2018年09月18日

●王龍溪、中庸の道を実践するための「事上磨錬」について語る


◆「事上磨錬によって手に入れることのできるものは、静坐によって得るものの倍です」

 以下、吉田公平・小路口聡・早坂俊廣・鶴成久章・内田健太
『王畿「龍渓(りゅうけい)王先生会語」其の11』
 からです。
 王龍渓(1498〜1583。Wang Ji)は、陽明学の創始者・王陽明の高弟で、陽明亡きあとの真の後継者です。その生涯を、師の教えの啓蒙活動に捧げました。
 日本陽明学の祖・中江藤樹は、王龍渓の思想を契機に大悟し、藤樹の弟子たち、特に熊沢蕃山と並ぶ二大弟子の一人の淵岡山(ふち・こうざん)とその門人たちは、王龍渓の思想を重視し、実践体得に努めたことが知られています。
 つまりは、日本陽明学を理解するには、王龍渓の思想を学ぶべきなのです。なお、幕末の陽明学者として知られる佐藤一斎は、王龍渓を評価しませんでした。
 真の求道者に、以下のさらなる解説は不要でしょう。

///////////////////////////////////////////////////////////////////

【事上での磨錬から入って、状況に左右されないのを、徹悟と呼びます。】

ある人が言った。
「あなたが、
〈吾が儒は、中庸の道に合致しており、禅学や俗学とは異なる〉
 と言われるのは、正しいでしょう。
 かといって、恐らくは、外から強引に手に入れようとしても、出来るものではありません。どうか、入り方を教えてください」
 私(王龍溪)が言った。

「君子の学は、悟りを得ることを貴(とおと)びます。この悟りの門が開かれないと、本当に学んだという確証は得られません。悟りに入る道(入悟)には、三種類あります。
 言葉から入る者がいます。静坐から入る者がいます。人の心のありようや出来事の変動の上で本心を磨錬(錬磨)することから入る者がいます。
 言葉から入ることを、解悟と呼びます。学びの最初の転機です。
 静坐から入って、本心から悟得(自得)するのを、心悟(證悟)と呼びます。
 事上での磨錬から入って、状況に左右されないのを、徹悟と呼びます。
 静坐する場合には、必ず頼るべきものが必要です。周囲の環境が静かであってこそ、心は始めて静かになります。それは濁った水が澄むのに例えることができます。たとえ一時的に澄んだとしても濁りの元は、依然として残存しているので、風や波によって振動し、搔き乱されたとたんに、やはり再び濁りの元が雑(ま)ざりあって、容易に濁ります。
 もし人情事変の上の磨錬から行っていけば、完全に透き通って、流れるがままに絶妙に応じることができます。水面は複雑多様に揺れ動いていても、真の主宰者は常に一定しているので、磨錬すればするほどますます本体はその輝きを増してきます。そうなるともう澄んだり濁ったりすることはありません。これを実証実悟(真実の悟り)と言います。

 思いますに、静坐によって手に入れることのできるものは、言葉によって伝えられるものの倍です。事上磨錬によって手に入れることのできるものは、静坐によって得るものの倍です。
善く学ぶ者は、自分の力量の大小を見計らって、時間をかけながらゆっくりと入っていきますが、それが功を成すに及んでは、得られる成果はみな同じです。

 先師(王陽明)の学も、幼年の頃は、やはり言葉から入りましたが、ついで静中から悟りを得て、その後、野蛮な地に居住すること三年にして、万死に一生を得た経験の中から、度重なる磨錬を得た結果、やっと徹悟の証を手に入れました。
 生涯にわたる経綸(世直し)の事業は、全てその余事(本来の仕事ではなく、余力で行う仕事)なのです。儒とは、中庸の道を実践する実学です。」(『龍渓王先生会語』巻四)

▼王龍渓(畿)
王龍渓

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2018年09月12日

●司馬遼太郎はもちろん、渡部昇一も知らなかった「日本陽明学」の話

◆日本が世界に誇る二大文化の一つが浮世絵であることは分かるが、もう一つは「藤樹心学」こと「日本陽明学」なのである。

 渡部昇一(わたなべ・しょういち)
『「日本の歴史」す掌擁咫∪こΠ譴療垰圈々掌佑糧鳳鼻戞WAC)
 を読了した。
 驚いたことには、「日本陽明学」についての記述がほぼゼロに近かったことだ。その代わりというべきか、石田梅岩の「石門心学」を過大評価、
「石田心学と並んで日本が世界に誇る江戸の二大文化の一が浮世絵である」(第9章)
 とあった。文中には、「石田心学」と記されているので悪しからず。
 日本が世界に誇る二大文化の一つが浮世絵であることは分かるが、もう一つは「藤樹心学」こと「日本陽明学」なのである。
 司馬遼太郎はもちろん、渡部昇一も、日本陽明学の祖・中江藤樹を先駆とする「藤樹心学」の門人たちの大活躍ぶりをご存じなかったようで、残念としか言いようがない。
 そもそも「石門心学」は、中江藤樹の「藤樹心学」の影響を受けて成立したのであり、藤樹の高弟の淵岡山(ふち・こうざん)が京都の学館で陽明学と藤樹学がセットになった「藤樹心学」を教授したことで、日本各地から留学生が参集し、京都は「日本陽明学」のメッカとなったのだ。

◆「藤樹心学」は、日本各地で学ばれたが、中でも最も盛んだったのが、会津藩であった。

 同時期に、藤樹の高弟の熊沢蕃山も、岡山藩の藩政改革に力を尽くし、成果を上げ、日本全国にその名を轟かせて、貴族や大名たちの尊敬を一身に集めている。いつしか藤樹の二大高弟の蕃山や岡山の名は、将軍の耳元にまで届いていたのである。

 やがて江戸の繁栄と共に、「藤樹心学」のメッカは江戸に移り、伊勢商人・二見直養(ふたみ・なおかい)を藤樹心学のリーダーとすることになるのだが、やはりこの直養の名も、日本全国に響き渡り、さらには将軍の耳に達するのである。

 「藤樹心学」は、日本各地で学ばれたが、中でも最も盛んだったのが、会津藩であった。と言うべきか、正確には、主に会津藩の庶民に受け入れられたのである。
 その事実は、拙著
『評伝・中江藤樹』
 そして吉田公平・小山國三
『中江藤樹の心学と会津・喜多方』(研文出版)
 にさらに詳しい。
 是非の一読をお勧めする次第である。
 
 なお、拙著『評伝・中江藤樹』はアマゾンでは売り切れているので、購入希望の方は、コメント欄を通じてお申し込み頂きたい。また、フェイズブックでも受付させて頂いている。

『中江藤樹の心学と会津・喜多方』


評伝・中江藤樹 知行


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2018年07月01日

●「戦友」の「是が見捨てておかりょうか」が、江戸しぐさだ

◆『「是(これ)が見捨て(みすてて)ゝ置かれうか」とありますが、これが「江戸しぐさ」なんです』

 江戸しぐさと言えば、すぐにやれ、傘かしげだ、肩引きだと、江戸しぐさで言われる「稚児(ちご)しぐさ」を思い受かべる人が多い。
 実際、江戸しぐさを批判するべく書かれた公平性のないウィキペディアの記事にも、まるでマナーであるかのように紹介してあるので、今後も江戸しぐさはマナーだとする誤解が付きまとうのに違いない。

 江戸しぐさを一言で言えば、
「惻隠(そくいん)の情」「思いやり」
 である。

 であるわけなのだから、江戸しぐさを喧伝する人は、私欲を減らし、思いやりある人になるよう努めなければならないはずなのだ。であるにも関わらず、各種マナーを学んだり、江戸文化の知識を増やすことに血道をあげる人が多いように思えてならない。

 平成30年6月27日、久々に江戸しぐさ語り部の越川禮子先生とお会いし、お話を伺った。御年92歳である。ちなみに私の母も、今月で89歳になる。
 以下、越川禮子先生の師、つまり江戸しぐさの提唱者の芝三光こと小林和雄の言葉。

芝三光(しば・みつあきら):
『「戦友」って軍歌がありますよね。その歌詞の中に
「嗚呼(ああ)戰(たたかい)の最中(さいちゅう)に /鄰(となり)に居(お)りし我(わ)が友(とも)の/ 俄(にわか)に はたと倒れしを/ 我は思はず驅(か)け寄って 
軍律(ぐんりつ)嚴(きび)しき中なれど/ 是(これ)が見捨(みすて)て置かれうか /「確(しっか)りせよ」と抱き起し /假繃帶(かりほうたい)も彈丸(たま)の中」
 の「是(これ)が見捨て(みすてて)ゝ置かれうか」とありますが、これが「江戸しぐさ」なんです』(越川禮子先生からの聞き書き)

「是が見捨てておかりょうか」
 が、江戸しぐさだというのだ。
 越川先生は、
「インパール作戦で、上官の命令に従わず、部下たちの犬死を避けようと師団の独断退却を行った佐藤幸徳(こうとく)中将の〈抗命〉も江戸しぐさです」
 と付け加えられた。

 「戦友」は、私が幼い頃からよく耳にし、私自身口ずさんだこともある曲だが、勇ましさはないので「戦時歌謡」だとばかり思っていたのだが、何と軍歌だったとは。

 そこで、調べてみた。
 明治38年の日露戦争当時に作られたという。作詞者・真下飛泉(ましもひせん)には戦争体験はなく、のちに義兄となる木村直吉から、奉天(ほうてん・現在の中国東北部の瀋陽市)会戦の実情を聴いて作詞したと伝えられている。(ネット上の「戦友全歌詞」より)
 
 Uチューブの「戦友 歌詞14番完全歌唱版 日本の名曲 Cover 華之将」の解説にこうある。

「戦友」(1905年):
唱歌:軍歌、作詞:真下飛泉、作曲:三善和気。この歌は全14番の詞から成り立っており、日露戦争時の戦闘の詩がつづられている。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲調が人々の共感を呼び、たちまち全国に広まって永く歌い継がれました。戦前の日本でこの歌を知らない人はなかったといわれます。日露戦争当時の陸軍は最終的に将兵がこの歌を歌う事を禁止した。太平洋戦争中も「戦友」は禁歌だったが、多くの兵士に愛されて歌唱されていたと言う。

 ついでながら、以下、ウィキペディアから。

 全14番の詞から成り立っており、舞台は日露戦争時の戦闘である。関西の児童たちの家庭から女学生の間で流行。やがて演歌師によって全国に普及した。歌詞中の「軍律厳しき中なれど」が実際に軍法違反で、「硝煙渦巻く中なれど」と改められたことがある。
昭和の初期、京都市東山区の良正院の寺門の前に、『肉弾』の作者桜井忠温大佐が「ここは御国を何百里・・・」との一節を記した石碑が建てられた。日華事変が起きた際に、哀愁に満ちた歌詞、郷愁をさそうメロディーなどから「この軍歌は厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられ、陸軍も将兵がこの歌を歌う事を禁止した。また軍部に便乗した人々から「この石碑を取り払うべし」との意見が出て物議を醸した。これは沙汰止みとなり、石碑自体は健在である。
 太平洋戦争中「戦友」は禁歌だったが、下士官・古参兵は「今回で戦友を歌うのをやめる、最後の別れに唱和を行う。」と度々行い、士官・上官によって黙認された場合もあり、兵隊ソングとして認知されていた。
 戦後連合国軍最高司令官総司令部は一切の軍歌を禁止していたが、一兵卒の悲劇を歌うこの歌は国民から愛され続けた。

戦友


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akio_hayashida at 20:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 江戸しぐさ | 歴史

2018年06月29日

●吉田松陰『講孟劄記』を読んで


◆「いったい、人の人たるところは、私心を除(のぞ)くという点にある。これが聖学、すなわち孔子・孟子の教えにおける修養の道である」

 上巻の巻末には83年3月に一読したとのメモ書きがあったが(当傍線や付箋がついていることから、当時は、下巻の半分までは読了したようである)、近藤啓吾・全訳注、吉田松陰
『講孟劄記(こうもうさっき)』
 を読んでいてつくづく思うことは、陽明学についての理解があって読む今と、かつてとでは、まるで読み方が違うということだ。
 というのも、吉田松陰が27歳の年の安政3年に脱稿した本書には、既に松陰なりの陽明学理解が反映されているからである。
 「松陰なり」と記させて頂いたが、松陰の陽明学理解と私のそれとの間には、矛盾や齟齬(そご)はまるでないことをお断りしておく。
 特に、幕末の陽明学者・山田方谷も重視した孟子と告子(こくし)との議論の部分に関する松陰の解説は、読んでいてとても分かり易いし、小気味がいい。

 本書の「巻の四上、第二章」にこうある。

王陽明の説いたことばに、
〈聖人とは私欲がすっかり無くなって、その心が天理そのものになった人物に名づけたものである。重量が重いか軽いかという問題ではない。されば聖人は純金に似ている。それが軽いか重いかの問題は、聖人たる価値とは無関係である。されば聖人のうちにも、自然、軽重の差があって、堯(ぎょう)・舜(しゅん)や孔子のごとき聖人は百両の重さの金であり、文王(ぶんのう)や周公(しゅうこう)は7、80両、湯王(とうおう)や武王(ぶおう)は、5,60両などというように、それぞれに重さに差があるが、その純金であることは同一である。
もしわれわれでも、私欲をすっかり無くして天理そのままになったならば、1両や2両の純金の量があるであろう。
 しかるに後世の学徒は、この点(自分を純金にしようとすること)に努力せず、いたずらに才力・智力をたいせつに考えて知識の獲得にばかり努力していることは、銅や鉄を混(ま)ぜて金の目方(めかた)を重くしようとしているようなものである。それ故に、学問すればするほど、聖人から遠のいてゆく〉
とある。
〔この説は、『伝習録』に見える。今、記憶によってその大意を記したのみである〕この陽明の説は、実に明白である。
 しかるに学徒は、大方、銅や鉄を混ぜて目方を増やそうとする気持ちを止めかねていることであって、大いに歎(なげ)かわしい。
 以上の実情から、わたくしは自身に決意するところがある。いったい、人の人たるところは、私心を除(のぞ)くという点にある。これが聖学、すなわち孔子・孟子の教えにおける修養の道である。さればわたくしは、これを学問の主体とし、その他の記誦(きしょう。暗唱)・詞章(ししょう。詩歌や文章)以下のことは、一個の技藝(ぎげい)として視(み)ようと思う。・・・(中略)・・・
 ただ聖人は、技藝は技藝として視て、これを人の人たる価値とはされなかったのである。」

 繰り返しになるが、吉田松陰は本書を脱稿したときには、なんとわずかに27歳という若さであった。
 昨今の同年代の若者の中に、これほどの理解力のある、精神性の高い若者がいるであろうか。
 中国に次いで、欧米列強に侵略されるかもしれないという危機意識が日本列島に充満していた時代が、吉田松陰のような逸材を誕生せしめたのに違いない。
 そう言えば、王陽明が生きた時代も、中国歴史上かつてないほどの悪政に満ちた時代であった。

 吉田松陰は、安政6(1859)年に、30歳で刑死するのである。
 
 大老・井伊直弼が、この松陰や、同じく陽明学を奉じていた橋本左内という有為の人物を殺してしまったのは、人を見る目がまるで無かったと言っていい。

吉田松陰が、その晩年に陽明学に傾倒したことは有名な話なのだが、松陰に私淑し学ぶ人は多いのだが、『伝習録』を読んでいないのは、誠に残念。

▼近藤啓吾・全訳注、吉田松陰『講孟劄記』(講談社)

講孟劄記


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2018年05月10日

●中野三敏『江戸文化再考』と陽明学について考える


◆「江戸の儒学は、朱子学も含んだ、単なる展開としての陽明学というものが江戸の儒学の中心であった」

 江戸文学研究で知られる中野三敏先生のご著書
『江戸文化再考、これからの近代を創るために』(笠間書院)
 にこうある。

「朱子学を乗り越えた陽明学をベースとして非常に豊かな発展というものが、江戸の儒学の中で考えられる。・・・(中略)・・・私は、仁斎学も徂徠学も、いずれも朱子学の発展系としての陽明学をヒントにして、そこからもう一度朱子学を批判しようとした。その流れとしてあるんだと考えるのが、一番簡単な、また分かり易い立場なのではなかろうかと思っております。
 ですから、江戸の儒学はですね、朱子学も含んだ、単なる展開としての陽明学というものが江戸の儒学の中心であったというふうに考えていけば、落ち着きのある、よく分かる説明になるんではないかと思っております。
 そしてそこに、近世的自我というようなものがはっきり主張されることになるんです。それが、先ほど申しましたように、陽明学の特徴であります〈人欲の肯定〉でありますとか、〈人間の自然の主張〉でありますとか、〈個性主義〉でありますとか、あるいは〈三教一致〉の考え方でありますとか、〈史学重視、文学重視〉の考え方でありますとか、こういうものはすべて江戸の人の、いわゆる江戸的な自我、江戸人としての自我というものを非常に多きく膨らませ、立派に定着させた大きな理由だと考えております」(
「第4章 近世的自我、思想史再考」)

 江戸文化の根底には、陽明学があったという理解で、中野先生が、まさしく私と軌を一にしておられることがお分かりいただけたと思う。

◆「私達は、150万点のうちの2万点、つまり1パーセント強しか読めなくなっている」

 
そして中野先生のご主張で、一番耳を傾けるべきは、以下の
「和本リテラシーの回復」
 
ということ。以下、要約。

「奈良朝から始まって明治以前に出来た書物といえば、岩波書店が作った『図書総目録』によれば公表で約50万点。同じものが『源氏物語』だけでも800も1000もあるので、それらを一点と勘定して、50万点が『図書総目録』に収録されている。もちろん、そこに入っていない本が山ほどある。おそらくその倍あるとみて、100万点。その他に、一冊300円、500円で古書会館で売っている本、誰かが手控えで書いたとか、旅日記とか、素性不明の人の͡コヨリ綴じの本まで全部入れると、おそらく150万点はある。その内の9割は、江戸時代に出来た書物。つまり、江戸時代に出来た書物だけでも100万点は楽に超す。我々の先祖の叡智、財産、残してくれた知識のあらゆる総体がそこに詰まっている。
 そして、それが全部、変体仮名と草書体の文字で書かれている。
 そのうちの、活字になって読めるものというのは、約2万点に満たないのだ。有名な『奥の細道』や『源氏物語』なんていうものはいっぱい出ている。
 私達は、150万点のうちの2万点、つまり1パーセント強しか読めなくなっている。これが実情。
 おそらくアメリカ人の小学生が、18世紀の独立宣言を読めないといことは、ないと思う。読むだけなら、読める。では、日本人で、超一流の知識人と言われる方でも、例えば明治の初めに出来た福沢諭吉の『学問のすすめ』(1872年)の原本を出されて、読めるかと言えば、かなり難しい。
 これこそが、日本の近代の一番大きな歪というものを生じさせてしまっている、大きな理由なんではなかろうかと思う。
 だから、せめて小学生くらいに、変体仮名というものがあったんだということぐらいは教えておいたらいいのではと思う。そうでないと、これまでずっと千年も2千年も積み上がってきた我々の先祖からの叡智というものが本当に雲散霧消してしまう」
(「第5章 和本リテラシーの回復 その必要性」参照)


江戸文化再考 中野三敏

 
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