2017年11月15日

●中江藤樹「私が良知を知ってからというもの、出世や蓄財についての興味はまるでなくなりました」

◆痛風に懊悩する私を気遣う母から、「私より先には死なないでよ!」と言われてしまった。

 10月末頃か11月に入ってからのことかは記憶が定かではないけれど、久々に痛風が発症して、尿酸値を下げる薬を飲んでいるのだけれど、日増しに悪化して2週間が経った。
 薬の飲み合わせに問題があることが分かり、4,5日前から、持病の肝硬変の薬の服用をいったん中止して、痛風の治療に専念してきた。
 もちろん、肝硬変の薬を止めたこともあり、今まで以上に食事には気を付けた。好きな豆乳オレも飲むのを激減した。コーヒーの利尿作用は有難いので、1、2杯は飲んでいる。
 医師の話では、
「痛みがなくなるのに、通常2週間から20日はかかる」
 と言われていたので、そのつもりでいるのだが、13日は、ずっと痛み止めを飲んでいたために、好転したものとばかり思いこんで、家事や仕事に手を出してしまってつい無理をしてしまったこと気づいたのは、念のためにと、痛み止めを飲むのを止めてみた12日のこと。
 超激痛ではないにしても、激痛に襲われ、前日の無理がたたったことを自覚、14日は、「陽明学研究会・姚江(ようこう)の会・東京」の日であったにもかかわらず、初めて会への出席を断念した。
 私が、私主宰の会を欠席したのは、30歳代のルドルフ・シュタイナーの研究会の頃からのことを含めて、生まれて初めてでは無いだろうか。
 それも、2、30万円の講師料での講演依頼を頂戴させて頂きながら、
「その日は、私主宰の陽明学の研究会の開催日ですから」
 と断ってでも、先約最優先を貫いてきたにもかかわらず、である。

 さて、気が付いたら、私は、私が私淑する、日本陽明学の祖・中江藤樹(40歳)、陽明学の祖・王陽明(58歳)、人智学の創始者・ルドルフ・シュタイナー(64歳)、アーティスト・ヨーゼフ・ボイス(64歳)を超えて、65歳になっている。
 とはいえ、もう一人、私が20代で私淑した作家・コリン・ウィルソンは、82歳で没している。とはいえ、私の健康状態化からして、82歳まで生きる自信はゼロと言っていい。
 数日前、母に電話した時、痛風に懊悩する私を気遣う母から、
「私より先には死なないでよ!」
 と言われてしまった。
 そんな母は、もう80代後半である。
 四方山話はこれくらいにしておこう。

◆「藤樹先生が、かつて次のようにおっしゃいました。『私が良知を知ってからというもの、出世や蓄財についての興味はまるでなくなりました』 と。藤樹先生は、大悟されていたのです」

 9月に、6年ぶりの新著
『評伝・中江藤樹』(三五館)
 を刊行させて頂いて、その後1か月も経たないうちに、版元の三五館が営業停止になるという悲しい出来事を味わったが、編集段階で、『評伝・中江藤樹』に漏れた記事は数えきれないほどあるので、今後、少しづつ披露させて頂くことにする。

 まず、藤樹の二大高弟のひとり、淵岡山(ふち・こうざん)の残した言葉に、こんなのがある。

「先師曾(かつ)ての玉(たまわ)く、彼事(良知)を知てからは侍の望も知行の望もなきこと也と仰(おお)せられき。先師は御見得(ごけんとく)なされての御事(おんこと)ならん」(「岡山先生示教録」)

 現代語で意訳する。

「藤樹先生が、かつて次のようにおっしゃいました。
『私が良知を知ってからというもの、出世や蓄財についての興味はまるでなくなりました』
 と。
 藤樹先生は、大悟されていたのです」

 「見得(けんとく)」
 とは、仏教用語で、その意味は
「自らの智慧(ちえ)を働かせて真理を悟ること」
 です。

 立身出世や蓄財(必要最低限の収入を超えるお金儲け)への興味は、雲散霧消したというのは、私も良知を実感して以来、大いに共感するところです。
 良知を信じ切るということは、日々小善や陰徳を積むだけで、後は運を天に任せるということなのですから。

51Yuy+e+ixL__SX344_BO1,204,203,200_ 評伝・中江藤樹

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。


akio_hayashida at 02:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 歴史

2017年11月04日

●日本で陽明学、あるいは儒教が庶民に浸透し、それが明治維新などに繋がった


◆元内閣官房構造改革特区推進室参事官の檜木俊秀氏からの『評伝・中江藤樹』の読後感

 以下、大変有難いことに、元内閣官房構造改革特区推進室参事官の檜木俊秀氏から頂戴させて頂いた、拙著『評伝・中江藤樹』に関する読後感の一文です。ご本人にご了解頂き、フェイスブックから転載させて頂きました。

//////////////////////////////////////////////////////////////

◆日本で陽明学、あるいは儒教が庶民に浸透し、それが明治維新などに繋がった

檜木俊秀
管理者 ・ 18時間前

 この会の会員でもある林田先生のご著書です。この本をじっくり読ませていただき、つくづく、日本で陽明学、あるいは儒教が庶民に浸透し、それが明治維新などに繋がったと実感しました。
 中国では、宮崎市定先生の名著『科挙』にありますが、世界に先駆けた中華帝国が、科挙に儒教を強要して、それを必死に身に着ける「科挙」の試験で官僚が決まり、それが一族の運命を決めるという構図になり、科学も発展せず、身分制度の固定がされました。

 以下、林田先生の書かれたものから引用です。
 到底書評もできませんから。

『日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』
 のことに関して、4月27日に出版社から、
「このゴールデンウィーク中に編集作業をスタートさせます」
 といった内容の連絡を頂くことができました。
 前代未聞の出版不況の中、拙稿を刊行して頂けるだけでもありがたいと思っています。
 内容は、中江藤樹の伝記であり、
「日本陽明学」
 の入門書となっています。
 中江藤樹とその門人たちの活躍を抜きにして、江戸文化を語ることはできません。そのことは、拙著を一読されるなら、必ずやご理解いただけるはずです。
 であるにもかかわらず、これまでの日本の近・現代史では、彼らの活躍は無視されたままなのでした。
 陽明学は、室町時代には我が国にもたらされて、禅宗の僧たちによって学ばれていたのですが、陽明学の大衆化の先鞭をつけたのは、中江藤樹でした。
 さらに、中江藤樹は、神道と陽明学を融合させたことでも、先駆的でした。
 神道と融合した陽明学は、藤樹の高弟の熊沢蕃山や淵岡山(ふち・こうざん)らによって「日本陽明学」となり、日本人に受け入れられていったのです。

◆「この世俗の習わしが染みついてしまった身体を放り出して、常に志を同じくする友をあちらこちらに求め、環境を変えてみることで、はじめて力を発揮する場が生まれるのです」

  陽明学は、実践体得のための教えです。だからこそ、王陽明の言行録の『伝習録』には、「修養(修行)」を意味する「功夫」という言葉が何度も何度も登場するのです。
 つまり、たとえ王陽明の教えが、頭で分かったにしても、
「良知を信じ切る」
 という実践体得の工夫と努力が継続できていないということは、分かったつもりになっているにすぎないのです。
 
 私の場合は、日常生活の中での反省や内観もさることながら、修養の一つの方法として、志を同じくする人たちとの集いがとても有効だと思っています。
 王陽明の高弟の王龍渓(おう・りゅうけい)は、その事についてこう語っています。
 ちなみに、日本陽明学の祖・中江藤樹と、藤樹の門人たちが影響を受けたのは、王陽明よりも、この王龍渓の教えのほうでした。

「私たちは、家庭生活にあって、世俗の習わしにまみれた心で、惰性的に俗事に向き合っているので、いつまでたっても、その束縛や堕落から抜け出すことはできません。
 この世俗の習わしが染みついてしまった身体を放り出して、常に志を同じくする友をあちらこちらに求め、環境を変えてみることで、はじめて力を発揮する場が生まれるのです。
 たとえば、私などは、長年、他国を歩き回っているわけですが、どうして家の中にあって、処理すべき家事が少しも無いなどということがあるでしょうか。どうして、妻子のことが気にならない、などということがあるでしょうか。
 また、どうして、仲間たちを手招きして、引き寄せては、もっぱら、その人たちに知識を教え込むことを仕事としていればよい、などということを望んだりできるでしょうか。
 私が思うに、この良知の学と同志たちとの関係は、魚と水の関係のようなものです。お互いに、狭い世界の中で、唾を吐き掛け合ったり、舐めあったろしたところで、江湖の水がのどの渇きを忘れさせてくれるのには、到底かないません。
 一日中、同志たちと互いに点検しあい、互いに切磋琢磨しあって、一瞬たりとも気を緩めないでいるのと、我が家でくつろいでのんびりしているのとでは、その心境には、格段の違いがあります。
 同志たちも、これがもとで、やはり刺激を受けて、視界がパッと開けることもあります。
 それは、同志諸君にも、自分で自分を豊かにする能力があるからなのであって、私の力で彼らを豊かにしたわけではありません。
 もちろん、知識人たちが、互いに面と向かい合っていながら、一言も口をきくことができない時もあります。まさに、
対面千里(目の前に居ながらも、千里の隔たりがある)〉
 になってしまうのです。
 どうして、ほんのわずかでも、独断で決めてしまってよいことなどあるでしょうか」(白山中国学通巻16号、『龍渓王先生会語』其の4、参照)


▼元内閣官房構造改革特区推進室参事官の檜木俊秀氏
20120310053327 檜木俊秀

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。



akio_hayashida at 15:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 東洋思想

2017年10月06日

●三五館倒産に思う、「憂患に生き、安楽に死す」


◆「天が重大な任務をある人に与えようとするときには、必ずまずその人の心を苦しめ、その人の筋骨を疲れさせ、その肉体を餓え苦しませ、そのすることなすことを失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものなのです。
 これは、天が、その人の心を発奮させ、性格を忍耐強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするための貴い試練なのです。」

10月5日、
「三五館、営業停止」
 の一報を耳にして、まず頭に浮かんだ言葉がある。
 それは、『孟子』告子・下篇にある、この一文である。
孟子は、儒教のことを言い換えて「孔孟の教え」という場合の「孟」のことで、紀元前300年ころの人である。
 実は、当時、イエローハットの社長を務めておられた鍵山秀三郎先生との出会いは、拙著『真説「陽明学」入門』の「第一部 第3章」で引用させて頂いていたこの言葉が縁となっていた。
 以来、私の座右の言葉となっている。
 事実、私一人が味わってももったいないので、我が家のトイレの壁にも張り出してある。
 以下、意訳させて頂いた。

 孟子は言う。
「舜(しゅん)は、田畑を耕す農民から身を起こし、ついに天子となりました。
 傳説(ふえつ)は、版築(はんちく。城壁)作り(一説に、道路工事)の土方から抜擢され、殷(いん)の第22代の王・武丁(ぶてい)の大臣となりました。
 膠鬲(こうかく)は、魚や塩を扱う商人でしたが、文王に抜擢され、殷の紂王(ちゅうおう)に仕えました。
 管仲(かんちゅう。夷吾〈いご〉)は、下級役人に捕まり、罪人となりましたが、救い出されて斉(せい)の第16代の王・桓公(かんこう)の大臣となりました。
 孫叔敖(そんしゅくごう)は、海辺の貧しい生活から楚(そ)の第6代の王・荘王(そうおう)に取り立てられて、大臣となりました。
 百里奚(ひゃくりけい)は、身分の低い市民の身から、秦(しん)の第9代の王・穆公(ぼくこう)に挙げ用いられて大臣となりました。

 これら古人の実例からも分かりますが、天が重大な任務をある人に与えようとするときには、必ずまずその人の心を苦しめ、その人の筋骨を疲れさせ、その肉体を餓え苦しませ、そのすることなすことを失敗ばかりさせて、そのしようとする意図と食い違うようにさせるものなのです。
 これは、天が、その人の心を発奮させ、性格を忍耐強くさせ、こうして今までにできなかったこともできるようにするための貴い試練なのです。
 いったい人というものは、多くの場合、失敗を経験してこそ、はじめてこれを悔い改めるもので、心に苦しみ、思い悩んでこそはじめて発奮して立ち上がり、その苦悩が顔色にも表れ、うめき声となって出てくるようになってこそはじめて心に解決方法を悟ることができるのです。
 国家もまた人と同じで、国内に代々掟を守る譜代の家臣や、君主を補佐する賢者が見当たらず、国外には対立する国や外国からの脅威がない場合には、その国は自然と安楽に流れて、ついには必ず滅亡するのです。
 以上のことを考えてみますと、個人にしても国家にしても、憂患(心配ごと)の中にあってこそはじめて生き抜くことができるのであって、安楽にふければ必ず死を招く、ということがよくわかります。」


◆憂患に生き、安楽に死す

 上記の言葉を、一言でいえば、
「憂患に生き、安楽に死す(憂患に生まれて、安楽に死す。生於憂患、死於安樂)」
 となる。
 この孟子の言葉を噛みしめながら、この逆境を乗り越えたいと思う。

追伸
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、なんとも複雑ですが、おかげさまで、『評伝・中江藤樹』は、『真説「陽明学」入門』とともに、アマゾン「東洋哲学入門」でベストセラー1位(10月6日午後5:55現在)です。
 今買って頂いても、私に印税が入るわけではないのですがね💦。

孟子・告子・下 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。



akio_hayashida at 19:31|PermalinkComments(4) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 歴史

2017年10月05日

●拙著『山田方谷の思想を巡って』などについての読者からの嬉しいコメント

◆「先生の著作は、他の思想書や哲学の解説書などとは違って、人生に活かす為に先生御自身が学問されている様子がよくわかり、そのためとても読みやすく、最近出ているどんな本よりも勉強になります」

 私のブログ記事に、kiruan氏より、嬉しいコメントを頂戴させて頂きました。過分の誉め言葉に、少々気恥ずかしくなりましたが、せっかく書いてくださったのですから、以下、披露させて頂きます。
 なお、拙著
『山田方谷の思想を巡って』(明徳出版社)
 についてのkiruan氏のカスタマーレビューも、頂戴させて頂いておりましたので、併せて披露させて頂きます。
 自画自賛と言われそうですが、兄弟や親せきからでさえも、私の著書の読後感を耳にさせてもらった記憶がありませんので、この程度の自画自賛はどうかご寛恕ください。
 そういう意味では、私の身内の中では、今は亡き父が唯一の私の読者でした。

 kiruan氏、もしかしたら私の知り合いかも、そう思ったりもしましたが、思い当たりませんでした。
 そもそもこのコメントを頂いたのは、10月3日です。私と近しい知り合いであれば、新著『評伝・中江藤樹』のことを話題にしてくるはずですからね。
 kiruan氏のことをチェックする過程で、拙著『山田方谷の思想を巡って』についてのkiruan氏のカスタマーレビューも見つけることができました。併せて、以下に披露させて頂きます。
 kiruan氏から、新著についての感想なども頂けると嬉しいですね。

◆ブログ「『評伝・中江藤樹』(三五館)いよいよ発売」に寄せられたコメント

 初めまして。
 初めて訪問した記念でコメントさせて頂きます。
 先生の『真説「陽明学」入門』と『山田方谷の思想を巡って 陽明学左派入門』を拝読しました。陽明学を人生に活かす学問とする上で、大いに参考にさせて頂いております。
 先生の著作は、他の思想書や哲学の解説書などとは違って、人生に活かす為に先生御自身が学問されている様子がよくわかり、そのためとても読みやすく、最近出ているどんな本よりも勉強になります。
 非常に奥が深い内容をとてもわかりやすく(しかも大事な内容はあらゆる角度から)述べられているので、素晴らしいです。

 新しい本を出されたということをこちらで知りましたので、近くまた読ませて頂きたいと思います。ありがとうございました。
kiruan 2017-10-03 16:23:38

◆アマゾンの『山田方谷の思想を巡って』に寄せられたカスタマーレビュー

【陽明学の神髄、『致良知』を深く理解できる優れた本】
投稿者kiruan2017年9月26日

 素晴らしい哲学書といってよい本だと思う。
 いや、謂わゆる「哲学」ではないのですが、著者は先賢の古典を自らの頭で考え、実践し、自分の人生の中で磨いた上で、これが大切だと思ったことを世の中の人に広めるために筆を執られておられると感じます。
 そのため、非常に奥が深い陽明学の神髄を、非常にわかりやすく書いておられます。

 ただ、思索や窮行というのは各個人の中で様々勉強した素材が発酵して進むものですから、著者の場合もおそらくそうであったと思われるのですが、理解するのに必要と思われる種々の文献の話にあちこち飛ぶので、読者は落ち着いてついていかないと著者がなにを伝えたいのかわからなくなってしまうかもしれません。笑
 まあ、わからなくなったら何度か読み直されれれば全く問題はありませんが。

 私はこの本を読んでいるうちに、陽明学という甚深宏大な学問体系の中で、『致良知』こそが陽明学の神髄であると確信致しました。
 そして、この『致良知』の各人による実践こそ、新しい時代の日本を築く上で必要不可欠であると思っております。
 『致良知』を本書によって深く理解し、実践されたならば、各人を取り巻く憂鬱な現実は一変して華やかなる生命躍動の舞台となるでしょう。
 本書は実にわかりやすく、致良知について書かれています。山田方谷とも、王陽明とも、中江藤樹ともこだわらず、よりよい社会を築くために自己を修養したいと願う方には是非とも手にとって頂きたい書物です。

 そして、陽明学の実践を通して、日本の明るい未来を力強く築いていこうではありませんか。

『山田方谷の思想を巡って、陽明学左派入門』


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください



akio_hayashida at 18:26|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 教育

2017年10月04日

●陽明学でいう「無心無為」とは。

◆〈見る、聞く、思う、行うという働きが天理と一つになった境地〉というのを、かみ砕いていえば、たとえば、思ったと同時に行っている状態(境地)のことです。

 新著『評伝・中江藤樹』(三五館)が発売されて10日ほどが経ちました。
 私は、現在、日々、『伝習録』下巻の口語訳にチャレンジしています。出来上がり次第、刊行にこぎつけたいと思っています。

 さて、さる10月3日(火)の夕方6時半頃から、
「日本陽明学研究会・姚江(ようこう)の会・東京」
 の主宰で、
「陽明学に学ぶ会」(毎月一度開催)
 が開催されました。

 現在輪読中の『伝習録』中巻の難解な個所についての説明を試みましたが、言葉足らずだったのではと思い、2時間ほどかけて意訳を試みました。
 というわけでして、今回のこの記事は、実は会員向けに書かせて頂いたものなのです😊。

 『伝習録』下巻の「又(陸原静に答えるの書)」の一説についてです。
 現在、会でテキストとして使っている溝口雄三・訳 『王陽明 伝習録』(中央公論新社)には、こうあります。

「理は(それ自体としては)〈動〉のないものです。不断に理を明知し、自覚し、依拠する、これがつまり
〈睹(み)ず聞かず〉(『中庸』)
〈思うなく為(な)すなき〉(『易経』繋辞上伝)
 状態に他なりません。  
 つまり、睹(み)ない聞かない、思わない為(し)ないというのは、枯木死灰(の寂滅)をいうのではなく、見・聞・思・為(などのはたらき)が理と一つになったことをいうのです。
 そしてこの場合、見・聞・思・為が(それ自体自律的に)機能するということは決してありません。これこそが、(機能する点で)動でありつつ(理に一つという点で)不動ということ、いわゆる〈動にも定、静にも定〉ということで、まさに〈体用は源を一つにする〉(前出)ということでもあるのです」

 何とも硬い文章です。
 そして、何よりも難解です。
 分かったような、分からないような人はまだましで、まるで何を言っているのか分からない、という人の方が大多数だと思います。
 そこで、以下、私なりに意訳を試みました。

「理(天理。道理。良知)それ自体は、〈動〉でもなければ〈静〉でもありません。
 休むことなく天理(道理)をはっきりと知り、常に天理の存在を自覚し、休むことなく天理を拠り所とし信じ切ること、これが『中庸』にいう
〈(天理は)見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない〉
 であり、『易経』繋辞上伝にいう
〈(易は)思わない行わない(無心無為)〉
 という状態そのものなのです。
 つまり、
〈見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえない〉
〈思わない行わない(無心無為)〉
 というのは、禅仏教の俗説では
『何も考えるな、何も思うな。〈空〉の境地だ。〈無〉になれ』
 などと説いていますが、そんな死人のような境地のことをいうのではなく、見る、聞く、思う、行うという働きが天理と一つになった境地をいうのです。

〔〈見る、聞く、思う、行うという働きが天理と一つになった境地〉
 というのを、かみ砕いていえば、たとえば、思ったと同時に行っている状態(境地)のことです。
『あ、ゴミが落ちている。では、これから目の前に落ちているごみを拾うぞ』
 などと言い聞かせて、それからアクションを起こすケースが普通だと思いますが、善行をすることが当たり前になっている人の場合は、
『あっ、ごみが落ちている』
 と思うか思わないかの、ゴミに気づいたその瞬間に、もう拾い上げているのです。
 思いが先で行動が後、ではなく、思ったと同時に行っている「知行合一並進」、思いと行動とが並び進む状態(境地)にあるのです。
 天理(良知)が発揮されたその時には、
『拾うぞ、善いことをするぞ』
 という思い、つまり作為がないのです〕

 そして、この場合、見る、聞く、思う、行うことが、それ自体独立して働くということは決してありません。それらは常に天理(良知)と一体のものであり、働くという点からみれば動であり、理と一つであるという点から見れば不動なのです。
 換言すれば、程明道(てい・めいどう)が言う
〈動にも定であり、静にも定である〉
 ということと同じであり、まさに
〈本体とその作用の根源は同じ(体用一源)〉(『程伊川易伝序』)
 ということでもあるのです」

 以上、『伝習録』の中巻の難解な部分の現代語の意訳を試みました。
 陽明学でいう「無心無為」は、「何も考えない、何も思わない、何もしない」ことでは無く、作為がないことをいうのです。何も考えない、何も思わない、何もしない、などということが、生きている人間にできるはずもありません。

 陽明学理解には、内観を中心とした実践体得も要求されますから、時間がかかります。今のところ、なんとなくでもいいですから、分かってくだされば、それでよしとしたいと思います。陽明学の世界観は、どちらかといえば損か得か、勝つか負けるかで動いている現代社会や、かつての朱子学のような二元論ではなく、一元論ですから、その違いがなんとなく伝わったら、それでよしと思います。

 ここまで読まれた方は、もう思い知らされたことでしょう。現代語訳されている『伝習録』といえども、これを一人で、独学で読みこなすのは、至難の業といっていいでしょう。
 現在、月に一度(毎月第2火曜日)、都内(主に高田馬場)で輪読会を開催中です。興味がある方は、ぜひコメント欄にご一報を。

 上記のような固い話ばかりしているわけではありませんので、一度見学にでもいらっしてください。


陽明学に学ぶ会(2017年10月3日)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。



akio_hayashida at 17:18|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 教育
TagCloud
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: