吉日建立

女房
平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴族の人々に
仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で
彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来。


                  夢浮橋ひろば
 源氏物語と宇治
「源氏物語」は十一世紀初めころに作られた長編小説です。
作者は藤原影子に仕えていた女房紫式部であると伝えられています。物語は
全部で54帖(巻)からなります。
このうち最後の10帖は、光源氏の息子薫や孫の匂宮と宇治に住む三姉妹との
実らぬ恋の物語で、特に「宇治十帖」と呼びます。
「橋姫」ではじまり、「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」には、朝霧にけむる宇治川
の流れが不可欠でした。「源氏物語」は実話ではありませんが、いつの頃からか
、物語の舞台がここであってほしいという人々の思いによって、宇治川周辺に宇
治十帖の古跡が作られました。いま古跡を訪ねることで、遠く王朝文学の世界を
しのぶことができます。



紫式部の小説、源氏物語の最後の舞台が宇治市ですが、書かれた場所は
石山寺です、私は昨年、石山寺でも紫式部の像を見ました。
石山寺(滋賀県大津市)


6月21日:26461歩

「十二支の御神像」(太郎坊宮)

太郎坊宮で十二支の御神像にそれぞれ、二文字熟語が充てられているのを
見つけたのので紹介します。

滋賀県東近江市 太郎坊宮の境内にて

                十二支の御神像
人はこの世に生を受けると、生まれ年の十二支に守護されながら日々を
送ります。 十二支はそれぞれ行く先を見極める上でも深い意味を有して
います。 この御神像には、十二支がそれぞれ司る事柄を刻んでお祀りし
ています。 ご参拝の皆様にはこの十二支の御神像を拝し、ご加護をお祈
り戴きたく存じます。

    子(ね):子授   丑(うし):根気   寅(とら):決断

    卯(う):飛躍  辰(たつ):信頼   巳(み):貫徹

    午(うま):勝利   未(ひつじ):安泰

     申(さる):学芸  酉(とり):繁栄  戌(いぬ):恩義  亥(い):勇気


6月2日:23606歩

三好長慶像(大東市役所)

11月28日は大東市に用事があったので、大東市内をウォーキングしました。
大東市役所の前に今までなかった像があったので、近くに行ってみると
三好長慶公の像でした。
三好長慶公の銅像は、大東ロータリークラブが創立50周年の記念事業
の一つとして大東市に寄贈、設置したものです。

三好長慶像::大東市役所前             2017,11,28  03:05 PM









                                   三好長慶の生涯
三好長慶(1522~1564)は阿波国(徳島県)に生まれた。父の三好元長
は、室町幕府に対抗する政権を堺に樹立した立役者であった。
しかし、長慶10歳の時、元長は主君の細川春元に疎んじられ、謀殺され
た。少年の長慶は、兄弟の三好実休・安宅冬康・十河一存と力を合わせ
、松永久秀などを登用して、苦難を乗り越えた。
天文18年(1549)、江口の戦いで春元を破ると、天文22年(1553)には春
元についた足利義輝を追放した。そして、戦国時代で初めて足利将軍を
擁立せず、京都を支配する政権を打ち立て。「天下人」となった。永禄3年
(1560)、長慶は飯盛城に入城し、ここから京都や堺をはじめ関西や四国
を治めた。永禄7年(1564)には飯盛城を訪れたキリスト教 宣教師に布教を
許可したことで、長慶の家臣が受洗し、これが、「河内キリシタン」のはじまりと
なった。
長慶は飯盛千句を催すなど連歌を愛する文化人であり、いち早く鉄砲を
実戦に用いた文武両道の名将であった。その善政や人材登用の巧みさ
は、竹田信玄や上杉謙信、毛利元就と共に模範とされた、織田信長や豊
臣秀吉に先駆け室町幕府に代わる新しい中央政権を目指した時代の改
革者として、日本の統治者の一人に数えられた、そして、キリシタンを保護し、
「飯盛」の名を ”Imors” や ”Ymorv” という形で世界に知らしめた功労者で
もあった。                    平成29年(2017)10月吉日


12月4日:21798歩
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