2016年08月28日

●江戸時代の中江藤樹の高弟・淵岡山一派の活躍は未だほとんど知られていない

◆藤樹の高弟・淵岡山一派の資料は、明治30年代になって日の目を見た。

 以下は、「●江戸文化と江戸期の陽明学理解に、王龍溪は無視できない。」(2016年08月18日)の続きである。
 「藤樹学」派の人々が、王陽明より、陽明の高弟・王龍溪の思想を好んだことは、既に触れた。
さて、未だ、中江藤樹の「藤樹学」がほとんど知られていないのには、理由がある。
江戸時代における藤樹学派の資料の存在が学者の間で知られるようになったのは、明治30年代以降のことなのだ。幕末維新期の混乱の中で、「藤樹学」のことや資料は忘れ去られてしまっていた。
 明治34(1901)年に、中江藤樹生誕の地の高島郡安曇川村(現、滋賀県高島市安曇川町)で、古書の中から
『岡山(こうざん)先生書簡』
 と題された3冊が見つかったことが端緒となっている。
 この時は、その価値は理解されないままとなった。

 続けて、明治37(1904)年頃、藤樹書院の文庫の中から、
『書院日記』
 と
『藤樹書院日乗』
 が見つかり、藤樹の高弟・淵岡山(ふち・こうざん。1617〜86)の影響力の大きさが初めて確認されたのだ。
 これは余談である。
 淵岡山は江戸で一尾伊織(いちお・いおり)という旗本に仕えていたが、淵岡山が藤樹に師事すると、一尾伊織も藤樹の門人となった。実は、この一尾伊織、「三斎流一尾派」を創始した茶道家として今日に知られており、「三斎流」は、現代も存続している。

 話を戻すと、その後、東洋大学の東敬治柴田甚五郎の両教授、立教大学の後藤三郎教授らの手で会津からも諸資料が次々と発見され、淵岡山一派の活躍が日の目を見ることになり、その後を継いだのが、木村光徳氏であった。

◆江戸藤樹学のリーダー二見直養は、幕府に命じられて「藤樹学術の詞書(ことばがき)」を提出した。

 江戸中期の享保年間(1716〜35)といえば、第8代将軍・徳川吉宗の治世だが、この頃には、中江藤樹の「藤樹学」は、まぎれもなく全国区のポピュラーな学問になっていた。
 藤樹学のメッカといえば、藤樹の高弟・淵岡山によって建てられた「京都学館」である。この頃は、岡山亡き後ということで、会津の東条方秀の曽孫・東条貞蔵が館主を務めていた。京都学館の運営に最も積極的だったのが、会津藤樹学の人々であった。

 また、京都では、淵岡山の高弟・木村難波の後継者の松本以休が活躍していた。
 この頃の江戸藤樹学のリーダーは、田中全立の後を受けた二見直養で、伊勢の神官の出で繰り綿を販売する豪商で、その販路は、北は東北から南は九州にまで及んでいた。
 この二見直養が、幕府から命じられて
「藤樹学術の詞書(ことばがき)」
 を提出したのが享保6(1721)年のこと。
 将軍・吉宗が手に取って読んだという。
 この年の秋、昌平黌の儒官(総長)で、私塾で陽明学を教えていた佐藤一斎が藤樹書院を訪れている。藤樹学が、はれて幕府公認の学問となったことと、一斎の藤樹書院訪問は、決して無関係ではあるまい。

◆江戸では、二見直養、三輪執斎(1669〜1744)、日本一の書家の細井広沢(書家で陽明学者の北島雪山の門人)らが、陽明学者として大活躍中だった。

 そして、同じく吉宗の治世のこと。
 元文5(1740)年とクレジットされた
『席上一珍(せきじょういっちん)』
 という藤樹学の信奉者の
「洞津(あなつ)後学某」
 氏の著作が現存しているのだが、本書は、藤樹学の入門書といった内容になっている。
 洞津とは、安濃津(あのつ)とも言い、現在の三重県津市に相当する。
 藤樹の妻や二見直養も伊勢の出であったことから、伊勢では藤樹学がとても盛んだったことが了解される。

 同じく享保年間には、大坂では木村難波の後継者たちが、会津では二見直養の門人の矢部文庵(酒造業)、島影文石(会津藩士)、赤城誠意(名主)らが藤樹学を盛り上げていた。
 美作(岡山県北部)では、木村難波の高弟の植木是水が活躍していた。
 江戸では、すでに触れた二見直養、三輪執斎(1669〜1744)、日本一の書家の細井広沢(書家で陽明学者の北島雪山の門人)らが、陽明学者として大活躍中であった。
 熊本藩でも、熊本藩士・山崎勝政に代表される中江藤樹の門人・石川吉左衛門(1615〜92)の後継者達が、陽明学を含む藤樹学を学び続けていた。石川吉左衛門は、今日
「熊本陽明学の祖」
 と称されている。
 勝政は、淵岡山、田中全立、二見直養等に師事した。

◆藤樹の『孝徳の報』の小冊子が安産のお守りとして使われた。

 享保年間には、「藤樹学」は家庭にも浸透していた。
 藤樹の道歌、著書の『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』等が家庭でも読まれ、『鑑草』の一節の、例えば「孝徳の報」等が抜き書きされて、それらを嫁入りする娘に持たせたり、『孝経』の小冊子を妊婦の腹帯に入れて安産のお守りとしたり、孝行な子供が生まれるようにとお守りにしたのである。(後藤三郎『中江藤樹伝及び道統』第6章)
 そして、藤樹生誕の地では、藤樹亡き後、一介の農民といえども文字の読み書きができないものはいなかったという(今、出典を失念。近々、思い出します)。
 享保年間の次に来るのが、町人文化が花開いた江戸文化のピークといっても過言ではない文化文政時代(1804〜30)である。

◆一尾伊織の「三斎流(さんさいりゅう)」もさることながら、王龍溪の思想の流れを汲む陽明学者・袁宏道(えん・こうどう)の『瓶史(へいし)』を学んだ華道「宏道流(こうどうりゅう)」が、江戸中期に創始されて以来、今でも存続している。


 最後に、先覚による興味深いご指摘を一つ。
 渡部昇一氏が、
『日本の歴史す掌擁咫∪こΠ譴療垰圈江戸の繁栄』(ワック蝓
 の中で、江戸時代は、
「浪人文化」
 だっと、述べておられるが、言われてみれば、実際思い当たることが多い。
 そして、この浪人文化こそが、幕末の志士による明治維新へとつながったというのである。

 最後にもう一つ。
 古川治
『淵岡山』(明徳出版社)
 は、私からはあまりお薦めできない。

 言い忘れたことがある。
 一尾伊織の「三斎流(さんさいりゅう)」もさることながら、王龍溪の思想の流れを汲む陽明学者・袁宏道(えん・こうどう)の『瓶史(へいし)』を学んだ華道「宏道流(こうどうりゅう)」が、江戸中期に創始されて以来、今でも存続している。
 藤樹学との関係については、未だ明らかにされていない。

▼ 藤樹学(会津心学)関係資料 三浦明氏所蔵

00044_01  藤樹学(会津心学)関係資料  三浦明氏所蔵



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。




akio_hayashida at 03:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)陽明学 | 歴史

2016年08月27日

●大石静「娘にとって父親が亡くなると、後でじわじわ来るわよ」

◆「私は父のことが嫌いだったの。なのに亡くなってから何年か経ってから、突然電車の中で思い出したら、涙が止まらなくなった」

 子どもが、父親より母親びいきである事は、どの家庭でも同じであるに違いない。では、父親にとって、我が子とはどういう存在なんだろう。
 そんなことについて、「徹子の部屋」での阿川佐和子さんの話から、ちょっと考えさせられる話を小耳にはさんだので、以下披露させて頂く。
 毎週土曜日の阿川さんの「サワ子の朝」は、毎回、私が楽しみに拝見させて頂いている番組だ。阿川さんの司会、絶妙にうまい。

阿川佐和子
「〈娘にとって父親が亡くなると、後でじわじわ来るわよ。その瞬間は別にどうってことなくても、月日が経つにつれて、ジワッと来てって〉
大石静(おおいし・しずか。作家)さんがね
〈私は父のことが嫌いだったの。なのに亡くなってから何年か経ってから、突然電車の中で思い出したら、涙が止まらなくなった。あなたもきっとそうなるわ〉
 みたいなことおっしゃったんだけども、〔父が亡くなって1年経ったけれど〕未だ来ないんですね。全然。(^^;」
(テレビ朝日『徹子の部屋、阿川佐和子』2016年8月24日)

 余談だが、我が娘は、現在、大学2年生で、娘にとっての私の存在は、体(てい)のいい家庭教師である。娘が言うには、大学の先生より頼りになるらしいが。
 私が死んだ後、果たして息子や娘は泣いてくれるだろうか(^^;。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。



akio_hayashida at 23:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)教育 | 人生

2016年08月23日

●秋に鳴く虫の声を聴いて楽しむ文化は日本と中国だけのもの

◆虫の声を聴いて楽しむという習俗は、世界的には大変珍しく、中国と日本だけに存在する文化でした。

 台風一過、昨夜は虫の声が聞こえました。
 すでに、秋の装いですね。
 江戸時代の日本人は、虫の鳴き声を楽しみました。
 声を聴くだけで、虫の名前を当てたのです。
 キリギリス、マツムシ、鈴虫といった虫の鳴き声を楽しむ遊びは、平安時代の貴族たちの間で既に始まっていました。
 私も、幼い頃には、夕方になると、鈴虫を捕りに、餌にするための焼いた味噌を手に、出かけたものです。
 虫の声を聴いて楽しむという習俗は、世界的には大変珍しく、中国と日本だけに存在する文化だったと言われています。(梅谷献二『虫を聴く文化』https://www.jataff.jp/konchu/listen/listen.html)

 それ故、
「虫売り」
 がいました。
 江戸の初期には登場し、「生類憐みの令」で一時期中断しますが、その後、庶民の間で盛んになりました。

 江戸時代、邯鄲(かんたん)の場合、今の金額で、約200〜300円、鈴虫は、約1000円でした。その他、マツムシ、コオロギなども売っていました。

 そう言えば、10余年前、歌舞伎町2丁目の小さなスーパーでは、かごに入った鈴虫などを売っておりました。
 きっと近所にお店を構えている水商売の方が、お店に置いて、お客の耳を楽しませたのでしょう。
 当時、私は、新宿7丁目に住んでおりましたから、私も買って帰り、子どもの情操教育を兼ねて、自宅で鳴き声を楽しんだものです。

 虫の声を聴いて楽しむ、子供たちの話を聞く、家族との会話を楽しむ、等といった心の余裕は持ちたいものです。

▼邯鄲(かんたん)の鳴き声



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。


akio_hayashida at 15:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)教育 | 歴史

2016年08月18日

●江戸文化と江戸期の陽明学理解に、王龍溪は無視できない。


◆中江藤樹を先駆とする「日本陽明学」が、江戸期に始まる近・現代史からすっぽりと抜け落ちている

 中江藤樹の評伝のラストスパートの作業は、この暑さも手伝って、なかなか遅々として進まないのだが、はやいものでこの中江藤樹の評伝を書き始めてからもう5、6年余になる。正確には、『志士の流儀』を書く前から取り掛かっていたので、かれこれ6、7年になるかと思う。
 その間、つくづく思い知らされたことがある。
 中江藤樹(1608〜48)を先駆とする
「日本陽明学」
 が、江戸期に始まる近・現代史からすっぽりと抜け落ちていることだ。
 これまで、中江藤樹の教えと陽明学がワンセットになった「藤樹学」を学んだ人々の存在と活躍が無視されたまま、近・現代史が語られてきたことに、今の私は違和感を覚えざるを得ない。

 実を言うと、「日本陽明学の祖」と称されて久しい中江藤樹の実像を良く知らなかった頃の私にとって、中江藤樹という人物は、その他大勢の陽明学者のひとりに過ぎなかった。その晩年に陽明学に出会って数年後に早逝してまったから仕方がないのだが、陽明学を一心に奉じていたわけではなく、日本人で最初に陽明学に注目した程度の人物だというのが、『真説「陽明学」入門』を刊行させて頂いた頃の私の中江藤樹像だった。
 それが年月を経るとともに、次第に変わってきたのである。
『真説「陽明学」入門』執筆当時、「藤樹学」の研究家として知られていた木村光徳氏の
『日本陽明学派の研究』(明徳出版社)
 を手に入れて読んではいたはずなのだが、読み始めた当時は印象には残らなかった。 
 その後、二松學舍大学での陽明学関連のイベントを通じて、一度だけ、木村光徳氏と直接お会いする機会があったのだが、当時の私は木村氏のお仕事の価値が理解できていなかったために、挨拶程度で終わってしまっていた。
 この時、たまたま同じ会場に居合わせた顔見知りの大学教授の某氏が、
「木村先生の仕事は傍流であって、メインストロームではないから、あまり関わらないほうがいい」
 等と言ってこられたものだから、余計に話しかける気にはなれなかった。
 この時が、私にとって、千載一遇のチャンスだったのである。
 後悔しきりと言っていい。

◆中江藤樹や藤樹学派の人々は、王陽明より、その高弟の王龍溪(おう・りゅうけい)の思想を好んでいた

 その後、藤樹の高弟で熊沢蕃山と並び称された淵岡山のこと、江戸藤樹学のリーダーの二見直養、特に会津で藤樹学が大変に盛んだったことなどを知るようになる、と同時に、中江藤樹や藤樹学派の人々が、王陽明より、その高弟の王龍溪(おう・りゅうけい)の思想を好んでいたという驚きの事実を知って、私の陽明学理解ととても一致することを思い知らされた。 

 陽明学といえども、儒教、禅宗や浄土宗、石門心学等と同様、決して一枚岩ではない。
 例えば、藤樹学派が王龍溪を好んだことから、日本陽明学中興の祖の三輪執斎との間には溝が生じていた。
 幕末の陽明学者として今日に知られる佐藤一斎も、王龍溪を好まなかったどころか、批判した一人である。

 しかし、王陽明亡き後、異学と烙印を押された陽明学の名誉を回復し、一大陽明学ブームをもたらしたのは、王龍溪その人であった。
 王陽明の真の後継者・王龍溪を無視して、陽明学を語れるはずもない。
 江戸期の陽明学が、王龍溪の影響下にあったことを考慮するなら、中江藤樹と「藤樹学」を理解するにあたり、王龍溪をスルーするわけにはいかない。
 しかし、明治以後、特に、昭和になってからは、王龍溪は忘れ去られてきて、今日に至っている。つまり、現代の我国で、陽明学を標榜する人のほとんどが、王龍溪の思想を知らないのである。

 というわけで、9月17日(土)は、午後2時から、都内・乃木神社で
「日本陽明学の祖・中江藤樹」
 と題して話をさせて頂く。

この記事の続きを、次回にupさせて頂きます。


▼王龍溪(畿。1498〜1583)

200632795349  王畿

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。



akio_hayashida at 18:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)陽明学 | 歴史

2016年07月18日

●乃木神社での『陽明学入門(全5回)』の第3回目は9月17日です。

◆陽明が亡くなって約30年後に陽明の高弟・鄒東廓(すう・とうかく)によって刊行された『王陽明先生図譜』からいくつか未発表のエピソードを披露させて頂きました。

 17日(日)午後2時から4時15分頃まで、「王陽明の生涯と思想」と題して、予定時間を15分余もオーバーして、由緒ある乃木神社で話をさせて頂きました。
 生涯について語るだけでも2時間あっても足りませんので、生涯と思想は分けるべきだったと、反省しきりでした。
 今回は、陽明が亡くなって約30年後に陽明の高弟・鄒東廓(すう・とうかく)によって刊行された
『王陽明先生図譜』(未だ、現代語訳は為されていません)
 からいくつか未発表のエピソードを披露させて頂きました。
 いずれも『王陽明全集』から漏れた話ですから、今回、初めて聞かれた方がほとんどだろうと思います。

 また、王陽明が活躍したちょうどその時期に、明王朝で、否、歴代中国王朝の中でも最悪と言われた皇帝・武宗(ぶそう)と、武宗になり代わって政治をほしいままにした、これまた最悪の悪逆非道の宦官・劉瑾(りゅうきん)をリーダーとする宦官集団
「八虎(はっこ)」
 について、やはり未発表のエピソードをいくつか開陳させて頂きました。

◆劉瑾が刑死する時の 「凌遅刑(りょうちけい。一寸刻みの刑)」の様子については、あまりにも残酷なので、これまで本に書いたり講演会などで話をすることは避けてきたのでした。

 特に、劉瑾の無道ぶりはさることながら、劉瑾が刑死する時の
「凌遅刑(りょうちけい。一寸刻みの刑)」
 の様子については、あまりにも残酷なので、これまで本に書いたり講演会などで話をすることは避けてきたのでした。
 陽明学に関する連続講義は、今回の乃木神社での連続講義を最後にと思って臨みましたので(私の体調不良が理由です)、食欲がなくなりそうなおぞましい話でしたが、敢えて公開させて頂いた次第です。
 日中戦争の引き金となった
「通州(つうしゅう)事件」
 にも通じる、中国人の残虐性が際立った話のひとつといっていいでしょう。
 そういう意味では、今回の講義は、
「王陽明物語、余話」
 というべきだったかも知れません(^^;。
 この度の私の話をお聞きになられた方、是非、感想をお聞かせください。

 これは、余談になります。
 今回の連続講義は、実は、主催の「日本陽明学研究会」にとって初めてのことで、セッティングに時間がかかり、それ故当初予定していた準備期間が大幅にずれ込んでPR期間がスポイルされてしまい、私自身、友人知人へのDMを40通ほどしか出せないままでした。
 予定では、年賀状を受け取らせて頂いている250通余プラス名刺を頂いた人達へDMを発送させて頂くつもりでした。それ故、予定していた50名を下回ってしまいましたが、話の中身から手を抜くことは決してありませんので、次回をお楽しみになさってください。

◆日本陽明学は、中江藤樹を先駆としますが、王陽明よりも、王龍溪(おう・りゅうけい)の実践的な思想にインスパイア―されており、そういう意味では、モラロジーや倫理研究所(倫理法人会)に代表される「実践倫理」の原点と言っていいかと思います。

 次回からは、「日本陽明学」の話です。
 第3回ということで、9月17日(日)午後2時から、乃木神社で
「日本陽明学の祖・中江藤樹」
 の話になります。
 日本陽明学は、中江藤樹を先駆としますが、王陽明よりも、今回触れました陽明門下のトップと言っても過言ではない王龍溪(おう・りゅうけい)の実践的な思想にインスパイア―されており、そういう意味では、モラロジーや倫理研究所(倫理法人会)に代表される「実践倫理」の原点になるものだと言っていいかと思います。

 最後になりますが、今回お配りしたレジュメ(全6ぺージ)のP2の頭から14行目の漏れ部分につきましては、加筆したものを用意して、次回お配りしさせていただきます。このレジュメは、過去に発表されてきた類似の王陽明の年表と比べても、遜色のないものです。それほど力をいれて製作しました。


13680810_1037651919653319_2483573757578870881_n


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 東洋思想へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


ランキングに参加しました。
クリックしてください。



akio_hayashida at 12:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)陽明学 | 歴史
TagCloud
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: