2022年04月29日

●6月4日(土)14:30から、都内・文京区で「日本陽明学」について講演をさせて頂く

◆多すぎたり足りなかったりすることについて学ばなくても私達が自然に分かるのは、良知の働きの御かげ

 武術の達人でも研究者でもない、どちらかと言えば弁舌の徒の私が、武術の話をするというのは、とても気が引けるのだが、「心学」と称されてきた陽明学の影響が「心法」の剣術に伺えることがこれまで以上に分かってきた以上、このまま座視することもできないので、今回の日本陽明学をテーマとする講演で触れさせて頂くことにした。
 江戸前期、中江藤樹を祖とする「日本陽明学」の成立と時を同じくするようにして、「心法」の剣術が登場していることには、実はかねがね興味深く思っていたのだが、昨年末頃に入手して読み始めた甲野善紀『増補改訂・剣の精神誌、無住心剣術の系譜と思想』(筑摩書房)』をきっかけに、「夕雲流(せきうんりゅう)」こと無住心剣術(むじゅうしんけんじゅつ)二代目・小出切一雲(おでぎり・いちうん)(小田切とも)『夕雲流剣術書』を国立公文書館のサイトで見つけてプリントアウトし、ぱらぱらと流し読みをしていたら、
「過不及の料簡は〈良知〉より自然に出るべし」(筆者意訳。原文はカタカナと漢字。〈〉内は筆者)
 という一節が目に飛び込んできて、驚き、釘付けとなったのである。
 分かり易く言えば、多すぎたり足りなかったりすることについて学ばなくても私たちが自然に分かるのは、良知の働きの御かげだ、というのである。
 本書には、他にも「良知良能」(『孟子』尽心上篇)という単語が目につくし、説かれているその内容から言っても、明らかに陽明学の影響が見て取れるのである。

◆無住心剣術3代目・真里谷円四郎は、他流試合で千度不敗

 実は、今触れた『夕雲流剣術書』以外にも、陽明学の影響がある心法の剣術書があることは、以前から知られていた。その剣術書というのは、国内外で大変に有名な「猫の妙術」(『田舎荘子』の一篇)や『天狗芸術論』である。いずれも関宿藩の藩士・佚斎樗山(いっさい・ちょざん)が、中江藤樹の高弟の熊沢蕃山の思想の影響下に書いたものだということは、関係者の間では知られた話だったのだが、それにしても、心法の剣術の代表格といっても過言ではない無住心剣術にも、陽明学が影響を与えていたというのは、驚き以外の何物でもなかった。
 私は、陽明学、あるいは日本陽明学が自己修養のツールとしてこの上もなく実用性に富んでいることを、自らの実体験を交えながら常々説かせて頂いてきたつもりだが、スポーツなどとは違って、命のやり取りをする武術の世界でも陽明学が学ばれていたというこの事実は、陽明学が如何に実践的実用的であるかを物語るに余りあると言っていい。

 武術に、あるいは無住心剣術に詳しくない人のために、以下、一言だけ説明を加えさせて頂く。
無住心剣術の3代目の真里谷円四郎(まりや・えんしろう)という人物がいたのだが、この男、
「他流試合で千度不敗」
 という驚くべき記録を残しているのだ。
 剣聖と称されて久しい宮本武蔵は、円四郎の足元にも及ばないことになる。
 貞享四(1687)年〜元禄年間頃、誰一人として敵う相手がいなかったこの円四郎への入門者が相次ぎ、大名、旗本、およびその家臣、浪人など一万人を超えた、という。幕末期、一世を風靡した北辰一刀流の千葉周作の門人は五〜六千人と言われているので、如何に凄いかお分かりになると思う。

◆一流の達人になるには、心の修養こそが最も大切

 心法の剣術で分かることは、武術家として超がつく一流の達人になるには、心の修養こそが最も大切なことであって、心の本体・良知を回復し発揮することと決して無縁ではなかったということなのだ。
 この度の講演では、心法の剣でも重要視する「良知」と、自己修養のやり方について、特に詳しく話をさせて頂くつもりだ。「良知」については、アップさせて頂いた案内状にちょっと触れてあるので、是非参考にして頂きたい。
 この度の講演会の主催は、「英霊の名誉を守り顕彰する会」である。良い機会を頂戴させて頂き、この場を借りて感謝申し上げる。


2022年6月4日、文京区での講演の案内状 林田明大

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akio_hayashida at 20:29|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 武術

2022年03月31日

●陽明学者・山田方谷の高弟・河井継之助(つぐのすけ)を描いた映画『峠』6月17日、ロードショー公開決定!

◆司馬遼太郎の陽明学に関する説明個所は、問題発言のオンパレードである。

 司馬遼太郎原作『峠』の映画化がなされていたことは、数年前から聞き知っていた。2020年に公開予定だったのが、コロナ騒動で延期されて、この度ようやく公開される運びとなったのだ。監督は、黒澤明の門弟で、『雨あがる』で監督デビューを果たした小泉堯史(たかし)、主演は私と同郷の役所広司、その他、松たか子、香川京子、田中泯らが脇を固めている。

 司馬遼太郎は、原作の『峠』ではもちろん、司馬遼太郎の講演録等でも、陽明学について触れているが、
「陽明学とは、人を狂人にする。」(『峠』) 
 という一言に代表されるように、その陽明学理解は惨憺たるものと言っていい。司馬遼太郎の陽明学に関する説明個所は、問題発言のオンパレードなのである。

 正しい陽明学理解について知りたい方は、どうか拙著を一読願いたい。拙著の中でも最も一読をお薦めしたいのは『評伝・中江藤樹』(三五館)なのだが、残念ながら数年前に版元が倒産してしまい、絶版となって久しい。本書は、「日本陽明学入門」の唯一の一般書と言ってもよい内容になっているのだが・・・。
 というわけで、拙著『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』(三五館)を薦めさせて頂きたい。本書は、継之助の師で陽明学者・山田方谷(ほうこく)の評伝なので、当然のことだが、河井継之助についても「第10章 高弟・河井継之助」で詳説させて頂いている。また、陽明学理解にも資する内容になっている。

 正しい陽明学理解とは、どういうものなのかを披露させて頂く代わりに、私が陽明学を学び続けてきて会得したものが結実した私の言葉があるので、これを紹介させて頂く。
「日々、雑なこと。いい加減なことをしている人は、日々、雑な人間、いい加減な人間になるための修行をしているのと同じです。」

 以下は、余話である。
 以下の動画では、継之助を「つぎのすけ」と訓(よ)んでいるが、私は、「つぐのすけ」を採らせて頂いている。この件に関しては、拙著『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』の「凡例」でも触れさせて頂いたが、名著、安藤英男『河井継之助の生涯』の意見を採用させて頂いている。安藤氏は、このように述べておられる。
「本人が仮名を振った文献がない以上、近親者がどう訓んでいたかに耳を傾けるべきであろう。継之助の実妹・牧野安子氏、継之助の甥・根岸錬次郎氏は、〈つぐのすけ〉と呼んでおられた。なお、田口鼎軒(ていけん。名は卯吉)の『大日本人名辞典』(明治19年刊)でも〈つぐのすけ〉である。」(同上、凡例)





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2022年03月09日

●林田明大近況報告、「姚江の会・東京」と無住心剣術と陽明学について

◆「日本陽明学研究会、姚江の会」のリアルの会「姚江の会・東京」では、拙訳「伝習録」下巻の輪読中

 本ブログに投稿させて頂くのは、本年初のことになる。そういう意味では、私の本ブログの読者のみなさまがたには、誠に申し訳ない。
 FBは、仕事上のことも手伝って、まめに投稿したり、メッセンジャーを利用させて頂くようになったのだが、ツイッターに加えて「Quora」やインスタグラムも手掛けるようになってしまったために、ブログに投稿する時間的な余裕が全くなくなってしまったというのが、正直なところ。私の体調不良も関係していることは言うまでもない。

 では、昨年末から令和4(2022)年3月9日(水)の今日の今日まで何をやっていたかというと、「日本陽明学研究会、姚江(ようこう)の会」のリアルの会「姚江の会・東京」は、これまで通り、コロナ禍にめげもせず月に一回、高田馬場の新宿区役所新宿消費生活センター 分館で開催させて頂いてきた。
 リアルの会では、溝口雄三・訳『伝習録』の輪読会も一段落したので、今は、拙訳「伝習録」下巻の輪読会を開催させて頂いている。
 と同時に、「姚江の会・東京」の同志たちの希望で、今年で70歳になる余命いくばくもない😊私の話を動画で残しておきたいとのことで、昨年来、毎回、動画を撮るようになったので、その準備にも毎月余念がないのである。実を言うと、拙訳「伝習録」下巻の輪読と、動画撮影が150分の中で行われるので、老いた吾が身にとっては、下準備がなかなか大変なのだ。


◆「心法」の剣と言われるこの無住心剣術の歴史と言おうか盛衰と、同じく江戸前期の中江藤樹を先駆とする日本陽明学のそれとが、見事に一致する

 陽明学の研究、なかでも日本陽明学の研究では、その後進展があった。江戸期の剣豪と言えば、宮本武蔵の名前が挙がってくるのはいたって自然なことかもしれないが、実のところは、「無住心剣術(夕雲流)」の開祖・針ヶ谷夕雲(はりがや・せきうん)、二代目の小出切一雲(小田切とも)、三代目の真里谷(まりや)円四郎らが、武蔵をしのぐ最強の剣士たちであったと、私は思っているのだ。
 正確には、一代目と二代目は、試合をして事実上の引き分けに終わり、二代目は若き円四郎に負けて3代目襲名を認めているので、三代目の円四郎が最強ということになる。もっと厳密に言えば、なんと、同じ流派の中に、円四郎と互角か、円四郎をしのぐ者がいたようである。
 実に興味深いことには、江戸前期の針ヶ谷夕雲に始まる「心法」の剣と言われるこの無住心剣術の歴史と言おうか盛衰と、同じく江戸前期の中江藤樹を先駆とする日本陽明学のそれとが、見事に一致するのである。

 この事は、実を言うと数十年前から、私の頭の中では、「若しかしたら、無住心剣術と日本陽明学との間には、相関関係があるかもしれない」との思いが浮かんでは消え浮かんでは消えしていたのだが、昨年末頃に偶々、甲野善紀『増補改訂、剣の精神誌、無住心剣術の系譜と思想』(ちくま学芸文庫)を入手して読み進めていくうちに(旧版は、発売当時に読んでいた)、相関関係に確信が持てるようになっていたのだ。

 無住心剣術のことを知ったのは、私が20歳代半ば頃に師事した総合武道・新体道の創始者の青木宏之先生を通じてのことだったが、その後は、青木先生を介して出会った甲野先生から多くを学ばせて頂いて、今に至っている。私と甲野先生との交友がその後も長く続いたことは、拙著を読んで来られた読者の方はお分かりと思うので、ここではこれ以上は触れない。
 実際、無住心剣術の極意書には、
「良知」
「良知良能」

 という言葉が散見されるのである。
 陽明学と関係が深いことは一目瞭然と言っていいし、極意書の中身を知れば知るほど、その思想が陽明学的であることに驚かされるのである。
 と、まあ、今回は、この程度でペンを置かせて頂きたい。

 最後に一つ、お知らせがある。

 拙著『新装版・真説「陽明学」入門』(ワニプラス)『渋沢栄一と陽明学』(ワニブックス)の2著作の中国語版の刊行へ向けて、現在、作業が進行中である。翻訳は終わり、今は編集作業中だとのことだ。

無住心剣術

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akio_hayashida at 11:20|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 武術

2021年11月18日

●王龍溪「過ちが無いことを貴ぶのではなく、過ちを改めることをこそ貴ぶ」

◆「過ちを改める」ことができるところにこそ、人間の本質がある


 日本陽明学の祖・中江藤樹やその道統の人々がそうであったように、私は王陽明の一の高弟の王龍渓(溪)の教えに多くの気づきを得てきている。
 王龍渓は、
「聖賢の学問では、過ちが無いことを貴ぶのではなく、過ちを改めることをこそ貴ぶ」(王畿「自訟問答」『龍溪会語』巻四)
 と説いている。
 人は過ちを犯す存在であることを前提に、「過ちを改める」ことが出来ることこそが、人として貴いというのである。
 以下、小路口聡「過ちに気づくといこと、王畿の改過論」〈「千聖傳心の法」としての「一念自反」の思想〉(「陽明学、第30号2020、王龍溪研究の現在 特集号」)を参照させていただいた。

『人はともすれば、思慮按排、さらに言えば私利私欲を優先してしまうことがある。それは肉体をもって生まれた人間の性分(さが)である。本然の良知からではなく、肉体から念を起こしてしまう。
 だが、儒教の人間観では、過ちを犯すこと、それ自体が悪なのではなく、過ちを改めないことこそが真の悪なのである。逆に言えば、「過ちを改める」ことができるところにこそ、人間の本質があるとも言えよう。それは、人間の本質が善だからであり、良知が備わっているからである。みずから「過ちに気づく」ことが出来ることこそが、性善の証なのである。
 良知は常に、その意の発動の瞬間、一念発動の現場において、意識に先立って、「真偽の幾」を察知し、善くない思いを去って、善に復帰するように呼び掛け、人を導いているのである。だが、この良知の呼びかけに気づいたとしても、それにすぐさま応えることができるかどうかは、実践者であるその「人」次第なのだ。だからこそ、修養が必要とされ、「良知」を「致す」ことが求められるのだ。』

写真は、中江藤樹の書。



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akio_hayashida at 18:23|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 東洋思想

2021年10月06日

●年をとること、肉体が老いることの効用について



 以下は、「Quora」での私の人気記事の再掲載です。
「性欲もなくなれば食欲もなくなり、病気になるリスクも高まり、既にあらゆる娯楽はやりつくしてるような段階。人生の後半は、ものすごく退屈な期間ですか?」
 とのご質問に、私なりに答えさせて頂いたところ、好評を頂いており、それならばと、斯くの如く、本ブログで披露させて頂くことにしました。
 ご一読頂ければお分かりだと思いますが、以下のような見解から、私は老いることをそれほど苦痛には感じていません。ゲーテ、ルドルフ・シュタイナー思想や陽明学のおかげです。

◆年をとるということは、霊(精神)が肉体の影響力から徐々に解放されるということ

 受肉、という言葉があります。キリスト教のみならず、イスラム教や儒教や神道や仏教などの大方の世界的な宗教では、肉体(物質的身体)に神的な霊(精神)が宿ることを説いています。そして、霊(精神)が肉体から離れることは死を意味しているのです。
 私が信奉するルドルフ・シュタイナー思想でも、やはり霊が肉体に宿ることで、その接点に心(魂)という領域ができて、人間は「霊(精神・スピリット)・心(魂・マインド・ソウル)・体(フィジカルボディ)」の三つからなると説いています。シュタイナー教育の根幹に、人間とは単なる物質的存在ではなく霊的存在であるという人間理解があるのです。

▼下の図は、FBの「福田塾セミナー」からお借りしました。

シュタイナー、人間の構成

 シュタイナーによれば、霊(精神)と肉体とがまだピタリと一致していない時期には、肉体は自分の思い通りには動かせないわけで、リハビリではありませんが、乳児から幼児、小・青年期を経るという、つまり時がたつにつれて霊が肉体に馴染んでいって、肉体を思う通りに動かせるようになっていくというのです。
 最初はだぶだぶだった洋服が、肉体の生長と共に体にピタリとフィットしてくるようになるというわけです。
 ですが、ある時期から肉体が衰えを見せ始めます。この世のものは無常、つまり常無きもの、常に生成し変化し続けているものであり、初めが有れば終わりがあり、「会うは別れの始め」という言葉があるように、出会いがあれば必ず別れがあるのです。
 人間が、年齢を重ねる、年をとる、老いるという事は、唯物論(二元論)の現代社会の価値観からすれば、悲しいこと、悪いことのように見做されていますが、シュタイナーによれば、まるで違うのです。
 老いるという事は、誕生時とは逆で、霊(精神)が肉体から解放されることを意味しているのです。どういうことかと言いますと、数学者や物理学者、芸術家、宗教家・哲学者などに良くみられる事ですが、年をとればとるほど、境地(人間性)や研究や作品が優れていくケースがほとんどです。
 浮世絵で知られる葛飾北斎などは、その典型と言って良いでしょう。晩年になればなるほど作品の完成度は増しているではありませんか。
 霊(精神)が、肉体からの影響力から徐々に解放されるからこそ、それが可能になるのです。性欲、食欲などの肉体に根差した私欲から解放されるから、霊(精神)が力を発揮するようになっていくのです。人間が、年をとる、老いるという事は、そういう事なのです。精神は、肉体から自由になっていき、最終的には死を迎える、つまり、肉体を離れて本来の霊的存在になるのです。
 シュタイナーに言わせれば、私達は霊格を上げるためにこの世に生まれ、この世で自らを成長させることで、霊的に進化するのだ、というのです。霊的進化を遂げるには、肉体に受肉して地上に生を受けるしかないのだというのです。

 以上、おおざっぱに述べさせて頂きましたが、この世は人間にとっての修養の場なのですから、最後の最後まであきらめることなく、自己修養に邁進していきたいと、私(69歳)などは日々思って、生かされていることを感謝し、今というこの瞬間を大切に生きているのです。

◆老いるということは、決してマイナス要因だけではない!

 肉体の衰えと共に「霊(精神)」の力が増す、ということは、どういうことを意味するのかについて触れておきます。
 この場合の「霊(精神)」の力というのは、主に「思考力」を指します。プラス「忍耐力」「意志力」「集中力」「表現力」などであり、「心の強さ(不動心)」と言い換えることが出来ます。
 R・シュタイナーは、加齢とともに五感の内の視力や聴力が低下していくのは、陽明学的に言うところの「外の物」への興味を失わせて心の内側へ視線を向けさせる意図が有るという意味のことを述べています。
 仏教、とくに禅や浄土教では、陽明学同様、内観を通じて心の本体であるところの仏性や良知への気づきを深めることの大切さを説いていますが、要は大悟する、見性するために心の外の世界への興味を失わせ、内省的になる時期が肉体的に老いるということなのです。
 老いるということは、決してマイナス要因だけではない、という事を自覚するべきなのです。

 ルドルフ・シュタイナー思想は、実はとても陽明学的でもあります。シュタイナー思想は、理屈っぽいとか難解だと思われる方は、是非、陽明学のなかでも「日本陽明学」に触れられることをお勧めします。たとえば、拙著『新装版・真説「陽明学」入門』(ワニプラス)、『志士の流儀』(教育評論社)などをご一読ください。
 下の図は、FBの「福田塾セミナー」からお借りしました。

◆心や精神は、脳の産物だとする唯物論者への私の答え

 渡辺 裕文氏より、9月24日に次のようなご意見を頂戴しました。
『遺伝子や環境に恵まれながら老いる方は「 肉体の支配から崇高な精神が解放される」と感じられるのでしょうね。アルツハイマー症状や物盗られ妄想による被害の訴え(実際は自分が食べたり起き忘れたりした事を思い出せず周りのせいにしている)を目の当たりにすると、精神は脳の情報処理機能の陰に過ぎないことを実感します。肉体、特に脳が損なわれると精神もそれに伴って壊れます。』

 渡辺氏への私の返信は以下の通りです。

【私からの返信の代わりに、脳科学者ジル・ボルト テイラーの講演動画を披露させて頂きました!】
 そういう唯物論を支持するご意見の方がいらっしゃる事は、承知のうえです。では何故、シュタイナー教育やシュタイナーの人智学運動が、世界に受け入れられていっているのでしょうか。学校のみならず、銀行、病院、製薬会社、経営コンサルタントの会社など、世界に広がり続けています。また、シュタイナーのバイオダイナミック農法による農作物は、今では、世界一の換金作物となりました。

 私からの返信は、脳科学者ジル・ボルト テイラーの動画です。世界的ベストセラーとなったジル・ボルト テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)の著者です。脳が壊れているのに、貴重な霊体験を経て、彼女は唯物論から目覚めたのです。
 ちなみに、私は、前日の夜に会っていた私の友人が死んだとき、彼が私に会いにくるという霊体験をして(翌日、彼の死を知りました)、以来、霊(精神)の存在を信じて疑いません。

※ジル・ボルト テイラー
1959年、アメリカ・ケンタッキー州生れ。神経解剖学者。インディアナ州立大学で博士号取得後、ハーバード医学校で脳と神経の研究に携わりマイセル賞を受賞。また、精神疾患に関する知識を広めるべく全米精神疾患同盟(NAMI)の理事を務めるなど活躍する中、37歳で脳卒中に倒れる。その後8年を経て「復活」、2008年にはタイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれている。インディアナ州のブルーミントン在住。 ※著者名は正確には「ジル・ボルティ・テイラー」という発音に近いのですが、『奇跡の脳』では「ジル・ボルト・テイラー」と表記しております。




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