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    ④             ⑤
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    ⑥ 
 「国際人権ファシズム」をブログで採り上げて以来、「環境思想」問題が気になっていた。近ごろでは、問題は、環境にあるのではなく、「環境思想」とその「運動」にあるのかもしれないと、思うようになった。何でも「ファシズム」とレッテルを貼り付けるのは好まないが、今日、世界を席巻しつつある「環境思想ー運動」とは、正に「環境ファシズム」としか言いようがないものに思えるのだ。
 さて、最初にアップした①~⑥の著書は、近年の世界の「環境思想ー運動」の概要を知るための文献であると考えてとりあげたものである。尤も、これらが代表的なものかと問われれば、自信があるわけではない。しかし、これらの書は、今、世界で巻き起こっている「国際環境ファシズム」現象を知る上で、貴重な資料である。
 番号順に簡単に紹介させていただく。
 ①鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)
 この一冊は、環境思想運動あるいは環境倫理の国際的な広がりが概観できて便利である。

 ②アラン・ドレングソン、井上有一共編『ディープ・エコロジー』(昭和堂)
 井上有一氏による序文には、「深いエコロジー運動とは何か」について、次のような説明がなされている。
 その説明によると、「深いエコロジー運動」を最初に論じたのは、ノルウエーの哲学者アルネ・ネスの1973年の講演であるらしい。この講演の中でネスは「エコロジー運動をふたつに分け、それぞれをディープ・エコロジー運動(深いエコロジー運動)、シャロー・エコロジー運動(浅いエコロジー運動)と呼び、長期的展望をもつとした前者を七つの側面から特徴づけた。」(p1)という。それでは、「ディープ・エコロジー運動」とは、何だろうか?井上氏によれば、環境保全の取り組みや考え方のふたつの大きな流れを区別を明確にするものであるという。「現代社会において主流をなす環境保全の考え方は、ネスが「シャロー・エコロジー」と呼ぶものである。」「この考えのもとでは、不断の経済成長は基本的によいものであり、不可欠なものでもある。」つまり、高い生活水準を達成している先進国においても、経済の拡大がなお求められる。「人々は、リサイクルへの協力は要請されても、消費の絶対量を大幅に減らすことは求められない。燃費のよい車に乗り換えることは勧められても、自家用車を捨てることまでは要請されない。」(p6)では、「ディープ・エコロジー運動」とは何か。「拡大自己実現(エコロジカルな自己)論」ー個人や個体のレベルを超えて自己実現を図るという」哲学(狭義のディープエコロジー)を指す言葉である。この「拡大自己実現」論を核として、生命中心主義、<脱>人間至上主義に基づくエコロジーの取り組みが、広義の「ディープ・エコロジー」運動である。(p9)
 ごく大雑把に言うと、以上のような「ディープ・エコロジー運動」(脱・人間中心主義)が、今日の「環境思想ー運動」の原点である。欧米を中心とするこの運動には、様々な潮流があり、一概に言うことはできないが、私は、こうした「ディープ・エコロジー運動」なるものは、一種の「国際環境ファシズム」と呼んでよいような問題を抱えていると考える。
 先に私は、ブログの中で、国際「人権ファシズム」の問題を取り上げたことがあった。そのファシズム性の根源には、「平等」概念の拡張があることをつきとめたが、「ディープ・エコロジー運動」にあっては、「平等思想」の暴走は、ついに、人間世界を突き抜け、人間以外の動物、さらに植物、そして自然界全体にまで及んできたのだ。

 ③ピーター・シンガー『動物の解放』(人文書院)
 目次を見てみよう。それだけで、過激さが分かる。
 第一章 すべての動物は平等である~種による差別の拒否
 第二章 研究の道具~動物実験がやり玉にあげられている
 第三章 工場畜産を打倒せよ
 第四章 ベジタリアンになる
 第五章 人間による支配
 第六号 現代のスピーシズムシー~「人間の固有の尊厳」に疑問を投げかける

 ④ゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』(緑風出版)
 「私たちは、動物を「他者化」し、境界線を引いて、人間以外の種に属するかれらを「他者」の側におく。」(p6)「動物搾取は人間集団への差別と暴力を規範化する雛形に他ならない。人種差別、階級差別、性差別、同性愛嫌悪、自民族中心主義を拒まなければならないのと同様、私たちは種差別をも拒む必要がある。」 

 ⑤ロデリック・F・ナッシュ『自然の権利』(ミネルヴァ書房)
 「尊厳に値する文明を二一世紀へと継承させていくためのもっとも価値ある二〇世紀の思想とは、「人間が自然に対して畏敬の念をもつとともに、自然の権利を認めていく」という考えのことです。」(pⅸ)「倫理的平等という概念が、最初はさまざまな人間集団へ、次には動物の一部へ、最近では、全体としての生態系へといったように、どのようにしてそれぞれの段階へと拡大していったかについて説明しています。」
 ナッシュは、「東洋哲学」との類似性をしてしているが、私に言わせれば、「自然に権利」を認める哲学なるものは、「東洋哲学」乃至は「仏教」とは、似て非なるものである。

 ⑥『現代思想』1990年11月~12月号 これは、「特集 木は法廷に立てるか」と題し、環境思想をセンセーショナルに取り上げている。この特集の中心は、「樹木の当事者適格 自然の法的権利についてクリストファー・ストーン 著、である。
 畠山武道氏の解説によれば、ストーンの名を一躍有名にした米国における訴訟と哲学は、おおよそ次のとおりである。
 1965年、米国農務省林野局が、シエラ・ネバダ山中のセコイヤ国立公園に囲まれた国有林の鳥獣保護区ミネラル・キング渓谷に大規模なリゾート開発を計画し、計画を募ったところ、ウォルト・ディズニー社の計画が認可された。その計画とは、80エイカーの土地にモテル、レストラン、プール、駐車場などを建設するというものだった。また、この事業に関連して、セコイア国立公園を横断する送電線と道路建設も予定されていた。そこで、自然保護団体シエラ・クラブが、事業の執行の停止を求めて提訴したのである。審理は、最高裁判所に上告されて審理されることになった。
 最高裁は、1972年4月、4対3の僅差でシエラ・クラブの上告を棄却した。その理由は、「上告人は、ディズニー社の開発行為によってシエラ・クラブまたはまたはその会員の活動が侵害されるということを主張しなかった」(シエラ・クラブは公共の利益の代表として訴訟)というものであった。棄却の判決に反対した三人の判事のうち、ダグラス判事は少数意見として、ストーンの論文を引用した。このことがきっかけで、ストーン論文は、新聞や論評を通じて、アメリカ全土に知れわたるようになった。
 畠山氏は、ストーン論文の持つ意味を二つあげている。
 第一に、「従来、法的な権利を有しないのが当然とされてきた自然物について、従来の法思想や法制度の発展を詳細に分析しながら、それを認める可能性を証明し、さらに具体的な制度のありかたについても、いくつかの提案をしたことである。」「現代思想 1990年11月号」(p96) 
 第二に、「これまでの自然観の歴史のなかで、もっぱら人間の管理の対象・保護の対象としてしか位置付けられてこなかった自然や生物に、人間と対等の人格を認めたという点」(97)である。
 ストーンは、ヘーゲルの下記の文を批判的に引用しつつ、人間の自然に対する「絶対的権利」に疑問を呈する。 
「人格は、すべての物に自己の意志をおき、それによってその物をわたくしのものとるする権利を、自己の実体的目的として有している。けだし物はこのような実体的目的を自分自身のうちには持たず、その性質と魂とにはわたくしの意志の加わることを必要とするからである。ーこれが一切の物に対する人間の絶対的取得権である。」ヘーゲル『法の哲学』(上)(p92)創元新社
 

 これらの著書を最初は面白がって読み進めていたが、そのうちに、反捕鯨運動や、過激な環境保護運動の背後には、以上のような「ディープ・エコロジー思想」が控えていると考えると、背筋に冷たいものが走るようになった。
 ところで、「ディープ・エコロジー思想」「運動」は、なぜ、「ナチズム」と結びつくのだ?単なるレッテル貼りの印象操作ではないのか!・・・と、お叱りをうけるかもしれない。
  こうした疑念については、今後のブログの展開の中で明らかにしていきたい。