2008年04月

2008年04月30日

3a90a925.JPG今日の写真は、この前の日曜日、イースターの時のベロニカちゃんです。
僕が寝ている間に、お母さんと教会に行ってたんですね。
僕はクリスチャンじゃないので。

復活祭と言えば。
僕、復活祭の礼拝に行ったことがあるんですよ。

それは約12年前、東京での話です。
そのとき、僕は音楽大学を中退し、個人レッスンを受けるなどして、音楽の勉強を続けていました。
僕の人生の中でも一番暗い時代に当たります(これについては、また改めて書きます)。
音大を辞めたのが、20歳の時。
そのとき、何故かロシア語の勉強を始めたのです。
通い始めた学校は今はなきニコライ学院。
御茶ノ水のニコライ堂の敷地内にある歴史ある学校です。
そこの初級クラスに週二回通うようになりました。

そして、あるとき、僕のロシア語の先生(確か塚元先生という名前だったような・・・)が「ロシア正教会で歌を歌ってくれない?」と頼んできたのです。
その教会は規模が小さく、合唱団も歌う人が少なくて困っていて、そこの信者さんが塚元先生に適当な人を探してくれるようにお願いしたんですね。
それに、歌が歌えてロシア語がわかる(少なくとも文字が読める)人って、なかなかいないですからねえ。
僕、歌は専門じゃなかったんですけど、一応音楽高校で歌の授業とかありましたから。
成績はクラスでも下のほうだったかなあ・・・
お世辞にもうまいとは言えなかったかな。

その教会は東京文京区の千石という所にありました。
教会であることを示すのは十字架だけで、あとは普通の家という感じでした。
都営三田線の駅から5分ぐらいは歩きましたね。
全く目立たない、静かなところにありました。

僕が中に入ると、そこはまるで別世界。
日本にいることを忘れる感じです。
中は小さく、ちょっと大き目の居間という感じ。

で、僕がボーっと突っ立ってると、ロシア人の女性が近づいてきて「あなたが歌を歌ってくれる人?」
それに「はい」と答えると、「じゃあ、こっち来て」と前のほうへ連れて行かれ、「さあ、歌いましょう」
僕が聞いていたのは、最初の日は見学して、次の週の日曜日の礼拝から歌ってもらうっていうことだったんですけど。
合唱団って聞いていたのに、その女性、一人だけだし。
つまり、いきなりデュエットですよ!

焦りましたよ。
初見(初めて見た楽譜をすぐ歌ったり、ピアノで弾いたりすること)は得意じゃないし。
しかも、ロシア正教会では、楽器を一切使わないんです。
カトリックやプロテスタントの教会によくあるオルガンなんか、もちろんありません。
音さ(ギターを弾く人が調弦するときに使うやつ、ありますよね?)を使って、その音を頼りに、出だしの音を取らなければならないのです!
僕は絶対音感もないので、それは大変でしたよ。
楽譜をポンと渡されて、歌ったんです。
これはきつかった。

しかも!
ロシア正教会では礼拝の最中、座ってはいけません。
基本的には立ったままです。
肉体的に無理なお年よりや子供は座っても、大丈夫ですが。
礼拝の長さはそのときによって違ってて、長いときは3時間ほどかかるんですね。
いやあ、苦しかった。

でも、とても楽しかった!
人はみんな優しいし、ロシア語で会話をするのは楽しいし。
雰囲気は完全にロシアでしたね。
日本人の人はかなり数が少なくて、僕が覚えている限りでは信者さんは4人ぐらいかな。

日本のロシア正教会というとニコライ堂が有名ですが、千石の教会の人たちの話では、ニコライ堂は日本語で礼拝を行っており、純粋な正教会のやり方とはちょっと違うという話でした。
その教会は小さくて、みんな知り合いでアットホームな雰囲気でした。
そこのロシア人の方には本当によくしてもらいました。
最初に歌ったときも、礼拝の後に何人かの人が近づいてきて「今日の歌、すごくよかった!」「また歌いに来てね」とか言ってくれて、それはうれしかったです。
なかには「あなたの歌を聞いていると、本当にロシアの教会にいるような気分になる」と言ってくれた人もいました。

毎週日曜日、教会に通うようになりしばらくして、礼拝の後で、楽譜の束を渡されました。
「これ、復活祭で歌うから、練習しておいてね」
120ページ、いや、もっとあったかもしれません。
かなりの量ですよ。
それを一晩で全部歌うんです。
最初、冗談かと思いましたよ。
しかも、古いロシア語やギリシャ語のテキスト(ロシア語の文字で書いてある)なんかもあって、かなり難しい。
かなり練習しましたね。

そして、復活祭。
スタートは土曜日の夜10時半ぐらいだったでしょうか。
具体的に何があったかはあまり覚えていませんが、とにかく歌いまくり。
終わったのが午前3時ぐらいでした。
のどがやばかったですね。
で、そのあとは飲んで、食べて。
復活祭までの何週間かは、信者の方たちは肉や乳製品などを一切口にできないのです。
復活祭の後は、みんなすごい食べてましたね。

それから、しばらくは教会に通っていたのですが、ある日曜日、礼拝の後、日本人の司祭が僕のところに来て「君は信者でもないのに、何で教会に来るんだ? それに、ここはオペラハウスじゃないんだ。本当は君に歌ってもらいたくはないんだ」と面と向かって言われたのです。
周りにいたロシア人は「気にしないで」「これからも教会に来て、歌って欲しい」とすごく慰めてくれました。
でも、そこまで言われては行くのは気が引けるし、それにかなりがっかりしたんですよね。
だって、教会って、誰にでも門を開いているところであるべきじゃないですか。
なのに、そんなひどいことを司祭から言われるんですから。
まあ、後で知ったんですが、その司祭は偏屈で有名な人だったんですよね。
それ以来、僕は教会には行かなくなりました。

実はこの話しには続きがあります。
3年前、僕が日本へ一時帰国するとき、ある知り合いから一冊のアルバムを託されました。
その知り合いとは、ロシア正教会のシスター、ヴェーラさんです(それにしても、僕の知り合いも俳優からシスターまでいろんな人がいるもんだなあ。知り合いでいないのは、テロリストぐらいです)。
そのアルバムは甲状腺や小児ガンなどで入院している子供たちの写真。
チェルノブイリの悲劇を日本にいる信者の人にも知ってもらい、祈りを捧げてもらいたいというのが、彼女からのお願いでした。
僕は「日本にはロシア正教会があって、通っていたことがある」という話を彼女にしていたので、それで頼んできたのでしょうが、ちょっと抵抗はありましたね。
だって、12年も顔を出していないところだし、教会を去った後ろめたさもあったし。

忙しい日本でのスケジュールの最後の日、日曜日の夜にやっとその教会にいくことが出来ました。
教会の外見は全く変わっていません。
門をくぐって中に入ると、一人のロシア人男性がはしごに登って、屋根の上のアンテナをいじっているのが見えました。
近づいて行って「すみませんが、この教会の方はいませんか?」と聞くと、男性はとても訝しげな顔をして「何の用ですか?」「ちょっとお話しがあるんですが・・・」
すると、その男性ははしごを下りて「ちょっと待って。着替えてくるから」
その人こそ、その教会の司祭だったのです!
そのロシア人司祭はとてもいい人で、教会に通っていた当時から僕には非常に優しくしてくれました(やさしくなかったのは、日本人司祭だけです)。

正装に着替えて現れた司祭に、僕は事情を説明しました。
最初はなかなかわかってくれませんでした(何か日本で募金活動でもしてもらいたいというお願いだととらえていたようです)が、よく説明して、主旨を理解してもらいました。
すると、彼は突然「君はもしかして、アキラかい?」と言いました。
僕は耳を疑いました。
まさか、僕のことを覚えているとは思わなかったので。
「あのとき、君が教会に来なくなって、私も信者のみんなもすごく心配したし、何で助けてあげられなかったんだろうと後悔したんだよ。あのときのこと、許してくれるかい?」
もう、言葉はありませんでした。
感激で胸が一杯になりました。
許すも何も。
「僕のほうこそ、教会に行かなくなったこと、後ろめたくて、ずっと気にしてたんです」
12年の時間の流れが全て溶けていきました。
「日本へ来たら、また寄ってくれ。君のこと、覚えている人もいるから、よろしく伝えておくよ」
地下鉄の駅へ歩きながら、涙が出て、それは長い間の沈黙を洗い流す、それはそれは熱い涙でした。

復活祭の時期になると、あの教会のことを思い出します。
いくら昨日のことのように鮮やかに思い出すことは出来ても、それは絶対に「今のこと」にはならない。
だから、思い出は美しいし、そして、悲しいのでしょう。

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日本の思い出 

2008年04月28日

33ad4309.JPG今日はイースター(復活祭)。
写真はイースターエッグです。
ベロニカちゃんが作ったんですよ。
この赤っぽい色は玉ねぎの皮と一緒に卵をゆでたからです。
模様はシールみたいなのもありますが、いくつかのはベロニカちゃんの手書きです。

昨日はチェルノブイリ原発事故から22年目の日でした。
そこで、今日はチェルノブイリと関係のあるテーマで書きたいと思います。
このテーマで書くのは、僕にとっても、非常に深い意味のあることです。
これから、少しずつ書いていきたいと思います。
この文章を読んで、気分を害される方がいらっしゃるかもしれません。
でも、僕は自分の意見を堂々と書かせていただきます。

今日の朝、数年前に日本から送られてきたビデオを見返していました。
そこで、某テレビ局の朝の情報番組で、チェルノブイリの汚染地域からやってきた子供達を夏休みの間受け入れた日本の家族の話をやっているのを見ました。
里親制度というものでしょうか。
初めて見たときもそうだったのですが、改めて番組を見てみて、非常に現実と違っているところ、非常に疑問を感じるところがありました。
それを列挙することで、いろんな問題を提起したいと思います。

子供達はベラルーシの汚染地域からやってきた二人の女の子。
受け入れたのはチェルノブイリ関係のボランティア活動を長くやってきている団体です。

1.受け入れ先の人の言葉「生きる元気をもらって帰っていって欲しい」
「生きる元気をあげたい」とか、「生きる勇気を持って欲しい」とかってどうなんでしょうね。
じゃあ、その子供達は「生きる元気」も「生きる勇気」もないのでしょうか。
僕は今までいくつかの病院で折り紙を教えたりしましたが、子供達は普通の子どもと変わりません。
それが死に直面している子どもであっても、です。
「チェルノブイリ」という単語を聞くと、やたら深刻になってしまう人が日本人にはいますが、ベラルーシについて「死に直面している子供達」だとか、「危険な地域に住まざるをえない人たち」などと必要以上に深刻な言葉で状況を飾り立てるのは、あまり感心できません。

2.ナレーター「来ている子供達は慢性的な微熱や頭痛などを抱えています」
それはベラルーシ人の子ども全体に言える事です。
胃炎、甲状腺肥大などは程度の差こそあれ、かなりの子どもが持っているものです。
胃炎なんかは放射能と関係はないのかもしれませんが、僕が行っていた小児病院の看護婦の話では「直接の因果関係は証明されていないが、チェルノブイリの事故の後で、慢性胃炎の子どもの数が増えたのは確か」とのこと。
どうゆう基準で子どもは選ばれているのでしょうか?
もっと病気が重い子どもにも援助はいっているのでしょうが。

3.ナレーター「これから一ヶ月は○○さんがママです」
お母さんじゃない人を「ママ」と呼ぶのは、ベラルーシではあまりないことです。
子供達に抵抗がなければ、別にいいのでしょうけど。

4.ナレーター「一見すると健康な子供達と変わらない女の子。
でも、彼女達は汚染地域の生活で蓄積された放射能という爆弾を抱えているのです」
これはちょっと・・・
爆弾、って何ですか!? 
僕だったら、そんな言葉、使って欲しくないです。
本当に「爆弾」を抱えているような子供は日本へは行けませんよ。
ある団体の人が話していました。
僕が「もっと病気の重い子供がいるじゃないですか。日本へ行く子供はそんなに病気じゃないんでしょ?」とその人に聞いたら、「だって、もっと重い病気の子供を連れて行って、その時に病気の状態が悪くなったら、どう対応するの?」
ごもっともですが、何か腑に落ちないです。

5.ナレーター「生野菜はビタミンがあるから食べて欲しかった。
でも、彼女達が口にしたのは、ほんの少しジュースとみかんだけ。
ベラルーシの人には生野菜は汚染されやすく危険であるという不信感があると言います」
このフレーズには僕は怒りを感じます。
ベラルーシ人も生野菜ぐらい食べますよ!!!!!
生野菜を食べない人のほうが珍しいんじゃないでしょうか。
うちのベロニカちゃんも「日本人はベラルーシの食べ物は何でも危険だと思ってるんじゃない?」と言っています。
確かに危ないものはあるでしょう。
しかし、汚染地域以外のものであれば、食べても安全ですし(市場で売っているものに関しては本当に汚染地域以外の産地のものか、怪しいことはありますが・・・)、ベラルーシでは自分で自分達の食べる野菜を作っている人たちが多く、その場合、危険性はないのです。
むしろ、日本の農薬まみれの野菜のほうがよっぽど危ないんじゃないですか?
その女の子にトマトを食べさせる場面がありましたが、僕の意見では、ただ単にその女の子がトマトが嫌いだったというだけだと思います。
うちのベロニカちゃんは「ベラルーシ人にとって、日本は全く違う文化の国。着いたばかりはショックも大きくて、食欲がなくなって当然。私もそうだったんだから」
うーん、うちの奥さん、日本に着いたばかりのときも、結構、食べていたような気が・・・

6.ナレーター「一人の女の子は子どもたちの輪の中に入れなくて(後略)」
それは無理もないでしょう。
だって、言葉も何もわからないところにポーンと放り込まれるんですから。
子供はよく言葉がわからなくても、みんな仲良くなれるとは言いますが、それも子供によるのでしょう。

7.最後の場面「彼女達は厳しい現実が待つ故郷ベラルーシへと帰っていきました」
おいおい、そんな厳しい現実がベラルーシにあるのかい?
見せてもらいたいなあ。
まあ、そりゃあ、豊かな日本に比べれば厳しいかもしれませんよ。
でも、ちょっと言いすぎだと思いませんか?
ベラルーシって、そんなにかわいそうな国なんでしょうか?
みんな病気で、食べ物は汚染されてて、かわいそうな人たちが住む国なんでしょうか?
僕はそうは思いません。
みんな、自分の場所で生きているだけなんです。
中には病気の人もいるし、健康な人もいる。
それは日本だって、どこだって、同じことじゃないですか?
確かにチェルノブイリのせいで、病気の人(「子供」と限定するのは、僕は好きじゃありません)が多いのは確かです。
でも、それをもって、ベラルーシ全体が「かわいそう」みたいな言い方にはかなり抵抗を感じます。

そもそも「かわいそう」という言葉には、非常に傲慢なものを感じます。
人が「かわいそう」という言葉を発するとき、必ず「比較の論理」が頭の中にあるのだと思います。
自分よりも「かわいそうじゃない人」を「かわいそう」とは言いませんよね。
自分よりもいい生活をしている人に「かわいそう」とは言いませんよね。
「かわいそう」という言葉は、「(自分と比較して)かわいそう」なのでしょう。
でも、それって、自分が「その人ほどひどい状況にはない」ということを自己肯定しているようなところ、ないでしょうか?
その人が「かわいそう」かどうかは、その人と付き合うのに全く関係ないと僕は思っています。

逆に僕は聞いてみたいのですが、一ヶ月日本で過ごすことで、どの程度の効果があるのでしょうか?
皮肉とか、問題提起とか、そうゆうものじゃないです。
ただ単に興味があるというか。
これって医学的に何かデータでもあるんでしょうかね。
インターネットで調べてみますよ。
例えば、健康な人が汚染地域に行っても、しばらく暮らすぐらいなら、健康に影響はないと言います。
逆の場合、それほどの効果があるのでしょうか?

でも、僕も里親制度を否定しているのではありません。
健康にどの程度好影響を与えるのかは別として、子供にしばらくの間だけでも健康的な生活をさせることには十分な意味はあると思います。
ただ、それは「健康のため」という意味においてです。
間違っても「かわいそうな子供を助けたい」とか、「生きる勇気を与えたい」というふか〜い意味ではありません。

どのように子供を選んでいるのかも、興味があるところです。
実は、夏になると、ベラルーシから子供たちがイタリア、ドイツ、スペインなどに招待されて保養に行くのです。
しかし、保養に行く子供の中には全く病気じゃない子供や、非常に軽い症状の子供(慢性的な胃炎など)が多いという話はよく聞きます。
外国へ保養に行って、胃炎ってよくなるんでしょうかね?

僕は実際にそうゆう子供に話を聞いたことがあります。
ゴメリ地方のある町の女の子が「子供のときにドイツに行った」と言ったのですが、その子はどこも悪いところないんですよね。
「どこか病気なの?」と聞くと、「いや、別に。正確に言うと、胃炎はあるんだけど、それはみんなあるから・・・」
じゃあ、なぜその女の子が選ばれたのでしょう?
「どうして、君が行くことになったの?」「それはお父さんの知り合いが○○っていう組織にいて・・・」
コネですよ、コネ。
その子のうちは結構お金持ちで、裕福な家庭です。
そんな話は全く珍しいことではありません。
結局、金持ちの子供が保養に行って、本当に助けを必要としている子供には届いていないということも多いのです。
日本に行く子供たちに関しては、そうゆうことのないように願っています。

僕が聞いた限りでは、イタリアに保養に行く子供が一番多いようです。
「イタリア人ってボランティア精神があるんだなあ」と感心していたのですが、どうも他にも事情があるようで・・・
実は、イタリアではベラルーシから子供を受け入れたり、養子を受け入れたりすると、税金が免除されたりといろんな意味で得をするのだそうです。
税金対策として、受け入れている人もいるそうです。
それを聞いたときはがっかりしました。
もちろん、心からやっている人たちもいるのでしょうけど・・・
でも、ある意味、わかりやすいですかね。
だって、みんな自分のために生きてるんですから。
僕は「○○のために」という言葉を使うのは好きじゃありません。

チェルノブイリというテーマになると際限なく長くなってしまいます。
またいつか時間とエネルギーがあるときにもう一度書きたいと思います。

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チェルノブイリ 

2008年04月27日

今日でチェルノブイリの事故から22年が経ちました。
今のベラルーシでは大したニュースになることもありません。
まるで、忌まわしい過去を葬り去るかのごとく。

今日は僕が4年前に書いた文章をそのまま投稿させていただきます。
どこかの新聞か何かに載せてもらえればと書いたのですが、日の目を見なかった文章です。
まあ、載らなくても、僕自身はこの文章を書いたことに満足しています。
今読むと、何か照れくさいような文章ですが、そのとき、僕の心の中にあった「真実」をそのままここに出したいので、全く修正しないでそのまま載せます。


音のない村
 今年1月25日、私はナロブリャというベラルーシ南部の町へ向かった。チェルノブイリの汚染地域に隣接する町である。きっかけは3年前に病院で知り合ったマリーナという女の子からもらった手紙。今、彼女はおばあさんと一緒に違う町に住んでいて、両親はナロブリャに残っている。「ナロブリャはとてもきれいな町。私はいつかそこへ帰って家族と一緒に暮らしたい・・・」 そんな彼女の町を自分の目で見てみたかった。
 ナロブリャへ行くことを決めた時のまわりの反応は激しいものだった。「あぶないから、行かないで欲しい」と皆、口々に言う。ある女子学生は「誰にでも備わっているはずの自己防衛本能というものが先生には全く欠如しています」 確かに他の町に比べて放射能のレベルは高い。しかし、2、3日滞在しただけで病気になるようなところなら、誰も住めないはずである。そこには普通の人たちが普通に住んでいるのだ。チェルノブイリの事故から18年経った今でも、一般の人々は放射能について知識を持たず、いたずらに恐怖をあおる偏見のみが一人歩きしている。

 この小旅行の目的は小学校を訪れて、子供たちと遊ぶこと。子供たちは初めて作る折り紙や、初めて聞く日本語に大喜び。でも、2日間で3つの学校、10のクラスをまわった私はくたくただ。
 小学校訪問の後、町を歩く。ナロブリャは人口2万人にも満たない小さな町。チェルノブイリの事故の後、多くの人が他の町へ引っ越していったが、ここ数年、また戻ってくる人たちが増えている。自分が生まれた町なのだから当然だ。町の中心を川が流れる。川の対岸に広がる雪と木々のモノトーンな世界。故郷・村山市を流れる最上川の景色が思い出される。
 特別許可をもらって、汚染地域の誰も住んでいない村へ行く。訪れるもののない森は動物たちの天国だ。車の窓からヘラジカの姿も見えた。雪が深く、途中からは歩いて村へ向かう。足が雪に沈んでいく。うさぎやきつねの足跡を横切る。
 誰も住んでいない村。ボロボロの廃墟となった家々。一緒に行ったジャーナリストは壊れた窓や置き去りにされたおもちゃなどをカメラに収めている。しかし、そこに残された「もの」たちは、かつて誰かに愛された「もの」たち。そっとしておいてあげたい。
 何かが違う。立ち尽くす。耳を澄ます。何も聞こえない。音がない。人が住むところにはいつも必ず音があるはずだ。しかし、ここには子供たちの遊ぶ声も、若者たちのざわめきも、通りすぎる車の音もない。音がないことは静かに哀しい。かすかに聞こえるのは、私の肩に降り積もる雪の音だけだ。
 放射能は目に見えない。例えば、恋人にふられるのも理由がわかれば自分を責めるなり、相手を責めるなりできるだろう。地震で壊れた家を見れば、火事で焼けた家を見れば、取り戻せない過去に涙することもできるだろう。しかし、放射能は目に見えない。自分を納得させる術も知らないまま、我が家を離れていった人たち。納得できないまま、私も村を後にする。
 ホテルに戻って、携帯電話をなくしたことに気付いた。電話をしてみたが、誰も出るはずがない。音のない村に響く携帯電話のベル。音があっても哀しいことに変わりはないのだろうが。

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チェルノブイリ 

2008年04月26日

19eb74a4.JPG今日、久々に新しい靴を買いました。
先代の靴は2年近くはき続け、はきつぶしました。
いつも、同じ靴を履き続けて、ダメになったら買い換えるというリズムです。
今日買った靴は94000ベラルーシルーブル、約42ドルです。
ベラルーシ製の靴はそこそこいいものがあります。
しかも、安い。
デザインはいまいちですが、ロシアなどでも結構、売れるのだそうです。

今日は休みのはずが、全然休みじゃありませんでした。
朝はいつものように劇の練習。
二人しか来ないし。
主役のレーナちゃん、いい感じですよ。
狂ったような場面の演技もよくなりました。
最初、静かだったんで、どんな感じか、僕がやって見せてみたんですよ。
そしたら、僕がやった以上にすごい演技になっちゃって。
こっちがびっくりするくらいの声で「出ておいで!」と叫んでました。
楽しみ!

そして、急いでヤンカ・クパーラ劇場へ。
実は劇場の支配人で、国民的俳優でもあるキリチェンコさんの娘が今日、誕生日だったんですよ。
なんで、プレゼントを持っていったんですね。
キリチェンコさんはリハーサル中だったので、受付のおじちゃんに渡してくださいと頼んできました。
それから、すぐ中央郵便局へ行って、日本へのEMSを発送。
そして、靴を買いに。
ドルしか持ってなかったので、両替しようとしたのですが、行列でかなり時間がかかりました。

そして、うちへ帰ったところへ、学生のガーリャちゃんが。
彼女、今度、一年間大阪の日本語学校へ留学するので、必要書類を僕が訳しているんです。
昨日の夜、ほとんど翻訳したので、今日は一枚だけ訳せばいいのだろうと思っていたら、これが大変で。
2,3通の書類を訳しました。
それから、昼ごはんを食べ、30分仮眠をとり、その後、劇場へ。
全然、休みじゃないじゃん!

今日の劇はゴーリキー記念ロシアドラマ劇場。
劇のタイトルは「Пойманный сетью」
日本語にしにくいなあ。
あえて訳すと「ネットにかかった男」という感じでしょうか。
でも、それだとちょっとね。

いやあ、おもしろかった!
2回目だったんですが、かなり楽しめました。
イギリスのロンドンでのお話し。
ジョン・スミスは二つの家庭を持つ二重生活者。
一方の家庭には娘が、もう一方には息子がいて。
その娘と息子が偶然インターネットで知り合ったところから物語りは始まります。
ジョンは二人が出会わないように、走り回り、子供達は会おうとしてドタバタ。
そこに二人の妻、間借り人などの人間が絡んで。

この劇の難点をひとつ。
笑いすぎて、最後には疲れるんですよ。
顔の筋肉が痛いです。

これって、イギリスの作家の作品なんですが、日本語に訳されていないのかなあ。
訳したいけど、重訳(原文が書かれた以外の言語から翻訳すること)はやりたくない。

演出はヴァレンチナ・エレンコワ。
楽しいおばちゃんです。
この人の劇、当たりはずれがものすごく激しくて。
彼女の劇で大当たりなのが「縞模様の猫とセニョリータ・ツバメの恋物語」という劇。
僕は大好きで、5回見ました。
大はずレはシェークスピアの「じゃじゃ馬ならし」
もともとの話がかなり混乱していて、日本語で読んでも理解しにくい内容ですが、それをもっと複雑にしてしまった演出でした。
彼女とは結構前から知り合いです。
ちょっとエキセントリックですが、すごいと思わせるところはあります。
これからに期待。

今日は劇場に学生達も一緒に。
劇に出演するジーマ君とアルチョーム君です。
かなり楽しんでましたね。
明日も練習があるのですが、これで何かつかんでくれれば・・・

もう1時だ!
早く寝なきゃ。
明日は6コマ、プラス劇の練習。
また大変。
でも、日曜日はイースターなので、お休み。
でも、完全休養ではなく、ベロニカちゃんの実家へ行かなければなりません・・・

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ベラルーシの劇場 

2008年04月25日

264c99ac.JPG今日の写真は、晩ご飯に作った酢豚です。
豚肉とにんじんと玉ねぎだけなんですけど、結構、おいしかったです。
ソースは適当に作ったんですよね。
ケチャップ、豆板醤、レモン汁、バルサミコ酢、鶏がらスープの素、みりん、塩、こしょうなど。
ケチャップをもう少し少なくすれば、もっとすっきりしたかも。
うちの奥さん、ベロニカちゃんは甘いものが大好きなので、甘めの酢豚に大喜びでした。

今、夜中の1時過ぎ。
今度、日本へ行く学生のために必要書類を日本語に翻訳していたのです。
すごい眠い・・・

シューベルト:歌曲集シューベルト:歌曲集
アーティスト:シュワルツコップ(エリザベート)
販売元:EMIミュージック・ジャパン
発売日:2007-12-26
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翻訳のときは音楽をかけながら、仕事をすることが多いです。
最初はリストの「超絶技巧練習曲」(小菅優の演奏。これはかなりすごいですよ!)を聴きながら翻訳していたのですが、今日はもうちょっと静かなものを聴きたい気分だったので、シューベルトの歌曲集へチェンジ。
歌っているのはエリザベート・シュワルツコップ。
クラシック好きなら誰もが知ってる名歌手ですよね。
とは言っても、彼女について語れるほどよく知っているわけではないんですけど。

普段、歌曲ってほとんど聴かないんですよね。
歌詞の意味が100%の理解に達しないものって、興味、そんなにないんですよ。
でも、今日は何故か自分の心の中にしっくり来たというか。

僕が特に好きなのが「糸を紡ぐグレートヒェン」
歌詞はゲーテです。
ファウスト第一部の中の詩ですね。
回転する糸車を表すピアノの旋律が少女の不安と夢を映し出し、心に染み入ります。
「やすらいは失せて/胸は重い/やすらいは二度と/胸に帰らない」
「あのひとを求めて/私の胸は高鳴る/あのひとをとらえて/ひきとめておきたい!」
「そして思いのかぎり/くちづけしたい/たとえそのくちづけに/息絶えるとも」
すごい詩ですよね。
若いときに買ったCDですけど、今聴いても心に響く歌です。

でも、こんな感じの詩って、クラシック音楽にしか使えないというわけではないですよね。
例えば、僕が「この詩はロシアのロック歌手の歌の詩です」って書いたら、それはそれで違和感はないような感じがしますけど。

結局、ジャンルってあまり関係ないような気がしますけどね。
クラシックって硬い感じがすごくしますけど、それは単なる聞かず嫌いだと思いますね。
(ハードロックマニアから「あなたは聞かず嫌いだ」と言われたとしても、ハードロックを聞くかどうかはかなり怪しいですが・・・)
だって日本で「のだめカンタービレ」が人気になったとき、にわかクラシックファンがかなり増えたって聞きましたよ。
にわかでも何でもいいんですが、もっと聞いて欲しいですね。

僕、もともとクラシックは聞かなかったんですよ。
中学で吹奏楽部に入って、二年生のとき部長になるまでは、歌謡曲しか聴かなかったんです。
しかもアイドルものばっかり。
菊池桃子とか、斉藤由貴とか。
レコードもかなり持ってましたね。
FMでエアチェックとかしたり。
部の先輩からは「お前はミュージック天童(地元のスーパーのレコード店)に行くと必ずいるなあ」と言われてました。

そのあとはガチガチのクラシックマニア。
詳しいことはまた書きます。
っていうか、みなさん、あまり興味はないでしょうが。

ジャズは特定のCDばかり聴いてます。
これは高校の同級生のA氏の影響です。
ホリー・コールのCDはいまだに聴いてます。
A氏、一緒に「バクダッド・カフェ」、見に行ったよな。
ああ、懐かしい。
あと大好きなのはビル・エヴァンスとジム・ホールの「UNDERCURRENT」

今は音楽は全くやってませんけど、聴くのは大好き。
お気に入りのCDの紹介とかも、このブログでやりたいと思ってたんですよ。
でも、読者が毎日20人前後のこのブログでクラシック音楽に興味のある人がどれぐらいいるのかなあ・・・
まあ、自分の好きなことを書くブログなので、許してください。

そういえば、僕がロシア語の学校で勉強していたとき、ロシア語の山田先生が「古○君はクラシック音楽にも詳しくて、芸術を愛する人なのに、なんでプロレスなんか見るの?」と、よく言われてました。
自分でも不思議なんですけど。

子どものときは猪木・馬場の時代でした。
でも、僕が一番熱く燃えたのは大仁田厚の有刺鉄線電流爆破。
川崎球場まで何度か見に行きましたもん。
有刺鉄線にはポエジーがあるんですよ。
あれは芸術だと思います。

バッハを愛する自分とプロレスを愛する自分、僕の中では全然矛盾してないんですよね。
好きなものが二つあって、それが全く違う性格のものだったというだけで。

まとまりのない内容ですみません。
今日はこれで勘弁してください。

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クラシック音楽 | プロレス

2008年04月24日

4a1f10d0.JPG今日の写真はうちのベロニカちゃんが作った携帯電話ホルダーです。
僕の実家から持ってきた生地の切れ端を利用して作ったもの。
実はあさって知り合いの俳優、キリチェンコさんの娘の誕生日なんですよ。
なんで、何か作ろうということになったのですが、どうせならたくさん作っちゃおうということで。
いったいどうやって作ったんでしょう?
僕ははさみですら満足に使えこなせない人間なので・・・

今日は授業が少なくて、非常に楽でした。
3つしかなかったんです。
肉体的に負担が少ないです。
僕、日本語教師は肉体労働だと思ってますから。

今日のテーマは玉ねぎです。
変なテーマですよね。
どうしてこんなテーマなのかというと、今日の朝、6時に目が覚めてしまって、メール書いたり、仕事したりしてたんですよ。
で、6時半ぐらいにお腹すいたなあ、と思って。
昨日の晩ご飯の残り(かつおぶしとにんにくだけのチャーハン、鮭のはらみを焼いたもの)だけじゃ物足りなくて、味噌汁作ろうと思って。
朝はやっぱり味噌汁でしょ。
何を味噌汁の具にしようかなと思ったとき、急に玉ねぎの味噌汁が飲みたくなったのです。
僕の実家では玉ねぎが味噌汁の具になったことは一度もなかったのですが、僕が子供の頃、よく遊びに行っていた自転車屋さんのうちで、何度か玉ねぎの味噌汁を飲んだことがあるのです。
他のうちでは飲んだことなかったなあ。
玉ねぎの甘みと味噌の甘みで、本当においしい味噌汁だったんです。
なので、一人暮らしをするようになってから、時々、玉ねぎの味噌汁を作るようになったのです。

今日はなぜか無性に飲みたくなりました。
でも、うちのベロニカちゃんは絶対飲まないだろうな、と思っていたら、本当に飲まなかったんです。
さて、それはどうしてなのか?
この問題について、考えたいと思います。

実は、ベラルーシの若い人には玉ねぎが嫌いな人が多いんです。
授業で「嫌いな食べ物は何ですか?」という質問をすると、「玉ねぎ」という答えが返って来ることが多いです。
ただ、玉ねぎの全てが嫌いというわけではなく、「煮た玉ねぎ」と限定する場合が多いです。
いろんなタイプがいるんです。
生以外はOKの人とか。

今日、うちの4年生がうちに来たのですが、玉ねぎの話しをしたら、ものすごい反応でした。
「玉ねぎ」という言葉を発しただけで、大騒ぎですよ。
例えば、うちのナージャちゃんはハンバーグの中に入っている玉ねぎがダメ。
彼女のうちでハンバーグを作るときは、家族用と彼女用と別々に作るそうです。
お母さん、大変だよ。
彼女はスープの中の玉ねぎもダメだそうです。
ターニャちゃんはスープやハンバーグのはOKですが(目立たないからでしょう)、それ以外はほとんどダメだそうです。
今日、うちに来た5人の学生のうち、100%玉ねぎが大丈夫なのはカーチャちゃんだけでした。

玉ねぎ嫌いの度合いを計るために、こんな評価基準を設けました(世界玉ねぎ委員会認定)。

☆☆☆・・・玉ねぎを見るのも嫌。煮ていようが、焼いていようが、生だろうが、いかなる形の玉ねぎも受け入れないという強硬派。反玉ねぎ原理主義。
こうゆうタイプもかなり多いです。
僕の友人で、コンサートの企画などの仕事をしているイーゴリは、僕が「玉ねぎ」という言葉を発するだけで、おびえた表情を見せます。

☆☆・・・玉ねぎの形状によっては食べられる。
このカテゴリーに属する人が一番多いのではないでしょうか。
彼らにとって一番やばいのが「煮た玉ねぎ」。
肉じゃがの玉ねぎなんか、100%アウトです。
うちの4年生が、去年日本へ行ったとき、カレーを御馳走になったそうなんですが、みんな玉ねぎをよけて食べたそうです。
僕なんか、あの玉ねぎが大好きなんですけどね。

☆・・・食べられないことはないが、出来れば避けたい。
こうゆうタイプは少ないのではないでしょうか。
玉ねぎが嫌いな人はかなり強硬に「玉ねぎの非人道的性格」を強調します。
「食べられるけど・・・」という、曖昧なタイプはあまりいません。

玉ねぎが食べられないの、ほとんど若い世代なんですよ。
40代、50代の人で、玉ねぎが食べられないと言う人はあまり見たことがありません。

玉ねぎがダメでも万能ネギ(ベラルーシでは日本の長ネギのようなものはありません。あるのは西洋野菜のポロネギ、または日本でも売っている万能ネギのようなもの)は大丈夫という人も多いです。
友人のイーゴリは青い万能ネギは全く平気なんですよ。
でも、玉ねぎはダメ。

うちの奥さんも煮た玉ねぎだけはダメ。
食べられないことはないんですが、食べませんね。
今日の朝の玉ねぎの味噌汁も食べませんでした。
おかげで、僕が味噌汁独占。

玉ねぎの味噌汁に入れるとおいしいのはバター。
まあ、みんなやってるのかもしれないですけど。
僕はそこに七味を入れます。
今日もやったのですが、ばかうま。

日本のグルメ番組でよく「玉ねぎの甘みが出ていますね」と言っていることがありますが、ベラルーシ人には理解できないでしょう。
「どっちの料理ショー」のビデオを見ていると、「オーブンでローストして、甘みを出した玉ねぎ」などがよく登場しますが、うちのベロニカちゃんはそのたびに悲鳴に近い声を上げます。
国が違うと味覚も違うのでしょうね・・・

ベロニカちゃんの意見では「ベラルーシの若者が玉ねぎを嫌うのは、子供の頃に無理やり食べさせられるのがトラウマになるからではないか」
うーん、正直あまり賛成できません。

僕もここでカレーや肉じゃがを作るとき(まれ)は、玉ねぎは入れないように、入れてもかなり原型がわからないようにして入れています。
まあ、いいか。

もうすぐチェルノブイリの事故があった日が近づいています。
このテーマは僕にとって、非常に重要なテーマです。
なので、もう少し文章をまとめて、このブログに記入していきたいと思います。

では、おやすみなさい・・・

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ベラルーシの食生活 

2008年04月23日

c050730f.JPG今日は暖かくて、素晴らしい天気でした。
久しぶりに空を見たなあ。
春ですねえ。

今日はくたくた。
いつものことですが、今日は何時にも増してひどいです。
もう少しで夏休みだと自分に言い聞かせながら、自分にむちを打っています。

今日は授業の後で、郵便局へ荷物をとりに行きました。
前にもちょっと書きましたが、今度、ロシア語に翻訳された日本の文学作品をチェックする仕事をするのです。
今回で2度目です。

本は加賀乙彦の「高山右近」です。
歴史ものですね。
正直、歴史ものは全く読まないのですが、今回ばかりは仕事なので、読むことになります。
でも、帰りの地下鉄の中で読んでみると、これが結構おもしろくて。
でも、これ、ロシア語に訳すのは大変だろうなあ。
翻訳者の方に同情します。

僕、本が好きなんですよ、意外と。
高校生ぐらいまでは全く読まなかったんですけどね。
小・中学生のときの読書感想文が何より嫌いで。
夏休みの宿題でどうしても出さなければならなかったときは、「世界の国旗」とか「けんだま入門」などを読んで、感想文を書いてました。
例えば「この国の国旗はとてもきれいだ」とか、「けんだまでこの技をするのはとても難しいとか」

それが、突然、本を読むようになって。
音楽高校のときに、音楽をやる人間はあらゆる芸術に精通していなければならない、と考えるようになったんです。
それって、ある日本人の有名指揮者が海外でオペラを振った時、「あの指揮者は音楽的才能は素晴らしいが、オペラの内容を理解していない。文学的センスはなさそうだ」と批評されていたのを見て、「こりゃ、いかん」と思ったからなんですけど。

読み始めたら、面白くって。
一番最初に読んだのが、井伏鱒二の「黒い雨」。
あれは衝撃だったなあ。
引き込まれるように夢中になってました。
次が太宰治の「人間失格」
いろんな意味で影響、受けてますね。
考え方とか。

それから「どうせ読むなら、でっかいの読まないとダメだ!」と思い、トルストイのアンナ・カレーニナ(新潮文庫の3巻本)を読んだんです。
それにはまって、その後「戦争と平和」「復活」などを読み、他の大作ではロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などを読みました。

僕が某音楽大学の音楽学学科に入学したとき。
新入生歓迎コンパで、教授の先生から「君は文学部に入ったほうがよかったんじゃないの?」と言われたんですよね。
音楽と文学の関係を研究したいです、とか何とか言ったんですよね。

僕の好きな作家は、太宰治、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋の4人。
この中でも一番好きなのは、福永武彦です。
今ではあまりメジャーじゃないのかもしれませんけど。
福永武彦については、また改めて詳しく書いてみたいです。

本当は太宰についてとかも書いてみたいんですけど、書けるほど読んでないんですよね。
時間もないし、本もないし。
日本から本を送ってもらうことはあるんですが、重いのでなかなか。

今日は疲れているので、この辺で。
明日は授業4コマ、劇の練習。
ああ、楽だなあ・・・

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日記 

2008年04月22日

275c64e2.JPGこれまでの訪問者が1000人を突破!
すごーい!
ちょっとびっくりです。
10000人目指してがんばります!

今日の写真はあまり意味はありません。
汚れていたので、洗ってあげました。

今日もきつい一日でした・・・
6コマ×1時間半ですから、全部で9時間日本語を教えていたことになります・・・
それにプラス劇の練習ですから。

さあ、その劇の話しなんですが、いろいろ大変ですよ。
劇そのものが大変なのもそうなんですが、グループの中の人間関係が・・・

劇は「夕鶴」なんですが、登場人物はわかりますか?
結局、鶴の恩返しと同じですから、主人公の若者(与ひょう)と突然現れた女(つう)が出て来ます。
そこに、もう二人、与ひょうをそそのかす、村の住人がいます。
つまり、男が三人と女が一人、これが登場人物です。

男のほうはそれぞれが希望した役をもらって、問題なかったのですが、女のほうの役は希望者が二人出てきてしまい、オーディションをせざるを得ませんでした。
いや、オーディションはなかったんですよ。
オーディションをするまでもなく、今、つうをやってるLちゃんが日本語の力も表現力も上だったので、もう一人の希望者Mちゃんが降りたという感じです。
Lちゃんは2年生で、Mちゃんは一年生という意味でハンデもあったのですが、Mちゃんはたいして努力しなかったので、これは当然の結果と言えます。

しかし、そこで一つ大きな問題が。
Mちゃんは与ひょうの役をやってるI君と恋人同士なのです!
チャラーン!(何か間違ってます?)

Mちゃんはもともと感受性のものすごく強い子。
なので、自分の彼氏と他の女の子が劇をやっていることがかなりきついらしいのです。
一度、僕のうちで練習をしたとき、彼女も来ていたのですが、I君とLちゃんが練習するのをものすごく悲しそうに見ていました。
Lちゃんは「やりにくい・・・」と。
そりゃ、そうですよね。
彼女の視線が刺さってくるようなのですから。

実はこの劇には与ひょうがつうを抱きしめちゃうシーンがあって、それを練習できるのはMちゃんがいないときだけです。
最近はMちゃんは練習にも現れなくなりました。
それはとても残念なこと。
だって、一緒にやってきた仲間ですから。
かと言って、「練習に来て」とも言えない空気なんですよね。
Lちゃんは「私、いつかナイフで刺されるんじゃないかな・・・」と言っています。
I君に「このシーン、Mちゃんが見ても大丈夫かな?」と聞いてみると、「多分、大丈夫です・・・」という自信まったくゼロの答え。

どうしましょう・・・
与ひょうは抱きしめるシーンになると腰が引けて、傍目から見ても「何かおかしい」と感じるほどです。
彼には「Mちゃんいないから、大丈夫だよ」と冗談を言うのですが、彼の笑顔はちょっと引きつってます。

まあ、何とかなるか!
結局、僕、そんなに悩んでないのかなあ・・・

今日は脇役の男の子二人が練習したのですが、これがなかなか。
うちのベロニカちゃんも見ていたのですが、思ったよりよくて、びっくり。
例えば、ジーマ君が「ええっ!」と驚くシーンがあり、僕が「全然、驚いてないじゃないの。もっと驚いてよ」と言ったんですね。
そんなこと言っても、驚けるはずがありません。
なんで、「そう言えば、I君が君のこと好きだって言ってたよ」と言ったら、ジーマ君、めちゃめちゃ驚きました。
「そう! 今のだよ! 今のリアクションがここで必要なんだよ! わかった?」
あまりにぴったり来たんで、みんな笑っちゃったんですけどね。
すごく楽しいですね。
問題が時間がないことだけ。

明日はちょっと楽だなあ。
とは言っても、6コマだなあ・・・
5月の初めは祝日が多いから、そのときまで持ちこたえないと・・・

akiravich at 04:40コメント(2)トラックバック(0) 
夕鶴 

2008年04月21日

6bb3855c.JPG今日は授業は三つ。
いつもより少ないのですが、超おつかれ。
学生のうちの一人が全く話しにならないほど、日本語がダメで。
今までいろんな人に教えてきたけど、大体ある程度のところまではいけるんですよ。
でも、その学生だけはどんな方法を使っても、歯が立ちません。
うーん・・・悩む34歳・・・

夜はコンサートへ。
ポーランドの「Karbido」というグループで、楽器を使わずにテーブルを使って音楽を作るのです。
まあ、それは普通のテーブルではなく、いろいろ仕掛けがしてあるのですが。
4人の男がテーブルを叩いたり、表面をこすったり、ナイフ(かな?)を刺したり、ヴァイオリンの弓でこすったり、まあ、いろんなことをやってました。
ジャンル分けは難しいし、意味はないと思うのですが、ハードロックっぽいのあり、ヒーリングのような静かなのありで、飽きさせませんでした。

こうゆう新しいタイプの音楽って、ベラルーシでは聞けないですよ。
とにかく、現代芸術に関しては、かなり立ち遅れていると思います。
だって、新しいものが入ってこないから、現代アートを目にする機会も耳にする機会もない。
だから、そうゆう芸術も育たない、というわけ。

例えば、絵の展覧会なんかに行くとわかるんですけど、よく「新しいスタイルの芸術だ!」なんてふれこみでやってるのは、大体はずれもはずれ、大はずれです。
全部、どこかで見たことのあるようなものばかり。
「とっくの昔に他の国の画家が描いてるよ、そんなの!」と言いたくなるようなものばかりで、うんざりします。
そうゆう画家に限って「どうだ。俺の、新しいだろ〜(ねっとりと言う)」と、えらそうな顔してるんですよね。
抽象なのか、具象なのか中途半端な絵が多いのも気に食わない原因の一つ。
抽象やるんだったら、半端やらんで、とことん追求せんかい! 抽象の仕事で泣いたことあるんかい! と言いたくなります。

でも、情報がないんですから。
別に情報統制されているからというわけではないんですよ。
日本の田舎だって、いろんな芸術を生で感じる機会は少ないですよね。
そんな感じなんです。

昔、あるベラルーシ人学生が「シュトックハウゼンはすごいよ」などと言っていたので、「聞いたことあるの?」と質問すると、「いや、聞いたことはないんですけど」
まあ、彼を責めることはできませんね。
だって、CDもないし、テレビでもやらないし、コンサートでもやるはずがないし。
そのときは、僕がジョン・ケージやオリヴィエ・メシアンなどについて話をすると、彼は僕を尊敬の眼差しで見ていました。
まあ、僕もそんなに詳しいわけではないんですけど。
(マニアックな話しになってしまいました。すみません)

そう言えば、書くの忘れていましたが、僕、音楽の勉強していたんですよ。
あまりにも昔で時々、忘れそうになりますけどね。

とにかく、今日のコンサートはよかった!
そのジャンル自体は新しいものではないんですよね。
楽器以外のものを使って、音の可能性を追求していくのは、昔からいろんな作曲家や演奏家が行っていることです。
ある新聞の批評では「このジャンルの中で最先端を行く」と書いてありましたが、まさにその通り。

今日のコンサートの最後にちょっとしたトラブルが。
最後の曲の最中にステージ上の照明のランプが一つ割れて、ステージに落下してきたのです。
幸いなことに、演奏者から一メートルほどのところだったので、彼らは何事もなかったかのように演奏を続けましたが、これが彼らに当たっていたらと思うとゾッとします。

会場は労働組合会館。
前も日本人のグループが来たときに楽器が税関でストップされてコンサートに間に合わなかったりしました。
僕がお手伝いした日本人のコンサートでは、照明と音響の係員がリハーサル中に大声でおしゃべりして、日本人の方たちに非常に嫌な思いをさせてしまったこともあります。
外国人演奏家にとっては、この会場、鬼門なのでしょうか・・・

明日はまた6コマ×一時間半の授業、プラス劇の練習、という恐ろしい日。
今日は早く寝よう・・・


akiravich at 03:37コメント(0)トラックバック(0) 
ベラルーシの文化 | クラシック音楽

2008年04月20日

08199f21.JPG今日の写真はうちのベロニカちゃんが作ったレインコートです。
実は、このコート、せっかく作ったのに、注文した人が気に入らなくて、返品されちゃったんです。
出来はすごくよかったんですけどね・・・
誰か欲しい人が出てくればいいんですけど。
欲しい人は御連絡ください(連絡もらっても、日本までは送れませんが・・・)

この前、車関係の書類を翻訳したという話を書きましたよね。
そこで、ちょっと車の話。

ベラルーシでは日本車は大人気です。
ミンスクにはトヨタのサービスセンターが出来たりして、日本車の人気は高まるばかりです。
でも、そのトヨタのサービスセンターはあまり評判がよくないのですが・・・
肝心のサービスがいまいちだということで。
日本車が好きで、日本車以外は乗らないという人も多いですよ。
いくらぐらいするのかなあ・・・
調べておけばよかった。
また改めて詳しく書きますね。

日本車を見かけることは非常に多いですが、やっぱり一番よく見るのはドイツ車。
近いですからね。
オペル、アウディ、フォルクスワーゲン、BMW、メルセデスベンツなど。
日本では高級車の類になるのでしょうね。
でも、こちらでは「いったい何時代の車?」と聞きたくなるほど、古いのが走ってるので、メーカーを見ただけでは高級車と名づけることはできません。
つまり、メーカーがどうかよりも、その車そのものが高級かどうかが大事です。
中古車が多いので、何年のものかを見ないといけません。

例えば、ベロニカちゃんのお父さんの車。
オペルなんですが、間違いなく10年以上たってるでしょうね。
走っているのが不思議なぐらい、そこらじゅう壊れています。
助手席のドアは外からは開けることが出来ませんし。
日本だったら、間違いなく車検、通らないでしょう。

ベラルーシにも車検あるんですよ。
最近はちょっと厳しくなってきたらしいです。

ドイツ車は多いのですが、盗難車が多いと言われています。
よくドイツへ車を仕入れに行くと言う話は聞きますね。
もちろん、普通にドイツで中古車を買って、それに乗ってベラルーシまで帰ってくる人もいるんですよ。

ソビエト製の車も見かけます。
例えば、Жигли(ジグリ)、Москвич(モスクヴィッチ)、Запорожец(ザポロージェッツ)などです。
タクシーなんかでは良く見かけますね。
でも、本当に良く走ってるな、という感じです。
車の中がかなりガソリン臭いんですよ。
大丈夫なのか!?って言いたくなるくらい。

そう言えば、僕がウズベキスタンという国にいたとき(いたんですよ! 今じゃ、信じられないですが・・・)、こんなことがありました。
向こうではタクシーは白タクが普通。
道で手を挙げて止めるんですね。
寮から引っ越すためにタクシーが必要だったので、タクシーを拾ったんです。
助手席に座ると、おじいさんの運転手が「降りろ」。
何かと思ったら、その車、止まった状態ではエンジンがかからない。
後ろから押しながらエンジンをかけないと、一度止まったら、もう一度走り出すことはできないのです。
押すといっても誰かが押してくれるのではなく、自分で押すのです。
僕とそのおじいさんは後ろから車を押しました。
おじいさんは押しながら片手でエンジンかけてましたね。
そして、エンジンがかかったら、おじいさんが「乗れ!」
動き始めている車に飛び乗るのです。
「西部警察かよ!」と、突っ込みたくなるハードボイルドなタクシーでした。

いろいろ書いてきましたけど、僕、本当に車には詳しくないんですよ。
というのは・・・
正直に言うと・・・
僕、車が嫌いなんです!!!

何故かと言うと、子どものときに交通事故にあってるんですよ。
大腿骨骨折で、3ヶ月入院しました。
忘れもしません。
あれは僕が小学2年生だったときの2月3日の朝。
学校へ登校するため、友達のはじめくんのうちへ行ったときのこと。
すごく寒い日で、路面は完全に凍結。
僕は前から来たワゴン車に気づかなかったんです。
実際どうだったのかは、あまり覚えていません。
気づいたときには、車が僕の足の上を通った後でした。

病院に担ぎ込まれて、即入院。
足にぶっとい麻酔打たれて(これが最高に痛かった!)、足にドリルで穴を開けられて、そこに針金を通し、そして、足を吊ったんです。
うちの両親が手術に反対したので、その方法になったのだと思われます。
一ヶ月その状態で過ごしました。
足の針金を固定している金具がずれて、足に食い込むんですよ。
それが痛くて痛くて。
朝の回診のときに、お医者さんが金槌のようなもので、コンッってたたくんです。
それが痛くて痛くて。
その後、2週間ほどギプスで固められて。
それが腰のところまでですから、全く身動きとれず。
ふくらはぎのところだったら、松葉杖とか車椅子とかで動けるじゃないですか。
でも、僕の場合は大腿骨ですから、腰まで。
そのあと、辛いリハビリ。
これは本当に苦しかったなあ・・・
今でも、あの憎らしいリハビリの先生の顔、覚えてますよ。

骨折の位置があと10センチ上だったら、足、切断されてましたよ。
たまたまそのとき、東京からいい医者が来てたので、その人に直してもらったんですね。
今でも寒いときなんかは時々痛みます。

両親には心配かけましたね。
うちの母親は何か認定試験を受けに行っている最中に、僕が事故にあったというニュースを聞いたんですよ。
それで、あわててかけつけて。
ほとんど毎日、病院に来るのは大変だったと思います。

うちの親には悪いですが、病院生活、僕は僕なりに楽しんでました。
お見舞いに来てくれる人はみんな、メロンとか、普通は食べられないもの持ってきてくれるんですよ。
ゲームウオッチとかやり放題だったし、マンガばっかり読んでたかな。
祖父にマンガ買ってきてもらったりして。
でも、祖父の年齢で本屋でマンガ買うのって、勇気要ると思うんですよね。
でも、何も言わずに、近くのジャスコで買ってきてくれたんです(泣けてきました・・・)。
そして、普段は学校に行っていて、見ることができないお昼の番組も見ることができて。
ワイドショーとか、笑っていいともとか。
そうそう、テレビがあって、よかったですよ。

一番きつかったのは、食べ物。
そこの病院の食事、死ぬほどまずくて。
あれ以上まずい食べ物を僕は知りません。
入院している以上、贅沢は言えないじゃないですか。
でも、僕はわがままを言って、両親にご飯を持ってきてもらってました。
今考えると、すごく両親は大変だったんだと思います。
泣けてきます・・・
うちのおじちゃんも食べ物、持ってきてくれましたね。
確か「日の出食堂」からラーメンと何かを持ってきてくれたと思います。
おいしかったなあ・・・
あと、ゲームウオッチのパックマンをくれたのはおじちゃんだったと思います。
メロンももらったような・・・・
あの頃は、うちのおじちゃんも山形に住んでいたんですよ。
本当にみんなに心配かける子どもだったんですよね。
今でも心配かけてますけど・・・

この事故は僕の性格形成に大きい影響を与えているような気がします。
僕、今でも病院とか、好きなんですよ。
普通の人は病院の雰囲気とか嫌いですよね。
でも、僕にとっては懐かしい匂いのする場所。
最近はあまり行きませんが、ベラルーシでは随分いろんな病院へ行きました。
折り紙を教えるためです(このことはまた改めて詳しく書きます)。
それって、僕が事故にあったことと無関係じゃないと思うんですよね。
テレビがあったとは言え、僕も病院では退屈してましたから。
僕が事故にあったとき、両親や親戚が僕にしてくれたことを子どもにもしているような。
ある意味、恩返しと言うか。
何なんでしょうね。
そんなに意識してはいないんですが。

車の話からだいぶそれました。
別に車が怖いわけではないんですよ。
ただ嫌いなだけで。
成人式の後のパーティーで、僕の同級生達が車の話ばっかりしているのを聞いて、全くわからなくて。
好きな人にとってはたまらないんでしょうね。

長い投稿でした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。

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