ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

関ケ原町

薩摩池(関ケ原町)

9月28日、日帰りバスツアー「湖東の2大苔寺拝観とイングリッシュガーデン」
での最初の観光地、米原市の青岸寺見学後、昼食は関ケ原の「花
伊吹」というドライブインまで移動しました。
又そこで自由時間があり、その近辺をウォーキングした時に見つけたの
た「薩摩池」です。

薩摩池:関ケ原町大字関ケ原1827番地の1                         2019,09,28  00:43 PM





                 薩 摩 池
関ヶ原の戦いで、島津隊一番隊は島津豊久、その横手に山田有栄、
義弘本隊はそれより後方のこの池に布陣しました。
西軍総崩れのなか、島津勢のみ戦場に取り残されるや、敢行した壮
絶な敵中突破はいまだに語り継がれています。
このせまい池は、島津隊が軍用として使用したもので、古来より水の
涸れることがなかったといいます。            関ヶ原町

今から約2か月前に青春18キップで行った関ケ原ウォーキングで散策した
島津義弘陣跡のすぐそばでした。

島津義弘陣跡(関ケ原町)



レストラン花伊吹 関ケ原町大字関ケ原1702ー2

日帰りツアー のバス



11月8日:23802歩

関ヶ原豆知識(関ヶ原町)

関ケ原町内ウォーキング
関ヶ原の合戦古戦場めぐりの時、「関ヶ原豆知識」として
「横槍」の語源など、興味深いことが電信柱に張り付けて
あったので紹介します。

関ヶ原豆知識 三献の茶                                           2019,08,25  05:33 PM

         三献の茶(さんげんのちゃ)
石田三成は寺小姓であった際、偶然立ち寄った豊臣秀吉に
茶碗の大きさと温度を変えた茶を三度献じ、その気遣いから
秀吉に引き立てられたという逸話がある。


関ヶ原豆知識  横槍

            横槍(よこやり)
両軍が戦っているときに、別の部隊が側面から槍で攻撃を
すること、そこから、仕事中に第三者が横から口を出して
妨げる行為「横槍を入れる」の語源となった。


関ヶ原豆知識  北国街道

       北国街道(ほっこくかいどう)
中山道関ケ原宿から分岐して近江木之本宿に到る街道、
越前街道、北国脇往還ともよばれた、古くから美濃と越前方面
を結ぶ要路であり、関ケ原合戦では西軍諸将の敗走路となった。


関ヶ原豆知識  家康の癖

         家康の癖(いえやすのくせ)
家康は爪を噛む癖があった、松尾山から動かない小早川
秀秋に苛立ち、爪を噛んでいた。その苛立ちは馬に乗った
まま家臣を切りつけるほどだったという。


関ヶ原豆知識  家康の食生活

  家康の食生活(いえやすのしょくせいかつ)
家康は、贅沢をせずに質素なものを中心に摂っていた、
また健康に良いと聞けば様々なものを試し、自分で漢方
を調合していたとも言われている。


関ヶ原豆知識   決戦の朝

       決戦の朝(けっせんのあさ)
慶長5年(1600)9月15日、深い霧に包まれた関ケ原では東西両軍
合わせて約15万もの兵士はちが静かにその時を待っていた。


10月17日:20478歩

関ヶ原の戦い「決戦地」

関ケ原町内ウォーキング
関ヶ原の合戦古戦場めぐりで「石田三成陣跡」の次に「決戦地」を見つ
けました。

西軍有利な陣形で臨んだ戦いであったが、小早川と脇坂ら4隊の裏切
りは、たちまちにして戦況を一変させた。小早川勢の大谷隊への突入と
同時に、西軍の配色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊
は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦った。笹尾山を前にした
この辺りは、最大の激戦のあったところです。


関ヶ原の戦い「決戦地」

2019,08,25  05:05 PM











                                         関ケ原合戦あらまし
西暦1600年慶長5年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる
東軍と石田三成率る西軍がここ関ケ原盆地で激突した。
豊臣秀吉亡き⑤、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同6月会津上杉攻
めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ、8月会津攻めから引き返
した家康は、9月1日江戸を発ち、14日には美濃国赤坂に着陣した、この間
家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩願の武将
の多くを東軍に引き入れた、一方豊臣家への義を重んじた三成は8月下旬か
ら大垣城に立てこもっていたが、急遽14日の夜大垣城を出て早朝には関ケ
原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた、一方東軍も西軍の動きに呼応し、
午前7時頃には家康は関ヶ原の桃配山に陣取った。
午前8時、東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いて井伊直政隊が発砲し、かくし
て決戦の火ぶたは切られた、地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の
陣形をとった西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた、しかし
、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業
を煮やした家康が、小早川の陣に向けて誘い鉄砲を撃たせると、気が動転し
た小早川は味方の大谷吉継隊を襲い吉継は自刃、ここに形成が逆転した。
正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜多秀家隊と崩れ、頑強だっ
た石田隊も敗走をはじめた、桃配やま家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、内
応した吉川広家に阻まれ最後まで参戦することなく陣を引いた、最後御残った
西軍の島津義弘隊は、正面から敵中突破を敢行し、多良方面へ去り、家康の
追撃中止命令が下った。時に午後2時半のことである。
天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五
家の所領を大きく削ったという、その後大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川三百
年の大平の基礎を築いたのであった。

改易(かいえき)
江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄(かろく)・屋敷を没収す
るもの。切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。


10月16日:30616歩

関ヶ原の戦い「石田三成陣跡」

関ケ原町内ウォーキング
関ヶ原の合戦古戦場めぐりで小西行長陣跡の次に「石田三成陣跡」を見
つけました。


石田三成陣跡:関ケ原町大字関ケ原4008     後の山が笹尾山        

2019,08,25  05:00 PM





              石田三成陣跡
笹尾山は北国街道を押さえる位置にあり、高所で盆地を一望でき
、防御に適している。
石田三成隊約6千は、西軍諸隊とともに前日の午前1時頃ここへ布
陣した、午前8時頃に戦いの火蓋が切られると、黒田長政や細川忠
興ら兵力で勝る東軍諸隊が猛攻を仕掛けるが、島左近(清興)を中
心に石田隊は獅子奮迅の働きを見せ、東軍を幾度も押し返す。しか
し左近が黒田隊の射撃で負傷し戦線から脱落すると、石田隊も徐々
に押し込まれる。
西軍は善戦していたが戦っていたのは一部の部隊だけだった。
島津義弘は三成の度重なる参戦要請を拒否、午前11時頃、三成は
ここから総攻撃の烽火を上げたが、松尾山の小早川秀秋、南宮山の
毛利秀元らは動こうとしない。
その最中、正午頃に秀秋が東軍に寝返り均衡は崩れる。
大谷吉継隊が壊滅すると、西軍諸隊は徐々に崩れ敗走。
勢いに乗って押し寄せる東軍諸隊を相手に、石田隊は決死の覚悟で
踏み止まり奮闘したが、午後2時頃にはついに壊滅 三成は再起を期
して、背後の伊吹山方面へ逃れていった。

小西行長陣跡(関ケ原町)

関ケ原町内ウォーキング
関ヶ原の合戦古戦場めぐりで「開戦地」の次に小西行長陣跡を見つけ
ました。
小西行長は西軍(石田三成軍)で熊本県の藩士でキリシタンでした。


小西行長陣跡:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4120−6      2019,08,25 04:48 PM







              小西行長陣跡
小西行長は、宇土城(熊本県宇土市)で肥後(熊本県)半国を領して
いたが、同じく肥後藩国を治める加藤清正と政治的に対立を深めて
いた。文禄。慶長の役も絡み、こらが文治羽、武断羽分裂の一因とも
云われる、文治羽の石田三成らが挙兵すると西軍に与した。
本戦の当日は、夜明けまでに約6千の兵を率い、北国街道と東山道
(中山道)の間に位置する北天満山に布陣、午前8時頃に開戦を告
げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川正安らと戦ったが、攻め込まれ
切り崩されてしまう、小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し
総崩れとなり、小西隊も敗走、行長自身は春日(揖斐川町)方面へ逃
走した、熱心なキリシタンで自害できなかったと言われ、19日に関ヶ原の
庄屋・林蔵主を介して自首し、此の地を治める竹中重門の家臣の手で
捕縛された。
これに出された徳川家康からの感状は、今も関ヶ原町に伝わる(小西
行長感状)林蔵主は、はじめ行長に逃げるように薦めたが、最後には
東軍の陣に送り届けたと伝わる。
行長はその後、京都の六条河原で処刑された。

烽火(のろし):敵襲などの変事の急報のために、高く上げる煙や火のこと。
         狼煙・狼烟も「のろし」と読む。
感状(かんじょう):主として軍事面において特別な功労を果たした下位
            の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するため
                           に発給した文書のこと。




関ヶ原の戦い「開戦地」

関ケ原町内ウォーキング
「島津義弘陣跡」の次に「開戦地」を見つけました。
この場所で国内最大級の戦い「関ヶ原の合戦」が始まったのです。

関ヶ原の戦い「開戦地」:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原4120−6
2019,08,25 04:37 PM








            関ヶ原の戦い「開戦地」
慶長5(1600)年、徳川家康は会津討伐のためとして東下、それを
好機と石田三成らは、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ大阪で挙兵し
、関ヶ原の戦いの幕が開く。
死に軍は、西上する家康らを美濃・尾張国境で迎撃しようと、三成
自身も大垣城に入城する。
しかし、東軍の福島正則らは、三成の予想に反し先んじて美濃に侵
攻、岐阜城をはじめ西軍の諸城を次々と 落させ、大垣城にほど近
い赤坂(大垣市)に集結する、後を追って9月14日に着陣した家康は
、長期化が予想される大垣城攻めを避けるため「東軍」はそのまま
大阪に西上するという噂を流させたという。
西軍は、東軍の西上を阻止しようと雨の中、夜半に大垣城を出発、
15日未明までに、最左翼の笹尾山に三成、小池村に小西行長と宇
喜多秀宗が着陣、先に布陣していた藤川台の大谷吉 や、雨宮山
(垂井町)の毛利秀元率いる毛利勢、松尾山の小早川秀秋と合わせ
鶴翼の陣で東軍を迎え撃とうとする、後を追う東軍は、関ヶ原の盆
地中央に進出、福島正則を先陣に魚鱗の陣を形成した。
雨があがり、霧が晴れ始めた、午前8時頃、東軍の松平忠吉と井伊
直政が抜け駆けして宇喜多隊に発砲、天下の覇権を賭けた国内最
大級の戦いが、ここ関ヶ原で繰り広げられることとなった。


鶴翼の陣(よくかくのじん):
           自軍の部隊を、敵に対峙して左右に長く広げた隊形
          に配置する陣形である。単に横一線に並ぶのではなく
           左右が敵方向にせりだした形をとるため、ちょうど鶴が
                        翼を広げたような三日月形に見えることから、この名が
                        ついた。 ...
                        
魚鱗の陣(ぎょりんのじん):兵法の八陣の一つ。中央が突出した、魚の
                  鱗のような形の陣形。


10月14日:21775歩

島津義弘陣跡(関ケ原町)

関ケ原町内ウォーキング
神明神社を参拝後、さらに進むと「島津義弘陣跡」がありました。
島津義弘といえば、戦国でも屈指の猛将として知られている武将で、関ヶ原の
戦いでも西軍敗走のなか、敵中を突破して薩摩へと帰還しました。


島津義弘陣跡(関ケ原町)                                                              2019,08,25 04:29 PM





             島津義弘(維新)陣跡
戦国の雄、島津軍団千人を率いた義弘は、北國街道をおさえるため、ここ
小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の雄姿を見せつける
ため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背信」を最後の武器に変えたその
決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。   関ケ原町 
 
              関ケ原戦跡踏破隊」名碑
鹿児島県日置市の青少年で組織する関ケ原戦跡踏破隊は、昭和35年から
毎年夏休みを利用して関ケ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。
(途中電車等も利用)
この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称える
とともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の
念をこめて設置しています。
また、関ケ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で関ケ原と日置市(旧伊集院町)は、
昭和38年に兄弟都市盟約を結んでいます。       関ケ原町



              島津義弘陣跡
島津義弘隊1千百余は、未明までに関ケ原へ入り、この地から
北西約250メートルの薩摩池付近に陣を敷いた、二番構えとして
石田三成」の側面の守りと、北国街道の押さえを任される、開
戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両
軍に関わらず打ち払う姿勢を取った。
三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成
の家臣・八十島助左衛門が下馬しなかったことを無礼として、
激怒し追い返す、その後、三成自身が説得に来るも、「今日の
償は面々切に手柄次第に相働くべく候」と呼応しない。
一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋
の寝返りにより戦況は一変、東軍の猛攻に絶え切れなくなった
西軍諸隊は次々に敗走する、孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫
るなか、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、
撤退を決める。
西軍諸隊が背後となる近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、
東軍諸隊が群がる正面を突破し、伊勢街道を南方に抜ける進路
をとる。島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。

神明神社(関ケ原町)

関ケ原町内ウォーキング
田中吉政陣跡を探索後、さらに歩いて行くと関ケ原合戦の「開戦地」を
案内する看板を通りに進むと、それよりも先に神明神社がありました。



神明神社(関ケ原町)                                                                       2019,08,25 04:26 PM





                 小池神明神社の由来
   鎮座地 関ケ原町字神田1871-1
   旧社格 無格社
   御祭神 左社殿 秋葉神社 火之迦具士命
         右社殿 神明神社 天照大御神
   由緒  当社の創建年紀は不詳であるが、秋葉神社を勧請し祀ったといわ
                   れている。日照りの時には関ケ原では町中廻り持ちで「雨乞い」を
                   することになっているが神神しく信仰するために神明神社を勧請さ
                   れた次第。
        もともと当社は慶長5年(1600)関ケ原合戦時には現在地ではなく
        字西甲斐墓1950の丘陵に祀られていたが西軍の将島津維新は陣
        地として好適地につきこの境内を本陣とし戦勝を祈願したといわれ
        ている。又嘉永6年(1853)火災にあい都合により隣地の現在地に
        移転し元の礎石は薩摩郡の使った井戸の側に残っている。
        おしいことに慶長以後の棟札が残っていたが嘉永6年(1853)の火
                   災で焼失してしまった。
  例祭日  秋祭り 10月2日
        春祭り 3月17日
    御神徳 天照大御神    国土安泰 国家隆昌 五穀豊穣
       火之迦具士命   火災削除 家内安全 厄除開運


10月13日:24305歩

田中吉政陣跡(関ケ原町)

関ケ原町内ウォーキング
「德川家康最後陣地」のそばでを田中吉政陣跡を見つけました。
関ケ原の合戦で、田中吉政は、最後には東軍諸将とともに石田隊を
壊滅させました。合戦後には、逃走した三成の探索を命じられ、伊吹
山中の洞窟に潜んでいた三成を捕縛しました。


田中吉政陣跡:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原918−3                2019,08,25 04:06 PM



              田中吉政陣跡
田中吉政は、約3千の兵を率いて細川忠興や黒田長政らとともに石田
三成と戦い、激戦末の、最後は諸将と共同して石田隊を壊滅させてい
る。
合戦後、徳川家康に、逃走した光成の探索を命じられた吉政は、古橋
村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜んでいた光成を捕縛する大功を挙げた、
吉政は、同じ近江出身で親しい仲だった光成を丁重に遇したといい、豊
臣秀吉から拝領し、最後まで使用していた脇差「切刃貞宗」を授けたと伝
わる。

德川家康最後陣地(関ケ原)

関ケ原町内ウォーキング
「東首塚」のつぎに「德川家康最後陣地」を見つけました。

德川家康最後陣地:関ケ原町大字関ケ原959-2                                 2019,08,25 04:05 PM







              德川家康最後陣地
慶長5(1600)年9月15日午前6時頃、徳川家康は桃配山に布陣してい
たが、戦況が把握できないため、午前11時頃、笹尾山の石田光成本陣
からわずか数百メートルのこの地に本陣を移し、全軍の指揮にあたった、
善戦する西軍にいらだっていた家康は、東軍に内応する約束をしたにも
関わらず、一向に動こうとしない小早川秀秋に業を煮やし、最後の手段
として、松尾山の秀秋の陣に向け威嚇の鉄砲を撃ちかけさせたともいわ
れる。
正午をすこし回った頃、遂に秀秋の采配が振られ、1万1千余の大軍が松
尾山を駈け下り大谷吉継に襲いかかった、これで戦いの流れは決し、東
軍の猛進に耐え切れなくなった西軍は次々に敗走、午後2時過ぎには総
崩れとなった。
その状況下、西軍で最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、突如この
本陣前に猛烈な勢いで迫り、そのまま駆け抜けた、義弘は猛進する東軍
から辛うじて逃れ、戦線から離脱した。
これをもって関ヶ原の戦いは終結し、家康はこの本陣で首実検を行った。




10月12日:18015歩

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