「南の技術大国」といわれるインドは、医薬品、とくにジェネリック医薬品製造において、途上国のパイオニアの位置を占めてきました。とくにHIV/AIDSに関しては、インドのジェネリック薬製造大手Cipla社が、国境なき医師団との連携で途上国におけるエイズ治療薬の「価格革命」を起こし、これが現在の途上国における安価なエイズ治療の実現の引き金となりました。現在、インドは途上国で流通しているエイズ治療薬の50%を生産しています。

 こうしたことがインドで実現できた要因は二つありました。インドが製薬産業においてかなりの技術を持っていることと、インドの特許法が、医薬品への物質特許を認めていないことです。インドは医薬品に物質特許(物質それ自体に関する特許)をかけてはならないという特許法があったために、多国籍製薬企業はインドでは医薬品について製法特許(医薬品の作り方の特許)をとることはできても、物質特許をとることはできませんでした。そこで、インドのジェネリック薬企業は、特許権を持つ多国籍製薬企業とは異なった製法で、同じ成分・効能を持つ医薬品を製造し、輸出することができたわけです。

 しかし、インドも加盟している世界貿易機関(WTO)では、知的所有権保護の基準を統一することを定める「貿易関連知的所有権協定」(TRIPs協定)の遵守が義務とされています。TRIPs協定は、インドのように物質特許関連で法律改正が必要な一部の途上国については、2005年1月1日までにTRIPS協定に準拠した特許法を制定することを定めていました。今回のインドの特許法改正は、このTRIPS協定の規定を守るということで行われたものです。これにより、インド特許法で物質特許の保護が定められると、これまでのように大手を振ってジェネリック薬を製造・輸出することができなくなります。今回のインドの特許法改正が途上国で多くの懸念を生んでいるのは、このためです。

 とは言っても、インドの特許法改正によって、アフリカなどの途上国の多くで現在利用されている多剤混合薬(Fixed Dose Combination)全てが製造・輸出できなくなるわけではありません。これらの薬の多くは、1995年のTRIPS協定施行以前に開発されたものか、もしくは特許権を所有している企業が途上国向けには特許権を放棄しているものか、いずれかですので、インドはこの特許法改正によっても、法律上の問題なしにこれらの薬を製造・輸出することができると思われます。

 影響が出てくるのは、数年後に、途上国において、現在使われている多剤混合薬への耐性が大規模に出現し始めた場合です。耐性HIVは、長期間、同じ薬を服用していれば必然的に出てくるもので、先進国においても、長期間薬を服用している人たちの間にはすでに耐性ウイルスが生じています。ですので、新薬を継続的に開発していく必要があり、実際、先進国市場がしっかりとあるHIV/AIDSについては、次から次へと、効果があり副作用が少ない新薬が開発され続けており、ある薬に耐性ウイルスが出来ても、組み合わせを変えて他の薬を飲むことで、病気の進行を抑えることができています。

 HIV/AIDS治療の長期化により耐性ウイルスができるのは、先進国に於いても途上国に於いてもいわば必然的なことです。途上国においても、耐性ウイルスに対応して、効果のある治療を安価に継続していく上で基盤となるはずだったのが、インドのジェネリック薬産業でした。現在途上国で大々的に使われている多剤混合薬も、同じ成分の薬を先進国でブランド薬として入手しようとすれば、年間数十〜百数十万円はかかるものです。これが途上国でこれだけ安くなったのは、インドのジェネリック薬産業が途上国で価格競争を展開し、勝利したからです。しかし、インドで特許法が改正されると、新薬に関して物質特許が設定されるため、インドのジェネリック薬産業は、これらの新薬のジェネリック版を作ることができなくなります。そうすれば、ジェネリック薬を作ろうというインセンティブが失われ、ジェネリック薬の産業基盤が壊れることになりますので、新薬に関しては、現在みられるような低価格での製造・輸出が不可能になってしまいます。そうすれば、結局、新薬を途上国で安く出回らせるかどうかはすべて、「先進国の多国籍製薬企業の温情のさじ加減」にゆだねられることになりかねません。

 今後遅くとも5年〜10年たったとき、インドの特許法改正の悪影響は途上国でボディーブローのように効いてくるものと思われます。これは、別にエイズの問題だけではなく、結核やマラリアなどについても程度の差はあれ同じことが言えます。インドはまさに途上国における必須医薬品普及の「頼みの綱」であり、インドが失われることは世界の貧しい人々にとっての医薬品アクセスが失われることと同義といってもよいと思われます。

 以下、この問題に関する的確な整理となっているニューヨーク・タイムズの社説と、「国境なき医師団」のインド大統領に宛てた手紙をお送りします。また、この問題について、より詳細を知りたい方には、以下のウェブサイトにある、「国境なき医師団」必須医薬品キャンペーンのエレン・トゥーン氏による以下の解説(英語)が参考になります。

Indian Parliament to discuss Patent Law - millions of lives at stake
http://www.msf.org/countries/page.cfm?articleid=88694E5B-0FED-434A-A21EDA1006002653