2018年07月01日

●「戦友」の「是が見捨てておかりょうか」が、江戸しぐさだ

◆『「是(これ)が見捨て(みすてて)ゝ置かれうか」とありますが、これが「江戸しぐさ」なんです』

 江戸しぐさと言えば、すぐにやれ、傘かしげだ、肩引きだと、江戸しぐさで言われる「稚児(ちご)しぐさ」を思い受かべる人が多い。
 実際、江戸しぐさを批判するべく書かれた公平性のないウィキペディアの記事にも、まるでマナーであるかのように紹介してあるので、今後も江戸しぐさはマナーだとする誤解が付きまとうのに違いない。

 江戸しぐさを一言で言えば、
「惻隠(そくいん)の情」「思いやり」
 である。

 であるわけなのだから、江戸しぐさを喧伝する人は、私欲を減らし、思いやりある人になるよう努めなければならないはずなのだ。であるにも関わらず、各種マナーを学んだり、江戸文化の知識を増やすことに血道をあげる人が多いように思えてならない。

 平成30年6月27日、久々に江戸しぐさ語り部の越川禮子先生とお会いし、お話を伺った。御年92歳である。ちなみに私の母も、今月で89歳になる。
 以下、越川禮子先生の師、つまり江戸しぐさの提唱者の芝三光こと小林和雄の言葉。

芝三光(しば・みつあきら):
『「戦友」って軍歌がありますよね。その歌詞の中に
「嗚呼(ああ)戰(たたかい)の最中(さいちゅう)に /鄰(となり)に居(お)りし我(わ)が友(とも)の/ 俄(にわか)に はたと倒れしを/ 我は思はず驅(か)け寄って 
軍律(ぐんりつ)嚴(きび)しき中なれど/ 是(これ)が見捨(みすて)て置かれうか /「確(しっか)りせよ」と抱き起し /假繃帶(かりほうたい)も彈丸(たま)の中」
 の「是(これ)が見捨て(みすてて)ゝ置かれうか」とありますが、これが「江戸しぐさ」なんです』(越川禮子先生からの聞き書き)

「是が見捨てておかりょうか」
 が、江戸しぐさだというのだ。
 越川先生は、
「インパール作戦で、上官の命令に従わず、部下たちの犬死を避けようと師団の独断退却を行った佐藤幸徳(こうとく)中将の〈抗命〉も江戸しぐさです」
 と付け加えられた。

 「戦友」は、私が幼い頃からよく耳にし、私自身口ずさんだこともある曲だが、勇ましさはないので「戦時歌謡」だとばかり思っていたのだが、何と軍歌だったとは。

 そこで、調べてみた。
 明治38年の日露戦争当時に作られたという。作詞者・真下飛泉(ましもひせん)には戦争体験はなく、のちに義兄となる木村直吉から、奉天(ほうてん・現在の中国東北部の瀋陽市)会戦の実情を聴いて作詞したと伝えられている。(ネット上の「戦友全歌詞」より)
 
 Uチューブの「戦友 歌詞14番完全歌唱版 日本の名曲 Cover 華之将」の解説にこうある。

「戦友」(1905年):
唱歌:軍歌、作詞:真下飛泉、作曲:三善和気。この歌は全14番の詞から成り立っており、日露戦争時の戦闘の詩がつづられている。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲調が人々の共感を呼び、たちまち全国に広まって永く歌い継がれました。戦前の日本でこの歌を知らない人はなかったといわれます。日露戦争当時の陸軍は最終的に将兵がこの歌を歌う事を禁止した。太平洋戦争中も「戦友」は禁歌だったが、多くの兵士に愛されて歌唱されていたと言う。

 ついでながら、以下、ウィキペディアから。

 全14番の詞から成り立っており、舞台は日露戦争時の戦闘である。関西の児童たちの家庭から女学生の間で流行。やがて演歌師によって全国に普及した。歌詞中の「軍律厳しき中なれど」が実際に軍法違反で、「硝煙渦巻く中なれど」と改められたことがある。
昭和の初期、京都市東山区の良正院の寺門の前に、『肉弾』の作者桜井忠温大佐が「ここは御国を何百里・・・」との一節を記した石碑が建てられた。日華事変が起きた際に、哀愁に満ちた歌詞、郷愁をさそうメロディーなどから「この軍歌は厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられ、陸軍も将兵がこの歌を歌う事を禁止した。また軍部に便乗した人々から「この石碑を取り払うべし」との意見が出て物議を醸した。これは沙汰止みとなり、石碑自体は健在である。
 太平洋戦争中「戦友」は禁歌だったが、下士官・古参兵は「今回で戦友を歌うのをやめる、最後の別れに唱和を行う。」と度々行い、士官・上官によって黙認された場合もあり、兵隊ソングとして認知されていた。
 戦後連合国軍最高司令官総司令部は一切の軍歌を禁止していたが、一兵卒の悲劇を歌うこの歌は国民から愛され続けた。

戦友


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2018年06月29日

●吉田松陰『講孟劄記』を読んで


◆「いったい、人の人たるところは、私心を除(のぞ)くという点にある。これが聖学、すなわち孔子・孟子の教えにおける修養の道である」

 上巻の巻末には83年3月に一読したとのメモ書きがあったが(当傍線や付箋がついていることから、当時は、下巻の半分までは読了したようである)、近藤啓吾・全訳注、吉田松陰
『講孟劄記(こうもうさっき)』
 を読んでいてつくづく思うことは、陽明学についての理解があって読む今と、かつてとでは、まるで読み方が違うということだ。
 というのも、吉田松陰が27歳の年の安政3年に脱稿した本書には、既に松陰なりの陽明学理解が反映されているからである。
 「松陰なり」と記させて頂いたが、松陰の陽明学理解と私のそれとの間には、矛盾や齟齬(そご)はまるでないことをお断りしておく。
 特に、幕末の陽明学者・山田方谷も重視した孟子と告子(こくし)との議論の部分に関する松陰の解説は、読んでいてとても分かり易いし、小気味がいい。

 本書の「巻の四上、第二章」にこうある。

王陽明の説いたことばに、
〈聖人とは私欲がすっかり無くなって、その心が天理そのものになった人物に名づけたものである。重量が重いか軽いかという問題ではない。されば聖人は純金に似ている。それが軽いか重いかの問題は、聖人たる価値とは無関係である。されば聖人のうちにも、自然、軽重の差があって、堯(ぎょう)・舜(しゅん)や孔子のごとき聖人は百両の重さの金であり、文王(ぶんのう)や周公(しゅうこう)は7、80両、湯王(とうおう)や武王(ぶおう)は、5,60両などというように、それぞれに重さに差があるが、その純金であることは同一である。
もしわれわれでも、私欲をすっかり無くして天理そのままになったならば、1両や2両の純金の量があるであろう。
 しかるに後世の学徒は、この点(自分を純金にしようとすること)に努力せず、いたずらに才力・智力をたいせつに考えて知識の獲得にばかり努力していることは、銅や鉄を混(ま)ぜて金の目方(めかた)を重くしようとしているようなものである。それ故に、学問すればするほど、聖人から遠のいてゆく〉
とある。
〔この説は、『伝習録』に見える。今、記憶によってその大意を記したのみである〕この陽明の説は、実に明白である。
 しかるに学徒は、大方、銅や鉄を混ぜて目方を増やそうとする気持ちを止めかねていることであって、大いに歎(なげ)かわしい。
 以上の実情から、わたくしは自身に決意するところがある。いったい、人の人たるところは、私心を除(のぞ)くという点にある。これが聖学、すなわち孔子・孟子の教えにおける修養の道である。さればわたくしは、これを学問の主体とし、その他の記誦(きしょう。暗唱)・詞章(ししょう。詩歌や文章)以下のことは、一個の技藝(ぎげい)として視(み)ようと思う。・・・(中略)・・・
 ただ聖人は、技藝は技藝として視て、これを人の人たる価値とはされなかったのである。」

 繰り返しになるが、吉田松陰は本書を脱稿したときには、なんとわずかに27歳という若さであった。
 昨今の同年代の若者の中に、これほどの理解力のある、精神性の高い若者がいるであろうか。
 中国に次いで、欧米列強に侵略されるかもしれないという危機意識が日本列島に充満していた時代が、吉田松陰のような逸材を誕生せしめたのに違いない。
 そう言えば、王陽明が生きた時代も、中国歴史上かつてないほどの悪政に満ちた時代であった。

 吉田松陰は、安政6(1859)年に、30歳で刑死するのである。
 
 大老・井伊直弼が、この松陰や、同じく陽明学を奉じていた橋本左内という有為の人物を殺してしまったのは、人を見る目がまるで無かったと言っていい。

吉田松陰が、その晩年に陽明学に傾倒したことは有名な話なのだが、松陰に私淑し学ぶ人は多いのだが、『伝習録』を読んでいないのは、誠に残念。

▼近藤啓吾・全訳注、吉田松陰『講孟劄記』(講談社)

講孟劄記


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2018年05月10日

●中野三敏『江戸文化再考』と陽明学について考える


◆「江戸の儒学は、朱子学も含んだ、単なる展開としての陽明学というものが江戸の儒学の中心であった」

 江戸文学研究で知られる中野三敏先生のご著書
『江戸文化再考、これからの近代を創るために』(笠間書院)
 にこうある。

「朱子学を乗り越えた陽明学をベースとして非常に豊かな発展というものが、江戸の儒学の中で考えられる。・・・(中略)・・・私は、仁斎学も徂徠学も、いずれも朱子学の発展系としての陽明学をヒントにして、そこからもう一度朱子学を批判しようとした。その流れとしてあるんだと考えるのが、一番簡単な、また分かり易い立場なのではなかろうかと思っております。
 ですから、江戸の儒学はですね、朱子学も含んだ、単なる展開としての陽明学というものが江戸の儒学の中心であったというふうに考えていけば、落ち着きのある、よく分かる説明になるんではないかと思っております。
 そしてそこに、近世的自我というようなものがはっきり主張されることになるんです。それが、先ほど申しましたように、陽明学の特徴であります〈人欲の肯定〉でありますとか、〈人間の自然の主張〉でありますとか、〈個性主義〉でありますとか、あるいは〈三教一致〉の考え方でありますとか、〈史学重視、文学重視〉の考え方でありますとか、こういうものはすべて江戸の人の、いわゆる江戸的な自我、江戸人としての自我というものを非常に多きく膨らませ、立派に定着させた大きな理由だと考えております」(
「第4章 近世的自我、思想史再考」)

 江戸文化の根底には、陽明学があったという理解で、中野先生が、まさしく私と軌を一にしておられることがお分かりいただけたと思う。

◆「私達は、150万点のうちの2万点、つまり1パーセント強しか読めなくなっている」

 
そして中野先生のご主張で、一番耳を傾けるべきは、以下の
「和本リテラシーの回復」
 
ということ。以下、要約。

「奈良朝から始まって明治以前に出来た書物といえば、岩波書店が作った『図書総目録』によれば公表で約50万点。同じものが『源氏物語』だけでも800も1000もあるので、それらを一点と勘定して、50万点が『図書総目録』に収録されている。もちろん、そこに入っていない本が山ほどある。おそらくその倍あるとみて、100万点。その他に、一冊300円、500円で古書会館で売っている本、誰かが手控えで書いたとか、旅日記とか、素性不明の人の͡コヨリ綴じの本まで全部入れると、おそらく150万点はある。その内の9割は、江戸時代に出来た書物。つまり、江戸時代に出来た書物だけでも100万点は楽に超す。我々の先祖の叡智、財産、残してくれた知識のあらゆる総体がそこに詰まっている。
 そして、それが全部、変体仮名と草書体の文字で書かれている。
 そのうちの、活字になって読めるものというのは、約2万点に満たないのだ。有名な『奥の細道』や『源氏物語』なんていうものはいっぱい出ている。
 私達は、150万点のうちの2万点、つまり1パーセント強しか読めなくなっている。これが実情。
 おそらくアメリカ人の小学生が、18世紀の独立宣言を読めないといことは、ないと思う。読むだけなら、読める。では、日本人で、超一流の知識人と言われる方でも、例えば明治の初めに出来た福沢諭吉の『学問のすすめ』(1872年)の原本を出されて、読めるかと言えば、かなり難しい。
 これこそが、日本の近代の一番大きな歪というものを生じさせてしまっている、大きな理由なんではなかろうかと思う。
 だから、せめて小学生くらいに、変体仮名というものがあったんだということぐらいは教えておいたらいいのではと思う。そうでないと、これまでずっと千年も2千年も積み上がってきた我々の先祖からの叡智というものが本当に雲散霧消してしまう」
(「第5章 和本リテラシーの回復 その必要性」参照)


江戸文化再考 中野三敏

 
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akio_hayashida at 18:09|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 江戸文化

2018年04月18日

●三島由紀夫の読者からの手紙


◆「陽明学が古めかしいものではなく、新しいとても魅力ある思想に思えてきました」

4月17日(火)、読者K・F氏から嬉しい手紙を頂戴した。
 
「拝啓 林田明大様
 『真説「陽明学」入門』『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』を大変興味深く読ませて頂きました。
 あらためて陽明学って難しいと思いましたが、同関連本の中では最も親しみの持てる内容でした。 実は、私も十代後半から二十代にかけて(私は1968生まれです)コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」シリーズ、高橋巌氏訳、横尾忠則氏イラストのシュタイナーの本を読み漁っていました。今となっては内容をかなり忘れてしまいましたが、とても懐かしく思います。
 私は長い間、三島由紀夫の愛読者で、その縁で陽明学に目が向きました。三島先生のことは、芸術家としてとても深く尊敬していますが、三島先生の陽明学理解はかなり問題があるわけですよね。なんか不思議と救われた気がしました、同時に陽明学が古めかしいものではなく、新しいとても魅力ある思想に思えてきました。〈中略〉私は今、下田で生まれ、佐野市で陽明学を伝えた中根東里という陽明学者にとても興味がありますが、私では、とても東里の著作に歯が立ちません。敬具」
 
 といった内容で、用件は、是非、一度逢いたいとのこと。
 実は、これまでにも、逢いたい旨の連絡を頂いては、その都度お会いしてきたが、怖い物見たさで来られたのか、その後も交友が続いている人は、限りなく少ない。酷い時には、約束の時間に約束の場所で待っていても来てもらえず、何かあったのかとこちらから電話したら、前夜飲み過ぎて寝坊して行けないとの事、そんな驚くべき人もいた。
 それでも、懲りることなく、お申し出があれば、快諾して会うべきとは思っている。
 今回のお手紙の差出人のK・F氏とは、かなり共通点が多いので、話は盛り上がるだろうとは思っている。

◆王陽明は、「夢は何かの予兆だ」(『伝習録』下巻、66条)と語った。

 16日夜に、反抗期の長男と一戦交えたこともあり、昨日は倦怠感から夕方16時まで床に就いていた。
 私も息子と同じ18歳のときに、父とは派手にやり合ったので、長男の気持ちはよくわかるつもりだ。王陽明も、実施が生まれてからというもの、養子の息子が不良になり、ギクシャクしっぱなしだった。
 私自身、父を見る目が変わったのは、父と喧嘩をして10年以上経ってからのこと。きっと長男もそうなるに違いない。そういえば、妻も同じことを言っていた。

 ところで、眠りに就く前には、いつしか自然と「南無阿弥陀仏」を唱えていた。私の実家は、浄土真宗なのだ。
 かつては、自らの非力さを思い知らされ、それこそどうしてよいかわからなくなった時などには、阿弥陀様におすがりする以外にない、そう思って唱えていたのに違いない。
 浄土真宗の教えと陽明学が通底することは、時々口にさせて頂いてきたが、今回の事で、その理解が少し深まったように思える。

 そうそう、この長男とのバトルの日の朝、凄く疲れる夢を見たのだ。イベント・プロデュースをしていて、疲労困憊している夢なのだが、目覚めてからも疲労感が残るほどだった。で、その日の夜の長男とのバトルがあって、思い出したことがある。
 王陽明は、
「夢は何かの予兆だ」(『伝習録』下巻、66条)
 と語っていたのだ。
 酷く疲労する夢を見たのは、その夜の長男とのバトルの予兆だったのかと、今更ながらに思っている次第。( ^)o(^ )
 今後、夢を見たら、予兆だと思って気を付けることにする。

 それにしても、今年に入ってからは、一日12時間眠ることが多くなった。

▼王陽明の生家(浙江省余姚)

王陽明の生家

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akio_hayashida at 02:46|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 東洋思想

2018年03月25日

●ゲーテ、R・シュタイナー、三島由紀夫、陽明学、そして私

◆貸本漫画では、『墓場鬼太郎』を愛読した。

 文豪ゲーテに興味を覚えたのは、小学校の高学年の時。父の仕事で転向が多かったために、新しい友人ができるまでの間は、本を読むしかなかった。学校の図書館で本を借りて帰り、家で読むという習慣がいつの間にか身についていた。
 幼稚園の頃は、「キンダーブック」や童話を読み、小学生の頃からは童話や昔話に加えて、国の内外を問わず、神話や民間伝承を好んで読み漁った。
 その傾向は、その後も続くことになるのだが、小学生の頃は、中でも魔法や魔術や悪魔や魔女、妖怪、精霊、幽霊、怪物などが登場する怪奇小説に夢中になった。
 今、ざっと思い出すだけでも、ギリシア・ローマ神話、中国の『雨月春雨物語』や『白蛇伝』、「耳なし芳一」が収められた小泉八雲『怪談』、「牡丹灯篭」、ユダヤ教のゴーレム、吸血鬼、フランケンシュタインなどを挙げることができる。
 怪奇小説を、横文字でいえば、ゴシック・ロマンスである。
 今で言えば、ファンタジー小説という事になろうか。
 貸本漫画では、『墓場鬼太郎』を愛読した。

 そんな私の影響からなのか、長女は『アンパンマン』に始まって『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』にはまり、「ハリーポッター」にはまり、今では『夏目友人帳』の大ファンになっているし、長男は、姉を上回ってハリーポッターシリーズの映画の大ファンとなっている。長女に教えられて見るようになった『夏目友人帳』は、今では私も大好きな作品だ。

◆小学校高学年の頃、図書館で手に取ったのがゲーテ『ファウスト』であった。

 小学校高学年の頃のことに話を戻す。
 あらかた内外の神話や民間伝承を読み漁った頃、図書館で手に取ったのがゲーテ『ファウスト』であった。布張りの赤い表紙としか記憶にないこの本は、15〜16世紀頃のドイツに実在したと言われる、高名な錬金術師ドクトル・ファウストゥスの伝説を下敷きにして書かれた長編の戯曲で、ゲーテがほぼその一生を掛けて完成させた大作である。
 小学校の高学年なので、『ファウスト』の第一部をせいぜい楽しんで読んだくらいで、哲学的な第二部の価値はまるで分からなかったに違いないのだが、実在した人物をもとにして書かれたという点に影されたのか、以後、好んでゲーテの作品を読むようになっていった。

 これも小学校高学年の頃だろうと記憶しているが、担任の女性教師が、給食の時間に『ああ無情(レ・ミレザブル)』を毎日少しずつ朗読してくれたことがあった。いつしか続きを聴くのが楽しみになっていた。おかげで、ヴィクトル・ユゴーのこの作品は、今でも印象に残っている。
 多分、この頃からのことだろう、両親が買ってくれた「少年少女名作文学全集」を読みふけるようになっていた。
 私が文学好きになっていったのは、若い頃は文学青年だったという父親の影響もあったようだ。ちなみに、父親に連れていかれて一緒に見た映画の一つは、モノクロ映画の『ドン・キホーテ』だった。

◆高校時代の3年間は、三島由紀夫を愛読した。それゆえに、私が高校3年生の年の1970年の三島事件は、私にとってとても衝撃的だったのだ。

 中学に入ってからも、ゴシック・ロマンスに数えられるコナン・ドイルもエドガー・アランポーも読んだし、当然、江戸川乱歩も読み漁った。ロシアの民話『石の花』や、シャミッソー『影をなくした男』などは、この頃に読んで記憶に残った作品だ。

 『ゴジラ』を皮切りとした怪獣映画もそんな私の好みの一つになった。父にせがんで怪獣映画を見に連れて行ってもらった。『空の大怪獣ラドン』(1956年)や『大怪獣バラン』(1958年)などがそれである。
 中学生の頃は、剣道部で剣道をやりながら(小学2年生から剣道を学んでいた)、推理小説にもはまっていた。

 高校生になってからも、その読書傾向は残されたまま、文学部に強制的に入部させられたこともあって、純文学の小説や詩集を読むようになっていた。
 森鴎外、夏目漱石、三島由紀夫、川端康成、ロシア文学、ヘルマン・ヘッセやゲーテといったドイツ文学も、伊東静雄、中原中也、バイロン、ランボーの詩集も手に取った。特に、高校時代の3年間は、三島由紀夫を愛読した。それゆえに、私が高校3年生の年の1970年の三島事件は、私にとってとても衝撃的だったのだ。
 何しろ、大学入試の摸擬試験に、三島由紀夫の『金閣寺』の一説が出たのだが、金閣寺の屋根の上に置かれた鳳凰の描写が延々と続くその一文に魅了されてしまい、一瞬試験中であることを忘れてしまったほどだった。
 強制加入された文学部では、郷土の詩人・伊東静雄の研究に従事させられたのだが、おかげで若き三島由紀夫が最も敬愛する詩人が伊東静雄であったことを知り、驚かされたものだった。

 トーマス・マン、トルストイ、ドストエフスキー、ヘッセの全集やノヴァーリスを読むのは、もうちょっと後のこと。
 ともあれ、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』こそは好きになれなかったが、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『親和力』も詩集も読んできたし、エッカーマン『ゲーテとの対話』は愛読書となって今日に至っている。
 高校時代には、実は、SF小説も耽溺した。アーサー・C・クラーク、カート・ヴォネガット・ジュニア、ロバート・A・ハインライン、フィリップ・K・ディック、リチャード・マシスン、アイザック・アシモフなどの作品だ。
 特に、上京後に読んだアイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡』は印象に残っている。

◆小学生の高学年の頃からゲーテを好きになっていた私にしてみれば、シュタイナー思想との出会いは、今では必然だったと思っている。

 そして、この話は、拙著にも触れてきたことだが、1971年に上京して間もなく、多分翌年頃、ルドルフ・シュタイナー思想に出会ったのである。
 また、ちょうどこの頃には、コリン・ウィルソン『アウトサイダー』を読み、多大な影響を受けた時期でもあった。私が大学進学をあきらめて、独学を決意したのは、このコリン・ウィルソンの影響であった。

 これはまるっきりの余談だが、宗教家・高橋信次の話を聞きに浅草まで出かけていって、古代語を話し、病気直しをするその光景に衝撃を受けたのも1970年代初めの頃のこと。今にして思えば、高橋信次は、「もう一人の自分」についても語っていたのである。

 小学生の高学年の頃からゲーテを好きになっていた私にしてみれば、シュタイナー思想との出会いは、今では必然だったと思っている。
 その後、シュタイナーを介してゲーテ自然科学に興味を覚え、一時期だが、慶応大学で開催されていた「ゲーテ自然科学の集い」に参加させて頂くほどであった。
 三島由紀夫の愛読者でもあった私は、三島がその晩年の4、5年の間に学んでいたという陽明学に興味を持ち始めていたこともあり、シュタイナー思想の考究に7割、陽明学に2、3割といった感じで、独学に努めていたのだが、まるで無関係に思われていたこの両者が、いつしかクロスオーバーすることになるとは、夢にも思ったことさえなかったのである。

▼ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)

ルドルフシュタイナー

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