秋日和のカロリー軒

映画のおいしい専門店

2005年03月

 日本人から学ぶべきこと

 

 非常に何かを云いにくい映画だと思います。云うべきことがないときは黙っていた方が賢明かとも思いますが、分からないということをそのまま分からないといってみるのもひとつの手、という得意のパターンです。

 

 まず、誰に向けて作られた映画なのかがよく分からない。自分がこの映画の観客としてふさわしかったかどうかもわからないし、じゃあ、他に観客としてふさわしい人間がどこにいるのかということを考えてもよく分からない。

 キャスティングもよく分からない。コニー・ニールセンとクロエ・セヴィニーという女優の共演が引きになるのかもわからないし、この2人のどこに魅力があるのかもさっぱり分かりません。(これが、ほとんど致命的だと思うんですが)

 旅客機の中、ホテル、日本の路地、3ヶ国語が入り乱れる会議、渋谷のクラブ、懐石料理屋、CGアニメーション、拷問映像、女同士の格闘、セックス、どのシーンを取ってもあんまり成功しているとは思えません。

 こういう作品を見せられてしまうと、もうフランス人はどん詰まりだという気がしますねえ。日本映画には絶対に勝てないですよ。少なくとも日本人ならこんなにヘタな映画はつくらない。アメリカ人もフランス人もみんな日本に映画を学びに来たらいいんですよね。世界が日本に教えを請う段階に来ていると思います。

 しかし、それでも、アサイヤスの次回作を観たくないとは思わないですね。次回作に期待します。

 



ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督の『暗黒街』(1928)をビデオで観ました。

ダイヤモンド級の美しさ!!

よくいう、「無人島に10本だけ映画をもっていくとしたら・・・」

ボクは10本ともサイレント映画にしたいなあと思いますよ。

それと、サイレント映画をDVDなどで観る時の鉄則(といっても、ボクが勝手にいってるだけですが)、活弁の音声はオフにすること。澤登さんには申し訳ないけれども、純粋にサイレント映画を堪能するのであればあれは余計です。通は素うどんを食べるのと同じようなものです。

 

谷崎潤一郎の「春琴抄」を読みました。

文体、文体、文体!

文体のスペクタクル!

 

 

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走れ!映画

 

登場人物たちの視線はみなそれることなく真っ直ぐ前に向けられている。それは、走るためである。長い廃校の廊下を主人公光一がクラウチングスタートで駆け出すと同時に映画も走り出す。登場人物たちはみな追う者でありながら逃げる者である。光一しかり、由希しかり、レズカップルしかり、ある意味西島秀俊演じるニルヴァーナの幹部もしかりである。光一は妹を追い、由紀は光一を追う。そして世間なり大人なりそれぞれそれなりの敵から逃げてもいる。

物語が走り出してさっそく、「追うこと」と「逃げること」が当然のことのように併走しはじめる。両者は決して錯綜することなく、あくまでも「併走」するのだ。そしていつの間にやら走ることはその意味を見失い、ただ走ることの為に走っているように思えてくる。

 

“戦略家”塩田明彦はもちろんこのくらいの芸当は易々とやってのけるであろうことは最初から想定はしていた。教団施設で白いシーツが干してある中庭を追いかけっこで駆け抜けるシーンでは、めくるめく映画的記憶がたち浮かぶのをグッとこらえなければまさに思うツボになってしまう。迂闊に涙でも流そうものなら負けである。

映画監督とは抜け抜けと嘘をつく人種である。彼らの発言はまともに信じてはならない。「社会性のあるテーマに正面から取り組んでます」みたいなことをいいつつ、実はこういうことをやろうとしているのである。

 

しかし、この映画の真の感動は走ることの官能性に身をゆだねる中にはない。映画としての凄みが露呈するのは、疾走する時空が不意に停滞する時である。

前半でいえば、レズカップルのところで過ごしたキャンプ場での朝である。真っ白な霧にに包まれたおぼろげな少年のシルエット、この可視と不可視が戯れる危険な瞬間に戦慄を覚えぬ者に果たして映画的感性が備わっているといえるだろうか。

後半で云えば井上雪子の登場である(この老婦人の登場がいかに映画者にとって感動的な「事件」であるかはオフィシャルサイトなりを参照いただければよい)。この老婦人が盲目であるところまでは正しすぎるほどの“戦略”である。しかし、折り紙を折り始めた瞬間、「映画」が「戦略」を凌駕する。中略することなく最初から最後までその手つきをおさめたショットもまた、可視と不可視の要素を孕んでいることは決して偶然ではなかろう。

 

「社会テーマを取り扱った映画」としての体裁を整えつつも、ただ「映画」としかいいようのない瞬間をもつ映画。誰かが「映画はおそろしい」と云ったが、まさにおそろしい映画、、、『カナリア』とはそういう映画である。

そして、主人公を演じた石田法嗣、谷村美月、そして西島秀俊のまなざしもおそろしくもあり、感動的であった。

人はこういう映画と出会ったとき、泣くべきである。

 



 <新宿武蔵野館>にて、塩田明彦監督の『カナリア』を観ました。

2003年に開催された有楽町朝日ホールでのカール・ドライヤー特集で“メロドラマと悲劇”の定義について、ドモリながらも熱く語ってくれた塩田監督を印象深く覚えてます。

映画者は映画をたずさえ地平を切り開く。

本物のアメリカ映画を引き継ぐのはオレたちだという「オレたち」の一人である塩田明彦監督にスタンディングオベーションを送りたい。

ブラボー!

(それにしても井上雪子さんをもってくるとは!!!)

 

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 映画の旨み

 

映画者は常日頃、過酷な試練に耐え続けている。映画を見続けるいう行為の中にいったいどれだけボクらは分の悪い条件を突きつけられていることだろう。時間的条件、空間的条件、肉体的条件、、、映画とはあらゆる自由を拘束されることによってはじめて成立する、単なる娯楽というにはあまりにもこちら側の代価が大きすぎる不平等はなはだしいジャンルであるということを、あらかじめ受け入れなくては見ることは許されない。そして人々はそれにあらがうようにDVDやべイパービューテレビという手段を講じている。しかしそれでも映画者はある所定の時間にある所定の場所におもむき、決して安くはない対価を支払い、体の自由を奪われ視線すら固定された状態で限られた人生の持ち時間のなかから2時間なり3時間なりを無条件に差し出しつづける。ほとんど、Mの世界である。

 

そんな観客たちを見るに見かねたのだろうか、その苦労をねぎらうように、「君たちの苦労はよく分かっているつもりだ。せめてオレたちの作品では楽しい思いをして帰ってもらいたい。時間も1時間半程度に抑えておいた。エンジョイしてくれたらうれしいよ」とばかりに、この『セルラー』という美しいB級精神溢れた作品を提供してくれる人たちがいた。

 

『マトリックス』のセカンドユニット監督を務めたというこの作品の監督は、視覚効果が派手で目まぐるしい程、ボクたちが眠くなってしまうということを『マトリックス』の経験で学習したかのように画面を押さえている。脚本家は思わせぶりなストーリーでムダに観客に考えさせることが、いかに非映画的な脚本であるか知っているようだ。役者たちも演技するという“仕事”に徹している(ウィリアム・H・メイシーが今回は素晴らしい)。要するに「プロフェッショナル」な映画なのである。

 

決して映画以上のことをやろうとしているわけではない、しかし、映画とはこのくらい面白くてもバチはあたらないだろうという聡明さがこの作品にはある。

監督誰だっけ?というくらい、演出家の存在感のない作品であるが、その無記名性のアメリカ映画の旨みを贅沢なまでに堪能することができよう。

 



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