ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

長浜市

田村神社(長浜市田村町)

長浜市内ウォーキング
忍海神社参拝後、さらに北陸本線に沿って歩いて米原方面に行く途中に
田村神社がありました。
今から820年も前に創建された歴史の古い神社です。

田村神社:長浜市長浜市田村町733                                                 2019,09,01  00:23 PM







                田村神社由緒
当社は長浜市字宮の北旧国道8号線沿いの現在地に鎮座ましまして
古来より田村町一帯の氏神として今日まで氏子より篤く崇敬せられて
きました祭神は牛頭天王(素戔嗚尊)であります人皇82代 後鳥羽上皇
が近江の国に臨幸になられたとき正治元年当地方に五社の神を勧請
給わりましたが当社はその五社のうちの一社であり当時加田の荘、下
浜の荘と共に七か村の産土神であったと伝えられて居りますその後当
社は天正の兵火に罹り戦乱の為一旦は荒廃しましたが後陽成天皇の
御代に古への社地に社殿を再建したものであります。
尚現在の本殿は寛政12年の建築と記録されて居ります。
旧の社号を天王宮と称しましたが明治3年に素戔嗚尊社と改めその後
 社格制度に際して土地名に因んで田村神社と改称されました。
  祭礼 春季大祭 5月1日
      秋季大祭 8月23日
  境内面積 二千三百平方米
                                  以上
    

忍海神社(長浜市寺田町)

長浜市内ウォーキング
JR長浜駅から歩き始めて、約4時間、長浜市の面積の広いのに驚きました、
後で調べたら四條畷市の約36倍、東大阪市の約11倍でした。


忍海(おしうみ)神社:滋賀県長浜市寺田町318                             2019,09,01  00:13 PM








                                       忍海神社
 御由緒
現在の社名は明治四十三年三月旧来の只越神社と一簀山神社を
合祀した後の社名である。社伝によれば、只越神社は下坂田郷の
神として上古よりの鎮座と伝えられる。また、正治元年後鳥羽上皇
が名越寺御潜幸の時、五社の神を勧請され、その中の一社ともい
う。一簀山神社は寛仁元年僧源賢が多田幸寺創建の時、その地の
四隅に四天王の像を鎮め、守護神としたが、後にこの地に神祠を
建立したと伝えられる。

遠くに見えた長浜ドーム(愛称 長浜バイオ大学ドーム)       滋賀県長浜市田村町1320


10月31日:23278歩

下坂氏館跡(長浜市下坂中町)

長浜市内ウォーキング
長浜市下大戌亥町で北国街道の道しるべを見つけた後、下坂中町で
下坂氏館跡を見つけました、内部は解放されておらず外から見学した
のみです。

北近江城館跡群 下坂氏館跡:滋賀県長浜市下坂中町                        2019,09,01  11:46 AM





           国史跡
           北近江城館跡群 下坂氏館跡(下坂中町)
下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に所在する
中世の国人領主であった下坂氏の館跡です、下坂氏は、建武
3年(1336)の足利直義の感状などから南北朝期から湖北地方
で活躍した国人領主で、戦国期には京極・浅井両氏に仕えてい
ます、浅井氏滅亡後は、帰農するが、江戸期は郷戸として彦根
藩と関わりを持ち、現在も子孫が館跡に居住し、管理をしていま
す、館跡は、周辺を堀で囲み、内側には土塁を築いています、
中心部の主郭は、東西約55m、南北約42mの土塁による、また
、館跡には、18世紀前期に建築された木造入母屋造ヨシ葺の主
屋や門、菩提寺である不断光院の本堂などが所在し、往時の景
観を維持しています、長浜市教育委員会による発掘調査によっ
て、14世紀から16世紀の遺物が出土し同時期の建物跡・土類跡
・排水路跡・階段状の遺構などが検出されています、このように、
南北朝から戦国期にかけて国人領主として活躍した下坂氏の館
が、現在も土塁・堀などがの遺構とともにその景観を留め、調査
結果からも時期的が確認されたことは、中世から近世における地
域支配の在り方を考える上で貴重な史跡である。


感状(かんじょう):戦(いくさ)で立てた手柄をほめて、主君や上官
            与える書きつけ。

国人領主(こくじんりょうしゅ):
まだ大名などがいない時代、古くは朝廷・貴族政権であった平安
期の荘園を管理する「荘官(有力農民層)」や武士政権のはじまり
である鎌倉期の「地頭職(御家人たち)」などが各国に土着し、『在
地に独自勢力を持つ武士』たちを『国人領主(国衆・在国衆)』また
は『土豪』などと呼ばれます。


10月30日:19873歩

石造旧北国街道道標(長浜市大戌亥町)

長浜市内ウォーキング
長浜市下坂田町で「保存樹さいかちの木」を見つけ後、大戌亥町で
北国街道の道しるべを見つけました。

石造旧北国街道道標 長浜市大戌亥町                                          2019,09,01  11:37 AM







              石造旧北国街道道標
    長浜市指定文化財 昭和41年12月9日指定 長浜市大戌亥町所在
この道標の建設された当時、大戌亥村の南の高橋村に、見附屋治朗
(北居氏)という財産家があり、北国街道通行者のために私財をもって
建てたものであるという、南面「左北こく道」、西面「右京いせ道」、北面
「安政五戌牛八月建之」と彫られたこの道標は、幕末の安政5年(1858
)8月に建てられ、当地が「北国街道」の道筋であることを示している。
「北国街道」は、鳥居本宿の北にあたる下矢倉村(彦根市下矢倉町)で
中山道と別れ、米原宿・長浜町を経由し、木之本宿で「北国脇往還」と
合流、中河内宿から栃ノ木峠を超えて越前に至る道であった。
この道標は現在の場所から20メートルほど西の道沿いにあったと伝わる。
交通の発達とともに必要性が薄れ、道路の拡張等に伴い姿を消したり、
場所を移動する道標が見られるなか、江戸時代と変わらず北国街道沿
いに所在する道標は貴重であるといえる、また、建立年も明確で文字の
彫りが深いなど歴史資料や工芸作品としての価値も高い。   長浜市

長浜びわこ大仏(長浜市下坂浜町)

長浜市内ウォーキング
びわこ長浜大仏はJR長浜駅から徒歩約20分の所にありました。
調べたらこの大仏は2代目でした。
びわ湖に背を向けて立っていました。

初代  昭和12年建造 コンクリート製  高さ27m 平成4年解体
2代目 平成6年建造  青銅製    高さ28m

長浜びわこ大仏は調べたら日本三位の大きさでした。

長浜びわこ大仏(平安山 良疇寺境内):滋賀県長浜市下坂浜町86 



2019,09,01  11:21 PM





長浜びわこ大仏 平安山 良疇寺(りょうちゅうじ)







日本三大大仏「兵庫大仏」


10月29日:23367歩

平方 天満宮(長浜市平方町)

長浜市内ウォーキング
「旧長浜駅舎」を見学後、さらに長浜大仏に向かって歩いている時
神社がありました。
このは神社、昔、怪物と戦って亡くなった名犬を祀って創建された
神社で、犬上(神)明神と呼ばれていましたが、その後天満宮と改
称されました。


平方 天満宮 滋賀県長浜市平方町(ひらかたまち)662                    2019,09,01  11:10 PM





                 天満宮と犬塚の由来
・この天満宮の祭神は菅原道真公、当宮社は元「目検枷(めたてがい)」と云
 う名犬を祀り犬上(神)明神と称せしを加賀藩主、前田候が通行の際、藩主
 の奨めにより 天満宮と改め社殿北側に犬塚として祭神を祀り今日に及ん
  でいる。
・昔此所に目検枷と云う名誉奇特な犬がいた。
・当時は毎年附近の村から湖上の祭神に人神御供として一人ずつ娘を差し
 出す習わしがあった。
・ある年のこと村に豪気な男がいて何者が人神御供を求めるのかと、ひそか
 に正体を見極めたところ、「メッキ」に言うなよ、平方のメッキに言うなよ」とブ
 ツブツつぶやきながら得体の知れぬ怪物が水面から現れました。
・男はメッキとは何かと尋ねたところ野瀬の長者の愛犬「目検枷」のことであっ
 た。
・翌年人神御供のとき男が借り受けた名犬「目検枷」と怪物は大格闘の末、目
 検枷の噛みついた幾つもの歯痕を残し怪物はとうとう倒れてしまいました。
・しかし目検枷も大きな傷を受け必死の戦いに精魂つき息をひきとりました。
・村人はひっどく感激し長くその霊を慰めるために犬塚をたて祀りました。
・今なお「目検枷」の鋭い牙にあやかり度いと墓である石塚に触れた手で歯の
 痛むところを撫でるとその痛みが止まると言われている。







10月28日:18668歩

日本で最古の駅舎「旧長浜駅」

長浜市内ウォーキング
大通寺参拝後、次の目的地「びわこ長浜大仏」に向かって歩いている時
「旧長浜駅舎」がありました。
旧長浜駅舎は1882年、北陸線の始発駅として建設された初代長浜駅で
現存する駅舎としては日本最古のもので、第1回鉄道記念物に指定され
ています。

旧長浜駅舎:長浜市北船町1-41                                              2019,09,01  10:34 AM









10月27日:16897歩

「山門」の由来 大通寺(長浜市元浜町)

長浜市内ウォーキング
大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院で正式には無礙智山(むげちざ
ん)大通寺といいますが、一般に「長浜御坊」の名で呼ばれています。
本願寺12世の教如上人が、湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を
、旧長浜城内に開いたのが始まりで、そのころは、長浜御堂と呼ばれて
いました。
よく寺院の門を「山門」と言いますが、今回はその由来を調べました。

大通寺(だいつうじ):滋賀県長浜市元浜町32−9                         2019,09,01  09:45 AM









         大通寺山門 附山廊(長浜市指定有形文化財)
江戸時代初期、長浜城(当時廃城)内に設けられた大通寺は慶安2年(1649)
に彦根藩第2代藩主井伊直孝の土地寄進によって現在地に移転した、その後、
明暦3年(1657)大通寺本堂が建立される。
大通寺山門は上層部、下層部のある二重門で左右に山廊と築地塀を附属す
る。
記録によれば文化5年(1808)に建築が始まり、同9年(1812)にはほぼ上棟し
ていたとみられる。
ただし、上棟式が行われたのは天保10年(1839)で彫刻等の細部が完備され
たのは翌11年(1840)である。
上層内部は板敷で中央に須弥壇を設け、釈迦如来と弥勒菩薩、阿難尊者が
安置されている。内部の天井には京狩野派の画人、山縣岐鳳の「天女奏楽団
」が画かれている。
なおこの山門は京都の東本願寺の山門を模して造られた。その後本願寺の山
門が焼失した際の再建には、この山門が参考にされたといわれている。
またこの山門が建築されるまでは、西側に建つ台所門がこの場所にあったとい
われている。

三門:仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、
    空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺
    院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏
    、東司、浴室)の中の一つです。山門・三門について - 仏教


10月26日:26030歩

曳山(長浜市)

長浜市内ウォーキング
長浜市内ウォーキンクで長浜八幡宮を参拝後、次の目的地に向かって歩い
ている時、曳山を格納する倉庫を見つけました。
曳山(ひきやまとは「だんじり」のことで、他に、山笠(やまがさ),太鼓台
たいこだい)など地方によって呼び方が違います。
長浜の曳山は京都の祇園祭、高山市の高山祭と並んで日本三大山車祭
の一つに数えられています。
長浜市内には全部で13基の曳山があり、毎年4基ずつ登場します。

最初に見つけた「壽山(ことぶきさん)」                                     2019,09,01  08:58 AM

                                              

        「壽山」(大手町組)
建造年代・製作者
  本体 天明2年(1782) 藤岡 和泉利
  亭   年代不詳    製作者不詳
  山蔵 文化8年(1811) 製作者不詳
特徴
  亭は八つ棟造で、軒唐破風を付ける、部隊屋根千鳥破風棟上に鯱を
  置く、舞台天井は折上げ小組格天井となる、正面唐破風に「桃樹に孔
  雀 」、舞台前柱に「登り龍・降り龍」の飾金具を付ける、胴幕は、「竹林
  七賢人」の刺繍を施す。


高砂山 宮町組                                                                               2019,09,01  09:34 AM



        高砂山(たかさごさん) 宮町組
 建造年代・製作者
  本体 延享2年(1745)以前 製作者不詳
  亭  文化13年(1816)    藤岡 重兵衛安則
  山蔵 文化13年(1816)    製作者不詳
  特徴
  亭は八つ棟造で、軒唐破風を付ける、舞台屋根は切妻造の妻側
  を正面とし、箱棟鳥念に「元山」の文字をあらわす。
  舞台前柱に「小本垣根に瓢箪唐草」の飾金具、楽屋の欄間に「柿
  の猿」の木彫がある、背面には綴り織の見送幕をかける。


猩々丸 舟山組                                                                               2019,09,01  10:11 AM



          猩々丸(しょうじょまる) 舟山組
13基ある曳山のなかでも、町名にちなみ船の型をした独特の曳山である、
猩々の赤い大きな㠶布をあげ、背面に見送り彫物を一対置く、作者は多
くの曳山を手がけた藤岡和泉一富と言われ、安永3年(1774)の建造。


春日山(本町組)                                                                             2019,09,01  10:13 AM



                                      春日山(本町組)
建造年代・製作者
  本体  年代不詳(江戸時代)  (伝) 平右衛門
  亭   年代不詳(江戸時代)    製作者不詳
  山蔵  天保12年(184)                 製作者不詳
特徴
 山の名にちなんで「紅葉に鹿」の絵(舞台障子)や飾金具(高欄宝
 珠柱)がある、舞台前には、「ぶどうにリス」、台輪には、「波に千鳥
 」の飾金具を付ける、背面には、緋羅紗地に中国風の人物を刺繍
 した見送幕をかける。


曳山博物館




10月25日:23043歩

長浜八幡宮(長浜市宮前町)

長浜市内ウォーキング
長浜市内ウォーキンクで豊国神社の次に長浜八幡宮を参拝しました。

長浜八幡宮:賀県長浜市宮前町13−55                                          2019,09,01  09:30 AM









             長浜八幡宮由緒
  主祭神 足仲彦神(仲哀天皇)
        誉田別尊(應神天皇)
        息長足姫尊(神功皇后)
当宮は延久元年源義家が後三条天皇の功績を奉じて京都の石清水
八幡宮から御分霊を迎えて奉祀したもので往昔は坂田八幡宮或は坂
田別宮八幡宮又は勝軍山新放生寺八幡宮とも称した この宮が鎮座
されてからこの地を八幡の庄と称え庄内十一郷の産土神として崇敬深
く皇室を始め武将の尊崇更に厚く特に後奈良天皇は天文5年天下乱麻
の世を嘆かせ給い天下泰平祈願のため 御論旨を賜う 又足利六代将
軍義政は三重塔を建立し太刀神馬を奉納 湖北の浅井家も社領太刀神
馬を寄進している当時は社頭三千石、一山七十三坊があり堂塔伽藍は
壮観を極めた 八月十五日の放生会には坂田・東浅井二郡の士族が出
任して神輿の供奉をつとめたが元亀・天正の頃しばしば兵火に罹り殆ん
ど焼失した 天正2年羽柴秀吉が長浜城主となるやこの大社の荒廃を惜
しみ社殿の修復をなし社領百七十石を奉納する等再興に務めた 以後
徐々に壮観を復し妙覚院舎那院を始め二十余坊が神社の周囲に在って
神事をとっていたっが 明治維新の神仏分離により仏像什宝等は今の舎
那院に移し以来本社は神官による奉仕となった。


什宝(じゅうほう):家宝として伝えられた道具類






                秀吉公と長浜八幡宮
長浜町及びその周辺の七郷(中世の八幡荘の区域)を氏子圏とする長浜
八幡宮は豊臣秀吉公と深いつながりがあります。
近江北部を織田信長から与えられた秀吉公は、湖岸の今浜附近に城下町
(現在の長浜市街地)造営を計画しました。その際造営予定地内(旧八幡町
附近)にあった本社を現在地に移転させ、東西2町・南北1町を年貢免除地
として保証したといいます。
長浜城主になった秀吉公は、信長の浅井氏攻めで荒廃した社殿の復興を
行い天正2年(1574)2月20日には社領160石を寄進、天正8年(1580)には
社殿の造営を行いました。また、天正9年8月3日には、「御れう人」(誰を指
すかは諸説あり不詳)の「息災延命」を祈って、「阿弥陀仏尊懸仏(かけぼと
け)」を奉納しています。
長浜八幡宮には、寛政9年(1797)に200回忌の本尊として描かれた秀吉公
の画像が伝来します。これは、江戸時代においても、本社を保護した秀吉公
を祀る信仰行事が連綿と行われたことを示しています。

連綿(れんめん):長く続いて絶えないさま。
連綿体:書道で、草書・行書やかなの各字が切れずに連続して書かれている
     書体。

10月23日:22113歩
記事検索
プロフィール

ahisats3

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ