光秀と信長

智勇兼備、家臣領民に慕われる名君、築城家、鉄砲名人、文化人、愛妻家。戦国を八面六臂で活躍する光秀の苦悩が野望に変わる時―

『信長公記』巻四-五、叡山御退治の事

所在地:滋賀県大津市坂本本町
比叡山延暦寺第1・第2・第3駐車場(無料)他
根本中堂◆元亀2年(1571)
「九月十二日、叡山に御取懸け。子細は、去年野田・福嶋御取詰め候て既に落城に及ぶの剋、越前の朝倉・浅井備前坂本口へ相働き候。京都へ乱入候ては其曲あるべからず、の由候て、野田・福嶋御引払ひなされ、則、逢坂を越し、越北衆に懸向ひ、つほ笠山へ追上げ、干殺になさるべき御存分、山門の衆徒召出だされ、今度信長公へ対し御忠節仕るに付いては、御分国中にこれある山門領、元のごとく還附せらるべきの旨御金打なされ、其上御朱印を成遣はされ、併、出家の道理にて一途の贔屓なし難きいおいては、見除仕候へと事を分て仰聞けられ、もし此両条違背に付いては、根本中堂・山王二十一社初めとして、悉く焼き払はるべきの趣御定候き。時刻到来の砌に候、山門山下の僧衆、王城の鎮守たりといへども、行躰・行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲弄をも恥ぢず、天道の恐をも顧みず、淫乱、魚鳥服用せしめ、金銀、賄に耽って浅井・朝倉贔負せしめ、恣に相働くの条、世に随ひ時に随ふ習にて、先御遠慮加えられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納れられ候き。其御憤りを散ぜられるべきため、今日、
九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社、僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払ひ、灰燼の地と為社哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにて八王子山へ逃上り、社内へ逃籠、諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人一々に頸をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其外美女・小童其員を知らず召捕り、召列れ御前へ参り、悪僧の儀は是と非に及ばず、是は御扶けなされ候へと声々に申上候といへとも、中々許容なく、一々に頸を打落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合なり。年来の御胸蒙を散ぜられをはんぬ。去て志賀郡明智十兵衛に下され、坂本に在地候なり。


4e61f1ec.JPG◆元亀兵乱殉難者鎮魂塚
写真(左)は比叡山延暦寺東塔にある元亀兵乱殉難者鎮魂塚で、織田信長の所謂「比叡山焼き討ち」犠牲者の冥福を祈念するもの。比叡山を訪れる人々の多くが、かつてこの地を見舞った惨劇を思い、周囲のあまりに平和な風景とのギャップを複雑な思いで眺めるのではないでしょうか。
しかし、実は比叡山焼き討ちは信長に始まったことではなく、永享五年(1433)〜永享七年(1435)には時の将軍・足利義教が比叡山を二度に亘って攻撃し、高僧を斬首した上で屈服させ、さらには根本中堂を灰燼にしています。また、逆に比叡山延暦寺も天文元年(1532)年八月、山科本願寺をなんと「焼き討ち」している加害者でもあるのです。

解説板◆比叡山焼き討ちは延暦寺にも非
『信長公記』で信長が当時の延暦寺の醜態を非難している下りは、女人禁制の寺にいるはずのない女人やその子供の存在からして真実を言い当てているものでしょう。ましてや延暦寺は京の町に繰り出しては強訴・暴虐を尽くし、他寺の焼き討ちを行うなどの殺戮を信長より先に行っていました。ところが、鎮魂塚の解説板によればあくまで比叡山はこれら全ての争い・人間を上から捉え、自らの非には一切触れず、懺悔の言葉一つ記さず、それどころか仇敵だけれども信長も祀ってやったと言わんばかりです。実際、長きに亘って「信長」はこの寺院では禁忌でした。焼き討ちから四百年余を経てなお未だに自らの非を認めず、相手である信長だけが悪者であるかのように主張する姿勢を崩さない延暦寺には心からの落胆を禁じ得ません。そうした意地の張り合いこそがいつの時代も人間の争いの種なのではないでしょうか。

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荒木村重と光秀、叛将の符合点

外様でありながら破格の待遇
荒木村重は摂津三守護の一人・池田勝正の重臣であったが、足利義昭と信長の争いが表面化した際に主家が義昭方となったにも拘らず、信長方に馳せ参じて厚い信頼を得た。元亀四年(1573)三月二十九日、細川藤孝とともに逢坂まで信長を出迎えて忠節を誓ったのである。信長は喜びの余り即座に郷義弘の名刀を授けた(『信長公記』)。「郷義弘」は「郷と化け物は見た者がない」と言われるほど入手困難な名刀であるが、実は光秀も拝領している。山崎合戦後、落城する坂本城から数々の名物を自発的に引き渡した明智秀満も「郷義弘」だけは指摘を受けても差出しを拒絶したという。
また、光秀は新参外様でありながら信長の家臣の中で最初に城持大名となったが、村重も信長に属してすぐに摂津一国を与えられている。

方面軍司令官に任命されず焦燥
しかし、南山城・大和一職の塙直政が本願寺攻めの総大将として討死した後、同格の摂津守護・荒木村重がこれに代わるかと思いきや、佐久間信盛に命じられたことは村重に衝撃を与えた。さらに播磨方面攻略も秀吉が任じられたため、村重は他方面軍の手伝いをする他なくなった。
・天正三年(1575)六月明智光秀が丹波攻略を命じられる。
 ※その後中断。
・天正四年(1576)四月塙直政討死、佐久間信盛が石山本願寺攻略を命じられる。
・天正五年(1577)十月羽柴秀吉が播磨攻略を命じられる。
 ※同月光秀、丹波再攻略。
光秀は天正七年(1579)八月に丹波を平定したが、その後の四国政策転換・四国遠征において蚊帳の外に置かれ、さらに秀吉の手伝出兵を命じられたことは、村重と同じく出世競争に遅れを取ったと光秀の焦燥感を生んだという説がある。村重も光秀も外様であったから、自らの位置には敏感にならざるを得なかった。

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「本能寺の変」光秀の動機黒幕説

◆朝廷黒幕説
◆将軍義昭黒幕説
◆羽柴秀吉黒幕説
◆徳川家康黒幕説
◆イエズス会黒幕説
◆毛利輝元黒幕説
◆長宗我部元親黒幕説
◆千利休黒幕説
◆本願寺黒幕説
◆高野山黒幕説 他無数。

⇒黒幕説に共通するのは、まずその「黒幕」と信長との利害関係ありきで、光秀と黒幕との接触の有無を度外視し、変後に光秀が黒幕から全く支援されていないことを無視しているという点である。
 信長が僅かな供回りとともに入京後本能寺を宿所とし、信忠も妙覚寺にあったという「好機」は、光秀の中国出陣と同じく信長の意思によって直前に決定されたのであって、「本能寺の変」はその時機を逃さず実行されたものであった。従って、黒幕と言われる人々と予め謀議をしている間はなく、光秀は用意を周到にはできなかった。これが変後のつまずきの一因でもある。組下の細川藤孝や筒井順慶らにも相談していないことを黒幕といつ実行できるかもわからない状態で共有し続けたというのは大変無理がある。光秀は重臣にすら直前まで決意を明かさず(『信長公記』、『川角太閤記』)、足軽・雑兵は本能寺に至った後も知らなかったほど秘匿されていた(『本城惣右衛門覚書』)という話は黒幕説に比べて無理がなく、大変説得力がある。信長襲殺を成功させる上で最も重要だったのは、いかに信長に察知されないかという一点に他ならず、その上で肝要なのは人に教えず、謀議・密議など行わず、味方をも欺くことである。
 また細川家に伝わる有名な書状を素直に読み取れば光秀の単独行動だったということに疑いはない。切羽詰まっている状況下でも黒幕の存在については一筆も触れていない。

光秀自筆『細川藤孝・忠興宛覚書』

一、御父子もとゆゐお払い候由、尤も余儀なく候、一旦我等も腹立ち候へ共、思案候ほど、かやうにあるべきと存じ候、然りと雖も、この上は大身を出られ候て、ご入魂希ふ所に候事、
一、国の事、内々摂州を存じ当て候て、御のぼりを相待ち候つる、但若の儀思し召し寄り候はば、是れ以て同前に候、指合きと申し付くべき候事、
一、我等不慮の儀存じ立て候事、忠興など取り立て申すべきとての儀に候、更に別条なく候、五十日百日の内には、近国の儀相堅め候間、それ以後は十五郎与一郎殿など引き渡し申し候て、何事も存じ間敷候、委細両人申さるべく候事、
  以上
  六月九日                       光秀(花押)


 また、本能寺の変後に光秀が大量に発した檄文のうち唯一内容がわかるのは美濃野口城主・西尾光教宛のものであるが、これも黒幕の存在には一切触れていない。

『西尾光教宛光秀書状』(『武家事紀』)
信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候、其の表の儀御馳走候て、大垣の城相済ますべく候、委細山田喜兵衛尉申すべく候、恐々謹言。
  六月二日                  惟任日向守光秀(花押)


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明智光秀ピクス
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