2015年10月06日
「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」(2)
大井戸茶碗 銘 蓬莱(朝鮮時代、16世紀)
古井戸茶碗 銘 面影(朝鮮時代、16世紀)
井戸茶碗のこの姿こそが日本文化において規定される美の全き顕現なのである。この美とは佗(わび)という言葉で言詮されるべきものであるのかもしれぬ。二口が並べられたときのその美しさには言葉も出ない。この美しさは、――もとよりこれを美しいと感ずる感性とは、これはまったく日本文化の内部にしか見出すことのできぬものであろう。曜変天目茶碗のごとき普遍的な美をここに見ることはできない。これらの産地である朝鮮半島においてはただの日常の用具であったにすぎぬそれに美を見ることについて現代の朝鮮からは揶揄する意見も出るようである。だがその嘲弄こそは彼我の文化的価値観というものの決定的な相違を示す声であろうと私は思う。井戸茶碗に美を見るというそのきわめて日本的文化的な態度に闡明されているように、茶碗をその中心に欠くことのできぬ茶道という文化もまたまぎれもなく日本に特有のものなのである。日本人のひとりである私はここに顕われる美というものに抗うことのできぬ魅力を感じてしまう。これが実に美しいものであることを私は――それに出会うよりもはるかに以前から――知っていたのである。ここに名状し難い美を感取するところに私が日本人であるというその事実が現われていることを自覚するのである。これは世界中で賛意を得られるような普遍的な美ではない。それは日本人の間にあってのみ真価を認められる文化的特殊的な美の顕現なのである。
日本特有の美意識とは、それはすなわち自然であるということの中に美を見出すところにある。自然――自然という語やそこに含まれるニュアンスが日本語だけではなく多くの言語において頗る多義的であるために、自然という語を用いた時点で必然的に曖昧さと同居することになってしまうのであるが――から感取される美しさとは、それはそれ以外に美の根拠があるのではなく、それそのものに美の根拠があるところから生まれるものである。路傍に咲く名も知らぬ花を美しく感ずるのはその花が健気に生きているように思われるためではない。それがただそれであるためにそれは美しいのである。夏の翠黛が冬を追って次第に紅彩を深めるさまに美を感ずるのも、それがただそれであるためなのであって、それである以外の何かがそこにあるためなのではない。自然であるとはそれがただそれだけでそれであるということなのである。それがただそれであるために自然の美とはかくも美しくあるのである。日本人が自然の美を愛好するのは日本の風光が豊潤な色彩をそなえていることとも無関係ではなかろう。日本人が歴史的に自然美の感得ということをどれほど意識的自覚的に捉えてきたのかは管見では判断が下せぬものの、しかしながら日本人にとっての美とは、それは人間による作為の結果として生み出されるものではなく、人間の作為というものに先立っていつもそこに在りつづけてきたものだったのではないか、と私は思うのである。人間という存在を中心に据えるところからすべての思惟を出発させるギリシア的意識に規定された西洋美術との決定的相違はそこより発するのであろう。日本人にとっての美のイデアとは人間が至高であることを目指す中において現成するのではない。イデアはこの世界の背後に、形而上の世界にあるのではない。それは形而下のこの世界の中に、人々を囲繞する自然世界の中に常に現在してあるものだったのである。
人為的に制作された作品に対して日本人が美を感じるとき、それは多く自然であるということのうちにその根拠を求めているのではないかと私は思う。自然であることの美しさとは何か。――井戸茶碗はそのひとつの回答として認めてよいものである。自然であることとは完全であるということと相対するものである。さらに言うならば不完全であるということにも相対するものである。完全でもなければ不完全でもないままにそこにあるものである。完全や不完全といったものは人為の所産においてのみその存在が許されるのである。人為とは欠落から始まる。西洋美術が完全であることを目指すのは人為というものが不完全でしかありえぬためなのである。人為の容喙されぬ自然であることとは、それは遍く満たされてあるということである。それが十全に満たされてあるのは、それがただそれだけでそれであるためなのである。それだけでそのすべてがそれであるためなのである。自然はそれがそれであるということ以外には根拠を必要としない。自然とはただそれだけでまったく自存してあるものなのである。満たされてあるものなのである。外部的なものによって支持されなければ自らを支えることもできぬ人為との異同とはまさにその点において見出されるのである。自然の美には理由などない。理由などないためにそれはまったく満たされて美しいのである。
井戸茶碗における自然であることの美しさの実現とは、それはすなわち欠けながらにして満たされているところにあるのである。欠けていることと満ちていることとは同時にそこにあるのである。欠けるということは満ちるということである。満ちるということは欠けるということである。ただ欠けているだけでもいけない。ただ満ちているだけでもいけない。欠けながらにして満ち、満ちながらにして欠けたものでなくてはならぬのである。そこに顕われる自然美とはただ完全であることでしか美しくあることのできぬ人造の美とは違う。欠けていてよいのである。否、欠けているからよいのである。そして欠けながらにしてそのすべてで充足されてあるのである。日本人は井戸茶碗の中に自然であるということの美の顕われていることを発見したのである。ここには人為はない。まったくただそれだけでそれがそれであるのである。人間的な美意識よりすればその造型の歪みや罅に美を感ずることは難しいはずである。しかしこれがその不均斉のために美しいのは、それが人為の所産ではなく自然のままであるためなのである。それがそれそのものであるために井戸茶碗はこれほどに満たされて美しいのである。
自然の美とは月の盈虧に象徴的に顕われているように思う。月が人間にその美を感じさせるのはそれが同時的に盈月でありながら虧月でもあるためなのである。あれが満月のままで空にのぼりつづけていたとすれば人間に今ほどの美しさを感じさせることはなかったに違いない。月とは同時的に無限を孕むのである。眼に見えるそれは一つの相ではあるが同時にすべてを含んだものなのである。揺らぎながらも牢固としてそこにあるものなのである。完全なものでもなければ不完全なものでもないために――あるいは完全でありながら不完全でもあるために――それは人間の手によっては届かぬものなのである。それは月に対してだけ敷衍されるべきことではない。自然とは遍くそうあるものなのである。自然であることとは須くそうあるべきものなのである。
かようなる自然であることの美しさの発見とその追求とは、これは西洋美術のうちにはまったく見出すことのできぬものである(*3)。西洋における美とはただに完全であることだけを志向するものである。美とはそういうものであり、またその自己規定の内部においてのみ美とはその美であるということが保たれてきたのである。古代ギリシア的価値観に則ることを是としたルネサンス以降の西洋美術はまったくその規範の内部においてのみその美意識を成立させてきた。西洋美術とは本質的にイデア志向的なのである。そしてイデア志向的でしかいられぬのである。表面的にはどれほど個人的あるいは不完全的なものの表現が試みられておろうとも、それは完全であるということを追い求めた西洋美術の伝統と対置されることによってその存在根拠を獲得するものでしかない(*4)。伝統があるためにそれへのアンチテーゼが成立するのである。伝統がなかったならば西洋美術のあらゆる表現はその足場を失うしかない。反アカデミズムとして自己を規定してきた――今ではその自覚がどれほど持たれているかは定かではないが――現代芸術においては人為的であるその傾向はますます強まるばかりである。伝統からの離反を掲げながらもそこに自然であることや作為を超えてあることへの視線を認めることはできない。彼らの表現はどこまでも西洋美術の伝統という頚木に囚われたままなのである。不完全であるままにそこに美の範型のあることを発見したということは、これはまったく日本文化に独自的な審美の意識なのだろうと私は思う。
その事情は一九世紀後半の印象派の登場以降においても変わることはない。バルビゾン派も自然をモチーフとした集団であるが、自然の持つ美しさを日本人的な感覚で見つめようとしていたわけではない。そこにはロマン主義からの系譜としての現実直視的な感覚が強く漂う。また彼らが自然をモチーフにしたというのは、それはアカデミーにおいて風景画が価値を認められていなかったという事情とも無関係ではあるまい。言うまでもなくそれは一八世紀末のフランス革命における思想的転換――非合理的な権力の否定と「個人」の勃興――というものを背景として考えなくてはならぬことである。一九世紀末に向かうにつれて昂じた世紀末芸術において感得されるものもまた個人の思想による変形を受けてはいるが美への意識が保たれているという点においてはそれまでの西洋美術の潮流を逸脱したものではない。もとより西洋美術において用いられる美という表現が日本語における用法と等しいものではない。語感としては似たものであるには違いないが、しかし古代ギリシアにおいて真理とは真善であり、すなわち美でもあると看做されていたように、本来的に美とは本質的理想志向的な意味を内に含む言葉でありつづけてきたのである。オディロン・ルドンのように美というものの発現が醜へと反転することはあっても、それが彼の目指す理想の具現であったのならば、感性的にはどれほど醜いものと感じられたとしてもそれは美として認められるべきものなのである。美というものがただ美しいものだけを意味するのだと考えていては醜を美とする認識には繋がらない。これもまた日本文化においては認めることのできぬ西洋独自の美のひとつの形態なのであろう。
自然的なモチーフを多用した画家としてはアルフォンス・ミュシャが挙げられようが、彼の代名詞とされるアール・ヌーヴォーとは自然的な曲線から構成されたものでありながらもそこに統一的な調和を求める点においてまったく西洋的人為的なものである。自然世界のうちに統一的調和的なものが存在せぬというわけではない。しかし自然における調和とはもっと全一的なものである。雑多でありながら雑多であるままに統一されてあるものである。人間によって選ばれた調和とはどこまでも一部的なものであり一意的であることを免れることはできない。ミュシャはモチーフとしての自然を用いはしたが、しかしそれは自然そのものを表現するようなものでもなければそのような表現を試みた痕跡も作品からは見当たらない。彼に独自的な自然的モチーフの発想の原点にはスラブ民族衣装があったのではないかと想像され、それは西洋美術の伝統とは異なる文化的伝統から創意を汲み出してきたということを意味するのであるが、しかし自然というものへの距離感にこそ伝統的な西洋美術からの飛躍を感じさせるものの、油彩においてミュシャ自身の選び取った画題がアカデミー的価値観に則るものであったことにも裏づけられているように、それは自然であるということのうちに美を発見した日本人の態度とは本質的に異なるものでしかありえぬのだろうと思う。
ここではわずかに西洋美術における美意識との対比を試みたにすぎぬが、井戸茶碗に見られるごとき自然美の発見とは、これはまさしく日本文化に固有の文化的現象として認められるべきものであろうと私は思うのである。
御所丸黒刷毛茶碗 銘 夕陽(朝鮮時代、17世紀、重要文化財)
日本人の発注を受けて朝鮮で焼かれた茶碗である。日本人の好みに合うように焼かれたということである。ここに人為的なものが容喙されておらぬところに自然の美を求めた日本人的美意識が明白裡に現われている。自然の中には直線は存在せぬと言われるが、ここに表現される造型の不均斉とは自然であることを目したその結果である。しかしながらこれを井戸茶碗と同じものであると看做すことはできぬ。それはこれが欠けさせようとしながらも欠けさせられておらぬためである。欠けておらぬということはすなわち満たされてもいないということである。それは物理的な貫手――碗に走る罅裂のこと――の有無などといった視覚的な話ではない。視覚的要素ももちろん重要である。だがそこに求められるべき本質的要素とはただに眼に見えるものだけに限られない。これが満たされておらぬと私が言うのは、それはここに欠けさせようとする人間の意図が仄見えてしまうためである。すなわちそれが人為の所産であることを感じさせてしまうためである。おのずから欠けたものであるときにはじめてそれは欠けながらにして満たされたものとなるのである。私は先に自然美の根拠ということを述べた。自然美の根拠とはそれがただそれであるということにあるのである。制作者の意図が見えてしまうということは、それは美の根拠がそれそのものにあるのではなく制作者の手によって握られてしまっていることを意味する。人間による掣肘を受けたものを自然であると言うことはできない。もとよりそこから自然の美が露顕するということもまたありえぬことである。
これは自然美の発現という点においては見るべきところがない――それは多少とも実現できているなどということはありえぬことであって、零か百かといったたぐいの話なのである――ものの、しかし茶道具というものの価値を正しく見るためには茶室という空間性も考慮に入れるべきなのだろうと思う。仏像が本来的には堂宇において面されるべきであるように、茶道具もまたこのような美術館といった空間において銘々別箇のものとして取り扱われるべきではなく、多様な道具がその所在を占める茶室という空間内において正しく配置されることによって新たな価値が創造されるのではないかと思うのである。この茶碗のように、個別に検めたときにはさして卓れたものだとは感じられぬこともあるであろう。だが茶室という統一的な空間内にそれが置かれ、またそれを生かしてゆくようにおのおのの道具が配されたときには、個別に眺めていたときとはまったく異なる新たな価値がそこに顕われる、――少なくとも、顕われうるということが言えるのではないか、と私は思うのである。茶道が総合的な文化だと言われる所以もそこにあるに違いない。
(つづく)
[註]
*3 ただし中世以前の西洋美術に関して言えばルネサンス以降とは異なる価値観が各地域に混在していたために十把一絡げに語ることは難しいのではないかと思う。時期はルネサンス初期に該当するが、たとえば《一角獣と貴婦人》に見られる自然世界に対する感性とは、それ以降の西洋世界ではなく、むしろ日本におけるそれとの近似性すらも看取される。しかしながら中世以前の西洋美術は現地の教会を見て回らぬことには把握が困難であることから、ここでは日本でも多く見る機会のあるルネサンス以降の西洋美術、就中その絵画を対象として所述を進めたいと思う。
*4 したがって西洋美術の伝統の埒外にある日本人画家が現代芸術的な作品を制作することそれ自体が大きな過誤を犯したものだとしか私には思われない。美術とは異なるが、それは東洋思想や仏教思想への理解も持たぬままに西洋哲学を研究する日本人研究者に対しても言われるべきことである。日本人である自らがなぜそれをするのか、という自問を抜いてしまっては、その人間のあらゆる活動は存在根拠を喪失したものでしかありえまい。