2011年12月22日
興福寺北円堂
前回のつづきになります。
東大寺を出てからは癒しを求めて飛鳥園で喫茶の時間を楽しみました。年々疲労の蓄積が早くなります。おっさんであります。
奈良博に向かう友人と別れひとりで興福寺の北円堂に向かいました。
特別公開の期間が長いためか、あるいは正倉院展が開催中のためか、私が中にいた四十分ほどの間拝観者が絶えることはありませんでした。
北円堂には運慶晩年の作である弥勒如来坐像、無著菩薩立像、世親菩薩立像の三尊像が存在しております。
濃密な空間です。この三尊があっては室町時代の菩薩像に眼が向かぬのは当然ながら平安初期の四天王像とも対面が困難になってしまいます。
三尊像はそれぞれ明確な意図のもとに彫像されています。三者は悟りの発展段階を示しているのです。上位より弥勒、無著、世親の順でその深化が表わされております。
まずは無著と世親の二者を比較します。

無著菩薩立像(鎌倉時代)

世親菩薩立像(鎌倉時代)
菩薩像の二者では無著が抜きん出ておりますが、これは二者の勝劣を示すものではなく時間の先後を意味しております。深化の段位が異なるのです。
世親には自己の悟りへの気負いがあります。彼の表情には自らの宗教心を誇る気持があります。もとは小乗仏教の人間であったが弥勒の説法を受け大乗へ転じたという伝説が彫像の背景となっているのでしょう。あるいはこの世親は大乗以前の彼であると見てもよいのかもしれません。
視線をあわせれば世親の意志が伝わってきます。無著と比すれば歳若く彫られているのも若年であるほどに自己主張が強いという人間の性向を踏まえてのものでしょう。
無著と相並べたとき、世親はいまだ悟りにとどまった状態にあることが見てとれます。悟りにとどまるというのは自己と宇宙の境界がいまだ払拭しきれておらぬということです。彼は悟ってはいるかもしれませんが、その悟りにより〈悟った自己〉と〈悟っておらぬ他者〉が隔てられてしまっています。そのため彼は対峙する人間にその意志を伝えようとしてしまうのです。悟っているであろう彼の眼は〈悟っておらぬ他者〉を見つめているのです。
真の悟りとは悟りをもまた捨つるべきことを悟り、無限の否定のただなかへと自己を投げ入れるところから生まれます。そこにこそ無限の肯定が生ずるのです。「空を空ずる」との表現はその事情を示しております。永遠の流動性の中に真実の自己を発見する——正確には「発見しつづける」——ことが悟道の謂なのです。
永遠的流動性の中に存在している人が無著です。
彼の表情には気負いなどありません。向き合えばそれがよくわかります。無意思なのではありません。世親のように自己と宇宙を二分するところに意志というものが生ずるのです。自己を宇宙へと強制適用しようとすることから意志は生じ、欲も同様の心理機制から出でるものにほかなりません。世親はいまだ二元的世界を脱してはおらぬのです。
無著にも無論意思は存在しておりますが——意思と意志は別に読んでいただきたい——、それは宇宙へ向けて押し出してゆくものではありません。自己と宇宙は一体であるためです。自己と一体である宇宙に対し自己を強制する必要がありましょうか。
そのため彼の表情は鏡面のように見れば見返し、覗けば覗き返してくるのです。私は彼であり彼は私なのです。円融のさまに彼の悟りが真実であることが直観されます。
意志は他者との衝突を避けえません。〈宇宙〉の一部である〈他者〉へと相互に意志を強制適用しようとするために人寰には争いが絶えぬのです。互いに意志を突き合わせながら他者との融和をなしうるはずもありません。
無著のごとく悟りをも否むるべきことを悟った人間は意志を必要としません。自らと宇宙の一体性を味得したときに真に実存的な意思が発源します。彼の宗教的高潔はかようなる精神から生まれたために清明であるのです。
無著と世親の差は背面にまで及んでいます。
腕(かいな)の動作のために世親は撫で肩になっているにもかかわらず、その背姿には力みがあります。宇宙を前に立つ世親には気負うものが必要なのでしょう。総身に力を充溢させねば自己をその場に立たせておくことも難しいのです。
無著はただそこに立っているだけです。ことさらに主張すべき自己など存在せぬことを知っているためです。彼は自己と宇宙の一なることを知っているのです。差別相と無差別相の無限的往還のただなかで生きているのです。
両者の差はその全身に現われています。どの角度から見てもその感覚が裏切られることはありません。
完璧です。これほど完璧に人間存在を彫りつくした像が存在することに信じられぬとの思いがあります。
さらに弥勒如来坐像をまじえた三尊として全体を把捉したとき、その表現は最高度に達することになります。

弥勒如来坐像(鎌倉時代)
弥勒は無著のさらに先の姿なのです。無著は悟っておりますが、いまだ現世の中で——つまりは輪廻の中で——生きる人です。そこに現実的人間との接点が残っており、彼が身に纏う宗教的超越性が具体的なものとして感じられる理由もまたそこにあります。
弥勒は無著・世親という現実的人間とは異なります。すでに輪廻を脱した存在なのです。それゆえ弥勒菩薩ではなくすでに成仏を果たした弥勒如来としてそこに坐しているのです。これを菩薩ではなく二者と異なる如来と銘するのにはそうするだけの意図があるのです。
私が運慶の仏像で好まぬところはその非人間的性格にあるのですが、このごとく三者を並べ見たとき、非人間的であらねばならぬ必然性が充分に理解できます。
超在性(ここを超えてあること)とは現在性(ここにあること)を前提として成立するものです。それを示すのが無著の姿であります。輪廻からの解脱とは現在性が消失するということです。人間的形姿を有したままで超在的存在へと移行したのがすなわち弥勒如来なのです。
世親から無著、さらには無著から弥勒へと悟りの発展段階を示すものが北円堂の三尊像なのです。
(運慶の仏教思想理解がいかなるものだったのかは疑問にも感じ興味もおぼえるところでありますが、ここでそれを考えるのも無粋なのでそれはのちの課題とします)
三者の彫像の完璧さについては技術を云々することすら憚られる思いがあります。「超在性」「現在性」などと書きはしましたが、それを明確なものとして感じられるのも三者が完全な存在者としてそこに存在しているためです。「三体」ではなく「三者」と書くのもそのためです。
東大寺ミュージアムの三体と比較したときその思いはいっそう強まります。前回述べた三体は存在者として不完全なのです。精神と肉体が一致しておらぬのです。
存在の完全性とは無限的存在であることを意味します。美が無限性から生まれるものなればこそ三尊の美もまた真実であるのです。
西洋彫刻に日本の仏像彫刻を超えるほどの作があろうとはとても思われません。権力を誇示するために制作された彫刻にギリシア的な造形美以上を求めることなど不可能でしょう。
ただしミケランジェロだけがまったく未知数なのでそれはまた後年の機会としたいと思います。彼の作品は実物を見ねば判断できません。
(2011/11/04)
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