2016年12月06日

●ルドルフ・シュタイナーの『神秘学概論』と陽明学

◆『自分の現在の判断力よりも、もっと正しく自分を導いてくれる何かが、私の内部に存在している』

 いきなりで恐縮だが、先ずは、以下の一文をお読み頂きたい。( )内は筆者注。

「霊的修行者は、絶えず自己教育にはげみ、ますます自分を向上させなければならない。そうすれば、自分の人格に信頼を寄せ、自分の人格がますます大きくなっていくと思えるようになる。
 そして自分に向かって、次のように言うことができる。
『私の中には、隠れた力がある。私はそれを内部から取り出すことができる。だから自分よりも崇高な存在だけを崇拝するのではない。私は、私をそのような崇高な存在と等しくしてくれるものをすべて、私の内部で発達させることができる』
 未だ理解できずにいる事柄に注意を向ける能力があればあるほど、霊界への進化を遂げる可能性がひらけてくる。
 例をあげて、この点を明かにしてみよう。
 ある人が、特定の行動に出ようか、やめようか決めなければならなくなったとする。彼の判断は、
『そうしろ』
と語る。
 しかし、そうするのを控えさせるような、不確かな何かが感情の中にあった。
 そのようなとき、その人はこの不確かな何かに注意を向けないで、自分の判断に従って行動することも出来たのだが、そうはしないで、その不確かな何かの働きに従って、行動を控えた。そして後になってから、
『もしもあのとき、自分が己の判断のままに行動していたら、不幸なことになっていただろう、行動しなかったために良い結果が生じた』
と思えた。
 このような経験は、その人の思考を導いて、
『自分の現在の判断力よりも、もっと正しく自分を導いてくれる何かが、私の内部に存在している』
と考えるように促す。
『現在の私の判断力ではまったく及びもつかないような、この
〈私の内部の何か〉
 に対して、感覚を開いておかなければならない』
と思うようになる。
 人生におけるこのような場合に注意を向けることは、心に非常に有効な作用を及ぼす。
それは、人間の判断力によって見通せる以上のものが、人間の内部に存在していることを、健全な予感として、人間の魂(心)に語っている。
 この注意力の働きは、魂(心)の働きを拡大する」(高橋巌・訳『神秘学概論』筑摩書房)

◆シュタイナーが言う「人間の内なる神」「みずからの中の神的なもの」「高次の自己」とは、まさしく王陽明が言うところの「良知」のことである。

 上記、実は、人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーの代表作ベスト4の1つ『神秘学概論』「高次の諸世界の認識」にあるシュタイナーの言葉なのだ。
 誰であれ、経験したことのない人はいないであろう、心の葛藤について触れてあり、
『自分の現在の判断力よりも、もっと正しく自分を導いてくれる何かが、私の内部に存在している』
 とある辺りは、まるで陽明学の著作にある言葉と思ってしまいそうなものなので、あえて披露させて頂いた。
というわけで、前回に引き続き、ルドルフ・シッタイナーの人智学と王陽明の陽明学についてである。

 私達は、心の中で葛藤をすることがある。
 言い換えれば、自問自答である。
 自問自答は、誰にでもあることなので、何故、自問自答や葛藤が起きるのかについて、考えたことも無ければ不思議に思ったことも無いというのが現実に違いないのだろうが、葛藤するということは、我々の心の中に二人の私がいるということを意味しているわけで、この事実を不思議に思わないほうが大問題なのではないだろうか。
 そして、自問自答する二人の私の内のどちらかが「本当の私」である可能性が大きいはずなのだ。
 心の中の二人の私のことを、シュタイナーは『神秘学概論』の中で、
「通常の自我(低次の自我)」「高次の自我」(「高次の諸世界の認識」)
 と呼んでいる。
 さらに、「高次の自我」を言い換えて、次のように述べている。

「人間の内なる神」(同上「人間性の本質」)
「みずからの中の神的なもの」(同上)
「高次の自己」(「高次の諸世界の認識」)

 前回の繰り返しになるが、シュタイナーが言う「人間の内なる神」「みずからの中の神的なもの」「高次の自己」とは、まさしく王陽明が言うところの「良知(りょうち)」のことである。

◆「心の善良さから行う行為とは、自分自身の利害ではなく、相手の利害に従って行う行為のことだ。それが道徳的に善なる行為なのだ」

 王陽明は、
「良知を致す(致良知)」
 と言うが、「良知を致す」その前に、葛藤し自問自答する二人の私の内のどちらが本当の私、つまり「良知」であるのかを自覚する必要があるのだ。
『現在の私の判断力ではまったく及びもつかないような、この
〈私の内部の何か〉
 に対して、感覚を開いておかなければならない』
 というのは、「私の内部の何か」、つまり陽明学で言う「良知」を自覚するように努めるべきだというのだ。
 その場合、自問自答しているときのどちらの内なる声が、倫理的であるかが判断基準になってくる。当然のことだが、本当の私、つまり良知の方が倫理的なのである。それ故、シュタイナーの場合も、自己観察の必要性を強調している。
 陽明学で言う
「内観」
 である。
 冒頭に披露させて頂いたシュタイナーの一文は、まさしく良知の自覚、内観の様子なのである。
 良知について、知っているだけではまるで意味がない。良知は自覚され、更には良知を信じて、発揮されなければ意味が無いのだ。

 最後に、シュタイナーの言葉を披露させて頂き、本稿を終わりにしたい。

「心の善良さから行う行為とは、自分自身の利害ではなく、相手の利害に従って行う行為のことだ。それが道徳的に善なる行為なのだ」(同上「高次の諸世界の認識」)


▼王陽明

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akio_hayashida at 17:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)陽明学 | 人智学

2016年12月02日

●R・シュタイナーの『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』と陽明学

◆意識的魂の時代が始まった15世紀に、王陽明は登場した。

 かつてルドルフ・シュタイナーは『世界史の秘密』※の中で、人類は、15世紀から
「意識的魂の時代」
 に入ったと述べた。
 これは、人類レベルでの意識の発達史の話である。
「感覚的魂の時代」から「悟性的魂の時代(ギリシア・ラテン文化期)」を経て、「意識的魂の時代」が今なのである。
 ざっくりいえば、感覚的魂の人間とは、感情で生きている人間のこと。物事の判断基準が感情、つまり好き嫌いなのだ。要は幼児や子供のレベルといっていい。
 そこから発達して、悟性的魂の人間になる。感情ではなく、悟性が判断基準になる。分かりやすく言えば、好きな人物、尊敬する人物、たとえばブルース・リーだとか高倉健だとかに憧れて、ブルース・リーや高倉健や西郷隆盛のように生きようと努める人が、悟性的魂の持ち主という事になる。問題にぶつかったとき、
「こういう場合、ブルース・リーだったら、どうするだろう」
 等と考えて、自らの価値判断の参考にするのだ。
 つまり自分の外に、生き方の規範がある。

 そして、意識的魂の人間とは、自らの胸中に哲学や思想を持って生きる、主体性を確立した、真の意味で自立した人間のことである。
 意識的魂の時代が始まった15世紀に、王陽明は登場した。まさしく、王陽明は自らの胸中に「良知」という物事の価値判断の基準を見出したのである。

◆「いまや、人間は自己の内部に眼を向ける。隠された創造力のかたちで、まだ顕在することなく、神的なものは人間の魂の内部で働いているのである」

 奇しくも、三島由紀夫の命日の「憂国忌」の11月25日のこと。
 大変興味深い記述を、ルドルフ・シュタイナー、石井良・訳『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』(人智学出版社)にいくつも見出した。
 本書は、もちろん、発売当時の1981年にも熟読していたし、その後も幾度か手にして来た本なのだが、陽明学を究めんと、その実践体得に努めてきた今だからこそ、たとえば、本書の以下の言葉が実感を伴って理解できるのだろう。
 
「第二章 密儀と密儀的智」 にこうある。

「汝が悟性的人間として周囲の事象を監察する限り、神の否定者とならざるをえまい。神は、汝の感覚により把握できる存在でもなければ、感覚による知覚を汝に説明する悟性で把握できる存在でもないからである。
 神は、ほかでもないこの世界内部に、魔法をかけられたような状態で眠っているのである。汝が神を見出すためには、神自らの力を必要とする。この力を、汝は自らの内部に覚醒させなければならない。古代の秘儀参入者が受けた教えとは、以上のようなものであった。
・・・(中略)・・・
 秘教家は、神は愛であるという言葉を、高次の意味で理解する。神はこの愛を極限まで発揮したからである。神は、無辺際の愛から自らを犠牲にし、自らを注ぎ出し、自然の多様な存在の中に身を細分して潜むのである。自然の存在は活動するが、その中の神は活動していない。
 神は、自然の内部で眠っている。だが、人間の内部では活動している。したがって、人間は、神の活動を自分の内部で経験することができる。この神を認識しようと思うならば、人間は、この認識を自己の内部で創造的に解放しなければならない。
 ―――いまや、人間は自己の内部に眼を向ける。隠された創造力のかたちで、まだ顕在することなく、神的なものは人間の魂の内部で働いているのである」

◆シュタイナーが言う「人間の内部で働いている神的なもの」こそが、王陽明のいう「良知」なのである。

 シュタイナーのいう「秘教家」とは、東洋的に言えば「求道者」のことである。陽明学の祖・王陽明や、日本陽明学の祖・中江藤樹は、まぎれもなくシュタイナー流の「秘教家」であり東洋で言う「求道者」であった。
 そして、シュタイナーが言う
「人間の内部で働いている神的なもの」
 こそが、王陽明のいう
「良知」
 なのである。
 シュタイナーは、「人間の内部で働いている神的なもの」を言い換えてこう述べている。

「人間の内部にも神的・霊的な力が潜在している」(P29)
「自己の内部の高次の〈私〉」(P30)
「自己の正真の霊」(同上)
「人間の内部には、単なる自然存在では生み出し得ない力が宿っている」(P31)
「自己の内部に休眠している永遠なるもの」(P53)
「高次の自己」(P157) 
「人間内部に微睡(まどろ)む霊」(P158)
「高次の人間」(P159)
「自己の魂内部の神的なもの」(P168)
「神にまで高まろうと努める力」(同上)
「自分の神性」(同上)

◆良知は、心の本体であると同時に万物(宇宙)の根本でもある。

 そしてシュタイナーは、「人間の内部で働いている神的なもの」について、こう説明している。

「〔自己の内部の高次の「私」〕は、私の感覚的生成の次元を超えたものであり、私の誕生前から存在し、私の死後も生き続けるであろう。この〈私〉は、永遠の昔から創造を続けてきたものであり、未来においても永劫にわたって創造を続けるであろう」(「第2章 密儀と密儀的智」)

 これは、王陽明の説く「良知」を思い起こさせるに十分なものと言えよう。
 陽明は、「良知」についてこんなことを述べている。

「良知は万物の精霊である。この精霊が、天を生じ地を生じ、鬼神を作り天帝を作り、一切がここから出た。まことに〔程明道『識仁篇』にいう〕『物と相対することのない』〔万物それ自体ともいうべき〕ものである」(『伝習録』下巻61条)

 良知は、心の本体であると同時に万物(宇宙)の根本でもあるというのである。
 さらに、陽明は、良知の効能について、上記の言葉に続けてこう述べている。

「人がもし、この良知に復し、完全無欠でありえたなら、おのずと手の舞い足の踏むを忘れるほどに欣喜するだろう。天地間にこれに代わりうるどんな愉快があろうか」 (同上)

◆「人がもし、心の本体である良知を回復することが出来たなら、自然に手足が動き出して飛び上がらんばかりの感動を覚えるに違ない。この世に、この感動以上のものは存在しないのだ」

 王陽明の言葉を、乱暴を承知で今風に言い直せば、こうなる。

「人がもし、心の本体である良知を回復することが出来たなら、自然に手足が動き出して飛び上がらんばかりの感動を覚えるに違ない。この世に、この感動以上のものは存在しないのだ」

 私は、小学校高学年でゲーテの『ファウスト』を読み、19か20歳頃にルドルフ・シュタイナーの思想と出会い、次いでコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』をはじめとする一連の著作と出会い、キリスト教神秘主義に魅かれてきたのだが、今では、王陽明の思想とは、出会うべくして出会ったと思っている。
 「良知」、言い換えれば「仏性」は、言葉として知っているだけでは駄目で、私達の胸中に自覚されなければ意味がないものなのだ。
 そのことは、「日本陽明学研究会、姚江の会」で4年の歳月をかけて『伝習録』を熟読してきた高崎勢のメンバーたちなら、私の言いたいことは分かってくれるに違いないが・・・、
「神秘主義とは、自己の魂内部の神的なものを、直接に感受し、感得することだ」(第11章 キリスト教の本質)
 というシュタイナーの言葉を、今更ながらに改めて嚙みしめている。

◆「人間は、実際に自らの内部に宿っているもの、すなわち眠っている神を、自らの内部に顕在化させねばならない」

 王陽明が、そして中江藤樹が、積極的に書院、つまり学校を作ったことは、まさしくシュタイナーの言う「意識魂の時代」にふさわしい行為であった。
また、藤樹による「胎教」の教えや、女性の地位向上へ向けての著作『鑑草』も、やはり「意識魂の時代」にふさわしいものであった。

 さらに『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』にあるシュタイナーの言葉を披露させて頂いて、この稿を終わりとさせて頂く。

「人間は、実際に自らの内部に宿っているもの、すなわち眠っている神を、自らの内部に顕在化させねばならない」(「第6章 エジプトの密儀的智」)

※『世界史の秘密』:西川隆範・訳で水声社から出ています。R・シュタイナー・著、西川隆範・訳『民族魂の使命』(イザラ書房)にも、「意識的魂の時代」等に就いて言及されています。

▼王陽明
4e1848a281114be3a3db6f814111edd7_th 王陽明

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2016年11月26日

●学歴なしの発明家・道脇裕「頭は心の道具だ」

◆ネジの耐久試験の試験装置が先に壊れた

 11月14日(日)放送の
『プロフェッショナル仕事の流儀:
「常識を超え、独走を極めよ、発明家・道脇裕」』
 を見て、久々に興奮を抑えきれなかった。

 群馬県桐生市生まれだという発明家・道脇裕(みちわき・ひろし。39歳)氏は、歴史上不可能と言われてきた絶対にゆるまないネジ
「L/Rネジ」
 を発明し、世界を驚かせ、東京都ベンチャー技術大賞、かわさき起業家大賞、グッドデザイン賞など様々な賞を総なめにした。
 それも、

「2010年に米航空宇宙規格(NAS)に準拠したネジの耐久試験をしたところ、合格ラインの17分をはるかに超える3時間たっても全くネジは緩まない。それどころか、試験装置が先に壊れた」(齊藤美保『小学校“中退”の発明家、道脇裕の「人生をネジろう」』、日経ビジネス)

 のだという。

◆小5で小学校を中退
 
 この
「2000年のネジの歴史を変えた」
 男・道脇裕氏に、さらに驚かされたことがある。

 成績がずば抜けて優秀だったという道脇氏は、小5で中退してしまう。

『10歳頃には「今の教育システムに疑問を感じる」と小学校を勝手に“中退”し、それ以来、学校にはまともに通っていない。子供時代は大学教授だった母親の研究室で実験などにふける毎日を過ごした。学歴はゼロに等しい』(同上)

 こんな無学歴のユニーク極まる人物の元へ、今、一流企業からの仕事の依頼が舞い込んでいるのだ。
 道脇裕氏は、番組の中で、こんな話をしている。

道脇裕「愛情が大事。
 僕の場合は、何か物考えたりとか発明したりとかっていうのは、もちろん頭でやる行為かもしれないですけど、頭を動かしている原動力っていうか、指図しているのは何か、心である。心が頭を使っている。
 頭というのは、心の道具である、というのが僕の捉え方、ですよね」

「頭は心の道具である」 

 などと、頭(脳)と心を区別して、頭(脳)より心の優位を説くあたり、まさしく陽明学そのものだと思った。

◆『新たな発想は、暮らしを豊かにしたいという「思いやり」から生まれる』

〈新たな発想は、暮らしを豊かにしたいという
「思いやり」
 から生まれる〉

 という道脇氏の発想は、驚くほど陽明学的だ。

 陽明学では、心の本体を
「良知(りょうち。仏性・明徳・真吾)」
 だと説いている。
 王陽明は、言い換えて、
「惻隠の情(思いやり)」
 だとも・・・。
 良知は、誰にでもあるものなのだが、だからと言って、その良知が100%発揮されているわけではない。私欲が多ければば多いほど、良知は発揮されにくくなるからだ。

 これ以上、陽明学についての話は、ここでは控えさせて頂く。
 FBに「日本陽明学研究会、姚江(ようこう)の会」にご入会頂き、私と共に学んで頂くか、あるいは拙著をご一読頂きたい。

▼『プロフェッショナル仕事の流儀:
「常識を超え、独走を極めよ、発明家・道脇裕」』



akio_hayashida at 23:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)陽明学 | 人生

2016年11月05日

●7年がかりで書いた新著『評伝、日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』の本文を脱稿

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◆4日(金)、夕方5時頃には倦怠感でもうダウン

 昨日4日(金)は、午前11時頃に目覚めたのだが、夕方5時頃には倦怠感でもうダウンしてしまった。数年前、否昨年に比べたら随分体調は良くなっていたと思っていたのだが、油物を口にした覚えはないし・・・。
 目覚めたのは夜8時ころ。
 妻も帰宅していたので、息子の帰りを待って夕食の用意をする。
 妻が昨日仕入れてきた4人分の鍋セットを出すだけである。
 9時頃に息子が帰宅。
 4人で一緒に食卓を囲む。
 いつもは、帰宅の遅い井息子を待たないで、7時頃に食べるのだが、今日は娘は学校が休みだったのと、食事が鍋だということで、息子の帰りを待ったのだ。
 食事を終えてしばらくすると、また倦怠感(食後はいつものこと)、風邪気味なこともあって、仕方なく床に就く。  深夜11時頃床に就き、目覚めたのは、5日(土)の2時だった。
 鼻風邪かと思っていたら、咳も出始めた。
 特に、薄着をしたわけでもなく、家族の中では、一昨日からマフラーもするようにしているし、厳重装備の筈なのだが・・・。
 
◆『評伝、日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』の本文を、三五館に入稿

 10月17日(月)に、『評伝、日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』の本文を、三五館に入稿させて頂いた。
 2008年暮れの三五館との打ち合わせで、次回作は中江藤樹の評伝だと決まり、翌年1月から書き始めたのが、なんと2016年の10月半ばになってしまったのである。
 遅れ遅れとなってしまった理由は、私の体調不良であった。その間、「幕末の志士と陽明学について書いて頂きたい」とのご依頼を頂戴し、急遽、『志士の流儀』(教育評論社)を刊行させて頂いたのだが、この『志士の流儀』も、体調不良から遅れ遅れとなり、編集者の方に迷惑をかけてしまった。
 私には、持病がいくつもあるが、中でも一番厄介なのは、肝硬変である。倦怠感がはじまると、体がだるくて眠くなり、目を開けていられないのだ。本も読めないし、仕事にならない。
 とにかく、昨日のような状態が、この7〜8年間続いてきたのである。たとえ辛くても、生活があるので、講演の仕事や陽明学研究会の活動は休むわけにはいかなかった。

◆中江藤樹は、まぎれもなく本物の「求道者」であった。

 さて、『評伝、日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』のことに話を戻させて頂く。
 書いては中断、書いては中断という、延7年かかっての執筆を通じ、色々な気付きを得ることができた。
 中江藤樹は、単なる
「孝子(親に孝行な子供)」
 などではない。
 これまで、一般書の世界では(学術書は別にして)、そこだけがクローズアップされてきたことで、「日本陽明学の祖」としての評価がきちんとなされてこなかったように思い、昨今売れている内村鑑三の『代表的日本人』に描かれている5人の日本人の一人として知られてきたこともあり、書かせて頂くことにしたのだった。
 中江藤樹は、まぎれもなく本物の
「求道者」
 であった。
 僧衣に身をまとっているから、求道者だとは限らない。
 今では、仏教は、職業と化しているので、それはそれとして区別するのがいいと思うが、藤樹が生きた時代は、信長や家康が浄土教の僧兵と戦ったことでうなづけるように、仏教者はもはや求道者などではなかった。
 だからこそ、そこのスキを突かれ、キリスト教が、燃え盛る燎原の火のごとき勢いで、日本国中に伝播したのである。
 家康が、儒教を好んだ理由も、そこにあった。
 仏教で国が治まるどころか、仏教教団が武士団の新たな敵対勢力と化したことで、 内戦が激しさを増したのである。
 仏教の堕落であった。

◆陽明学の影響下にあって息を吹き返した明代の禅宗「黄檗宗(おうばくしゅう)」の果たした役割は、実に大きいものがあった。

 では、身を治めるには、人としてより良く生きるには、どうしたらいいのか、中江藤樹のみならず、当時の日本人は苦悩したに違いない。
 運命というべきか、その間隙に、明の遺臣たちが、陽明学を携えて亡命してきたのである。
 その前、室町・戦国時代に、遣明船などを通じて、陽明学の本は明から我が国にもたらされていたのだが、より加速度がついたのであった。
 その数、数万と目されるこの亡命者の中でも「黄檗宗」の存在は特筆に値する。
 陽明学の影響下にあって息を吹き返した明代の禅宗「黄檗宗(おうばくしゅう)」の果たした役割は、実に大きいものがあった。
 「石門心学」の石田梅岩が師事したのも、この黄檗宗の僧だと言われている。
 藤樹が、黄檗宗の僧と出会った形跡はないが、藤樹が陽明学に注目したことと、黄檗宗の僧たちに代表される明からの遺臣たちが陽明学を学び信奉していたこととは決して無関係ではなく、相乗効果がもたらされたのである。
 朱子学での自己修養に疑問を持つようになった藤樹は、陽明学に活路を見出すようになり、やがて大悟するのだ。
 今回、そこに焦点を当てて、書かせて頂いた。
 さらに、藤樹の弟子たちの大活躍も。

 藤樹とその弟子たちは、明らかに日本の近・現代史に大きな影響力を残して、現在に至っているのだが、これまでその事実が見過ごされてきたことは、返す返すも残念なことと言って良い。
 中・韓には受け入れられなかった陽明学が、中江藤樹によって我が国に接ぎ木されたことで、アジアで、否、世界でも突出した我が国の大衆文化を作り上げたことは、まずは、一人でも多くの日本人に知られてもいい頃である。


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2016年10月26日

●12月17日(土)の乃木神社での講演「テ本主義思想の先駆者・熊澤蕃山」について

◆荻生徂徠、太宰春台、藤田幽谷、藤田東湖、頼山陽、渡邊崋山、横井小楠、佐久間象山、吉田松陰、山田方谷、勝海舟、森鴎外らが愛読した『集義和書』

 12月17日(土)午後2時から、約2時間、都内・乃木神社で、『日本陽明学研究会文化講座:「陽明学入門、王陽明と日本の陽明学者たち」全5回』の最後の回ということで、
「テ本主義思想の先駆者・熊澤蕃山」
 について話をさせて頂きます。
 連続講義の最後に熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)を選んだ理由ですが、蕃山の教えには、とても実践的具体的なものが多いからです。それと、熊沢蕃山について書かれた分かりやすい一般書が、現在、書店でもゼロに等しい状態なので、蕃山が知られないのは非常にもったいないと思ってのこと。
 そのことは、戦後、急速に左傾化し続けてきたマスコミを筆頭に、教育界、宗教界などが、意識的に陽明学を避けてきたことと大いに関係がありそうです。

 熊沢蕃山の『集義和書』(寛文12年(1672)刊行)と言えば、幕府から禁書扱いされたことのある江戸時代の儒学者・荻生徂徠、太宰春台、藤田幽谷、藤田東湖、頼山陽、渡邊崋山、横井小楠、佐久間象山、吉田松陰、山田方谷、勝海舟たちはもとより、明治以後にも森鴎外ら多くの日本のトップクラスの賢人たちが愛読してきた名著中の名著です。

◆徳行は、人のためにするのではなく、自分一人のために天理を存し人欲を去るものである」
 
 その『集義和書』の中でも、私お気に入りの言葉をいくつか紹介しておきます。

「徳行は、人のためにするのではなく、自分一人のために天理を存し人欲を去るものである。人欲を去って天理を存する工夫は、善行より大きなものはない。
 善というものは、格別にことを作ってなすのではなく、人倫(人間の間柄)日用のなすべきことは、みな善である」(巻一)

「天理を存し人欲を去る」
 は、まさしく王陽明の言葉です。
 私なども、陽明学を学び続けてきて、実践体得を心がけてきてつくづく思い知ったことは、善行というのは、人のためにするのではなく、自分のためにする、ということです。どういうことかと言いますと、人に喜んでもらうために、善行をするのではなく、私の場合は、自分の良知(仏性)を曇らせない、濁らせないために善行を心がけているのです。つまり、人のためというよりも、自分のためなのです。もちろん、自分のために良知を発揮する、言い換えれば善い言動を実践することが、世のため人のためにもなっているわけです。

◆それが善だと意識されないでやっている善行こそが、真の善行だ

「善というものは、格別にことを作ってなすのではなく、人倫(人間の間柄)日用のなすべきことは、みな善である」とありますが、日常生活で掃除をする、買い物に行く、料理をする、洗濯をするといったなすべき事のことごとくが、みな善行だというのです。
 どういうことかと言いますと、「これは善行だ」と思って、それが善行であること意識してやる善行、多くの場合「大善」ですが、それは真の善行ではない、それが善であるかどうかなど意識もしないでやっている、小善、たとえば食器を洗う、洗濯をする、洗濯物をたたむ、出かけるときに「行ってきます」と言うといったようなこと、それが善だと意識されないでやっている善行こそが、真の善行だというのです。

◆「仁者の心は、動揺のないことは大山のようである。無欲であるからこそ、その心はとても静かである」

 熊沢蕃山は続けて、こう述べています。

「君子(有徳の人)は義理(正しい行為の筋道)を主とし、小人(徳の無い人)は、名利(名聞利欲〈めいぶんりよく〉)」を主とする(『論語』里仁篇)」

「徳のある人格者は、人として守るべき道理を心がけており、その逆の徳の無い我儘な人というのは、自分の利益だけを心がけている」
 と説いています。
 そこのところ、他の箇所で、次のように語っています。

「仁者の心は、動揺のないことは大山のようである。無欲であるからこそ、その心はとても静かである。・・・(中略)・・・小人の心は利害に陥っていて、道理に暗い。世事に出入りして、何となく心が忙しい。心の思いは、外ばかりに向かっていて、人前にいるときだけ自らを慎むだけである。あるときは頑空(かたくなな空論)で、あるときは妄虚(みだりな無内容)。
 順境を好み逆境を嫌い、生を愛し死を嫌い、願いばかりが多い。順とは、富貴悦楽のたぐいである。逆とは、貧賤艱難のたぐいである」(巻四)

 この個所、自分の胸に手を当てながら、読み直してみたいと思います。思い当たることあるとしたら、思い当たらせてくれているのは、良知(本当の私)なのです。

◆「阿弥陀如来の声なき声を聴け」

「良知を致す」、言い換えれば、「良知を発揮する」ということですが、そう言葉でいうのは簡単ですが、発揮する前に、良知を自覚しないことには、発揮のしようもありません。
 日々の生活や仕事の中で、良知が発している「声なき声」、「内なる声」にまず気づくことが大切なのです。
 ソクラテスが
「ダイモン(ダイモーン)」
 と言い、ジャンヌダルクが聞いたという
「内なる声」
 ヘレン・ケラーが言う
「内なる人間」
 仏教でいう
「仏性」
 浄土教でいう
「阿弥陀如来」
 キリスト教でいう
「内なるキリスト(内住のキリスト)」
 に相当するものこそが
「良知」

 なのです。

 浄土教では、
「阿弥陀如来の声なき声を聴け」
 などと説くこともありますが、まさに良知は、常に私たちの心の奥に鎮座しており、私欲の覆いが少なくなれば、それに応じて人のあるべき正しい生き方を教えてくれるのです。

▼熊沢蕃山(1619〜91)

KumazawaBanzan_210 熊澤蕃山












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