2023年12月04日

●執行草舟氏のシュタイナー教育に関するご発言に異議あり!

◆シュタイナー教育こそがシュタイナー思想の核ともいえる「人間学」そのものであり、その世界観や宇宙論とも一体のものである

 この動画のこと、FBFの盛田浩司氏にご教示頂いた。執行氏のご著書は手にしたことがないのだが、氏のご著書をいろんな方が推薦されているので、その影響力からも無視はできないので、以下に感想を述べさせて頂く。
 盛田氏が私に見るように薦めて下さったのは、私がシュタイナー教育を重視するからだと思った。というのも、執行氏は、のっけからこう述べておられるではないか。

「ルドルフ・シュタイナーというドイツの哲学者について語る場合は、シュタイナー教育に特化しちゃうと基本的には間違いなんだよ。シュタイナーが提唱している〈自然観〉というのがあるんだけれども、それに基づいてヴァルドルフ学校って言ったかな、シュタイナーの提唱していることを中心にして学校を作っているんだけど、あれはねシュタイナー哲学ではないんだよ。一つのね自然主義っていうか、自然食とかそういうのと同じ考えで、そういう人たちがヴァルドルフ学校という、シュタイナー哲学をもじって、シュタイナーが有名な哲学者だから(学校運営を)やってるんで、あんまりシュタイナーと直接の関係はないよね。」

 以上、執行氏が、シュタイナー教育に触れておられる部分だけを抜粋させて頂いたが、要約すると
「シュタイナー哲学とシュタイナー教育は直接の関係はない」
「ヴァルドルフ学校でやっていることは、シュタイナー哲学ではない」

 と述べておられる。
 シュタイナー教育とシュタイナー思想が別物だという話は、過去、私が親しくさせて頂いてきたシュタイナー派の日本の研究者はもとより、英や独の人達からも耳にしたことがない新説である。こうした見解は、これまで聞いたことがなく、初耳なのだが、私に言わせて頂くなら、シュタイナー教育こそがシュタイナー思想の大変重要な「人間学」そのものであり、当然、シュタイナーの医学・薬学、農学(バイオダイナミック農法)、社会学(社会三層化論)、建築学、キリスト教観(キリスト者共同体)etc、つまりその世界観や宇宙論とも一体のものなのだ。

 そもそもシュタイナー教育は、障害児の治癒教育がもとになっている。シュタイナーが若い頃に、オットーという名の水頭症という障害を持つ少年との出会いに端を発しているのだ。

◆水頭症による酷い学習障害の少年の治癒に成功、彼は医師になった

これは余談になるが、18歳で入学しウィーン工科大学の学生だったシュタイナーは22歳の時、ドイツ文学の指導教官カール・ユリウス・シュレーアー(1825〜1900)教授の紹介で当時著名だった出版家ヨーゼフ・キルシュナー(1853〜1902)から注目され、ゲーテ自然科学に関する著作の校訂(著作の批判的な研究を行い文字や語句の誤りを正すこと)と序文の執筆を依頼されている。実は、この時に始まるゲーテ研究こそが、のちのシュタイナーの人智学のベースとなったのだ。
 「ドイツ国民文学叢書」の一冊となる「ゲーテ自然科学論文集」は、翌年に第一巻が上梓されたが、全5巻が完成するのはそれから14年後の1897年のこと。その間に『ゲーテ的世界観の認識論要綱』(森章吾氏や浅田豊氏による邦訳あり)を刊行している。
 22歳の若者が、ゲーテ自然科学の校訂と序文の執筆を依頼されるというのは、前代未聞の大抜擢であり、当時のドイツの学者たちを驚嘆させたに違いない。

 本題に戻る。
 ウィーン工科大学の学生のシュタイナーは、1884年の23歳の時、同じくカール・ユリウス・シュレーアー教授から、ウィーンのシュペヒト家の4人の子どもたちの住み込み家庭教師の仕事を紹介された。この4人の子どもの内の末っ子のオットー(当時10歳。11歳半の説もある)は、重い水頭症(脳脊髄液が頭の内側で過剰に留まる病気で頭の大きさが通常より大きい)という障害を持っていた。
 シュタイナーが初めて会った頃のオットーは、数週間口をきかなかったり、家族との食事にも加わらず、ごみ箱から残飯を拾って食べたりした。学校での試験の時は、答案用紙には何も書くことができず、大きな穴を開けるだけで提出、読み書きは勿論、計算の初歩さえ全くできず、わずか15分間の授業にも耐えられなかった。当時高名な精神分析医で内科医だったヨーゼフ・ブロイアーも、彼の教育には全くお手上げ状態だったという。

 シュタイナーは、まず、少年の信頼を獲得することからスタートしている。少年の肉体的・心的な状態に常に配慮しながら、わずか30分の授業をするための準備に2時間をかけたという。
当時、水頭症は不治の病で、学習活動は不可能だと思われていたが、シュタイナーは、編み物などの手や足を使った作業に取り組ませることで集中力をつけさせた。結果、わずか1年半で少年の頭は小さくなり、肉体的にも健康になり、ギムナジウムの試験に合格、学校に受け入れられた。その後、オットーは医学部に進み、医師となったのだった。オットーは、第一次大戦に従軍して亡くなっている。
 シュタイナーは、29歳までこの家庭教師の仕事に携わった。
 このときの経験こそが、のちのシュタイナー教育の出発点であり基礎となったのである。
 生理学と心理学を実践的に学んだシュタイナーは、後に
「教育と授業が、真の人間認識に基づくひとつの芸術になるべきことを悟った。」
「私は、このような環境に投げ込まれたことに対して運命に感謝せざるを得ない。」

 などと語っている。

◆シュタイナー自身による教育に関する著作

 その後、社会民主主義者ヴィルヘルム・リープクネヒトの創設したベルリン労働者教養学校から講師として招璃され、その「歴史」と「話し方 (Redeubung)」についての講義が新鮮だと好評を博している。
 やがてシュタイナーは、神智学協会へ接近をしつつ、彼の社会改革構想の中核に教育を位置づける。第一次大戦終戦直後の1919年、労働者の人間性回復に尽力していたタバコ工場主エミール・モルトの依頼に応え、労働者の子どもたちのための学校として
「自由ヴァルドルフ学校(日本でいうシュタイナー学校)」
 の創設アドバイザーを引き受けるのだった。
 正しい人間理解、人間学が確立されてこそ、教育は、建築は、医学は、農業は、社会は、銀行は、こうあるべきである、と言えるのであり、シュタイナーの人智学こそが、真に的をついた人間学であると私は確信している。
 
 執行氏が、ルドルフ・シュタイナー思想をとても高く評価しておられることには、私も大いに感謝し共感するところだが、シュタイナー教育への評価に関しては、私とは意見が違うので、以上、思いつくままに縷々述べさせて頂いた。

 シュタイナー教育に関する著作は、シュタイナーの手になる著作以外を含めると、今では枚挙にいとまがないほどの数が出ている。私が1971年頃にシュタイナー思想と出会った当時と比べたら、隔世の感がある。
 そこで、シュタイナーの教育に関する著作を披露させて頂き、本稿を終わりとさせて頂きたい。日本語文献だけでも次のようなものがあるではないか。シュタイナーが如何に人材育成に、教育に力を入れていたかが分かって頂けるのではないだろうか。私のもう一つのライフワークの日本陽明学も、人材育成のための最高のツールと言っていい。

 私は、かつて高橋巌先生、日本で最初のシュタイナー幼稚園の創設者・高橋弘子先生、映像文化史家・松本夏樹氏、人智学出版社の河西善治代表、子安美智子先生、建築家の上松祐二先生、西川隆範先生、人智学研究家・小林直生氏とも交友あるいは面識があったが、中でも私が私淑し親しくさせて頂いてきたのは東大名誉教授・新田義之先生である。新田先生は人格者でいらっしゃるし、そのドイツ語力は、余人を許さないので、先生の翻訳書はお薦めである。イザラ書房とは私も面識があるが、シュタイナー関係の本の専門出版社である。
 かつて面識があり、現在FBで親しくさせて頂いている方に日本のシュタイナー学校の教師・森章吾氏がいる。森氏には、私のデビュー作でロングセラーとなって今に至る『新装版・真説「陽明学」入門』の執筆の際に協力を頂いた。
 上記の他にも面識がある方がいらっしゃるが、今思いつくままに記させて頂いたので、どうか失礼をお許し頂きたい。

・新田義之、他・訳『精神科学の立場から見た子供の教育』(みくに出版)
・新田義之・訳『オックスフォード教育講座、教育の根底を支える精神的心意的な諸力』(
イザラ書房)
・新田義之・訳『教育の基礎としての一般人間学』(イザラ書房)
・高橋巌・訳『子どもの教育』(筑摩書房)
・高橋巌・訳『ルドルフ・シュタイナー教育講座2教育芸術1,方法論と教授法』(創林社)
・『ルドルフ・シュタイナー教育講座1、教育の基礎としての一般人間学』(筑摩書房)
・高橋巌・訳『ルドルフ・シュタイナー教育講座〈別巻〉、十四歳からのシュタイナー教育』(筑摩書房)
・高橋巌・訳『治癒教育講義』(筑摩書房)
・高橋巌・訳『オイリュトミー芸術』(イザラ書房)
・西川隆範・訳『シュタイナー教育の基本要素』(イザラ書房)
・西川隆範・訳『シュタイナー教育の実践、理想の学校とは』(イザラ書房)
・西川隆範・訳『人間理解からの教育』(筑摩書房)
・西川隆範・訳『シュタイナー教育ハンドブック』(風濤社)
・西川隆範・訳『子どもの健全な成長、シュタイナー教育基礎講座1』(アルテ)
・西川隆範・訳『教育の方法、シュタイナー教育基礎講座2』(アルテ)
・西川隆範・訳『精神科学による教育の改新、シュタイナー教育基礎講座3』(アルテ)
・西川隆範・訳『あたまを育てるからだを育てる』(風濤社)
・松浦賢・訳『霊学の観点からの子どもの教育、講演+論文』(イザラ書房)
・松浦賢・訳『シュタイナー先生、こどもに語る。』(イザラ書房)
・坂野雄二、落合幸子・訳『教育術』(みすず書房)
・佐々木正昭・訳『現代の教育はどうあるべきか、現代の精神と生活』(人智学出版社)





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2023年04月10日

●拙著『新装版・真説「陽明学」入門』の中国語版『青年们、读王阳明吧!(青年よ、王陽明を読め!)』が刊行!

 
 ブログに投稿しなければ、と思いながら、なんと4月10日の今日が、今年初の投稿となる。読者の方には誠にもって申し訳ない。
 どうしたってブログよりFacebookの方が使い勝手がいいので、体力の低下も手伝い、ブログへの投稿が億劫になっているのだ。
 前置きは、これぐらいにさせて頂く。

 ご報告させて頂きたいことが一件ある。
 拙著『新装版・真説「陽明学」入門』の中国語版が、『青年们、读王阳明吧!(青年よ、王陽明を読め!)』と題して、中国最大手の東方出版社から、昨年12月に刊行された。
 ただし、私が見本誌を受けとったのは今年の3月1日のことで、この時初めて中国語版の無事の刊行を知ったのだ。「無事の刊行」と書かせて頂いたのは、中国の場合は政府による検閲があるからである。引っかかったら、当然出版差し止めとなる。

 この度の拙著の中国語版の刊行は私や妻や出版社にとってもめでたい事だが、中国で陽明学が学ばれることは今後の日中関係にとっても大いに歓迎すべき事の筈なのである。
 ただ、本書はかれこれ30年ほど前の著作なので、陽明学理解の深さという点では、今の私にははるかに及ばない。それ故、最新の陽明学理解の一端を披露した
「序文・中国の読者へ向けて」
 を掲載させて頂いた。
 また、本中国語版では、『新装版・真説「陽明学」入門』の「第3部、日本陽明学派の系譜」が割愛されたので、
「補遺一 日本における四度の陽明学ブームについて」
 と題しての書き降ろしを掲載させて頂いた。良かれと思って、原稿料なしで書き降ろしたこの一文を、中国の翻訳者の方にも歓迎して頂いたのは、嬉しい一事であった。

 もう一つ、残念だったことがある。
『新装版・真説「陽明学」入門』の巻末にある文芸評論家・小川榮太郎先生の解説文もカットされてしまったこと。中国では、昨今の陽明学ブームで、学者の手になる陽明学本が目白押しだが、あくまでも、一般人向けの陽明学の入門書として位置づけしたかったようだ。

 実は、拙著
『渋沢栄一と陽明学』(ワニブックス)
 も、中国語版が刊行されることになっており、既に一年以上も前に契約書を取り交わしている。その後、渋沢栄一と陽明学に関する新資料も目にしているので、中国語版に加筆させて頂くつもりでいる。

 拙著の中国語版の刊行が象徴的だが、中国では現在、一大陽明学ブームが起きている。だというのに、我が国では、大手マスコミ、マスメディアは勿論、教科書からもスルーされて久しく、戦後以来わが国の時代劇からも思想や宗教が排除され続けており、さらには、陽明学は保守の評論家たちからも等閑視されるという、何とも情けない状況が続いているのは、悲劇を通り越して喜劇としか言いようがない。

 諸外国と比較すると、まだましと言われる昨今の日本人の高いモラルを醸成してきたのは、江戸期の日本陽明学を中心とする儒教、仏教、神道は本来一つだとする「三教一致」の思想であった。とはいえ、その事実に気づくには、江戸人が当たり前に学んでいた儒学や禅学や浄土教や神道についての教養がなければならないのだが、私の経験から言って日本陽明学を学ばれるだけでも十分だと思っている。

 今の私は、日本陽明学の再興を念じつつ、王陽明の言行録『伝習録』下巻の現代語訳のラストスパートに余念がない。当初は、口語訳にするつもりで執筆を開始したのが今から6〜7年前のことで、本稿を遺作と思ってのこと。

中国語版 真説陽明学入門 青年よ王陽明を読め

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akio_hayashida at 23:04|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 中国

2022年11月01日

●良知心学と武術のこと、拙著の中国語版の刊行など、近況報告。


 古希の私が、いよいよ11月を迎えた。
 ブログにはなかなか投稿できなくて、読者の方には誠に申し訳なく思っている。それでもFBやツイッターやインスタグラムには投稿させて頂いているので、是非、覗いてみてもらいたい。

 江戸期に盛んになった「夕雲流無住心剣術」に代表される心法の剣術が、禅学のみならず、陽明学の影響も受けていたことを知り、「心法の剣術と日本陽明学」をテーマとする年表の制作を思い経ち、未だに年表の執筆に力を入れている。
 既成の日本史の年表には、日本陽明学は勿論、剣術流派や剣客の事は記載されてこなかったので、年表にしてみることで、これ迄見えなかったものが見えてい来るのではないかと思ってのこと。やっぱり、日本陽明学の発展(特に、中江藤樹の高弟の熊沢蕃山の活躍)と心法の剣術との間には明らかに相関関係が伺えた
 この事については、六月の都内文京区での講演会や、先月の都内港区での講演会でも触れさせて頂いたのだが、武術家の方々の場合、武術の技術論には興味があっても、心学にはまるで興味を持てないことが先月の講演会で思い知らされたのは、今更と言っていいのかもしれない。知識欲を満足させる知識の蓄積には興味を持てても、心の修養を説く心学にはまるで興味を持てないという昨今の状況と同じだからである。

 心法の剣術の流派では、武士と言えどもテクニックだけではなく、人間性を高めること、真の人間に成るための修養も同時並行で心がけるべきで、心を養う事は本当の意味での一流の武術家になるための必要条件だ、と説いているのである。
 言い方を変えると、幸せになるにはお金儲けが大事だと信じている人と同じで、強い武術家になるには勝つための技術を学ぶことが大事、人々から尊敬される知識人になるためには大学や大学院で学んで優れた知識を得ることが大事だと信じているのだ。
 世間一般では、善い知識を得たら、善い人間に成れると思っているのかもしれないが、『聖書』をどれほど暗記できていようが、「四書」について多くを語れるからと言って、人間性が優れているなどということはあり得ない。心を正すことこそが、真の人間に成るための絶対条件だとは思っていない点に、問題があるのである。

孟子:「ほんの一にぎりか二にぎりくらいの桐や梓の木でさえも、これを育てようと思えば、誰でもこれを育てる方法を知っている。ところが、自分の心のことなると、その修養の方法をまるで知らないのだ。まさか自分の心よりも、桐や梓の方が大事だなどとは思っていないはずなのだが、考えが浅いからこそ、そうなのだ」(『孟子』告子・上篇)
王陽明:「人々は、ひとにぎりの桐や梓の木の育て方は知っているが、自分の心の修養方法は知らない」(『伝習録』下巻142条)


 さてさて、年を取ると、愚痴が多くなるらしい。💦

 以下、三つほど近況報告をさせて頂く。
 現在発売中の、蟲楮蠱羆新聞社から発行されている週刊紙「日本講演新聞」10月24日2951号に、今年の六月に都内で開催された私の講演会からの講演録の抜粋が掲載されている。今回は、
『私の中にいる「もう一人の私」』
 と題した「良知」に特化した内容となっているので、是非ご一読願いたい。ネット上からでも一読可能である。

 昨年秋に契約が成立して以来ちょうど一年が経過した先月、拙著『新装版・真説「陽明学」入門』の中国語版が、もう間もなく中国最大手の東方出版社から刊行される運びとなった。中国で、陽明学の一般書が発売になるのは、初の試みと言っていい。

 三つめは、拙著『新装版・真説「陽明学」入門』(ワニプラス)の重版三刷りが決まったこと。
 この続きは、また次回に。
 
日本講演新聞 林田明大

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akio_hayashida at 22:50|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 武術

2022年08月04日

●古希を迎えての余話(古希とは)

◆無事「古希」を迎えることが出来ました。

 FBFの方々から、私の誕生日への心温まるメッセージを沢山頂戴させて頂きました。ありがとうございます。
 今回の誕生日(8月2日)で、無事、古希(こき)を迎えることが出来ました。
 かつて書道家の故・寺山旦中(たんちゅう)先生の還暦(かんれき)(満60歳)をお祝いする盛大な会に出席させて頂いた事がありましたが、還暦で有名な「赤いちゃんちゃんこ」は赤子に戻りもう一度生まれ変わって出直すという意味があるのだそうです。
 古希(こき)は、中国の詩人・杜甫の詩
「曲江(きょっこう。きょくこう)」
 の
「酒債(しゅさい)は尋常(じんじょう)行く処に有り 人生七十(しちじゅう)古来稀(まれ)なり」
 に由来しているとあります。
「酒代のつけ(借金)は、私が行くいたるところにあるが、70年生きる人は古くから稀である。〔だから、いまのうちに飲んで楽しんでおこう〕」
 という意味です。
 そして古希のテーマカラーは「紫」。

 これを機に、以下、詩人・杜甫(とほ)について調べてみました。
 杜甫の
「国破れて山河あり」
 という有名な一句などは、文武不岐の士で酒好き文学好きだった亡父から幼い頃に教わりました。私の父は漢詩も好きで、詩吟をたしなんでいたのです。
 それにしても、杜甫は、わが国でも大変に有名な漢詩人ですが、その人生は、山あり谷ありの波乱万丈の人生だったようです。以下、興味ある人だけ読んでみてください。平凡社の『百科事典マイペディア』等を参照。

◆24歳の時、進士の試験に落第し各地を放浪、「安禄山(あんろくざん)の乱」で安禄山らの賊軍に捕らえられる

杜甫:712〜770。中国、盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。黄河の下流の河南(かなん)、鞏(きょう)の人とされる。律詩(唐代の8世紀前半に完成された詩型)の表現を大成させた。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。また晩唐期の詩人・杜牧(とぼく)の「小杜」に対し「老杜」「大杜」等と呼ばれる。
 24歳の時、進士の試験に落第し各地を放浪、李白(りはく)、高適(こうせき)らと詩酒(詩を作り酒を飲むこと)の交わりを結び、30代半ばに都の長安(ちょうあん)に出た。しかし仕官は実現せず、皇帝の玄宗は楊貴妃(ようきひ)を溺愛(できあい)して国政を怠り、杜甫は、自らの不遇と時局の危機を「詠懐五百字」に詠じた。
 「安禄山(あんろくざん)の乱(安史の乱)」では安禄山らの賊軍に捕らえられ、
「国破れて山河(さんが)あり、城春(しろはる)にして草木(そうもく)深し」(「春望」)
 の句を作った。

◆皇帝の怒りを買い左遷、憂さ晴らしで「曲江」を作った

 脱出後、新帝の粛宗(しゅくそう。玄宗の子)のもとに行き、その功で左拾遺(さしゅうい)に任じられたが、役目柄行った諫言(宰相・房琯の敗戦の責任を弁護)が粛宗の怒りを買い、わずか一か月足らずでその職を失い、左遷された。
 この時に、憂さ晴らしで曲江に通って酒を飲んで作った詩こそが、冒頭で触れた「古希」の由来となった詩「曲江」なのだ。この時杜甫は47歳。曲江は池の名で、池のほとりの行楽地を指す。
 以下は、「公益社団法人 関西吟詩文化協会」より転載させて頂いた。

 曲江
朝(ちょう)より回(かえ)って 日日(ひび) 春衣(しゅんい)を典(てん)す
毎日江頭(まいにちこうとう) 醉(よい)を盡(つく)して歸(かえ)る
酒債尋常(しゅさいじんじょう) 行く處(ところ)に有り
人生七十(じんせいしちじゅう) 古來(こらい)稀(まれ)なり
花を穿(うが)つ蛺蝶(きょうちょう) 深深(しんしん)として見え
水に點(てん)ずる蜻蜓(せいてい) 款款(かんかん)として飛ぶ
傳語(でんご)す風光(ふうこう) 共に流轉(るてん)し
暫時相賞(ざんじあいしょう)して 相違(あいたご)うこと莫(なか)れと


朝廷を退出すると、毎日春着を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで酒を飲んで帰ってくる。
酒代の借金はあたりまえのことで行く先々にあり、どうせ人生七十まで生きられるのはめったにない。(だから今のうちに飲んで楽しんでおきたいものだ)
あたりを見ると蝶は花のしげみに見えかくれして飛び、とんぼは水面に尾をつけてゆるやかに飛んでゆくのどかな風景である。
私はこの春景色にことづてしたい。我が身も春光もともに流れに身をまかせ、春のしばらくの間でも、その美しさを賞(め)で楽しみ、そむくことのないようにしようではないかと。


◆乱後、官を辞し、家族とともに飢えをしのぎながら放浪

 この乱での体験は彼の詩に深い憂愁の影を加え、最高傑作の一つと言われる「北征(ほくせい)」を作った。逆境の中、鹿州にいる妻と子を迎えに行く許可を得た杜甫は、馬に乗り従者を従えての鹿州への約350キロという長くて険しい旅の様子を長い詩にしたのである。極貧の極みにあった妻子との再会についても描かれている。
 乱後、官を辞し、家族とともに飢えをしのぎながら放浪、760年48歳の時、成都(せいと。現、四川省の省都)の近くの浣花渓(かんかけい)に草堂を営み、この地で5〜6年、平安の生活を送る。この間,四川地方の兵乱のため一時、草堂を離れるが、四川での詩は平和な自然の善意とそれに対する生活を歌ったものが多い。夔州(きしゅう)に移住。
 768年以後2年間、湖南・湖北を放浪し、老齢とともに悲壮をきわめた詩を作ったが、失意のうちに舟の中で死んだ。享年58歳。

◆杜甫の詩は、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規らに影響を与えた

 彼の詩は人間に対する偉大な誠実さのゆえに至高とされる。「安禄山の乱」を契機に、社会秩序が崩壊していく中で、杜甫は、農民・兵士の苦しみ、自己の苦しみと平安、それらを日常生活に題材をとって歌った。その詩は後世の中国・日本の詩に大きな影響を与えた。杜甫の影響は、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規らに伺える。作品は『杜工部集』20巻に収める。

▼「公益社団法人 関西吟詩文化協会」より転載


杜甫の漢詩


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akio_hayashida at 04:14|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 教育 | 人生

2022年07月25日

●心法の剣術について執筆しながら宮本武蔵について思ったこと

◆『宮本武蔵』ので有名な小説家・吉川英治の仕事のいい加減さに驚いた

 ブログ、随分お休みしてしまったようで、読者の方には、誠に申し訳ない。FBとツイッターにかまけて、月に一度も投稿しなかったことに、先ほど気づいて自分でも驚いている。
 以下、近況報告をさせて頂く。
 前にもこのブログで少し触れさせて頂いたが、「心法の剣術と陽明学(仮)」についての年表作りに力を入れているところだ。
 年表を作り始めたら、中身は「日本史の中の日本陽明学史」と言っていい内容、当然と言えば当然の話だが、これまで見えなかったものが見えてくるようになり、興味深い毎日を過ごさせて頂いているというのが今の私の実感。

 これなどは余談だが、小説『宮本武蔵』を書いて宮本武蔵を有名にした吉川英治という作家がいる。この作家のことを知れば知るほど、実にいい加減な仕事をしている人だということが分かって、ほとほと呆れてしまった。
 お断りしておくが、私の場合は、どうしたって無住心剣術に代表される心法の剣術に興味があるので、その晩年に画家としては大成したかもしれないが、剣術家・宮本武蔵にはとんと興味が持てない。そもそも江戸期の心法の剣術家たちにとって、宮本武蔵は評価に値しないのである。詳しく知りたい方は、甲野善紀『増補改訂版・剣の精神誌、無住心剣術の系譜と思想』(ちくま学芸文庫)をご一読されるとよい。

◆司馬遼太郎も吉川英治の宮本武蔵、美作(みまさか)生誕説を踏襲

 武術家の甲野善紀先生とは十日ほど前に、久々に電話で小一時間ほど話をさせて頂いたのだが、甲野先生のように先刻承知だった方は、何を今更とおっしゃられるかもしれないが・・・、例えば武蔵の生まれ故郷については、『五輪書』や養子・伊織が建立した『小倉碑文』といった一次資料には「播磨(兵庫県)」だと書かれていたのに、何を血迷われたのか、吉川英治は勝手に「美作」だと書いてしまわれたのだ。美作説の根拠は、この後で触れさせて頂く。
 更に良くないのは、あろうことか司馬遼太郎もこの吉川英治の美作説を踏襲、これを受けて今では岡山県および美作市(旧大原町)などは宮本武蔵生誕地として観光開発を行っているというではないか。

◆吉川英治『随筆宮本武蔵』は、顕彰会本『宮本武蔵』を種本としていた

 まだある。
 吉川英治は、『随筆宮本武蔵』(1950)という一冊をものにしているらしいのだが、森銑三『宮本武蔵の生涯』(三樹書房)によれば、この随筆本は、熊本で出された顕彰会本『宮本武蔵』を種本として書かれたもので、本書の間違いもそっくりそのまま踏襲されているという。
 森銑三はこう言う。
「然(しか)らばこの書物に対する感謝の念をどこかにはっきりさせて置くのが礼儀であろう」
 と。
 森銑三は、さらに追い打ちをかけるように
「この本には武蔵を説きながら『五輪書』の内容に一向に触れていない。」
 と言っている。
 小説が掲載されたのが朝日新聞だったことも関係しているのかもしれない。唯物論の立場からしたら、眼には見えない思想書などどうでもいいのであろう。
 こうなると、司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』も怪しいものである。

◆江戸学の始祖・森銑三(もり・せんぞう)

 森銑三(1895〜1985)のことを知らない人がいると思うので、ここで少し説明をさせて頂く。愛知県刈谷市生まれの書誌学者で、近世学芸誌研究家として多くの優れた著作を残されている。「江戸学の始祖」とも称されており、私などは、江戸・明治期の事件(例えば赤穂事件)や人物(渡辺崋山、松本圭堂、井原西鶴など)や風俗などを知るうえで、森銑三の著作には随分助けられたものなのだ。
 惜しいことには、2005年に46歳という若さで亡くなった江戸風俗研究家・漫画家の杉浦日向子は、森銑三を深く敬愛していたという。さもあらんと思う。

◆江戸時代には、大悟した武術家が輩出した

 話を戻す。
「心法の剣術と陽明学(仮)」の執筆という私のこの作業は、ただ単に知識欲を満足させているのではなく、江戸時代には、陽明学、禅学、浄土真宗の教えを通じて、「真人間(真の人間)」、つまり「大悟」した日本人が多く輩出したことを知り、日本陽明学の有効性を実感することにあるのだ。
 日本陽明学の祖・中江藤樹は勿論、その高弟の熊沢蕃山や淵岡山も大悟した賢人と言っていいだろう。
 日本陽明学や禅学や浄土真宗を介して大悟した人がいたことは、これまでにも実感してきたが、武術家の中にも私が思っていた以上に多く輩出していたのには、正直ちょっと驚かされている。
 大悟した武術家と言えば、無住心剣術の開祖・針ヶ谷夕雲、二代目の小出切一雲、三代目の真里谷円四郎らが代表格だが、幼い頃より夕雲に師事し小出切一雲より先に真面目を授かった片岡伊兵衛秀安、この片岡の弟子で真里谷円四郎をも圧倒したという中村権内安成も加えるべきだろう。(甲野善紀先生の前掲書を参考にさせて頂いた)
 その他にも、「直心流」開祖・神谷伝心斎直光(かみや・でんしんさい・なおみつ)、雲弘流開祖・井鳥巨雲(いとり・きょうん)、法心流開祖・金子夢幻、天真兵法(旧称、一刀流別伝天真伝兵法)開祖・白井亨らを挙げることができる。
 今後、日本陽明学や心法の剣術に興味を抱く人が増えてくれるなら、日本人の質も、もっとアップしていくに違ない。

吉川英治、宮本武蔵


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akio_hayashida at 04:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 陽明学 | 武術
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