ホワイトハウス――前衛芸術家が入り浸り
 
2009/5/12付 日本経済新聞 朝刊


建築の革新図るが認められず


 東京・新宿百人町の住宅街に「新宿ホワイトハウス」という前衛アーティストが集う拠点があった。正確にいうと芸術家、吉村益信の住居兼アトリエで、私が設計したことになっている。茶色い木造住宅が並ぶ一画で外観は白いモルタル塗り。アーティストが発する騒音とともにひときわ人目を引く存在だった。


 吉村は大分時代の高校の友人である。父親の遺産で小さな土地を買うことになり、住まいを建てたいと頼んできた。予算は六十万円。五・五メートル四方のキューブ型の吹き抜けのアトリエを作り、その脇に二階建ての小さな住居をくっつける。そんな内容をスケッチして渡すと、彼は大工に相談しながら自力で建ててしまった。

 私の経歴では大分県医師会館がデビュー作となっている。ところが一九五七年に出来上がったホワイトハウスがいわば第一作であることを、私は赤瀬川原平が書いた本で知らされた。長い間そのことをすっかり忘れていたのだ。ここを活動拠点としていた前衛芸術集団「ネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザー)」のメンバーだった原平に指摘され、ああそうだったと思い出した次第。ほとんど足を運んだことがなかったのかといえば、そうではない。六二年に吉村がこの家を売り払って渡米するまで、毎夜のごとく入り浸っていた。

 六〇年、吉村、赤瀬川のほか荒川修作、篠原有司男、風倉匠といった若いアーティストがネオ・ダダを結成した。赤瀬川、風倉も同郷の大分出身である。そのせいもあって、私は彼らの前衛芸術活動を間近で目撃するようになった。硫酸を浴びせた金属板をナタで打ち破る、ビラや電球を全身に巻き付けて町を練り歩く――。「反芸術」を掲げて展覧会場に廃物のオブジェを持ち込み、街頭で過激なパフォーマンスを繰り広げていた。

 ホワイトハウスにはこうした芸術家や瀧口修造、東野芳明といった美術評論家、さらに舞踏、写真、映画、音楽などにかかわる連中が夜な夜な出入りした。当時の私は東大の丹下研の仕事を終えると永田町の国会議事堂に向かい、安保反対のシュプレヒコールを上げるデモに加わった。行進や集会が夜になって流れ解散すると、本郷菊坂の木賃アパートに戻る明け方まで新宿で時間をつぶす。

 ホワイトハウスのアトリエの床に座りながら、私は夢想した。吉村が近所の酒屋から付けで買った安いウイスキーに酔いながら。これまでの概念をひっくり返すほど過激に、革新的に建築を変えることができないだろうか――。東京をうろつく間に感じ取ったある種の熱気を自分なりの方法で形にしたいという欲望にとらわれていた。
 建築の世界ではこの年、菊竹清訓、槙文彦、丹下研のメンバーだった黒川紀章らがメタボリズムという運動を起こした。「新陳代謝」をキーワードに未来都市を構想し、世界的に知られるようになるグループだ。一度、彼らが企画した展覧会に誘われて「孵化(ふか)過程」と題した作品を出品した。「未来都市と生活」と題した場に、私はあろうことか廃虚のモンタージュを持ち込んだのである。

 展示は当初、拒否された。およそ美的にみえない私の描くイメージは、「建築」の領域では真面目(まじめ)なものとは受けとられなく、たんに異形とみなされていた。




(建築家)