飯田華子ブログ

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薄紅色の熟女

薄紅色って、突き詰めれば赤でしょ?

なのにバーン!と赤くならないで淡色のフリしてるなんて、卑怯で薄汚いよね。

……みたいなことを、ずっと思っていた気がする。

「あの人に会いたい」という気持ちは突き詰めれば性欲だ、「会いたい」ではなく「セックスしたい」と言いなさい。

「自己表現したい」という気持ちは突き詰めれば承認欲求だ、「表現したい」ではなく「評価されたい」と言いなさい。

そんなふうに自分で自分に言い聞かせていた。

でも、薄紅色の主成分が赤だとしても、やはり赤ではない、薄紅色という色が存在する。

原色だけで構成されるのは書き割りの世界でしかない。


東京に住んでいた最後の頃、漫画アシスタントのバイトをしていた。

ライブに疲れていたときだったし、そもそもコロナ禍でライブ自体が中止になっていたから、静かな環境で手を動かすのもいいなと思った。

漫画家の先生は、私に絵の描き方や、出版業界への営業の仕方などを色々アドバイスしてくれた。

ありがたいことだったが、私は別にアドバイスを求めていたわけではなかった。

なんだか、私が出版業界で仕事をしたがっていることを前提にされていて、違和感があった。

もちろん漫画やイラストにも興味はあったが、私のやりたいことは紙芝居(ライブ的表現)だったし、それで生計を立てる道を切り拓いてきたつもりもあったので、あまりに出版の仕事を夢見てる人扱いされると、ちょっと軽んじられているような気持ちになった。

「もう誰かに見つけてもらえる年齢は過ぎてるよ」と言われたとき、これまで私がしてきたことは「見つけてもらう」ためのパフォーマンスとして捉えられていたのかとクラっとした。

紙芝居など「仕事」じゃなく、将来性がないと言われているように聞こえたのは、私の被害妄想だったのだろうか。

しかし考えてみれば、私の活動範囲と出版業界とではまるきり規模が違う。

そりゃプロ漫画家として食べてきた先生からすれば、私の紙芝居を「生業」と捉えられなかっただろう。

「自分のできることと世の需要が合致するジャンルを探り当てれば仕事になる」と言われたとき、私の脳裏には「会いたい」とか「飲みに行こう」と言うお客さんの姿が浮かんだ。

つまり、私には作り手としての需要などなく、「ライブに行けば飲みに付き合ってくれるホステス」ってことでしか商売できないのだなと思った。

それならば、もう需要とか食べていくことなどは一旦置いといて、本当に好きなものだけ作ることに立ち帰ろうとライブをやめた。

すると先生はいよいよ出版関係のアドバイスをするようになった。

「こういう仕事をすればこういう評価をされますよ」などと教えてもらえたのは贅沢だったが、評価なんていいから、今はただ好きなように表現したいんです、ていうか表現したいことすら浮かばないほど疲れてるんです、そっとしておいてください、と言いたかった。

でも、言わなかった。言えなかった。

薄紅色は突き詰めれば赤だから、私はきっと評価を欲しているはずだから、「好きなように表現したいだけ」なんて言うのは純粋なアーティストぶりっこみたいで恥ずかしいと思った。

そのうちだんだん、すべてが鬱陶しくなっていった。

ああ、うるせーな。

評価だの映えだの幸せだの、どうでもいいや。

やがて私は東京を離れ、非正規の仕事を転々とし、何をしても自分は無能だなと思いつつ、今日も生きている。

しかし最近は、少し気持ちが楽になってきた。

自分の中の薄紅色を許せるようになったせいだろう。

気づいたのはH&Mで服を選んでいたときだ。

今私は評価されるためではなく、自分が楽しむために服を選んでいるなぁと思った。

いや、以前だって、別に評価されたくて服を選んでいなかったが、「評価の俎上にあがらない服」を敢えて選んでいたから、「評価」が念頭にあったことには変わりない。

若い女として都市部に住んでいた時間が長かったので、装いが何かのメッセージになる危険をよく感じており、「自分が楽しむため」というのはあまりに浮世離れした卑怯な言い訳だと思っていた。

でも、今はまじでどうでもよくなった。

もともと私は料理が好きだったが、それは誰かに振る舞うためでも、家庭的アピールのためでもなく、ただ自分が楽しむためであり、服も同じことだなと思う。

この初夏は実山椒の佃煮を作り、塩らっきょうを漬けた。

これらをつまみに家で飲んで満足している。

そして思う。

あのとき、アドバイスをしてくる先生に、「好きなようにしたいんで放っといてください」と言えば理解してくれたかもしれないな、と。

言えずに離れたのは、私の弱さと謎の潔癖だ。

そう、私は意味不明に潔癖だった。

純粋さ繊細さを人前に出すことは罪深いと思っていた。

「たとえ需要がなくても好きなことをしたいんです」なんてピュアすぎて、天才肌の芸術家じゃなきゃ許されない気がしていた。

そのくせやっぱり楽しみたくて、つい好きなことをしてしまって、「天才でもないくせにごめんなさい」といつも思っていた。

でも、別にいいんですよね、才能があろうとなかろうと、何したって。

もちろん食べていくには評価される必要があるから、需要を抑えたプロの仕事は尊敬している。

だが、プロにならなきゃ意味がないということもないだろう。

というか意味ってなんですかね?

好きなことをするのが意味そのものではないですかね。

そんなの負け犬の遠吠えみたいだな…ともちょっと思っちゃうけど、まぁ、負け犬でもいいです、楽しいなら、とも思う。

だからといって、仲間うちで馴れ合うようなことは全然好きじゃない。

何かを表現するのは友達を作るためじゃない。

お互い孤独でありましょう。

孤独な表現に触れたいし、孤独にものを作りたいです。

それが私の好きなこと、楽しいことです。


3月から通っていた心理カウンセリングは、先月で一旦終了した。

終了というか、「気が済んだ」という感じだ。

わずか3回ほどのカウンセリングだったが、心理士さんと話すうち、自分という人間の輪郭が見えてきた。

今も私は相変わらず自信がなく、すぐに嫌なことばかりを思い出し、心が押しつぶされそうになるが、「まぁ、こういう人間なんだから仕方ないよね」と開き直るようになった。

仕方ないのだ、社会人として無能でも、それを挽回できる特殊な才能がなくても。

これからも私は生きていくしかないし、評価されなくたって好きなことをすればいい。

そんなの当たり前じゃないかとも思うが、「わかる」ことと「受け入れる」ことには大きな距離がある。

「受け入れる」は「諦める」に近い。

この数年、ことあるごとに嫌な記憶やムカつく記憶や自分なりに頑張ってきた日々などが蘇り、「このままじゃあまりに報われない……」と身が焼けそうになっていた。

でも、恨みを晴らすのを諦めたら、やっと地に足がついた気がした。

まだまだ恨みが消えたわけではないが(というか多分一生消えない気がするが)、なるべく目の前のことに意識を向けようとしている。

様々なものから距離を置き、時間が経った今、やっぱり私は絵を描いてお話を作っている。

何にもならなくても作っている。

無能なバイトとして生活費を捻出し、収入や評価に繋がらない表現をする暮らしは、そう不幸でもない。


メロい話

X(旧Twitter)で、「九月」という芸人さんの投稿が炎上した。

「メロい」という言葉を「シコい」の同義語として扱ったため、
「『メロい』は『シコい』のように性的なニュアンスを含まない」
という反論が(主に女性から)多く上がったのだ。

「男性は好意と性欲が必ずセットだから『メロい』をそんなふうに捉えるのだ」
とか、
「女性は『好き=セックスしたい』ではない」
といった批判には、共感できるところもあった。

一方、
「女性は自分の性欲に無自覚すぎる。『メロい』は『シコい』のように露悪的ではないだけで、性的な感情を含んでいる」
という意見もあった。

九月氏本人はその後、過去に女性からストーカーされた経験から、女性のギラつく感情を過剰に警戒してしまうと内省していた。
https://x.com/kugatsu_readio/status/1918455226853691618?s=46

「ここでは『性欲』を広めにとってほしくて、単なるセックスとかキスとかだけでもなくて、なんだろう、ある種の管理とか、独占欲とか、支配欲とか、そういうものも含むようなもの」

という文章に、私は思わず「くぅ〜」と唸った。

たしかに「好意」は、管理欲や支配欲を孕んでいる。

それが性欲と連動しているかはわからないが、遠いものではないと思う。

九月氏はまた、「どんな眼差しにも一定の加害性がある」とし、「(眼差しを送る側は)自分らに加害性がありうるなんて考えたくもないんだよ。まあ誰だって俺だってそうだけどさ」とした上で、

「でもそうやってるうちに、いつしか『推し』がファンのためにと作風を変えて迷走したり、プレッシャーから潰れたり、地元帰ったり、解散したり、そういうのを見て『こういうことか』って気付く日が来たり、来なかったりするんだと思う。」

「人を応援するんは普遍的に怖いよ。怖いことをしているんだよ。いつもそうなんだよ。人前に出てる奴は、そうそう強い奴ばっかじゃないんだよ。」

と書いていた。
https://x.com/kugatsu_readio/status/1918239293241475506?s=46

感慨深い文章だ。

現役の演者の方が、よく書いてくれたなと思う。

私も、九月氏よりもずっと小規模だがライブ活動をしていたから、お客さんの意見に迷走したり、プレッシャーを感じて潰れたりした。

いや、小規模だったぶんお客さんとの距離が近く、眼差しや感情を生々しく受けたのかもしれない。

これについては以前も書いたし、何度か人にも話してきた。

ただ、たいていの人は私の言う「お客さん」を、男性だと想像した。

もちろん男性客から性的に迫られもしたが、女性客から性的ではなく迫られて困ることもあった。

彼女たちは「同性だから」という理由でぐんぐん近づいてきて親しげに振る舞い、私も「同性だから」むげにしづらかった。

気づくと「友達」ということになっていて、ライブとは関係なく食事や外出に誘われたりした。

断るとひどく嘆かれたり、「結局あなたは損得勘定でしか人と付き合えないんだね」などと言われたりするので、かなりダメージを食らった。

彼女たちはよく、「エロ目的でライブに来るおっさんって嫌だよね」と男性客を非難していた。

しかし、個人的な人間関係を迫ってくる点においては、彼女たちもエロ目的のおっさんと大差なかった。

……ここで一応、全てのお客さんがそうだったわけではないと補足しておきたい。

男性客も女性客も、あたたかく理知的な方が多かったと思う。

だが、中には距離を異常に詰めてくる人もおり、私にはそういう人をスルーできる力がなかったのだ。

罷り間違えば私だって、異常に距離を詰めてしまう側の人間だろうなという自覚があった。

人間関係がヘタで、みんなと感情を共有できなくて、ひねくれなきゃやってられなくて、でもやっぱり寂しくて、だから少しでも共感できる人を見ると、「この人ならわかってくれる」とすぐ思い詰めてしまう。

私を見て欲しい、好意を受け止めて欲しい、感情の受け皿になって欲しい、断られたら死んじゃうかも。

……こんな萌芽を自分に感じるときがあり、だから距離を詰めてくる人がいても、なかなか跳ね除けられなかった(あと、「ギャラを貰ってるなら一人でも多く集客しなきゃ」という強迫観念が常にあった)。

そう思うと、たとえ性的ではない感情とて、無害とは言えない。

「純粋な」好意や善意は、スケベ心より厄介な場合もある。

ところで先ほど、「女性は自分の性欲に無自覚」という意見を紹介したが、「メロい」が性欲由来かどうかは別として、この意見には頷けるところもある。

まぁ、男性だって無自覚な人は多いし、そもそも自分の欲望や感情をきちんと自覚できている人なんてどれほどいるのかとも思うが、オナニー話で盛り上がるのは女性より男性が圧倒的に多い。

ただこれは、「女ってすぐ自分の醜さをごまかすよな」みたいな女性憎悪につながりやすいので、危険を感じる。

私自身、若い頃はこうした女性憎悪を抱いていた。

そして自分だけはこんな「女」にはならないぞと、逆ギレのように性欲を自覚しまくっていた。

性欲じゃなかったかもしれないことまで「本当は性欲のはずだ!」と公安のように目を光らせ、「化粧をしたい」とか「洋服を買いたい」という気持ちが身に沸けば、「売春をしなければ辻褄が合わない」と思考を暴走させた。

なぜなら装うことは、異性への媚びだからだ(と当時は思っていた)。

媚びたいくせに肉便器にはなりたくないなんて、虫がよくて卑怯で、めちゃくちゃ「女」だ。

それで売春をしたら服を買えた(買うお金もできた)。

不潔な商売をしたことで、不潔な欲望を持つ資格ができたと思った。

つまり私は、セックスワークも性欲も不潔とするバリバリの保守派で、ミソジニーの差別主義者だったわけだ。

私の中には、「売春をしなくても服を買っていいのは、限られた美女だけ」という頑なな思いがあった。

美女が装うことは美のためだから許される。

強大な美は「媚び」ではなく「正義」になる。

でも、普通の容姿の女が、「ちょっとよく見られたい」とか「楽しい」なんていう理由で服を買い、それなのに体を売らないのは、身の程知らずで傲慢だと考えていた。

とはいえ、たいていの女性は普通の容姿で、売春せずに服を買っているんだけど。

だから私はあの頃、いつもめちゃくちゃムカついていた。

皆、鈍感だ!恥を知れ!と。

恥ずかしいのは自分だというのに。

つくづく若かったと思う。

時代もあっただろう。

女性が性的に消費されるのが当たり前だったし、「女ってバカだよな」と嘲笑う表現も溢れていた(今もそうだが、よりいっそう垂れ流し状態だった)。

若さや時代のせいだけにしてはいけないけれど、感化されていたとは思う。

いや、「されていた」と過去形にできるほど、今の私がアップデートできているとも言えない。

我ながら最悪だと思うけど、差別的だし、ミソジニーは拭えないし、色々な男性との関わりから恨みも増えたおかげで、ミサンドリーまで抱えている。

ただ、容姿については本当にどうでもよくなった。

どんな見た目だろうと好きな服を着ればいいじゃんと、当たり前のことを思う。

「装いたい」という気持ちは性欲と無関係ではないが、「自己表現」とか「承認欲求」、クラシックな言い方では「虚栄心」などが近いだろう。

それらも性欲と同じように不潔だが、人って不潔なもんだしな〜と思う。

「売女」という大義名分にすがらずとも、自分が不潔な存在であることに動揺しなくなった。

年を重ねることは、自分のおぞましさを受け入れること……というより、諦めることなのかもしれない。

それに、似合ってなくても好きな服を着れば明るい気持ちになるし、中年のセックスはおぞましいから面白い。

とはいえ、「やーい、お前はおぞましいぞー!」と、知らない人から急に言われれば腹も立つ。

そいつが自分のおぞましさを棚に上げているような奴なら、なおさらだ。

「メロい」「シコい」炎上は、そういうものだったのかもしれないなぁと思う。

発端となった九月氏本人の意図は別にして。


ところで、去年末「Xやめた」って書いたのに、なんでまだ見てんの?って思われる方もいるかもしれませんが(いないかもしれませんが)、もう飯田華子名義ではやっていません。

飯田華子という名前で発信するのは、今はこのブログだけになりました。

これからのことはわかりませんが、とりあえずそんな感じです。

カウンセリング二回目

今月も心療内科のカウンセリング(自費)に行ってきた。

個室に通されて心理士さんの顔を見るとすぐ泣きそうになった。

多分、安心したのだと思う。

別に普段周囲から冷たくされているわけではない。

むしろあたたかい方々に恵まれていると思うが、友人や恋人にはそうそう悩みなど話せないものだ。

つい酔っ払って愚痴ってしまうこともあるけれど、あとで後悔する。

相手の時間を自分の話に費やして申し訳なくなる。

でも、カウンセリングなら心理士さんも仕事だし、いくら話に付き合ってもらっても罪悪感はない。

毎月一万円の出費は痛いけれど、ここをケチったところで私はどうせろくな使い方はしないだろう。

というか、今までこういうのをケチってきたからこんな現状になっているのかもしれない。


今回のカウンセリングは、前回のように明確な相談内容を決めておらず、ただ予約していたから行った。

行ったらまた何かしらの発見があるだろう……という漠然とした期待しかなかった。

「その後どうでしたか?」
と心理士さんに聞かれ、ネガティブな感情は自分を守ろうとするためだとわかったが、だからといってネガティブにならないわけではない、と答えると、
「そうなんだよねぇ」
と心理士さんは頷いた。

わかったからといって感情は消えるわけではない。

むしろ、無視してはいけない。

どんな感情も自分を形成するパーツであり、人の心は色々なパーツによって成り立っている。

だからパーツ同士で喧嘩するより、「そういうのもあるよね」と認め合えることを目指そうと心理士さんは言った。

自己肯定とは自分を素晴らしいと思うことではなく、どんな自分も「自分である」と認められることで、それができて初めて他人のことも認められるそうだ。

そんなことができる人ってどれほどいるんだろう。

ほとんどの人が自分も他人も認めていないのではないか。

考えてみれば恐ろしい世界だが、それなら人に何か言われてもあまり気にしなくていいのかもしれない。

どうせあなたも私も、自分の不都合な部分を見つめられない弱者同士だ。イーヒッヒ。

なんとなくぼんやりと始まったカウンセリングだったが、現状報告や最近見た夢の話などしているうち、だんだん、自分の悩みの核が見えてきた。

私はなかなか「NO」を言えず、これによって生きづらくなっている部分が大いにある。

なぜNOと言えないのか、心理士さんのリードで過去を振り返り、NOと言うことにいい思い出がないからだとわかった。

NOを言うのは悪いことではなく、むしろ自分を守る大事なことなのだが、とはいえ誰しもNOを言うのは難しいそうだ。

おもむろに心理士さんは言った。

「指を一本出してみて」

私が人差し指を出すと、
「その指で私の指をはじいて、『嫌』って言ってみて」
と言われた。

ささくれのない心理士さんの指を、「嫌」と言いながらはじいた。

「どう?」

「……なんか、怖かったです」

「そうだよね。これ、みんな怖いの。『NO』を言うのは怖いんだよ」

でもこれからは少しずつNOを言うようにしてみて、すぐできなくていいよ、少しずつね、と心理士さんは言った。

もちろん私だって、今まで一度もNOを言ってこなかったわけではない。

ただ、言うときはだいたい最後のつもりで、相手と差し違える覚悟のような、強い「NO」を出してしまっていた。

それほど追い詰められるまでNOを言えなかったせいだろう。

もっとカジュアルに言えていればこんなことにはならないのだ。

関わった人も災難だったなと思った。

最後に、ゆっくり呼吸して体の感覚を味わうよう指導された。

「目を閉じて、息を吸って〜、ゆーっくり吐いて〜、まず足の指を意識して…」

催眠術のような声をかけられつつ、全身に意識を集中させたあと目を開けると、不思議と心が静かになった。

これは「マインドフルネス」というらしい。

過去や未来ではなく、今この瞬間に集中するための方法だそうだ。

実際に心が静かになったので、嫌なことを思い出したり不安になったりしたらやってみようと思うが、なんで「マインドフルネス」って名前なんだろうなこれ……とも思った。

どうもうさんくさい響きだ。

でもそれは、うさんくさい商売に心理学用語が利用されてきたせいかもしれない。


帰り道、バイト先の若者との会話を思い出した。

22歳の若者で、この春大学に入ったという。

絵の仕事をしたくて、そのためには勉強の必要を感じたそうだ。

ちなみに大学には給付金制度があるらしく、若者もそれを申請したが、書類には卒業後のプランなども書くそうで、果たして絵の仕事をしたいと言って給付金がもらえるだろうかと不安がっていた。

「だって、絵なんて趣味じゃないですか〜。『こういう会社入りたい』とか『警察官になりたい』とかならちゃんと『仕事』って感じだけど……。それに私、年齢的にも出遅れちゃったし。同い年で結婚してる人だっているのに……」

若者の話を聞きながら、絵を描く40歳独身フリーターの私は、ただヘラヘラしていた。

ヘラヘラしながら、キュンとしていた。

やりたいことやりなよ!気にすんなよ!たとえ給付金が貰えなくても大威張りで勉強してりゃいいよ!

そう言いたかったけれど、私が言ってもまったく説得力がないなと思った。

でも考えてみれば、私たち中年のこうした自己卑下が少しずつ社会の息苦しさを生んでいるのかもしれない。

自分を許さないから他人も許せず、そうしたムードがひいては若者を不自由にさせているのかもしれない。

だとすれば、もう、おばさんが好きなように生きることが社会貢献なんじゃないかと思った。

まぁ、社会貢献だろうがなんだろうが、好きなようにしか生きられないというところもあるが。

私は色々なことがうまくできず、余計な思考ばかりを繰り返し、こんな自分にはほとほと手を焼いているが、それでも結局好きに生きていると思う。


次回のカウンセリングも予約した。

今度は何が自分の枷になっているのか、整理して考えられるよう相談したい。

カウンセリング体験

今年から始めた喫茶店のバイトはまだ続いている。

といっても3ヶ月も経っていないが。

労働時間が短いから、あまり心に食い込んでこないのだろう。

しかし、労働時間が短いということは収入も少ないということで、赤貧をゴシゴシ洗う日々だ。

心を優先すれば生活が圧迫され、生活を優先すれば心が圧迫される。

これでも20年近く社会人をして色々な仕事をしたし、それなりに考えてきたつもりだが、心も暮らしも圧迫されずに生きるのは本当に難しい。

世の中のせいかしら。

私のせいかしら。

まぁ、どちらのせいでもあるだろうけれど、まずは自分との折り合いをつけようと思い、心理カウンセリングに通うことにした。

先日発達障害検査を受けたクリニックの心理士さんが、いい感じだったからでもあった。

50代のサバサバした女性で、安心して話せる気がした。

「とにかくネガティブで困っているんです」

個室に通された私は言った。

「すぐ嫌なことばかり思い出して、『自分はダメだ』と落ち込んでしまって。昔からそんな性格でしたが、ここ数年はずっと嫌な思い出が体の中に跳ね回ってる感じです。仕事もなかなか続きません」

すると心理士さんは、

「トラウマ治療をしましょう」

と言って器具を取り出した。

小さなアダプターのようなものから線が伸びている器具だった。

これでトラウマを探れるという。

トラウマはハードな体験をした人だけのものではなく、実は誰にでもあるそうだ。

それを客観化していくことで楽になれるらしい。

「今まで記憶がないこととか、暴力を受けたとか、性的虐待とかはないよね?」

と聞かれ、「たぶんないです」と答えると、

「あ、『たぶん』がつくならやめておきましょう」

と心理士さんは器具をしまった。

そんなに力を持つ器具なの!?と驚いた。

だったら使ってみたかった。

私が「たぶん」と言ったのは、ただ断定を避けるグニャグニャした性格ゆえだ。

でも、その日は夜に友人と会う約束もあったので、万が一激しいトラウマが引き出されたらやばいかもしれないなと思い、素直に従った。

「今日はお話ししながらやっていきましょう。初めて『自分はダメだ』と思ったのはいつ?」

心理士さんに聞かれ、フッと学童保育所の光景が浮かんだ。

「6歳です。両親共働きだったので、小学校に上がると学童保育所に入れられたんですが、そこでうまく立ち回れなくて。男の子からドッジボールをぶつけられたり、女の子から意地悪されたりするたび、自分はものすごく劣った人間なんだなと思いました」

「じゃあ、そのときの自分がここに座っていると思って」

心理士さんは誰もいない椅子を指した。

するとたちまちそこに6歳の自分の姿が浮かんだ。

実はこの「過去の自分と対話する」という方法は田房永子の漫画で読んだことがあり、真似してやってみたこともあった。

でも、自力では過去の自分の姿などまるで浮かばなかったのに、クリニックで心理士さんにリードされるとすんなり現れた。

6歳の私はモジャモジャの天然パーマで、ブスッとした顔をしてうつむいていた。

「どう思う?」

心理士さんに聞かれ、「あんまりかわいくない子だな」と正直思ったが、口に出すのは躊躇われた。

黙った私に心理士さんは、

「その子になんて声をかける?」

と言った。

「うーん……『君はダメじゃないよ』ですかね」

私は答えた。

いくら自分とはいえ、相手は6歳の子どもだ。

40歳の大人としてかけるべき言葉は『ダメじゃないよ』だろう。

「そう、全然ダメなんかじゃない」

心理士さんは頷いた。

その瞬間、私の目からダーっと涙が出た。

バカみたいで恥ずかしいけれど、そうだった。

「今、その子はなんて言ってる?」

「『こんなところにいたくない』」

「そうだよね。いたくないよね。でも、それは叶わなかったんだよね。子どもって意外に気を遣うから、お父さんお母さんが一生懸命働いてくれてるのがわかってて、我慢しちゃったんだよね」

心理士さんはそう言った。

だが、6歳の私が家の事情を把握できていたかは疑問である。

「気を遣った」というより、「ただ従うしかなかった」というほうがしっくりくる。

当時の私にとって、生きることとはすなわち嫌な場所に行くことだった。

それがどうしてかは考えなかった。

現実が不本意だから空想の世界に逃げる、ぼんやりした子どもだった。

「お父さんお母さんに対して、今はどう?もう割り切れてる?それとも執着してる?」

「うーん……なんだかんだで、執着しちゃってるかもしれません。いい年して恥ずかしいですが」

「そうか」

心理士さんは丸椅子を二つ出した。

「ここにお父さんお母さんが座っていると思って。で、蹴り倒してみて。……って言っても、なかなかできない人が多いんだけど。どうかな?できそう?」

「やってみたいです」

ふいに反抗期のティーンエイジャーのような衝動が込み上げ、私は思い切り椅子を蹴った。

しかし倒れた二つの椅子を見たら、なんだか哀れになった。

「……どう?」

心理士さんに聞かれ、

「ずっと圧力的だったものが、こんなにも脆かったのか、って思いました」

「うん、脆いものなのよ、人間って。みんなそうなの」

心理士さんは、自分をダメだと思うのは、自分が自分を守るためにやっていることだと言った。

そういえば鬱病の仕組みは、防衛本能からきていると聞いたことがある。

転ばぬ先の杖というか、最悪な状況を予想しておくことで対策を練るための心理らしい。

免疫過剰でアレルギーが起きるように、予防過剰で鬱病になるんだなと思ったものだが、私も似たような状況かもしれない。

「その『お前はダメだ』と言ってくる自分のほうを向いてみて」

心理士さんに言われ、私は右を向いた。

なんとなく右側にそんな自分がいるような気がした。

「その自分にさ、『ありがとう』って言ってみて」

茶番だなと思いつつ、私は「ありがとう」と言った。

すると、「あんたも大変ですねぇ」というしみじみした気持ちが込み上げた。

私の中のネガティブな私は、「お前なんかダメだ」と言い続けることで、ずっと予防に努めてきたのだ。

何の予防かといえば、おそらく傷つくことだろう。

他人から傷つけられないように、不意打ちでとてつもないダメージを受けないように、日頃から自分で自分を傷つけて、有事に備えてきたのだ。

我ながらみみっちい人間で情けないが、これが私のサバイバル術だった。

心理士さんはまた、

「繰り返し嫌なことを思い出すのは、悲劇のヒロインになっているからなんだよね」

と言った。

まぁそうでしょうねと別に驚きもしなかったが、

「悲劇のヒロインは最後に王子様が迎えに来るでしょう」

と言われてハッとした。

なるほど、私はメルヘンをなぞろうとしていたのか。

今はこんなに辛いけれど、辛ければ辛いほど最後に救いがある、という幻想を。

もちろん私はもう「王子様」など待っていないが、この場合「王子様」は比喩で、私が無意識のうちに甘い夢を見ていたことには変わりない。

フワッとした夢だが、やり甲斐のある仕事で安定した収入を得て自由に暮らしたかった。

辛い辛いと嘆くことで、そんな夢を実現させようとしていたのかもしれない。

いくら嘆いたって、何も変わらないのに。

バカみたいだなと思わず笑ってしまったが、

「それも自分を守って生き抜くためだったんですよ」

と心理士さんは言った。

カウンセリングは50分だったので、ここで終わりになった。

面白い体験だったので、次回も予約した。

貧乏な私に自己負担のカウンセリングは大きな出費だが、今は必要な気がした。


その夜、友人と会った。

普段は陽気な友人だが、ゆっくり酒を飲むうち、職場の愚痴を少し話してくれた。

仕事とは苦手なこともやりたくないこともやるものだが、「私はそういうのできないんで」「わからないんで」と華麗にスルーする人物がおり、その皺寄せがすべて友人にきているという。

さすがに「いい加減にしてください」的なことをオブラートに包んで言ったら、「攻撃されて傷ついた」と周囲に触れ回ったそうだ。

たまんねぇな。

私も似たような経験がある。

「できない」「わからない」ばかり言う相手と何かをすると、自分がそのぶんもカバーしなければならず、激しく疲弊した。

そもそも私は人のカバーができるほど有能ではない。

たいていのバイトで使い物にならないようなポンコツだ。

でも、「できない」「わからない」と言われてしまっては、たとえポンコツだろうとやらなければ進まなくなる。

自分のやりたいことも後回しにしてなんとかクリアしたら、「飯田さんはできる人だからこれも任せるね」という暗黒ループが発生してしまった。

こんな相手には何を言っても無駄だ。

「だって私はできないんだもん」で終わらせるし、しつこく食い下がれば「傷つけられた」と周囲に訴える。

すでにこちらはボロボロになっているのだが、その傷は無視される。

いやぁ、わかるよ、いるよね、そういう奴……と友人に相槌を打ちながら、カウンセリング帰りだった私は、「それが彼らのサバイバル術なのだろうな」とも思った。

被害者ぶられるのは腹立たしいが、「そうしなければ生きてこられなかった」と思えば、なかなか壮絶である。

また、私はこの数年のバイト生活で己の無能を思い知ってもいるので、「できない」「わからない」と言う側の気持ちも理解できるのだった。

まじでできないしわからないということはあるものだ。

「これができるならあれもできるはず」という通常の予測が成り立たないタイプは確実にいる。

まぁ、私ですが。

それでも私は「時間をかければわかるかもしれない」とか「猛特訓すればできるかもしれない」などとつい思ってしまうので、だからネガティブなのだろう。

「できるはずなのにできないからお前はダメだ」と、自分で自分に囁き続けてしまうのだ。

ある意味自分への期待が高く、傲慢だと思う。

まぁ、「できない」「わからない」ままでいられるのも傲慢な気はするが、よくよく考えれば、できないことやわからないことを周囲に助けてもらうのは何も悪くない。

ただ、誰か一人に皺寄せがいくことが問題なのだ。

だから、やって貰った人はやってくれた人に感謝し、そのぶんできることを率先してやるとか、一人に負担が集中しないように気遣い合うとか、そういうのがうまく回ればいいなとは思う。

でも、こう書いているそばから嘘臭い気もする。

お互いの個性を尊重し合うなんて、自分の個性にすら手を焼く私にできるだろうか。

個性とは何も素晴らしいものだけじゃなく、目を背けたくなるほど醜悪なものも含むが、それを腹の底まで飲み込むのは容易ではない。

しかし、きっと誰かが私の醜悪さを少しでも飲んでくれているから、私が生きられるのだろうとも思う。

それなら私も自分や他人の醜悪さを飲まなくちゃと思いつつ、本当に飲みづらくてオエッとなっている。







裏「耳をすませば」

子どもの頃の友人をめちゃくちゃに罵倒して殴る夢を見た。

その前は実家に火をつける夢だった。

先日心療内科に行ったことでインナーチャイルドが目覚め、胸の奥に押し込めてきた感情が噴き出したのだろうか。

「インナーチャイルド」って、うさんくさい言葉だけど(あと最近よく見る「気づきを得た」という言い回しもうさんくさいと思う。普通に「気づいた」でいいのに)。


夢に出てきた友人は、Cちゃんという女の子だった。

全然気は合わなかったが、なんとなく友人ということにされていた。

一緒に遊んで意見が食い違うと、私はできるだけ対話による解決を望んだが、語彙の少ないCちゃんはとりあえず暴れ、最終的には泣くことで私に折れさせた。

だからCちゃんと遊ぶのは楽しくなかったが、「遊びたくない」と言うとまた暴れて泣くので、どうしようもなかった。

しかし、Cちゃんの詩を見たとき、私は驚いた。

それは国語の授業で、「まるで◯◯のようだ」という比喩を使って詩を書きましょうという課題だった。

私が書いたのはこんな詩だった。


「かれた草」

風がふいてカラカラ
葉がとれてカラカラ
かれた草は悲しい
まるで火事のあとの家のようだ
かれた草は悲しい
まるでめつぼうした国のようだ


一方Cちゃんはこんな詩を書いた。


「ありがとう」

ありがとう
うまれたときからみんなにありがとう
ありがとうといいつづける
あてのない
ありがとう


衝撃的だった。

「こんな殊勝な子だったっけ?」とか、「『まるで◯◯のようだ』って表現を一切使ってない(先生の話をまったく聞いてない)」といった突っ込みはさておき、「あてのない/ありがとう」に胸を掴まれた。

私の詩は先生に褒められたが、Cちゃんの詩のほうがずっといいと思った。

語彙の少ない人が、そのぶん限りある言葉で書いた詩は威力を持つのだなぁと(当時はこんなふうに言語化できなかったが)思った。

でも今振り返れば、この詩がいいのはCちゃんの語彙の少なさゆえではなく、やはりCちゃんに才能があったからだろう。

そんな詩人のCちゃんは、同時にエロ少女でもあった。

公園に落ちていたエロ本を拾い、児童館の便所に持ち込んで読み耽っていた。

漢字が苦手なCちゃんは私を便所に連れ込み、エロ本のページを指して「これなんて読むの?」と聞いてきた。

そのたびに私は「『かんじる』だよ」とか「『のみこむ』だよ」と教えた。

ときどき「淫乱」や「悶絶」などのわからない漢字もあったが、そういうときは適当なことを言った。

全然気の合わないCちゃんだけど、便所でエロ本を読ませてくれるところは好きだった。

だが、やがて指導員の先生に見つかり、私たちはこっぴどく叱られた。

家にも報告がいったようで、私は父親からも叱られた。

「どうしてそんなことをしたのか」
と聞かれ、
「もともとCちゃんが拾ってきたんだよ」
と答えると、
「じゃあCちゃんのせいだって言うの?それは卑怯だよ!」
とさらに叱られた。

母親がそのときどうしていたかは覚えていない。

たぶん忙しかったのだと思う。

その頃私の父親はフリーランスだったので、安定した勤めの母親が我が家の世帯主であり、仕事と育児にくわえ、認知症の祖母の介護もしていた。

あるとき私がふと「ストレスが溜まるなぁ」とぼやいたら、「そう言いたいのはこっちだよ!」とブチ切れられたこともあった。

今となっては母親の気持ちもよくわかるが、子どもだった私はただびっくりして落ち込んだ。

とりあえず物事を我慢すれば波風が立たないと学び、Cちゃんとの謎の関係もそのまま続いた。


中学に上がってからはCちゃんと疎遠になったが、高校1年のとき街でバッタリ再会した。

「これから男の子と遊ぶんだけど、向こうが『友達連れてきて』って言うから一緒に来ない?」
と誘われ、何も考えずついて行った。

その頃私はギャルに憧れていたので、なるべく軽率に行動するよう努めていた(軽率じゃないギャルだってたくさんいるよ、と今は思うが)。

Cちゃんが向かったのは聖蹟桜ヶ丘だった。

こんなところに友達がいるのかと尋ねると、
「出会い系で知り合った人で今日初めて会う」
と言われた。

Cちゃんはギャルではなく、あまり服装にこだわりのないタイプだったが、私よりずっと行き当たりばったりに生きていて、なんだか「負けた」と思った。

駅を出ると、肉体労働者らしい青年が立っていた。

「車で迎えに来たよ」
と言う彼の背後には黒いバンがあり、中に人影が見えた。

さすがに私は自分の軽率さを後悔した。

「これやばいよ、走って逃げよう」
とCちゃんに耳打ちすると、Cちゃんはデカい声で、
「え?やばい?なんで?」
と聞き返してきた。

青年は私の肩にガッチリと手を回し、
「大丈夫だよ、みんなで楽しく遊ぶだけ」
と微笑んだ。

そのタバコと汗の混じった匂いを嗅いで、私は観念した。

バンには彼を含めた4人の青年が乗っていた。

全員同じ職場の鳶職人だと言った。

連れて行かれたのは郊外に建つプレハブのようなアパートだった。

19〜23歳の青年4人と女子高生2人が、狭い部屋に車座になった。

眞露のお茶割りを勧められ、もう酔っ払うしかないなとぐいぐい飲んだ。

やがて王様ゲームが始まり、乱交に雪崩れた。

どちらを向いてもちんこがあった。

Cちゃんはなんだか楽しそうだった。

「へぇ、楽しいのか」と意外だった。

私は楽しくなかった。

だが、「悲しい」とか「傷つく」といった負の感情を持つには、状況に湿り気がなかった。

青年たちは明るく素朴だったし、触れ方も乱暴ではなく、とにかくセックスがしたいだけに思えた。

CDラジカセには、発売されたばかりのラブサイケデリコのアルバムがかかっていた。

「ラストスマイル」が流れたとき、私の上にいた青年が、
「これいいよね〜」
とのんびり言った。

Cちゃんをいじっていた青年が、
「俺もこの曲好き」
と言った。

Cちゃんは犬のような声を上げていた。

「便所でエロ本を読んでた私たちだけど、今は自分自身が便所になったね☆」と思ったら、やっと昏い悦びが沸いた。

私は昏い悦びが好きである。

コレがないとどうにもね。


日が暮れたあと、青年たちは私とCちゃんを車で送ってくれた。

最悪殺されることも考えていたので、無事に帰れて安心した。

車中では誰もほとんど話さなかった。

全員、疲れ切っていた。

帰り際、Cちゃんに「また遊ぼうね」と言われたが、私はもうごめんだと思った(でも結局また遊んだんだよな…)。


考えてみれば聖蹟桜ヶ丘は、あのジブリの青春映画「耳をすませば」の聖地である(原作は柊あおい)。

私は16歳で、ヒロインの雫と年も近かった。

しかし私が耳をすまして聞こえたのは、「カントリーロード」ではなく、爛れた部屋に流れる「ラストスマイル」だった。

誰も彼も青春に失敗したのだ(by友川カズキ)。


Cちゃんが今、どうしているかはわからない。

彼女は20代のときに失踪した。

だからもう20年近く会っていないのに、どうして夢に出てきたのか不思議である。

私が本当に罵倒して殴りたいのがCちゃんなのかも疑問である。

思い出を辿ってみれば、罵倒して殴りたい相手は自分自身のような気もする。

それにしても、何十年も前の記憶はあるのに(人が書いた詩まで覚えているのに)、仕事の覚えは本当に悪くて、つくづく自分はポンコツだなぁと思う。

発達障害検査

心療内科に行って発達障害の検査を受けてきた。 

この数年、発達障害は「流行っている」。

それだけ生きづらい人が多いのだろう。

私も色々なことがうまくいかないときにADHDやASDの特徴を知り、「自分は発達障害なのかもしれない」と思った。

それでも医療機関で検査を受けるのはハードルが高かったが、もう障害なら障害と認定されて支援を受けたいと思うほど、最近は社会生活が難しくなっていた。


ライブをやめて3年、あちこちに住んでバイトをしながら生きていたが、どの職場でも私はぼんくらだった。

なかなか仕事が覚えられず、ケアレスミスも多く、単純作業も遅く、職場の人との意思疎通も下手だった。

「私ってこんなに無能だったっけ?」と愕然とした。

紙芝居や劇をしていたときは一応セリフを覚えられたし、ステージに立つまでの膨大な雑務(制作に加え、様々な連絡や準備、告知、スケジュール管理など)も一人でやっていた。

夜職をしていたから上辺だけのコミュ力ならそれなりにある気がしていたし、デザインの仕事も、ソフトの使い方や入稿のルールは調べれば理解できた。

有能ではないにせよ、普通のバイトならまぁいけるだろうと思っていたのに、実際の私は全然使い物にならなかった。

ホテルの事務をしたときは、「これをこうしてください」と指示されても頭で整理しなければ行動に移せず、相手をイライラさせた。

「急いでください」と言われて焦ったら、ありえないミスをしてシステムが固まり、始末書を書かされる羽目になった。

でも、始末書を書くのは得意だった。作文とか好きだったし。

あまりに私が何もできないので、やがて書類の枚数を数えるだけの役目になり、しかしそれも間違え、数も数えられないのかと周囲を驚かせた。

「ホテルの入り口を掃除してきて」と言われ、「そのぐらいなら大丈夫だろう」と気を抜いてやっていたら、年下の先輩が不安げに走り寄ってきて、「道具をどこかに置いたほうがやりやすいですよ」と教えてくれた。

見れば私は、両手いっぱいにバケツや塵取りやホウキを持ち、ロボットのような動きでホテルの入り口を掃いていた。

その先輩(24歳の清楚な女性)は私が何かするたびに不安を覚えたようで、だんだんメモの取り方から日常の動作まで教えてくれるようになり、このままでは「トイレに行ったら手を洗うんですよ」とまで教わってしまうのではないかと私も不安になった。

不安な者同士のコミュニケーションは齟齬だらけで、最終的に私はバグを起こした。

「青いファイルを取ってください」と言われて青いファイルを差し出しつつ、「はい、黄色いファイルです」と言っていた。

先輩は一瞬笑ったが、私が、
「あー!すみません、ほら、『青い黄色』ってあるじゃないですか、印象派の絵みたいな、それと混同しちゃいました」
と言うと、不安を通り越して恐怖の表情になった。

ポエジーって、脳のバグなのかな。てへっ☆

そこを辞めたあとは医療事務のバイトをしたが、やはりミスを連発して迷惑をかけまくり、挙げ句、帯状疱疹になった。

私の年代で帯状疱疹を発症するのは、疲れやストレスが原因だそうだ(でも迷惑をかけたのは私なのに、なんで私がストレスを感じるんだろう)。

それでも食い扶持を稼がなければいけないから、次には職業訓練校に通った。

その一環でハローワークにも行き、また別ジャンルの仕事にもありつけた。

だが結局、それも続かなかった。

仕事内容ではなく、人と関わるのが難しいのだった。

たとえば「飯田さんて癒し系だよね」と言われたら「仕事が遅いってことだな」と脳内変換してしまい、すると何をしていてもガラスの破片を突き付けられているような心地になった。

思い込みだとわかっていても、仕事をするたび、「お前みたいなぼんくらは必ず失敗するよ!」とイマジナリー小姑が顔を出し、結果仕事が遅くなって、小姑が増長するという悪循環だった。

ここまでくると、さすがに自分はやばいんじゃないかと思えてきた。

考えてみれば子どもの頃から私はぼんくらでコミュ障だった。

大人になってからはなんとか社会に適合した気でいたが、夜職や自己表現の世界を離れれば、やはり相変わらずの無能だった。

いや、表現や夜職とて、結局続けられなかったではないか。

やりたいことはうまくいかず、社会的にも使い物にならず、若者でもない自分は、これからどうすればいいのだろう。

とはいえ自死するのは痛そうで怖いし、万が一失敗して体が不自由になるのも嫌だから、おそらくまだ何十年かは生きなければいけない……。

そんな折、就労支援施設のチラシを見かけた。

病気や障害で働くことが難しい人を対象とした福祉施設で、その人のペースに合わせた作業で工賃をくれるらしかった。

私のような者はこういうところで社会適合力を付けさせてもらったほうがいいような気がした。

そのためにはまず発達障害と診断してもらう必要があった。

ちなみに私は20代半ばから30代前半まで、発達障害の子どもに向けた放課後等デイサービスで働いていたことがある。

知り合いから紹介されてなんとなく始めたバイトだったが、当時はギャラがないライブをしながら夜職で生活費を稼いでいたので、そういうものと無縁の足場をひとつ持っておきたかった。

まぁ、子どもと関わる仕事は決して楽なものではなかったが。

そんなわけで、私にとって発達障害は割と身近であり、だからこそ自分との類似点を感じられた。


前置きが長くなってしまったが、以上が私が検査を受けに行った理由である。

興味本位ではなく、藁にもすがるような気持ちだった。

そしてその結果が昨日出た。

医師の診断によれば、私は発達障害ではなかった。

ADHDの傾向は標準より少し強かったが、薬や支援を必要とするほどではないようだった。

しかし知能にバラつきがあり、ものを考える能力に比べ、実際に手を動かして行動に移す能力が低かった。

「だから辛かったのではないでしょうか」と言われ、激しく納得した。

実際私は、「わかっているのにできない」というのがずっとジレンマで、だから身体性や現実を重視してきたところがあった。

頭でわかることと実際に行動することは普通に考えても大きな違いだが、おそらく私にはその差が激しく、「脳内と現実との距離を埋めなければいけない」とどこか強迫的に思っていた。

若い頃に夜の街で積極的に仕事をしたのも、ひとつにはこれがある。

もちろん他にももっと色々な理由はあるが、極彩色の現実にぶつかって生身が血を流すたび、この痛みを乗り越えれば強くなれるはずだと思っていた。

実際は擦り切れていくだけだったかもしれないが。

また、対人関係を見るテストも頷ける結果だった。

「物事を深掘りしすぎて裏の裏になってしまっている」
「その結果、距離を置いて物事に関わる態度をとっている」
と指摘され、本当にそうですねと思った。

結局私は発達障害じゃなかったので、これからも自力でやっていくしかないわけだが、生きづらさの謎がひとつ解けた気がして、検査を受けてよかったと思った。


それにしても、生きづらくない人なんてこの世にいるのだろうか。

なかなか想像がつかない。

みんな何かしらしんどいように思う。

そして多くの人は夜の店や恋人、あるいは家族や友人に泥を吐き出している。

吐かれた泥は消えてなくならないのに、心療内科には二の足を踏む。

私もそうだった。

「そこまでじゃないし」とか、「そんなの甘えなんじゃないか」とか思っていた。

けれど、自分の状態がわかるだけでも気が楽になるから、的外れな努力をする前に行けばよかったなと今は思う。

自分の苦しみを自分で肯定できない人間には、医療機関のお墨付きが必要だったりもする。

楽しく生きられるならそれに越したことはないが、楽しくなくても死ねないなら、せめて負担を軽くしたい。

発達障害の検査は、そう思う経験だった。


なお、私は自分が社会で使い物にならないと思っているが、別にそれが悪いことだとは思っていない。

人に迷惑をかけるのは申し訳ないが、それと善悪は別だし、なんなら善悪なんてこの世にはないとも思っている。

ぼんくら人間の居直りかもしれないけれど、私はふてぶてしい。

ただ、社会と切り離されて生きることはできないので、なんとか折り合いをつけなきゃな……ってところでつまずいている次第です。

あーあ。

明日はどっちだ。

飲食と健康

私は酒が好きで毎晩飲む。

場合によっては昼から飲む。

貧乏なので家で一人で飲んでいるが、適当なつまみを作って好きなように飲食するのは本当に楽しい。

服や化粧品は滅多に買えない低収入だが、それでも酒は毎日買う(だから服や化粧品を買う金がないとも言える)。

私にとって1日はおいしいビール(経済事情によっては第3のビール)を飲むためにあり、それ以外は仮の時間だとどこかで思っている。

なお、ビールのあとは当然、日本酒やワイン、焼酎など、その日のつまみに合わせた酒を飲む。

このように酒欲に身を任せて40歳になったが、そろそろ体もガタが出始める頃かと思い、市が無料で実施している健康診断に行ってきた。

採血、採尿、腹囲・血圧・身長体重の測定というシンプルなものだった。

結果は拍子抜けするくらい「異常なし」だった。

どの数値も基準内だったし、体重は3年前に銭湯で測ったときと比べて5キロほど減っていた。

まぁ、その銭湯の体重計がおかしかったのかもしれないし、3年前の私はまだ東京にいたから、付き合いで飲食する機会が多かったせいだろう。

いや、それでも付き合いの飲食だけならそこまで太らなかったはずだ。

なぜか私は人と飲食したあと、さらに一人で飲食する癖があった。

「気を遣って食べられなかった」というわけではない。

むしろ率先して食べるほうだったかもしれない。

私は決して細身ではないので、「こんな体型の自分が少食であってはいけない」と思い決めていた。

誰かが「食べられない」と残したものはありがたくいただいた。

特に年配の方々を接客するような場では、愚鈍な大食らいとして存在することが自分の使命だとすら思っていた。

しかし、そのあとは、どんなに胃がパンパンでも、もう一度一人で飲食し直さなければ気が済まなかった。

大好きな飲食の時間を、自分の手に取り戻したかった。

翌日浮腫んだ顔で後悔に打ちひしがれながら、その晩もどこかで飲食すれば同じことを繰り返した。

心療内科にかかれば摂食障害の一種と言われたかもしれない。

今少し体重が落ちたのは、人と飲食する機会が大幅に減ったからだろう。

もちろん今でも時々は親しい人と飲みに行くことはある。

だが、「まぁ明日も明後日もいくらでも一人で飲めるもんな」と思うと、あの頃のように強迫的に自分の時間を取り戻そうとしなくなった。

誰かといる時間をそのまま楽しめるようになった。

何より、もう内臓の体力が落ちたのか、酒や食べ物がそんなにたくさん入らなくなった。

「おじさんは落ち着いているんじゃなくて元気がないだけ」というリリーフランキーの名言を思い出す。

メンヘラでいるのも体力が必要なのかもしれない。

いや、体力がなくなることで精神状態が悪化することもあるから一概には言えないけど、私の場合は、感情を体力が後押ししていたなと思う。

人と飲んで酔ったあとは、いつも凶暴なような死にたいような気持ちが、真っ暗な夜へどこまでも伸びて行った。

酒と脂をギタギタに流し込み、脳と内臓を麻痺させて眠った。

30代後半までそんなふうだったのは、他の同世代のように仕事や家庭に責任がない立場で、自分のことだけを考えられる状況だったからでもあるだろう。

今とて私は無責任な子どもおばさんだが、やっと内臓が老いてきたおかげで暴飲暴食は遠のきつつある。

健康診断が異常なしだったのはそのためかもしれない。

引き続き一人のペースも保てるようにしたい。

ちなみに5キロ落ちたとはいえ、私は元が平均より太めだったので、今はやや標準体型に近づいただけで、痩せたわけではない。

中流の外見

「不惑」とされる年齢になったが、私はいまだ惑ってばかりだ。

でも、美に対する劣等感は年々薄れてきている気がする。

昔読んだレディコミに、若い頃はブスと罵られていた主人公が、「年をとると『おばさん』になってブスが目立たなくなる」と心の安寧を得る描写があったが、非常によくわかる。

もちろん、年をとることが美しさを損なうことだとは思わない。

いくつになっても綺麗な人は綺麗だし、年々美貌が増していく人もいる。

ただ、望んでもいないのに美醜(および性的魅力)の審査をされてしまうのが、「若い女」であることの宿命だった。

少なくとも若い女だった頃の私はそう思っていた。

周囲を気にしないでいる強さも持てなかった。

けれど若くなくなれば、そんな審査の舞台に上がるのは有志だけだ。

志のない人間は「おばさん」としてスルーされる。

最近はそうそうナンパもされないし、すれ違いざまに「ブス!」と言われることもない。

ほっとしている。

こう書くと、私はルッキズムの犠牲者のようだが、若い頃は自らすすんでその価値観を受け入れ、内面化していたところもあった。

いや、「すすんで内面化」っていうのがまた犠牲者っぽいよなとも思うけど(虐待された人が虐待を繰り返すように)、「自分の外見をよく思われたい!」という気持ちはこってりとあったし、不細工(とされるであろう外見)の人をナチュラルに見下しもしたから、私は加害者でもあった。

「美人」だの「ブス」だの、自分の人生になんの責任もとらない奴らから投げつけられる評価に、私は一喜一憂していた。

10代の頃は、男性よりも女性からの評価が気になった。

ほぼ女子校のような環境で思春期を過ごしたため、同性同士の辛辣な視線と、それによって形成されるスクールカーストは生き死にに直結した。

私のカーストは「中流」だった。

かつて中野翠は「中流美人」という秀逸なキャッチコピーで第一作を出したが、中流は怯える階層だ。

上流に引け目を持ちながら、下流には引きずりこまれたくないと必死になる。

成人してからも、私はその怯えを持ち続けた。

対象は男女に拡大した。

垢抜けなくてモッサリした男性から親しげにされれば侮辱されたように感じたし、美人に友情を示されれば「引き立て役にピッタリとか思われてるのかな?」と邪推した。

街を歩けばまるで採点結果のように、罵倒されたり称賛されたり、お金を貰えそうになったり逆に取られそうになったりした。

実家から近い繁華街が歌舞伎町という特殊な街だったせいかもしれない。

しかし一見ホワイトな場所においても、何かその気配を感じることはあった。

あからさまに外見について言われる夜職は、だからむしろ楽だった。

水面下で女子社員の品定めがされるオフィスで勘繰ってヘトヘトになるより、非情な「チェンジ」が行われる世界でアナルでも舐めているほうが精神衛生上よかった。

まぁ、夜職をしていた理由はそれだけではないが。

ライブをしていたときも、容姿について言われることはあった。

自分自身ではなく紙芝居を見てもらうつもりだったが、思った以上に演者は注目されるものだった。

ある人からは、「まだ若いからエロ紙芝居をやっても笑えるよね」と言われた。

「おばさんになっても下ネタやってたら笑えないよ。なんか惨めっていうか、悲しくなっちゃうもん」
と言ったその男性は、たしか40代だった。

おばさんになった方が脂気が抜けて(あるいはいい具合に脂がのって)笑えるんじゃないの?と違和感を持った。

今、40代を迎えた私は、自分と同世代やそれより上の男性が10代20代の若い女性を求めることに、改めて不思議な気持ちがする。

そりゃピチピチの肌や髪はそれだけで光を放つし、太っていてもニキビがあっても、若ければさしてみっともなくはない。

ただそれは私にとって、「子どもってかわいいよね」という気持ちと同じだ。

とても欲情する対象にならず、そんな思いを抱くのが気の毒に感じてしまう。

もちろん性癖は人それぞれだけど、「そりゃ若い女のほうがいいでしょう」と言うのは、「そりゃゴムのほうがいいでしょう」とラバーフェチの人が言うようなもので、そんなに一般的な感覚だと思えない。

「男は種蒔き本能があるから、より妊娠しやすい若い女性にいく」という説もあるが、だったら30代の経産婦のほうが妊娠出産はスムーズな気がする。

もしかしたら若い女性が好きな男性は、自分自身が若い女性になりたいのではないか。

彼らは若い女性に欲情すると同時に、めちゃくちゃ嫉妬している。

あの子を俺のものにしたい、ちんこを突っ込んでひとつになりたい、ていうか俺はあの子になりたい、なんで俺はあの子じゃないんだ!……というような衝動をなんとなく感じる。

実はそういう男性が結構いて、「男と生まれたからにゃあ、若い女になりてぇものよ!」という願望が男の世界のデフォルトなのだとすれば、「そりゃ若い女のほうがいいでしょう」という発言も納得できる。

そして、そうであるならば、「おばさんが下ネタやっても惨めになるだけ」とあの40代男性が言ったのもわかる。

だって若い女性になりたいんだもん、おばさんなんか惨めなんだもん。

そう、だから、実際に若い女性を散々やったおばさんが美醜のジャッジから解放されてせいせいしているのに対し、おじさんはいまだに若い女性を品定めするのかもしれない。

心は女子高生だから。

なりたかったのになれなかったから。

本当はあたしがいるはずだった席に当然のように座り、あたしが着たかった服を着るあの子たちに、辛辣な目を向けるの。

なんちゃって。

もちろんそんなわけはないのだろうけど、若い女性を求める男性は結構な確率で恋愛とかも好きだし、節々でギャルっぽいなとよく思う。

彼らは女子高生のように容姿を評価される恐怖は感じていなさそうだが、容姿ではない部分(収入とか社会的地位とか)の評価にやはり戦々恐々としているのかもしれない。

断崖絶壁で恋愛を最後の希望にするのは、ある種のギャルのメンタリティだ。

私もギャルは好きだけど、もう自分がギャルになりたいとは思わない。

ただ、それでは外見なんか気にしない境地に達したかというとそんなことはなく、今度は所作や質感という扉が開いてしまい、解脱までの道はまだ遠い。

中年ともなれば行儀の悪さはもはや愛嬌では済まされず、よれた服やボサッとした髪ではたちまち清潔感がなくなってしまうので、貧乏な私にはなかなかきついが、ちょっとは取り繕わなきゃなとつい思ってしまう。

平安時代と江戸時代と現代では美人とされる顔が全然違うけど、マナーがなくて見すぼらしい中年がやばいのはどの時代でも同じだろう。

いっそやばい方向に進んで真の解放を得たいという憧れと、なんとかこっち側で踏みとどまっていたい気持ちとがある。

どこまでいっても私は「中流」だなと思う。


純喫茶と死

最近、喫茶店でバイトを始めた。

現代的なカフェではなく、昔ながらの純喫茶だ。

ここ数年、純喫茶ブームだが、私は酒飲みのせいかそこまで関心がなかった。

昭和の意匠を面白いとは思うけれど、それなら純喫茶よりスナックに行きたい(とはいえ、70年代頃までのスナックは喫茶店の一種で、今のような「夜の店」となったのは80年代以降だそうだが)。

しかし、たまたま近所の喫茶店の求人を見かけ、グーグルで口コミを調べたところ、
「店長は愛想がなく、店員はやる気がない」
と書かれており、働きやすそうだなと思った。

それで面接を受けたら採用された。

いつまで続くかわからないが(なんせ私はろくに仕事が続かないダメ人間なので)、とりあえず週に何日かはコーヒーを運んでいる。

店のカウンターからは、コーヒーに混じって果物やパンの焼ける匂いがする。

それを嗅いでいたらふと懐かしくなった。

すっかり忘れていたけれど、私の父の実家は昔、喫茶店をやっていた。

店は私の通う保育園の近くにあり、ときどき祖父が迎えに来てくれた。

祖父は昔の人にしては背が高く180センチ以上あり、肩車をしてもらうと一気に視界がひらけた。

祖父の頭頂部は禿げていた。

保育園の帰り、私はいつも祖父の肩車に乗り、禿げをベロベロとなめた。

「おじいちゃんは昔カッパだった」と思い込んでいたので、カッパのお皿を労るつもりだった。

なめられるたび、祖父は「やめてちょうだ〜い」と悲鳴をあげたが、私を肩車から降ろすことはなかった。

そして店に着くと、使い終わったコーヒーのネルをかぶって禿げを隠した。

業務用のネルは大きくて、祖父の頭にピッタリのサイズだった。

だから私は、コーヒーのネルは祖父の帽子だと当たり前のように思っていたが、よく考えたらネルをかぶったマスターのいる喫茶店って変だったと思う。

実際に店を切り盛りしていたのは祖母だった。

カウンターの中でくるくる働く祖母を傍目に、祖父はネルをかぶったり、私の相手をしたり、奥の小部屋のテレビで時代劇を見たりしていた。


このように、私の記憶にある祖父は温厚なおじいさんだが、祖母・父・伯母(父の妹)によれば、昔は暴君だったという。

もともと祖父は九州のサラリーマンで、結婚後、転勤で東京に出てきた。

そして東京で脱サラし、飲み屋をしたり発明家になったりした。

祖父の都合に付き合わされた祖母は、酒も飲めないのに飲み屋の女将をしていたが、よほど辛そうだったのか、心あるお客さんから、「奥さんはお酒を出さない仕事をしたほうがいい」と喫茶店を紹介された。

そしてコーヒーの淹れ方やサンドイッチの作り方をイチから学び、喫茶店のマダムになった。

こうして一家の暮らしはある程度落ち着いたが、その間も祖父は新しい商売をしたり、発明をしたりしていた。

付き合いで酒を飲んで帰ると暴れ、宿題をしていた父のノートを破いたり、借金をこさえたりもした。

180センチの壮年が暴れるのは、女子どもにとって恐怖だったと思う。

しかし孫が生まれてからはすっかり穏やかになったそうで、「やっと人間になった」と伯母は言っていた。


そんなわけで、基本的には祖父から甘やかされた私だが、一度だけ強く怒られたことがある。

それはギャルファッションにハマった高校生の夏だ。

厚底サンダルを履いて厚化粧をした私に、「おかしな格好をするな!」と祖父は言った。

しかし、そう言う祖父は泳ぐわけでもないのに水泳帽をかぶっていた。

その頃はもう喫茶店を閉めており、コーヒーのネルをかぶらなくなった祖父は、代わりに水泳帽をかぶるようになっていた。

クーラーに抵抗があるせいか、家では暑さをしのぐためにサルマタ一丁だった。

さらにサルマタの上からなぜかベルトを絞めていた。

水泳帽をかぶり、サルマタ一丁にベルトを絞めた祖父は、あきらかに「おかしな格好」だった。

そして私はおかしな格好の老人に「おかしな格好」と言われていた。

暑さと相まって、空間が歪むようだった。

とはいえ、そのときの私の格好も、(ギャルファッションの美意識に照らし合わせたとしても)おかしかったとは思う。

私のファッションセンスのなさは祖父ゆずりなのだろう。

ついでにこの根無し草な気質も。

いや、祖父は根無し草などと言われるのは心外だろうが、結果的には流転の人生だった。

現実にガシッと根を張った祖母がいたから、一家はなんとか生活できたのだと思う。

他にも様々なことがあり、祖父は長男でありながら墓を継がず、宗教を忌み嫌っていた。

だから我が家には墓がない。


祖父が亡くなったときは、海に散骨した。

晴れた日に親族一同で船に乗り、粉砕した祖父の骨を撒いた。

祖母は自慢のサンドイッチを作り、21歳になっていた私はそれでビールを飲んだ。

晴れた日の海で飲むビールはおいしかった。


こうした家に育ったため、「無宗教」を自認する日本人の中でも自分はだいぶ無宗教だなと思っていた。

母方の実家もキリスト教だったので、仏壇や法要も身近ではなかった。

以前、家族を憎む友人(女性)が、
「あいつらと同じお墓に入りたくないから誰かと結婚したい」
と言ったときは、死後まで重荷があるなんて、檀家制度ってしんどいんだなと思った。

ところで日本のお盆は、儒教の影響だそうだ(加地伸行『儒教とは何か』中公新書)。

死んでもなお子孫に祀られ、ひとときでもこの世に帰ってくることを望む発想は、たしかに仏教のイメージではない。

まぁ、仏教も色々あるけど。

私は死んだらこの世に帰ってきたくないし、子孫もいないので、自分の行く末は孤独死からの無縁仏だろうと若い頃から思っていた。

それはさっぱりして清々しい感覚だった。

しかし、数年前に飼い猫が亡くなり、埋める土地もなく骨壷とともに引越しを重ねるうち、私が死んだらこの骨どうなっちゃうんだろうと心配になってきた。

もしも私の骨と一緒に散骨してもらえたら…と思ったとき、死後また猫に会えるようで嬉しくなった。

もちろん現実はただ2体の生き物の骨が撒かれるだけでしかないけれど(ていうか「誰に撒いてもらうの?」って話だし、そのぶんのお金も遺しておかなきゃいけないけど)、こうした考えに慰められる気持ちは私にもあったのだとハッとした。

そして、「あいつらと同じお墓に入りたくない」という友人のしんどさが、だからこそよくわかった。

「死んだらそれまで」はたしかに清々しいけれど、なかなかそうもいかないものだなと思う。

土地も墓もない私は、今まで「受け継ぐ」という感覚もよくわからなかった。

けれど喫茶店で働きはじめ、レトロなメニューに歓声をあげる若者を見るたび、祖母にサンドイッチやプリンの作り方を教わっておかなかったのはもったいなかったと感じる。

40を過ぎて、ようやく世間並みの感覚を持てたのかなと思う。

でも、世間とは何かと考えると、やはりめちゃくちゃ漠然としている。



よいお年を

この一年、月に一度はブログを更新するようにしてみた。

LINEもTwitterもやめたので、死んだと思われないようにするためだった。

実際、「ブログを見て生存確認した」と言ってきた友人もいた。

でも冷静になってみれば、別にネット上で生存を表明する必要なんてないのかもしれない。

それにこのブログも広告が大量表示されるので、スマホからは見づらくなっている。


3年前にFacebookをやめ、去年LINEもTwitterもやめたら、ものすごく身軽になった(Instagramはもともと見るだけだった)。

宣伝のためにやっていたSNSだけれど、宣伝効果よりも煩わしさのほうが勝っていたのだなと気づいた。

そもそも今の私は宣伝することもない。


ライブをしていた頃は、お客さんから飲食に誘われることがとても多かった。

飲食を共にしたい相手だと思われるのは光栄なことだが、私はお客さんと飲食するためにライブをしていたわけではなかった。

ライブに行くほうだって、目的は演者との飲食ではなく、ライブを見ることのはずだ。

しかし私はとにかく飲食に誘われた。

規模の小さいライブしかしていなかったし、会場も飲み屋さんが多かったからかもしれない。

でも何よりも、私にライブだけで人を満足させる技量がなかったからだと思う。

なのに私は、技量がなくてもライブを続けたかった。

しょーもない紙芝居ばかり作っていたが、とにかく作業に没頭している間は、自分を忘れることができたからだった。

痛み止めや麻薬のようなものかもしれない。

自分が自分であるために表現をする人もいるが、私は我を忘れるためにライブをしていた。

そしてライブを続けていくには、ライブでお金を稼ぐ必要があった。

別の仕事で生活費を稼ぎ、ライブは趣味でやる、というような器用な配分が、私にはできなかった。

でも、ライブでお金を稼ぐには、お客さんに来てもらわなければお話にならない。

集客のない演者にギャラを払うハコなどない(そういう素敵なハコもあったけど、「こんなんでスタッフさんたちどうやって生活するのよ?」と思えてしまい、いたたまれなかった)。

それでお客さんから飲食に誘われてもむげにできなかった。

でも、飲食もたまにならいいけれど、いちいち応じていると消耗した。

作業時間よりもお客さんに対応する時間のほうが多くなってしまい、もどかしかった。

「作業をしたいので」と断ると、「ストイック〜☆」とか「芸術家〜☆」とからかわれることもあったので、断るのも消耗した。

「そんなお客は無視すればいいよ」と言えるのは、実力のある人か、趣味でライブをしている人だ。

私はお客さんの機嫌を損ねてライブに来てもらえなくなるのが怖かったし、「そりゃあんな紙芝居をしているんだから、からかわれても無理ないや」と弱気になった。

だからヘラヘラ酒を飲み、ご飯を食べた。

それでも少数のお客さんは純粋にライブを見てくれたのだから、その人たちに向けてやればよかったのかもしれない。

だが、私は目先の生活を優先した。

その時点でライブを始めて10年以上経っていた。

これがまだ2〜3年なら「今は耐えるとき」とも思えただろうが、もう私は「飲食に誘われる演者」としてやっていこうと、それが現実を受け入れることなんだと思った。

年配の方々から、「演者然としてお高く止まってはいけない」とか「ライブに来てくれた人にはちゃんと接客すべき」と指摘されてきたせいもあった。

実は私はものすごい対人恐怖症で、特にライブのときはナーバスになっているので、上演中以外は引きこもっていたかったが、そういう姿勢はお高く止まっているように見えるらしかった。

だから冷や汗をかきながら明るく気さくに振る舞った。

するとどんどん飲食に誘われた。

謎の連鎖だった。

コロナ禍に入り、なかなか気軽にライブに行けない状況になると、お客さんの誘いはより一層断りづらくなった。

「こんな中でわざわざ来てくれたのだから」とどうしても思わざるを得なかった。

紙芝居の内容も、やりたいことよりウケることのほうが気になった(その割にウケなくて切ないこともあったが)。

もう私はライブをしても我を忘れられなかった。

それで活動15年を機に、しばらくライブを休むことにした。


ありがたいことに、ライブを休んでも、イベントのチラシや物販のデザインの依頼があった。

とても嬉しかった。

けれど、提出するたびに「これでよかったのかな…」と不安になった。

私はプロのデザイナーとして修行してきたわけでもないし、今どきはデザインなんて誰でもできる。

それなのにデカい顔してお金を貰っていいのかという呵責があった。

出版社などの法人相手ならまだ心は痛まないが、私にご依頼くださるのは個人が多く、その人の働いた大事なお金をいただいていると思うと、あまり冷静に対処できなかった。

そういう卑屈さと力量不足のせいか、最初の依頼と全然違うことを注文されたり、びっくりするほど変更を求められたり、半年以上ギャラが振り込まれないこともあったりした。

時給換算すると、依頼を受けるほど生活苦になった。

あと、デザイン仕事でさえ飲食に誘われることはあった。

たぶんまともなプロとしての技術があれば、こんなふうにはならないんだろうなぁと思った。

それで今年はデザインの勉強をした。

でも、まだ個人的な依頼を再開できる段階ではない。

とはいえイラストは常時受け付けている。

絵を描くこととデザインすることは違う作業だからだ。

しかし多くの人はイラストもデザインも同じだと思うのか、「デザインを受け付けていません」と言ったらイラストの依頼も来なくなった。

いや、これはたまたまで、デザインの依頼を受けなくなった時期と、イラストの需要がなくなった時期が、かぶっただけなのかもしれない。


ライブもデザインもやらなくなると、SNSのアカウントを持っている意味は殆どなくなった。

むしろ何も宣伝することがないのに、
「最近見ないけどどうしてる?ご飯行こうよー😁」
とか、
「貴女とは前世で夫婦だったのではないかと思います」
とか、
「ミニ紙芝居買いました。今度愚息にサインしてください(おちんちんの画像添付)」
といったDMが送られてくるのは、ただのストレスでしかなかった。

おちんちん画像を送られるのは、私が性的な紙芝居をしていたからでもあるだろう。

ライブを頑張っていた頃なら笑いに転化しようとしたかもしれないが(そういうほうが格好いいと思っていたし)、うんざりした。

同じように性的な題材を扱う女性表現者のために、「やめてください」と通報したり、DMをスクショして投稿したりするべきだったかなとも思う。

でも、私は戦うより逃げたかった。

あとおちんちん画像を送りつけてくる人だけじゃなく、善意のお誘いにも疲れていた。

逃げ出した今は、だいぶストレスが減った。


色々書いたけれど、ライブに来てくださった人にも、デザインのご依頼をくださった人にも、本当に感謝している。

とってつけた言い訳ではない。

先ほど、飲食に誘わずライブを見てくれた人を「純粋に見てくれた」と書いてしまったが、飲食に誘ってきた人だって、私を傷つけるつもりは微塵もなかったと思う。

そもそも私が「お誘いOK」な雰囲気を出していたせいだろう。

なのに誘われたら勝手に自信を失うなんて、本当に厄介なメンヘラだ。

デザインの依頼だって、「お金を貰っていいのか」と悩むなら、「じゃあタダでやれよ」って話だ。

結局はお金を貰った以上、自信のなさは絶対に口にしてはいけないと思う。

依頼主との食い違いも、私に技術と経験があればスムーズに対処できたのかもしれない。

それに、すべての依頼がこうだったわけではない。

そう、飲食の誘いだって、すべてが嫌だったわけではない。

だから、もしライブに来てくれた人やデザインを依頼してくれた人がこれを読んで心を痛めたらと思うと辛い。

実は「東京荒野」というインディーズ雑誌にはこういうことも書いていたが、あれは読む人の限られる出版物だったからよしとしていた(自分の中での勝手なルールだけど)。

だがこのブログは、読む人が少ないとはいえ、誰でもアクセスできるネット上にあるので、そこに出すべき本音ではないだろう。

でも書いたのは……

若い表現者への反面教師として、「偉そうに色々言う奴らなんか気にするなよ!鵜呑みにした私はぶっ壊れたよ!だから思ったまま好きにやりなよ!」と言いたいからでもある。

あと、たくさんの人に支えられて生きながら、「たくさんの人に支えられる」というプレッシャーに耐えきれなかった自分の、退路を断つためでもある。

けれど、「なんか書きたくなっちゃったから」というのが一番正確な気がする。

「何かのために」と理由をつけることは、いつも行動を正当化する。

私のような者が自己正当化してもどうしようもない。

ここはやはり、不義理で不実なメンヘラらしく、何のためでもなく書きたいから書いた、と言うべきだろう。


今の私はバイトを転々としている。

デザインの勉強をしたおかげで時々小さな会社から業務委託があるが、それも不定期だし、たいして単価は高くない。

東京にいた頃は夜職やサブカル関連のバイトをしてきたけれど、地方都市はバイトの選択肢が少ない。

いわゆる「カタギ」のバイトは、あまりヘンテコな人を見過ごしてくれないように思う。

私の年で定職もなく独身だとちょっと不安そうな顔をされるし、雑談をしていて「こういう時は普通こう思うものじゃない?」と同意を求められてもだいたい納得できない。

だから適当に「はぁ」と濁していると、「なんか変な人」と遠巻きにされる。

私の勝手な思い込み、あるいは認知の歪みかもしれないけれど、なかなかしんどい。

40歳とは、世間的には何か一つ足場を築いている年齢なのだなとつくづく思う。

いまだにおどおどしてバイトも続かない私は、これまで何をしてきたのかと落ち込んでしまう。

するとどうしても、ライブをしてきた日々が甦る。

最近は漫画や小説を書いてみたりもしているが、紙芝居や劇ほど脳内麻薬が出ないし、そう簡単にモノにならない(当たり前だが)。

だからアイデンティティのようなものが欲しくなると、ついライブをしてきたことに縋りついてしまうのだろう。

当時、「紙芝居なんかで食っていくことはできないよ」とたくさんの人から言われた。

けれどわずか数年でも、私はギャラで家賃を払い、食費光熱費を賄って生活した。

それをどこかで勲章のように思っている自分がいる。

段ボールに描いたエロ紙芝居で食べていくなんて、なかなか愉快なことをしたではないか。

お客さんだって、たとえ大半が私に飲食の相手(つまり安上がりなホステス)を求めていたとしても、こんなことにお金を払ってくれる酔狂な人々がそれなりにいたから成立した商売だった。

人間は柔軟で、いくらでも自由に生きられるという証拠を掴んだと、あの頃私は確かに感じた。

だが結局、食べていくことに耐えられなくなった。

だからやっぱり、「食っていくことなんかできないよ」と言った人たちは正しかったのかもしれない。

すでにこの世にある職業しか「職業」と認めないような、頭のカタい奴らの思う壺にはなりたくないという反発心と、「だって私は自由にやってみせたもん」というかすかな自負、「でも結局は思う壺になっちゃった」という失意が、それぞれいつも浮かんでは消える。

ライブを休止してから3年、ずっとこうして停滞している。

ちっぽけな過去にこだわっても、どうしようもないのに。

本当にしょぼい人間で情けない。

でも、一昨年に一度だけ伊勢でライブをしたとき、作っている間は痛みを忘れることができた。

人の縁の中で生きることはこんなにも難しいのに、作る機会は人の縁によってもたらされる。

ここまで書いた以上、またおめおめと人の縁に縋れる気はしないけれど、やっぱりもう一度、何のためでもなく紙芝居をしたいなと思う。

したい場所で、したいように、不義理に、自分にだけ誠実に。

まぁ、それでやる内容は結局、ちんことかまんこなんですけどね。

本当、何のためでもなくちんことかまんこの話を描いて上演したい。

もう笑いが起きなくてもいいし、飲みや食事やセックスに誘われても応えられないから、きっと集客できないけど。

そんなことを思う年の瀬である。

それでは皆さま、よいお年を。

プロフィール

◎紙芝居、イラスト、漫画、小説などの創作をしています。
◎お問い合わせはホームページ迄お願いします https://iidahanako.jimdofree.com

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