細野晴臣の〈はらいそ晴天日記〉#28 戦後音楽とぼく

2011年11月21日13時01分




 ぼくが生まれたのは1947年、終戦直後の東京である。その頃の記憶は点々としたものだが、印象に強く残っていることがある。寒い季節だったのか、ねんねこ半纏(はんてん)に包まれて母にオンブされていたぼくは、おそらく2歳かそこらだったのだろう。目黒から都電に乗って日比谷で下りたのか、そこを歩く母の背中の上での記憶である。印象としてあるのは広い空と広い町並み。そこに見慣れぬ2人の人間が寄ってきて、聞き慣れない言葉で母にペラペラと話しかけた。そして背中のぼくに、何かお菓子を渡したのである。チョコレートだったのかもしれない。「ギブミー・チョコレート」現象は戦後のこの時期に流行したものだが、あまりにも可愛い(?)母子を見て、声をかけたくなったのだろう。2人はカーキ色の制服を着た米兵だった。


 日比谷は1950年代にも何度か訪れていて、第一生命のビルがGHQ(*1)という占領軍の司令本部となっていて、そこにマッカーサー元帥がいるということは、後日知るところとなる。ビルの入り口にはヘルメットを被り、小銃をかかげたMP(*2)と呼ばれる兵隊が守衛をしていた。そこかしこにジープが走り、やはりMPが乗っていた。そのころの日比谷の映像が、サミュエル・フラー(Samuel Fuller)監督の映画「東京暗黒街・竹の家(House of Bamboo:1955)」に鮮やかなカラー、しかもワイドスクリーンで残っている。この映画はDVDでもリリースされていて、それを見たぼくは、50年代初頭に撮影された東京の映像に驚いてしまった。フランク・ロイド・ライトが設計した日比谷の旧帝国ホテルが映っているかと思えば、あちらこちら銀座のビルの煙突から煙がたなびき、浅草のデパートの屋上には天国のような遊園地があった。思わず「こんな町に住んでみたい!」と叫んでしまったくらい、ぼくは昔の東京の心地よさを思い出していた。


 なぜ、ぼくがたびたび日比谷に連れていかれたのかといえば、そこには映画館が数軒あって(*3)、新作が封切られていたからである。母は映画好きだったのだ。映画館の暗闇では寝ていたのだろう。ぼくはおとなしく、なんとも扱いやすい子供だったらしい。だが、そんなぼくでも、歌と踊りのカラフルなミュージカル映画は寝ていられなかった。奇麗な女性が足を出して踊る画面に、子供ながらも魅入られていたものだ。汽車の蒸気が漂う駅のホームで繰り広げられる歌と踊り。それが何の映画だったのか記憶は定かでないが、後で見たミュージカル映画の数々が頭をよぎり、それらが記憶の層に積み重なって、ひとつひとつの作品を見直さないかぎり特定できそうにない。


 当時、母が好んだ映画はハリウッド製の音楽ものが多かったはずだ。駅で踊るダンサーはミッチ・ゲイナー(Mitzi Gaynor*4)か、あるいはエリナー・パウエル(Eleanor Powell*5)だったのか、そういうダンサーの名前をよく母の口から聞いた覚えがある。戦後、日本に怒濤(どとう)のごとく入り込んできたアメリカの音楽と映画は、文化的飢餓状態にあった日本人の間に瞬時に浸透し、アメリカナイズという大変化が起こった時期である。ぼくの家には、その頃のSPレコードが何枚かあり、そこに乙女だった母のコレクションも入っていた。なかでも、戦前のハリウッド映画で日本の若い女性にも人気だったディアナ・ダービン(Deanna Durbin*6)のレコードが、ぼくはとても好きだった。それは1937年の映画「オーケストラの少女(One Hundred Men and a Girl)」の主題歌で、主演の若い女優ディアナが歌う「イッツ・レイニング・サンビームス(It’s Raining Sunbeams)」という曲だ。この映画は、戦争前夜のまだ平和だった時代に東京の日劇で封切られ、押しかけた乙女たちが劇場を一周して並んだという。母も、この列の中にいたのである。


 ここで、50年代に家族で見に行った映画を羅列してみよう。まずは何といっても、ディズニーのアニメだ。「白雪姫」「ダンボ」「シンデレラ」はもとより、ミッキー・マウス、ドナルド・ダックの短編アニメーションの数々。音楽が素晴らしかったのはビング・クロスビー(Bing Crosby*7)とダニー・ケイ(Danny Kaye*8)、そしてローズマリー・クルーニー(Rosemary Clooney*9)が出演した映画、「ホワイト・クリスマス(White Christmas:1954)」である。その中でクルーニーが歌った「シスターズ(Sisters)」という曲は、姉とぼくの音楽的な好奇心を揺さぶり、家に帰ってからも2人して旋律を思い出そうとしたものだ。成長するにつれ、その歌がアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)の曲だと知り、それ以降、彼を深く尊敬することになった。しかし、バーリンは戦時中の対日感情から日本嫌いになり、日本人に「ホワイト・クリスマス」の録音を禁じていると知って、ぼくはとても複雑な気持ちになった(*10)。


 こうしてぼくの音楽歴は50年代のハリウッド映画とその音楽から始まったわけだが、敗戦国が占領され、異国の文化に染まっていくことは歴史的必然だとはいえ、自分の中では大きな矛盾を抱えたまま現在に至るのである。その後、“はっぴいえんど”など70年代におこなったバンド活動も、アメリカから伝播(でんぱ)したサイケデリックやヒッピー思想の、いわゆる「意識革命」という新しい波をかぶった結果であった。ロックもフォークもアメリカで始まった音楽なのだ。それゆえぼくたちは、それをいかに吸収し、この「極東」といわれる日本で何をどう表現できるのかという課題を与えられていたのだ。それは、開国以来、特に敗戦以降の日本人が生まれながらに持たされた命題だったとも思うのだが、このような土台の上に蓄積されていった日本のポップスは、ついにどこの国にもない、“奇妙な音楽”へと変貌(へんぼう)していったのである。
 

 20世紀をディケイド(10年紀)ごとに区切り、その時代の色と音楽を確認しようと始めてはみたものの、あっちに飛びこっちに飛んで収拾がつきそうにない。でも、次回も混沌(こんとん)としたまま進めていくつもりなので、お付き合いのほどよろしく!




(筆者注)


 *1 「GHQ」はGeneral Headquartersの略で、「連合国軍総司令部」。敗戦直後から丸の内一帯が連合国軍によって接収され、総司令部本部が皇居と向かい合わせの旧・第一生命館に置かれた。
 

 *2 「MP」はMillitary Policeの略で「軍警察」。軍隊内部の秩序維持や平和時の交通整理を任務とする。


 *3 日比谷映画街の代表的な映画館「日比谷映画劇場」は、1934年に開館した東宝直営の映画館。84年に閉館。「有楽座」は1935年に演劇劇場として開館。同じく東宝の運営で、84年に閉館。隣接する有楽町には日劇があった。正式名称は「日本劇場」。1933年に開館し、81年に閉館。いずれも、半世紀にわたる日本の興行界を代表する施設だった。


 *4 ミッチ・ゲイナー(1931~)は米国シカゴ生まれの女優、ダンサー、歌手。1954年のミュージカル映画「ショウほど素敵な商売はない」で映画デビュー。歌と踊りの才能に恵まれたスターとなる。


 *5 エリナー・パウエル(1912~1982)は米国マサチューセッツ州生まれのタップダンサー、女優。エレノア・パウエルとも表記される。フレッド・アステアでさえ圧倒されたという、タップの女王。


 *6 ディアナ・ダービン(1921~)はカナダ生まれの女優、歌手。1935年、米国MGMと契約し、ジュディー・ガーランドと共演。翌36年にユニバーサル社と契約した「天使の花園」が成功し、続く37年の主演映画「オーケストラの少女」が大ヒットして、日本の映画館でも連日超満員。世界的なスターとなる。


 *7 ビング・クロスビー(1903~77)は米国ワシントン州生まれのアメリカを代表するクルーナー歌手、俳優。世界的大ヒット曲「ホワイト・クリスマス」で知られる「クリスマス・ソングの王様」。映画「珍道中」シリーズでも有名。


 *8 ダニー・ケイ(1913~87)は米国ニューヨーク生まれの俳優、歌手、コメディアン。1941年のブロードウェー公演で成功を収め、その早口芸で人気を得た。その後、日本では映画「ダニー・ケイの~」シリーズが有名に。また、60年に公開された「五つの銅貨」(1959)が大ヒット。TVでは「ダニー・ケイ・ショー」が60年代に数年間放映され、ぼくも「火星歩行」などと銘打って、その可笑(おか)しな歩き方を習得した。クレージー・キャッツの谷啓の芸名の由来や、親日家の一面でも知られた。


 *9 ローズマリー・クルーニー(1928~2002)は米国ケンタッキー州生まれの歌手。1945年、地元のラジオでコンテストに優勝し、歌手デビュー。51年に「Come on-a My House(家においでよ)」が全米1位の大ヒットになる。俳優のジョージ・クルーニーは甥(おい)。


 *10 日本人に「ホワイト・クリスマス」の録音を禁じている――この話は、ぼくの聞きかじりであり、事実は「ホワイト・クリスマス」を“日本語”で歌ってはダメだということだったらしい。作詞・作曲をしたアーヴィング・バーリン(前々回の筆者注を参照)の身内が真珠湾攻撃で亡くなったから、という話も残っているが、現在は緩和されたようである。