施設長の公開日記

弘済院第1特別養護老人ホーム施設長の極私的発言集。(2011年8月までは愛港園に勤務)

弘済院第1特別養護老人ホームのホームページ

  ようやく、弘済院第1特別養護老人ホームのホームページの体裁が整いつつある。手作りなので、細かい修正をしていかなければならないので、公開しながら気づいたところを修正している。
   写真が冬場なのでなかなかいいのが撮れないので間に合わせで載せるしかない。その点が残念であるが春までには何とかしたい。毎日、カメラを持って施設内をうろついている。
   ブログも5個開設した。
   管理栄養士のブログが先行しながら形を整えつつある。
   介護職員のブログは現在やり方を教えているので、来週になれば軌道に乗ることを期待している。
   ケアマネブログは全く中身が見えないので、ちょっと不安であるがケアマネージャーの力量に期待するしかない。
   クラブ・行事紹介、文書アーカイブは今月中に僕が基本を入力したいと考えている。
   情報ツールは、スタッフの情報発信力を試しているのでまだまだであるが、ブログとTwitterの輪は広げていきたい。facebook、google+、YouTube、Ustream等の活用は徐々に検討していきたい。
   情報の完全公開と人権擁護を基軸にして、高齢者のみなさんに安心と満足感を持っていただけるサービスを提供していきたい。そのためにもこの10年ぶりのホームページ作りを成功させたい。みんなで走りだそう。

ブログの再開

 弘済院第1特別養護老人ホームのホームページがようやくできつつある。昨年の4月に大阪市から指定管理者の指定を受けて当法人が事業運営をしてきたが、情報公開の基軸となるホームページをなかなか開設することができなかった。
 昨年9月に弘済院第1特別養護老人ホームの施設長に就任して4ヶ月が経過して何とかHP公開にこぎつけたというのが実情である。完成度は2割ぐらいだけれど、ひとまず公開をすることで、自分自身を追い込んでおきたい。公開した限りはもう少し中身を濃くしていきたい。
 このブログも昨年はほとんど書けなかった。情報発信の軸がTwitterに移ってしまいブログを書くという営為が進まなかった。この件については反省したい。情報ツールは多様な広がりがあるのだから、このブログももう一度見直してみたい。
 弘済院第1特別養護老人ホームをめぐるいろいろな考えなども公開できたらおもしろいと思っている。情報の完全公開は今でも僕の基本的な軸になっている。いろんな情報ツールを使いながら、自分の考えを発信していきたい。

弘済院第1特別養護老人ホーム

35年目の栞

 1977年6月6日に社会福祉法人みなと寮に就職して34年が過ぎ去った。あまりの早さに唖然としてしまうが、今日から35年目の一歩が始まる。歳をとるともう少し仕事は楽になるのかなと甘く考えていたが、この歳になってもやることがいっぱいで忙しい日々を過ごしている。管理職の仕事は常に責任が問われてくるので、ゆっくりと安心できる場所がない。財務上の問題点の早期解決、リスクへの迅速な対応、職員の人事管理、クレーム処理、今後の事業展開に向けたアイデアの具体化等々、すべてはやりきれないので常に仕事を残してしまうことに対して悔いが残る。デットライン仕事術等も試しはしてみたがなかなか現実の場では難しい。
 ストレス耐性が高いか、まわりに無自覚なのか、そのどちらかでなければやりきれない。また、人には向き不向きの仕事があり、落ち着かない場所での仕事は苦痛が伴う。しんどさを背負いつつ仕事を続けるには、ちょっとしたこつがいるのだと思う。それが何かは表現できないけれど、折り合いをつけるためには人それぞれ違う何かが必要になってくるのだと思う。
 漱石もドストエフスキーも、文学表現上では人の行き着く最終点を、自殺と狂気と宗教に救済を求めたが、その三つを選ばない究極の生き方とは何だのだろうかと考えてしまう。
 今日、愛港園の裏庭で更生施設時代から30年も付き合いのある利用者の方と話していて思ったことは、変わっていく風景と変わらない風景が同時に確実に存在しているという実感だった。34年の歩みを振り返ってみて反省することはたくさんあるが、過去にこだわっていては前には進めない。変わらぬ風景を大切にしながら、未知の風景に足を踏み入れていく勇気が必要である。何ができるかはわからないが、前を向いていることだけは確かである。

激動の年

 僕にとっては今年は激動の年である。いろんなところに変化が現れる。それをどこまで引き受けながら前進できるのかが今年の運勢なのだろうと思ってしまう。
 仕事で言えば、昨年末から続く弘済院第1特養(定員270名という巨大高齢者福祉施設)の大阪市からの引継業務。港区の地域包括支援センター分割に伴い当法人が南部地域包括支援センターを引き受ける業務。二つの引継業務が平行して行われた。特に弘済院第1特養は大きな施設なので介護職員、看護職員の確保が大変であった。パートを入れると120人以上の規模で動かざるを得ないので、たった3カ月でそれらの人員を確保することが一番厳しい課題であったと思う。全力を尽くして何とか形は整えたけれど、後は中身を作り上げていかなければならないので、まだまだ厳しい状況は続いている。
 もう一つは、宮武前理事長が病気で倒れられ、2/8に逝去、2/11に大阪では大雪の中で葬儀が行われる。宮武理事長の残された足跡が大きい故に、その後の法人の体制作りが大変であった。大西理事長の下で法人の基盤を守り、発展させていくためにも介護保険事業の運営の安定化が求められる。弘済院第1特養の管理運営を任される中で、全体の介護保険事業を見直し、将来的にも安定した事業運営を目指していく基本的な枠組みを作り上げなければならない。これも正直なところ厳しい作業である。
 プライベートでも忙しくなり、地域の自治会の役員にあたってしまった。10年も住んでおれば当然のことだけれど、この忙しい時期に自治会の役員の福祉委員長というのは厳しいものがある。どこまでやりきれるか正直不安だ。
 もう一つは、極めて深刻な問題である。
 3/11の東日本大震災との関わりである。数字で言うと211の次は311。地震の当日から10日ほど、現地からの通信(電話、メール)が届かないのが本当にもどかしかった。妻の実家や親戚が、気仙沼、女川、石巻に集中している。今回の津波はそれらの町を襲い、根こそぎすべてのものを破壊していった。ぼつぼつ入ってくる安否情報に動揺し、テレビのニュースに釘付けになっていた。大阪で何もできないもどかしさと、被災した現地のみなさんの気持ちを思うと、精神的には本当に辛い毎日であった。亡くなられた方々へ、心からお悔やみを申し上げたい。
 九死に一生を得た叔父の家族のことが、ニュースに流れていた。

 「屋根ごと流され生還も―津波で壊滅の宮城・女川町 その2
 山田直さん(80)、良女さん(79)夫妻は、孫娘(24)と3人で屋根裏部屋に逃げた後、屋根ごと流された。回転しながら漂流している間、ばらばらになった家が水上で燃え、プロパンガスが「ヒューヒュー」と音を上げながら飛び交う光景が目に飛び込んできた。
 「このまま死ぬんだな」。良女さんは覚悟を決めたが、自宅近くの見慣れた神社に通じる階段が見え、思い切って3人で飛び出した。「神様に守られた」と感謝するが、ほとんどの親戚や知人の安否が分からないままだ。(了)」
 [時事通信社] [2011年3月15日4時13分]

 天災という形でこういう究極の事態が突然起きることの恐怖と、それに抗しながらも日々を生きていく人間のたくましさを感じてしまう。日本の文化は儚い夢の繰り返しの中で、人が生きていくたくましさと繊細さを身につけていったのだと思う。
 がんばろうなんては言えないけれど、自分としてはできる限りの支援は行いと考えている。
 忙しい時期に困難な課題が生まれてくるのも、まあ有り体に言えば自分の運勢であり試練なのだろうと思う。どんなことも引き受けながら前に進んでいくのが、今の僕に課せられた役割だと思っている。

あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。


2011年賀
介護職員大募集。明るくて笑顔があふれている職場で一緒に新しい質の介護を作りましょう。

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