ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

尾道市

林芙美子記念館(尾道市土堂)

尾道市内ウォーキング
宝土寺参拝後、予定を早めて帰路に向かうと決めてJR尾道駅に向かう
途中の商店街の中で林芙美子記念館を見つけました。
行きもここを通ったのに気が付かなかったのです。

林芙美子記念館:尾道市土堂1丁目11                                         2019,08,11  03:12 PM



店内奥庭につづき、林芙美子の少女期 土堂小学校より
尾道県女に入学当時(現在東校大正6年~7年頃)在住
した旧屋を、解放しております、
お茶など召し上がりながら お気軽にご覧ください。










明治40年3才頃の芙美子、男児を望んでいた両親が
馬の子の着物を着せていたという。

宝土寺(尾道市東土堂町)

尾道市内ウォーキング
宝土寺は先に参拝した吉備津彦神社の東側にありました。

宝土寺(ほうどじ):尾道市東土堂町10−3                  2019,08,11  02:57 PM










               宝土寺(浄土宗)
開基は融海意観が貞和(1345~1349)の頃に開いたと伝えている、
本尊は阿弥陀如来、長享3年(1489)の古い記録には、「大日本国
備後御調郡栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
寺の西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで
、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供tzちを湧き立たせる奇
祭ベッチャー祭の祭神で、あのベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出
すのである。
 阿弥陀如来座像(市重文)
 説相箱(市重文)
 吉備津彦神社のベッチャー祭(市民族資料)


 一劃(いっかく):土地などの、ひと区切り。一区画。

吉備津彦神社(尾道市東土堂町)

尾道市内ウォーキング
住吉神社の次に吉備津彦神社を参拝しました、尾道では「一宮(いっき
ゅう)さん」として親しまれています。
一見、地続きの宝土寺の境内のように見えます。
11月3日に行われる「尾道ベッチャー祭り」は秋の尾道を代表するお祭。
「ベタ」「ソバ」「ショーキー」の3体の鬼が観客らを持っている棒でたたい
たり突いたりしながら尾道市内を練り歩く奇祭で、尾道市無形民俗文化
財に指定されています。
尾道市内ウォーキングを始めてすぐに参拝したのがこの神社の御旅所でした。

吉備津彦御旅所(尾道本通り商店街)



吉備津彦神社(通称 一宮神社):尾道市東土堂町                    2019,08,11  02:50 PM







                  吉備津彦神社
御祭神 大吉備津彦命
大吉備津彦命は大七代孝霊天皇の第三皇子、四道将軍の一人で西道
(山陽道)を平定した、伝承では稚武彦命と共に鬼ノ城(総社市)の温羅
を討伐したと云う、備中吉備津宮にて高齢で薨去、御陵は備中中山茶臼
山古墳とされる。
由緒
通称一宮神社と云う、備後吉備津神社(福山市新市町)の分霊を祀ると
云う、創立年代不詳なれども南北朝至徳年中(1384~)栗原八幡宮祠官
平田小太郎が宝土住職と共に祭事を奉仕したのが始まりと云う、天正年
中(1573~)毛利元就の子息小早川隆景が山陰の尼子氏との戦の際、
当社に必勝祈願の参拝、大願成りて報告供料を寄進したと当社に伝承さ
れている。
ベッチャー祭り
文化4年(1907)当地方に尾道町奉行南部藤左衛門が各神社に命じて平
癒祈願病魔退散の御祈祷を行った、当社に於いては三日二夜の修祓の
後の10月18日(旧暦)ベタ、ソバ、ショーキー、獅子なる鬼面装束を着た者が神
輿の露祓いを為し町中御祓いをしたのが始まりと伝えられている、三鬼神
が持つ祝棒で突かれると頭が良くなると云われる、尾道三大祭の一つに
数えられている、尾道市無形民俗文化財。
 11月1日 御輿渡御
    2日 大祭式執行 奉納ベッチャー太鼓
    3日 ベッチャー巡行 御輿渡御

住吉神社(尾道市土堂)

尾道市内ウォーキング
志賀直哉旧居を見学後、海岸通りを歩いている時、尾道市役所の
そばで神社を見つけて参拝しました。
その時は現地に神社の名前を示すものがなく、後日、住吉神社と
わかったのです。

住吉神社:尾道市土堂2丁目10−12                  2019,08,11  02:21 PM








神社名が分かったグーグルの航空写真。



9月20日:24692歩

志賀直哉旧居(尾道市東土堂町)

尾道市内ウォーキング
中村憲吉旧宅の次に志賀直哉旧居を見つけました。

志賀直哉は日本を代表する小説家の一人ですが、1912年から1914年
までの2年間をこの尾道の平屋で過ごしました。わずか2年間ほどの短
い時間でしたが、志賀直哉はこの地から映画化もされた小説『暗夜行路
』の構想を練ったとされます



志賀直哉旧居:尾道市東土堂町8−28

2019,08,11   01:52 PM









9月19日:22825歩

中村憲吉旧宅(尾道市東土堂町)

尾道市内ウォーキング
「みはらし亭」のそばで中村憲吉旧宅を見つけました。

中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として
短歌界に重きをなしました。
昭和8年12月25日、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地療養し、昭
和9年5月5日に46才で惜しまれながら世を去りました。


中村憲吉旧宅:尾道市東土堂町15-10                   2019,08,11   01:08 PM









             中村憲吉略歴
明治22年 1月25日、広島県三郡布の村上村上布の(現三次市布野町)に生まれる
明治34年 広島県立三次中学校に入学
明治39年 同校を卒業、第七高等学校造士館(鹿児島県)
明治40年 学友の堀内卓造のすすめで短歌をはじめる
明治42年 上京し、伊藤左千夫を訪問、「アララギ」にはいる
明治43年 第七高等学校造士館を卒業、東京帝国大学(現東京大学)に入学
大正2年  柿の村人(島木赤彦)との合著「馬鈴薯の花」を刊行
大正5年   東京から帰郷した、家業に従事、第二歌集「林泉集を刊行
大正10年 大阪毎日新聞社経済部記者となる
大正13年 第3集「しがらみ」を刊行
大正14年 自選歌集「松の芽」を刊行
大正15年 家督相続を期に大阪毎日新聞社を退社、大阪から帰郷して家業に従事
昭和5年  現代短歌全集「中村憲吉全集・土屋文明全集」を刊行
        斉藤茂吉、平福百穂と山陽を旅行する
昭和6年    第四歌集「軽雷集」を刊行
昭和7年  2月~10月、五日市町へ転地転地療養
昭和8年  1月~7月、再び五日市町へ転地療養、12月25日、尾道市へ転地療養
昭和9年     5月5日、尾道市にて死去、10月、遺歌集「軽雷集以後」が刊行される。

みはらし亭(尾道市東土堂町)

尾道市内ウォーキング
「文学のこみち」から千光寺境内を過ぎてすぐの所に「みはらし亭」があり
ました。
みはらし亭は、築100年の茶園で約20年間、空き家でしたが、NPO法人尾
道空き家再生プロジェクトによって生まれ変わったのです。
予約すれば宿泊もできます。
アクセス - みはらし亭

茶園とは:尾道の発展に大きな役割を果たした豪商たちの粋の極みである
       別荘のこと。

みはらし亭:尾道市東土堂町15−7                     2019,08,11   01:06 PM







文学のこみち(千光寺公園)

尾道市内ウォーキング
千光寺公園の頂上の展望台から下山する途中に「文学のこみち」がありま
した。

尾道ゆかりの25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等を千光寺山山頂から
中腹にかけて点在する自然石に刻み、その静かな散歩道を「文学のこみち
」と名づけられました。
その一部を紹介します。
 

文学のこみち:尾道市東土堂町15−1                                            2019,08,11   00:52 PM


正岡子規


                  正岡子規
           のどかさや 小山つづきに 塔二つ

    松山の人、俳詩「ホトトギス」を発刊、俳句革新の大先達となった。
     この句は、日清の役に、日本新聞の従軍記者として尾道を通過したときの
    作で西国寺の三重塔と天寧寺の海重塔を眺めたものであろう。


林芙美子


                                          林芙美子
  海が見えた、海が見える、五年振りに見る尾道の海はなつかし
  い 汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が
  提灯のように 拡がって来る 赤い千光寺の塔が見える。
  山は爽やかな若葉だ 緑色の海向うのドックの赤い船が、帆柱を
  空に突きさしている。私は涙があふれていた。(放浪記より)

    下関の人、大正5年尾道に移り住んで尾道第二尋常小学校(現土堂小学
    校)尾道高等女学院(現東高等学校)を卒業後、上京して、苦をしのいで精
    進し、昭和4年に出世作「放浪記」を出し、新進作家として大成した、この碑
    の筆者小林正雄氏は小学校当時の恩師である。




志賀直哉

                         志賀直哉
       六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく ごーんとなるとすぐゴーンと
       反響が一つ 又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる
       其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の
       灯台が光り出す それがピカりと光って又消える造船所の銅を溶かした
       ような火が水に写りだす。         (暗夜行路より)

        宮城県の人、大正元年の秋から同2年の中頃まで、千光寺山の中腹に居を構えて
        いた。同10年から大作「暗夜行路」を発表、昭和12年に至って完成した、その寓居は
        現存している、この碑は、小林和作画伯が特に筆をとられたものである。






9月17日:19248歩

恋人の聖地(千光寺公園)

尾道市内ウォーキング
千光寺からさらに山を登って行くと千光寺公園があり、頂上の展望台
付近に「恋人の聖地」がありました。

恋人の聖地とは
特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖
地プロジェクト」により選定された観光スポットで、 自然に囲まれた場所
、夜景の綺麗な場所、記念品が作られる場所などが選定され、最初の
発表は2006年4月19日にされました。
現在全国に140カ所、海外に3か所あります。
また民間が中心の「恋人の聖地サテライト」という施設が全国に90カ所あり
ます。

恋人の聖地 :公共性を有する観光施設・地域が中心
恋人の聖地サテライト:一般企業・団体が中心

「恋人の聖地」 尾道市 千光寺公園                                   2019,08,11  00:29 PM












9月16日:10722歩

千光寺(尾道市東土堂町)

尾道市内ウォーキング
天寧寺三重塔を過ぎて更に登って行くと千光寺がありました。

千光寺: 尾道市東土堂町15-1                                                        2019,08,11  11:52 AM









                                     千光寺(真言宗)
開基は平安時代の始め大同元年(806年)で、後に源氏の名将多田満仲
の中興と伝えている、。
境内中央の巨岩「玉の岩」は昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に
海上を照らしていたのでこの地を「玉の浦」と呼ぶとか。
玉の岩の右には朱塗りの本堂、左には竜宮造りの鐘楼を配して、尾道の
風光のかなめをなしている。
本堂は貞享3年(1688年)の建立で、この地方には珍しい舞台造り、堂内
に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)の頃の作で和様に
唐様を加味した形式で、ここに安置された本尊は秘仏の千手観音菩薩。
鐘楼の鐘は除夜の鐘でもおなじみのもの、「音に名高い千光寺の鐘は一
里聞こえて二里ひびく」と俚謡にまでうたわれている。
本堂までの長い石段の左右には、かって若杉慧の「野の仏」にも紹介され
た古い石仏や除虫菊の創始者上山英一郎の頌徳碑や児玉不揺の筆塚な
どもある。
この寺の眺望は我が国随一といわれ山頂から八合目あたりを巡る「文学
のこみち」は、尾道の風光を愛でた文人墨客の作品を天然の岩に刻んだ
遊歩道である。

 中国観音霊場第十番札所、備後西国観音霊場第七番札所
    千手観世音菩薩      (市重文) 本堂ご本尊
     須弥壇           (市重文) 本堂に安置
     不動明王         (市重文) 護摩堂に安置
     阿弥陀如来        (市重文) 護摩堂に安置
     地蔵菩薩          (市重文) 護摩堂に安置
     石造逆修塔 二基      (市重文) 本堂下参道脇
     石造阿弥陀三尊像   (市重文) 本堂下参道脇(磨崖仏)

俚謡(りよう・りょうよう):宮廷や都会の唄に対して、地方で歌われる唄のこと。
頌徳碑(しょうとくひ):人や先覚者などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑。
文人墨客(ぶんじんぼっかく):詩文・書画などの風雅の道に携わる人。


名勝 「鼓岩」  映画のロケ地になったことがあります。

ノミの跡(大阪城の石垣として切り出す予定でした)





9月15日:15210歩
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