今日(2月22日)は、森綾子さんの命日です。
しばし、彼女との想い出に浸らせてください。
森綾子さんと出会ったことで、男女共同参画の分野で活動を続けることになり、私の生き方が大きく変わりました。そのきっかけをくれました。
下記は、『女性学年報』第32号に掲載された彼女の追悼文です。
『女性学年報』第32号(2011年)日本女性学研究会
<追悼―森綾子さんを偲んで>
男性運動のキッカケは森綾子さんが仕掛けた!?
中村彰
1989年9月の日本女性学研究会例会が豊中市働く婦人の家を会場に開催された。テーマは「討論会・男はフェミニストになれるか?」(「VOW」105号に例会報告が収録されている)だった。
この討論会に参加しないか、という誘いを森綾子さんからもらった。「面白いと思うよ」という言葉を添えて電話がかかってきた。
「フロアから会社員の男性の立場から発言してほしい」となり、そののち「パネリストになってね」と要請が変わった。
そして当日。私は討論会のコーディネートを任された。
この討論会の準備会合と当日の討論を経て、本音で語れる男たちと、やっと出会えたと嬉しかった。
この体験が、のちのメンズリブ研究会の発足、さらにはメンズセンター(Men’s Center Japan)の設立につながった。いわば、男性運動の産婆役をしてくれたといってもいい。
そんな森綾子さんと、初めて出会ったのは、さらに数年遡る。
彼女が、後に『女性学年報』8号に、「女と墓―揺れるイエ意識(グループ野菊)」を発表するが、その元になったアンケート調査をはじめようとしていたころだった。
「日本人の粗霊観」を中心とした民俗学の勉強会に参加した折、私の少し前に彼女は座っていた。
熱心に本を読み、その本は付箋がたくさん貼り付けられていた。
何がきっかけで話を始めたか忘れたが、帰る道中、同じ方向だった二人は、あれこれと話し合った。
彼女から女性学の視点で墓の調査をこれから始めるのだと聞いた。
調査は始まっていなかったが、興味深い調査結果が出そうな予感がして、まとまったら教えて欲しいと話して、その日は別れた。
お墓に関わる講演会があると彼女に紹介し、森さんからは女性学のおもしろい企画を紹介された。
お墓に強烈な関心を持つ彼女の誘いで、お墓めぐりをしたこともある。
そして、数か月経ち、調査がまとまったと連絡が入った。
原稿執筆で、手が腱鞘炎になったとも聞いた。京都で待ち合わせをして、興味深い内容の調査報告を読ませてもらった。
新聞各紙が、この調査報告をこぞって報道したことも、この調査が斬新な内容で合ったことの証だろう。
森綾子さんは、5人兄妹の末っ子で、上の4人は男性だった。お父さんは、彼女が中学生の時に他界している。教師をされていたそうだ。
彼女の訃報を知ったのは、私は硬膜下出血で手術し、退院したばかりの頃だった。
最初に頭に浮かんだのは、彼女のすぐ上の兄さんが焼死された時のことだった。
昼過ぎに、森綾子さんからの電話で知った。彼女は、かなり落ち込んでいた。その兄さんは、彼女のよき理解者だったとも聞いている。午後1時頃に、宝塚市の中山寺で会うことにした。
その日、彼女の痛みをどれだけ受け止めることができたかは定かではないが、いろんなことを話しあった。ちょうど桜の季節で中山寺の奥の院の桜の下で過ごし、いつしか日が傾き、暗くなり、肌寒くなっていた。
30代半ばで出会った同い年の彼女とは、何かにつけてよく話し、助けあってきた。そんな相棒の死に、いまだに深い悲しみの中にいる。
【追記】
一緒に撮った最後の写真です。右端が森綾子さん。
彼女のことを思い、ときどき、寂しくなります。
私が、緊急手術を受け、退院したものの、自宅で静養していた折に、
「納棺する前に、会いに来てあげてー」と、訃報が入ってきました。
でも、私の身体は、出向いていける体力がなく、断念したことが、いまも、残念に思っています。
「会いに行けばよかった」と、いまも、悔しいです。
宝塚NPOセンターが開催した「森綾子さん、お別れ会」。
体調はまだ、回復していなかったが、出向きました。
お別れの進行役をしていた事務局長(たびたび宝塚NPOセンターを訪問してきたが、私は初対面だった)に、終了後、「中村彰です」と、あいさつした。
すると、「あなたが、あきらさんですか」と返事が返ってきた。
歳を重ねてからは、「森さん」「中村さん」と互いを呼ぶことにしていたが、若いころは「あきら」「あやこ」と呼び合っていた。
森綾子さんは、宝塚NPOセンターの事務所の中で
「あきらなら、こう言う」「あきらなら、こうする」を連発していたらしい。
若いころからのおつきあいだが、このように評価してくれていたのがわかり、うれしくなった。
森綾子さんは、高校を卒業して、兄が勤める会社に就職。20歳で同僚と結婚し、寿退社。
大阪万博の折は、第1子を妊娠中だったそうです。
お子さんが3人おられます。
私が出会ったころ、お子さんは高校生の娘さんと中学生の息子さん2人。点訳ボランティアをされていました。
出会ったころから、後の活動を予感させるオーラがありました。
後に、社会福祉の分野で頭角を表します。
ボランティア活動センターでボランティア・コーディネーター。阪神淡路大震災のときは、各地から集まる震災ボランティアのコーディネーターをつとめます。
震災の前から始めたNPOの勉強会。私も参加しました。
震災を経験したことで、公助、自助と共に、共助の必要性を痛感して、宝塚NPOセンターを設立しました。
私もNPO活動に携わり、彼女の活動の担い手として参画しました。
ボランティア活動センター、宝塚NPOセンターには、たびたび訪問。活動を手伝い、また、彼女と話をするなかで、元気をもらいました。
結婚当初、夫が入院。幼な子より夫を優先して病院に通い続けたと聞いています。そんな彼女ですが、いつしか結婚生活に疑問符が灯り、自分探しの旅が始まりました。
私が出会ったころも、森綾子さんは、離婚について真剣に考えておられました。
本が好きな森綾子さんは、自分探しのために、第3子を背負い図書館通いをされ、そこで、冨士谷あつ子さんが著わした女性学の本に出会います。
後の女性学分野で活躍する原点でもあります。
若いころ。
ほかの人にはさらせない内面を、二人は、互いに伝え、受けとめあってきました。
ほかの人には語らない心の内を、森綾子さんには、素直に自分をさらすことができました。
ふだんは、てきぱきと仕事をこなす彼女が、私生活やボランティア、仕事で戸惑い、どうしようかと悶々と悩み続ける姿を包み込んできました。
ともに語り合うことが多かったです。
携帯電話がなかった時代。
会えないとき。
私は、朝の出勤のとき、公衆電話から彼女の自宅へ、彼女からは、私の職場へ。
頻繁に、電話をしていました。
あちこち出歩きました。
大阪の、彼女の馴染みのスナック。酒を飲まない私が、彼女とは、たびたび出向いた。音痴で、へたくそな私が、彼女と一緒に歌った。
なかなか別れられない二人が、朝帰りしたこともあります。
和歌山の加太では、長らくタンスに収納したままになっていた水着を取り出し、久方ぶりに泳いだ。水を掛け合った。
出先の食堂だけでなく、彼女の家(離婚を決意し、家を飛び出した彼女の隠れ家)で食事を共にした。
左利きの彼女が、左手で包丁をもち、魚をさばき、野菜を切る姿を、右利きの私は、危なげに見ていた。
食堂で違う品を注文して分け合った。
こまごまと食事の世話をしてくれた。
11日だけお姉ちゃんの彼女に甘えた。
高野山や比叡山延暦寺。
京都では12月末の寒い時期に、貴船を散策した。
仕事で馴染みの料亭に彼女を案内した。女将に、彼女を紹介した。
食事をしていると、仕事仲間が数人やってきた。鉢合わせしそうになった。女将が、気遣いをしてくれた。
歳を重ね。
お互いに多忙な時期、やっと年末に会い、ひとときの語らいの時間を持ったことがある。
彼女の晩年は、電話で話すことが多くなった。
電話の折、彼女から、「ゆとりが持てるようになったら、温泉に行き、ゆったりとした時間を過ごしましょう」と、幾度か、誘ってくれた。
私は、白浜温泉を頭におきながら、「いいね。行こう」と答えた。
白浜に行けば、彼女が大好きなパンダに会えるから。
実現できないまま、彼女は旅立った。
前に、Facebookで、「旅だった友人と、夢の中で、まぐあった」と記した。夢の中で,ぞんぶん戯れあい、一体となって、充足した時間を過ごした、と。
「納棺する前に、会いに来てあげてー」と、訃報を受けながら、病後で駆けつけられなかったこと。「多忙な二人だが、お互い、時間が取れるようになったら、温泉に行こう」を実現できなかったことを記したが、「夢のなかでのまぐあい」で、無念さが消えた。
「綾子、会いに来てくれて、ありがとう!」
森綾子さんは
1947年11月9日、大阪府守口市生まれ。
2011年2月22日、63年の生涯を閉じた。
参考資料
グループ野菊「女と墓―揺れるイエ意識」『女性学年報』8号 1987年
森綾子「男と墓一家系存続への願い一」『女性学年報』9号 1988年
*この調査は、私も手伝った。
中村彰
日本女性学研究会1989年9月例会報告第1部「アジアの買売春と日本の男たち」第2部「討論会・男はフェミニストになれるか」
『Voice of Women』105号、1989年
(のちに『わたしからフェミニズム』1998年 に収録)
安部達彦、味沢道明、伊藤公雄、大山治彦、豊田正義、中村彰、森綾子、水野阿修羅
シンポジウム「メンズリブの10年」
『男女共同参画でひろげる男性の生き方 メンズセンター 2005年