ahisats3のブログ

ウオーキング中に見つけた神社、史跡、珍しいもの等を紹介します。

真田丸

真田幸村の墓(心願寺)

以前(2016年11月23日)、真田丸出丸城跡を見学に行った時、朝早
く行ったので門があいていなかったので心願寺は2度目の訪問になり
ます。(開門は午前8時)真田幸村 出丸城跡(心願寺)
今回は午後に行ったので境内に入ることができました。
真田幸村の墓は門をくぐってすぐの所にありました。


真田幸村の墓 心願寺の境内(大阪市天王寺区)        2018,12,04  01:22 PM





  従五位下
真田左衛門佐豊臣信繁之墓

 慶長12年 5月7日
 於 摂津大阪打死 49歳

   墓碑銘 歴史地理史学者 中村武生
    書   松本笙絢
真田信繁は、竹田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は
源次郎、号は好白。
関ケ原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽
閉される。14年間、蟄居生活を送り、慶長19年(1614)豊臣方に参加した。
大阪冬の陣では、難攻不落の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した
、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げ
た。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置く。徳川本隊と戦い、徳川家康
に迫るも力尽き、越前兵に安居神社付近で打ち取られたと伝えられる。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし、現存最後とされる慶長
20年3月19日付の書簡にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と
名乗ったことはなかったと考えられる。
德川時代中期にあたる18世紀のなかばのころには、「幸村」の呼称が流布
していた。本墓碑は、生前の確実なである「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟 秀永や甥(のち養子)秀次ら親族のほ
か、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている、信繁の四百回忌に際して、
墓碑を建立する。
        平成26年(2014)10月吉日 真田山 心願寺

惣構(そうがまえ):城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。
            特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁
            で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、
            総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。
(いみな):人の死後尊敬しておくる称号。


心願寺



12月26日:23631歩

真田地主大権現(真田庵)

九度山町で最初に見学した「真田庵(善名称院)」の境内に「真田大権現」と
いう神社がありました。

この神社の由来は、真田屋敷跡に建てられた、お寺(善名称院)に、怒った
姿の昌幸の霊がたびたび見られるようになりました。そこで大安上人は昌幸
の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸
が現れ、そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束しました。それがこ
の真田地主大権現です。

昌幸:真田昌幸(さなだ まさゆき)、真田幸村の父。

真田地主大権現:和歌山県伊都郡九度山町九度山1413   真田庵(善名称院)の境内

2018,11,10  03:11 PM

鳥居の額に六文銭





11月28日:28573歩

真田庵(真田屋敷跡)

11月10日のウォーキングは和歌山県九度山町へ行きました。


2016年の大河ドラマ「真田丸」に九度山が出て来てから一度九度山に
行ってみたいと思っていたのです。

関ヶ原の戦で敗れた真田父子は高野山に蟄居を命じられました。
その麓、九度山町に真田屋敷跡が残っているのです。

和歌山県九度山町:人口 4295人、面積44,15平方キロメートル
  九度山、地名の由来は、高野山の開祖である空海(弘法大師)の母が
  暮らしていたという慈尊院があり、空海は月に9度母に会いに来ていた
  ことから九度山の地名が付いたと伝
わっています。

真田庵(真田屋敷跡)

2018,11,10  03:07 PM



           県指定文化財 真田屋敷跡
戦国の武将 真田昌幸・幸村父子は慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に
味方して敗れ、高野山に配流の身となったが、後、九度山のこの地で閉居
生活をした、
昌幸は、慶長16年(1611)・再起を願いながらこの地で65歳で生涯を閉じた
、幸村は、慶長19年(1614)子、大助ら一族と共に九度山のこの地を出で立
ち大坂城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付
近で壮烈な最後を閉じた。
その後、江戸中期の寛保元年(1741)大安上人によって善名称院(真田庵)
が創建され現在に至っている。

真田父子
 父:真田 昌幸(さなだ まさゆき):九度山で65歳で逝去 真田丸では草刈
                      正雄が演じた。
 子:真田 幸村(さなだ ゆきむら):45歳で大坂で戦死、真田丸では堺雅人
                      が幸村役。真田幸村戦死の地(安居神社)

11月27日:20194歩

真田幸村 出丸城跡(心願寺)

2016年2月26日に「真田丸の場所」を探して見つけ、2016年3月3日の
ブログに取り上げましたが、後で調べたら、その近くの心願寺という寺院
にも「真田丸出城跡」の石碑があることが分り、2016年11月23日に大阪
市内ウォーキングの時、探して見つけました。
真田丸の場所(大阪明星学園グランド)

真田幸村 出丸城跡(心願寺):大阪市天王寺区餌差2丁目22

2016,11,23  07:40 AM




1614年、慶長19年、真田信繁(幸村)は真田山に出城「真田丸」をつくり
、ここで徳川の大軍を相手に勝利をおさめた。翌年、「大坂夏の陣」で幸村
は討ち死にして、豊臣家は滅亡しました。

 元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に
幸村・大助父子の冥福を祈るために堂舎を創建。それが心眼寺(しんがん
じ)です、寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山としまし
た。 しかし当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将
であった幸村の墓をつくることは許されませんでした。
しかし、ようやく400年目の2014年10月に真田左衛門佐信繁之墓として建
立されたそうです。
私が訪問したのは午前7時40分、心願寺の門は閉まっており、中に入る事
は出来ませんでした。
開門は午前8時ということが後で分り真田幸村の墓を拝むことは出来ません
でした。
機会があれば近いうちに行きたいと思っています。


真田丸電車(大阪環状線)

4月13日から久しぶりにツアーの旅行に出かけました、出発は泉大津
港を午後5時30分発のフェリーのため、せっかく泉大津に出かけるのな
ら、朝早く家を出れば泉大津市の神社めぐりが出来ると考え調べたら
泉大津市の神社は全部で4社あり、結果は午前中に神社めぐりを終え
ることが出来て、午後4時30分発の南海泉大津駅前発の泉大津港行
きのバスに余裕を以って間に合いました。
南海泉大津駅には大阪環状線新今宮駅で乗り換え南海本線を利用し
ましたが、その時に大阪環状線京橋駅で真田丸の絵が描かれた電車
が停まっていて写しましたので紹介します。

真田丸電車 2016.04,13 AM6:22 JR京橋駅にて撮影

2016.04,13 AM6:22 JR京橋駅にて撮影

2016.04,13 AM6:42 JR天王寺駅にて撮影


4月19日:21382歩

真田幸村 軍旗奉納の「志紀長吉神社」

平野区内を歩いていると「真田幸村 ゆかりの平野区」の「旗」が
目につきましたが、平野区で通算11番目(4月11日は6番目)に
参拝した志紀長吉神社に真田幸村が戦勝を祈願して軍刀と軍旗
を奉納したことがわかりました、軍旗は今でも保存されているそう
です。

「志紀長吉神社」:大阪市平野区長吉長原2丁目8-23

平野区の神社めぐり11社目

2016.04,11 撮影








4月17日:13555歩

真田丸の場所(大阪明星学園グランド)

大阪冬の陣で突然姿を現し、その後破壊されて歴史の闇に消えた
出城「真田丸」の場所は多くの候補地がありますが、その一つが大
阪明星学園のグランドであったとの情報をネットで見つけて、2月26日の
天王寺区の神社めぐりの時、探して見学してきました。
明星学園グランド横に「真田丸顕彰碑」が平成28年2月1日に序幕式
があり設置されたばかりの、新しい記念碑がありました。

真田丸の場所(明星学園グランド):大阪市天王寺区餌差町5-44

2016,02,26 撮影





真田丸もう一つの候補地
真田幸村 出丸城跡(心願寺)

真田幸村戦死の地(安居神社)

2月15日、天王寺七坂の天神坂を見た後、坂を下る途中で
安居神社があったので、中に入って見つけたのが、真田幸村
の像でした、説明板によると、大阪夏の陣で真田幸村は安居
神社の境内で傷ついた味方の兵士の手当をしているときに徳
川方に襲われて戦死しました。



安居(やすい)神社:大阪市天王寺区逢坂1-3-24



安居神社は安居天満宮ともいいます


2月22日:28212歩

大阪城への抜け穴(三光神社)

この遺跡も真田山を探しに行った時に見つけたものです、
三光神社こ境内に「史蹟 真田の抜穴跡」と書いた石柱が
ありそばに抜け穴がありました、今は鍵がかかっていますが、
当時は大阪城につながっていたとされています、宮司さんの
話では7メートルほど奥で崩落していてふさがっているそうです。
ここ以外にも大阪市内には10か所ほどこのような抜け穴が
あるらしいです。
この付近は真田幸村が造った「真田丸」と呼ばれた大阪城を
守るための要塞があった場所です。

石柱「史蹟 真田の抜穴跡」 大阪市天王寺区玉造本町14-90


大阪城からの抜け穴(地下道)
これは豊臣方が逃げるためにつくった説と、徳川方が大阪城
を爆破するためにつくった説があり真実は分かりません。

抜け穴のそばにある真田幸村の像   2013,10,27 撮影
    
三光神社の中にあります
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