2006年12月22日
また
ひとつ歳をとりました。浮き立つ気持ちも沈むような気持ちもとくにはないけれど。
若かりし時よりも、今のほうが少しはましなんじゃないかなと思えるところがなくはないので、致命的な歳のとり方はかろうじて避けられているんじゃないかなあ…と希望混じりに思ったりもしつつ。
歳をとることは月日が流れることです。淡々とした事実です。毎日毎日自分や回りもののといっぱい会話をして(本当にしゃべるんじゃなくて、息を交わすというか…)、その中で、ここは流れてしまってはまずいぞ、とか、ちょっと今のはいやらしかったんじゃないか、とか、やっぱりこのラインはゆずってはいけないな、とか、そういうことが、あたたかいスープが自分のおなかの中にじんわりとしみこんで行ってくれるように、少しでも感じられる何かがあるな、と感じられることがあれば、月日がたってしまうことは、まったくさみしいだけのものではないのではないかもしれないな、と最近は思ったしります。
あんまり自分の頭を信用しなくなったり、反対に、自分の体のバランス感覚(なんていうか、浸透圧?とか恒常性みたいな感じ)をもうちょっと信用しよう、と思えるようになったことと、自分の胸が痛かったり、やっぱり大切にしたい、とか思うことは、結局は自分で引き受けていくしか、やりようがないよな、と思えるようになったこと、そしてそれはきっといろんなひとを、にもつを持たないで好きになれることにつながるんじゃないかなと、そんな気がするようになってきたことは、人生の月日の流れの中での、自分にとってのよいことかなあ…と思う。
ちょっとゆずれないものを持ちつつ、人生は、ケ・セラ・セラですね。
そうそう、今日、職場で、担当している子どもさんがわたしの誕生日を覚えていてくれて、手紙を書いて朝プレゼントしてくれました。とってもうれしかった。でも、それよりも、なんていうか、その子どもさんが手紙を書いてくれていたときのことを話してくれていたお母さんのすべてをぜったい忘れちゃいけない、覚えておかなきゃ、とものすごく思った。生きている人の現実の力は、美しくて、とても力があって、でもそっとしていて、それはぜったいにテレビや活字やあたまだけではわかりえないものです。それを忘れてしまわないようにも(わたしはすぐに忘れてしまうおばかだから)、ずっとほんとうに大切にとっておこうと思います。
2006年12月13日
脱皮
人にも脱皮ってあるのかな。
よく言う、自分の殻をやぶる!とか、大役を成し遂げたことで一皮むけた、とか、そういうことばから漂ってくるものとは少し違う、脱皮。
虫のさなぎの中身が育ってきて、その時期がきたら自然に体が外に出てしまうような。そこに、意図はない。たぶん。あるとしても、意図以上の、たくましいなにかの力が大きく働いているのではないかと思う。
「こうだからこうしたほうがいいんだ」とか、いろいろおなかの中の動きを正当化できるような理由をあたまでいっぱい考えてみたりもするけど、どれも決定的な感じに欠けている気がする。
おなかの中のことはあたまではなにからなにまで、というようにはわからないのだ。たぶん。
まだその時期が来ていないのにさなぎの殻からひっぱりだしてしまったり、殻を固めてしまって外に出られないようにしてしまったり、外に出て行く時期を遅めてしまったりしないように、あたまとおなかが仲良くなれたらいいなと思う。
2006年11月27日
のろウイルス
らしいです。
三重県では注意報もでているらしいです。
うちでは全員かかってしまいました。
みなさんきをつけてね。
何にもほとんど食べないでずっと寝ていると、時間のながれとからだがあわさるような感じがして不思議だ。
少し食べられるようになってきて頭を使い始めると、また時間にスイッチが入って、ぱたぱたとすすみはじめるみたいだ。
すこし幸せかもしれない時間がもうすぎてしまって遠く離れてしまって、少しさみしい気がした。
2006年11月18日
まこっちゃんの
お店で、毎年恒例の忘シーズン会でした。
まこっちゃんのお店はオレンジ色に明るくて、お店の中も暖かくて、みんなのいえみたいだ。
2006年11月16日
テレパシー
のようなもの、ってあるのかな。
テレパシーというよりも、何かのながれ、というような。
今の仕事をしていると、理屈だけが単独で力を持つことはまったくないのだ、むしろ何か繊細なものが踏み潰されるだけなのだ、と、毎日のように身にしみて、即断することには、かなり慎重になる。
ただその時をできるだけていねいに呼吸できるように気をつけて(これがほんとうにかなり難しい。できないことのほうがとても多い)、自分の中にしみこませて、そのあとでゆっくりと、じんわりと感じられるものをつかもうと、がんばんなきゃ、とおもう。すごくむつかしいけれど。
でもそれがほんとうにたいせつなんじゃないかな、と日に日に思う。とても心細いけど。仕事だけではなくて、日々の生活の中で。いつか死んでしまう小さな人生の中で。
あっ…、何だか話がそれてしまった。
テレパシーだ。
えーと、職場でいま体調を崩してながく休んでいるひとがいて、そのひとが、病気休暇中に休みの手続きか何かで職場にやってきたことがあったのだけど、その前日に、彼女が元気に職場に戻ってきている夢を見て、次の日彼女が職場にいたので少しおどろいた。そのときはただの偶然がよく起こったものだ、と思ったのだけど、また起こった。今日。
昨晩夢のなかに彼女がでてきた。彼女が夢に出てきたのは前回を含めて二回目。それ以外はまったくない。朝起きて仕事に向い始めたらその夢のことはまったく忘れていた。子どもさんが帰り、掃除が終わり、ちょっとがさがさしているときに事務所がちょっとにぎやかだなあと思ったら、彼女がいた。今回も手続きかなんかのことだったと思う。
今回もただの偶然で、ただそれだけのことなのかもしれないけれど、シャープで、鋭くて、責任感も強く、でも、とても繊細な彼女の、「明日職場に行かなきゃ」というような思いのような何かが、流れて、わたしの何かと触れたのではないかと、思った、何となく。
わたしと彼女はとくに仲がいいという関係でもないのです。むしろ、どうやって接したらいいかよくわからないと、おたがい思っていると思う。
何だか何を書いているのか、いつものごとく良くわからなくなってきたのですが、自分の中では何となくつながることもあったりして、…なんというか、胸騒ぎだとか、何だか落ち着かない、だとか、そういう、自分の中の動物みたいなものをもっと信じて、大切にして(そしてそれはほかの人のものも)、みがこう、と思ったのでありました。
2006年10月26日
通う血
日曜、名古屋に行ってきた。高校からの部活の友だちの結婚のお祝いに、みんなでごはんを食べ。
みんな変わっていないことにおどろく。そぼくであったかいものが、おだやかな息づかいで残っていることに。そのなかにある、まっとうなちからに。ただ、おどろいてしまった。
その、血の通ったあたたかなちからに無自覚で、こころをまっとうにつかうことをせずに過ごしてきたおばかなわたしにでさえ、そのあたたかなちからはからだのなかにやさしくしみこんで、そのあたたかくてやさしい手で、わたしの頭や肩に、押し入ることもせず、ふれてくれていたのだということに気がつき、その力の、大きくて、ふところの広くて深いことに、おどろいてしまった。いまごろ。
バドミントン部のみんなに会わせてくれたかみさま、ありがとうございます。と思った。
そして、みんなに、もっともっとありがとう、とからだのなかの私の血が思っていた。のぼせてはいない場所で。
怪しい文になってしまったけど、そうとしか書きようがないのです。
2006年10月17日
カレンダー
気がつけば10月も半ばを過ぎ、今年ももうすこしでおわりなんだ。
と、さいきんふと身に感じました。何回か。なぜだかわからないけど。
そう感じたとき、なぜだか背中の後ろのほうで、何となくさみしさも感じたのだけどどうしてだかわからないまま日々が過ぎておりました。
でもそのわけが今日わかったのです。
カレンダー。たまちゃんにもらった。
たまちゃんがくれたそのカレンダーはほんわりと温かみがあってやさしい力を放ってくれてます。なのに、いままであんまり目を向けていなかったのです。気がつけば。いや、でもぼんやりと、多分意図的に。
とても大事なものであるのに、目を向けられなくて、そのことのさみしさに今になって気づいたのだと思います。自分の肩越しにしか目を向けられていないような。
とてもたいせつなもの、大切なものと繋がるものであるからこそ、向き合いかたがわからなかったのかもしれません。祈りのような気持ちはあってもすがってはいけないから。すがってしまったり馴れ合いを求めるような気持ちがついてしまっては、大切なものはぐにゃりとなってしまって、ぐにゃりとなったままでからだについてしまって、ついてしまったらそれが付いていることに気づくのにも、それをそっと離していくのにも、ぐにゃりとなったものをていねいに戻していくのにも、とても労力がいるし、回復さえもできない可能性もおおいにあるから。
直視しすぎてしまうと、すがる気持ちがたくさんでていって、大切なものを壊してしまいそうな気がしたからかもしれません。
でも目を向けられないことのさみしさにぼんやりと気がついて、ふっと肩のちからとむねのつかえのようなものが取れたような気がします。たまちゃんにもらったカレンダーを、前と比べてすうっとした気持ちで見られそうです。
よかった。こんな時期になってしまったけれど。
2006年10月12日
虎姫
のレースに行って来ました。日曜日。おそろしいくらい久しぶりの自転車です。
今年で三回目かな?そのなかでもいちばんへたれているのですが、たのしかったなあと思えるのは、自転車と自分との今の関係がちょうどいい具合なのかもしれないな、とぼんやりと思ったのでした。
会ってうれしいなと思える人に会えるのはうれしいことです。
人に会うということは、その人のまわりの目に見えない空気を、意図せず知ることなのだな、と思ったりもしたのでした。
そんな空気にたくさん触れまして、ほんのちいさなたからものがからだの中にしみこんでゆくのだなと思いました。たいせつにそっとしまっておこうと思います。
でもはじめて知ったすてきなものを、ひとつだけ。書いておこう。自転車と人との。
オカッピーさんのデモ。最後に地面の上に何人か人が寝転んで、その上を飛ぶというもの。8人くらいの人の上を飛び越えることができるのはすごいことです。
でもその飛び越えられたことのほかに、飛んでいる中にあったのです。
飛んでいるオカッピーさんと自転車と、寝転んでいる人との間にぽっかりと空間が。一瞬で消えてしまう空間です。でもぽっかりとした空間は確かにあって、胸の中に残っているので自分でも不思議だなと思います。でももう出会うことはできない。だって知ってしまったから。
それでも、じぶんの知らない、であったことのないすてきなものにであえると、不意打ちを食らって、ひとつこころのかたまりがゆるくなってやわらかくなるような気がします。
何かに急いでしまって見落とさないでいられますように、そういうものを。と思うのでありました。
2006年09月27日
ケンちゃん
に会いに行ってきました。日曜日。もうひとりの大好きな。
谷川賢作さん。
と、谷川俊太郎さん。に会いに、メリーゴーランドへ。
年に一度の大切な日。綿のブラウスを着て、スカートをはいて、やわらかい革のくつをはいて。
田んぼと畑の脇を通って、駅まで歩いて、北勢線に乗って。近鉄電車に乗って。
お出かけです。
電車の座席に座るときにスカートが少しだけふわっとなるのが気持ちいい。黄色くなり始めた田んぼの横を通るのがきもちいい。錆のついて茶色くなった枕木やホームを見るとほっとする。やさしいのだ、なんか。
どうして賢作さんに会うとただむねがきゅっとなって、でもあたたかくなってきて、余分のものがぼろぼろおちていく感じがするのか、4年目にしてなんとなくわかってきたような気がした。
賢作さんの中には、けんちゃんや、けんさく君もちゃんと生きているから、それがとても伝わってくるから、演奏やおしゃべりの合間に(いやずっとかな…?)も生き生きと顔を出してくれるからかなあ…と。
まあ、なぜ人に魅かれるのかなぞ、どれだけがんばって自分の心を見つめてみてもわかりませぬが…。過去のことであっても。
でもよろこびのような気持ちが胸にいっぱいになって、でもそれと同時に、やみくもにすがってはいけないのだと思えるように、年を追うごとになってきているような気がするので、きっとほんとうに魅かれる部分があるのでしょう。いっときの熱ではなく。
俊太郎さんもすてきでした。目を閉じるとお年をめしていることがわからないくらい。詩を詠まれる声も。これからも俊太郎さんの詩の一言に、一編の詩にはっとさせられ続けるのでしょう。きっと。
帰りは近鉄電車を桑名の一駅前で降りて(何となく降りたくなった)、最寄の北勢線の駅までぽつぽつ歩いていきました。夜道を歩くのはちょっぴり楽しくて、気持ちよくて、スカートも夜のかぜにふわりと揺れて、ちいさなちいさな魔法にたくさん出会ます。
夜の電車のホームにはだれもいなくて、しんとしていた。古い蛍光灯の光がきれいだった。
2006年09月24日
けんちゃん
が、きた。昨日。いとこのけんちゃん。同い年の。姫路から。15年近く会っていなかったと思う。
おなかの大きくなってきたかわいい女の子を連れて。
播磨のばーちゃんに会いにきて、その足でうちにも寄ってくれたのだ。
照れ屋で気がやさしくて絵を描くのが好きだったけんちゃん。人のことをちゃんと思ってあげられて、裏がなくて、人にたいして不必要な壁や警戒心のすくないけんちゃん。そぼくなけんちゃん。みてくれはどーみてもチンピラだけど。
いつあったのかほんとうに思い出せないくらい久しぶりだったのに、おちびのころ毎年のように正月に会って一緒に過ごしていた大好きだったけんちゃんに会えた。けんちゃん、変わってなかった。うれしい。ありがとうって思う。
見返りをふくまない、もとめない、「だいすきだよ」のきもちが目から出て行った。けんちゃんはどう感じたかわからんけど。けんちゃんの目はにごっていなくてやさしくてとってもきれいだった。
ちびのころ表面にあらわれる「すき」、のもっと奥のほうで感じていた、けんちゃんの持っているきれいなものにあえたから?
別れぎわ、「けんちゃんおめでとう」、と言えた。うそのない意図のない心持ちでその言葉が口から出てくれた。頭よりも先に。よかった、と思う。
また賭けねない心持ちでけんちゃんに会えますように、と思う。
その日にであえるために、もっとしっかりと、きちんと息が吸えている自分になれているように、と思う。
…なんか眠くて文がまとまらない…。
ただ、けんちゃんの幸せを思う。のさ。