藍色工房(あいいろこうぼう) オフィシャルブログ

自社農園で藍を育て、藍の石鹸や藍染め雑貨を製造販売している四国の小さな工房からスタッフみんなでお届けします。
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タグ: 四国霊場

a仙遊寺1

さて、日付は変わりまして、今回は愛媛の第58番札所、仙遊寺(せんゆうじ)からの出発です。

天智天皇の勅命で、愛媛の国主であった越智氏により建立されたと記録があります。

海から上がってきた竜女が、一刀三礼しながら彫ったという、ご本尊の千手観音菩薩は、

竜宮からの贈り物という伝説もあります。


また、40年間このお寺に籠っていたという、阿坊仙人という僧がいました。

修行をおこない、伽藍の整備などをおこなってきましたが、718年に突然姿を消しました。

どういった人物なのか、謎だらけの人物です。

718年から40年さかのぼると、678年になりますね。

天智天皇の即位期間は668年から672年となっているので、絶妙なマッチング具合です。

天智天皇崩御のあとにおこった、壬申の乱により、都を追われた天智天皇サイドの人たちが、

縁のある仙遊寺にたどり着いて住んでいた・・・なんて説はどうでしょうか。


四国霊場公式HPでは、「あれこれ話」が書かれています。

仙人の正体とは・・・?別の見方もしているようです。

【第58番札所 仙遊寺】
http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/58senyuji/index.html


40年間ののちに、阿坊仙人は姿を消しました。

目撃した人の話によると、「まるで雲に乗って遊んでいるかのようだった」そうです。

その伝説にちなんで「仙遊寺」と名付けられたそうです。


はっきりと分かっていないからこその妄想、楽しゅうございますな(^^)

a仙遊寺2

弘法大師がこの地を訪れたのは、阿坊仙人の伝説からは半世紀以上後となります。

伽藍の整備や井戸の掘削をおこない、病に苦しむ人を救済しました。

その井戸は「お加持の井戸」と呼ばれ、旧参道の脇に残っています。

明治時代には宥蓮上人という高僧が山主となり、荒廃していたお堂などを整備されました。

この方は、明治4年に入定され、日本で最後に即身仏となられた方です。


標高はそんなに高くありませんが、生い茂った木に囲まれた境内は、別世界のように感じます。

6月下旬ごろの朝10時に訪れましたが、ひんやりとした空気です。

仙人に仏様・・・ふっとそんな存在を感じてもおかしくないような場所でした。




j栄福寺1

泰山寺からは車で10分ほどで、第57番札所の栄福寺に到着しました。

この日は、栄福寺で打ち止めをして終了の予定です。


その昔、今治沖の瀬戸内海では、荒れる波のせいで海難事故が多くおこっていました。

嵯峨天皇の勅命を受け、弘法大師が海上の安全を願って府頭山(ふとうざん)の山頂で

護摩祈祷をおこなったところ、満願の日には荒れていた波は静かになりました。

その穏やかな海上には、阿弥陀如来の像が浮かび上がったそうです。

その像を府頭山の山頂で祀ることとし、堂宇を建てたのが始まりといわれています。


また、少し時は流れて貞観元年(859年)、行教上人が宇佐八幡(現在の大分県)の分社を

京都の男山に創建し、石清水八幡とするために、近海を航海していたところ、暴風雨にあいました。

流れ着いたこの地にあった府頭山が、男山の山容とよく似ていたことに驚き、

栄福寺の境内に社殿をつくり、八幡明神を勧請しました。


明治時代の神仏分離令により分けられるまでは、同じ場所にお寺と神社がありました。

九州から1800年に巡礼をしに来た方の納経帳があり、「八幡宮別当栄福寺」と書かれています。

j栄福寺2


ちなみに、永福寺公式ホームページがあります。

【公式ホームページ 山歌う】
http://www.eifukuji.jp/

管理されている白川密成さんは、24歳で永福寺のご住職となった方です。

ほんわかとした感じのサイトとブログは、とても読みやすいので、ぜひご覧になってみてくださいね。


では、また次の札所レポをお楽しみに♪

h南光坊1

さて、車では約15分ほどで、55番札所の南光坊(なんこうぼう)へ到着しました。

四国霊場の中で、唯一「坊」とつく寺院なんだそうです。

なぜ55番札所だけ「坊」なのか、その由縁はここの寺院の誕生にあるのではないでしょうか。


594年の推古天皇の時代に、大三島(おおみしま)に大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を建立しました。

(大三島は、愛媛県と広島県を結ぶしまなみ海道の途中にある島です)

その際に、24坊の別当寺が建てられましたが、島に渡る不便さゆえに、後に文武天皇の勅命により

国主である越智玉澄公が、「三島の地御前」として現在の今治の地で祀ることとしました。

その際に共に移されてきた8坊の一つが、南光坊です。

長宗我部の兵火により、8坊全てが焼かれましたが、後に南光坊のみ再建され、今に至ります。

ちなみに「坊」とは、僧侶が住む場所(修行以外の生活をおこなうところ)という意味らしいです。

つまり、もともとは寺院として建てられたのではないため、「坊」という言い方が

いつまでも残っていたたのではないでしょうか。


※推古天皇より前の、仁徳天皇の時代から神様が祀られていたという話もあります。



南光坊の本堂は、第2次世界大戦中に全焼しました。

大正5年に建てられた大師堂は奇跡的に残り、空襲により落とされた焼夷弾も屋根を滑り落ち、

堂内に避難していた人々は無事だったと伝えられています。

その後、昭和56年に本堂は再建されました。

h南光坊2

今治の地で祀ることとなった越智玉澄公は、伊予水軍の祖とも言われています。

また、元々の大山祇神社は山・海の神様や戦いの神様とされるので、水軍の信仰を集めました。

船にまつわる金毘羅宮も、讃岐から勧請されているんですよ。

h南光坊3

今年は、11月9日~16日の期間中、ご本尊のご開帳と本堂内拝をおこなっているそうです。

あ、紹介が遅れましたが、ご本尊は大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)です。

仏像としてはあまり存在しておらず、日本ではこちらの南光坊のみに祀られているとか!

大通智勝如来の生前の子息が、お釈迦様の前世とも言われています。

ううむ・・・

ぜひこの目で拝んでみたいものです。


では、次の札所レポもお楽しみに!

g延命寺1

こんにちは、スタッフ太田です。
ずいぶん久しぶりのお遍路メモリアルレポです(^^;)


第53番札所の円明寺を出発してすぐ、第54番札所の延命寺に到着しました。


そういえば、53番も「えんめいじ」と呼ぶお寺ですね。

行基菩薩が開創したと言われる、54番の延命寺は、建立の約100年後に空海によって再興し、

当時の嵯峨天皇の勅願所としました。

その際に、同じ漢字の「円明寺」が使われたのですが、やはり混同することが多かったようです。

明治時代になって、やっと「延命寺」と改名されました。

両方とも、似たような時期に空海が命名しているんですが、なぜ混同する名前にしたんでしょうかね・・・

g延命寺2


何度か火事にあって再建されている延命寺ですが、現在の山門には、今治城の城門が使われています。

ご本尊も消失の危機を乗り越えて今に至っているため、火伏せ不動尊という尊名で呼ばれています。

ちなみに、平成28年になりますが、ご本尊のご開帳を予定しているそうですよ♪

g延命寺3

余談ですが、近いうちにご本尊を拝見しに、とある霊場に向かいます(^^)

合間にレポート記事を書いていきますので、ぜひお楽しみに~


f円明寺1

第52番札所の太山寺から東の方に行くと、すぐに第53番札所の円明寺(えんみょうじ)に到着です。

・GoogleMap 円明寺
http://goo.gl/maps/dTbi5

聖武天皇の勅願により、行基菩薩が阿弥陀如来像などを彫像し、伽藍などを整えて

大寺を建立したのが始まりだそうです。

最初のお寺の名前は、圓明密寺(えんみょうみつじ)といい、

建立時はもう少し海岸の方に建てられていましたが、鎌倉時代の兵火で堂宇を焼失したので、

この土地の豪族であった、須賀重久によって現在地に移されました。

そのすぐ後には、京都の覚深法親王からの命で再建され、現在の円明寺という名前になったそうです。


f円明寺2

円明寺では、四国霊場最古の銅板の納札が発見されています。

見つけたのは、アメリカの大学教授、スタール博士。

大正13年の巡礼中、本堂の厨子に打ち付けられていた納札を発見しました。

慶安3年(江戸時代)に、京都の樋口平人家次という人が奉納したものだそうです。

興味深いのは、この銅板にて初めて「遍路」という文字が使われていたことです。

お遍路の歴史を紐解くのに、重要な手がかりですね。


そして、もう一つ興味深いものが、お寺の奥の方にありました。

キリタン灯ろうです。

f円明寺3

キリスト教が迫害されていた時代、こちらのお寺では、隠れ信者が密かにマリア様を拝むのを

黙認していたんだそうです。

f円明寺4

古くからあるお寺には、色んな歴史が詰まっていますね~

お遍路で53のお寺を見てきたわけですが、それぞれに歴史があって面白いです!!

さあ、どんどん行こう♪

e太山寺1

爽やかな林道・・・5月の風が吹き抜けます♪

51番所の石手寺から、車で30分ほどで、52番札所の太山寺に到着。

瀧雲山という山の中腹にあって、駐車場から山門までは少し歩きます。

・GoogleMap 太山寺
http://goo.gl/maps/3mpAs

高浜湾の、瀧雲山を挟んで反対側になります。


本堂までに三つの門があり、二つ目の仁王門は重要文化財に指定されています。

最後の門の前には、少し急な坂道があるので、ここを上ると境内です!

e太山寺2

こちらの本堂は、国宝となります。

よく見ると、看板に「本堂(国宝)」って書かれてありますね。

鎌倉時代の1305年に、松山城主の河野家によって再建されたものなんだそうです。


e太山寺3

お寺の開基とされるのは、真野長者(真名野長者ともいう)という人物です。

真野長者は、元々は豊後(大分県)で炭焼きをしていた人ですが、神のお告げを受けて彼の妻にと

やって来た玉津姫と結婚して以来、商いの運が開けて長者となった伝説がある人です。

妻の玉津姫という方は、幼少のころにできた顔の醜いあざのせいで、お嫁に行けないでいたところ、

神様から「豊後に伴侶がいますよ」とお告げを授かり、京から嫁いできた方です。


彼はあるとき、仕事で大阪に向かっていた途中、大雨の嵐に遭遇しました。

無事を願って観音様に祈願をしていたところ、高浜湾にたどり着き、難を逃れました。

この報恩をかえすため、豊後から工匠を集め、木材を積み、この地にお堂を建立しはじめました。

夜を徹しておこなわれた作業は順調に進み、夜が明けるころには本堂が建立されていたそうです。

ですので、一夜建立の御堂という伝説として伝えられています。

まるで、豊臣秀吉の一夜城のようなお話ですね。


その後に、聖武天皇の勅願で行基菩薩がご本尊を整え、さらに孝謙天皇の庇護によって

お寺は隆盛しました。

e太山寺4

ちなみに!平成26年の10月19日~26日には、ご本尊御開帳の記念法要があるそうです。

後冷泉天皇から、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の各天皇がおさめた、十一面観音像と、

行基菩薩彫像とされる像と合わせて7体、こちらが御開帳の予定です。

すごい機会ですね!!

太山寺を訪れたのは5月でしたので、秋にも行ってみたい~と思っていたところでした。

皆さんもぜひ機会があれば、国宝&重要文化財に出会いに行ってくださいね♪

d石手寺1

繁多寺から車で10分ほどで、第51番札所の石手寺(いしてじ)に到着です。

道後温泉が近く、お遍路さんはもとより観光客など、多くの方が訪れていました。

・GoogleMap 石手寺
http://goo.gl/maps/eBtZo

728年に、伊予の豪族であった越智玉純が、夢で二十五菩薩の降臨を感得したことから、

この地を霊地として堂宇を建立しはじめたのが始まりだそうです。

翌年には、聖武天皇の命令により行基菩薩が薬師如来像を彫像し、本堂に祀られました。

当時は法相宗で、お寺の名前も「安養寺」だったそうです。

d石手寺2

その後、石手寺と改めるようになったのには、このような伝説が残っています。


伊予の国を治めていた河野家の一族に、衛門三郎という者がいました。

彼は非常に強欲な人間で、ある日、家の前に訪れた托鉢の僧を追い返します。

その僧が毎日訪れたため、8日目に訪れた際に、僧が持っていた鉢を地面にたたきつけて壊しました。

鉢は8つに分かれ、僧はすっと姿を消したのですが、この僧が弘法大師だったのです。

衛門三郎には8人の子供がいて、それから毎年、一人ずつ亡くなっていきました。

8年目にはとうとう全員亡くなってしまい、悲しんでいる衛門三郎の枕元に弘法大師が現れ、

あの時の僧が大師であったと初めて気付きます。

衛門三郎は全ての財産を家人に分け、妻と別れ、大師に会い懺悔をするために四国巡礼を始めました。

20回巡礼(四国を20周ってことです!)したところで、なかなか大師に巡り会えない衛門三郎は、

逆回りで巡礼し始めます。

逆に回っていたところ、徳島県の第12番札所の焼山寺近くで、病に倒れてしまいます。

その時、死期が迫っている衛門三郎の前に、弘法大師が現れました。

かつて大師におこなった非礼を懺悔し、大師から最後に望みはあるかと聞かれた衛門三郎は、

河野家に再び生まれ変わりたいと言い残し、息を引き取りました。

大師は脇にあった小石に、「衛門三郎再来」と書いて、その左手に握らせました。

天長8年10月という記録も残っています。


翌年、伊予の河野息利(おきとし)には、長男が誕生しました。

その男の子は、いつになっても左手を開こうとしなかったそうで、心配になった河野氏は、

安養寺の僧に祈願をしてもらいます。

すると、左手が開き、その中には「衛門三郎」と書かれた石が入っていたのだそうです。

衛門三郎は、願いどおり河野家に生まれ変わったのです!

石は安養寺におさめられることになり、後に寺号が「石手寺」へと変わりました。


・・・という、伝説です。

弘法大師に会うために巡礼していた衛門三郎は、お遍路の始まりの人と言われています。

また、逆回りで弘法大師に会えたことから、いわゆる「逆打ち」の伝説にもなっています。

「順打ち」は進む方向が同じですが、「逆打ち」は必ずどこかですれ違うので、

四国霊場で会いたい人がいる場合は「逆打ち」が良いと言われています。

が、物理的にも精神的にも流れに逆らってまわるので、キツイとされているまわり方です。

本当に逆打ちをしている人はあまり見かけませんが、お遍路豆知識として紹介しておきますね。

※衛門三郎の話は諸説ありますので、一番メジャーっぽいものをとりあげています。


ちなみに、懐かしの焼山寺レポはこちらから
↓ ↓ ↓
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/19815116.html


d石手寺3

石手寺は、そんな衛門三郎の伝承の地というだけでなく、お寺の堂宇のほとんが、

国宝または重要文化財に指定されています。

仁王門は、1318年(鎌倉時代後期くらい)の建立で国宝。

本堂、三重塔、鐘楼なども重要文化財です。

大師堂は、別名「落書き堂」と呼ばれていて、夏目漱石は正岡子規などが落書きを残しているそうです。

褒められたものじゃないけど、貴重ですね~!


あ、こちらの恵比寿さんは、なぜあるのかは記録し漏れなのですが、何だかかわいかったです。

d石手寺4

鯛が・・・オットセイみたいに胸ひれで立っているのがかわいい(笑)

繁多寺も石手寺も、ぜひ松山市を訪れた際には、足を運んでみてくださいね♪


c繁多寺1

49番札所の浄土寺と同じ松山市内で、車では5分ほどで50番札所の繁多寺(はんたじ)へ到着です。

最初、「はんたじ」って読めませんでした・・・正直。

・GoogleMap 繁多寺
http://goo.gl/maps/tbKJz

浄土寺と同様、孝謙天皇の勅願寺として、行基菩薩が薬師如来像を作って安置したのが

始まりだとされています。

孝謙天皇は目を患っていたとも言われますし、母親の光明皇后も病弱な方でした。

ですので、病気を治す仏様である薬師如来を祀っていたのではないでしょうか?

建立された当時は、「光明寺」という寺号でした。

その後、弘法大師が訪れて四国霊場とした際に、繁多寺と改められました。


天皇家の菩提寺、京都の泉涌寺から、快翁和尚という方が第7世住職として迎えられるなど、

こういったご縁から、お寺には16弁の菊花紋の瓦が残っているそうです。

c繁多寺2

伊予生まれで、10歳での出家後に全国を行脚した一遍上人も、繁多寺に縁のあるお寺で

修行をしたそうで、お父様が所有していた「浄土三部経」を、このお寺に奉納しているそうです。


少し小高い場所にあるので、市街地や松山城を見下ろすことができます。

景観樹林保護地区に指定されていて、さすが!景色が良いです♪

c繁多寺3


c繁多寺4

ワンちゃんも気持ちよさそう~

c繁多寺5

日も高くなってきて、そろそろお昼ご飯が食べたくなってきましたな。

しっかり歩いているし、お肉食べたいね~なんて話しているあたり、俗っぽいです(笑)

お昼ごはんレポは改めてするとして、次の札所に向かいましょーう!!

b浄土寺1

西林寺から、車で10分ほどで、次の第49番札所の浄土寺(じょうどじ)に到着です。

写真の整とん中、仁王門に「西林」と書かれてあったので、またもや西林寺と間違えました(笑)

・GoogleMap 浄土寺
http://goo.gl/maps/sLLlE

聖武天皇の娘、孝謙天皇の勅願のお寺として、恵明上人により開創されました。

ご本尊の釈迦如来像は、行基菩薩の作とされています。

当時は法相宗のお寺でしたが、のちに荒廃したお寺を、空海が霊場のひとつとして再興した際に、

真言宗に改宗しました。

b浄土寺2

諸国を行脚し、南無阿弥陀仏を唱えてまわった空也上人(くうやしょうにん)という僧がいます。

道路の整備や井戸の建設、また、野に捨てられた遺体の供養をおこなったことで有名な僧です。

本堂の厨子には、空也上人の像がおさめられています。

宝物殿などでご覧になったことがある方もいると思いますが・・・想像してみてください。

痩せた体に僧衣をまとい、太鼓を首から下げ、右手には太鼓をたたく撞木を持ち、

左手には鹿の角を付けた杖を持ち、そして、口からは6体の阿弥陀仏が連なって飛び出している。

少し変わった像ですね。

なんと、フィギュアまで発見してしまいました!



この像、この地を去ることのなった空也に、せめて姿かたちだけでも残していってほしいという

民衆の要望に応えて、空也自ら彫ったものなんだそうです。

お経を唱える様子を、針金で仏様を固定してあらわすなんて・・・よく思いつきましたね。


実際、空也の唱えるお経は仏様に見えたという説もあります。

それだけ、民衆に愛された空也のお経は、仏様と同じくらいありがたかったということでしょうか。

b浄土寺3

空也像自体が国指定重要文化財で、本堂も文明年間(なんと、1469年から1487年の戦国時代!)に

河野という領主によって再建されたものなんだそうです。

一度、昭和36年に解体修復がおこなわれましたが、当時のまま残っているということです。

本堂内部や厨子には、建設当時から江戸時代にかけての落書きがあるそうで、この建物も

重要文化財に指定されています。

b浄土寺4

重要文化財ばかり。

守り続けていかないといけませんねぇ・・・


納経所の前には、真っ赤な金魚たちがたくさんいました!

この金網は、猫防止でしょうか~??

b浄土寺5

ちなみに、四国霊場御開祖1200年祭として、3月18日~24日の間だけ、本堂の格子扉が

開けられるんだそうです!!

空也上人像が安置されている厨子も、拝めるかもしれませんね。

a西林寺5

さてさて。

前回おこなった、一泊お遍路旅行から年も明け、忙しい春も終わりかけの5月となりました。

車お遍路の再開ということで、48番札所の西林寺(さいりんじ)から打ち始めです。

・GoogleMap 西林寺
http://goo.gl/maps/EjEVJ

a西林寺1

西林寺をひらいたのは、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩と言われていて、国司であった

越智玉純公とともに堂宇を建立したのが始まりだそうです。

当時のお寺の位置は、数キロ東にあったようなのですが、空海が四国巡礼で訪れた際に、

国司の越智実勝公との協議により、現在の位置に移されました。

a西林寺2

このころ、村が大変な干ばつで苦しんでいたところ、空海が錫杖で水脈を探し当て、

湧き出た清流によって村が潤ったんだとか。

お寺から西南の場所には「杖の淵」と呼ばれる遺跡があって、その水脈の名残なんだそうです。

お水はその後も枯れることなく流れていて、昭和60年の「全国の名水百選」に選ばれています。


江戸時代に、お寺を全焼する火災があり、徐々に復興をおこなっていました。

村人の雨乞い祈願を成就したことで、松山藩に帰依した覚栄法印によって、本堂と鐘楼堂も

建てられ、江戸末期には大師堂と仁王門も復興となりました。

a西林寺4

お寺のまわりには小川が多く、このあたりの清流に自生している「ていれぎ」という植物は

松山市の天然記念物なんだそうです。


こちらは、なぜかほら貝(?)に植えられたサボテン。

かわいい・・・♪
↓ ↓ ↓
a西林寺3



a西林寺6

ちょうど初夏ということもあり、緑鮮やかな植物たちであふれています。

お寺って植物が多くていいですね~


では、季節はずれですが、しばらくの間は夏の風景をお届けしてまいります♪

g八坂寺1

四国霊場第47番札所、八坂寺です。

関係各所の皆様、大変申し訳ございませんでした。

前回の浄瑠璃寺の記事の際に、誤って八坂寺の写真が混ざっておりました。

浄瑠璃寺で今日は打ち止め♪とか書いておきながら、もう一か所きちんとまわっていたのです。

八坂寺の次のお寺の写真はあるのに、八坂寺だけ・・・ない?

大変失礼いたしました!!

それでもって、山門に天井絵があるのは、間違いなく八坂寺でございます。
↓ ↓ ↓
g八坂寺2

いやーーきれいですねぇ・・・(汗・汗・汗)

よく見たら、最初の山門の柱には、「八坂寺」と書いているではありませんか!

以後、気を付けてまいります。

※浄瑠璃寺の記事は、修正済みです。


さて、こちらの八坂寺は、役小角(えんのおづぬ)という呪術者が開祖と伝えられています。

飛鳥時代の天皇、文武天皇の勅命でお堂などが建てられた際に、

8つの坂を切り開いて建てられたがゆえに、八坂寺と名付けられたとか、

ますます栄えるという意味の「いやさか」に由来しているとも言われています。

・GoogleMap 八坂寺
http://goo.gl/maps/QKNL5


空海が霊場の一部としてからは、熊野権現の分霊を祀ったりと、修験道の道場になって栄え、

一時は僧兵を抱えるほどになったそうですが、兵火や度重なる火災によってお堂は焼失し、

お寺の規模もどんどんと縮小されていきました。

g八坂寺3

ご本尊は、阿弥陀如来坐像で、全国の信者から奉納された阿弥陀像が、

本堂の地下に8000体以上祀られています。

※資料によると8000体でしたが、案内板には万体と書かれてありました。

確かに、阿弥陀様がびっしりとみっちりと、おさめられています。

g八坂寺4


こちらの八坂寺で、間違いなく本日のお遍路は打ち止めです。

次回のお遍路は、年が明けてからの再開となります。

間違えないようにレポートいたします!

f浄瑠璃寺1

ヘトヘトになりながら岩屋寺を出発して、お泊りお遍路の最終コース、浄瑠璃寺に到着です。

第46番札所の浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、松山市内に入って最初の札所になります。

・GoogleMap 浄瑠璃寺
http://goo.gl/maps/TOci2


到着後すぐに、雨が降り始めました!

岩屋寺で雨に遭遇しなくてよかった・・・!と全員が思ったものです(笑)


奈良時代の僧、行基菩薩が、大仏開眼に先立って布教をおこなっていたところ、

この地が修行に適しているとして、伽藍などを建立したのが始まりだそうです。

白檀の木を彫って作られた薬師如来像をご本尊とし、

薬師如来がおられるという瑠璃光浄土にちなんで、浄瑠璃寺とされました。


その後、弘法大師が約百年後に訪れた際には、荒廃が進んでいたそうです。

伽藍などが修復され、四国霊場の一部となりました。

また、室町時代の武将も、自身の病に苦しんでいたところ、本尊への祈願により全快し、

厚く帰依して寺塔などを整備しました。



江戸時代におこった火事で、ご本尊と脇侍以外はほぼ消失しましたが、当時のご住職が

托鉢をしながら全国を行脚して、現在の本堂などが再建されました。

本堂の床は、人が何度も歩いた痕跡が残って、歴史を感じさせてくれます。


本堂から大師堂へは、回廊でつながっています。

でも、他のお遍路さん(多分、団体さん)が大勢いたので、順番待ちです。

f浄瑠璃寺2


f浄瑠璃寺3

雨のため、気にかけることができなかったのですが、境内に植樹されている

イブキビャクシンという大樹が、樹齢1000年を超えるんだそうです。

今度、晴れたときにまた行ってみたいです♪

e岩屋寺2

さて、大寶寺からは車で約30分ほど。

同じ久万高原町にある、第45番札所の岩屋寺へ到着しました。

・GoogleMap 岩屋寺
http://goo.gl/maps/RW5LX

ここは、札所の中で一番キツイ印象の残っているお寺です。

というのも、駐車場から山門まで階段があって・・・山門から本堂まで階段があって・・・

ひたすら山の中を歩いて行かなければならないから!

ガイドブックでも、山門から(駐車場から?)最も歩かなければならないお寺と書かれています。

時間計算したら、10分くらいしかかかってないけど、体力を消耗したのは階段のせいかな。

e岩屋寺1

e岩屋寺3

今でこそ、整備されてこの状態なので、昔はほぼ岩道だったのではないかと。

行き倒れたお遍路さんのお墓なんかもあったりします。

e岩屋寺4

やっとお堂が見えてきましたー!

e岩屋寺5

岩に囲まれたような地形のこの場所は、昔から霊地とされてきました。

修行ののちに飛行術を身に付けた女性が、法華仙人と名乗って住んでいたところ、

この地を訪ねてきた弘法大師に帰依し、全山を献上したそうです。

大師が木と石の不動明王の像を作り、木像の方をお堂へ、石像の方を岩窟へ祀り、

全山をご本尊の不動明王とされました。


石像が安置されている奥の院は、社務所での受け付けが必要です。

普段は鍵がかかっていて、お参り料と引き換えに鍵を貸してくれるので、それで開けるそうです。

その話を社務所の方としていたら、「あんたら、その格好で行くん?」と言われました。

チャライ格好ではなかったのですが、奥の院に行くにはどうも軽装だったようです。

軍手やトレッキングシューズの方がいいと言われました。

スカートの友人もいましたので、改めて出直してきます。

e岩屋寺6

明治31年に本堂・大師堂などが全焼して、資料なども全て焼けてしまったんだそうです。

先に大師堂が再建され(←この辺、四国霊場っぽい優先順位)、それに続いて他のお堂も

再建されました。

本堂の方が小さいのも、四国霊場ならではっぽく感じます(笑)


その本堂から大師堂→奥の岩の方を見ると・・・

おおっ!

目的の岩窟!!

e岩屋寺7

お分かりでしょうか?

岸壁をくりぬいたような場所までハシゴで上るのです!

写真の撮り方が上手くなく、高さがイマイチ分かりにくいですが、10mくらいでしょうか?


高さはまぁいいのですが、ハシゴのみで上るっていうのが・・・ね。

これ大丈夫なの!?とぐらぐらするハシゴを不安げにつかみつつ、上ります。

上りだしたら止まれない(後ろに人が!)

ていうかズボンはいてきてよかった(笑)

そして、上からの眺め。

e岩屋寺8

仙女になった女性が修行していたと言われる場所です。

高所恐怖症でなければ、ぜひ上ってみてください。

あ、スカート&ヒール高い靴は厳禁です。


帰りにお手洗いを使わせていただきました。

初めてみるおトイレ、思わず激写。

e岩屋寺9

e岩屋寺10

確かに臭くないですー!!

さすがに便器内までは激写できませんが、常に撹拌されています。

山の上ではお水も貴重品ですものね。


さて、下山です。

これまた体力を消耗しそうですが、これも修行。

それに、この寺域は国の名勝ですし、県立自然公園でもあります。

自然を愛でつつ、のんびり駐車場まで向かいましょう♪

c明石寺1

お久しぶりのお遍路ブログです。

もう2年も前のことなので、思い出すのに必死です(笑)



第42番札所から、車で30分ほど北上すると、第43番札所の明石寺(めいせきじ)に着きました。

・GoogleMap 明石寺
http://goo.gl/maps/jvUOQ

「めいせきじ」という名前ですが、古くは「あけいしじ」と呼んでいたそうです。


「宇和旧記」によると、18・9歳くらいの娘さんが、重そうな大石を軽々と運んでいたところ、

このお寺付近まで来たときに夜が明けてしまい、置き去ったそうです。

その乙女は千手観音菩薩が化身したものと思われ、この場所は古来より崇拝されてきました。

空海がこの地を訪れる300年近くも前に、すでに天皇の勅命により伽藍が建てられていて、

その後も、熊野からやってきた行者の修行場として栄えていました。


弘法大師がこの地を訪れた際には、伽藍堂宇が荒廃していたようで、その時の嵯峨天皇からの

勅命で、お寺の再興に努めました。

c明石寺2

こうして四国霊場のひとつになったのですが、またもや鎌倉時代には荒れ果て、その際に修復を

おこなったのが、源頼朝です。

若かりし頃に平家にとらわれた頼朝を救った、池禅尼(平清盛の継母)を弔うため、

阿弥陀如来像を奉納し、経塚を築きました。

その際に、山号であった「現光山」を、「源光山」と改められました。

以後、武士からの信仰が厚く、室町時代には西園寺家、江戸時代には伊達家の祈願所となり、

末寺は70以上あったとされます。


お堂の横に、井戸がありました。
↓ ↓ ↓
c明石寺3

詳しい説明がなかったのですが、「弘法井戸」というものがあるそうで、それではないかと思います。

空海にまつわる水の話はとても多く、何か伝説が残っているのではないかな~と信じています。


あと、夫婦杉も。
↓ ↓ ↓
c明石寺4

これも説明が(以下同文)のため、憶測でしか語れません・・・

元々一本だったのが分かれたか、二本だったのが一本になったのか。

c明石寺5


さて、お参りを済ませ、次の札所へ!

次は、記念すべき・・・44番ですよ。やっと半分♪
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b仏木寺1

朝の8時過ぎです。

長期お遍路の2日目、最初の龍光寺からは、車で10分もかからずに次の霊場に着きました。

同じく愛媛県宇和島市の、第42番札所、仏木寺(ぶつもくじ)です。

・GoogleMap 仏木寺
http://goo.gl/maps/tqkE2

b仏木寺2

こちらには、家畜の安全祈願をする、家畜堂というのがあります。

弘法大師がこの地で修行しているとき、牛を引く老人に出会ったそうです。

勧められるがままに牛の背中に乗ったところ、近くの楠の梢に光るものを発見しました。

それは、唐から帰朝する際に三鈷杵とともに投げたといわれる、宝珠だったのだそうです。

この地が霊地であると感得された大師は、楠で大日如来を彫り、堂宇に本尊として納めたのが、

仏木寺の始まりだそうです。

b仏木寺3

もともとは、農耕の牛馬などの安全祈願がメインだったようですが、最近は一般のペットの供養や

闘牛関係者への信仰も広まっているそうです。


そういえば、宇和島には「牛鬼」という伝承があります。

全国各地に伝わる牛鬼伝説の中で、愛媛県の伝承は特に知られているんだそうです。

顔が牛で体が鬼、またはその逆だったり、体が蜘蛛の牛鬼もいて、

家畜や人を襲って食べたり、たたりを起こしたりする妖怪、とされています。


毎年7月には「牛鬼まつり」というのが開催されます。

・宇和島牛鬼まつり公式ホームページ
http://ushioni.gaina.ne.jp/

空海を背中に乗せた牛とのつながりはないんでしょうけど、伝承好きの私としては

ぜひとも行ってみたいところです(^^)


ご朱印をいただいて帰る途中、七福神に出会いました。

各々ポカリスウェットのお供えが添えられていて、なんともいえない(笑)

b仏木寺4

ところで、まだ朝8時過ぎなんだなぁ・・・

と、やはり人っ気のないお寺を眺めて思うのでした。

9時を過ぎると、観光に来た方や団体お遍路さんがお参りし始めますからね。


さて、スッキリしないお天気で肌寒いですが、次のお寺へ参りましょう!

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