2022年08月04日

●古希を迎えての余話(古希とは)

◆無事「古希」を迎えることが出来ました。

 FBFの方々から、私の誕生日への心温まるメッセージを沢山頂戴させて頂きました。ありがとうございます。
 今回の誕生日(8月2日)で、無事、古希(こき)を迎えることが出来ました。
 かつて書道家の故・寺山旦中(たんちゅう)先生の還暦(かんれき)(満60歳)をお祝いする盛大な会に出席させて頂いた事がありましたが、還暦で有名な「赤いちゃんちゃんこ」は赤子に戻りもう一度生まれ変わって出直すという意味があるのだそうです。
 古希(こき)は、中国の詩人・杜甫の詩
「曲江(きょっこう。きょくこう)」
 の
「酒債(しゅさい)は尋常(じんじょう)行く処に有り 人生七十(しちじゅう)古来稀(まれ)なり」
 に由来しているとあります。
「酒代のつけ(借金)は、私が行くいたるところにあるが、70年生きる人は古くから稀である。〔だから、いまのうちに飲んで楽しんでおこう〕」
 という意味です。
 そして古希のテーマカラーは「紫」。

 これを機に、以下、詩人・杜甫(とほ)について調べてみました。
 杜甫の
「国破れて山河あり」
 という有名な一句などは、文武不岐の士で酒好き文学好きだった亡父から幼い頃に教わりました。私の父は漢詩も好きで、詩吟をたしなんでいたのです。
 それにしても、杜甫は、わが国でも大変に有名な漢詩人ですが、その人生は、山あり谷ありの波乱万丈の人生だったようです。以下、興味ある人だけ読んでみてください。平凡社の『百科事典マイペディア』等を参照。

◆24歳の時、進士の試験に落第し各地を放浪、「安禄山(あんろくざん)の乱」で安禄山らの賊軍に捕らえられる

杜甫:712〜770。中国、盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。黄河の下流の河南(かなん)、鞏(きょう)の人とされる。律詩(唐代の8世紀前半に完成された詩型)の表現を大成させた。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。また晩唐期の詩人・杜牧(とぼく)の「小杜」に対し「老杜」「大杜」等と呼ばれる。
 24歳の時、進士の試験に落第し各地を放浪、李白(りはく)、高適(こうせき)らと詩酒(詩を作り酒を飲むこと)の交わりを結び、30代半ばに都の長安(ちょうあん)に出た。しかし仕官は実現せず、皇帝の玄宗は楊貴妃(ようきひ)を溺愛(できあい)して国政を怠り、杜甫は、自らの不遇と時局の危機を「詠懐五百字」に詠じた。
 「安禄山(あんろくざん)の乱(安史の乱)」では安禄山らの賊軍に捕らえられ、
「国破れて山河(さんが)あり、城春(しろはる)にして草木(そうもく)深し」(「春望」)
 の句を作った。

◆皇帝の怒りを買い左遷、憂さ晴らしで「曲江」を作った

 脱出後、新帝の粛宗(しゅくそう。玄宗の子)のもとに行き、その功で左拾遺(さしゅうい)に任じられたが、役目柄行った諫言(宰相・房琯の敗戦の責任を弁護)が粛宗の怒りを買い、わずか一か月足らずでその職を失い、左遷された。
 この時に、憂さ晴らしで曲江に通って酒を飲んで作った詩こそが、冒頭で触れた「古希」の由来となった詩「曲江」なのだ。この時杜甫は47歳。曲江は池の名で、池のほとりの行楽地を指す。
 以下は、「公益社団法人 関西吟詩文化協会」より転載させて頂いた。

 曲江
朝(ちょう)より回(かえ)って 日日(ひび) 春衣(しゅんい)を典(てん)す
毎日江頭(まいにちこうとう) 醉(よい)を盡(つく)して歸(かえ)る
酒債尋常(しゅさいじんじょう) 行く處(ところ)に有り
人生七十(じんせいしちじゅう) 古來(こらい)稀(まれ)なり
花を穿(うが)つ蛺蝶(きょうちょう) 深深(しんしん)として見え
水に點(てん)ずる蜻蜓(せいてい) 款款(かんかん)として飛ぶ
傳語(でんご)す風光(ふうこう) 共に流轉(るてん)し
暫時相賞(ざんじあいしょう)して 相違(あいたご)うこと莫(なか)れと


朝廷を退出すると、毎日春着を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで酒を飲んで帰ってくる。
酒代の借金はあたりまえのことで行く先々にあり、どうせ人生七十まで生きられるのはめったにない。(だから今のうちに飲んで楽しんでおきたいものだ)
あたりを見ると蝶は花のしげみに見えかくれして飛び、とんぼは水面に尾をつけてゆるやかに飛んでゆくのどかな風景である。
私はこの春景色にことづてしたい。我が身も春光もともに流れに身をまかせ、春のしばらくの間でも、その美しさを賞(め)で楽しみ、そむくことのないようにしようではないかと。


◆乱後、官を辞し、家族とともに飢えをしのぎながら放浪

 この乱での体験は彼の詩に深い憂愁の影を加え、最高傑作の一つと言われる「北征(ほくせい)」を作った。逆境の中、鹿州にいる妻と子を迎えに行く許可を得た杜甫は、馬に乗り従者を従えての鹿州への約350キロという長くて険しい旅の様子を長い詩にしたのである。極貧の極みにあった妻子との再会についても描かれている。
 乱後、官を辞し、家族とともに飢えをしのぎながら放浪、760年48歳の時、成都(せいと。現、四川省の省都)の近くの浣花渓(かんかけい)に草堂を営み、この地で5〜6年、平安の生活を送る。この間,四川地方の兵乱のため一時、草堂を離れるが、四川での詩は平和な自然の善意とそれに対する生活を歌ったものが多い。夔州(きしゅう)に移住。
 768年以後2年間、湖南・湖北を放浪し、老齢とともに悲壮をきわめた詩を作ったが、失意のうちに舟の中で死んだ。享年58歳。

◆杜甫の詩は、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規らに影響を与えた

 彼の詩は人間に対する偉大な誠実さのゆえに至高とされる。「安禄山の乱」を契機に、社会秩序が崩壊していく中で、杜甫は、農民・兵士の苦しみ、自己の苦しみと平安、それらを日常生活に題材をとって歌った。その詩は後世の中国・日本の詩に大きな影響を与えた。杜甫の影響は、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規らに伺える。作品は『杜工部集』20巻に収める。

▼「公益社団法人 関西吟詩文化協会」より転載


杜甫の漢詩


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akio_hayashida at 04:14│Comments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 教育 | 人生

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