2013年11月

2013年11月30日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日は前回の続きです。
まあ、内容的にはあまり続いていないのですが・・・

みなさん、「優しさ」って何だと思いますか?
本当の「親切」ってどんなものだと思いますか?


「何を突然?」と思った方も多いかと思います。
「優しさ」という言葉。
私にとっては人生でとても重要な意味を持つ言葉です。

何が本当の「優しさ」なのか?
これは私にとっては永遠のテーマです。

今の日本や日本人を見ていると、表面的な「優しさ」に包まれて、本質を見失っている部分があるのではないかとよく感じます。
「優しさ」を「甘さ」「甘え」と取り違えているような気がします。

この「優しさ」という言葉についてはまたいずれ詳しく書いてみたいと思っています。

さて、日本語の話です。

昨日も書きましたが、私が使っている教科書は「みんなの日本語」という教科書です。
非常にいい教科書だと思います(←ビデオを除いては)。

この教科書の副教材の中に「翻訳・文法解説」という本があります。
この本はいろんな言語で出版されています。
英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、インドネシア語、タイ語、中国語、韓国語、そしてロシア語です。

「みんなの日本語」に対応していて、各課に対して同じような構成になっています。
内容は・・・
1.各課に出てくる新出語の訳
2.文型、例文、会話の文の訳
3.補足的な語彙など
4.その課の文法解説

ここまで見ると、「なんて便利な本なんだろう!」とか「学習者のことを考えてる」なんて、思われた方がいらっしゃるかもしれません。
確かに、これは便利ですし、私も参考にすることがあります。

しかし!!!
私は学生たちにはこの本を使用することを固く禁じています。
この本、ベラルーシではインターネット上で見つけることができるのですが、学生たちにはダウンロードを禁じています。
それには私の経験に裏打ちされた理由があります。

まず、新出語の訳に関してです。
これは学生たちにとっては便利なものです。
その課に新しく出てくる日本語の単語の訳が書いてあるわけですから。

しかし、これって「親切」なんでしょうか?


そりゃあ、学生たちにとっては便利でしょうよ。
自分で辞書を引かなくても、そこに自国語で訳がついているんですから。

でも、それって「親切」なんでしょうか?
自分で辞書を引いて調べた言葉のほうがよっぽど価値があると思うのは私だけでしょうか?

私は「辞書を引くこと」も「勉強」という行為を構成する重要な要素であると思っています。
自分の手で辞書を引くことこそ勉強なのではないでしょうか?

私がロシア語を習っていたとき、「文法の鬼」と呼ばれる厳しい先生がいました。
その先生はよく「君たちの辞書はきれいダネ。全然使っていないからダネ」と皮肉っぽい笑みを浮かべながら言っていました。
手垢で汚れ、ページがよれよれになった辞書こそ、勉強してきた証。
語学屋にとって汚れた辞書は勲章なのです。

これって、ちょっと根性論に近いですよね。
私の考え、古いでしょうか?

学生たちには私のクラスに入ってくる時点で、翻訳・文法解説は絶対に使うなと念を押します。
最近も学生たちに言いましたが、数人の学生が「便利なのになんで?」という感じでピンと来ない顔をしていたので、私は言いました。

例えば、君たちが高い山に行ったとする。
自分の足で歩いて頂上まで登りつめるのと、ヘリコプターで簡単に頂上に着くのと、どちらが価値があると思う?


この比喩で全員、納得です。

「翻訳・文法解説」の単語集、暗記しようとする学生が多いです。
それも大きい弊害の一つ。
丸暗記で頭に詰め込んだ言葉ほど忘れやすいものです(←受験勉強で経験している方も多いのではないでしょうか?)

言葉の説明というのは非常に難しいものです。
「犬は英語でdogですよ」なんて、単語の意味を訳で与えるだけで済むのなら、こんなに楽なことはありません。
しかし、それでは説明したことにはなりません。
ましてや単語集を渡して、「じゃあ、これを暗記してください」なんて何の意味もありません。

私が重要視しているのは「インパクト」と「リアリティ」です。
「インパクト」というのは、新出語を学生が初めて目にしたり、耳にしたりしたときのシチュエーションやコンテキストを重視するという意味です。
例えば、特別なシチュエーションで特別な人から聞いた言葉はずっと忘れないですよね?
実際の場面でもいいし、好きなドラマの中の出来事でもいいと思うのです。

例えば、学生が恋愛ドラマを見ていたとします。
そこで、愛し合っている二人が愛し合っているがゆえに「別れよう」となった場合。
そこで「別れる」という言葉を聞くのと、紙に書いてある訳「別れる=расстаться」を見るのと、どちらが心に残るでしょうか?
シチュエーションやコンテキストから切り離された言葉は死んだ言葉も同然です。
訳だけ覚えても、何にも楽しくないですから。

新出語が出た場合、訳を伝えて終わり、というやり方は私はしません。
何かその言葉に関係がある自分の思い出を話したり、ジェスチャーを使って、一人で小芝居をしたりします(←小芝居は自分でやっていても楽しい)。
そこでみんなで笑えば、心に残る「思い出」になります。
新しい言葉を説明するときは、そういう「体験」をしてもらうことが重要だと私は考えています。

もう一つの「リアリティ」。
例えば、「みんなの日本語」の第13課に「市役所」「外国人登録」という言葉が出てきます。
しかし、外国に住んでいる学生にとっては何のリアリティもありません。
そんな言葉は日本へ行ってから覚えればいいのです。

もちろん、これは「みんなの日本語」の罪ではありません。
元々、日本に在住している外国人をターゲットにしている教科書なのでしょうから。
日本にいる外国人にとっては「市役所」も「外国人登録」も非常にリアリティのある言葉でしょう。

そこで、それぞれの国の人にとっての「リアリティ」を勉強の中に取り入れていくことが大事だと思います。
それは国別の事情や国民性、学生の年齢などを考慮した上になります。

例えば、若い世代にとっては「市役所」「外国人登録」よりも「恋人」とか「つきあう」という言葉のほうが身近なわけです。
自分にとって身近かどうかは重要なファクターです。
身近なものの方が頭にも心にもスッと入ってきやすいものです。

そこで単語集の話。
羅列された単語とその訳には何のインパクトもリアリティもありません。
そこにあるのは、何らかの情報を伝える文字の羅列にすぎません。

そもそも、元々の言葉とその訳が意味的に一致していると考えること自体が間違いです。
例えば、「つきあう」(←男女交際として)という言葉。
ロシア語の辞書を見ると「общаться」という言葉が真っ先に出てきますが、これは「つきあいがある」という程度の意味で、「男女がつきあっている」という意味にはなりません。
実際に男女交際の意味で使われるのは「встречаться」という言葉なのですが、これは直訳すると「会う」。
例えば、ベラルーシ人が「彼と会っています」というと恋人としてなのか、友達としてなのかはわからないことがあります(←たいていは恋人として、ですが)。

こんなこともありました。
ある男子学生が「私は彼女と交際しています」と言いました(←ここでの「彼女」はある日本人留学生を指していました)。
ちょっと古めかしい言い方ではありますが、まあ、恋人関係なんだろうな・・・と思ったのは一瞬だけ。
あの日本人の女の子がこんなしっかりしないベラルーシ人学生を相手にするわけがない、と。
ちょっと考えたら、彼が言わんとしていた意味がわかりました。

その学生は日本語のレベルはかなり低く、頭の中でロシア語から日本語に訳しながら話しているので、不自然な日本語になることが多かったのです。
彼が言いたかったのは「私はその女の子と付き合いがあります」という程度のもの。

ロシア語から直訳したために起こってしまった間違いです。
まず、「彼女」。
英語で言うところのsheですが、それを「彼女」と言ってしまうことは日本語ではあまりありません。
大体、名前で呼ぶことが多いと思います。
「彼女」という言葉を文字通り「彼女(she)」ととららえるか「恋人」「ガールフレンド」ととらえるかは文脈によるところが大きいと思います。
でも、ロシア語では一度文脈に登場した人は全て人称代名詞で言うんです。
そして、学生の中に「女の子」というロシア語の言葉の訳が「彼女」であると間違って覚えている人が多いのです。

もう一つ問題なのは「交際する」
その学生はロシア語のобщатьсяを直訳したのです。
辞書でその意味を見ると「交際する」「付き合う」と出ています。
特に具体的な文脈がないところで日本語で「交際しています」と言われれば、「彼と彼女の関係」ととらえられてしまうのは普通のこと。
しかし、ロシア語にはそのような意味がほとんどありません。
うちの奥さんに聞いても、「その前に具体的な文脈があったら、『彼と彼女の関係』と考えられなくもないけど、普通はただ『付き合いがある』という意味」。
私はこのобщатьсяという動詞を「恋人のような関係」という意味で使われているのを聞いたことはありません。
かなり遠まわしな言い方であれば、ありえますが・・・

あと、日本語の場合は状況への依存性が強いという性格があります。
その言葉が書き言葉なのか会話の言葉なのか、文学で使われる言葉なのかなど、どのような状況で使われるのかが非常に重要な意味を持っています。
例えば、学生が「火災」という言葉を聞いたとします。
そこで、学生が「昨日、近所で火災がありました」と言うと、何か普通の会話とニュースが混ざったような感じがします。
私は新しい語彙が出てきたときに、どんな状況や文脈で使われる言葉なのかを必ず説明します。

長々と書きましたが、これが単語を覚えることの危険性の話です。
訳だけを覚えるのは意味がないし、そこで単語集を渡すだけというのも意味がないのです。
単語集を渡した教師はそこで安心するし、学生たちは単語の訳を覚えてわかったつもりになり安心します。
そもそも、ロシア語がわからない教師はそこに書かれている訳語が正しいかどうかも調べられないし、それを学生たちがどう受け取っているかを推測することもできません(←私はロシア語ネイティブがどのようにそのロシア語の訳語をとらえるかを考えた上で説明していきます)。

単語の訳を暗記しただけでは、わかったことにはなりません。
それは死んでいる語彙を増やしているだけです。
語学の教育で重要な・・・
1.聞く
2.読む
3.話す
4.書く
この4つが全てできて、初めてその単語を理解したことになると私は考えています。

この「翻訳・文法解説」は二つの経路で学生の手にわたることがあります。
1.教師が配布する
2.学生がインターネット上でダウンロードする

2番のように、学生が勝手に見つけてしまった場合は「使わないように」と念を押すしかありません。
それでも、使っている学生がいますが、誰が使っているかは観察していれば結構わかります。

問題なのは1番の場合。
時々、そういう教師がいます。
そのほうが一つ一つの単語を自分で説明する手間をはぶけるし、そもそもロシア語で説明できないし。
そりゃあ、楽かもしれないけど、そのせいで間違いを引き起こすことはあるということを認識するべきだと思います。

最近の日本語教材には英語と中国語と韓国語でいちいち訳が付いている本が結構あります。
それさえなければ、ページ数も減って、本の値段も下がるだろうにと思うような本もあります。

でも、これって「優しい」んでしょうか?
学生が日本語のニュアンスを無視して、外国語を通して日本語の言葉を理解することで引き起こす間違いを無視していませんか?
そして、学生たちが汗水たらして、自分で辞書を引く機会を奪うことになっていませんか?

この話、次回も続けます。

akiravich at 18:47コメント(0)トラックバック(0) 
日本語教師の仕事 

2013年11月29日

おはようございます。
はぐれミーシャです。

今、朝の5時30分。
昨日は珍しく早く寝たのですが、そのせいで2時半に目が覚めてしまい、その後、本を読み始めたらとまらなくなりました。
結局、最後まで読み通し、今は完全に目が覚めてしまった状態です。

読んでいたのはこれ。
ドラマ「半沢直樹」の原作本。
ドラマとはかなり違う部分がありますが、おもしろかったです!
正直、ドラマを見るのが先でよかったなあと思いました。
原作とドラマを比べて、「間違い探し」をすることほどつまらないことはないですからね。

さて、今日も日本語教師の話です。

私が使っている教科書は「みんなの日本語」という教科書です。
少し古くなっては来ていますが、それでもやはり日本語を教える教科書としては決定版という感じです。

この「みんなの日本語」の魅力の一つは副教材の充実度合い。
問題集や副読本、CDなども別売りされています。

ただ、ビデオだけはいただけません。
各課の会話がビデオになっているのですが、初めて見たときは絶句しました。
クオリティーのひどさにびっくりします。
かなりの低予算でやっているのがわかりますし、監督なんかも日本語教育に関しては素人なのが見え見え。

登場人物は外国人と日本人の両方なのですが、まともな発音の人がほとんどいません。
外国人でまともなのは中国人のワンさんとドイツ人のシュミットさん(←発音が良すぎて、逆に気持ち悪い)だけです。
あとの外国人、特に主人公のミラーさん役の俳優は「どこからこんなひどい役者を連れてきたんだろう?」と言いたくなるほど演技が下手ですし、日本語の発音があまりにもひどいです。

そして、日本人の登場人物もかなりひどいです。
みんな、句や節、または単語ごとに大きい間を入れて話すのです。
よくある「みなさん(間)わたしは(間)日本から(間)来ました」という外国人の日本語学習者に配慮したような読み方です。

しかし、こういう読み方は「百害あって一利なし」です。
理由は簡単。
日本人の中にそんな特殊な話し方をする人間はいないからです。
例えば、教師がそのような話し方をしていたら、学生はそのような話し方に慣れてしまいます。
学生にとってはまず耳から入る音声情報が重要なのです。

それは赤ちゃんと同じこと。
赤ちゃんにとってはお母さんが話している言葉がまず最初の出発点になります。
それを学生に当てはめて考えると、教師が話している日本語がスタートになるのですから、スタートの時点でリアリティのない日本語を聞かせてしまうのはいいことではありません。

私は最初から割りとナチュラルなスピードで話すようにしています。
わざとスピードを落として話すようなことはしません。

私は自分の授業に日本人をゲストとして呼ぶことがよくあります。
前もって「できるだけ間を空けないで、普通のスピードで話してください」とお願いするときもありますが、普通は特にお願いはしないです。
学生の前で間を空けた話し方をしている人には「間を空けないで話してください」とすぐにお願いするようにしています。

外国人に対して間を空けて話す日本人の中には二つのタイプがいると思います。
1.純粋に親切心でやっている人
2.ちょっと日本語教育をかじって、「私は日本人だから日本語を教えてやろう」というド素人

この2番目のタイプが私は嫌いです。
最初から私に向かって「お手伝いします」という言い方をする人が結構います。
私としてはただ「遊びに行く」という感覚で来て欲しいのですが。

それにしても、「みんなの日本語」のビデオ。
あのビデオを学生に見せると、みんな爆笑します。
演技がひどいし、発音がひどいのは初心者の学生にだってわかります。

もちろん、課によってはなかなかのクオリティのものもあります。
50課のうち、3、4課ぐらいでしょうか。
ミラーさんとサントスさんが出ていない課はまあまあです。

お笑いのビデオとして見ると、結構笑えます。
学生たちの中には「先生、ビデオを見せてください!」と楽しみにしている子もいます。
もちろん、それは「教材」としてではなく、「笑いの種」としてです。

うーん、本当は違う話を書く予定だったのですが、ビデオのことに触れてしまい、止まらなくなってしまった。
本来書く予定だったものは明日にします!

akiravich at 12:20コメント(0) 
日本語教師の仕事 

2013年11月26日

こんばんは。
はぐれミーシャです。

今日、ミンスクは雪が降りました。
初雪だと思っていたのですが、うちの奥さんの話ではすでに初雪は終わっているとのこと。
なーんだ。
外は結構寒かったです。

今日はまた日本語教育の話をしたいと思います。
いろいろ考えるところがあるので・・・

日本語にはいろいろな文体や話し方があります。
学生たちには大ざっぱに分けると丁寧体と普通体という風に分けて教えます。

大ざっぱに言うと、丁寧体は「です・ます」を使ったスタイル。
普通体は「〜じゃない」とか「〜だった」とか、もっと友達と話すときに使うような感じのスタイルのことを言います。

外国人に日本語を教える場合、最初に丁寧体を教え、その後で普通体を教えることが多いです。
私が使っている「みんなの日本語」という教科書では、最初は丁寧体で、普通体が出てくるのは第20課です。
私の大学の授業だと1年生の後期、個人教室のほうだと2年生の前期に普通体が登場します。

これは私の個人的な意見なのですが、最初に丁寧体を勉強するのは二つ理由があるように思います。
1.外国人が日本で生活する場合、丁寧に話す場面も多く、丁寧に話しておけば間違いないだろうという点。
2.丁寧体に慣れてから普通体を覚えるほうが、逆にするよりも順番としていい。

ちょっと2番目の理由がわかりにくいかもしれません。
丁寧体に慣れている学生が普通体に慣れるのはそれほど難しくないが、普通体に慣れてしまった学生が丁寧体で話せるようになるのは難しい、ということです。
これは理論的にどうこうというわけではなく、私の経験上のことです。

最初の半年から1年間、みっちり丁寧体で話せるようにしておきます。
その後、普通体を勉強するわけですが、普通体を学ぶことによって丁寧体が崩れることはまずありません。

逆に、普通体でばかり話していた人が丁寧体で話せるようになるケースというのは私はほとんど知りません。
大体、普通体でばかり私と、つまり教師と話すか、丁寧体で話しているのに、普通体がミックスされているというのがほとんどです。

普通体というのは文自体が短いし、発音もしやすい(←本当に正しく発音している学生というのはなかなかいないものですが・・・)。
アニメやドラマから日本語の世界に入ってきた学生にとっては普通体のほうが耳にする機会が多いわけです。
日本人の友達がいる場合なんかは聞く日本語がほとんど普通体になります。


丁寧体と普通体、使い分けられて一人前

私は丁寧体と普通体、どちらもきちんと使えるようになる必要があると思っています。
状況や相手に応じて使い分けられるようにならなければ、意味がありません。
目上の人に対して普通体で話すようなことはあってはいけないと思います。

例えば、学生が将来、日本の会社で働くことになったとします。
その学生が上司に何か聞かれて、思わず「知らない」などと答えたらどうでしょうか?
「外国人だから仕方がない」と許すのでしょうか?

これを許すのは「優しさ」ではありません。
これを許してしまうのは日本人の心のどこかに「日本語は難しいのだから、外国人にわかるはずがない」という気持ちが潜んでいるからではないかと思うのです。
その外国人のことを考えるのであれば、それを直してあげるほうがよっぽど「優しい」と言えると思います。

日本人は目上の人と話すときのフォーマルな言葉遣いと、友達と話すときのくだけた言葉遣いを使い分けています。
それを外国人だから使い分けなくても、あるいは使い分けられなくてもいいというのはナンセンスです。

日本語教師に求められるニーズはいろいろだと思います。
私は大学に勤務し、日本語専攻の学生を教えている教師として、学生たちを「日本語のプロ」に育てるのが仕事です。
丁寧体と普通体、どちらも使えるようでなければ、「使える」人材にならないのです。


丁寧に話すホステスさんは変ですか?


一度普通体に慣れてしまうと、丁寧体に慣れさせるのはかなり難しいと思います。
私はそのような経験を散々してきました。
それはホステスさんを教えたときの経験です。

以前、ベラルーシからは多くの女性が日本へ働きに行っていました。
ここ数年は全く出会うことはなくなりましたが、以前はかなり頻繁に日本へ行った経験のあるホステスさんから「日本語を教えて欲しい」という電話が来ていました。

彼女たちのほとんどは「会話の勉強をしたい」「もっと日本語で話したい」というお願いをしてきました。
しかし、私は日本語教師。
ただ会話するだけでは普通の日本人と変わらなくなってしまいます。
文法などもきっちりと教えるように努力していました。

そうなると、もちろん、つまらなくて辞めてしまう人もいますし、ついていけなくなってしまう人もいます。
でも、そこは曲げないようにしていました。

10年以上前の話になりますが、私の学生でオーリャさんという女の子がいました(←ベラルーシではオーリャという名前の女性は非常に多いです)。
彼女は日本でホステスさんをしたことがあり、その後、日本語を勉強したいということで、私のところに通い始めました。

彼女はとても楽しい子で、まじめで、頭がいい子でした。
普通は普通体、しかも飲み屋で話すような日本語に慣れてしまった女の子は丁寧体で話せるようにならないことが多いのですが、彼女は唯一の例外でした。
どちらもきれいに使い分けて話せるようになったのです。

それからしばらくして、彼女はまたお店で働くために日本へ行きました。
そして、その年の夏、私は彼女に新宿で会いました。

そのとき、彼女からいきなり「先生のせいでお客さんが少なくなりましたよ!」と言われたのです。
最初は何のことかわかりませんでした。

それは彼女が丁寧に話すようになったことも一つの原因だったようで。
以前、彼女のところに来ていたお客さんから、「日本語が上手すぎて、面白くないなあ」と言われてしまったんだそうです。
そういう飲み屋に来ている人は外国人の女の子が日本語が下手なのは承知の上なのでしょう。
むしろ彼女たちの片言の日本語が楽しいのかもしれません。

オーリャさんは「冗談ですよ! 離れていったお客さんもいますけど、先生には感謝しています」と言ってくれたので助かりました(←最初は本気で怒っているような話し方だったので)。

将来、彼女が日本で仕事を見つけるとしたら、正しい日本語は最大の武器になると思います。
だから、私の教え方は間違っていなかったのだと思っています(←でも、オーリャさん、ごめんね!)。


使い分けができないことのリスク

私の学生で、普通体で私と話す学生はいません。
時々、学生が思わず「わからない」とか「できるかもしれない」などと普通体で言ってきた場合は、すぐに直すか、「私たちは友達ですか?」と言って直させます。

「学生だから間違うこともある」とか「まだ日本語で話す経験がないんだから、仕方がない」などと言う教師がいるようですが、私から言わせれば・・・
あまーい!!!

なんじゃ、そりゃ!?
教師が学生の間違いを許しちゃってどうするの!?

想像してみてください。
会社で働いている平社員が社長に向かって、「知らない」とか「やったことないんだけど」とか言ったら、どうなります?
日本人だったら、ありえないですよね。
それが外国人だったら、許されるのでしょうか?

学生に丁寧体と普通体の使い分けを徹底させるのは絶対に必要なことだと思います。
間違いを許してしまうような「ゆとり教育」は要りません。
使い分けができない学生を育てることは、その学生に言葉遣いの間違いを犯すリスクを背負わせることです。
その学生がいつか日本に住んで働きたいと思っているのなら、目上の人と話すときの丁寧体、友達と話すときの普通体、どちらも使えるようにしてあげるべきだと思います。


「優しい」日本語教師は好きですか?

私のある学生が去年、日本へ日本語の短期研修に行きました。
まあ、その学生に限らず、日本へ語学留学に行った学生のほぼ全員が言うことがあります。
それは・・・
「みんな普通体で話していました。でも、先生は全然直していませんでした」

私の授業ではあり得ないことなので、みんなびっくりするのです。
教師は学生にとって、目上の人間のはず。
それが授業中に「〜だよね」みたいな話し方で学生たちが話していることが私の学生にとっては信じられないのです。

私は90年代の後半に日本語教師の勉強をしていました。
その頃はよく「正確さ」よりも「流暢さ」ということがよく言われていました。
つまり、多少「正確さ」がなくても、学生が「流暢に」話せるようにすることを求めるべきであるという考え方です。
平たく言えば、ちょっと間違ってもいいから、どんどん日本語で話させなさいということになるかと思います。

今は日本語教育界でどういうやり方が主流なのかは私はわかりません。
ある人から「今はそんなことないですよ」と言われたことがありますが、正直、今でもそれほど変わっていないのかなと思います。
というのは、留学した学生のほとんどが「日本の先生は学生が間違っても直さないんです」と不満を漏らすからです。

ちょっと話がずれてしまいました。
間違いを直すかどうかということに関しては、またいつか書いてみたいと思います。

それにしても。
学生が教師と普通体で話すなんて、私にとってはあり得ない話。
まあ、100歩譲って、「普通体だって日本語なんだから」と考えることにしましょう。
でも、教師と普通体で話す学生が「使い分け」ができる学生だとは思えないのです。
「使い分け」ができる学生がわざわざ教師と普通体で話すことはないと思います。


一度、ごちゃごちゃになったものは治らない

ある元学生。
彼女はある大学で日本語を学びながら、私のところに個人的に通ってきていました。
通い始めた頃、すでに丁寧体と普通体の使い分けはできていませんでした。
私と話すときは何とか丁寧体で話そうとするのですが、時折、普通体が混ざってきてしまうのです。

その後、彼女は日本へ一年間留学しました。
ベラルーシに帰ってきてから、会うことはあまりなかったのですが、数ヶ月前、偶然彼女に街中で会いました。
その彼女の日本語は完全に丁寧体と普通体のミックス。
9割は普通体で、時々丁寧になるという感じ。

意思を伝えることだけを目標にするのであれば、丁寧体だろうが、普通体だろうが関係はありません。
しかし、それでは片手落ちだと思うのです。

学生というのは、最初に教えられたことが強烈に後まで残ることが多いのです。
例えば、教師が間違ったことを最初に教えてしまったら、その後、どんなに直しても直らないということがよくあります。
これは文法もそうだし、発音なんかまさにそうです。

だからこそ、丁寧体と普通体の使い分けは丁寧に扱います。
一度ごっちゃになってしまうと、直すのが難しい、というかほぼ不可能になってしまうからです。
教科書の第20課に出てきたとき、徹底的に鍛えます。
私に対して普通体で話そうものなら、すぐに厳しい注意が飛んでいきます。

練習としては、私との簡単な会話をするという方法があります。
私は教師だから、普通体で話しても許されるわけです。
私は普通体で学生たちに話しかけ、それに対して学生たちは丁寧体で答えます。
そこで立場の違いによる言葉遣いの違いというのを教えます。
第20課以降は私は丁寧体・普通体の両方で学生たちと話します。

普通体はその規則さえ知っていれば、日本に行って日本人と接しているうちに使えるようになることが多いです。
私の学生たちは私が普通体で話すのを聞いていますから、日本へ行っても対応できることが多いです。

普通体を使う相手は日本に行って見つければいいのです。
もしベラルーシにいる間に日本人の友達が見つかれば、それは普通体を使うチャンスでしょうが、別に急ぐ必要はありません。
初級の段階で話し相手の日本人を見つけることはむしろ危険なことかもしれません。
基礎が出来上がっていないうちに、そして、丁寧体も満足に使いこなせないうちに普通体を頭に入れることで混乱をきたすこともあるのです(←実際、そういう学生を何人も見てきました)。

ベラルーシの日本語学習者の中には初級の早い段階で丁寧体と普通体が混ざってしまっている人が結構います。
私の学生からすると、それはあり得ないことで、そういうごっちゃになっている学生の日本語を聞くと、みんなびっくりしてしまいます。
そういう学生はまだ経験がないから使い分けられないのではありません。
初級で使い分けられない学生は、中級になっても、上級になっても使い分けられるようにはなりません。

学生が私に対して友達を相手にするような話し方をするのを許してしまうほど、私は心が広くありません。
学生が相手が誰かもわきまえない言葉遣いをするのを見逃すほどバカでもありません。

もちろん、何事にもプラスとマイナスはあるものです。
私は日本人に「先生の学生はまじめな日本語を話しますね」と言われることが多く、私の学生たちは同世代の日本人に「もうちょっとくだけた日本語で話してほしい」と言われることがあります。
ずっと丁寧体で話してきている学生がいきなり友だちっぽい話し方をするのは難しいかもしれません。
でも、普通体というのは慣れがすごくあって、日本語の基礎がしっかりしている学生は普通体に次第に慣れていくものですし、それによって丁寧体が壊れるということはありません。


長々と書いてしまいました。
なんでこんなことを書いているのかというと、かわいそうな学生が多いんですよ。
まだ初級なのに、すでに普通体とごっちゃになっていて、直しようがない学生に出会うことがあるのです。
ある教室から私の教室に移ってきた子なんか、丁寧体より普通体のほうが多くて。
しかも、その普通体が文法的に間違っているときてる。

日本人は外国人の日本語に対して非常に寛容な気がします。
それって、いいことなんでしょうか?

ベラルーシ人は外国人がロシア語で文法的な間違いを犯した場合、容赦なく訂正してくることがあります。
そして、ロシア語がしっかり話せないと、下に見てくる人も多いです。

この違い、何なのでしょうか?
考えてみると面白そうなテーマです。

こういうこと書いてると、「通じればいいじゃないか」とか「間違いを直すことで学生が委縮する」とか言われそうだなあ。
通じればいいという考え方もあるのは否定しません。
むしろ積極的に肯定したいぐらいです。
しかし、それは日本語を日常的なコミュニケーションの手段として使う人や正確な日本語を話す必要がない人であればの話です。
私がここに書いているのは、日本語のプロを目指す人、日本語を使って仕事をしようとしている学生のことです。

直されたぐらいで委縮するなら、その程度の人間なのでしょう。
ベラルーシの学生の中には間違いを直されて怒る学生もいるのですが、そういう学生は私は相手にしません(←私が教えている学生の中にはそんな人はめったにいませんが)。


またまた話がずれました。
この手の話をすると、キリがないほど話が広がってしまいます。
他にもいくつか書きたいことがあります。
それはまた今度!

akiravich at 09:18コメント(6)トラックバック(0) 
日本語教師の仕事 

2013年11月22日

こんばんは。
はぐれミーシャです。

今日はお休み。
毎週木曜日、はぐれミーシャはお休みなのです。
しかし、世間の人々にとっては普通の日。
容赦なく、私のところにも電話がかかってくることが多いのですが、今日は電話が少なかったなあ。

逆に、普通の人が休んでいる土曜日と日曜日は私にとっては一番仕事が多い大変な日。
土曜日と日曜日は授業が6コマ(←1コマ=90分)なのです。
これは本当にきついです。
最後の授業なんか、エネルギーを振り絞ってやっている時があります。

そうなると、龍二くんと一緒にいる時間は限られてしまいます。
龍二くんはすでに幼稚園に通っているのですが、土日は休み。
でも、私は仕事。
休みの日にゆっくり龍二くんと遊べるといいんだけどなあ・・・

でも、仕事は容赦なくやってくる。
こればっかりはしょうがないですよね。

愚痴っぽくなっていますが、日本語を教えているのは楽しいです。
一番楽しい時間かな。
いやーなことを全部忘れます。

水曜日、つまり昨日は大学で5コマ連続授業。
そのうち、4コマは4年生の授業。
同じ学生と4コマはきついですよ。
4コマって、6時間ですよ。
一日に同じ先生の授業を6時間も受けるのって、学生にとっても大変だろうなあ。

だから、できるだけ精神的負担が大きくならないようにと思って、最後のコマはビデオを見せたりして、軽めの授業にしています。
もちろん、「ビデオ垂れ流し授業」ではありません。
ちゃんと勉強になるように、説明などを加えていきます。

昨日の授業でのこと。
私が「宿題が少ないよね」と学生たちに冗談ぽく言うと、学生たちは「はい、少ないです」
えっ!?
冗談で言ったんだけど・・・
私はむしろ宿題が多すぎて苦しんでいないかなと思っていたのです。

はぐれミーシャ「冗談で言ったんだけど、本当に少ないと思うの? 少ないと思う人、手を挙げて!」
5人のうち4人が挙手。
冗談でしょ!?

私の授業ではとにかく読む宿題が多いです。
教科書のテキストは徹底的に読ませます。
チェックのポイントはイントネーション、母音の長さ、撥音、促音など、とにかく、パーフェクトに正しく読めるまで読ませます。
今出版される教科書はテキストを読んだCDなどが付いている場合が多いので助かります。
もしない場合は、私が全てICレコーダーで録音したものを渡します。
それを聞いて、全く同じ読み方にして来いというのが私の要求です。

宿題は読む宿題、漢字の勉強が主。
あと、新しい文法を勉強した場合、その教科書の問題(←例を書かせるものが多い)をやらせます。
結構、宿題が多いなあと思っていたんですが・・・

はぐれミーシャ「じゃあ、宿題を増やしてもいいんですね?」
学生たち「はいっ!」

うーん、こんなことは初めてだなあ。
普通、宿題を減らして欲しいと言われることはあるんですよ。

日本語を始めたばかりの学生に私はいつも「私の一番最初の仕事は皆さんをマゾヒストにすることです」と冗談で言うんですよ。
まあ、半分本気です。

それはどういうことかと言うと、日本語の勉強って、まともにやったら辛いことが多いわけですよ。
特に漢字なんかそうですよね。
私が小学校のときなんか、毎朝の漢字小テストが拷問のように感じたものです。

これは私の持論なのですが、好きじゃないものはどんなにがんばっても上手にならない。
あっ、これって、「好きこそものの上手なれ」って言うことで、全然私のオリジナル持論ではないですね。

私はロシア語を勉強したとき、無理やり自分は格変化が好きなのだと思うように努力しました。
ロシア語の格変化って、勉強したことがある人ならわかると思いますが、みんな嫌いですよね?
「自分が格変化に慣れることができないのは、好きじゃないからだ。だったら、好きになればいいのだ」という非常に単純な発想です。
格変化させた言葉の中に日本人にとって面白く聞こえるものを探したりして、何とか楽しもうと努力した結果、本当に好きになりました。

その理論(←?)を日本語を教えるときも使っているというわけです。
漢字の勉強はここの漢字を別々に勉強するのではなく、単語を覚えさせるようにしています。
結果、漢字だけでなく、語彙の勉強にもなります。
その語彙に関係があるエピソードなど(←ほとんどが私の個人的な体験談)を話して、少しでも興味を持ってもらえるようにしています。

漢字を勉強し始めて最初のころは「漢字のテストしまーす」と言うと、みんな「えーっ!」とか嫌そうなリアクションが多いのですが、一年も経つと、「もっと新しい漢字を勉強したいです!」などと言ってくるようになります。
はぐれミーシャ「漢字をもっと勉強したい!? 皆さんはマゾヒストですか?」
学生「はい! そして、先生はサディストです!!!」
これでは「アメとムチ」ではなく、「ムチとロウソク」になってしまいますよ!(←私はそういう趣味はありません・・・念のために・・・)

それにしても、「宿題がもっと欲しい」と言われたのには驚いた。
時々、そういうことはあるんですが、久しぶりに聞きました。

そこで、学生たちに「最近、作文を書いていなかったから、作文を書いてもらいます」と言ったら、みんな「えーっ!」「作文はちょっと・・・」
はぐれミーシャ「矛盾してるだろ!!!」
そのときの授業でちょうど「矛盾」という言葉を勉強したんです。

「新しい言葉を教えるとき、訳を覚えるのは意味がない」と私は学生たちに教えています。
言葉というのは「体験」なのです。
文脈や状況から切り離された「言葉」というのは「死んだ言葉」と同じ。
訳を覚えても、その言葉を知っていることにはなりません。
その言葉を聞いてわかって、読んでわかって、書くことができて、会話の中で使えるようになったとき、初めて『わかる』と言えるんです。
勉強した言葉はできるだけチャンスを見つけて、使うようにしています。

はぐれミーシャ「じゃあ、このテキストとこのテキスト、金曜日に音読してもらいます」
学生たち「えーっ!!!」「それは大変ですよ!!!」
はぐれミーシャ「矛盾してるだろ!!!」

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日本語教師の仕事 

2013年11月08日

こんにちは。
はぐれミーシャです。
今日は休みなので、連続投稿します!
日本時間ではすでに8日ですが、ベラルーシはまだ7日です。

もう11月に入っていますが、まだ今年の夏の出来事で書いていないことがあるので、書いてみたいと思います。

今年の夏も日本へ一時帰国していました。
帰国する最大の楽しみの一つは「食」。
一年間我慢したストレスを一気に発散するのです。

もちろん、ベラルーシで作れる日本料理もあります。
例えば、豚のしょうが焼きとか。
でも、寿司は・・・やっぱり日本で食べたいですよ。

日本へ帰ると食事は魚が中心になります。
肉はベラルーシでも食えますから。

ちなみに、ベラルーシでは豚肉が多いですね。
一般家庭であれば、一番食べる頻度が高いのが豚肉です。
あとは牛肉と鶏肉、仔牛肉も食べます。
羊肉はほとんど食べません。

ベラルーシは豚肉や鶏肉はおいしいのですが、牛肉はいまいちのことが多いです。
硬いんですよ。
サシは全くと言っていいほど入っていません。
完全な赤身。
だから、下手な調理の仕方をすると、かたくて食べられたものではないのです。

もちろん、ちゃんと調理するとおいしいですよ。
私が時々やるのは、ローストビーフ。
これは赤身で十分美味しい。
そもそも、ローストビーフって、赤身の牛肉を使うものですよね!?

まあ、それはいいとして。

今年の夏、私とベロニカちゃんと龍二くんは三人で仙台に行きました。
それは新日本プロレスのG1クライマックスを見に行くためです!
そして、龍二くんと一緒にアンパンマンミュージアムに行くためです。

仙台に着いたのは12時ぐらい。
それから、すぐアンパンマンミュージアムに行きました。
15時ごろにミュージアムからホテルへ。
全部徒歩だったので、疲労困憊。
しかも、暑かったし。

プロレスを見に行く前に腹ごしらえしようと思ったのですが、ホテルに行く途中、目に入ってきたのは「ビッグボーイ」!
ハンバーグがメインのファミリーレストランです。

ホテルに荷物を置いて、早速行ってみました。
私は初めての「「ビッグボーイ」。
「帰りま10!」で「ビッグボーイ」が取り上げられた時も見ていて、おいしそうだなあと思っていたのです。
本当なら、日本では肉はあまり食べないのですが(←焼肉は食べますが)、ビッグボーイは行ってみたかったのです。

まず中に入ると、龍二くんに店内のガチャガチャ用のコインのプレゼント。
着席するなり、メニューを見ることもできず、すぐにガチャガチャへ。
飛行機のおもちゃが出てきて、龍二くん、ごきげん。

龍二くんはずっと「アイスクリーム、食べたーい!」と言っていたので、すぐにアイスクリームを注文。
私はスタンダードな大俵ハンバーグ、ベロニカちゃんはオムライス。

ウェイトレスさんが去ると、私は「俺、ビッグボーイハンバーグステーキ」
ベロニカちゃん「何、それ?」
はぐれミーシャ「ビューティフルライフで木村拓哉が言ってたセリフだよ!」(←セリフ、間違っていたらすみません)
ベロニカちゃん「似てなーい!」

ドラマ「ビューティフルライフ」、傑作ですよね。
あれを見て、私とベロニカちゃんは泣きましたよ。
私の学生の中にもファンは多いです。

そして、ビッグボーイのお楽しみはサラダバーやカレーバーなどの食べ放題メニュー。
あれはすごいですねえ。
サラダやスープ、カレーも食べ放題。

ベロニカちゃんに「調子に乗って食べていると、オムライスが食べられなくなるよ」と言っていたのに、ベロニカちゃんはサラダ食べ過ぎて、「もう食べられなーい」。
龍二くんはデザートメニューのフルーツを食べまくり。
私も好きな野菜をどんどん盛って、野菜を食べまくり。

Изображение 848やっと来ました! 大俵ハンバーグ!!!
まず、ビジュアルが素敵。
網目模様って、テンション上がりますよね!(←網タイツの女性を見た時もテンションが上がるでしょ?)

食べてみると・・・
うまーい!!!

これはおいしい!!!
肉のうまみがギュッとしてる。
明らかに赤身ですよね。
赤身って、肉のうまみがしっかりしていると思うのです。

日本人って、サシが入った牛肉が好きですよね。
でも、牛肉のうまみって脂だけじゃないと思うんですよ。

マグロにしたって、大トロ、中トロ、赤身など、いろんな部位を楽しむじゃないですか。
私はトロも好きだけど、赤身のヅケも大好き。
牛肉も赤身には赤身の良さがあると思うのです。

おかしいと思うことがもう一つ。
グルメ番組を見ていると、レポーターが牛肉を食べて「やわらかーい!」と言っていることがありますよね。
ほとんど「やわらかい=おいしい」という意味になってしまっているのが理解に苦しむんですよ。
歯ごたえがしっかりしているものもおいしいものはありますしね。
食感って、大事じゃないですか。
でも、それって、味を感じる時の構成要素の一つに過ぎないと思うのです。
肉はやわらかければいいっていうのはどうかと思うのです。
硬くてもおいしい肉はあるよ、と。

大俵ハンバーグはいい歯ごたえで、肉の味がする。
チェーン店でこの味は予想外でした。
ベロニカちゃんにも食べさせたのですが、「おいしい!」とびっくりしていました。

その後、山形でもビッグボーイに行きました。
私たち家族はすっかりビッグボーイの虜です。
日本に帰ったら、また行こう〜っと!

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2013年日本の旅 | 料理

2013年11月07日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日はベラルーシは祝日。
10月革命の記念日です。
「10月革命って、今はもう11月でしょ?」と突っ込みたくなる方もいらっしゃると思います。
これは旧暦で1917年の10月25日に起こった革命で、今の暦では11月7日になるのです。
この暦の話って、私はよくわからないので、深入りしないことにします。
とにかく、休みでよかった。
わーい、わーい。

Изображение 1508この前は秋晴れの写真をご紹介しましたが、今のミンスクはこんな感じです。
これがベラルーシの秋。
暗いんです。
曇りの日が多くて、どよーんとしています。
ウツになりそうな天気です。
チャイコフスキーのピアノ曲「四季」の10月の雰囲気そのままです。

DSC01161これは一週間ぐらい前にみんなで散歩した時の写真。
龍二くんは落ち葉を集めるのが大好き。

くらーい秋も悪くないなあ。
うちの中でまったりしているのであれば・・・
外に出るのは非常に億劫になります。

今のBGMはこの伊福部昭の「サンタ・マリア」。
先日の投稿に書いた「日本現代音楽の夕べ」で演奏してもらえるような曲を探していて、偶然見つけたのがこのビデオ。
心にしみる音楽で、この秋の空にはぴったり。
楽譜はどうやって手に入れたらいいんだろう?

この前の日曜日、秋の夜長、私たちはある食べ物を食べてみることにしました。
それは・・・キャビア!!!

今年の夏、通訳の仕事でウクライナに行ったとき、空港の免税店で買ったのです。
一度でいいから本物のキャビアを食べてみたい!というのは長年の夢でした。

Изображение 1503何か本物っぽい!
っていうか、本物!
免税店で偽物は売っていないでしょうから。
値段もこの小さいサイズのもので、88ユーロですからね。
本物でしょうね。

キャビアって、偽物も多いんですよね。
ミンスク市内の市場でもキャビア売っていますが、明らかに偽物。
市場関係者に聞いても、「市場で売っているキャビアはキャビアじゃない」と言っていましたから。
旅行者の方で「キャビア、ものすごく安い!」と思って、買ってしまう人もいるようですが、偽物が多いですから、気を付けてくださいね。

Изображение 1506これがキャビア!
初めての体験!

恐る恐る、スプーンですくって食べると・・・
普通!!!
こんなに普通なの!?
感動のあまり涙を流すほどおいしいのかと思って、期待していたので、かなりの肩すかし。

うーん、悩むなあ。
本物のキャビアであることは間違いないのでしょうが、キャビアもピンからキリまでいろいろあるということでしょうか。
見た目も結構粒が小さいんですよ。
もっとおいしいキャビアがあるのかなと思いました。

ちなみに、ベラルーシではチョウザメの養殖はしているようですが、ベラルーシ産のキャビアというのは聞いたことがありません。

Изображение 1502この日はもう一つの主役食材がありました。
それはフォアグラのパテ。
今年の1月にウィーンの空港の免税店で買ったのです。
ウィーンの空港は店はそんなにないのですが、私は大好きです。
トリュフオイルとか、ザッハトルテとか、私の好物がたくさんありますから。

Изображение 1505これも普通。
これって、フォアグラが何%入っているんだろう?
パッケージに書いてあることが全然読めないので、中に何が入っているのかもわからず。
おいしいことはおいしいんですけどね。
期待しすぎたせいか、がっかりの度合いのほうが強いなあ。

Изображение 1507パテとキャビアを一緒にしてみました。
これはおいしい!!!
パテのまったりした感じがキャビアの塩味で引き締まり、なかなかの味です。

そもそも、キャビアをそのまま食べたのが間違いなのかな?
何かに合わせたほうが味がいきるのかもしれません。

Изображение 1501この日の夕食はなかなか豪華で、ベロニカちゃんが作ったジャガイモ料理も一緒に。
見た目豪華でしょ?
ジャガイモとスペアリブをオーブンで調理したものです。
肉が柔らかくておいしかった!

Изображение 1500この日のヒットはこのツナ缶とゆで卵、マヨネーズなどを混ぜたもの。
これがおいしかった!
やっぱり日本人はツナ缶ですよ!!!

シーチキン、食べたいなあ。
そこに醤油とマヨネーズ、一味唐辛子を入れるのが大好き。
混ぜすぎないで、醤油の味のところとマヨネーズの味のところがあるのが好きです。

フォアグラ、本当のが食べてみたいなあ。
何かの料理にチョロっと使われているのは食べたことがあるけど、フォアグラのソテーのような、そのものを食べるような料理はまだ食べたことがないので。

あと、トリュフ。
これはウィーンの免税店で買ったものがうちにあります。
でも、どうやって使うのかいまいちわからなくて、食べないでとってある状態です。

世界三大珍味、とか言いますけど、これって誰が決めたんですかね?
とりあえず、全部制覇したいです。

Изображение 1516これは昨日の写真。
ベラルーシ国立大学に留学しているY君が遊びに来てくれました。
かなり久しぶりに彼と話したのですが、いろんな話が聞けて楽しかったです。
ちなみに、この写真を撮ったのは龍二くんです!!!

写真を見るとわかるのですが、私、だいぶ太ってしまったんですよね。
ダイエットしないと!!!

akiravich at 20:39コメント(2)トラックバック(0) 
料理 

2013年11月03日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日もベラルーシはいい天気。
秋のベラルーシは曇りで暗い日が多いのですが、今年は秋晴れの日が結構多いです。

実は昨日、書こうと思っていて書けなかったことがあるのです。
ラーメンネタで一人で盛り上がってしまい、調子に乗って書いていたら、時間が遅くなってしまったので・・・

唐突ですが・・・
ベラルーシで文化祭がやりたーい!!!

以前から日本文化を紹介する催し物をやりたいと思っていたのですよ。
忙しいのにかこつけて、何もしてこなかったのですが、やっぱり何かやりたいのですよ。

アイデアはいろいろあります。
例えば日本語での演劇、日本語カラオケ大会、日本料理講習会など。

ずっといろんなアイデアを温めてきたのですが、その中でも一番古いアイデアは・・・「日本現代音楽展」という企画。
文字通り、日本の現代音楽を紹介するコンサートです。

私の個人教室の学生の中には音楽関係の人が数人いるのです。
彼らの音大の友達なども集めれば、演奏会は開けないことはありません。

ベラルーシでは日本の音楽をまとめたコンサートというのは行われたことがないと思います。
何かの催し物の中のアトラクションとしてはありましたが、その内容はいわゆる「日本文化紹介」的なもの。
そういう趣旨だと、演目は「さくらさくら」とか「荒城の月」とか。
そういう発想をする人は「日本文化をわかりやすく紹介するため」とか言って、これが「THE日本文化」だみたいなことを言うわけです。

でも、それって、片手落ちだと思うのですよ。
聴き手である現地の人たちにもわかりやすく、理解しやすい日本文化をということなのでしょうが、それって、ある意味、聴衆をなめている部分もあるように思いませんか?
もちろん、日本を代表する音楽を聴いてもらうことも大事ですが、それだけではダメだと思うのです。
様々な側面を紹介していくことも必要だと思うのです。

これまでも何度か日本の音楽を紹介する、という感じのコンサートはありました。
中にはしょーもないのもあるんですよ。
某国家が企画したコンサート、本当にしょーもなくて、あきれてものも言えませんでした。
日本の若者たちのグループだったんですが、レベルが低くてびっくり。
確かに、外国だったら、日本文化を知らない人が相手だったら、あんなレベルでも、あんな演奏でも受けると思います。
しかし、あんな低いレベルでも外国ならば「日本文化だ!」と評価されてしまうのが許せないですね。

外国へ行けば競争相手も少ないですし、特にベラルーシのような日本文化がまだまだ知られていない国であれば、ちやほやされますからね。
でも、それって、日本文化の紹介にはなっていないと思うのです。
「まあ、こんなもんでもいいだろ」みたいな感じがして、嫌な感じがします。

またちょっと脱線しました。

元々、私は日本の現代音楽が好きです。
15歳の時、ある日曜日の夜、NHK教育の「芸術劇場」で耳にした一柳慧の「ピアノ協奏曲第二番『冬の肖像』」、西村朗の「二台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー」が私にとっての原体験。
ほどなくして、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」や伊福部昭の「土俗的三連画」を耳にして、強烈な印象を受けました。

ベラルーシ人は芸術に関しては保守的な傾向があるように思います。
芸術関係者ではない、一般の人に関して言えば、現代的なものはあまり受け付けないことが多いのです。
例えば、ベラルーシ生まれの画家、シャガール(←知らない人が多いんですが、ベラルーシの北部ヴィテプスクの生まれ)が好きなベラルーシ人にはあまり出会うことがありません。
学生に「シャガールは好きですか?」と聞くと、ほとんどの人は「好きじゃありません」と答えます。

好き嫌い、受けるか受けないかは全く別として、「こんなものもあるんだよ」というのを提示したいのです。
私も若いころ、様々な音楽を聴いて、世界が広がりました。
そんな経験をするチャンス、ベラルーシにはほとんどないんですよ。
視野が狭い人も非常に多いのです。

ある日、私はミンスク郊外の小さい町で、短い講演会をしました。
そのとき、音大で勉強している男の子と知り合いになって。
そこで、私が「私は現代音楽が好きなんです。例えばメシアンとか」と言うと、彼は得意げに「メシアン? もちろん、知っていますよ」と言うのです。
そこで、「どんな作品が好きなんですか?」と聞くと、答えは「・・・」。
彼「音楽史の授業でそういう名前の作曲家がいると聞いただけだから・・・」

これはベラルーシ人にはありがちなこと。
ちょっと知っているだけで、さもそれに詳しいかのような振る舞いをするのです。
それではどうにもならない。
「知らない」ということを認識することで、そこから始められると思うのですが、「知っている」という前提からスタートすれば、それは何の広がりも生み出さないのです。

これは日本語の勉強も同じ。
一番最初の授業で「私、日本語ちょっとわかります」みたいなことを言う学生はたいてい全く上手にならず、すぐに消えていくことが多いのです。

ちょっと脱線しました。

昨日、私は湯浅譲二の「内触覚的宇宙」と一柳慧の「パガニーニパーソナル」を聴きました。
どちらも受け入れやすい作品かなと思いました。
特に「パガニーニパーソナル」はいいですね。

何かワクワクします。
自分が好きな音楽でコンサートの構成を考えるなんて、夢のような話。

どういう構成にしようか考えています。
もちろん、一回限りにはしないで、連続企画にしたいのです。
どういう企画にするか、いくつかのパターンを考えました。
1.毎回、一人の作曲家の作品にしぼる
2.楽器ごとにする。例えば、今回はピアノ、次回はヴァイオリンといったように
3.音楽的な共通点を持つ内容の曲を集める

1番はまだ日本の現代音楽が全く知られていない状態では難しいかと思います。
2番がやりやすいかな。
3番は例えば時代的に近いものを集めるとか、一人の作曲家とその門下生で作品を集めるとか。
でも、これはちょっと難しいかな。

最初はいろんな楽器のものをやってみて、そのリアクションを見て、先の流れを決めるという感じにしようと思っています。


私の学生のレーラちゃんの演奏。
彼女は私の個人教室の学生です。
試験の時に弾いたシベリウスのヴァイオリン協奏曲です。
彼女はベラルーシの若手の中でもかなり上のレベルの子です。
今は音楽学校で子供に教えているのですが、本当ならもっと上に行ける子なんですよね。
外国に留学したいと思っているのですが、なかなか奨学金を得るチャンスがなくて。

彼女はこれだけの才能があるのにもったいないんですよ。
もちろん、世界を見れば、彼女のレベルはまだまだかもしれません。
でも、まだ開花していない何かがあるような気がするんです。
彼女にはぜひ私が企画するコンサートに協力してもらいたいと思っています。

あと、私のところで昔勉強していた学生のレーナちゃんのご主人がピアニストなので、彼にも頼んでみようっと。
レーナちゃんは今、子供を産んで、勉強を休んでいますが、久しぶりに話してみようかな。

最終的にはオーケストラ作品のコンサートまでたどり着ければいいんですけどね。
どうですかね?

一つ、問題は楽譜。
邦人作曲家の作品の楽譜って、高いのが多いんですよ。
日本に帰った時に、数曲分買い集めてきましたが、まだまだ足りない。
また注文するしかないな・・・

楽譜があるだけまだまし。
絶版になっていたり、入手困難なものもかなりありますから。

このブログを読んでいる方々はベラルーシに興味を持ってくださる方がほとんどで、現代音楽がお好きな方がいらっしゃるかどうかはわかりませんが、もしどなたかいい曲をご存知でしたらアドバイスをいただけるとありがたいです!

他にも文化祭企画、いろんなのをやりたいと思っています。
大風呂敷広げるのもちょっと不安はあるのですが、何かやってみたいですね。
では、また!

akiravich at 05:00コメント(6)トラックバック(0) 
ベラルーシの文化 

2013年11月01日

こんばんは。
はぐれミーシャです。
奇跡の三連続投稿です!!!

この二連休はゆっくり休ませてもらいました。
久しぶりに心から休めた感じがします。

今日は朝からどこへも行きませんでした。
プチ引きこもり状態です。

朝からスープをとっていました。
冷凍庫に貯まっていた鶏の骨を大量に使用して。
ベラルーシではもも肉は骨付きしかなく、から揚げとかにするときは全て骨を取り除かないといけないのです。
その余った骨は冷凍しておいて、スープ用にストックしておくのです。

Изображение 1499出来上がったスープがこちら。
写真がひどいなあ。
かなりの白濁スープ。
10時間、寸胴で煮込みましたよ。
昨日、カマロフスキー市場で豚の背骨と豚足を購入しておいたので、それをベースにして、最後に野菜も足してみました。
これはかなりおいしいスープになった!
野菜を足す前のほうがおいしかったかも・・・

Изображение 1498スープをとるのに使った豚足をインターセプトし、先週作った豚の角煮の残り汁に漬け込みました。
明日ぐらいには味が染みて、いい感じになるでしょう。
うーん、酒が飲みたい!!!(←と書きながら、シングルモルトを飲んでいます←豚足は明日までおあずけ!)

Изображение 1495つけ麺です!!!
つけ麺と言っても、麺はスパゲッティです!!!
これがね、不思議と美味しいんですよ。
ベラルーシにいて、味覚が麻痺しているのかも。
でも、これはこれで食べられるのですよ。
つけ汁が濃厚で、ねっとりとまとわりつく感じ。
上に浮かんでいるのは、油で焦がしたネギと鰹節。
これがいい味を出すのです!

つけ麺はいいのですが、これをラーメンにはしないほうがいいですね。
これは今までいろいろと試してみたのですが、スパゲッティだと全く麺にスープがからまず、スパゲッティ感満載になってしまうのです。
でも、つけ麺状態だと、スパゲッティであることを少し忘れます。
実際、日本人のお客さんが来た時に食べてもらったら、麺がスパゲッティであることに最後まで誰も気が付きませんでした。

ラーメン、ベラルーシ人には受けると思うんですよね。
実際、私がスープをとって、レストラン関係者に食べてもらったことがあるのですが、かなりリアクションがよくて。
麺がスパゲッティであのリアクションなのですから、ちゃんとした麺だったら、すごいことになりますよ。

その麺が問題だよなあ。
製麺機を日本から持ってこないといけないし・・・

っていうか、俺は何を目指しているのだ!?


でも、今日のスープは本当においしかったんです。
また作ろうっと。

日本のラーメン屋がベラルーシに出店してくれたらいいんだけどなあ。
無理だろうなあ・・・

でも、モスクワに丸亀製麺があるんですよね?
丸亀製麺って、食べたことがないので、何とも言えないのですが、インターネットで見た限りでは、相当おいしそうな気が・・・

モスクワとミンスクでは都市の規模が違いすぎるなあ。
おそらく、日本の外食産業の関係者から見たら、ベラルーシに出店するのは意味がないことになるのでしょうが・・・

でも、ミンスクにあればいいと思うチェーン店を勝手にランキング!!!
第一位 吉野家
第二位 一蘭(豚骨ラーメン)
第三位 モスバーガー
第四位 富士そば
第五位 タワーレコード

っていうか、ここまで話を広げておいて、ラーメン屋が一軒しか入っていなーい!
第五位のタワーレコードは食べ物屋じゃなーい!!!(←でも、欲しかったんですもの・・・)

吉野家はいいですよね。
今年、日本に一時帰国したときに、私が「吉野家、好きなんですよ」というと、多くの人が「最近はすき家のほうがおいしいんですよ」と言ってきました。
どうなんですかね・・・

一蘭はあの一人一人別々のシステム以外は好き。
私はあれは落ち着かないです。
もちろん、女性でも入りやすいとかたくさんのメリットがあるので、別にいいとは思います。

モスバーガー!
いいですよね。
私は照り焼きチキンバーガーとロースカツバーガーが大好き!
あれがベラルーシにあったら、毎日行くのになあ。

富士そばは時々、無性に食べたくなりますね。
そもそも、私は立ち食いそばが大好きなのです。

好きな店の味、ベラルーシで再現してみるっていうのも面白いかも。
無駄な抵抗だとは思いますが・・・



他にもいろいろ書きたいことがあるので、明日も投稿するかも。
のんびり書いていきたいと思います。

akiravich at 06:58コメント(7)トラックバック(0) 
料理 
livedoor プロフィール

akiravich

山形県出身。
2000年からベラルーシ共和国の首都、ミンスク在住。ベラルーシ国立大学文学部・日本語教師。目指すのはベラルーシの金八(略してベラ金)。
愛する妻ベロニカちゃんと愛する龍二くん(5歳)とのベラルーシ生活!
日本の皆さまにベラルーシ一般国民目線のベラルーシを御紹介!

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