藍色工房(あいいろこうぼう) オフィシャルブログ

自社農園で藍を育て、藍の石鹸や藍染め雑貨を製造販売している四国の小さな工房からスタッフみんなでお届けします。
スキンケア、アロマテラピー、藍染め、薬草、四国の素敵&面白情報をぼちぼち更新いたします♪

タグ: 屋島

藍色工房 安徳天皇社

明けましておめでとうございます!!

2013年・平成25年の幕開けですね。

今年もますますいい年となりますように、心を合わせてまいりたいと思います。

素敵な一年のお手伝いができるよう、藍色工房スタッフ一同、心をこめて

お話しさせていただきます。

どうぞよろしくお願い致します☆


<長期連載のおさらい(汗)>

結果的に、長期にわたる連載となってしまった「屋島と源平合戦、こんな視点」シリーズ。

大河ドラマ『平清盛』も無事に最終回を迎え、ネタバレを心配すること無くお話しできるように

なったので、さっそく続きのお話しに参りたいと思います。


が、前回までの流れからかなり時間が空いてしまいましたので…

これまでの記事のおさらいリンクをココに貼ります。



[その1]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/14060636.html

[その2]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/14147654.html

[その3]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/14251363.html

[その4]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/14726213.html

[その5]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/15598879.html

[その6]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/17231763.html


今日のブログのトップの画像は、屋島東町に残っている安徳天皇社で、かつて

安徳天皇がここで暮らしていた跡地とされています。



<阿波忌部が平家とたもとを分かつことになった理由>

[その6]では鹿ケ谷の陰謀で、忌部神社の宮司の息子であった西光が処刑された

ことに触れましたが、実はことはこれで収まりませんでした。

清盛は家来に命じて、現在の阿波市の西光の実家を守っていた四男・広長まで

討ち取りました。

その家来の名前を田口成良(たぐちのしげよし)と言います。


平安末期の四国の武将で紀氏の系統に当たる人だそうです。

福原(神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当

していた人物とされていて、清盛の信頼の厚い家来であったことが想像できます。



これは私の推測です。

阿波民部大夫であった成良は、日本の歴史の陰へと追いやられつつあり、なおかつ

国の祭祀の要を司り続ける忌部氏と時の権力者との橋渡しの役目も果たしていたのでは

ないでしょうか。

阿波の地元では、知らない者はいないような人だったと推測されます。



鹿ケ谷の陰謀の後に即位した安徳天皇は、清盛が入内させた娘の息子。

神と天皇の橋渡しをしている阿波忌部氏の良好な関係を保ちたかった。

清盛は、逆らえば力ずくで抑え込む実行力を見せつけて、静かに服従し続けると

思っていたかもしれません。



阿波忌部の内心はいかばかりだったでしょうか。

鹿ケ谷の陰謀のあまりに乱暴な後始末を目の当たりにし、地域の宝として支えてきた人を

奪われ、敵と憎むべき一族から排出された天皇のために「あらたえ」をあつらえ、

ただひたすらに国の秘を守り続ける日々。

辛さ、切なさ、憎さを募らせていたであろうことは容易に想像できます。



一方で、平家を追う源義経は、その道を開くために忌部の力が必要であることをなぜか

知っていたようです。

(これもまた別の機会にいくつかのエピソードを調査したいと思うのですが、今は割愛いたします。)

その証拠に、阿波に発つ前に彼は紀伊を制しました。

紀伊もまた忌部の地です。阿波から渡った阿波忌部が紀伊忌部として暮らしていました。

ここで紀伊の忌部を味方につけ、紀伊忌部が阿波忌部に密使を送る。

事の次第を秘密裏に知らせ、屋島に拠点を構える平家を追う源氏の後押しを口添えする。

源氏の後ろには法皇がついており、忌部氏が源氏方に着くことに何らの躊躇もいらないと

いうことも申し添えられ…

様々な葛藤の末に阿波忌部は源氏軍に着くことを決断したのではないでしょうか。



<屋島という場所>

屋島での内裏造営は、西光の四男を討った田口成良が指揮を取ったと記録されています。

忌部と平家の橋渡しをし、地域の武将・豪族を束ねて平家方に着け、築港の技術にも

精通していた彼が、屋島と言う場所に様々な地の利を感じていたということが分かります。



更に、天皇家と密接な関係を持ったことで平家が知りえた「国の秘」をも「人質」代わりに

抑えることが目的であったかもしれません。

この場所は、日本の始まりの秘密を握る「ウガヤフキアエズ」が生まれた場所だからです。

平安初期、嵯峨天皇や弘法大師空海が人生をかけて仕上げた国の秘密の隠ぺい工作を

200年の後に白日のもとにさらけ出してしまおうと脅迫する行為とみなされてもおかしくは無い

内裏造営。

京都の朝廷と藤原氏は本気で平家をたたかなくてはなりません。

(藤原氏は忌部氏を影に追いやることで隆盛を極めてきた一族です。)



<決戦の最中に>
藍色工房 安徳天皇社拝殿
壇の浦の戦い、と言うと平家が滅亡した山口県の史実のことを指しますが、屋島にも

「壇の浦」という地名が残っています。

屋島の壇の浦でも、戦いが繰り広げられました。

藍色工房 屋島史跡案内
緑色が屋島の陸地で、青い色が海です。

屋島の南側に見える「相引き川」は屋島の東西を囲む海とつながっており、

屋島は事実上「島」なのです。

屋島の東側に広がる海とも川ともつかない不思議な地域が壇の浦と呼ばれています。

正しくは「檀」と木偏の字を使うそうです。

藍色工房 屋島史跡案内版2

平家も源氏も多くの犠牲を出した戦いとなりましたが、結果は源氏の勝利。

平家は一旦屋島の西側にある志度と言う場所まで退き、ここでも源氏と一戦を交えますが

再び破れて海に逃れます。



屋島の安徳天皇社の敷地の片隅には、今も平家の兵士たちのお墓が残されています。

藍色工房 平家の兵たちの墓

そして、決戦の地の山口県の壇の浦で…なんと、あの田口成良が平家を裏切り

義経軍に寝返ってしまうのです。

志度での戦いで、成良の嫡男が義経の家来の策略にはまり降伏したことを知り

300艘の船を率いて義経軍に着いたと伝えられています。



<終わりに>

強引なようですが、この連載はココでおしまいにしようと思います。

源平合戦ではすでに活躍していたとされる忍者の存在や熊野別当湛増など、まだまだ

触れるべき人を置いたままの乱暴な推測を展開してまいりましたが…

私がこの連載で言いたかったことは、表向きに教えられてきた日本の歴史が、

実は何らかの思惑で史実とは違った形を意図的に伝えられてきたものであるかもしれないと

少しでも立ち止まって考えてみたい、ということです。


平清盛は何か言いたかったのかもしれません。

とても大切なことを。


それが何だったのか、注意深く歴史の襞をかいくぐって目と耳と感覚を存分に働かさなければ

見極めることはかないそうもありません。

阿波忌部の史跡は、少しずつ地元の人々に見直されつつありますが、まだまだ勉強を重ねて

行かなければなりません。

阿波忌部の拠点となった山川町で生まれ育った私の父でさえも、忌部氏の存在自体を

ほんの数年前まで知らずに過ごしていたほどです。



周到に忘れ去られてきた歴史の糸口を、少しずつ手繰り寄せ、本当に知るべき大切なことに

いつかたどり着けたらと思っているのです。


最後に…源平合戦では最終的に源氏方に着いたかのように見えた忌部氏は、心のうちでは

ひそかに平家再興を願っていました。

その証となるのが、徳島県の剣山(つるぎさん)に残る剣の舞です。

この舞は、忌部氏を頼って四国に落ち延びた平家によって伝えられた舞とされ、今でも

忌部の里であった剣山の神社で奉納される舞となっています。

忌部と平家のつながりは、とても深いものであったのではないかと調査中です。

また勝手な推測連載を始めてしまったら、どうぞ気長にお付き合いくださいませ。


●剣の舞について詳しく記載されているページはこちらです
https://www.dydo-matsuri.com/list/tsurugisan/index.html

●剣の舞の動画もあります♪
http://www.youtube.com/watch?v=6HpQmgcLRFU


藍色工房 血の池1


こんばんは。藍色工房店長の坂東未来です。

画像は、源平合戦の舞台となった屋島の山上にある「血の池」です。

合戦で勝利を収めた源氏の軍勢がここまで駆け上ってきて、刀についた平氏の

血のりをこの池で洗い、その時から池の色が赤くなったと伝えられています。

この池に平家の血が流されなくてはならなくなった原因の一つとして考えられることについて

お話ししようと思います。



<阿波忌部を最初に裏切ったのは平清盛だった>

前回までのお話で、阿波と讃岐における忌部の影響力を背後に屋島に御所を構えた平氏が

徐々に裏切られていく過程を推察してきました。

でも、そもそもどうして阿波忌部は平氏から源氏につくことになったのか、まだお話ししていません。

それは、清盛がまだ生きているときに起こったある有名な事件が関係していると、私は睨んでいます。



※ここからは大河ドラマの今後の流れのネタばれがいくらか含まれます。ごめんなさい。



「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれる事件が、大河ドラマでももうしばらくすると始まってしまいます。

既に役者はそろっていて、火種はくすぶりつつある最中です…

これからどんどんお話がダークになって行くので大河ドラマも見逃せません。



この事件の発端も経過も大変複雑で、史実とされていることと真実が

どれほど一致しているのか、いまだに取りざたされる謎の多い事件です。

陰謀が陰謀を呼び、結果的にその全てを清盛が力でねじ伏せた形になりました。



もろもろを端折って流れを整理しますと、後白河院に嫁いだ清盛の義妹にあたる滋子が

突然の病でこの世を去ります。

滋子と後白河院の間に生まれた高倉天皇がこのとき15歳。

当時としては成人後ですので、父の後白河院の院政の影響を受けずに平氏の財力を後ろ盾にして

政ごとを行おうと目指すきっかけになります。また、平氏も高倉帝を推していくことになります。



対して院政を持続させたい後白河院側。

後白河院の側近の藤原摂関家の流れの貴族、そして信西の弟子であった西光などがいました。

対立の末に、西光が首謀者となって平家を滅ぼそうという計画が密かに進み、

その企みが清盛に密告され、激昂した清盛の手によって後白河院の側近が一網打尽に

されてしまいます。



亡き信西の子である静賢法印の山荘で深められた陰謀で、その山荘が鹿ケ谷(京都市左京区)に

あったことから「鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀」と呼ばれています。

この陰謀の首謀者の一人として斬首された西光が、阿波忌部の平家離れを起こす原因に

なったのではないかと思うのです。



あまり知られていないことですし、私も最近知ったことなので、真偽のほどは現在調査中

なのですが、この西光という人が忌部神社に深い関係のある人である可能性が高いのです。

現在の阿波市出身であることはすでに地元でも有名なのですが、Wikipediaではさらに興味深い

ことが記載されています。

「信西(藤原通憲)の乳母の子と言われる。麻植大宮司家(麻植郡忌部神社祠官)の麻植為光の子」

●Wikipedia 西光
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%85%89



これが本当なら、西光を拷問の末に斬首し、その子どもたちも全て処刑されたこの事件の

顛末によって、阿波忌部は平家に対して感情的にならざるを得なかったはずです。



もっと怖いことに、この陰謀は実は存在せず、清盛側が対立勢力を殲滅するために

でっち上げたのではないかという推察も現在まで続けられていて、もしそうだったとしたら

阿波忌部が平家を擁立し続ける理由がなくなってしまいかねない事件でもあるのです。



今後の話題にするかもしれませんが、忌部と平家は古いつながりがあります。

だから、滅多なことでは手のひらを返すようなことはしなかったはずです。

それを知っていたからこそ平家は御所を四国に構えたのでしょうし、屋島という場所を

抑えたのだと思うのです。



そこがひっくり返ってしまった。

それを最初に促したのは、皮肉なことに平家一門の繁栄をだれよりも強く望んだ

清盛その人だったのです。



四国の忌部の影響を受ける豪族たちが源氏に寝返らなければ、もしかしたら屋島の合戦自体が

無かったかもしれません。

あったとしてもその景色は全く違ったものになっていたでしょう。

そうなっていたら、血の池に平家の血が流れることも無かったはずなのです。



藍色工房 血の池看板

弘法大師の由来のある池に平家の血が流れるというのも深い因縁を感じます…

このお話もいずれできればと思います。



藍色工房 源平合戦古戦場看板

屋島のドライブウェイで山上を目指す途中に、こんな看板が設置されています。

屋島の合戦となった場所を見渡せるポイントで、車を停められるスペースが設けられています。


藍色工房 源平合戦古戦場

今は住宅地となっていますが、さまざまなエピソードの舞台となった場所にはその由来を

示す看板が簡単に設けられていたりします。

安徳天皇の御所もこの一帯にありました。

屋島東町や牟礼町と呼ばれている地域です。




鹿ケ谷の陰謀は、もう一つ、重大な引き金をこの四国で引いてしまっています。

次回はそのお話にいたします。

[次回へ続く]

藍色工房 平尾八幡宮 大夫黒

こんばんは。藍色工房店長の坂東未来です。

いよいよ佳境に入ってまいりましたこの連載。

今日は当時の武士の大切なパートナーのお話から入ります。



<武士の戦友もしくはパートナーとして大切にされた馬>

画像の立派な馬の像は、香川県高松市香川町東谷(ひがしだに)にある平尾八幡宮の

門前に奉納されているものです。

●GoogleMap 平尾八幡宮
http://goo.gl/maps/4YRh7

神社に神馬はつきものですが、ここの神馬は源平合戦に深い由来があるのです。

この像の側に行くと、その由来の碑が置かれていました。

藍色工房 平尾八幡宮 大夫黒由来碑

義経公の愛馬「大夫黒(たゆうぐろ)」が屋島到着直後に病気になってしまい、

それをこの神社の宮司さんが屋島まで駆けつけて祈祷したところ、元気に快復し、

義経公がとても喜んだ、ということを伝えるために大夫黒を神馬として奉納するように

なったということなのですが…



屋島に到着して愛馬が倒れた時、義経公は本当に困ったし、とても嫌な気分になったと思うのです。

というのも、阿波の忌部神社で戦勝祈願をしたのち、県境の山脈を越えた今の三木町まで

来た所で、盟友弁慶の大切にしていた馬が息を引き取ってしまうという出来事があったばかり。

自分の馬を今失うことになったら…と、とても心配したのに違いありません。

藍色工房 弁慶の馬の墓

今も三木町に残る弁慶の馬のお墓です。

実は、私たち坂東家のお墓のすぐそばにあります。



義経公は大夫黒の病気が治って、きっと心底ほっとしたのでしょうね。

大夫黒は屋島の戦いを立派に戦い、この戦いで義経公をかばって戦死した忠臣

佐藤継信(義経公の四天王の一人)の菩提を弔うことを引き受けた洲崎寺(高松市牟礼町)に

義経自らの手によってお礼の気持ちとして納められました。

その後、洲崎寺で天寿を全うした大夫黒は継信のお墓の隣に手厚く葬られています。

●GoogleMap 洲崎寺
http://goo.gl/maps/8vpV7



普通の歴史物語や遺跡探訪などでは大夫黒についてのお話はここで終わります。

が、今回はもう少し深読みをいたします。もちろんです。

大夫黒の祈祷のために馳せ参じた宮司が所属していた平尾八幡宮は屋島から自動車で

移動しても小一時間かかる場所にあります。

ということは、義経公は既にその周辺に味方を持っていた、ということになるのですよね…?




<阿波忌部と讃州藤家を味方につけた源氏軍>

平尾八幡宮のある香川町周辺は「讃州藤家」と呼ばれていた藤原一族が治めていました。

この一族は、平氏軍の味方でしたが、源氏軍に寝返りました。

源氏軍に寝返るように説得した人物も、もとは平氏軍の味方でしたが源氏軍に寝返った人でした。

橘 公業(たちばなの きみなり)という人です。

橘家といえば、その家系は弘法大師 空海にたくさんの勅命を出した嵯峨天皇の后となった人の

子孫で更にさかのぼると今ではほとんど謎の一族となってしまっている物部氏の系統に当たります。



公業さんは、どのようにして讃州藤家を説得したのでしょうか…

細かい資料はまだ調べきれていないのですが、阿波忌部も既に源氏側についた、という話は

されていると、勝手に想像します。



讃州藤家は1129年から讃岐(香川)の地に住まうようになった一族ですが、

神代の昔から阿波や讃岐に住まってきた忌部族には追従せざるを得なかったかもしれません。

天皇と神様の橋渡しをする役目を持つ忌部が味方に付くということは、

正当な天皇は源氏がおし頂いていると忌部が判断したということ。

それは、安徳天皇に対抗する後鳥羽天皇が即位の際に、身につける麻の衣の「あらたえ」を寄進した

ことに他ならないのです。



屋島に御所を構える安徳天皇の正当性は三種の神器の保持のみで保たれている状況で

実際には既に逆族の頭となりつつある…

また義経公に前後して、伊予の水軍が義経公と同じく阿波の忌部神社に戦勝祈願にと剣を

奉納したと聞けば、陸からも海からも見放されつつある平氏が容易に見てとれるのです。



この屋島の戦いで、完全に天下が決まると誰もが思っていました。

この戦いで勝った方が次の世を治めるということが誰の目にも明らかでした。

一族の存続を思うなら、どちらに付くべきか真剣に考えなければなりませんでした。

そして、讃州藤家は源氏方に寝返ることになりました。



平尾八幡宮にはそのいきさつが紹介されていました。

27 007

ちょっと見づらいのですが、橘氏が説得したくだりをアップにしてみると…

BlogPaint

ちゃんと名前が記録されています。



阿波忌部が源氏についた。

これがこうして屋島周辺の地方豪族にじわじわと影響していったのはおそらく間違いの

無いことだと思うのです。



ここまで来たら、やはり少し整理したくなりますね。

阿波忌部が源氏についた理由を…

現在放送中の大河ドラマのネタばれが含まれるので遠慮していましたが、

史実は既に記録されていて、歴史の好きな方は十分にご存知のことでしょうから

そんな配慮は無用ですね(笑)←独断



阿波忌部と平氏に亀裂が入ったきっかけについて、次回は触れてみようと思います。

ということで、やっぱりまだもう少し続くのでした…

もうしばらくお付き合いくださいませ☆



[次回に続く]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/17231763.html



 003

こんばんは。藍色工房店長の坂東未来です。

いよいよ佳境に入ってまいりました、浦島太郎さん(と言うより乙姫様=豊玉姫の)後日譚と

源平合戦のお話です。

画像は、乙姫様が上陸されたとされる屋島の浦生(うろ)の浜辺です。

私が子どものころは、何も知らずに家族で潮干狩りに来ていました…


<唐の高僧 鑑真も屋島に上陸していた>

この前の記事で「桃太郎」と「竹取物語」の成立時期がほぼ同じ、ということについて触れました。

では、「浦島太郎」はと言うと、記録に残っている最古のものが「日本書紀」だということですから

日本書紀が完成していた720年には既に記録があったということになります。

桃太郎と竹取物語が890年ごろの成立(桃太郎に関しては、その前から地元に伝わっていた

話がもとになっているので、それ以前から語り継がれていたことは明白ですが…)

ですから、170年以上前には物語が存在していたことになります。

初代天皇の父となる方がお生まれになるお話なのですから、古くからあって当然のお話ですね。



そして、このことを調べているうちにこんな田舎になぜ、と思い続けていたひとつの史実が

少しだけ腑に落ちました。

この浦生に据えられている小さな看板に、その見かけには似つかわしくないほど深い

エピソードが記されています。

20 004

この看板は、浦生の浜辺に面した鵜羽大明神(豊玉姫が出産した場所)のお社の側に

実際に設置されているものです。

画像は私が撮影してきました。



こんなところにお城?鑑真和上がわざわざお立ち寄りになられた?

鑑真は743年に初めて日本からの要請を受けてから5度の渡航の失敗の末、

10年後の753年に日本にたどり着いた、とても位の高いありがたい唐の僧です。

当時の天皇からの要請で、結果的にほぼ唐の皇帝の目を盗むようにして日本に

招いた大切なお方。

そんな方がどうしてわざわざ屋島にお立ち寄りになられたのか。



立ち寄るべき根拠がもしかしたらこの豊玉姫の後日譚に関係していたかもしれないと

思うのは早計でしょうか…

そして、それは史実を書き換える大がかりな作業を重ねてきた藤原氏にとって

忘れ去られるべきエピソードとして認識されていたものであったのかもしれません。



平氏はそれを知っていた。

藤原氏にも朝廷にも、「屋島」という土地が非常に都合の悪い場所であることが

分かっていた。

国造りの大切な、そして隠されるべきエピソードの要を担う地域であるがゆえに…

だからこそ、ここに拠点を構えることは大いなる挑戦でもあり、警告でもあり、

挑発でもあったのではないでしょうか。



<地元の忌部氏と手を組んだ源義経>

さて、屋島に陣を構えた平氏を追ってやってくるのは、源氏のヒーロー義経さま。

この方は徳島の勝浦に上陸し、平氏のいる屋島へと北上する作戦を取りました。

その時、今回の連載で触れている「忌部氏」にとって大変重要な地に立ち寄られています。

義経公が阿波の地で戦勝祈願に立ち寄られたのはなんと、「旧忌部神社」でした。


※現在、忌部神社は徳島市内に移されておりますが、もともとの所在はこの旧麻植郡でした。

 
日本の国造りの要を担いながら、多くの史実とともに歴史の陰へと追いやられた

朝廷祭祀を司る一族であり、物作り集団である忌部。

義経公はその一族が拠点としている地域を、戦場となる屋島へ登る道筋に選び、

その神社で戦勝祈願をしたのです。

20 006

旧麻植郡に残る忌部神社です。

大正天皇、昭和天皇、今生天皇が即位されるときにお召しになる「あらたえ」という

麻の衣をここで織り、皇居へ出発させた神社です。



敷地内に残されている石碑には義経公が戦勝祈願したことを伝えるものも、ちゃんと

残されています。

20 010

朝廷の禁忌を犯した平氏打倒に向け、勅命を受けた義経公が戦勝祈願する場所として

こんなに適切な場所は他になかったかもしれません。



この地で祈りをささげることができたということは、この地域の忌部氏がそれを後押ししたことに

なると思います。

義経公の一行がこれから北上することを誰も漏らさぬように、情報が行き渡ったことでしょう。

逆に、平氏は忌部から守られることが無かった。

その理由についてはいつか別の機会に触れるとして…

これが、義経公の屋島の合戦の勝利を支えたひとつの要因となったのではないでしょうか。



ああ、今日も終われなかった…(汗)

もう少しだけ続きますので、お付き合いくださいませ。



[次回につづく]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/15598879.html




日本史の真実を封じる大ネガティブキャンペーンが200年に渡って行われて

いたとしたら、という仮説を立てての続きとなります。

あくまでも仮説ですよ。



歴史の表舞台に忌部一族は華やかに登場することが無くなり、藤原氏が

娘たちをせっせと后に輿入れさせて天皇家と血縁関係を濃くし、

政治の実権をしっかりと握り占めたのちの話です。



天皇家と藤原氏との間で行われていた政治に、新たな勢力として徐々に

歴史の表舞台に近づき始めた源氏と平氏の武士一族。

天皇家にとっても藤原氏にとっても、守護の役割に徹していてくれることが

一番都合のよいことだったはずですが、そうはいきませんでした。



200年以上かけて、血で血を洗うような粛清も行いながら進めてきた「歴史の隠蔽工作」

を仕上げたはずが、理不尽な隠蔽工作に巻き込まれ力を失った者たちの不満は

予想以上に膨らんでいました。

そして、きらびやかな宮廷生活と、そうでない身分の人たちの暮らしぶりの落差に

憤りが高まっても行きました。



最も驚異となったのは、僧たちの反乱だったのではないでしょうか。

仏に仕え、知識を持ち、天皇家と藤原氏が何をしてきたのかおよそ分かっている。

そして、その暮らしぶりを垣間見る機会を持つことのできる身分でもあります。

彼らの憤りには「筋」が通っている。

だから、和解はできません。

何としても阻止しなければなりません。



そういうわけで財力と武力を持つ平氏が僧たちの反乱を収める役割を担って働き、

更に力を蓄えていく。

その中で…憤る僧との接点を持つ平氏が「隠された歴史の大事な部分」を

知った可能性は0ではないのでしょうか。



更にその後、天皇家と武士と藤原摂関家を中心とする貴族たちの思惑が

複雑に絡まり合い、怒涛の争乱期に突入します。

藤原氏にとって大誤算の流れです。

結果的に勢いの止まらない平氏が圧倒的な影響力を持つ形となり、

平清盛はついに娘を天皇家に輿入れさせます。



そう、ここはとても重要。

天皇家と密につながった清盛は、憤る僧から聞いた「歴史の秘密」を確認する

ことのできる立場となります。

藤原摂関家に代わって、国の秘密を全て握り、コントロールできる立場になりました。

平家にあらずんば人にあらず。



浦島太郎を追って上陸した豊玉姫が、讃岐の屋島で初代天皇の父となる人を産んだ。

浦島太郎の本当の名前も、豊玉姫が「鰐」とセットにされている所以も、天皇家がいかにして

始まったのかも、知ることができたでしょう。

 002

画像は、豊玉姫が男の子(鵜茅草葺不合尊)を産んだ場所に残る屋島のふもとの

神社の鳥居です。鵜羽神社と言います。

実は、私がこどものころ家族と住まっていた場所から近いところにあります。



平家は知っていたのではないでしょうか…

讃岐の屋島という場所が、200年以上にわたる大工作を水の泡にできる

大事な場所だということを…



ということで、もうちょっと続くのです♪


[ 次回につづく... ]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/14339706.html


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NHK大河ドラマの平清盛は本日オリンピック中継でお休みでした。残念。

複雑な人間関係と思惑の中で平氏一門の唸るような盛り上がりが始まっている最中。

見どころ満載でワクワクです♪



ところで、平氏のお話といえば四国でゆかりの地として一番に挙げられるのがやはり屋島。

源平合戦のハイライトともいえる扇の的のエピソードで知られていますが、最近たまたま知った

こんな史実で、ちょっとこの合戦の見方が変わりました。



源平合戦からお話が少しそれます。

おとぎ話の浦島太郎さんのお話に移ります。唐突ですが、ついてきてください(笑)



香川県には詫間という場所に浦島太郎さんがいたという伝説が残っています。

亀を助けた浜辺も残っています。

●古代史の扉 浦島太郎伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.html#shonai



そして…実は、竜宮城を去った太郎さんを追いかけて乙姫様は家出してしまい、

現在の屋島西町の浦生に上陸します。

乙姫様は、方向音痴だったのでしょうか。それとも潮の流れが悪かったのでしょうか。

太郎さんの住まう詫間からはかなり離れた東の地にいらしてしまいました。




そしてなんと…

乙姫様はここで太郎さんとの赤ちゃんを生み落します。

シングルマザーです。

しかも家出した。

もう後戻りできないムード満載です。

太郎さん、迎えに来てあげて。←心の叫び



その場所に残る神社がこちらです。

●鵜羽神社 高松市・旧高松市の神社
http://wanikawa.com/jinnjya/takamatu/067_176uwa/unoha.html

このリンク先を読むと、ちょっと不思議な展開になっています。



乙姫様とはトヨタマヒメのことである。と。

豊玉姫。

初代天皇の神武天皇のおばあ様ですよね。え、なんで?なんでこんな展開に?



豊玉姫といえば、屋島のすぐ近くにある男木島にはその名を冠した神社がズバリあります。

●讃岐國 村社 豊玉姫神社 さぬきの桃太郎
http://tetsutanaka.blog58.fc2.com/blog-entry-228.html



そして赤ちゃんを産んだ後、豊玉姫は鰐に乗って今の新川をさかのぼり、今私たちが工房を

構えている三木町の高岡に居を構えて永住した、という伝説が残っているのです。

●鰐河神社 三木町の神社
http://wanikawa.com/jinnjya/miki/49wanikawa/49wanikwa.html

この神社は「讃岐十五社」の第4番目に配されています。

●さぬき 15社 巡り
http://sanukinosekibutu.web.fc2.com/1ban/15sha/15shagoshuin.html

鰐川神社

リンク先から拝借しました、鰐川神社の写真です。



これが、源平合戦とどうつながるのかって?

前置きが長くなりすぎてまた今度お話しいたしますよ。申し訳ありません…


[ 次回につづく... ]
http://blog.livedoor.jp/aiiropubinfo/archives/14147654.html



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