2010年11月

2010年11月26日

お久しぶりです。
はぐれミーシャです。

今日は一週間ぶりの休日。
待ち望んでいた日なわけですが、風邪気味で調子悪し。
それに、たまっている仕事があるので、休みという感じがしない。
でも、体調を早く戻さないとダメだなあ。

モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
アーティスト:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン)
ユニバーサル ミュージック クラシック(2007-09-05)
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今朝の音楽はなぜかモーツァルト。
そして、なぜか「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。
っていうか、これって「夜の音楽」って訳されるけど、明らかに朝のほうが雰囲気に合っていると思いません!?

しかも、カラヤンだし。
私、カラヤンってそんなに好きなタイプの指揮者じゃないんですよ。
やっぱり「おおっ!」と思うような瞬間はありますけど、時々、その流麗さが鼻について軽く気持ち悪くなったりします。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番&第3番ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番&第3番
アーティスト:プレトニョフ(ミハイル)
ユニバーサル ミュージック クラシック(2007-03-21)
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最近気に入ったのが、このCD。
私、プレトニョフってそんなに馴染みがなかったんですよ。
聞かず嫌いというか。
でも、この演奏は何と言うか、機知に富んでいて、思わず目が覚めてしまうような演奏。
「スタンダードな演奏を好む人には受け入れがたい」というような感じの批評を目にしましたが、私は大丈夫。
だって、ベートーベンのピアノ協奏曲はほとんど聴かないから、変なステレオタイプがないし。

「馴染みがない」なんて書きましたが、実は私は東京でプレトニョフの演奏を聴いているんです。
とはいっても、ピアノではなく指揮。
彼の手兵であるロシアナショナル管弦楽団を率いてのチャイコフスキーの交響曲第5番。
場所は東京芸術劇場だったかな。

後にも先にもあんなへんなチャイコフスキーは聴いたことがありません。
いいとか悪いとか、そういう問題ではなく、一言で言うと「へんちょこりん」。
プレトニョフはおそらく「へんちょこりん星」から来たのではないかと思えるほどでした(←「こりん星」ではない←古い?)。

まあ、いいや(←いいのか!?)

今日書きたかったのは音楽の話ではありません。
書きたいことは死ぬほどたまっているのですが、今日は日本語教師としての話です。

最近、うちの大学の三年生の女子学生が日本へ短期間の留学に行って帰ってきました。
彼女は元々日本語がかなり出来る子なので、日本に行って帰ってきたからと言って、見違えるほどの進歩をしてきたわけではありません。
日本のいろんなものを見てきたでしょうし、それまで積み重ねてきた日本語の能力を実際の場面で発揮するのは彼女にとってもいい経験になったでしょう。

彼女は一年生のときから宿題を欠かすことなくこなしてきました。
私の授業は宿題がとても多いので(←熱心な学生に言わせると「もっと多くてもいいです」)、全ての宿題をこなすのはかなり大変だと思うのですが、彼女は風邪を引いても論文で忙しくても、どんなことがあっても宿題はきっちりやってきました。
そういうところが大事なんだと思います。
私が言うとおりにやって、私が要求したこと全てに答えてくれる学生は100%の確率で日本語が上手になっています。

もちろん、彼女自身、念願の日本へ行くことができて大満足。
いろんな場所も見られたし、いろんな人に出会えたし。

彼女の偉いところは日本から帰ってきて「もっと勉強しなくちゃ」と思ったところ。
日本に行って、自分のダメなところがたくさんわかって、もっと勉強したくなったと言うのです。

日本へ短期留学した学生の中には変な自信を持って帰ってきて、すっかりダメになってしまうことがよくあります。
それまで日本人と日本語で話したことがない学生が日本へ行って、日本人と日本語で話せたら、それはうれしいですよね。

でも、それが変な自信になってしまい、「もう私は日本語がわかる」と思ってしまう学生が時々いるのです。
そういう学生は勉強しなくなって、日本人の友達とスカイプなどで話すことばかりになってしまうことが多いのです。
日本人と話せることがうれしくてしょうがなく、「日本語でたくさん話せば日本語は上手になる」と単純な図式で考えるようになってしまうのです。

どうして学生が変な自信を持ってしまうのか。
その質問の答えは非常に簡単なものです。
それは日本人の責任です。

今回、日本に行った学生が一つだけ不満に思ったことがあります。
それは日本人が彼女の間違いを一切直さなかったことです。
手放しで「日本語、上手ですねえ」と褒めちぎったのです。

女子学生「あるとき、私は日本語でテキストを読みました。明らかに私の発音やイントネーションは良くなかったのに、日本人の先生は『上手ですね。とても良かったですよ』と私を褒めたのです。自分では不満でしたから全然うれしくありませんでした」

彼女は元々自分に自信が持てないタイプ。
でも、変に自信を持つよりもそのほうがよっぽどいいと思うのです。
冷静に自分の日本語力を測ろうとする態度はすばらしいと思います。
自分が納得できないのに褒められてもうれしくはないですよね。

女子学生「そして、私の次に他の国の学生が読んだのですが、その学生の発音はかなりひどいものでした。でも、先生は私に対するのと同じように『良かったですよ。上手ですね』と褒めたのです。どうしてか私にはわかりませんでした」

これはその教育機関に限ったことではありません。
日本に留学した学生のほとんどがそのような状況に直面します。
「日本人は間違いを直してくれない」

どうしてそういうことが起こるのでしょうか?
いくつか理由があると思います。

その中で一番大きい理由は相手の間違いを直すことで心を傷つけてしまうのではないかという恐れだと思います。
間違いを直されてがっかりすること、確かにあると思いますし。

でも、そんな程度で、がっかりしたぐらいでダメになるようなら、それまでの才能だったということではないでしょうか?
それに、本気で「日本語を勉強したい!」と思っている学生はそんなにやわではありません。
もちろん、「本気ならば」の話ですが。

私が日本語教師の勉強をしていたとき、教科書の最初のほうに「学生は出来るだけ褒めないといけない」「間違いを指摘されると学習意欲をなくしてしまう恐れがある」と書かれていたように思います。
日本語教師養成講座の先生にもそう言われたように覚えています。

でもね。
うそくさいんですよ。
いつも笑顔の日本語教師。
時々います。
褒めるのならば心から褒めればいいのに。

そういう人に限って、実は心も頭もメチャメチャ冷静で、「上手ですね」と言っておきながら、本当は「ここがダメ。あそこがダメ」なんて思っていたりするんです。

ちゃんと本当のことをまっすぐ言うことも必要なのではないでしょうか。
表面的なやさしさは人をダメにすると思います。

数年前のこと。
ある学生が某国立大学への一年の留学からベラルーシに帰ってきました。
彼女の不満も全く同じで「どうして日本人は間違いを直してくれないんでしょうか?」

女子学生「日本人みんなに『私の日本語に間違いがあったら直してください』って何度もお願いしたのに、誰も直してくれないんです」
はぐれミーシャ「でも、先生は直してくれるんでしょ?」
女子学生「いいえ。その先生たちが全く直してくれないんです。『上手だ、上手だ』って褒めるだけで」
はぐれミーシャ「本当? でも、先生の仕事の中には学生の間違いを直すことも入っているでしょ?」
女子学生「私もそう思うんですけど・・・私は自分の日本語がどこか間違っているんじゃないかって、逆に不安でした」

私は学生の日本語が間違っているときは徹底的に直します。
語尾が間違っている程度の小さい間違いでも直します(←私にとっては間違いに大きいも小さいもありませんが)。
それを「厳しい」という人がいれば、私はその人に「甘い」と言うでしょう。

学生は日本語を生業とする人間として生きていくのであれば、間違いは許されないのです。
趣味として、あるいは日本人と友達になりたいから、というのとはわけが違うのです。
私が大学で教えている学生たちは、将来、日本語のプロになる人材ですから。
「通じればいい」という考え方は「通じない」のです!!!

一つ例を挙げましょう。
ベラルーシには俳優を養成する機関が二つあります。
それはいずれも国立の教育機関です。
仮にそれぞれをA大学とB大学としましょう。

A大学のことは私は良く知っています。
昔の彼女が勉強していましたから。
その彼女が勉強していたのが演劇科だったんです。
私はそこの先生とも知り合いでしたし、試験も見に行ったことがあります。

A大学の学生はほぼ例外なくプライドが高かったです。
もうすでに偉大な俳優や女優のように振舞うんです。
それは私の元カノも例外ではなく、何を聞いても知った風な口を利いたり、劇を見に行くと偉そうに批評をするし。
見ていて鼻持ちなりませんでした。
かと言って、彼らの演技は上手だとはいえないレベルなんで・・・

B大学のほうは私の友人である俳優たちが卒業したところ。
ベロニカちゃんも知り合いがたくさんいます。

これはベロニカちゃんから聞いた話なのですが、B大学では一年生に入学したときに学生をくそみそにけなすのだそうです。
大体、芸術大学の演劇科に入ろうとする人間はどこかでアマチュア演劇や高校演劇などをやってきた人間が多く、大抵は変な自信を持ってしまっていることが多いんです。
その余計なプライドを入学して一番最初に粉々に砕いてしまうんです。
はっきりと「お前たちはまだ俳優でも何者でもないんだ!」という全否定。
そこから全てが始まるのです。

その後もB大学の場合は徹底的にダメ出しされるそうです。
卒業するとき、大抵の学生(←私の知り合いも含む)は「私はまだまだ勉強不足です」「私はまだまだ演技が下手です」と言います。
それは在学中に教師に徹底的にやられたからでしょう。

しかし、B大学の学生はそれでくさることはありません。
「もっと勉強したい」「もっと上手になりたい」とみんな言うそうです。
人間は向上心がなくなったら終わりですよね。

ミンスクにある主要な劇場で働いている俳優のほとんどはB大学の出身者です。
私が良く知っている国立ヤンカ・クパーラ劇場やゴーリキー記念ロシアドラマ劇場には、私が知っている限り、A大学の出身者は一人もいません。
ほぼ全員B大学の出身、あるいは外国から来た役者です。
他の劇場にもA大学の出身者は一握りです。

この現実が全てを物語っていると思います。
驕り高ぶる者に未来はありません。

褒めるだけじゃダメですよね。
幸いなことに、私の学生の中には日本人に煽てられて簡単に喜ぶような人間はいません。
いや、少しいるか。

私はあんまり褒めません。
褒める理由がないのに褒めるのは、うそをつくのと同じですから。

だから、私が褒めると学生は喜びます。
あるとき、私が学生を褒めたら「やった! 先生に褒められた!」と喜んだんですよ。
はぐれミーシャ「そんなに喜ぶことですか?」
学生「ええ。先生に褒められるのは珍しいことですから」
はぐれミーシャ「そんなことないよ。時々、褒めるじゃん。この前、○○のときだって、褒めたでしょ?」
学生「えっ!? あれって、褒めてたんですか?」
私の場合はもうちょっと褒めてあげないといけないようです。

ちなみに、ベラルーシ人は外国人の間違いを直します。
知っている人でも知らない人でも直すことがあります。
私もかなり前、市場の肉売り場のおばちゃんに「そこは○○っていう言葉を使うんだよ」とダメ出しされたことがありました。
私も直されると落ち込みますが、「くそっ! もうこの言葉は絶対に間違えないぞ!」という気持ちになります。
おかげで、一度間違いを指摘された言葉は間違いません(←たぶん・・・)

日本人の皆さん!
もし日本で私の学生に出会ったら、日本語の間違いを直してあげてください!
もちろん、言い方次第では傷つくこともあるかもしれませんが、たとえば「そこはこう言ったほうがきれいに聞こえるよ」とか、まともな言い方をすれば誰も傷つかないと思います。
直してあげることこそ、学生のためなのですから!!!

akiravich at 02:16コメント(7)トラックバック(0) 
日本語教師の仕事 | クラシック音楽

2010年11月16日

こんばんは。
はぐれミーシャです。

今日は龍二くんの半年の誕生日です!!!
生まれたのは今年の5月15日ですから、今日がちょうど半年経った日になります。
あっ、日本時間ではもう16日ですが、ベラルーシではまだ15日です。

ベラルーシでは赤ちゃんが生まれると、一ヶ月ごとに「今日は○ヶ月の誕生日!」という言い方をするんです。
一歳になるまでそういう言い方をしますね。
まあ、これは特に習慣とか伝統というわけでもないのですが。

そんなわけで久しぶりに龍二くんの写真を大公開します!
実は一ヶ月ほど前、新しいカメラを買ったのですよ。
長い間このブログを読んでおられる方はご存知かと思いますが、私のブログ、写真の質は驚くほどお粗末なものでしたから。
やっとまともな写真が載せられます。

IMG_0002
これは今のカメラで最初に撮った写真です。
どうですか?
やっぱり龍二くんはかわいいですね〜(←親バカ)

IMG_0321
もう寝返りはきっちりとやります。
自分で腹ばいになります。
もちろん、首ももうすわっていますよ。

IMG_0168
この写真、私は好きです。
何を取ろうとしているんですかね?

私の知り合いがよく言うのは「本当にまじめな顔ですね」「大人のような表情ですね」。
本当によく言われるんですよ。
確かにまじめな顔ですが、お父さんがまじめなので仕方ありません(←こんなことを書くこと自体がふまじめ)。

でも、最近はよく笑うんですよ。
声を出して笑っています。
それがかわいいんですよね。

IMG_0124
龍二くんは洗面所が大好きです。
そこにあるクリームのチューブとかを手に取ったりするのが好きなのです。
中でもお気に入りは黄色のチューブです。
何か黄色には反応しますね。

IMG_0050
父と息子。
こんな風にゆっくり散歩する時間は滅多にありません。
一週間に1〜2回といったところでしょうか。
本当はもっと一緒にいる時間が欲しいのですが・・・

IMG_0284
寝てます・・・
かわいい!!!

とまあ、こんな感じです。
龍二くん、日に日にいろんなことが出来るようになっています。
もっと一緒にいたいなあ・・・

でも、今は仕事を頑張らなくちゃ!
来年、みんなで日本に行くから、そのためにも頑張らないと!

仕事を頑張っていると、やっぱりベロニカちゃんの負担も大きいんですよね。
ほとんど一人で子育てしているわけですから。
なので、私が休みの木曜日なんかは、私が龍二くんの面倒を見て、ベロニカちゃんを買い物に行かせてあげたりしています。

先週の土曜日は夜の授業をキャンセルして、私はうちにいました。
ベロニカちゃんは大好きな歌手「Ночные Снайперы」のコンサートに行ったんです。
妊娠して、龍二くんが生まれて、これまでの約1年間、ベロニカちゃんはどこにも遊びに行ったり出来なかったので、頑張ってくれたお礼にコンサートのチケットをあげたのです。

私もその歌手のコンサートには何度か行っているのですが、大体21時には終わるんですよ。
なので、ベロニカちゃんがうちを出る18時15分から、帰ってくる21時半までだったら、何とかなるだろうと思ったんですよね。
もちろん、龍二くんの食べ物に関しては万全の備えをしていました。

ところが!
その日に限って、Ночные Снайперыのソリスト、Диана Арбенинаは絶好調。
バッグバンドが完全に引き上げた後も、一人でギター弾き語り。
コンサートが終わったのは22時だったのです。

これは大変でした。
食事をあげたりするのも、私には初めての体験。
ものすごい泣かれてどうしたらいいかわからず。
いやあ、ベロニカちゃんは毎日こんな生活をしているんだなあと思い、やはり母は強いなあと思いました。

帰ってきたベロニカちゃんは「もう龍二くんを置いてコンサートに行くのはいやだ!」と言って、龍二くんに駆け寄りました。
でも、コンサートには大満足だったらしく大興奮。
やっぱりたまにはストレス解消させてあげないと、ね。

明日も朝から晩まで授業だなあ。
きついなあ・・・
木曜日の休みまで何とか持ちこたえないと!
頑張ります!

akiravich at 06:15コメント(9)トラックバック(0) 
子育て 

2010年11月13日

ご無沙汰しています。
はぐれミーシャです。

本当にご無沙汰しています。
はぐれミーシャでございます!!!

今日は久しぶりの完全オフ!!!
やりたいこと、たくさんあったのですが、そのうちの一つが「ブログを書くこと」!
本当に書きたいことは死ぬほどあったんです。

正直、ここ最近の疲れ方は尋常じゃありませんでした。
これまでも疲れることは多々あったのですが、今の疲れと比べれば極太ソーセージとポークビッツぐらいの違いがあります(←なんじゃそりゃ)。

だって、授業中に気を失いそうになるんですよ。
眠いのと疲れとごっちゃまぜで襲い掛かってきて、落ちそうになるんです。
自分を無理やり支えるために、立ち上がってジャンプしたり、屈伸したり、ダンスしたり。
もうやりたい放題。

そうそう。
「立ち上がって」と書きましたが、私はいつも座って授業をしています。
「教師は立って授業をするもの」と言う人も結構いるのですが、私はまあどっちでもいいかなと思っているので。

それに、教室が異常に狭いので、学生との距離が近いんですよ。
そこで私が立ってしまったら、学生たちは上のほうを見てばかりいなければならず、首が疲れるんです。

学生と座っている距離が近いのは私としては非常にいいことだと思っています。
物理的な距離と精神的な距離が完全にリンクしているとは思わないけど、いかにも「教壇」という感じで一段上がっていると、何か教師が祭り上げられているような感じがしないでもないですよね。

そんなことを考えていて思い出したこと。
それは私が東京ロシア語学院というロシア語の専門学校でロシア語を学んでいた頃の話です。

私が東京ロシア語学院に通っていたのは1996年から1999年までです。
その頃の学院長は東郷正延先生でした。
東郷先生は東京外国語大学の教授だった方で、研究社の露和辞典の編者の代表でもあります。

すでにかなりの御高齢でしたが(←80歳は超えておられたかと思います)、まだ授業をなさっていました。
週に一度、一年生の授業です。

東郷先生はロシア語の神様のような雲の上の存在でしたが、授業での先生は楽しく明るく、そして明快な授業をなさる方でした。
私にとってもだいぶ前の話なので、内容自体はそれほど覚えていないのですが(←先生、すみません)、一つだけ強烈に覚えている話があります。

それは東郷先生がロシアに住んでいたときのこと。
「そのときに知り合った人にゾーヤさんという女性がおりまして・・・」
ゾーヤというのはロシア語圏では昔からある女性の名前です。
最近は滅多に出会うことはありませんが・・・

「そのゾーヤさんは体が大きい人で、ゾウに似ているんです」
その話を東郷先生は本当に楽しそうにかみ締めるようにお話なさっていました。
私たち学生も「ゾーヤ=ゾウ」という太った女性のイメージがついてしまいました。

ちなみに、私が会った「ゾーヤ」さんは一人だけで、タシケントで私が部屋がなくて困っていたときに助けてくれたアクセサリーを売っている女性でした。
彼女は普通にやせていました。

話がだいぶそれてしまいました。

で、東郷先生、授業のとき、絶対に座らなかったんですよ!
「教師は立って授業をするべきもの」
授業は80分ですから、ずっと立ったまま授業をするのはなかなか体力がいると思うのですが、先生はいつも立っていました。

あるとき、学院の近くのラーメン屋で東郷先生を見かけました。
悠然とラーメンを食べておられました。
そのラーメン屋のラーメンはそんなに脂っこくはなかったのですが、80歳を過ぎてラーメンを食べられるというのはすごく元気なんだなあと勝手に思いました(←別に80歳を過ぎたらラーメンを食べるなという意味ではありません。実際どうなんですかね? ラーメンは年齢に関係ないのでしょうか?)

もう一つ、よく覚えていることがあります。
それは学期末の試験のことです。

(ここまでは木曜日の夜に書いたものです)
(ここからは土曜日の朝に書いています)

東郷先生の試験は完全なロシアスタイルでした。
口答試験なのですが、それは何枚かの紙がくじのようになっていて、学生の前に並べられています。
その中から一枚を選び、そこに書いてある質問に答えるというものです。

東郷先生はこちらにプレッシャーをかけるわけでもないのですが、やはり相手はあの東郷先生ですから、こちらとしては超緊張します。
でも、質問自体は非常に簡単なものだったので、私は難なくクリアすることができました。

すると、東郷先生「おお、君はよくできているね。じゃあ、もう一枚やってみようか」
えっ!?
まあ、いいんですけどね。

用意されていた紙は3枚。
二枚目の質問もクリアすると、先生は「まあ、ここまで来たんだから、もう一枚やってみようか」
えええっ!?

その最後の一枚は一つだけ難しい質問があり、少し間違えてしまいました。
それでも、東郷先生にはお褒めの言葉をいただきました。
「ちょっと大変だったかな?」
後で聞いたら、他の学生はみんな一枚ずつでした。

最後にもう一つの思い出。
それはロシア語の歌に関するものです。

東京ロシア語学院では毎年12月に学院際がありました。
学院の本科は3年間なのですが、私たちは3年連続でロシア民謡を合唱しました。
皆さんもご存知かと思いますが、有名な「カチューシャ」や「ともしび」などの曲です。
まあ、一応音楽高校を卒業し、音楽大学まで行ったわけですから、歌の指導はできますよ。
もちろん、みんなプロではありませんが、出来る限りの努力はしました。

最初の年、学院際の最後に東郷先生にご挨拶いただいたとき、先生は「歌はいい! ロシア語を勉強する人間はロシア民謡を歌わないとダメだ」と力説しておられました。
実は以前は学院でもロシア民謡を歌うグループがあったりしたのですが、しばらくその伝統が途絶えていたのだそうです。

その後、毎年学院際の最後に東郷先生は「歌はいい!」と言ってくださいました。
私が卒業するとき、「君が卒業してしまうと、歌を歌う人がいなくなってしまうから、さびしいねえ」と言ってくださいました。

私が卒業してすぐの年は合唱をしていました。
私は卒業生でしたが、まだ東京に住んでいたので、練習に顔を出してみたんですよ。
すると、全く元気のない歌声。
そして、テンポがだらっとしていて。
合唱部だった女の子がいて、その子が指導していたのですが、全くダメで。

「古○さん、指揮してみてくださいよ」と後輩に言われたので、久しぶりの指揮。
いやあ、燃えましたね。
で、歌声が全然変わったんです。
歌っている本人たち、歌い終わって拍手。
「全然違います!」
そりゃあ、だてに音大に入っていませんから(←卒業してないけど・・・)

また、話がそれてしまいました。

その後、東郷先生にお会いすることはありませんでした。
先生の訃報を聞いたのはベラルーシに来てからのこと。
2002年でした。

私は先生のおかげでここまで来られました。
先生がお作りになった研究社の和露辞典、私にとってはバイブルです。
辞書を使うたびに、私は「ああ、俺はこの人に習ったんだ」ということを想い、それを誇りに思うのです。
先生、本当にありがとうございました!


ああ、俺も頑張らないとな!
80歳を超えても立ったまま授業をしていた東郷先生。
もっともっと元気に頑張らないと!

正直、ここ最近の仕事量は尋常じゃありません。
はっきり言って、働きすぎだと思います。

吐き気がするほど疲れるのです。
授業中に涙が出そうなほど疲れるのです。
ハッと気づくと、学生たちの前で黙りこくってしまう自分がいます。

特に先週の日曜日は最悪でした。
いつものように8コマ。
つまり、12時間、学生の前で話し続けるのです。
最初の9時間は何とかいつものように楽しい授業ができました。

でも、最後のグループとの3時間は完全にアウトの状態。
言葉が出てこない。
顔が笑っていない。
波にさらわれるように、自分の存在が根こそぎ持っていかれるような強烈な疲れ。
無理やり冗談を言って、完全な沈黙を作り出す、超空回り。

最近、私とベロニカちゃんが見ているドラマ「ルーキーズ」にこんなセリフがありました。
試練はそれを乗り越えられるものにしか与えられない
確かこんな言葉だったと思います。

これは試練なんです。
乗り越えなければならないんです。
どうしてかわからないのですが、この試練を乗り越えれば何か明るいものが見えてくるという確信が私にはあります。

家族のためというのももちろんあります。
でも、これは「私闘」という感覚が私の中では強いです。

もっと高みへ
今見えないところへ
今を駆け抜けたら
何が見えるだろう?
その先を見てみたい
地獄のような日々を
天国への階段に変えてみせよう

by はぐれミーシャ

akiravich at 14:59コメント(2)トラックバック(0) 
日本の思い出 | 日本語教師の仕事

2010年11月03日

お久しぶりです。
はぐれミーシャです。

また日があいてしまいました。
すみません。

今日も2010年日本語弁論大会でのスピーチを御紹介します。
学生たちの了解はとってあります。
著作権はスピーチ原稿を書いた学生にありますので、このスピーチ原稿を無断で転用・転載などくれぐれもなさらないようにお願いします。

今日ご紹介するスピーチは「自分自身を愛すること」というタイトルのものです。



自分自身を愛すること

 愛にはいろいろなタイプがあります。たとえば愛国心とか、母性愛とか、愛情です。でも今日私は違うタイプの愛について話をしたいです。それは自分自身を自分で愛することです。私の話はエゴイズムとは関係がぜんぜんありませんから、間違えないでください。エゴイズムやナルシシズムは愛の別の面です。誰かを愛しても、自分のことだけを考えたら、そしてほかのひとのきもちを考えなかったら、それは愛じゃなくて、エゴイズムです。また自分のことをほかの人よりあたまがよくて、美しくて、それに一番面白い人だと思うのはナルシシズムです。でも私は自分自身を愛することの肯定的な意味について話したいです。

 たいてい自分自身が好きかどうか質問された人たちは「いいえ、あまりすきじゃない」と答えるでしょう。どうしてそう思うか調べたかったです。私はいろいろな自分の経験を思い出して、自分なりの意見を持つようになりました。第一にたくさんコンプレックスがある人は自分自身を嫌うかもしれません。そして、謙虚さを大切にしている人にとって、「私は自分自身がすきだ」というのは恥ずかしいことです。

 でも本当に誰かや自分自身を愛するというのはどういう意味ですか? 私はこのコンテクストの中では「愛する」という言葉は誰かや自分自身が幸せになるように念願して、その人や自分自身の幸せのために何かをするという意味だと思っています。私の考えでは私は誰かが好きになったら、その人の幸せのために一所懸命がんばらないといけないのです。なので、自分自身に幸せを念願してがんばったら、自分自身を愛しているというのは大丈夫なのです。

 自分自身を愛せないと誰にも愛されないといわれています。それはそうですが、普通には自分自身を愛せない人は自信がたりませんから、面白くなくて、つまらない人に見えます。でも、自分自身を愛して自信が持てるようになったら、きっと他の人からも好かれます。自信はそんなに簡単につくものではありませんから、コンプレックスがなくなるまでコンプレックスと戦わなければならないと思います。また、自分に自信があって、自分自身を愛している人は自分のいいところも悪いところも知っているので、自分自身を正しく評価できると思います。このひとは自分のとりえをもっとよくしたり、欠点を消すためにがんばったりすることができます。そして、自分の欠点をよく知っている人はその欠点をもっと悪くすることはありません。

 自分自身が嫌いな人は「自分を嫌うのは全然意味がない」と理解したほうがいいと思います。たとえば、私は以前、コンプレックスが多かったので自分が全然好きじゃありませんでした。自分に対して憎しみや嫌悪しか感じませんでした。心の中の調和がなくなってしまったので、暗い時代でした。今はどうして自分が嫌いだったのか聞かれても、答えられません。でもある日私は自分自身を憎むのに使ったエネルギーは無駄使いだったとわかったのです。私はそんなに悪くないと認めるのは自分自身に勝ったことになると思います。そのときから私はだんだん自分自身が好きになって、憎むのに使ったエネルギーを勉強や自分自身の成長のために使っています。ぜったいにコンプレックスに負けないと自分自身に約束したのです。

 もしこの中に自分自身が嫌いな人がいたら、自分自身を好きになってください。自分自身を敵にするのは意味がないことです。心の中に調和があれば、人生はもっと明るくなるはずです。



この作文を書いたのはヴェドロヴァ・リュドミラさんです。
ここでは愛称の「リューダさん」でいきます。

なかなか考えさせられる文章ですよね。
私が「あなたは自分のことが好きですか?」と聞かれたら、「大嫌いです」と答えるでしょう。
でも、それもまた何かの裏返しのような気もするし・・・

私が特に気に入ったのは・・・
私はこのコンテクストの中では「愛する」という言葉は誰かや自分自身が幸せになるように念願して、その人や自分自身の幸せのために何かをするという意味だと思っています。私の考えでは私は誰かが好きになったら、その人の幸せのために一所懸命がんばらないといけないのです。

私も若いときは「エゴイズムとは何か」なんて、すごーく考えていました。
「愛する」という言葉の意味を考えていました。

自分が幸せになるために人を愛するのではなく、愛する人が幸せになるために頑張ること。
それが「愛」。

私だったら、「愛する人が幸せになれば、私も幸せ」と付け加えたいです。
やっぱり、私はエゴイスティックなのでしょうか。

でもね、私、エゴイストでもいいと思うんですよ。
エゴイストのくせして、いい人間づらするほうがよっぽどたちが悪いですよ。
エゴイストであることは恥ずかしいことではないと私は思っています。

もう8年近く前でしょうか。
そのときの彼女に「あなたはひどいエゴイスト」と言われて、かなり落ち込んでいたことがありました。
そのとき、たまたまベラルーシに来ていた日本人の友人にそのことを話すと、「確かに古○はすごいエゴイストだよね」
はぐれミーシャ「・・・」
友人「でも、古○さんは自分のエゴイズムを他の人のために使っているんだから、いいんじゃないかな?」

その言葉には本当にすくわれました。
そのとき私が心に決めたのは「いいエゴイストになろう」ということ。
エゴイストであることは決して恥ずかしいことではありません。

でも、「自分自身を愛する」ことって、俺はできてるかなあ。
自分ではわからないなあ。
たぶん、心のどこかで自分のことを猛烈に好きなんだろうなあ。
そんな自分がいやな感じもするし、まあ仕方ないかという感じもするし。

とにかくいろいろと考えさせられました。


リューダさんへ
いろいろ深く考えるタイプだよね。
それはすごくいいことだと思うよ。
考えれば考えるほどわからなくなったりするよね。
でも、それでいいと思う。
一番よくないのはわからないからと言って、考えるのをやめてしまうことだから。

今回のスピーチコンテストでは去年とは全然違って、すごく落ち着いていいスピーチをしたよね。
私にはリューダさんの言いたいことが伝わってきて、いいスピーチだったと思っています。

授業のとき、みんなでいつも「お風呂」の話とかでいじめるけど、それはみんなリューダさんのことが好きだからなんですよ!!!


もしよろしければ、感想をコメント欄にいただけるとありがたいです!
コメントの内容はリューダさんに必ず伝えます!

akiravich at 07:00コメント(8)トラックバック(0) 
日本語教師の仕事 
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