2008年05月28日

ロシア語の日本文学

03745329.JPG今日も仕事はあまりなし。
でも、細々とやることがあって、なかなか楽にならないなあ。

今日は4年生の最後の授業。
本当は5月の最終週は、授業をしない先生も多いんですけど、僕はしっかりやります。
でも、いつもの教科書などではなく、何か面白いことをやりたいと思ったんですよんね。
最後だし、みんな試験期間に入って勉強することが多いから準備が大変だし。

で、今日は日本の文学作品を、原文とロシア語に翻訳されたもので読んで比較してみました。
簡単に言えば、今日の授業は失敗。
もうちょっと作戦を練るべきでした。

材料に使ったのは、村上春樹の「ダンスダンスダンス」
ロシア語圏では、ここ数年、村上春樹はとても人気があって、どこに行っても売ってるんです。
でも、本当にちゃんと訳しているのかなあ、と前々から思っていたので。
新刊本とかが出ても、すぐロシア語に翻訳されたのが出てくるんですよね。

皆さんは「ダンスダンスダンス」、読まれましたか?
かなりすごい翻訳になっているので、ちょっと御紹介します。

例えば、冒頭の部分。
原文「つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている」
ロシア語「По какому-то странному стечению обстоятельств я -- его часть」
ロシア語を日本のに直すと・・・「ある変な状況が重なって、僕はその一部である」
日本語でもわかりにくいところですよね。
でも、「状況が重なって」ではないな。

こんなのはまだ序の口。
原文「あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる」
ロシア語「Такой узкий и длинный, что вроде и не отель, а каменный мост под крышей」(下線、はぐれミーシャ)
この下線部分は「石造りの」。
そんな言葉はどこにもありません。

原文「その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている」
ロシア語「Фантастический мост, который тянется из глубины веков до последнего мига Вселенной」(下線、はぐれミーシャ)
下線部分は「ファンタスティックな」「幻想的な」
もちろん、そんな言葉はどこを探してもありません。
この翻訳そのものがファンタスティック!

最後にもう一つ。
原文「誰かが僕のために泣いているのだ」
ロシア語「Плачет и зовет меня」
ロシア語を日本語に訳すと・・・「(誰かが)泣いていて、僕を呼んでいるのだ」
誰も呼んでません。

これはごく一部です。
細かいことを挙げたらキリがないほど、翻訳者の主観が入っているのです。
学生の一人が「なんか、裏切られたような感じがします」と言っていましたが、まさにその通り。
これは読者に対して、そして作者に対して、二重の裏切りです。

翻訳というのは、作者が意図しているものを汲み取って、他の言語でそれを伝える作業。
自分の主観や解釈を入れるのは、御法度なのです(と私は思う)。

翻訳って、悲しい作業なんですよね。
意味もニュアンスもタイミングも受ける印象も、全てがぴったり来る訳語なんて、本当にないんですよ。
最初から「無理だ」ということをわかった上でしなければならない、絶望的な仕事なんです。
ロシア語できれいにしようとすれば、原文から遠くなってしまい、原文に忠実であろうとすれば、ロシア語のほうが不自然になってしまう。
まさに両刃の剣。
どこまで原文から離れてもいいか、その距離感の問題なのです。
どこに線を引くか。
バランス感覚が要求されます。

そうゆう意味で、ロシア人の翻訳者の姿勢にはかなり首を傾げてしまうことがあります。
ロシア語として美しければいい、という考え方が顕著に見て取れるからです。
日本語がどうだったかは問題にならない、という考え方には、私は断固として反対します。

今日は公正を期すために、ロシア語から日本語に訳されたものを持っていきました。
それはチェーホフ「三人姉妹」、神西清さんの名訳です。
昨日の夜、読んでいて、これはすごいなあと思いました。
古い翻訳ですが、これを超える翻訳は出ていない、という話を聞いたことがあります。
ただ、小田島雄志さんが英語から訳したものを読んでみたいなあ。
重訳(ある言語で書かれたものを他の言語から翻訳すること)って、よくないことだとは思うんですけど、その翻訳が「チェーホフ」になっていたら、アリだと思うし。

例えば。
ロシア語「ты лежала в обмороке, как мертвая.」
日本語の翻訳「あなたは気が遠くなって死んだみたいに臥ていたっけ」
これは「気が遠くなって」ではなくて、「気を失って」のほうが正しいですね。
最初のページを見て、はっきり違うなあ、と思ったのはここだけ(不遜な発言、お許しください)。
後は原文に非常に忠実です。
忠実でありながら、日本語として、舞台で役者が発声したときにどのように聞こえるかも考えられた名訳だと思います。

一つ問題が。
ロシア語で「читает книжку」という文があって、その訳が「小型な本を読んでいる」となっていたんです。
僕もちょっと引っかかったんですが、この「книжка」という言葉、「книга」、つまり「本」という言葉の指小形というもの。
つまり、その形を使うことで、言葉がちょっとかわいくなるんですね。
「本」をかわいくしたら「本ちゃん」でしょうか。
私はその指小形を使うと、「小さい」という意味が入ることがある(いつもではない)と捉えていたので、「小型な」でも間違いではないと思っていたのですが、学生達が口々に「そんな意味はない」というのです。
授業の後でうちの奥さんと話したのですが、ベロニカちゃんは「もちろん、『小さい』っていう意味に捉えることもできるよ」と言ってます。
ちょっと、これはいろんな人に聞いてみないといけませんね。
チェーホフがわざわざ指小形を使ったことに何か意味があるのではないか、と勘繰りたくもなります。

学生達は「そんな意味はない」と言います。
まあ、別に間違いだったとしても、それはそれほど遠いことではないと思うんですね。
他の学生達に聞いても「いや、それはただの『本』という意味で、『小さい』という意味はないと思いますよ」と言います。
まあ、それはそれでいいでしょう。
私も「小さい」というニュアンスはあると思っていました。
小さいものに対して、かわいいものに対して、指小形を使う、と私も教えられたのです。
神西さんもそう考えていたから、そうゆう訳になったのだと思います。

しかし。
「先生、日本人の翻訳者がやったことは、ロシア人の翻訳者がやっていることと何が違うんですか」(確かそんな感じだったと思う)と言われて、先生、切れる。
「もし、この部分が間違いだったとしても、それは内容を変えてしまうようなものじゃないでしょ? ロシア人翻訳者がやっていることは、明らかな裏切り行為。一緒にしないで欲しい」(確かこんな感じだったと思う)
「間違ってしまった」というのと、原文にないことを自分の好きなように付け加える確信犯と、一緒にしてはいけないと思うのです。

同じレベルで考えるのがバカらしいほど、この二つの翻訳は違っています。
レベルとか完成度とか、そうゆう問題ではありません。
「姿勢」の問題です。
翻訳をするとき、作者の伝えたいことを伝えるのか、自分の感じたことを伝えるのか、どちらがあるべき姿なのでしょうか?
もちろん、前者でしょう。

比較する対象も悪かったかもしれません。
村上春樹とチェーホフですから。
しかも、チェーホフは戯曲なので、勝手が違うし。
でも、神西さんが現代文学を訳したとしても、原文に書いてあることに自分の解釈を付け加えたりすることは絶対にないと思います。

私も翻訳をやる人間の端くれとして、自分のスタイルには自信を持っています。
私が翻訳をするときは原文を徹底的に読んで、できる限り原文に近い訳を選びます。
そして、原文から受ける印象と翻訳文から受ける印象が一致するように、周りの人に聞いて回ります。
そうやって行くと、だんだん言葉の迷路にはまり込むんですよ。
どうがんばっても、同じ意味にはならないんです。
だからと言って、妥協するわけにも行かない。
以前、翻訳をやっていて、一つの言葉をどう訳すかで、一ヶ月以上悩んだこともあります。
そんな仕事です、翻訳は。

翻訳された言葉で完成度が高くなければ、意味がないのも確か。
いくら原文に忠実でも、読む人に伝わらなければ意味はないですね。
微妙なんですよ。
原文にも忠実で、訳語もきれいに、というところには、なかなか着地できません。

ロシア語できれいだと読んでいるほうも読みやすいとは思うんですよ。
でも、それじゃあ、ロシア文学読んでるのとかわらないでしょう。
外国文学って、それなりのテイストがあると思うんですよね。
日本文学であることを意識して訳す必要、あると思います。

学生にわかってもらいたかったけど、私の詰めが甘かった。
学生達も「ロシア人がダメで、日本人がいい」という身びいきの発言だと捉えたのかもしれません。
日本人でもダメな翻訳者はいるんですけどね・・・
私が伝えたかったのは、翻訳をするときの心得のようなもの。
伝わった人と伝わらなかった人がいたようです。
悲しいですね・・・最後の授業だったから、もうちょっといい授業をするべきだったのに・・・

学生の前で激高するのは、よくないですね。
もうちょっと冷静にならないと・・・

久しぶりに翻訳やろう!
でも、正直怖いんですよ。
やり始めると、異常な緊張感と集中力が必要とされるので、精神的にかなりのエネルギーを消費するのです。
この苦しみをどういたそうか、のう。
あ〜!!! やるぞ! 学生には負けられん!

akiravich at 00:23コメント(2)トラックバック(0) 
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コメント一覧

1. Posted by Nadia   2008年05月28日 08:20
今日の授業のことなんですが、私達は先生に誤解された感じがします。授業は本当に面白かったですよ。確かにいい翻訳もあるし、悪い翻訳もありますね。私はそんなにひどい翻訳を読んだことに気付いて、がっかりしました。いつか読み直そうと思います。ただ、原文を読んだほうがいいですね。色々な小説を日本語で自由に読みたいですが、まだまだレベルが低いですね。
2. Posted by akiravich   2008年05月28日 11:33
「授業は失敗だった」と書いたのは、私の自己評価なので、気にしないで。
自分には厳しくしないと。
もっといい授業ができたはずなんです。

もっと深く日本語もロシア語も理解できるように、私もなりたいです。
今年の夏はがんばりますよ! 
みんな日本語が上手になってきて、私もがんばらないと、みんなに追い越されそうな気がして怖いです。
私もがんばって原文でロシア文学を読みたいと思います。
そして、68キロまでやせて、筋肉質のマッチョな体を作る。
みんなをびっくりさせますよ!

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livedoor プロフィール

akiravich

山形県出身。
2000年からベラルーシ共和国の首都、ミンスク在住。ベラルーシ国立大学文学部・日本語教師。目指すのはベラルーシの金八(略してベラ金)。
愛する妻ベロニカちゃんと愛する龍二くん(5歳)とのベラルーシ生活!
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