2016年06月12日

●『夫婦円満の秘訣は「でも」「だって」は言わない』中尾彬・池波志乃夫妻

◆ケンカのもとって「でも」「だって」だから。話が違う方に行っちゃうんですよ。「でもね~っ」って始まると。

 6月8日放映の
『1週回って知らない話、今さら聞けない芸能界のギモンを全て本人に直撃!』(日本テレビ)
 で、興味深い話を耳にした(*^-^*)。

 それは、俳優の中尾彬(73歳)池波志乃(61歳)夫妻の夫婦円満の秘訣の話である。
 以下、その会話。

池波『〔夫婦、長続きの秘訣は〕「でも」「だって」は言わない。
 ケンカのもとって「でも」「だって」だから。話が違う方に行っちゃうんですよ。
「でもね~っ」
 って始まると。
 ストレスは、別に、そこで発散しなくても』
中尾『掃除機がよく壊れてたのは何だったんだろうね。やたら壊れていたんだよ。掃除機が・・・』
池波『(笑)やっぱり、掃除機ってあたりやすい(笑)』

 いろいろな夫婦のあり方があっていいと思います。

◆毎朝、中尾よりも早く起き、「33年間、寝顔を見せたことはない」と胸を張っていた。

 以下は、「シネマトゥデイ」の記事からです。
 2010年の記事で、当時結婚33年とありますので、今年は、結婚40年を超えていらっしゃるんですね。
 参考になりました。

『中尾は、夫婦円満の秘けつを
「料理しかない」
 とズバリ断言。
「食事は1日3回あるし、うちなんて夕食後2時間べちゃべちゃしゃべっている。この年になると一食一食が大事になるから、(池波に)命懸けで作ってくれと言ってある」
 と妻が作った料理を一緒に食べることの大切さを力説。
 一方、池波は
「結婚したからって、幻想を抱かないこと。結婚って一生、他人と付き合うことですからね」
 と結婚33年だからこその現実的な意見だった。
 ちなみに池波は33年間、中尾のことを
「中尾さん」
 と呼び続けているんだとか。
 毎朝、中尾よりも早く起き、
「33年間、寝顔を見せたことはない」
 と胸を張っていた』(『池波志乃、夫・中尾彬に「33年間、寝顔を見せたことはない」と胸を張る』2010年2月22日)

◆18日(土)は、拳骨拓史氏との対談「陽明学入門」です。

 今月18日スタートの、乃木神社での
「陽明学講座(全5回)、陽明学入門、王陽明と日本の陽明学者たち」
 の準備に余念がありません。
 初日の18日(土)は、作家で軍事や中国韓国問題に詳しい拳骨拓史氏との対談「陽明学入門」です。
 初顔合わせです、どうなりますことやら(*^-^*)。

20121115_kodakumi_14 中尾彬 池波志乃

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2016年06月03日

●早川良一「日米開戦時、ハワイは実質、日本領だった」

◆ハワイをわがものにしようとのアメリカの野心に危機感を抱いていたカラカウア王は、王位継承者のカイウラ二王女と山階宮との結婚によるハワイ王朝と皇室との関係強化と連邦制による実質的日本支配を提案したのですが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府によって断られたのは、よく知られた話です。

 右半身麻痺の寝たきりで、左手一本でFB上に記事を投稿されているエンジニア・早川良一(はやかわ・りょういち)氏の5月30日付の大変興味深い記事を披露させて頂きます。
 以下の記事は、敗戦直後からGHQによって日本人に植え付けられてきた自虐史観からの解放を目指して書かれたものです。

 その前に、予備知識としてハワイと日本のことです。
 日本人が、ハワイ王国の要請を受けて、ハワイに移民を開始したのは、明治元(1868)年のカメハメハ5世の治世です。
 さらに、明治14(1881)年、カラカウア王が来日し、明治天皇に謁見、ハワイへの日本人移民の促進を要請しました。
このとき、ハワイをわがものにしようとのアメリカの野心に危機感を抱いていたカラカウア王は、王位継承者のカイウラ二王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王〈ひがしふしみのみや・よりひとしんのう〉)との結婚によるハワイ王朝と皇室との関係強化と連邦制による実質的日本支配を提案したのですが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府によって断られたのは、よく知られた話です。
当時、親王は13歳、カイウラニは5歳でした。
  また、23歳という若さで亡くなった美貌のカイウラニ王女については、その生涯を描いた映画
『プリンセス・カイウラニ』(Princess Kaiulani)』(2010年。英・米合作)
に詳しいのでご参照ください。

明治18(1885)年に
「日布移民条約」
が結ばれて、ハワイへの移民が公式に許可されて、日本からの移民が爆発的に急増していきます。
 明治28(1895)年、ハワイ王国はアメリカ人によって滅亡させられ(この時、米によるハワイ人虐殺が起きています)、明治31(1898)年にアメリカに併合されてしまいます。

 以上の事を、頭の隅に起きながら、以下、早川氏の一文をご一読ください。

◆「日米開戦当時、ハワイはまだアメリカでなく、現在のプエルトリコ同様にアメリカの準州に過ぎなかった」

【GHQに洗脳された日本人】
 最近体調が悪くずっと寝たきり状態が続いていましたが、今日だけはいつもより優れているため少し起きて投稿を書いてみました。もし今ここで倒れてもこれだけは伝えておきたい最重要内容を解説していきます。

 毎度のことながらFBの投稿を読んでいると、きっと政治団体から資金援助をしてもらってネットのプロが書いているに違いないという投稿内容が目立ちます。
 そのたびに
「そんなに難しく論説する必要がないのになぁ」
 といつも苦笑しています。
 確かに、いくら文章のタッチや改行のうまさに感心しても、それでは私たち大和民族をGHQの洗脳から解放させることはできません。
 単刀直入に申し上げますと、投稿している彼らは依頼人から言われた内容をうまく表現しているだけで、内容自体を理解していないからです。
 私に言わせて頂けるなら、ただ下段の二点を各個人で自発的に調べてもらえれば、すぐに洗脳から解放されるはずなのです。それにあたって別段ネトウヨもパヨクの方も問いません。だって真実ですから。

【日米開戦時、ハワイは、実質、日本の領土だった】
ハワイがアメリカの州になったのはいつでしょうか?
日米開戦時、ハワイにはどこの民族が最も多く住んでいたのでしょうか?

 以上の2点について、どんな辞典でもネットでも構いません、それらを使って調べてもらえればすぐに答えが出ます。つまり、すぐにGHQや朝鮮人や中国人による洗脳から解き放たれるというわけです。

ハワイは、戦後の昭和34(1959)年にアメリカ最後の50番目の州になりました。つまり実際に日米開戦当時、ハワイはまだアメリカでなく、現在のプエルトリコ同様にアメリカの準州に過ぎなかったのです。
日米開戦当時、ハワイには日本人が最も多くは住んでいて、人口の4割を占めていました。

 となれば日本は、実質的に母国に「真珠湾攻撃」をしたにすぎず、別段「真珠湾奇襲攻撃」でも何でもありませんでした。ただハワイで有色人種に負けて悔しかったルーズベルト大統領が、プロパガンダのためにこう叫んだだけのことです。
「Remember Pearl Harbor!」
 私からすればルーズベルトにこう言いたい。
「いつからハワイはアメリカになったんだい?そこは実質日本だったろうが」

【カメハメハ大王】
 誰しもNHKの「みんなのうた」で「カメハメハ大王」の歌を耳にされたことがあると思います。
 勿論、リフレインの部分は皆さんご存じのように「カメハメハー♪、カメハメハー♪、カメハメハメハメハー♪」というものです。ところが、歌のノリとは対照的に、ハワイの原住民の言葉では「孤独の人」という意味なのです。
 さて、ではどうしてこの歌が知られるようになったのでしょうか?
 悲しいことに江戸時代の1800年代、つまり4代目まで続いたカメハメハ大王は、ハワイの領有権を大英帝国イギリスに奪われてしまったのです。
  そればかりか、その後、フランスにまで領有権を主張されてしまったのです。実際のところアメリカの準州になったのは、1898(明治31)年のことです。

【明治時代の日本の富国強兵】
1881(明治14)年に来日したハワイのカメハメハ大王4代目、後のカラカウア国王は、日本の統率取れた兵の訓練を見て明治天皇に謁見しました。その際に、ハワイ王国の安泰のため日本とハワイの連邦化を提案したのです。
 ところが当時の日本政府は、アメリカ政府の顔色を窺って拒否してしまったのです。本当にハワイは、日本との共闘をしたかったのです。つまりあの歌の背景にはそのことがあるのです。

◆大正時代、欧米人は、大東亜共栄圏を掲げ、世界中の人々を平等にする計画を進めていた日本を、いつでも叩けるように画策したのです。

【日露戦争】
 私の祖父は、シベリア出兵で戦死しましたが、今は亡き明治生まれの祖母は、祖父の戦争体験を覚えていて、物心ついた私に語ってくれました。中でも、次のような当時の流行り歌をよく食卓で歌ってくれたものです。
 これは日露戦争の歌です。
「ロシアの船の底抜けたー♪」
 この戦争には勝利したものの、一方で日本の身体障害者への福祉は欧米に比べて遅れをとっていました。
 前もって断っておきますが、よく
「当時の日本は優れていた」
 などと美化する写真や文章をシェアしプロパガンダしているネトウヨがいますが、私は、そのたびに
「もう少し事実を直視しろよ」
 と言いたくなります。
 実際にノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランドをこの目で視察してみた私としては、それらの国々と比較しても、日本は未だに10年遅れていると感じました。

 そこで、富山県の砺波(となみ)に集められた
「らい病患者」
 の話をしましょう。
 明治時代に「らい病患者」は差別され、一つの区域に集められました。そのことに関して、数ヶ月前に、最高裁の裁判官が異例の謝罪をしたので記憶に新しいことと思います。
 また私の伯母も、祖母の血筋を引いてとても賢い人で、大東亜戦争中にらい病患者が砺波に集められていて、その人たちから食料の買い出しをしに行っていたのを忘れずにいました。それで、当時の真実を知ろうと文献を探し出したのです。その後、私はそれを借りて読むことになりました。
 明治に入って、当時、発展途上国であった日本へ、国名は忘れましたが、その国が「らい病患者」の福祉のために支援してくれたのです。その時、日本人が生まれて初めて目にしたものがありました。さてそれは一体何だったでしょうか?
「車いす」
 です。
 ところがある日、支援も打ち切りになってしまいました。
どうしてかご存知でしょうか?
 悲しいことに、日露戦争で勝利してしまったばかりに、彼らは
「日本は、もう強国のひとつなったのだから、支援は必要ないでしょう」
 と言って帰国してしまったのです。
 結局、日本はロシアに勝っても、日露戦争で背負った借金を返済しなければならず、さらに欧米からすれば福祉の面で文化的に遅れた状態のまま、大正時代に突入する運びとなりました。

【アジアやアフリカ人は、人間にあらずという白人至上主義】
 日本では、小学校から大学を卒業するまで、歴史の教科書における大正時代の解説が少ないこと少ないこと。
 実は、アメリカや朝鮮や中国にとって都合が悪いからとの理由から、大正時代のことが意識的に削除されていることに気づかないといけません。
 いわんや、どの日教組出身の教師も、大正時代をきちんと説明できません。質問したとしても、毎回、
「大正天皇が病弱だったから」
 としか返ってきません。
 大正時代といえば、第一次世界大戦と、その陰でロシア革命が勃発し共産党が勢力をつけたころです。一方で欧米は、アフリカとアジアつまり有色人種の国々をすべて植民地化しようと計画して、
「ワシントン海軍軍縮会議」
 で日本の艦隊数を制限しました。
 一体これがどういう意味かわかりますか?
 つまり、大正時代、欧米人は、大東亜共栄圏を掲げ、世界中の人々を平等にする計画を進めていた日本を、いつでも叩けるように画策したのです。
 手短に説明しますと、彼らは日本さえ叩けば全アフリカ・アジアを手に入れることができると考えて、準備していたわけです。


※人種的差別撤廃提案:大正8(1919)年2月13日、第1次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟規約委員会において、日本全権である牧野伸顕は連盟規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。これは「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」というもの。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した世界で最初の国が日本であった。

 とどのつまり、そうした真実を、戦後、アメリカのGHQばかりか、朝鮮人や中国人でさえも、日本人に知られないように画策したのです。

◆日本は、大正天皇のときに、いずれ欧米と戦わなければいけないということで、準備をしていたのです。

【戦略と戦術】
 戦略と戦術の言葉の違いをわからないと大東亜戦争を語ることはできません。
 戦略とは、たとえば敵国が7の装備に対して10の装備をして順当に勝つことを指します。一方戦術とは、敵国が10の装備をしていても、7の装備で勝つことを意味します。もし後者をわかりやすい言葉で表現するならば「奇策」とでもいいましょうか。

【大東亜戦争】
 この度、バラック・オバマ大統領が伊勢神宮参拝され、先の大戦で日本がアジアだけでなくアフリカまでも解放してくれたことをスピーチされて涙が出そうになりました。

 すでに日本は、大正天皇のときに、いずれ欧米と戦わなければいけないということで、準備をしていたのです。それも初めから負け試合になるとわかっていたので、当時の政府は、学校で天皇を神格化、というよりGOD化させて、臣民に国のために死ぬように教育を施しました。
 アメリカは、よく戦略を練っていました。日本が日露戦争の借金を払わなければいけないことに最初から目をつけていて、昭和に入ってから東南アジアからの日本への原油の輸出を止めて戦争へ持ち込んだのです。
 そのとき欧米は、大正時代に締結したワシントン海軍軍縮会議での艦隊数の比からあっさり戦略的に勝てると、たかをくくっていました。日本は、ただでさえ艦船数が少ないうえに、艦船の性能が悪かったので、日本は戦略で負けても戦術で勝つしか道が残されていなかったのです。
 私は、日米の戦艦の性能に関しては、映画パールハーバーのパンフレットを熟読して知識としました。

◆ルーズベルト大統領は、生まれてこのかた体験したことのない有色人種による知的な戦い方に度肝を抜かれてしまいました。

【山本五十六提督】
 山本五十六提督は、ハーバード大学に留学経験を持つエリート中のエリートです。そればかりか、到底かなわない物量をアメリカに見せつけられ、多くの本や資料を持って帰国しました。その後、再度渡米しています。だからこそ彼は、日米開戦に反対していたのです。
 
 ところが、開戦が決まると山本提督は、「戦略」ではひっくり返っても敵わないわけですから、
「人類史上初の戦術」
 を編み出し、決行しました。
 それこそ今では一般的な戦術になりましたが、当時にしてみれば戦闘機で戦艦を沈めるという画期的なアイディアでした。
 それも、日本人が多く住む実質日本領のハワイに停泊するアメリカの太平洋艦隊を、全部沈めようと計画したのです。長期戦になればアメリカに絶対勝てないわけですから、全て撃沈して講和に持ち込もうとした意図が見え隠れします。
 その頃までの艦隊戦というのは、海上でともに敵味方が分かれて砲撃を繰り返して沈めるというオーソドックスなものでした。
 ですからアメリカが10で、日本がである以上、誰もがアメリカが余裕で勝てると睨んでいたのです。
 ところが山本五十六提督は、零戦(先日「レイセン」と読むと祖母から教えられたことを投稿しましたが、ほかのFBユーザーから日本の軍内部では「ゼロセン」とも呼んでいたとことを教えて頂きました。両方正解のようです。失礼しました。)
 結局、日本は、真珠湾攻撃でアメリカの全艦隊を沈めることができなかったため、提督だけが意気消沈して落胆し、他の日本人が、提督の意図を斟酌せずに大喜びをしたという悲惨な結果に終わってしまいました。
 一方で、ルーズベルト大統領は、生まれてこのかた体験したことのない有色人種による知的な戦い方に度肝を抜かれてしまいました。だからこそ、日本がルール違反したように嘘を突き通したのです。
 くどいようですが当時のハワイは、実質、日本領だったのです。

早川良一:昭和37年8月19日生まれ。富山県高岡市出身、在住。富山大学経済学部経営法学科卒、ゼミ専攻:日本国憲法 軍事研究、特にSDI(Strategic Defence Initiative)。
スイス人からスイスドイツ語、フランス人やベルギー人からフランス語を学ぶ。
 大学卒業後、県内の東証上場企業へ勤務、特許4件出願。そのうちの一つである「リモート・コントロール・システム」において軍事利用されるのが明らかになり開発を中断。
 25カ国を、仕事及び観光で訪問するも、5年前から体に異常が生じ退職。 2015年3月、脳内出血のため右半身麻痺となり、現在、自宅療養しながら、左手一本でFBに記事を投稿中.

▼プリンセス・カイウラニ

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2016年05月21日

●王陽明が説く「幾(きざし)」について考える

◆「大善は稀で、小善は毎日多い。大善は名に近く、小善は徳に近い。大善は、人が争ってなそうとする。名を好むからである。名を求めてするときは、大も小となる」

 さて、私の「out look」のメールの数の前知、つまり予知とどうつながるのかは、少しお分かりいただけてきたかと思います。
 王陽明最晩年の
「良知(りょうち)を致す(致良知)」
 という言葉は、
「良知を発揮する」
 ということなのですが、王龍溪(おう・りゅうけい)に言わせれば、
「自己の本心である良知を信じなさい」
 となります。
 良知とは、仏教で言う
「仏性」、
 儒教で言う
「明徳(聖人になる可能性の種)」
 神道で言う
「神の分け御霊(みたま)」
 のことです。
 自分の心の本体である良知を信じることができるようになるには、それこそ
「集義」
 義を集める、義を積み重ねる、更に換言すれば、日々、ひたすら、小善を積み重ねる以外にありません。 
 そのプロセスで、副産物として、前知、予知が可能になるのです。そして、前知、予知を可能にしてくれているのは、良知なのです。
 時々とはいえども、前知、予知が可能になることで、良知の不思議な力を実感し、良知への信頼を増していくというわけです。
 これも「陽明学研究会、姚江の会・群馬」のメンバーには、話させて頂いたことですが、数年前には、高崎線の電車内で「緊急停止」を予知したことがありましたし、私の場合は、こうした経験を通じて、良知への自覚が年々深まっているのです。

 王龍溪は
「良知は心の霊気、万物一体の根」(『龍溪王先生全集』巻十三)
 と述べています。
 中江藤樹は、
「大善は名に近く、小善は徳に近し」
 と語りました。
 熊澤蕃山は、

「人間は、誰でも、悪名を嫌い令名を好む。小善を積んでも積もらなければ、令名が現われない。小人は人の目に立つほどの大善ならしようと思って、小善を目にもかけない。君子は毎日なすべき小善を一つも捨てず、大善もすることができれば行なう。求めてするのではない。
 大善は稀で、小善は毎日多い。大善は名に近く、小善は徳に近い。大善は、人が争ってなそうとする。名を好むからである。名を求めてするときは、大も小となる。
 君子は、小善を積んで徳を成就するものである。真の大善は徳より大なるものはない。徳は善の源である。徳があるときは、無心で善は限りがない」(『集義和書』巻十五)

 などと語っています。

 そして、25日の朝は、「67」の数字が頭に浮かびました。出てきた数字は「74」でしたが、一桁は当たりでした。
 26日は午後1時半に起床(昨夜寝たのは朝の5時でした)、冬物を奥に収納するべく箪笥の中の整理整頓をすませ、午後6時に「out look」を開いたら、「128」が念頭に、出た数字は、「122」でした。二桁当たりでした。
 27日は、「178」が・・・、でも「117」でした。
 28、29日は、体調が悪かったこと、この原稿を書くために当てようとの思いが強くなってきたせいでしょう、まるで当たりません。と同時に、夜は全く当たらないことに気づきました。
30日の朝は、「78」が最初思いつきましたが、
「78」を思いつくのが少し癖になってきたことを自覚しはじめていましたので、思い直し、気持ちを入れ替えて出た数字は「68」、で、結果出た数字は「86」でした。
 まだまだ修養が足りません。

◆陽明が、偽情報に翻弄されなかったのは、良知の「声なき声」に従ったからに違いありません。

王陽明は、肺病にかかり、病気を治したくて神仙道(道教)の修行に力を尽くしたことがありました。
 その成果が実り、30歳頃に予知能力が身についたのですが、
「どうやったらそんなことが可能なのか?」
 と問われ、
「それは、心を清くするだけである
 と答えています。
 ですが、
「神仙道は、真の道ではない」
 と悟り、神仙道の修行を止めてしまいます。
 この陽明の体験から分かるように、私欲を減らし、心を正すその過程で、副産物として、予知能力が発揮されるのです。

 その晩年、王陽明は、反乱軍や山賊などの討伐に東奔西走しました。
 その頃の王陽明の活躍ぶりについて、部下の一人はこう語っています。
「朝出陣し、夕方に平定しているようなもので、賊党討伐は、朝飯前の仕事だ。ちょうど秋になって落ちてくる木の葉を掃くようなもので、常人のなせる業ではない。これは全く神業である」(『真説「陽明学」入門』第一部)
 と。
 また、敵が放った偽の情報に、陽明の部下たちは不安になり、右往左往しても、陽明だけは決してだまされることがなかったのです。
 陽明が、偽情報に翻弄されなかったのは、良知の「声なき声」に従ったからに違いありません。

◆良知を意識する生活に目覚めてこそ、真の陽明学徒と言っていいでしょう。

王陽明は、良知について、こう述べています。

「知ることはないが、知らないこともない、良知は元来このようなものなのです。たとえば、太陽は、意識して物を照らそうと思わないのに、おのずからなる働きとして、照らさないことがない、全ての物を照らしているのです。つまり、照らす意識は無く、照らさないということはないのが太陽の本来の姿なのです。
 良知は、もともと知ろうとすることはないのに、知ることを求めたり、本来知らないことはないのに、知らないことがあるのではないかと疑ったりするのは、要するに、未だ良知を信じ切れていないのです」(『伝習録』下巻)

 それこそ放っておいたら、私欲は日増しに増長しているのですが、毎日少しずつなので、有名な教訓話の
「茹でガエル」
 にありますように、誰であれ、その事実に気づかないままなのです。  
  どれほど宗教に熱心な人でも、関連知識を増やすことに目が向いており、良知や仏性や明徳と称される心の本体(真吾)の気付きを増すことはまずないように思います。良知を意識する生活に目覚めてこそ、真の陽明学徒と言っていいでしょう。

◆駅前の信号機での体験は、「良知は知ろうとは思わないけれど、知らないことはない、何でも知っている」をつくづく思い知らされるのです。

これなども、いつごろからのことなのか定かではありませんが、もうこの3〜4ヶ月は良知への自覚を深める契機となっている出来事です。
 わが家から最寄り駅の間には、信号機が一つあるのですが、そこを渡るにあたり、10回中8〜9回は、青信号なのです。つまり、その駅前の横断歩道では、赤信号で止まって待つことは、ほとんどないのです。
例えば、19日に、仕事の打ち合わせで新宿に出たのですが、この時も、家を出て、マイペースで歩いたのですが、気が付いたら私が横断歩道に着いたと同時に、ピタリと青信号に変わりました。
 帰宅の時も、信号を目にしてそのことを意識したのですが、急ぐでもゆっくりでもなく、いつものようにマイペースで歩きました。この時も、横断歩道の直前で信号は青に変わったのです。
 この日も、往復ともに青信号で渡れたのですが、この駅前の信号機での体験は、
「良知は知ろうとは思わないけれど、知らないことはない、何でも知っている」
 をつくづく思い知らされるのです。
 良知への自覚、良知への信頼は増すばかりです。

 というわけで、良知を裏切らないためにも、21日(土)の今日は、常々気になっていたことをいくつか片付けました。
 ひとつは、ベランダの片付けと掃除です。
 洗濯物を干したりする時などに、散らかっていることに気づいて、やろうとは思うのですが、体調のこともあり、なかなか手を付けられなかったのです。
 最後は箒と塵取りを使って綺麗にして、ひと汗かきました。

 もう一つは、妻が毎日楽しみに見ている中国のテレビ・ドラマ「隋唐演義、集いし46人の英雄と滅びゆく帝国」の編集です。本編以外のCMなどをカットしてDVDにダビングしておくのです。妻は機械があまり得意ではないのです。
 とはいえ、またまた私の机周りが乱雑になってきました(;´・ω・)。良知を裏切らないためにも、口ではなく背中で子供に教えるためも、そろそろ片付ける時期のようです。

 最後になりました。
 私が講師をつとめます
『日本陽明学研究会・文化講座:「陽明学入門 王陽明と日本の陽明学者たち(全5回)』
 が、乃木神社(赤坂)でいよいよ6月からスタートです。
 参加申し込みは、未だ間に合います。
 ただし定員になり次第締め切るとのことです。
 詳しい事は、以下の私のブログ記事をご一読ください。
『●【日本陽明学研究会・文化講座】『陽明学入門 王陽明と日本の陽明学者たち(全5回)』開催のご案内』
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1691412.html


▼乃木神社

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2016年05月12日

●「知行合一」は言行一致を意味するのではない

◆「知行は、本体の知・本体の行なるがゆえに、常に〔本体において〕合一してあるのである」

 陽明学といえば、「知行合一」という言葉が有名です。
 読み方は、ちこうごういつ、ちぎょうごういつ、どちらでも可能です。
 まるで陽明学の代名詞のように、人口に膾炙してきました。
 それも、大きな誤解を伴いながら。
 以下の「知行合一」についてのコメントは、私がかねてより私淑してやまない九州大学名誉教授・荒木見悟先生の
「近世儒学の発展、朱子学から陽明学へ」(『世界の名著、続4、朱子・王陽明』中央公論社)
 から抜粋させて頂いたものです。

『もし知行合一ということを、
「知ったことは必ず行う」
 と解したり、
「知と行を緊密に一体化することである」
 と解する程度に止まるならば、それは朱子学その他の諸学派でも当然口にすることであって、陽明学としての特色は何ら打ち出されていないといってよい。
 また知行合一論は、陽明学の実践的性格を端的に示すものだと、しばしばいわれるが、朱子学とてもそれなりに十分実践的性格をもつものであり、こうしたあいまいな表現で両者の優劣を論ずることは適切ではあるまい』

 「知行合一」は、言行一致を意味するのではない、ということは、ことあるごとに口にさせて頂いてきたことですが、なかなか分かっては頂けないようです。

 続けて、荒木見悟氏は、こう述べておられます。

『陽明は、
「知行の本体」
 という表現を用いている。
 知行は、本体の知・本体の行なるがゆえに、常に〔本体において〕合一してあるのである』(同上)

 また、陽明は、『伝習録』の別の個所では
「知行合一並進」
 と述べています。
「知と行は、もともと一つであり、かつ並び進むものだ」
 というのです。

 「知行合一」の正しい理解については、宿題とさせて頂きたいと思います😊。

 ではありますが、拙著
『志士の流儀』
『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』
『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』
 などには説いてありますので、是非参考になさってください(^^;。

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2016年05月07日

●王陽明が説く「幾(きざし)」について考える

◆「良知には、前も後も無く、ただ現在の〈幾〉を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです」

これから話させて頂くことは、FB上にある非公開の
「陽明学研究会、姚江(ようこう)の会」
 では初めてのことです。
実は、「陽明学研究会、姚江の会・群馬」では、これまで何度か話させて頂いたことなのですが、それには理由があります。
「陽明学研究会、姚江の会・群馬」のメンバーが、共に陽明学を学んで3年たっていましたので、私見を述べても、誤解されないだろうと思ってのことでした。
それにしても、群馬での研究会は、今では、4年目に突入しているのですが、群馬のメンバーたちは、よく継続してくれたものだと思います。

話を戻します。
「陽明学研究会、姚江の会・群馬」で、ではどんな話をしていたのかと言いますと、
「幾(兆し)」
についてのことです。
「幾(兆し)」について王陽明の言行録の『伝習録』下巻にこうあります。

『ある者が質問しました。
「『中庸』にある、
〈至誠は(事の未来を)前知する云々〉
 についてお教えください」
 先生がおっしゃった。
誠とは、実理、つまり天理のことであり、他ならぬ良知のことです。天理の霊妙な働きが〈神(しん)〉ということで、その動きが今や兆そうとする、そこがすなわち〈幾〉なのです。
 周濂溪(しゅう・れんけい。北宋の儒学者)は
〈誠、神、幾であるのを聖人という〉(『通書』)
 と説きましたが、聖人は決して未来を前知することを貴ぶのではありません。第一、幸不幸(禍福)がやってくるのは、いかに聖人といえども避けることはできないのです。聖人は、ただ〈幾〉を知っていて、だから非常事態にあっても、それによって身動きが取れなくなることはありません。
 良知には、前も後も無く、ただ現在の〈幾〉を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。
 もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです。
 『易』について研究を深め朱子に影響を与えた邵康節(しょう・こうせつ。北宋の儒学者)が、必ず前知できるとしているのは、利害損得の心をまだとり去り切れていないからです』」

◆「そもそも幾とは、事のはじめの微かな動きであり、結果の吉凶をまずもって示唆する前兆である」

 陽明のいう「幾」について説明をするにあたり、ここでちょっと話しの向きを変えます。
 私は、毎日、パソコンを立ち上げるとき、「out look」から開始するのですが、いつ頃からだったのか、1年か半年前ころからだったかと記憶していますが、王陽明の高弟・王龍溪の教えの中に
「幾(兆し)」
に関する説があり、それで「out look」を起動したときに表示されるメールの数を予測するようになったのです。
 開始した当初は、10回試みて、8〜9回ピタリと当たっていましたが、その的中率が次第に落ちていきました。開始当初、的中率が非常に發ったことは、たまたま私の話を聞かれて私と同じことを試みられた「姚江の会・群馬」のメンバーの柏村学氏が共感して下さっていたので、私の嘘やハッタリなどではないことはお分かりいただけると思います。
 原因は、分かっていました。
 成功体験に気をよくして、当てよう、当てようと思う気持ちが強くなっていったからです。当てよう、予測しようという思いは、善い事をしたり誰よりも上手にプレイしたりして誉められたいとか、あるいは実業家として成功して良い思いを味わいたいなどという思いと同じで、私欲だからです。私欲は、心の本体である良知の働きを妨げてしまうのです。
 これではいけないと、はやる気持ちを静め、気持ちを入れ替えてからは、やはり10回中7〜8回のペースで、二桁の数字の一桁は当たるようになりました。その間、ピタリ的中は10回中1〜2回となりました。
 それが、4月24日は、三桁がピタリ的中したのです。
「out look」を起動しているとき、最初、「178」という数字が思い浮かびましたが、すぐに「いや違う」と思い直したとき、
「108」
 という数字が自然に口を突いて出てしまっていました。
 で、表示を見ると、「108」だったというわけなのです。
 実は、これまでにも3桁は表示されてきましたが、その内の一桁や二けたを当てる程度で、
3桁全部を的中させたのは初めてのことでした。
 ここまで読まれてきた方の中には、
「だから、それがどうしたの」
 と思われる方もいらっしゃることでしょう。
 このことについて、説明を試みたいと思います。
 たまたま、数か月前に岡本史郎氏から贈って頂いた
『ビジネスパーソンのための易経入門』(朝日新書)
 という本が手元にあるのですが、この本をパラパラと拾い読みさせて頂いている時に、ある一節を目にして、
『これは、一度、「陽明学研究会・姚江の会」でも、「幾(兆し)」について触れておかなければ』
 との思いに駆られたのでした。
 その一節というのは、以下です。

「十翼のひとつ『繋辞上伝』に
〈それ易は聖人の深きを極め幾(き)を研(みが)く所以(ゆえん)なり〉」
 という文章があります。
〈易は、聖人が深遠なこの世の法則を極めて、幾を研究するためのものだ〉
 と言うのです。
 幾とは、『機微』のことです。機微とはわずかな動き、つまり『兆し』のことです。同じ十翼のひとつ『繋辞下伝』には、
〈そもそも幾とは、事のはじめの微かな動きであり、結果の吉凶をまずもって示唆する前兆である〉
 としています。
 『研』は、物を擦り砕いて粉末にすることです。ですから、極めて微細精密なところまで物事を推しはかり明らかにすることを意味します。
 物事の極めて微妙なる兆し、目の前で事が起こる前にあるかないかわからないほどの極めて微(かす)かな兆し、それが幾です。
『中庸』には、次の言葉があります。
〈微かなるより顕(あら)わるるは莫(な)し〉
 ほんのわずかなことでも、必ず顕在化するというのです」(第一章)

 物事には、兆しがあるのです。
 さらに、本書の巻末に『中庸』の一節が引用されていました。
「至誠の道は、以(もっ)て前知(ぜんち)すべし」
 物事は、前もって予知できる、と言うのです。
(次回に続く)


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akio_hayashida at 12:20|PermalinkComments(2)TrackBack(0)陽明学 | 日常生活
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