佐藤一斎
2018年09月18日
●王龍溪、中庸の道を実践するための「事上磨錬」について語る
◆「事上磨錬によって手に入れることのできるものは、静坐によって得るものの倍です」
以下、吉田公平・小路口聡・早坂俊廣・鶴成久章・内田健太
『王畿「龍渓(りゅうけい)王先生会語」其の11』
からです。
王龍渓(1498〜1583。Wang Ji)は、陽明学の創始者・王陽明の高弟で、陽明亡きあとの真の後継者です。その生涯を、師の教えの啓蒙活動に捧げました。
日本陽明学の祖・中江藤樹は、王龍渓の思想を契機に大悟し、藤樹の弟子たち、特に熊沢蕃山と並ぶ二大弟子の一人の淵岡山(ふち・こうざん)とその門人たちは、王龍渓の思想を重視し、実践体得に努めたことが知られています。
つまりは、日本陽明学を理解するには、王龍渓の思想を学ぶべきなのです。なお、幕末の陽明学者として知られる佐藤一斎は、王龍渓を評価しませんでした。
真の求道者に、以下のさらなる解説は不要でしょう。
///////////////////////////////////////////////////////////////////
【事上での磨錬から入って、状況に左右されないのを、徹悟と呼びます。】
ある人が言った。
「あなたが、
〈吾が儒は、中庸の道に合致しており、禅学や俗学とは異なる〉
と言われるのは、正しいでしょう。
かといって、恐らくは、外から強引に手に入れようとしても、出来るものではありません。どうか、入り方を教えてください」
私(王龍溪)が言った。
「君子の学は、悟りを得ることを貴(とおと)びます。この悟りの門が開かれないと、本当に学んだという確証は得られません。悟りに入る道(入悟)には、三種類あります。
言葉から入る者がいます。静坐から入る者がいます。人の心のありようや出来事の変動の上で本心を磨錬(錬磨)することから入る者がいます。
言葉から入ることを、解悟と呼びます。学びの最初の転機です。
静坐から入って、本心から悟得(自得)するのを、心悟(證悟)と呼びます。
事上での磨錬から入って、状況に左右されないのを、徹悟と呼びます。
静坐する場合には、必ず頼るべきものが必要です。周囲の環境が静かであってこそ、心は始めて静かになります。それは濁った水が澄むのに例えることができます。たとえ一時的に澄んだとしても濁りの元は、依然として残存しているので、風や波によって振動し、搔き乱されたとたんに、やはり再び濁りの元が雑(ま)ざりあって、容易に濁ります。
もし人情事変の上の磨錬から行っていけば、完全に透き通って、流れるがままに絶妙に応じることができます。水面は複雑多様に揺れ動いていても、真の主宰者は常に一定しているので、磨錬すればするほどますます本体はその輝きを増してきます。そうなるともう澄んだり濁ったりすることはありません。これを実証実悟(真実の悟り)と言います。
思いますに、静坐によって手に入れることのできるものは、言葉によって伝えられるものの倍です。事上磨錬によって手に入れることのできるものは、静坐によって得るものの倍です。
善く学ぶ者は、自分の力量の大小を見計らって、時間をかけながらゆっくりと入っていきますが、それが功を成すに及んでは、得られる成果はみな同じです。
先師(王陽明)の学も、幼年の頃は、やはり言葉から入りましたが、ついで静中から悟りを得て、その後、野蛮な地に居住すること三年にして、万死に一生を得た経験の中から、度重なる磨錬を得た結果、やっと徹悟の証を手に入れました。
生涯にわたる経綸(世直し)の事業は、全てその余事(本来の仕事ではなく、余力で行う仕事)なのです。儒とは、中庸の道を実践する実学です。」(『龍渓王先生会語』巻四)
▼王龍渓(畿)
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2012年11月29日
●佐賀藩主・鍋島閑叟の陽明学の師・永山貞武
◆佐賀藩は、幕末・維新期に、日本、否、当時のアジアで最も科学技術が進んだ地域だった
まずは、福岡での講演会のこと。
テーマは、明治維新と陽明学の2本立てだったのだが、レジュメを作りながら思ったことは、
「やっぱり、2時間の持ち時間でテーマが二つというのは無理があるなぁ」
ということだったので、講演の冒頭で、
「前回の福岡での講演会においでいただけた方、挙手して頂けますか」
とお願いさせて頂いたところ、なんと、数名だけだったので、陽明学の思想にウエイトをおいた話をさせて頂くことにしたのである。
明治維新と一口にいっても、膨大な情報量なので、講演会が福岡ということもあり、今回は、佐賀藩のことに話を絞らせて頂いたが、その中でも、藩主・鍋島閑叟(なべしま・かんそう)公と、「佐賀戦争」のリーダーとして知られる江藤新平の話である。
余談だが、佐賀では、「佐賀の乱」という言い方は好まれない。江藤新平は、逆臣ではない、という思いから、「乱」は使われないのである。
佐賀藩のことに話を絞らせて頂いたのには理由がある。
幕末・維新期に、日本、否、当時のアジアで最も科学技術が進んだ地域だったからであり、そうしたのは、陽明学を奉じていた鍋島閑叟(なべしま・かんそう)公だったからである。
◆我が国の儒者が世間の事情にうとく社会の役に立っていないことを嘆き、江戸初期の陽明学者・熊沢蕃山(日本陽明学の祖・中江藤樹の高弟)を手本として身を修めた
2時間、この佐賀藩の話をさせて頂けるのであれば、触れたかったことがある。
講演でその名前には触れさせて頂いたが、鍋島閑叟の陽明学の師・永山貞武(ながやま・さだたけ)についてである。
なお、閑叟公は、『陽明文集』を愛読した事で知られている。以下、『佐賀先哲叢話』参照。
貞武(1802〜45)は名、号は二水という。幼い頃より学問に熱心で、その努力ぶりは、ほかに比べる者がいなかったという。
22歳の時に、肥後の辛島塩井の塾に入門、5年間学び、学者となって帰郷した。まもなく「国学指南」に任ぜられ、文政12(1829)年28歳の時、「外小姓兼侍講」に任ぜられる。
鍋島閑叟が藩主になると、「奥小姓兼教諭」に任ぜられ、「側目付」に昇進。天保11(1840)年、藩主・閑叟公と江戸に上り陽明学者・佐藤一斎に師事した。ついで東北諸藩を旅して、『庚子遊草』を著した。
天保13年、「手明槍頭兼請役相談役格」に進み、天保14年に「御側頭」となり、閑叟公のために尽力するも、その後病気になり辞職隠退を願い出たが許されず、弘化2年(1845)7月30日(新暦9月1日)在職のまま死去した。享年44歳。墓は実相院裏の墓地。碑文は佐藤一斎。
閑叟公の藩政改革は、この貞武無しには成し得なかった。貞武は、閑叟公に陽明学を教え、重臣・鍋島茂真(しげざね)を補佐し、藩士の育成や貧民救済にも力を尽くした。
貞武は、
「自己に厳しく他人には寛容」
で、家のことはできるだけ簡略にし、事務の処理は実にスピーディーであった。
また、大事にあえば沈着冷静に事に当たり、小事といえども軽々しく看過することがなかったという。まさしく陽明学で言う
「大事、小事の区別なし」
であった。
加えて、常に学問の渕源を究めようと努力した。初め朱子学を学び、後考えるところがあって陽明学を修めた。
我が国の儒者が世間の事情にうとく社会の役に立っていないことを嘆き、江戸初期の陽明学者・熊沢蕃山(日本陽明学の祖・中江藤樹の高弟)を手本として身を修め、実用を第一として無用の学問を捨て、簡易を尊び、形式的な面倒臭い手続き等を避けるよう心を砕いた。
貞武は、また体力が衆に抜きんでてすぐれており、時に馬にむちうち、剣道に励み、威風堂々、気高く雄々しく自からよく節操を守った。
平素は大変貧しかったが、武器は精一杯の力を出して買い求めていたという。
水戸学の藤田東湖を親友として佐藤一斎らと交遊し、九州一の陽明学者と言われた。
友人に、同藩士で陽明学者の千住西亭がいる。
江藤新平については、次回にでも。
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まずは、福岡での講演会のこと。
テーマは、明治維新と陽明学の2本立てだったのだが、レジュメを作りながら思ったことは、
「やっぱり、2時間の持ち時間でテーマが二つというのは無理があるなぁ」
ということだったので、講演の冒頭で、
「前回の福岡での講演会においでいただけた方、挙手して頂けますか」
とお願いさせて頂いたところ、なんと、数名だけだったので、陽明学の思想にウエイトをおいた話をさせて頂くことにしたのである。
明治維新と一口にいっても、膨大な情報量なので、講演会が福岡ということもあり、今回は、佐賀藩のことに話を絞らせて頂いたが、その中でも、藩主・鍋島閑叟(なべしま・かんそう)公と、「佐賀戦争」のリーダーとして知られる江藤新平の話である。
余談だが、佐賀では、「佐賀の乱」という言い方は好まれない。江藤新平は、逆臣ではない、という思いから、「乱」は使われないのである。
佐賀藩のことに話を絞らせて頂いたのには理由がある。
幕末・維新期に、日本、否、当時のアジアで最も科学技術が進んだ地域だったからであり、そうしたのは、陽明学を奉じていた鍋島閑叟(なべしま・かんそう)公だったからである。
◆我が国の儒者が世間の事情にうとく社会の役に立っていないことを嘆き、江戸初期の陽明学者・熊沢蕃山(日本陽明学の祖・中江藤樹の高弟)を手本として身を修めた
2時間、この佐賀藩の話をさせて頂けるのであれば、触れたかったことがある。
講演でその名前には触れさせて頂いたが、鍋島閑叟の陽明学の師・永山貞武(ながやま・さだたけ)についてである。
なお、閑叟公は、『陽明文集』を愛読した事で知られている。以下、『佐賀先哲叢話』参照。
貞武(1802〜45)は名、号は二水という。幼い頃より学問に熱心で、その努力ぶりは、ほかに比べる者がいなかったという。
22歳の時に、肥後の辛島塩井の塾に入門、5年間学び、学者となって帰郷した。まもなく「国学指南」に任ぜられ、文政12(1829)年28歳の時、「外小姓兼侍講」に任ぜられる。
鍋島閑叟が藩主になると、「奥小姓兼教諭」に任ぜられ、「側目付」に昇進。天保11(1840)年、藩主・閑叟公と江戸に上り陽明学者・佐藤一斎に師事した。ついで東北諸藩を旅して、『庚子遊草』を著した。
天保13年、「手明槍頭兼請役相談役格」に進み、天保14年に「御側頭」となり、閑叟公のために尽力するも、その後病気になり辞職隠退を願い出たが許されず、弘化2年(1845)7月30日(新暦9月1日)在職のまま死去した。享年44歳。墓は実相院裏の墓地。碑文は佐藤一斎。
閑叟公の藩政改革は、この貞武無しには成し得なかった。貞武は、閑叟公に陽明学を教え、重臣・鍋島茂真(しげざね)を補佐し、藩士の育成や貧民救済にも力を尽くした。
貞武は、
「自己に厳しく他人には寛容」
で、家のことはできるだけ簡略にし、事務の処理は実にスピーディーであった。
また、大事にあえば沈着冷静に事に当たり、小事といえども軽々しく看過することがなかったという。まさしく陽明学で言う
「大事、小事の区別なし」
であった。
加えて、常に学問の渕源を究めようと努力した。初め朱子学を学び、後考えるところがあって陽明学を修めた。
我が国の儒者が世間の事情にうとく社会の役に立っていないことを嘆き、江戸初期の陽明学者・熊沢蕃山(日本陽明学の祖・中江藤樹の高弟)を手本として身を修め、実用を第一として無用の学問を捨て、簡易を尊び、形式的な面倒臭い手続き等を避けるよう心を砕いた。
貞武は、また体力が衆に抜きんでてすぐれており、時に馬にむちうち、剣道に励み、威風堂々、気高く雄々しく自からよく節操を守った。
平素は大変貧しかったが、武器は精一杯の力を出して買い求めていたという。
水戸学の藤田東湖を親友として佐藤一斎らと交遊し、九州一の陽明学者と言われた。
友人に、同藩士で陽明学者の千住西亭がいる。
江藤新平については、次回にでも。
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2012年02月03日
●『私には、陽明を嫌い、という良知がある』中井竹山
■私の良知は、あろうことか「ガスコンロと台所の掃除や洗濯や買い物をすますように」と指示してきた。
2月2日(木)である。
2月4〜6日の大阪と福岡での講演の準備でまさにてんてこ舞いの日々である。このところ、体調もあまりすぐれなかったので、仕方がないのだが…。
傍らで、家事もあり、手を抜けない。
一週間ほど留守をするので、私の良知は、あろうことか
「ガスコンロと台所の掃除や洗濯や買い物をすますように」
と指示してきた。
「え、この大変な時に」
と、もう一人の私(苦笑)。
残された妻が大変な思いをしないでいいように、との心遣いなのだから、良知の提案にしたがった。
当然のことながら、愚痴をこぼしながらも良知に従ったら、結果、気分爽快であった。
ただし、講演の準備がその分さらに大変なことになっている。
■「一斎の長じたところは、ただ文章だけである」
良知のことで、思いだした話がある。
時は、幕末のこと。
陽明学好きの儒者・森田節斎が、耳の聞こえない朱子学者の谷三山と筆談をしている。
二人の話は、陽明学者で知られる佐藤一斎のことに話が及んだ。
三山「佐藤一斎などは、猪飼敬所(いかいけいしょ)や中井履軒(なかいりけん)に比べれば、子どもが大人の真似をして髭と眉を書くようなものだ。一斎の長じたところは、ただ文章だけである」
節斎「猪飼敬所も、よくそう言っている。一斎は、最近、中井氏(履軒の孫)に手紙を出して、中井履軒・著『七経雕題(しちけいちょうだい)』を江戸で刊行したという。
中井氏は、
『一斎は、履軒のことが嫌いなはずなのに、どうして『七経雕題』を刊行したのでしょう』
などと、怪しんでいるようです。
佐藤一斎は、若かりしとき、中井竹山の塾に学んでいました。頻繁に、良知の学(陽明学)を竹山に勧めていたそうです。
最後に、竹山が言うには、
『私には、陽明を嫌い、という良知がある』
と言ったそうで、その後一斎は、竹山に対して良知について話すことを止めたと、履軒の孫が話しておりました。」
以上、『愛静館筆語』第四輯より。
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2月2日(木)である。
2月4〜6日の大阪と福岡での講演の準備でまさにてんてこ舞いの日々である。このところ、体調もあまりすぐれなかったので、仕方がないのだが…。
傍らで、家事もあり、手を抜けない。
一週間ほど留守をするので、私の良知は、あろうことか
「ガスコンロと台所の掃除や洗濯や買い物をすますように」
と指示してきた。
「え、この大変な時に」
と、もう一人の私(苦笑)。
残された妻が大変な思いをしないでいいように、との心遣いなのだから、良知の提案にしたがった。
当然のことながら、愚痴をこぼしながらも良知に従ったら、結果、気分爽快であった。
ただし、講演の準備がその分さらに大変なことになっている。
■「一斎の長じたところは、ただ文章だけである」
良知のことで、思いだした話がある。
時は、幕末のこと。
陽明学好きの儒者・森田節斎が、耳の聞こえない朱子学者の谷三山と筆談をしている。
二人の話は、陽明学者で知られる佐藤一斎のことに話が及んだ。
三山「佐藤一斎などは、猪飼敬所(いかいけいしょ)や中井履軒(なかいりけん)に比べれば、子どもが大人の真似をして髭と眉を書くようなものだ。一斎の長じたところは、ただ文章だけである」
節斎「猪飼敬所も、よくそう言っている。一斎は、最近、中井氏(履軒の孫)に手紙を出して、中井履軒・著『七経雕題(しちけいちょうだい)』を江戸で刊行したという。
中井氏は、
『一斎は、履軒のことが嫌いなはずなのに、どうして『七経雕題』を刊行したのでしょう』
などと、怪しんでいるようです。
佐藤一斎は、若かりしとき、中井竹山の塾に学んでいました。頻繁に、良知の学(陽明学)を竹山に勧めていたそうです。
最後に、竹山が言うには、
『私には、陽明を嫌い、という良知がある』
と言ったそうで、その後一斎は、竹山に対して良知について話すことを止めたと、履軒の孫が話しておりました。」
以上、『愛静館筆語』第四輯より。
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2010年01月11日
●「陽明学と坂本龍馬・1、土佐陽明学派の開祖・奥宮慥斎」
龍馬が生まれるちょっと前から、陽明学が土佐藩で盛んになり始めて、龍馬が20歳になるころには、土佐藩始まって以来の陽明学全盛時代となっていた
「陽明学と坂本龍馬」というテーマは、15、6年前から、一度取り組んでみたいと思っていたのだが、今日までそれを果たせないまま来てしまった。
土佐に取材に出かけてみたかったのだが、それも果たせないままである。ただし、大洲には一度行くことができた。
大河ドラマ『龍馬伝』も始まってしまったが、この機を逃したら、またいつ取り組むことになるか分からないので、手元にある資料をもとに、可能な限り、先行きどうなるかわからないのだが、書きすすめてみることにする。
坂本龍馬は、天保6年(1835)11月15日に生まれている。
何と、私の娘の玲奈(中1)と誕生日が同じである。
ついでながら言わせて頂くと、息子・龍明(小4)の「龍」の一字は、龍馬にあやかり、一字をもらってつけたものである(笑)。
そして龍馬は、慶応3年(1866)、奇しくも誕生日の11月15日に刺客に襲われて即死する。
33歳であった。
龍馬が土佐藩を脱藩するのは、28歳の年の文久2年(1862)のこと。
龍馬が、土佐で育まれたのは、28歳までということになる。
ただ、19歳の時の、約1年間の江戸遊学を最初として、22歳の夏〜24歳秋の約2年間、二度目の江戸遊学を果たしている事を忘れるわけにはいかない。
つまり、厳密に言えば、19歳までが土佐での龍馬の揺籃期なのである
結論から先に言おう。
龍馬が育った土佐藩の、特に龍馬25歳の頃の藩学は陽明学であった。
実を言うと、龍馬が生まれるちょっと前から、陽明学が土佐藩で盛んになり始めて、龍馬が20歳になるころには、土佐藩始まって以来の陽明学全盛時代となっていたのだ。
確かに、龍馬が陽明学を直接学んだ形跡はないのだが、後述するが、龍馬の身近にいる人々は、陽明学を学んでいる人たちばかりと言っていい。
つまり、間接的には、陽明学の影響を受けていたと言っても過言ではないのである。
以下は、拙著『増補改訂版、真説「陽明学」入門』(三五館)第3部、『日本人名大事典』(平凡社)を参照した。
「程朱(ていしゅ)の学(朱子学)」を嫌い、岡本寧甫(おかもとい・ねいほ)、佐藤一斎に陽明学を学んだ
土佐陽明学の開祖は、奥宮慥斎(1811〜77)である。
「おくのみや・ぞうさい」と読む。一説に「おくみや」とある。
幕末、明治初期の国学者、漢学者である。
文化8年7月4日、土佐郡布志田(ぬのしだ)村に生まれている。
父は、土佐藩士・正樹(金臺)。
慥斎の通称は、忠次郎、後に周次郎と改め、その晩年に諱を通称とした。初名は、正由、字は子通、晦堂と号した。
田内菜園の門に入り、和歌、国学を学んだ。
また、弓術を能(よ)くした。
土佐南学の中核である
「程朱(ていしゅ)の学(朱子学)」
を嫌い、岡本寧甫(おかもとい・ねいほ)に陽明学を学んだ。寧甫については、後述する。
文政13年(1830)、22歳のとき、江戸に出て陽明学者・佐藤一斎に師事、陽明学を究め、3年後に帰国し、陽明学を主唱した。
佐藤一斎の塾で、同門、つまり一斎の高弟で二本松藩儒者・三谷愼斎(みたに・しんさい)に、陽明学の書をしきりに勧められ、川田雄琴(かわだ・ゆうきん)の『大学屑説』を一読、以後、陽明学に積極的に取り組んだという。
龍馬が脱藩する頃は、大洲藩で川田履道が陽明学を教えていた頃である
川田雄琴(1684〜1760)と言えば、陽明学中興の祖と言われている三輪執斎(1669〜1744)の高弟である。
雄琴は、中江藤樹ゆかりの地である伊予国大洲(おおず)藩で活躍し、藩主や藩士たちのみならず、庶民にも陽明学を教えて、大洲(愛媛県)に没した。
庶民に向けて、大変分かり易い講釈を行ったという。
雄琴の代表的な著作は、『伝習録筆記』であろうか。
『伝習録』といえば、言わずと知れた王陽明の言行録であり、まさしく陽明学のバイブルと言っていい本である。
この雄琴の子・川田芝嶠(しきょう)(1720〜93)は藩校教授を務め、雄琴のひ孫で大洲藩士・川田履道(りどう)(1811〜56)も、雄琴や祖父の芝嶠同様、陽明学を奉じた。
大洲は、龍馬の脱藩ルートの通り道である。大洲藩で陽明学が盛んだったことは、隣国の土佐藩にも漏れ伝わっていたに違いない。
また、龍馬が脱藩する頃は、大洲藩で川田履道が陽明学を教えていた頃である。
安政6年、奥宮慥斎は、藩校の教授兼藩主・山内容堂の侍読に大抜擢される
奥宮慥斎のことに話を戻そう。
高地城下の中新町の私塾・蓮池(はすいけ)書院で陽明学を講じるも、嘉永末に、藩主・山内容堂(豊信)に意見書を提出して藩の重臣たちににらまれ、江戸詰めを命じられる。
市川彬斎(ひんさい)、岡本寧甫、南部静斎らと陽明学の普及に努め、伝統の海南朱子学の中にあって異学として排撃されながらも、藩内第一流の陽明学者となり、安政6年(1859)、藩校の教授兼藩主・山内容堂の侍読(家庭教師)に大抜擢されるのである。
安政6年といえば、
「安政の大獄」
の年である。
だが、私塾で尊王攘夷の志気を鼓吹(こすい)し、龍馬の親友の武市瑞山率いる土佐勤王党を援助したことから、佐幕派の嫌うところとなり、慶応元年(1865)12月に罷免、100日間の幽閉処分となる。
維新後のことである。
以下、次回に続く。
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「陽明学と坂本龍馬」というテーマは、15、6年前から、一度取り組んでみたいと思っていたのだが、今日までそれを果たせないまま来てしまった。
土佐に取材に出かけてみたかったのだが、それも果たせないままである。ただし、大洲には一度行くことができた。
大河ドラマ『龍馬伝』も始まってしまったが、この機を逃したら、またいつ取り組むことになるか分からないので、手元にある資料をもとに、可能な限り、先行きどうなるかわからないのだが、書きすすめてみることにする。
坂本龍馬は、天保6年(1835)11月15日に生まれている。
何と、私の娘の玲奈(中1)と誕生日が同じである。
ついでながら言わせて頂くと、息子・龍明(小4)の「龍」の一字は、龍馬にあやかり、一字をもらってつけたものである(笑)。
そして龍馬は、慶応3年(1866)、奇しくも誕生日の11月15日に刺客に襲われて即死する。
33歳であった。
龍馬が土佐藩を脱藩するのは、28歳の年の文久2年(1862)のこと。
龍馬が、土佐で育まれたのは、28歳までということになる。
ただ、19歳の時の、約1年間の江戸遊学を最初として、22歳の夏〜24歳秋の約2年間、二度目の江戸遊学を果たしている事を忘れるわけにはいかない。
つまり、厳密に言えば、19歳までが土佐での龍馬の揺籃期なのである
結論から先に言おう。
龍馬が育った土佐藩の、特に龍馬25歳の頃の藩学は陽明学であった。
実を言うと、龍馬が生まれるちょっと前から、陽明学が土佐藩で盛んになり始めて、龍馬が20歳になるころには、土佐藩始まって以来の陽明学全盛時代となっていたのだ。
確かに、龍馬が陽明学を直接学んだ形跡はないのだが、後述するが、龍馬の身近にいる人々は、陽明学を学んでいる人たちばかりと言っていい。
つまり、間接的には、陽明学の影響を受けていたと言っても過言ではないのである。
以下は、拙著『増補改訂版、真説「陽明学」入門』(三五館)第3部、『日本人名大事典』(平凡社)を参照した。
「程朱(ていしゅ)の学(朱子学)」を嫌い、岡本寧甫(おかもとい・ねいほ)、佐藤一斎に陽明学を学んだ
土佐陽明学の開祖は、奥宮慥斎(1811〜77)である。
「おくのみや・ぞうさい」と読む。一説に「おくみや」とある。
幕末、明治初期の国学者、漢学者である。
文化8年7月4日、土佐郡布志田(ぬのしだ)村に生まれている。
父は、土佐藩士・正樹(金臺)。
慥斎の通称は、忠次郎、後に周次郎と改め、その晩年に諱を通称とした。初名は、正由、字は子通、晦堂と号した。
田内菜園の門に入り、和歌、国学を学んだ。
また、弓術を能(よ)くした。
土佐南学の中核である
「程朱(ていしゅ)の学(朱子学)」
を嫌い、岡本寧甫(おかもとい・ねいほ)に陽明学を学んだ。寧甫については、後述する。
文政13年(1830)、22歳のとき、江戸に出て陽明学者・佐藤一斎に師事、陽明学を究め、3年後に帰国し、陽明学を主唱した。
佐藤一斎の塾で、同門、つまり一斎の高弟で二本松藩儒者・三谷愼斎(みたに・しんさい)に、陽明学の書をしきりに勧められ、川田雄琴(かわだ・ゆうきん)の『大学屑説』を一読、以後、陽明学に積極的に取り組んだという。
龍馬が脱藩する頃は、大洲藩で川田履道が陽明学を教えていた頃である
川田雄琴(1684〜1760)と言えば、陽明学中興の祖と言われている三輪執斎(1669〜1744)の高弟である。
雄琴は、中江藤樹ゆかりの地である伊予国大洲(おおず)藩で活躍し、藩主や藩士たちのみならず、庶民にも陽明学を教えて、大洲(愛媛県)に没した。
庶民に向けて、大変分かり易い講釈を行ったという。
雄琴の代表的な著作は、『伝習録筆記』であろうか。
『伝習録』といえば、言わずと知れた王陽明の言行録であり、まさしく陽明学のバイブルと言っていい本である。
この雄琴の子・川田芝嶠(しきょう)(1720〜93)は藩校教授を務め、雄琴のひ孫で大洲藩士・川田履道(りどう)(1811〜56)も、雄琴や祖父の芝嶠同様、陽明学を奉じた。
大洲は、龍馬の脱藩ルートの通り道である。大洲藩で陽明学が盛んだったことは、隣国の土佐藩にも漏れ伝わっていたに違いない。
また、龍馬が脱藩する頃は、大洲藩で川田履道が陽明学を教えていた頃である。
安政6年、奥宮慥斎は、藩校の教授兼藩主・山内容堂の侍読に大抜擢される
奥宮慥斎のことに話を戻そう。
高地城下の中新町の私塾・蓮池(はすいけ)書院で陽明学を講じるも、嘉永末に、藩主・山内容堂(豊信)に意見書を提出して藩の重臣たちににらまれ、江戸詰めを命じられる。
市川彬斎(ひんさい)、岡本寧甫、南部静斎らと陽明学の普及に努め、伝統の海南朱子学の中にあって異学として排撃されながらも、藩内第一流の陽明学者となり、安政6年(1859)、藩校の教授兼藩主・山内容堂の侍読(家庭教師)に大抜擢されるのである。
安政6年といえば、
「安政の大獄」
の年である。
だが、私塾で尊王攘夷の志気を鼓吹(こすい)し、龍馬の親友の武市瑞山率いる土佐勤王党を援助したことから、佐幕派の嫌うところとなり、慶応元年(1865)12月に罷免、100日間の幽閉処分となる。
維新後のことである。
以下、次回に続く。
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2009年05月19日
●佐藤一斎の書、余話「知足」
「足りることを知る、それが足りていることだ」
「三学の会」のことについて書かせて頂いたが、おいでくださったご老人のことについて、19日午後、事務局の阿王桂(あおう・かつら)さんから訂正が入ったので、加筆修正させて頂いた。
ちなみに、K翁のご年齢は何と98歳だそうである。
また、当日は、阿王さんが幕末の陽明学者・佐藤一斎の最晩年の書の軸を御持参下さり、拝見させて頂いた。この場を借りて、お礼を申し上げる。
以下、参考までに阿王さんから配布された上記、佐藤一斎の書についてのメモからである。
「足ることを知るの足るは、常に足るなり。恥ずること無きの恥ずるは恥なし(知足之足常足矣。無恥之恥無恥矣」
「人はかろうじて、足りたと思うことで満足できるものこそ、常に十分の人といえるのであり、また、自らの無恥を恥じる心のある人こそ、恥ずることのない真の人といえるのである」
「知足之足常足矣」は、『老子』第46章からのもの。
「無恥之恥無恥矣」は、『孟子』尽心章句(じんしんしょうく)・上にある語。
以上である。
参考までに、
「知足之足常足矣」
についてである。
文字通りに読めば、
「足りることを知る、それが足りていることだ」
となる。
この言い方のほうが、いわゆる陽明学的かつ老荘的で、面白い(笑)。
『老子』には、このほかにも、
「知足」
について触れている。
「足ることを知れば、辱(はずかし)められず(満足ということを知れば、決して過ちを犯すことなく、自然、世間から恥辱を受けることもなくなってくる)」(44章)
「禍(わざわい)は足ることを知らざるより、大なるは莫(な)し(世に禍は多々ある。しかし、足ることを知らない禍ほど大きなものはない)」(46章)
そういえば、2年ほど前に脱稿していた『山田方谷の思想(仮)』が、野島透さんのコーディネートで、もしかしたら日の目を見るかもしれない。
山田方谷といえば、佐藤一斎の高弟で、陽明学者の中の陽明学者である。
「三学の会」のことについて書かせて頂いたが、おいでくださったご老人のことについて、19日午後、事務局の阿王桂(あおう・かつら)さんから訂正が入ったので、加筆修正させて頂いた。
ちなみに、K翁のご年齢は何と98歳だそうである。
また、当日は、阿王さんが幕末の陽明学者・佐藤一斎の最晩年の書の軸を御持参下さり、拝見させて頂いた。この場を借りて、お礼を申し上げる。
以下、参考までに阿王さんから配布された上記、佐藤一斎の書についてのメモからである。
「足ることを知るの足るは、常に足るなり。恥ずること無きの恥ずるは恥なし(知足之足常足矣。無恥之恥無恥矣」
「人はかろうじて、足りたと思うことで満足できるものこそ、常に十分の人といえるのであり、また、自らの無恥を恥じる心のある人こそ、恥ずることのない真の人といえるのである」
「知足之足常足矣」は、『老子』第46章からのもの。
「無恥之恥無恥矣」は、『孟子』尽心章句(じんしんしょうく)・上にある語。
以上である。
参考までに、
「知足之足常足矣」
についてである。
文字通りに読めば、
「足りることを知る、それが足りていることだ」
となる。
この言い方のほうが、いわゆる陽明学的かつ老荘的で、面白い(笑)。
『老子』には、このほかにも、
「知足」
について触れている。
「足ることを知れば、辱(はずかし)められず(満足ということを知れば、決して過ちを犯すことなく、自然、世間から恥辱を受けることもなくなってくる)」(44章)
「禍(わざわい)は足ることを知らざるより、大なるは莫(な)し(世に禍は多々ある。しかし、足ることを知らない禍ほど大きなものはない)」(46章)
そういえば、2年ほど前に脱稿していた『山田方谷の思想(仮)』が、野島透さんのコーディネートで、もしかしたら日の目を見るかもしれない。
山田方谷といえば、佐藤一斎の高弟で、陽明学者の中の陽明学者である。