2010年08月

2010年08月31日

●ブログ「木庵先生の独り言」から、テレビ番組『お笑い日本の実体』の内容に仰天!

■ブログ「ごく普通のおばさんのひとりごと」の動画・フランス語のテレビ番組「お笑い日本の実態」に驚いた

 以下、ブログ「木庵先生の独り言」から転載させて頂いた。フランス語のテレビ番組からのもの。動画は、ブログ「ごく普通のおばさんのひとりごと」で見ることができる。
 その動画のトップでは、「フランスの国営放送」と銘打ってあるのだが、フランス語が分かる人が聞いたところ、どうやら国営放送というのは嘘だとのこと。
 とはいえ、内容は面白い。話半分で聞いても、充分楽しめると思うので、以下、紹介させて頂く。ただし、鳩山政権が実現する前の番組である。勝手ながら、動画を見たうえで、以下の文にほんのちょっと加筆補足させて頂いた。ねつ造は無いのでご安心頂きたい。
 兎に角、お笑い番組とはいえ、こんなこと放送していいのと思うほど、その内容は過激で、驚きの連続である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ごく普通のおばさんのひとりごと」
http://blogs.yahoo.co.jp/hazuki73ry/54434728.html

『「ごく普通のおばさんのひとりごと(↑アドレス)」に、興味のあるYouTubeがあった。
 フランス人美女・メリッサが語る
「お笑い日本の実態」
 である。
 観てもらえれば分かるが、木庵がその内容をまとめた。
 アメリカのテレビ局でこれほど明瞭な日本の実態を放映したものはない。勿論、日本の一般的なテレビ局もない。流石にフランス人(?)、かくまで客観的に述べるのかと、少々美人に気が動くが、フランス人の論理性に脱帽(?)。木庵』

「日本のマスコミは国民に真実を伝えていません。中国や韓国の工作員が既にマスコミ全体に浸透しているからです。
 韓国や中国のために政策を行う民主党に政権が交代すれば、さらに多くの日本人の税金をあらゆる名目で中国人や韓国人が使うことができ、日本の経済を永遠に搾取できます。
 中国は嘘を平気でつく国であることは世界の常識です。
 中国政府は日本軍の戦争犯罪を捏造し、戦争賠償として6兆円を騙し取り、その金で核開発や、ウイグル人やチベット人を虐殺し、日本領のガス田開発、日本の政治家を買収までしております。 
 また言論弾圧で逮捕した人々の臓器を政府ぐるみで売買する一方、中国は日本の残虐性を世界に訴え続けています。
 さらに工作員6万人が政治やマスコミ教育の分野で活動しています。

 韓国が嘘をつくのも世界の常識よね。
 昔、日本が韓国のインフラを整備し、韓国の人口が2倍に増えましたが、これを “大虐殺”と韓国は主張し、日本は3兆円の戦後保障をさせられました。
 また韓国はリーマンを破綻させ、世界不況の引き金を引いたり、竹島を不法占拠し、日本の漁師44人を殺害し、また工作員がメディアや 教育、政治の分野で反日活動を行っています。
 中国人や韓国人は嘘も百回言えばそれが真実になると本気で信じており、議論が無駄なのは世界の常識です。
 彼等の嘘が幼稚園レベルであるに関わらず、未だに金を騙し取られるのは日本だけです。そして彼等は日本を支配するために目をつけたのが鳩山民主党です。

 民主党について詳しく見てみましょう。
 民主党に多額の献金を行う支持母体に反日教育を行い、学力を低下させる日教組があり、やくざの解放同盟と行動を共にしています。
 また韓国の反日工作員が潜伏し外国人参政権を要求する韓国民団やパチンコの収益を北朝鮮に送金し、多数の工作員が潜伏する朝鮮総連、それに年金問題を起こした自治労や暴力団山口組やマルチ企業もありますが、マスコミは情報統制を行っておりますので、この事実は全く日本国民に報道されません。
 外国人が簡単に国籍を取れる法案が民主、公明により秘密裏に可決され、今後大量の中国人や韓国人が生活保護を求めて来日するでしょう。
 また民主党が提案する外国人地方参政権は反日韓国人にも選挙権を与えるもので、オーストラリアがこれを中国人に認めたために移民で激増した中国人に国をのっとられてしまいました。
 民主党が提案する人権擁護法案ですが、反対する日本人を
〈外国人差別〉
 の理由で簡単に逮捕するためのものです。

 移民1千万人を計画する民主党は、まず中国人、韓国人の人権を最優先します。
 在日韓国人の生活保護受給率は日本人の5倍以上高率であり、中国人、韓国人が国籍を取得した後大量に失業した場合、日本政府は税金で彼等の生活費を払わなければならず、既にドイツではこれがもはや社会問題になっています。
 世界各国で中国移民は問題を引き起こしています。凶悪犯罪の増加、失業率の悪化、環境破壊などです。
 カナダでは中国移民を受け入れたため、交通事故、犯罪、偽造紙幣が増え、イタリヤでは文化と景観が破壊され、オーストラリアでは政治を掌握され、中国移民の受け入れが世界中で悲劇に終る中、日本だけが世界に逆行し、反日教育を受けた中国人1千万人を受け入れるのは狂気の沙汰と言えます。

 麻生首相はG7において、景気回復策で絶賛され、パレスチナ和平やガザ停戦の貢献で世界的に評価されています。
 日本の景気も上昇し始めています。日本のマスコミはこれを全く報道せず、首相を偏向報道でバッシングしたり、安い芸人を使ったくだらない番組で国民の注意をそらしたりして、世論を誘導して中華民主党が政権を獲ろうとしています。

 鳩山氏の献金問題では韓国人が多額の献金をしており、統一教会との関係も明らかなため、東京地検は鳩を捕獲してもらいたいわ。
 民主党のマニフェストは実現不可能であり、鳩山氏が総理になれば、中国韓国のための政策が多数実行され、日本人にとって悪夢の時代が訪れるでしょう。」

『ここでハンサムなジャーナリストが現れ、美女と美男の対話になった。木庵』

メリッサ「東京地検はもちろん鳩左ブレを逮捕するでしょうね」
男「統一教会と絡んでいるので逮捕はされますが、民主政権で日本は終了です。知り合いに真実を伝え売国議員を8月30日の選挙で落とすべきです。
 ポイントですが、民主、公明、社民、共産は基本的に危険です。
 例外として民主党の松原仁はすばらしいですし、逆に自民党の中川秀直、加藤紘一、山崎拓は最悪です。
 ところで貴女は私のフアンらしいですが、この後もう少しお話ししませんか、美味しいワインがあるのです」
メリッサ「おことわりします。とにかく皆に広め、選挙に行くしか方法がないんです。日本人の幸運を祈るわ」

『最後の落ちが流石にフランス、ウイットがある。日本が中国、韓国の餌食にされていることを警告している。
 木庵は中国論で述べたが、この国はどうしようもない国である。歴史的風土なのである。
 現在新疆ウイグル族の抹殺作戦が行われている。先日の2000人(10000人?)のデモに対して、120名ほどのウイグル人が死亡したと中国のメディアは報道しているが、400名を超えているらしい。
 それも警告もなく、初めから殺傷を目的に警官は発砲した。このデモの発端になったのは、広東省に出稼ぎにきているウイグル人、正確には強制移動させられたウイグル人労働者2000人を漢人が囲み、殴り殺した背景があった。
「ウイグル人が漢人の女性を強姦した」
 というデマが飛び、中国政府は
「デマである」
 と報道しているのに、漢人は棒や鉄パイプを持って、ウイグル人を殴り殺したのである。
 その映像がこちらにも伝わってきている。
 漢人が撮ったもので、
「俺たちは正しいことをした」
 という目的でインターネットに流したのが、逆に彼たちの悪行が世界に広まってしまった。
 この事件に対してウイグル人の抗議デモがあったが、中国政府は世界ウイグル協会(?)の煽動であると、報道している。
 昨年起きたチベット事件の時は世界のマスメディアを完全に遮断したが、今回は報道陣を受け入れている。
 そして、ウイグル人の凶暴さを世界にアピールしている。自動車に火をつけたり、商店を壊すシーンを撮らせている。このような行為をしている人は、中国政府に雇われた人である。やらせを平気でやるのは中国の常套手段である。
 人権など殆どない中国になびこうとしている民主党、自民の加藤、山崎は売国主義者である。
 中川はクエッションマークというところだろうか。
 昨晩日本に電話して、知人と今回の選挙について話したが、見事なほど、政治音痴に呆れて、電話を直ぐ切った。
 NHK捏造報道を代表として、日本のマスメディアはもはやマスメディアの機能を果していない。
 自由の国日本と思っているだろうが報道統制された日本は、もはや社会主義国である。
 このYouTubeに出てくるフランス人女性の聡明さに比べ、背景の映像に流れる日本の売国政治家の薄ら馬鹿の顔つきに、同じ日本人として恥ずかしい気持ちになる。木庵』
『悪質とみるか、日本の政治の真実を伝えているウイットに富んだ話と見るか、読者の良識に任す。木庵』


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2010年08月30日

●中年の外人女性ヒーラーから治療を受けるという不思議な夢を見た

ヒーラーに治療を受けている夢を見た

 30日(月)、朝起きると、ちょっと不思議な夢を見ていたことを思い出した。私の場合は、何故か、不思議な夢を見ることが人より多いようだ。妻からは、そんな話をついぞ耳にしたことが無い。
 どんな夢だったのかというと、ケリー、あるいはケーラーという名の(フル・ネームは忘れてしまった)、ゆったりとした赤っいワンピースを着た体格のいい中年の外人女性の治療を受けていたのである。
 彼女は、ヒーラーだ。
 そこは、10畳くらいの広さの洋室の部屋で、家具らしいものは何も目にすることは出来なかった。
 最初は、座ったままで彼女に背後から抱かれていた、つまり私が背後に居る彼女に背中を預けてもたれかかっていたのだが、やがて彼女は立ちあがって私を後方へと引きずって歩きだした。ずんずん引きずられていくのだが、その道中、なんだか泣きたくなるとともに、心地良さが感じられた。その間の私は、彼女の為すがままであった。言い換えれば、この身を委ねていたのである。
 また、彼女と言葉を交わしたこともなかったのだが、信頼関係が無ければ、身を委ねる等ということはできるはずもない。

 私は夢から覚めてから、思わず身体を点検した。夢とは申せ、ヒーリングの効果を確認してみたかったのである(笑)。
 キーボードの打ち過ぎで、毎日右腕を酷使しているので、右側の首筋のツッパリ感は残っているものの、最近気になっていた右側の腰や大腿骨の辺りの鈍痛はまったく無くなっていた。
 不思議と言えば、不思議である(笑)。
 このところ、ヒーリングの夢を見るような、そんな本を読んだとか、そんな事を特に意識した覚えなどまるでないのだから。
 関係するかもしれないと思って思い出したことと言えば、最近書店で「ホ・オポノポノ」の新刊書を1〜2分ほど手にしたことぐらいである(笑)。
 それにしても、なんだか、何者かに守られている、としか思えないのだ。
 その何者かとは、きっと良知に違いない。


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●新著『山田方谷の思想を巡って』の中身について

■『孟子養氣章講義(王陽明の説による)』は、大変貴重な方谷最晩年の講義録である

 新著『山田方谷の思想を巡って』の中身についてである。
 その前に、表紙の書名が、罫線(けいせん)で囲んであるのだが、私の指示は帯と同じ色の1ミリ罫だったのだ。
 表紙を見たとき、書名の辺りがなんだかちょっとよわよわしい感じがして気になっていたのだが、その訳が分かったのだ。
 色校正の前のデザイン段階では、1ミリ罫になっていたのだが、時間の関係で色校正を遠慮してしまったのだ。
 欲を言えばきりが無いのだが、この件は指示してあっただけにちょっと残念(苦笑)。

 さて、中身の話である。
 全部で293ページである。
 分厚いなあと思われそうだが、実は、本文は235ページまでで、その後の大部分は、付録である。
 付録というのは、山田方谷講述、門人・筆記
『孟子養氣章講義(王陽明の説による)』
 の抄訳である。
 この『孟子養氣章講義(王陽明の説による)』については、これまでにも触れさせて頂いたが、改めて後述させて頂く。
 ともあれ、大変貴重な方谷最晩年の講義録である。
 副題に「王陽明の説による」とあるように、方谷の陽明学理解を知る上で、なくてはならないものである、とだけ述べておく。

■本書は、陽明学左派の王龍渓の思想の入門書の入門書といった内容になっている(笑)

 以下、敬称を略させて頂く。
 トップは、たちあがれ日本代表・平沼赳夫「発刊に寄せて」が3ページ。
 その後、山田方谷六代目直系子孫・野島透「序文」も3ページ。
 そして目次。
 15ページから始まる
「はじめに」
 は、24ページまで続く。
 中江藤樹の『大学蒙註』にある言葉
「自然を以(も)って宗(そう)とする」
 からスタートする。
 続けて、
〈藤樹と方谷の思想のルーツは、藤樹から数えて約150年前の(王龍渓1498〜1583)である〉
 と述べたのだが、本書は、陽明学左派の王龍渓の思想の入門書の入門書といった内容になっている(笑)。
 本書のテーマは、
「自然」
 であり、
「王龍渓」
 なのである。
 つまり、方谷にとっても、藤樹にとっても、「自然」と「王龍渓」は、重要なテーマなのであった。
 とはいっても、私は王龍渓の専門の研究者ではないので、九州大学名誉教授の荒木見悟先生や、東洋大学の小路口聡先生のご研究などに助けられながらの解説となっている。

■韓氏意拳との出会いは、私の陽明学理解、特に王龍渓の理解をスムーズなものにしてくれた

 敢えて「はじめに」でも述べさせて頂いたことだが、今から4年前に本書の執筆を開始したのだが、それから間もなくしてからの中国武術・韓氏意拳との出会いが無ければ、これほど分かり易いものに出来たかどうかは、非常に疑わしいのである。それほど、韓氏意拳との出会いは、私の陽明学理解、特に王龍渓の理解をスムーズなものにしてくれたのだ。
「はじめに」の次は、「プロローグ」で、27〜44ページまでとなっている。
 「プロローグ」の冒頭では、宮原信『山田方谷の詩』を引用させて頂いたが、如何に、宮原信氏の陽明学理解には問題があるのかについて、北海道大学名誉教授の松川健二先生の説に依拠しながら、述べさせて頂いた。
 とは申せ、実際のところ、陽明学理解以前の問題であって、

「現在書店頭で入手可能な『論語』の本の解釈は、ほとんどと言っていいほど、上記のような孔子にあるまじき功利主義的解釈となっているのが実情である」『山田方谷の思想を巡って』プロローグ)

 ということなのだ。
 プロローグでは、その後に、山田方谷に関する余話と簡単な人物紹介となる。
 次からが本文。
 まずは、
「義先利後(ごせんりこう)説」
 と題して、思想の本格的な紹介である。
 以下は、また次回に。


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2010年08月29日

●新著『山田方谷の思想を巡って』出来あがる

■新著『山田方谷の思想を巡って』が出来あがる

 27日(金)午後1時半、江戸川橋の明徳出版社に到着。
 前日、
「『山田方谷の思想を巡って』が明日出来上がります」
 との電話連絡を頂戴していたので、「発刊に寄せて」を執筆して下さった「たちあがれ日本」代表の平沼赳夫先生や、「序文」を頂戴させて頂いた山田方谷のご子孫の野島透氏、帯に推薦文を下さった音楽評論家の湯川れい子氏、NPO江戸しぐさの越川禮子氏の計4名の方々へ献本させて頂く分にサインを入れさせて頂こうと思ってのことであった。
 20余冊にサインを入れさせて頂き、急いで新宿へ向かった。
 午後3時に新宿駅東口で、江戸しぐさの
「江戸の良さを見なおす会」
 の和城伊勢(わしろ・いせ)氏と三五館の星山社長のお二人と待ち合わせをしていたのである。
 駅ビル7階のそば店「信州」で話をする。
 勿論、仕事の話である。
 打ちあわせの内容に関しては、今のところは企業秘密(笑)。
 御ふたりに、拙著『山田方谷の思想を巡って』を御手渡しさせて頂く。
 2時間余の打ち合わせの後、中村屋4階のレストランバーで、星山社長と久々に懇談。私の記憶に間違いが無ければ、星山社長との懇談は1年か1年半ぶりである。
 と言っても、半分は仕事の話(笑)。
 残り半分は、主に朝鮮問題、特に歴史の話で終始し、2時間余は、あっという間に過ぎてしまった。
 その後、私は、越川禮子先生宅へ。
 9時半頃に到着。
 越川先生に、早速、
「御蔭さまで、出来あがりました」
 と、新著を御手渡しさせて頂く。
 越川先生には、とても喜んで頂けた。
 美味しい日本酒をご馳走になりながら、12時頃まで話し込み一泊させて頂く。

 翌28日(土)である。
 8時に先生に起こして頂いたのだが、前日、睡眠時間が少なかったので、結局、10時に起床。
 明徳出版社から、昨日私がサインを入れた新著が届いたのには、ちょっとビックリ。
 越川先生に、子供達へのお土産と私の新著出版のお祝いを頂戴させて頂き(嬉)、猛暑の中、11時頃に帰路に就く。
 
■備前焼は、「投げても割れない」

 前にも触れさせて頂いたが、今回の装丁は私である。勿論、装丁を手掛けさせて頂いたのは、今回が初めてのこと。
 今から15年以上前に、グラフィック・デザインに関わる仕事をしていたので、その時に覚えたことが、今になって役に立つとは思ってもみなかった(笑)。
 校正を終えて、時間が無い中、装丁に取り組んだので、ベストを尽くしたので思い残すことはない、という思いが無いのが残念。もうちょっと時間が欲しかった。
 それでも、自己採点では、80点を付けている(苦笑)。
 書店で見かけた方、是非手にとってまずは表紙をご覧頂きたい。
 帯をはずして見て頂けると分かって頂けるかと思うのだが、表紙は、備前焼の登り窯(上り窯も可)のオレンジ色の炎が充満した内部の写真である。よーく見て頂くなら、焼き物のシルエットを確認して頂けるはずである。
 そして、帯で隠れている部分には、黄色い炎を目にすることが出来るのである。これに関しては、ちょっとお洒落だと思っている(笑)。
 裏表紙には、備前焼の畝尾典秀(うねお・のりひで)先生の作品の写真を掲載させて頂いた。この写真は、指扇駅前の写真屋さんの「カメラのナガオ」で撮って頂いたものである。
 裏表紙の袖には、
「備前焼について」
 と題して、備前焼の説明を掲載させて頂いている。
 備前焼は、
「投げても割れない」
 といわれるほど、丈夫な焼き物で、事実、我が家でもリノリウムの床に何度か落としたことがあるが、落として割ったことは一度もない。
 その耐久性からいっても、長持ちがする焼き物なので、幕末期の山田方谷も、愛用していたに違いない。何と言っても、隣藩の岡山藩の名産品であり、かつ方谷が尊敬してやまない陽明学者・熊澤蕃山も愛用した違ない焼き物なのだ。

■「日本人が壊れてきた。経済のことは解らないが、山田方谷という人は、日本人に心の在り方を教えてくれる人だ」

 さて、中身の話である。
 本書『山田方谷の思想を巡って』のサブタイトルは、「陽明学左派入門」である。
また、帯のキャッチコピーは、
「日本陽明学の奥義を初公開!」
 となっている。
 ついでながら、帯にある推薦文を以下、紹介させて頂く。

・衆議院議員・たちあがれ日本代表 平沼赳夫
「この著作は現代の人々にとって、とても参考となり、その影響力は計り知れないと考える。山田方谷の精神がこの世に幅広く浸透することを願い、推薦の言葉とする次第である」

・山田方谷六代目直系子孫 野島透
「方谷の思想、手法を学び活かすことで、日本の社会経済が希望に満ちた新たな第一歩を踏み出すことを祈念する」

・音楽評論家・作詞家 湯川れい子
「日本人が壊れてきた。経済のことは解らないが、山田方谷という人は、日本人に心の在り方を教えてくれる人だ」

・NPO法人江戸しぐさ理事長 越川禮子
「江戸寺小屋の入り口には〈名教自然〉という額が掲げてあったそうです。方谷の考え方もこれと軌を一にする」

 夜のこと。
「出来上がって、嬉しいでしょう」
 と妻に言われたが、考える間もなく、
「うーん、どちらかと言えば、正直大変だったので、
〈ホッとしている〉
 というのが正直な気持ちだね」
 と答えていた(笑)。
 この続きは、次回に。


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2010年08月27日

●中国武術・韓氏意拳と陽明学「私の体は自然を知っているのに、私は自然を知らないのです」

■「韓氏意拳でいう〈自然〉と山田方谷の言う〈自然〉とは、まさしくイコールである」 

 26日(木)である。
 「中国武術・韓氏意拳」について、触れたい。
 通常の、私たちが見知っている武術(武道)やスポーツとは、まるで違うものである。
 私は、韓氏意拳を学んでわずかに数年であるが、私の実体験も含めて言わせて頂くなら、少なくとも、私がこの年(四捨五入したら60歳)まで生きてきて、見知ってきたそれらとは、まるで違うものであった。
 さらに言えることは、禅仏教、老荘、陽明学といった東洋思想イコール韓氏意拳なのである。
 その事実を知り、触れて、私は心底驚愕した。
 一両日中に、拙著『山田方谷の思想を巡って』(明徳出版社)が出来上がって来ることになっているのだが、当初は、本書の中に韓氏意拳についても触れるつもりでいたのである。
 というのも、本ブログ上でも、また拙著『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』でも触れさせて頂いたように、それは私見だとのご指摘を受けることを敢えて承知の上で言わせて頂くなら、
「韓氏意拳でいう〈自然〉と山田方谷の言う〈自然〉とは、まさしくイコールである」
 からだ。
 さらに言い換えれば、「自然」とは「中庸」のことなのである。
 残念ながら、ページ数の関係で、断念せざるを得なかった。あまり厚い本は、本好きを自称する私でさえも腰が引けるのだから(笑)。
 仮に、上記の見解は、私こと林田の私見であるとの意見をお持ちの方がいらっしゃるのであれば、是非、韓氏意拳の稽古を一度受けて頂きたい。でなければ、建設的な意見とは言えず、誰にでも口にできる批判にすぎない。
 話がちょっと脱線気味である。
 私が言いたいことは、自分に枠を設けないで、常に冒険心で生きて欲しい、ということなのである。
 私の人生は、そういう意味で、冒険の連続だったと言っていい。
 滑った転んだの連続だったし、それは今でも変わらない(苦笑)。
 まだ来ない未来のことを恐れるあまりに行動を抑制する、安定を求める生き方など、私には出来なかった。
 そんな中で、武術家として高明になられた甲野善紀先生と出会って、今日に至っているわけだが、韓氏意拳のことを教えてもらったのは、甲野先生からであった。
 そのことは、『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』に触れさせて頂いた。

■「これこそ、本物だ」そう思えるものを、私たちが学び、あるいは支持し応援することが、日本社会を、世界をよりよくしていくことにつながるのではないだろうか

 で、甲野先生については、今更ながら、驚かされた事がある。
 数前になるが、すでに著名な武術家でありながら、
「韓氏意拳という凄い武術に出会って、正直、武術家をやめようかと思った」
 といったことを私に吐露して来られたことである。
 その後、甲野先生は、韓氏意拳に学ばれつつ、応援に尽力しておられるのだが、甲野先生の勇気には、驚かされた。
 その後、韓氏意拳を学んでみようという著名な武術家を私は知らないのだが、とはいえ、現在、韓氏意拳を教えていらっしゃる先生方のほとんどは、日本韓氏意拳学会の光岡英稔会長同様、かつて色々な武術に身を投じてきた方々なのである。
 例えば、いい本を買って読むことは、いい本を出している出版社を応援することにつながるわけだし
「これこそ、本物だ」
 そう思えるものを、私たちが学び、あるいは支持し応援することが、日本社会を、世界をよりよくしていくことにつながるのではないだろうか。
 本物に触れるということは、本物に近づくということであり、自分という人間の質がレベルアップすることなのだ。
 これも私見だと言われるかもしれないのだが、韓氏意拳は、正真正銘、本物である。
 だから、一度でもいいので、体験、体認されることをお薦めする。
 普段、信じて疑ってみたこともない日常生活を支配する物の見方・考え方の間違いに気づかされるはずである。
 精神世界や自己啓発のセミナーに出るより、大いに学ぶものがある。

 参考までに、以下、韓氏意拳の私の師・駒井雅和先生のブログ「韓氏意拳と陽明学」から転載させて頂いた。
 なお、私は、駒井先生に陽明学をレクチャーしたことは一度もないことをお断りしておく。勝手ながら、改行等手を加えさせて頂いた。
 9月11日(土)の駒井先生の講演会では、下記のようなお話をしてくださるのである。お楽しみに。
 駒井先生の講演会については、8月21日の本ブログを参照のこと。
  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【学ばないでも出来る】
2009年11月07日(土) 23時36分56秒 テーマ:韓氏意拳

 韓氏意拳では、体験から認識する事を体認という
 または体から学ぶという意味で使われることもある。
 陽明学でも体認を重視しているようです。
 普通の学問は、既に正しいやり方があり、それを反復する事や、その使い方を何回も繰り返す事によって正しく使えるようになる事を目的とすることが多いように見える。

 しかし韓氏意拳では、この世に正しいやり方はないという。
 もし唯一あるならば自然方法である事、つまりその行いが、自然であるか、否かが、これのみが唯一の判断方法であると。

 しかし、練習する時点になると、正しいやり方はないと言った老師が
「それは違います。」
 とはっきり間違いであることを指摘される。
 そしてこういわれた。
やった時(後)には判断が出来る。」
 と。
 その行いが自然であったか不自然であったか。
 特に不自然さは伝わってくる。
 韓氏意拳で不自然な行為とは、人為的な行いを指す。
「ああしよう、こうしよう」
 である。

 ちょっと具体的にいうなら。
「この人は大きいから、強くやろう」
「強くやると固くなるから、弱くやろう」
「この筋肉がどうだから、この筋肉を使おう」
「どこどこの関節をどのようにして使おう」
 などなど。
 これら普段しがちな作為、しかも良かれと思ってする作為をすべて人為的つまり
不自然だとして、必要のないものとする。
 どうすればいいかというと
ただ行なえば良いのだ。」
 と。

 しかし普段から作為、人為だらけで生活していますし、生活上においてはこれはなくてはならないものでしょう。
(老師はそれを社会自然といっています)
 それは例えば、電車に乗る場合、切符を買えば電車に乗れることを覚えて、次回以降それを忘れないようにし、切符を買えるだけのお金を用意して仕事やらに間に合う時間に家をでる。
 すべて作為です。
 ですからキチンとやらないと全てが滞ってしまいます。
 そんな生活をしている中で、練習で自然にやれば良いといわれると、かえって難しく感じるものです。

 そこで、老師はまたおっしゃって
「韓氏意拳はとても簡単です。」
 と
老若男女誰でも出来ます。」
 と。

 難しさを感じて、
「とても簡単?」
 と素直に聞けずにいると、続けて
「なぜかというと、それは体が教えてくれるからです。」
 と
自然方法は体が既に知っています。」
「だから誰でも出来ます。」
 と。

 まさに孟子のいう
「不慮而知-慮らずして知る-」
「不学而能-学ばずにできる-」
 でしょうか。

 ある時この話を同学の方にお話したところ
「学ばないで出来るならば、練習する意味はないのではないでしょうか」
 と仰った。
 とても素直な質問で、おそらく考えたというよりも素朴に思ったことを口にしただけだったのでしょう。
 こういう質問はとても素晴らしく、ありがたいです。

 講師をしていて一番良い格物は、質問に答えることです
 なぜかというと、質問に答えようとすると
「へー私そんなこと考えているんだ。」
「そんな風に認識しているんだ。」
 と、私にとっても思っても見ない答えが出てくることがあるのです。
 不勉強でお答えが出来ない場合は、持ちかえらせて頂く事もあります。

 さて、確かに仰るとおりで、自然な行いをするのに体が知っていているなら、私達は韓氏意拳から何を学んでいるというのだ。
 ・・・
 私答えて曰く
「しかし私は知らないからです。」
 たしかそのように答えたように記憶しています。

 そう今、私の体は知っているのに、私は自然を知らないのです。だから練習するのです。
 そして、その練習・認識方法が体認。
 つまり、身体に教えてもらう、という方法なのです。
 どのように教えてもらうかは、また後日改めてとさせていただきます。


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2010年08月26日

●ブログ「木庵先生の独り言」から、林田明大『真説「陽明学」入門』刊行の秘話

 以下は、アメリカ在住の木庵氏のブログ「木庵先生の独り言」からである。恥ずかしながら、参考までに紹介させて頂く。
 なお、25日(水)、木庵氏から、以下のメールを頂戴させて頂いた。

「朝の3時(8月25日)にサンジェゴを発って、5時にロスに着きました。
 ここに、無事メキシコ小旅行を終えたことを報告します。4泊5日の旅でしたが、そのうち2日はサンジェゴに泊まっているのですから、本格的なメキシコ旅行ではなかったことになります。
 移動は自動車でした。楽しくも悲しい(細かい話は後に書きます)旅行でした。
 まず、山火事の写真を載せます。このことについても書きます。   木庵より」

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陽明学【林田明大著:『真説「陽明学」入門』刊行の秘話、「知行合一」は本当に「言行一致」という意味なのか?】#5

■デビュー作『真説「陽明学」入門』刊行の秘話

 林田のデビュー作『真説「陽明学」入門』は、林田が42歳、平成6年(1994)に刊行された。
 今も増補改訂版が出ている。この本は木庵が今読んでいるところだが、
『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』
 に比べると、硬くて学問的である。
 中国の漢詩や故事、中国人の名前が多く出ているので、読むのに気合が必要だ。
 陽明学の入門書である以上、三文小説並のただ面白いだけというような書き方にするわけにはいかない。
 林田の長年にわたる堅実な研究成果の結晶が、まだ全部読んでいないが伝わってくる。
 原稿を書き上げると、本書の三倍の長さになった。
 三五館(出版会社)の人は
「これは入門書として永遠のロングセラーにしたいから、一冊に凝縮したい。だから原稿をカットしましょう」
 と言った。
 出版した後、他の出版会社から
「うちだったら三冊にして出しました」
 という話があったという。
 しかし、
「読者のことを考えると、一冊にしたのは正解で あった」
 と林田は思っている。
 それより、
「学歴のない、実績もない」(林田の言葉)
 林田が、本当に陽明学の入門書のようなものが書けるか心配であった。
 その気持ちを出版会社に投げつけると、
「そんなの関係ありません。大学の先生に執筆を頼むと、読むに耐えない難しい本が出来上がってくるので、むしろあなたのような市井の人が努力して表現したほうがいいんです」
 と言われ、心が決った。
 しかし、
「これはあまり出来がよくないので、没にしましょう」
 となる可能性への心配もあった。
 また、うまくいったにせよ、二冊目はない一発屋に終わることも考えた。
 それに本を出すとなると、書くことに集中しなければならなかった。そのことは、仕事を辞めるか中断しなければならないことであり、収入が 激減することであった。 当時林田がつきあっていた女性(今の奥さん)がいた。彼女が言った。
「大丈夫、私、貯金があるよ」
 彼女の援護のおかげで、書き始めてから1年半ほどで脱稿した。
 それにしても麗しい林田の奥さんとの愛情物語である。奥さんにとって、
「林田ならきっとやりとおせる」
 という直観が働いたのだろう。
「英雄の影に女あり」
 ということか(笑)。

■「知行合一」は本当に「言行一致」という意味なのか?

「知行合一って、本当に言行一致の解釈でいいんだろうか」
 という思いが林田が20歳の頃から、禅の公案の如く、頭の隅っこにあった。
 三島由紀夫は割腹自殺の直前のエッセイ
「革命哲学としての陽明学」(『行動学入門』文春文庫)
 に、
「認識と行動の一致、・・・行動に移らななければ認識は完成しない」。
 童門冬二
『誠は天の道なり』(講談社)
 では、
「陽明学のモットーは、〈格物致知〉であり、〈言行一致〉である」
 と述べている。
 このような解釈に対して、林田は
「言行一致とは知行合一の解釈の中のほんの一部である」
 と、指摘する。
 では本当の意味はどうかというと、林田はアメリカのカルロス・カスタネダ(193?〜1998)という人類学者の講演録の中に謎解きを発見した。その一節は次の言葉であった。
「私は二重の生活を送ってはいない。『この世界』を生きている、私が『語ること』と『すること』との間にギャップはない。」(『中央公論』1994年9月号「世紀末シャーマン、カルロス・カスタネダ」B・ワーグナー 古賀林幸訳)
「あ、これだっ!」
 と思った瞬間に、陽明学のキーワードとなるいくつかの言葉が全部一つに、ひとつながりになった。
「知行合一」をはじめ、「心即理」「致良知(ちりょうち)」などであった。
 「知行合一」を「言行一致」だと理解している段階では、「心即理」「万物一体」といった陽明学のキーワードは、それぞれが単体で存在していて、これといったつながりが感じられない。
 それを「知行合一」を「知と行は、もともと一つである」と理解できた時、それが見事一つになった。
 「心即理」とは「心の中に天理がある」、「万物一体」とは「この世の中のものはどれも皆つながっている。「別々ではない、一体だ」という意味である。
 このことを理解して、王陽明の言語録『伝習録』を読んで確認した。そうすると、まるで初めて読む本のように感じた。
 そして、それまで
「知行合一とは言行一致のことだ」
 という先入観で読んでいたことに気がついた。
 その時の気持ちを林田は
「欣喜雀躍(きんきじゃくやく)」
 という言葉で表現している。
 ある意味の悟りである。この大発見が林田の処女作を
「ロングランまでもってこれた」
 と林田は自己分析している。
 このあたりが林田の独創性というか、己の頭で考える「市井の」(この言葉は出版会社の人の言葉)の哲学者ということが出来るであろう。
 我々は権威に平伏しがちである。
 三島は命を賭けて陽明学(?)を実践した、知と行いを同じに(知行合一)するために。三島の行為の崇高さ(?)と陽明学とは別である。
 このあたりに疑問を持ち、正しい陽明学の解釈を開拓した林田は凄い。木庵は林田ほどの大発見はないが、少なくとも権威には反発、拒絶しようとするが、大衆である木庵のサガなのだろう、権威やステレオタイプに影響されている自分を発見する。
 今のところ、木庵の発見といえば、
「真理は平凡な中に宿る」
「普通の日常生活の中に宿る」
「しかし、それは自分の周りにおける真理に留まり、 社会科学などの地理的時間的な広がりを伴うものに対して、この基本が通用しない。そこに専門家が必要となる。そして、専門家が大衆の感覚を失ったとき、真理から遠ざかる。つまり大衆の感覚を維持しつつ、広い知識が必要であるということである」。
 このような分かりきったことを今頃になって分かりだした自分に、
「何ら自慢できない」
 とせせら笑わざるをえない。
 ところで林田の解釈による陽明学とは禅的であるように思うのだが。

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2010年08月25日

● 最近、「うーん、成るほど」と思った言葉

■「土下座までして当選させてくださいって頼むのは、いかに旨味があるかって、自ら証明しているようなもんだね」

 最近、
「うーん、成るほど」
 と思った言葉をいくつか紹介させて頂く。
 まずは、世界的な映画監督・黒澤明の言葉。

「選挙があるたびに思うけど、本当だったら国民のために大変な労力を費やす、しんどい仕事なわけだから、頼まれたって嫌なはずだよ。
 それなのに、土下座までして当選させてくださいって頼むのは、いかに旨味があるかって、自ら証明しているようなもんだね。
こっちからお願いして、嫌々やるぐらい大変な仕事だって、そう感じている人に政治家になってもらいたいもんだよ」(黒澤和子『回想 黒澤明』「喋る」、中公新書)

■「動物たちは、いつ死ぬとか、将来どうなるかとか興味が無い。今を生きているから。訓練すれば、あなたも今を生きれる」
 
 カリスマ・ドッグ・トレーナー、シーザー・ミランの言葉。
「穏やかで毅然とした態度」
 これは、飼い主、つまりその家のリーダーの採るべき態度の事を言っている。
 小・中学校の教師や家庭の大人のあり方にも、同じことが言えよう。
 シュタイナー教育でも、教師や親は、毅然とした態度であるべきだと説いているではないか。
 もうひとつ、これもシーザー・ミランの言葉。( )内は、筆者注。

「(犬の)攻撃的なエネルギーには、毅然としたエネルギーで対抗すること。不安や恐怖は禁物。・・・(中略)・・・不安は、エネルギーを弱める。そして、不安は伝わっていく。考え過ぎればさらに・・・。恐怖が勝つと弱気になる。
 動物たちは、いつ死ぬとか、将来どうなるかとか興味が無い。今を生きているから。訓練すれば、あなたも今を生きれる」
 まるで、陽明学か韓氏意拳の教えを聞いているようである(笑)。

『借りぐらしのアリエッティ』の監督の、マロこと米林宏昌(よねばやし・ひろまさ)の言葉。

「こうなったら面白いだろうなって思ったら、やるしかないですよね」

 映画『借りぐらしのアリエッティ』は、我が家ではまだ誰も見ていないが、上記の言葉には、
「うんうん。その通り」
 と思った次第。
 私も、同じ気持ちで、著作をものにしてきた(笑)。


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2010年08月24日

●「百姓は生かさず殺さず」、そして石田三成の旗印「大一、大万、大吉」について

■「万民のために天下の父母となって万民の苦しみを無くするぞ」

 昨日の「百姓は生かさず殺さず」についての真の解釈は、あまり反響が無かった(苦笑)。
 幕末の志士に興味がある人であれ、江戸しぐさに興味がある人であれ、日本の歴史に興味がある人であれ、とても大事なことだと思うのだが・・・。
 考えて頂きたいのは、戦国武将の織田信長や徳川家康たちが唱えたスローガンのことである。
 織田信長が「天下布武」を唱えて、何故だか、当時隣国だった明朝の「永楽通宝」を旗印にしていたことは既に本ブログ上で述べさせて頂いたし、やはりこれも触れたが、徳川家康が
「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど。一説に「えんりえど」)」
 を旗印にして、戦のない天下泰平の世を希求していたことからすれば、信長も、家康も理想主義者であったといっていい。
 ちなみに、家康の「厭離穢土 欣求浄土」には、
「誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」(「ウィキペディア」)
 という意味が込められている。
「万民のために天下の父母となって万民の苦しみを無くするぞ」
 との家康の覚悟が示されているのである。

■秀吉の朝鮮出兵に対して、三成は「無益だ」と言って最後まで反対していた

 信長の旗印の「永楽通宝」のことだが、私が思うに、堺商人の隆盛を目にしていた信長は、これからは武士の、武力の時代ではない、商業、ビジネス、貿易の時代だ、ということを見通していたのではないだろうか。
 話を戻すが、信長や家康の旗印に加えるに、石田三成の旗印といおうか、スローガンも参考になる。
 家康に歯向かったということで、今日そのイメージは非常に悪いが、敗者は常に勝者によって悪者の烙印を押されていくものなので、石田三成の場合もその真実の姿が歪められたであろうことは間違いない。
 例えば、秀吉の朝鮮出兵に対して、三成は
「無益だ」
 と言って最後まで反対していたし、最初の朝鮮出兵の撤退時に、三成は
「即時撤兵」
 を主張して、
「交渉を有利に運ぶ為にも最後に戦果を挙げるべきだ」
 とする加藤清正と激しく対立している。
 私などは、家康を大いに尊敬する一人だが、石田三成の事績を知るにつけ、共感するところが多い(笑)。
 典型的な戦国武将で武断派の清正からすれば、江戸幕府にこそふさわしかった官僚タイプの光成のことは、理解できなかったはずである。
 武断派などでは決して無く、有能な実務官僚であった石田三成を、家康は惜しんだに違いない。

■「一人が万民(大)のために、万民(大)が一人のために、そうすれば世に幸福(吉)が訪れる」

 話を戻す。
 三成の旗印についてである。
「大一、大万、大吉」
 の文字が描かれている。
「だいいち だいまん だいきち」
 と読む。

「一人が万民(大)のために、
万民(大)が一人のために、
そうすれば
世に幸福(吉)が訪れる」

 という意味である。
 朝鮮出兵に反対し、天下泰平の世を希求する旗印を掲げていたことなどからも、石田三成の人柄が分かろうというものである。
 ここで、「百姓は生かさず殺さず」のことである。
 理想主義を掲げた家康が、
「百姓は、生殺しにしてもいい」
 等ということを主張するはずもない。
 そんな政策を実行する幕府が、反政府勢力によって打倒されるのは時間の問題であったはずだ。
 そうならなかったのは、徳治主義だったからである。
 特に、近年の歴史書を通じて、徳川幕府の農業政策について知るならば、江戸期の農民が如何にしたたかで、力強い存在であったかに驚かされるのは私だけではないに違いない。
 江戸期は、その前の戦国期とは違って、文書がモノを言う文書行政の国、つまり文治の法治国家となったのである。
 私などが、中学高校で学んだ日本の歴史とはまるで違っているのだ(笑)。
 というわけで、歴史の本は、常に新しいモノを読むべきである。


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2010年08月23日

●「百姓は生かさず殺さず」の本当の解釈!

■〈百姓は、天下の根本なり。是を治める法あり。(中略)百姓は、財の余らぬように、不足なきように治むる事、道なり〉

 久々に、ネット上の様々な情報を目にしてみた。
 いくつか見ている中に、
「百姓は、生かさず殺さず」
 についての解釈が、相も変わらず通俗的なのには、大変驚かされた。
 というのも、かつて、拙著
『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』(三五館)
 で、私なりにきちんと詳説させて頂いたつもりだったからである。
 勿論、私も、自分の不勉強を棚に上げて、「百姓は生かさず殺さず」という言葉を、まさしく文字どおりにとり、
「江戸時代の農民たちは、武士に搾取されて、虐待されていたんだ」
 などと思っていたので、今更偉そうな態度はとれないのだが、相も変わらずの江戸時代観がまかり通っているので、以下に説明させて頂く。
 ウィキペディアでさえも、間違った俗説レベルの解釈を堂々と掲載しているので、要注意である。
 以下は、勿論、拙著『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』第8章からの引用である。

「以下は、江戸学の祖といわれる三田村鳶魚(えんぎょ)の名著『江戸雑録』を参照した。
 徳川家康の謀臣・本多佐渡守正信(さどのかみまさのぶ)が
〈百姓は、天下の根本なり。是を治める法あり。(中略)百姓は、財の余らぬように、不足なきように治むる事、道なり〉
 といったのが
〈百姓は、生かさず殺さず〉
 の初出で、やがて
〈生きぬように死なぬように〉
 という言葉に置き換えられていったのだという。
 正確には、
〈軍書・戦記の上では、イイカゲンにせよということで、生きぬように死なぬように扱えといった。威張らせずもせず、閉口させもしない、という意味に使われている〉(同上)
 ということなのだ。
 そして鳶魚によれば、江戸幕府の政治は、百姓のみならず、すべてが生かさず殺さず、言い換えれば、
〈威張らせず、閉口させず〉
 で、与奪(与えたり奪ったりすること)を巧妙にしてあった
という。
 一方で与えれば、必ず他方で奪う、といった具合に互いに加減乗徐(足し算、引き算、掛け算、割り算)するという、現代よりはるかに平等社会であった。
 老中といえば、幕府閣僚の大臣で、その威厳たるや堂々たるもので、道を通る時には、諸大名が道を譲り、前田、島津といった大諸侯でさえ、〈その方〉と呼びかけて命令し、また徳川の御三家(尾張、紀伊、水戸)からも、大変な会釈をされたという。
 この老中職は、譜代大名という、徳川の家来筋に限られていた上に、必ず10万石以下の小大名でなければなれなかった。
 大老は、酒井や伊井のような大身(たいしん)が務めたが、大老を置かない時が多いので、幕府閣僚といえば、10万石以下、4〜5万石以上の小大名であった。
〈これは家康以来の仕癖(しへき)であって、(中略)資力と権勢とを分ける、両手に華を持たせない仕向け(待遇)〉
 であり、
〈懐中(経済力)のない奴に威張らせて、財布の重い者を引き込ませておく〉
〈貧乏大名が、財布の軽いためにへこまない、大大名の懐が暖かくても、権勢とはご縁が遠いから、睨(にら)め回して肩で風切るわけにもいかない〉 
 といったように、資力(経済力)と権勢(政治力を分けて持たせることで、いずれも死なぬように生きぬように、つまり偏らないように仕向けたのが、
〈江戸前の政治〉(すべて同上)
 であったという。
 一人の人間に、財力と権力が集中するのが当たり前になったのは、明治以後のことである。
 だが、江戸期とはいえ、徳川の政治とは違って、田舎大名の場合は、豪農や豪商に名字帯刀を与える、つまり両手に花を持たせて憚らなかった。
 生かさず殺さずで偏(かたよ)らないように仕向けた、というが、まさしく徳川幕府は
〈中庸〉
 の精神を政治に発揮したのである」
 
 「江戸前の政治」というフレーズはいい。
 明治以後、経済力がある者が、政治権力をも併せ持つという風潮になってしまった。
 アメリカやイタリアなどは、超お金持ちが政治家になっている。社会が、格差社会という不健全社会になるのも、無理はない。
 江戸時代のいいところは、大いに学ぶべきであろう。
 上記の話で、
「うーん。なるほど」
 と思った方、是非、拙著『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』(三五館)を買って読んで欲しい(笑)。
 また、中小のいい本を出している出版社を、ぜひ応援して頂きたい。


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2010年08月22日

●中江藤樹や熊澤蕃山に関するいくつかの謎が解けてきた

■あれこれ、歴史書を渉領していて、これまでの中江藤樹の評伝とは違った視点が見つかった

 『村落教師・中江藤樹(仮)』(三五館)執筆へ向けて、着々とでは無く、コツコツとペンを進めている。
 中江藤樹の評伝を書くにあたって、中江藤樹に関係する資・史料だけに目を通せばいい、と考えるのが普通だろうが、私が思うに、それでは、可もなく不可もなくの中江藤樹伝が上がって来るに違ない。
 私の場合は、数日前にも触れさせて頂いたように、中江藤樹の事も勿論調べながら、一方では鳥瞰的視点からも見るようにしているので、藤樹の生まれる前の時代、存命中の時代、死後の時代、という具合に歴史的な背景にも目を通すように努めている。
 でなければ、藤樹のモノの見方考え方の特異性が浮き彫りに出来ないと思うからである。
 あれこれ、歴史書を渉領していて、これまでの中江藤樹の評伝とは違った視点が見つかったのだ。
 その内容に関しては、企業秘密ということで、現段階での公開を断念させて頂くが、気づいた私自身、何故、これまで藤樹の研究者や作家の先生方が気づかなかったのかと我ながら驚いたほどである。
 で、夕方になって、
「一休み」
 を口にしながら、この発見と言うべきか気づきを喜んで、一人祝杯を挙げた次第(笑)。
 藤樹に関する直接的な資・史料には触れられていないので、誰であれ気づかないのも無理はないのだが・・・、調子に乗って、あまりここでしゃべってしまうと、元も子もなくなるので、これ以上は口にできないのが誠に残念。
 この気づきのおかげで、藤樹や熊澤蕃山に関するいくつかの謎が解けてきたのである(嬉)。
 例えば、藤樹は、何故、熊澤蕃山の入門を、最初は頑強に拒否したのか?がある。この答えが分かった。
 出版社の編集者にも、脱稿までこのことは黙っているつもりである(笑)。
 というわけで、今そのことに関してのさらなる資・史料集めを開始した。
 私の中江藤樹の評伝『村落教師・中江藤樹(仮)』、お楽しみに(笑)。

■日垣隆・岡本吏郎『楽しく稼ぐ本』(だいわ文庫)を、拾い読みさせて頂く

 21日(土)である。
 玲奈は塾へ、龍明はサッカーの練習で、妻は自分の部屋の整理整頓であった。
 私はというと、上記に述べさせて頂いたように、歴史書の読破に終始した。
 その間、一休みということで、昨日、岡本吏郎(しろう)先生から受け取らせて頂いた日垣隆・岡本吏郎
『楽しく稼ぐ本』(だいわ文庫)
 を、現段階では、拾い読みさせて頂く。
「男が逆玉を求める格差社会のおかしな実態」
 とか
「格安で売りに出された別荘は買いか?」
 といった記事が目に飛び込んできたが、別荘に関しては、別荘の維持費を考えると、掃除もしなくていいホテルに泊ったほうがベストだろうというのは、大いに納得(笑)。
 また、読みやすい工夫が随所に見られて、編集上でも参考になった。
 一読したら、本ブログで紹介させて頂くつもりである。

■「平素はブログ『林田明大の「夢酔独言」』を拝見し、多くの事を学ばせて頂いております」

 本日、早速、韓氏意拳のセミナーへの参加申し込みを頂戴させて頂いたが、「姚江の会」の会員限定というわけでは決してないので、私のブログの読者の方の参加申し込みは大歓迎である、是非!
 また、講演会終了後に、先生を囲んでの懇親会も予定しているので、懇親会への参加申し込みも同時に受け付けさせて頂きたい。
 こういった場合、早めの申しみは、主催者への思いやりとイコールなのである(笑)。
 参考までに、本日頂戴させて頂いたMK氏からのとてもご丁寧なFAXの一部を紹介させて頂く。

「秋暑厳しき候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
 平素はブログ『林田明大の「夢酔独言」』を拝見し、多くの事を学ばせて頂いております。
 ・・・(中略)・・・韓氏意拳については、以前より関心があったのですが、週末はなかなか都合がつかず、機会を逸しておりました」

 私は、MK氏とはこれまで面識がない。
 そういう意味では、来月お会いするのが楽しみである。


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