チェルノブイリ

2016年03月11日

おはようございます。

震災から5年目の朝を迎えました。

5年というと長い感じがしますが、時間の長さというのは一人一人にとって相対的なものであって、おそろしく長い1秒もあれば、おそろしく短い1日もあるように思います。
これまでの5年間の長さ、そして重さは人によってまちまちなのではないかと思います。
私にとってのこの5年間は確実に長く、重いものでした。

あの震災の日のことは今でも忘れることができません。
山形にいる家族や仙台に住む友人や親戚の安否が気がかりでした。
テレビで流れる津波の映像のすさまじさに言葉を失いました。

そして、それに続く福島原発事故。
テレビで流れる映像を見て、すぐに私の頭に浮かんだのは「チェルノブイリと同じことになるのではないか・・・」という強烈な恐怖でした。
そして、その時は私が直接的に通訳として、この件に関わっていくことは正直予想していませんでした。

福島原発事故後の最初の通訳の仕事は農林水産省の方々の通訳でした。
聞いたこともない日本語・ロシア語の言葉が飛び交い、非常に戸惑ったのを覚えています。
移行係数などという言葉もそれまでは聞いたことがないものでした。
直接の訳語がわからない時は、その言葉の意味や内容を説明をして切り抜けました。
おそらく、福島の方々も移行係数や半減期など、それまでの人生で聞いたこともない言葉を耳にして、大いに困惑されたのではないかと思います。

2011年の秋には非常に大規模な視察団がベラルーシにやってきました。
その通訳では大きなプレゼンテーションでの通訳がありました。
そして、かなりの土地が汚染されているゴメリ州の中心都市ゴメリや、汚染地域に隣接する小さな町コブリンにも行きました。
その道の専門家の方々の通訳は非常に難しい内容でしたが、自分も山形の人間として、東北の人間として、何よりも日本人としてこの問題に関わっていこうという決意を強く持つきっかけになった仕事でした。

国会事故調の方々の通訳もさせていただきました。
メンバーの方々の真剣さが伝わってきて、「この人たちは本当に日本の、そして福島のために努力しておられるのだな」と思い、感銘を受けました。

福島県議会の議員の皆様ともご一緒しました。
政治家の立場から強い想いを持ってベラルーシまでいらしたのが印象的でした。

福井県の議員の方々とご一緒した時は体調を崩してしまい、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。
ゴメリにはご一緒することができ、原発を多く抱える県の事情というものを垣間見ることができました。
おととしになりますが、福井県にお邪魔させていただき、現在のベラルーシの状況をお話しさせていただく機会もいただきました。

福島市の視察団は2回、ご一緒させていただきました。
人数が多かったので、私の学生たちも通訳アシスタントとしてご一緒させていただきました。
彼らにとっても福島の現状を知ることは非常にいい経験だったのだろうと思いますが、それと同時に、自分たちが住んでいるベラルーシという国の現状を知ることができたのは大きな収穫だったのではないかと思います。
ベラルーシに住んでいても、チェルノブイリということを肌で感じる機会が少なくなっており、特に今の若い世代のベラルーシ人にとってはチェルノブイリは歴史的出来事として捉えられることが多いのです。
これを風化と呼ぶべきか、時が優しく解決してくれたと言うべきか・・・私にはわかりません。

このようにこの5年間を振り返ってみると、私にとっても激動の5年間でした。
通訳で出会った方々とはその後もいろんな形で交流させていただきました。
それは日本人の方々もそうですし、ベラルーシ人の方々ともいろいろお付き合いさせていただいています。
ベラルーシ人の中では特にゴメリの放射線学研究所の元所長さんで、国立ゴメリ大学の生物学部長のアヴェリンさんには非常によくしていただいています。

多くの人との関係は私にとって人生の財産のようなものです。
私は父親に「俺の一番の財産は友だちだ。お金の財産はないけど、友だちはそれ以上の価値がある」と教えられてきました。
ベラルーシという日本から遠く離れた国で、父親の言葉をかみしめています。

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そのような仕事の中で、私もベラルーシに住む人間として、多くのことを考えさせられました。
ベラルーシの検査体制や除染のやり方もそうですが、日本との考え方の違いなどもかなり見て取れました。

ベラルーシでは事故から約30年が過ぎ、「すでに復興ではない」という考え方をしています。
「今は発展の段階である」というのが今の考え方です。
30年経った今だからこそ言える言葉だと思います。
これまでの苦闘の道のりがあったからこその言葉なのでしょう。

実際、汚染地域にある町などを訪れると、全く暗さは感じません。
むしろ、町が整備されていて、非常にきれいな印象を受けます。
もちろん、田舎の町なので整備されていないところもありますが、そのことはチェルノブイリとは全く無関係です。

そして、放射能に対する考え方も日本人とベラルーシ人では違っていると思います。
汚染地域の住民の中で、放射能を恐れている人というのは出会ったことがありません。
子どもたちに聞いても、「正しい知識を持っていれば、怖がることは全くない」という意見が返ってきます。

もちろん、こう書くことによって、ベラルーシの方が上だとか、そういうことを言いたいのではありません。
事故後の時間の長さが違いすぎます。
この状況に至るまでの道のりはベラルーシも楽ではなかったはずです。

今の現状などは私も目にしますし、話しもよく聞きます。
ただ、そこに至るまでどのような過程があったのかがよくわからないのです。
事故直後の話しもよく出ますが、私が今興味を持っているのは事故から数年経った後のベラルーシの汚染地域です。
例えば、チェルノブイリ事故から5年経ったベラルーシはどうだったのでしょうか?
そこに視点をおいて、調査してみたいという気持ちでいます。

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つい最近、産経新聞の記事に気になる内容のものがありました。
福島県でコメの検査をしていることに関して、役所の人が生産者から「いつまで検査を続ければいいんだ」と言われる、という内容でした。
福島県では今もコメの全量全袋検査が行われています。
基準値は1キロ当たり100ベクレルですが、基準値を超えたものは26年度産のものからは一つも出ていません。

「いつまで検査を続ければいいんだ」という発言が出てくるということは、いつか検査をやめることを前提に話をしているということではないでしょうか。
確かに、基準値を超えた放射性物質の量のものが検査しても出てこないのであれば、検査自体の意義を問うような発言が出てきても不思議ではありません。

ベラルーシの場合、現在基準値を超える放射線量が検出されるのは森で採ったキノコやベリー類、そして野生の動物の肉が主です。
その他の一般食品に関しては基準値越えはほとんどありません。
例えば、牛乳の場合、基準値を超えるのは個人の自宅で飼っている牛の牛乳の場合だけです。
汚染されている牧草を食べた牛の牛乳から検出される場合があります。
もちろん、ここの牧草は食べてはいけない、ここで放牧してはいけないなどと、地元の役所などは広報活動をしているのですが、それでも違反したり、間違ったりする人がいた場合は牛乳の検査で違反や間違いが分かってしまうことがあるのです。

ベラルーシのとある検査場でのこと。
検査場の職員の方の説明「キノコやベリーなどの『森の恵み』以外の食品で基準値を超えるものが出ることはありません」。
そこで日本人の方が質問しました。
「基準値を超えるものが出ないのなら、検査をやめてもいいのではないですか? どうして検査を続けているんですか?」
検査場の職員の方の答えは・・・
「それは違いますよ。検査を続けているからこそ(基準値越えが)出ないんです」(カッコ内筆者)

私はこの検査場の職員の方の答えに感銘すら覚えました。
安全を守るための検査であり、安心するための検査ではないということでしょうか。
「基準値越えが出ないからもうやめよう」というのではなく、「基準値越えが出ないように、監視していこう」。
もちろん、チェルノブイリと福島では汚染の度合いや放出された放射性物質の種類も違うので、単純に比較はできません。
しかし、検査を続けることの意味は非常に大きいと思います。

放射性物質の検査を続け、その結果安全で安心して食べられるものであるということをアピールするしか方法はないような気もします。
客観的なデータ、客観的な事実の積み重ねしか、突破口はないように思います。
しかし、現状を覆すのは並大抵のことではないように思います。
風評被害の話を聞いていると、イメージや感覚的なものに支配されやすいのは日本人のメンタリティーなのかなと思ってしまいます。

ベラルーシ人は客観的な事実に対しては信頼をおきます。
汚染地域で言えば、「なんとなく怖い」とかそういう曖昧なイメージで何かを判断することはありません。
測定し、その結果、食べられるか食べられないか判断する、というごく普通の生活の営みです。

もちろん、最初から客観的なデータを見て冷静に判断するということができていたのかどうかは、ベラルーシ人であっても疑わしいところはあります。
ベラルーシ人もここに至るまでは様々な変遷があったのではないかと思います。
ベラルーシでは事故後数年間は汚染地域の人たちへの差別などもあったと聞いています。
日本はまだまだ精神的に事故後の混乱状態を抜け出せていない部分が残っているのではないでしょうか。
時と共に、そして食品の検査などを行う人々の努力によって、少しずつ解決していく問題なのかなと思います。

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つい最近、自分の学生たちに質問してみました。
「(汚染地域が多い)ゴメリ州の製品を何も気にしないで買いますか?」
22人中、「気にする」と答えたのは1人。
正直、1人いること自体に非常に驚きました。

私がベラルーシに住み始めたのは2000年の8月。
その頃は「気にする」と答える学生はグループの半分ぐらいでした。
「私の母はゴメリ州の物は買いません」「表示を確認してから買います」

でも、今ではほとんどの人が気にしなくなりました。
それがいいのか悪いのかは別問題だと思います。
国の政策として、チェルノブイリという問題を国民に常に意識させるような方向性を取っていないというのもあります。
簡単に言えば、「風化促進」とでも言えばいいのでしょうか。
しかし、客観的なデータの積み重ね、食品加工業の向上におけるトリプルチェックなど、そのような不断の努力が実を結んだという側面もきっとあると私は思っています。
そういう意味では、福島の現状というのは道半ばなのかなと思います。

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もう一つ気になることが。
福島の方から「福島のことに関しては、あまり自由にモノが言えないんですよ」ということを聞いたことが何度かあります。
インターネット上で何か書くと叩かれるから書かない。
何らかの形で発言すると、賛成してくれる人もいるかもしれないが、反対する人も出てくるから、何も言えない。

うーん、日本は言論の自由がある国ですよね?
言論の自由があるかどうかと発言しにくい雰囲気というのはちょっと論理が飛躍しているかもしれませんが、自由に発言できない空気というのは健全な状態とは言えないと思います。
私はドンドン発言し、議論していくべきことではないかと思います。

インターネット上の発言の中には事実に基づいていないものもあると思います。
怪しい情報も見かけたことがあります。
ベラルーシについては「奇形児が生まれている」とか、「生まれてくる子供たちの多くが健康問題を抱えている」など、とんでもない情報も多くみられます。
この問題に関しては、2012年12月25日「ベラルーシはそんなにかわいそうな国ですか?」をご覧ください。

インターネットというのは怖い媒体だと思います。
そこに書いてあることが真実かどうかは知る術もないことが多く、そこに何か書く人の中には自分というフィルターを通した内容、厳しい言い方をすれば、自分に都合のいいことしか書かない人もいます。
それをあたかも事実であるかのように、疑いもなく受容するのは非常に危険なことだと私は思います。

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今年は福島原発事故から5年、チェルノブイリ原発事故から30年という節目の年を迎えました。
毎年3月11日が近づくと、震災や福島原発事故に関する記事やニュースが多くなります。

日本人は節目が好きなんだなあと感じます。
ちなみに、ロシア語では「節目」という言葉は訳すのが難しいです。
どういえばいいのでしょうか・・・

しかし、現実にそこに住んでいる人たちにとっては普段の生活。
切れ目も節目もなく、絶えることなく続く現実です。

福島の新聞では常に原発のことが記事になっていますね。
しかし、他のところではどうでしょうか。
数年前、西日本のある県に行ったとき、福島の話をしたところ、まるで他人事の反応。
日本人としての連帯感はないのだろうかと、がっかりしたことを覚えています。

これは福島だけの問題ではなく、日本人全体の問題であるということを意識すること。
そのために重要なのは教育だと思います。
事故後最初の数年間は除染など喫緊の問題に取り組むためにベラルーシに視察に来る方が多かったのですが、ここ数年は教育や法律の専門家の方が増えてきています。

2014〜2015年はベラルーシを訪れる日本人の数が急激に減りました。
2012〜2013年は視察団の数も多く、通訳の仕事も多かったのですが、その後、仕事の数も減少しました。
特に、汚染地域を多く抱えるゴメリ州の人たちからは「日本人の人はめっきり来なくなっちゃったね」と言われるようになりました。

しかし、ベラルーシと日本の関係はこれからのような気がします。
ベラルーシはある意味、日本の先人。
チェルノブイリ事故後30年間の経験の蓄積があります。
住民に対する情報提供のあり方、教育活動のあり方など、その先人から学ぶべきことはまだまだあるように思います。

2016年という節目の年に当たり、今年ベラルーシを訪れる日本人の数はまた増加しました。
しかし、これが一過性の現象ではなく、常にある取り組みとして続いていくことが望ましいのではないかと思います。

これまでは日本から来た人たちが福島の復興に役立つ情報をもらうだけという一方通行的な関係が多かったと思います。
それでは「交流」とは言えないと思うのです。
これからは日本の現状をベラルーシの人々に伝えていくことも重要になっていくと思います。
ベラルーシの方からよく言われるのは「今、福島がどうなっているのか知りたい」「知りたくても、情報があまりにも乏しい」。

チェルノブイリ関連でベラルーシにいらっしゃる日本人の方々に「できれば、福島の現状を皆さんの前でお話しいただけませんか?」とお願いすることがあります。
以前は「視察に来ているのだから」「こちらが情報をもらいたいのであって、こちらから発信する余裕がない」という趣旨のことをおっしゃる方が多かったのですが、ここ数年は私からのお願いに応じて下さる方も増え、去年は私が勤務する大学や汚染地域の教師のみなさんの前でお話しくださった方もおられました。
ベラルーシと日本がより成熟した関係になっていくためには、お互いの現状を知ることから始めないといけないように思います。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
そして、福島原発事故で自らの町や村を離れることになってしまった方々に、いつか故郷に戻れる日が訪れることを心より願っております。


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2015年09月03日

おはようございます。
はぐれミーシャです。

全く寝られません。
新学期でテンションが上がりすぎました。

そうそう。
新学期なんですよ!
ベラルーシは9月1日から学校も大学もスタートです。

昨日は大学で授業。
久々すぎて、最初はちょっと感覚がつかみにくかったですが、だんだん調子に乗って、結局はいつものテンションで授業ができました。

そのあとは個人教室の授業。
20時からはゼロからスタートの初心者グループ。
初顔合わせでした。

これって、毎年緊張するんですよ。
どんな人が来るかわからないし。
それに、やっぱり新入生というのは向こうのドキドキがこっちにも伝わってくるものです。

部屋にはいっぱいの学生。
28人来る予定だったのですが、実際は29人。
「一人多い!」とか、「一人少ない!」というのは毎年あるんです。
テクニカルなミスなのですが、これは反省しないと・・・

1時間半の授業はあっという間に終わりました。
途切れることのないテンションで乗り切りました。
教室は熱気にあふれていました・・・というか暑かった!

そうなんです。
最近、ベラルーシはなぜか暑いんです。
朝はそこそこ涼しいのですが、昼は28度ぐらいまで気温が上昇。
半袖で出かけないと、昼頃には激しく後悔します。



昨日の授業には私の知り合いの娘さんが来ていました。
今年の春、彼女からSNSで日本語が勉強したいというメッセージが来て。
「私の父はアナトリーです。父からあなたの話をよく聞いていました」
それに対して、私は「お父さんによろしく伝えてください」と書いたところ、「父は今年、亡くなりました・・・」。

アナトリーさんとは一緒に仕事をした仲です。
彼はスタジオを持っており、そこで私が仕事で自分の声のレコーディングをしていたのです。
芸能関係のプロデューサーでもありました。

私が録音しているとフラッと現れて、冗談ばかり言って、場の空気を和ませてくれました。
時々、買ってきてくれたチョコレートのカップケーキがおいしかったのをよく覚えています。

一度だけ、5年ほど前に偶然町で会ったことがありました。
その時は「ぜひ今度食事に行こう」と言っていたのですが、その目的は果たすことはできませんでした。
やはり行ける時に行っておくべきだったなあと後悔しています。
でも、まだそんな年でもないだろうに・・・

その彼の娘さんが日本語の勉強に来るというのも感慨深いものがあります。
しっかり日本語を勉強してもらうことが彼に対する供養にもなるかな、なんて思っています。


おとといの夕方、突然知らない女の子から電話が。
女の子「元気? 私のこと、覚えてる?」
ベラルーシでは電話で名前を言わずにいきなりこういう質問を投げかけてくる人が時折います。

でも、これって、ちょっとドキッとしません?
声だけ聴いて、「誰だっけ?」と考えてはみたものの、やはりそれだけでは全く分からず。

女の子「マリーナよ!」
はぐれミーシャ「マリーナと言っても、俺の知り合いはマリーナはすっごい多いから・・・」
苗字まで聞いて、やっとどのマリーナかわかりました!
14年前、ミンスクからバスで40分ほどのところにあるアクサコフシナの病院で折り紙を教えた子どもだったのです。

03020010これは2001年4月26日の写真です。
真ん中の赤い服の子がマリーナちゃん。
本当に楽しそうな顔をしています!
彼女はすごく私になついてきて、私が病院にいる間、本当に楽しそうにしていたので、非常に印象に残っていた子でした。
その後も文通をしていたのです。

03020009ちょうどこの日はチェルノブイリ事故のあった4月26日だったので、みんなで病院の前の道路にチョークで絵を描きました。
彼女はチェルノブイリ原発をそのまま描いていました。
それもすごく印象に残っています。

時々、彼女のことを思い出して、SNSで彼女を探したりしたのですが、全然見つからなかったのです。
それが突然の電話!
とてもびっくりしました。

彼女は自転車競技のプロ選手になったのですが、怪我で引退。
つい最近、結婚したということでした。

それにしても、14年も経って連絡をくれるのはうれしいなあ。
SNSで私を見つけてメッセージをくれる元子どもは時々います。
中には医者になった女の子もいます。
そういえば、彼女も結婚したんだよなあ。
ずいぶん時間が経ったんだなあと感慨深いものがあります。


こんな感じで私の新学期は始まりました。
9月からの前期は全く休みなし。
つまり、月曜日から金曜日まで毎日大学で授業があるのです。
そして、私は個人教室で土日は朝から晩まで授業。
つまり、完全な休みは一日もないということになります。
大丈夫だろうか・・・

でも、やるしかないのだ!!!
気合で乗り切るしかないですね!!!
がんばります!!!

akiravich at 02:30コメント(2)トラックバック(0) 

2015年07月04日

こんにちは。
はぐれミーシャです。
ご無沙汰しております。

私は明日、日本へ一時帰国します。
その前に、ベラルーシにいるうちに書いておきたかったことを一つ書いておきたいと思います。
それは今年の3月にやった原爆詩の朗読についてです。

とりあえず、動画を貼り付けます。
正直、日本人の皆さんに見ていただくのは怖い、というより、恐怖を感じます。
自分では全く納得しておらず、自分の朗読のビデオを見て、愕然としたからです。
どうしても、自分のこととなると、評価が厳しくなるものですが、これは本当に自分でも納得できないのです。

しかし、今の自分をさらけ出すことに意味があると考え、ここに出すことにしました。
ダメな自分も自分。
ありのままの自分を出してみたいと思いました。



朗読会を思い立ったのは2月のことでした。
プライベートでいろいろと苦しい時期があり、そんな時期にふと「何かやらなければ」という気持ちになったのです。

原爆詩の朗読というのは以前からあったアイデアでした。
しかし、朗読するのは私ではない、というのが当初の考えでした。

私は吉永小百合さんの原爆詩の朗読をNHKのドキュメンタリー番組で聞きました。
それ以来、朗読の会をベラルーシで開けないかと考えていたのです。

ベラルーシ人の中には「日本とベラルーシは悲劇で結ばれている」という人が少なくありません。
ここでいう悲劇は言うまでもなく、広島、長崎、チェルノブイリ、そして福島のことです。
そんなベラルーシで原爆詩の朗読を行うことには大きな意味があると私は考えたのです。
ベラルーシでは「ヒロシマ」「ナガサキ」という言葉は知られていますが、実際に何があったのかを知っている人はほとんどいません。
そんなベラルーシの人たちにもっと知ってもらいたいと私は考えました。

実際に長崎の方に「ベラルーシに来て朗読してくださる方がいれば」という話をしていました。
もちろん、吉永小百合さんに来ていただきたいと考えましたが、それは夢のような話で・・・

「ベラルーシに来てほしい」と言っても、相当なお金がかかります。
私がお金を出すのならいざ知らず、「自腹で来てくれませんか?」というのは虫が良すぎる話。
誰にお話をしても、話が先に進むことはありませんでした。

次に私の頭にひらめいたのは、学生たちに読ませること。
学生たちに日本語で読んでもらおうと考えたのです。

しかし、実際に詩の本を取り寄せて読んでみると、精神的な負担があまりにも大きい。
読むだけでも辛いのに、それを朗読するとなると・・・
学生たちにその「詩を生きる」ことを強いるのはあまりにも残酷だと考えました。

そして、そのまま時は流れ・・・
結局、そのアイデアが生まれてから4年近くが経過してしまいました。



今年になってから、精神的に苦しむ中、私は「何かしなければならない」という衝動に突き動かされました。
そこで、ふと朗読のことを思い出したのです。
2011年の東日本大震災以降、福島関連の通訳の仕事が増え、チェルノブイリにも何度か訪れる機会がありました。
そのことも今回のことを決める大きな要因になりました。

人に任せるのではなく、自分でやってみよう
とりあえず、自分がやってみせよう



私はすぐに本を手に取り、声を出して、詩を形にしようとしました。
初めて声を出して原爆詩を読む感覚は苦しいものでした。
そして、その苦しさは強まりこそすれ、本番の時まで消えてなくなることはありませんでした。

私が初めて人前で朗読したのは、私の学生で、私の会社で働いているカーチャさんの前です。
あまりの内容に絶句していました。
私は彼女に聞きました。
私「この朗読、みんなの前でする価値があるだろうか」
カーチャさん「はい、あると思います」
その言葉に後押しされ、私は朗読会を開く決意をしました。

それは非常に辛い道のりでした。
練習と言っても、何度も読めばいいわけではありません。
一日に何度も真剣勝負はできません。
読むたびに自分の心が削られていくような気持ちでした。

その詩を生きること。
それが詩を読むための唯一の道でしたが、私が「生きた」ものは実際に「生きた」人々の悲しみ、苦しみ、全てを投げ込んだ地獄の諸相の何万分の一に過ぎないことが、より私を戸惑わせ、ある種の絶望の淵へと追いやりました。

全くやったことがないことをゼロからすることは面白い場面もありましたが、手探りで迷いながらの辛い作業でした。
感情を込めていくと芝居がかってしまうのです。
練習の際はカーチャさん、もう一人の学生でありながら教師をしてもらっているマリーナさんの二人に聞いてもらうことが多かったのですが、あまりにも熱がこもった時の方が二人には不評だったりしました。
聞いている二人の間でも、感情がこもった方がいいという意見と、もっと抑えた表出方法のほうが伝わるものが多いという意見に分かれてしまいました。

感情を抑えて読むこと。
私は迷いに迷いました。
しかし、私は吉永小百合さんのような静かな、そして確かな表現力は持ち合わせていません。
私は自分にできることをしようと、開き直れたのは朗読会の開催の数日前でした。

「どうせやるなら」ということで、私は音楽にもこだわることにしました。
最初は吉永小百合さんと坂本龍一さんのように朗読に音楽を重ねることを考えたのですが、それを自分でやってみると、どうしても音楽に引っ張られてしまって、朗読ができなくなってしまいました。
なので、オープニングとエンディング、そして詩と詩の間に音楽を入れることにしました。

選曲は私の趣味がかなり反映されています。
フィリップ・グラス、武満徹、伊福部昭などなど。
現代音楽がピッタリ来るだろうと思ったのです。
観客の皆さんには好評でした。

そして、照明。
できるだけシンプルに。
光と影を作ろう。
私は冬に一緒に仕事をしたCM制作などを手掛ける会社を経営する友人に照明機材を貸してほしいとお願いしました。

ギリギリまで準備をしましたが、照明と音楽を本格的につけた形で朗読する練習はできず、最終的な形はぶっつけ本番ということになりました。
私の頭の中のイメージが形になるのはうれしいことでしたが、本番がどうなるかはその時次第でした。

体重も落としました。
食事をかなり減らし、毎日エアロバイクでトレーニング。
誰の目から見てもわかるほど、やせていきました。
なぜかそうする必要があると感じたからです。

会場は私が経営する「東洋語センター」の教室。
椅子の数は頑張って30個。
しかし、実際は立ち見が出るほどで、おそらく50人近くは入っていたと思います。
せまい教室の中で蒸し暑く、息苦しいと不満を言う人も後で出てきましたが、それもある意味では少しだけ計算していました。
8月の太陽と結びつけるのは安直かもしれませんが、それもいいだろうと思ったのです。

観客のほとんどは私の学生でしたが、私が招待したかった日本人の方をお二人、そして懇意にさせてもらっているロシア正教のシスターの方をご招待しました。

プロジェクターの不調で、開始時間が10分ほど遅れてしまいました。
このYoutubeのビデオにはありませんが、最初に広島の原爆のことを紹介するスライドが流れています。

DSC_0168始めはあまり調子に乗り切れませんでした。
自分なりにはしっかり読んだと思うのですが、少し空回りしている感じが自分でもしました。

詩と詩の間は音楽だけで、余計なものは挿入しませんでした。
私は照明の当たっているところから、当たっていない暗いところへ行き、呼吸を整えたり、苦しみをため息に変えたりしていました。
私が苦しんでいるところも朗読の一部としてとらえたのです。

あとから、照明とビデオ撮影をやってくれた友人二人から、「詩と詩の合間にビデオを流したり、写真をプロジェクターで映し出したりしたほうがよかった」と言われました。
しかし、学生たちからは「あれでよかった」と全員に言われました。
詩一つ一つが受け止めるのに辛い内容。
詩と詩の合間の何もない時間は、誰かにとってはクールダウンの時間であり、他の人にとってはその意味を深くとらえる時間であり、悲しみに沈む時間であり。
多くを語らずして、読む者や見る者の想像に委ねることによって完成させると言う日本的な発想に基づいたやり方でした。

DSC_0179朗読を進めるにつれ、自分の中でも熱いものが止められなくなっていきました。
照明が顔にもろに当たっているせいもあり、聞いている人たちの顔は全く見えませんでしたが、すすり泣く声が聞こえたり、耐え切れず廊下に出ていく人もいました。

手や体の動きは最小限にとどめました。
素人の私が動いても、わざとらしく見えるだけだと思ったからです。
それに、内容的にも動きはいらないと思いました。

ただ、流れている音楽を止める時、手で合図をしました。
その手の動きが雰囲気に合っていたという人が多かったです。

DSC_0180最後の詩を読み終わりました。
読み終わった瞬間、照明が落ち、ギターの音楽が流れるという寸法でしたが、照明が落ちるタイミングが若干遅れました。

そして、音楽が流れない。
私は焦りました。
友人である照明さんと、友人の紹介で来てくれたある劇場の音響さんには、最後のところだけはタイミングを外さないでくれと散々お願いしていたのです。

結局、5〜6秒遅れで音楽が流れだしました。
その数秒間、観客たちは暗闇の中で置き去りにされました。
逆に、それがよかったようで、音楽のタイミングが遅れたことを言うと、学生たちは「えっ?そうでしたか? 全然気になりませんでした」

あとで、音響さんのところに行くと、「すみませんでした!」
音響さんの隣にはマリーナさんが座ってキューを出していたのですが、彼女が小声で「早く音楽を!」と言うまで音響さんはずっとボーっとしていたそうです。
音響さん「聞き入ってしまって・・・」
そう言ってもらえて、私としてはとてもうれしかったです。

ビデオ撮影をしてくれた友人も同じことを言っていました。
聞き入ってしまったせいでビデオのメモリーカードのチェンジのことを忘れてしまい、チェンジするまでに私が間をつなぐ羽目になってしまいました。

でも、聞き入ってもらえたのは自分の力ではなく、詩の内容なのだろうと思います。
私には修業が足りません。
更なる精進が必要だと感じました。

学生たちの反応はあとから聞いたものですが、好意的なものでした。
中には何の朗読か全く知らずに来て、かなりの衝撃を受けた女子学生もいました。
「何かとりついているように見えました」「いつもの先生とは別人に見えました」「聞いているのが辛かったです」など、いろいろな反応でした。

DSC_0203最後に記念写真。
向かって、私の左隣にいるカーチャさんと右隣のマリーナさんには本当にいろいろと手伝ってもらいました。
二人には詩を全てロシア語に翻訳してもらいました。
カーチャさんにはプロジェクターで映す字幕やスライドの作成もやってもらいました。

その作業は二人にとってはあまりにも辛いもので、二人とも「こんな詩を読んで、先生は大丈夫ですか?」と何度も聞かれました。
そして、私は彼女たちのことを心配しました。
二人とも感じやすく、練習しながら一緒に深い闇に沈んでいくのが私にはわかったからです。
同じ時間を生きてくれたことに感謝。
本当にありがとう。

左端にいるナースチャさんは私が最も信頼している学生の一人。
今は東京の大学で勉強しているのですが、ちょうど3月にベラルーシに一時帰国していたので、照明など細かいことを手伝ってもらったのです。
すでに私が教えていない学生と一緒に何かできることは幸せです。
教えていなくても、学生と先生という関係は変わりません。
彼女にとっても、原爆詩を聞くのは辛かったと思います。
手伝ってくれて、ありがとう。


もう一度やりたいです。
辛いのはわかっています。
自分を追い込み、ギリギリの精神状態で読む作業は非常に苦しいものです。
でも、だからこそやる意味があります。
そして、ベラルーシの人たちにもっと広島・長崎、そして福島のことを知ってもらいたいです。

大学でもやって学生たちに聞いてもらいたいですし、汚染地域の町にも行きたいです。
昨日はキエフのチェルノブイリ博物館に行ってきたのですが、そこでもやらせてもらえないかという話をしてきました。

でも、やらせてもらうには自分の朗読をもっと深化させていかないといけないと思います。
時間が必要です。

そして、カーチャさんとマリーナさんの助けが必要です。
信頼する二人を道連れにするようで悪いのですが・・・

原爆詩の朗読の後、私や聞いていた人たちの心の中に残ったのは、祈りの気持ちではないでしょうか。
平和への祈り、間違いを繰り返さない決意。

もう一度、朗読やります。

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2015年05月01日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日のテーマはチェルノブイリです。
直球です。

最近、チェルノブイリ近辺で森林火災があったことで、またチェルノブイリがにわかに注目されていますね。
焼けた木々の灰がベラルーシの方向に飛んでくるのではないかと心配しています。

しかし、ベラルーシの放射線環境をモニタリングしている機関のHPを見ると、放射線量に関しては全く変化は起きていません。
いつものように、5月1日のミンスクは0.1マイクロシーベルト/時。
比較的、値が高いブラーギンも0.53マイクロシーベルト/時と、普段と変わらず。

こんなことを書くと、「国の機関が発表していることを信じているのか!?」と言われそうな気がしますが、私は結構信じています。
そういうモニタリングをやっている機関や現場を私は自分の目で見ていますし。
非常にしっかり測定していますよ。
隠ぺいすることのメリットはベラルーシには全くありません。


さて、今日は昨年3月に私がチェルノブイリを訪れたときのレポートをしたいと思います。
通訳の仕事でチェルノブイリを訪れたのですが、そのときはちょうどウクライナの政情が不安定なときでした。
マイダンと呼ばれるキエフ中心部の広場での戦闘がようやく収まったばかりの頃で、非常に不安だったのを覚えています。
その時の様子は2014年3月31日「はぐれミーシャのウクライナレポート キエフに行ってきました!!! ティモシェンコを探せ!!!」をご覧ください。

ここではWikipedia的な解説は避けたいと思います。
例えば、事故の概要とかは他の解説を読めば事足りるわけですから。
私が改めて解説することでもないだろうと思いますので、ここでは私の個人的な感想、訪問レポートという形をとりたいと思います。


チェルノブイリへの道

地図で見ると、チェルノブイリはウクライナの一番北、ベラルーシとの国境にあります。
しかし、ベラルーシから直接チェルノブイリのある地域に入ることはできません。
直線距離ならとても近いんですけどね。
道がないのです。
ベラルーシの汚染地域は「ポレーシエ放射線環境保護区」となっており、立ち入りが厳しく禁じられています。

結局、キエフ経由ということになります。
かなり遠回りではあるのですが、これは仕方がないです。
最初は車での移動を考えていたのですが、ウクライナの地方都市でベラルーシナンバーの車が襲撃される事件が頻発しているという情報があったので、鉄道を使うことにしました。

キエフには朝の8時近くに到着。
ホテルで朝食をとり、そこからチェルノブイリへ向かいました。
車で2時間半ほどの道のりです。

途中、二か所のチェックポイントでパスポートなどの書類のチェックがありました。
チェルノブイリは見学ツアーが盛んで、以前にチェルノブイリを訪れたときも(←つまり、この時は2回目の訪問)、他の見学者が結構いたのですが、この日は私たち以外に一組だけ。
ツアーガイドの説明では、ウクライナの政情が不安定になってから、観光で訪れる人が激減したのだそうです。



チェルノブイリに到着! とは言っても、原発ではない

DSC01260チェルノブイリに到着! と言っても、これは原発ではなく、チェルノブイリという町。
この町の名前が原発の名前になったのです。
ベラルーシでもそうですが、町の入り口にはこういうモニュメントが必ず立っています。
このデザインからも原発産業で成り立っていた町なのだということが見て取れます。


DSC01261これはチェルノブイリの町の教会。
まだちゃんと機能しています。
時々、チェルノブイリ出身の神父さんが来て、礼拝が行われているそうです。
残念ながら中には入れませんでした。

DSC01267チェルノブイリの有名な広場に着きました。
この小道には両側に原発事故で消滅してしまった村などの居住地の名前が書かれています。
人々が住んでいたところ、その住民にとっては故郷を哀悼する意味が込められています。

DSC01266モニュメントの一つに「フクシマ」の文字が刻まれていました。
折り鶴をかたどったモニュメントです。

こういう演出、ウクライナ人はとても上手だなあと思います。
これはキエフのチェルノブイリ博物館でも感じることですが、見ている人に伝わるような展示方法や演出に非常に長けているのです。
ベラルーシ人とはだいぶメンタリティーが違います。
ベラルーシ人はそういうアピールはあまり上手じゃないところがありますから。

この広場の近くに店がありました。
というか、普通にチェルノブイリの立入禁止区域にお店があることが驚きです。
飲み物や食べ物が普通に売ってありました。

DSC_0110[1]そして、驚きなのが、チェルノブイリグッズ!
マグネットやボールペン、Tシャツまであるのです。
私はそこでマグカップを購入しました。
こういうところがウクライナ人らしいところです。
商魂たくましいというか。
キエフで戦闘のあった独立広場でもマグカップやTシャツなどのグッズが販売されていましたから。
戦闘直後で広場中、焼け焦げたようなにおいに満ちている中でも商売をしようというのがすごいなあと思いました。


チェルノブイリの町を歩く

DSC01270チェルノブイリの町の中は当然、人が住んでいません。
いたるところにこのような廃墟と化した家が。
失礼して、中を覗くと明らかに荒らされた跡が。
原発事故後、火事場泥棒的な事件が後を絶たなかったと言います。
ネジ一本に至るまで盗まれたと言う話を聞いています。

DSC01268このうちの壁に住んでいた人が書いたと思われる言葉が書いてありました。
「我が家よ、許しておくれ! そして、さようなら!」
自らの家を捨てて出ていく人の心の痛みは如何ほどのものだったでしょうか。

福島でも同じような悲劇が起こっているのかと思うと・・・
家はただの「モノ」ではなく、住んでいる人の想いや思い出が詰まったもの。
私は19歳のとき、実家が全焼し、自分が育った家、思い出がいっぱい詰まった家が灰になったところを見たことがあります。
福島の場合とは違う痛みかもしれませんが、家を失うことの辛さは察して余りあります。

DSC01271「ここには人が住んでいます」
そうなんです。
こちらのお宅には人が住んでいます。
中には避難勧告を無視して、住み続けている人がいます。
主に高齢の方々で、自分の故郷に住み続けたいということです。
強制的に避難させると言うことはないそうです。

ここに住んでいるのは高齢の女性。
息子さんが生活に必要な物資や食料を運んできてくれるそうです。

DSC01274これは事故処理に当たった機械の「墓場」。
放射性物質で汚染されているため、近くに行ったり触ったりすることはできません。
こういう機械を見ていると、当時の様子がリアルにイメージできたりします。



チェルノブイリが見えてくる

DSC01281チェルノブイリ原発が見えてきました。
川沿いを車はひた走ります。

以前チェルノブイリを訪れたとき、この時点でガイドさんに「原発の近くに行ったら、写真撮影やビデオ撮影をやめてください。決まったポイントでだけOKです」と言われました。
勝手に撮影などをしていると、当局に拘束され、映像や画像を削除されると言われたのです。
しかし、このときのガイドさんは「大丈夫だよ!」「ダメなところはあるから、そこだけ注意すれば、あとは普通に撮影していいよ」。
うーん、どっちが本当なんだろう?

DSC01287ここが原発に一番近いポイントになります。
ここから原発のほうの写真を撮るのは許可されています。

圧巻です。
このときは二回目でしたが、感じるものがあまりにも大きくて・・・
この廃墟が人々の生活を奪い、故郷を奪い、30年近くも人々を苦しめ続けているのかと思うと・・・

チェルノブイリ原子力発電所。
私は「負の世界遺産」として登録すべきだと思っています。
同じ過ちを犯さないために。

一度は見る価値があります。
放射能のことを心配する人がいますが、2〜3時間いたぐらいでは通常は問題はないはずです。
帰るときはチェックポイントで被ばく量をチェックされますが、私が行ったときはチェックで引っかかった人は一人もいませんでした。



リアルゴーストタウン、プリピャチの町を歩く

DSC01288それから私たちが向かったのはプリピャチの町です。
チェルノブイリ原発から4キロの近いところにあり、事故でゴーストタウンになってしまった町です。
「1970」という数字が書いてありますが、これはプリピャチの町が作られた年。
町自体が非常に新しい町だったことがわかります。

DSC01301これは有名な観覧車です。
チェルノブイリ原発事故が起こった4月26日の後でオープンする予定だったものです。
つまり、この観覧車は子供たちを乗せることなく、事故に遭ってしまったのです。

DSC01305プリピャチのレストラン。
プリピャチの住民のほとんどが原発で働いていた若者たちでした。
その若者たちもこのレストランに集い、夜の楽しい時間を過ごしていたのでしょうか・・・

DSC01311これは学校の敷地。
かつては子供たちの声が響いていたのでしょう。
目を閉じると子どもたちの声が聞こえ、目を開けると子どもたちの声は消えました。

プリピャチの町は二回目でしたが、やはり強い印象を受けました。
それは激しい感情ではなく、静かにしみいるように町の静寂が心の波を受け止めてくれるような感覚です。




チェルノブイリで働く、チェルノブイリで生きる

DSC01335それから、私たちはチェルノブイリのカフェで昼食をとりました。
これはスープに添えられていたパン。
名前は「パンプーシュカ」。
名前がかわいいです。
パンの上からニンニクオイルがかけられています。
ウクライナではポピュラーなもので、普通はボルシチに添えられるのですが、この時はえんどう豆のスープでした。
これ、すっごくおいしいんですよ。

このカフェ、チェルノブイリグッズも販売していました。
結構高めの値段設定。
たくましいなあ・・・

実はこのカフェで今回のチェルノブイリツアーで最も印象に残った出来事がありました。
それは次の写真の女の子の言葉。

DSC01339かわいいんですよ。
ウクライナ美人です。
ベラルーシも美人が多いですが、ウクライナの美人はちょっとタイプが違います。
顔立ちが違いますね。

それまでにチェルノブイリの区域で出会う人の中には若い人はいなかったので、私は驚きました。
彼女に「どうしてここで働いているの?」と聞くと、「私の父もチェルノブイリで働いているんです」
えっ? そんな理由で働いているの!?
私は何か彼女の中に使命感があるとか、そういうことなのかなと勝手に思っていたので、ちょっとビックリしました。

私「チェルノブイリで働いていて、怖くないの?」
女の子「??? なんで怖がる必要があるんですか?」
彼女は2週間働いて、2週間キエフで休むというシフト。
私「っていうか、ここに寝泊まりしているの?」
女の子「はい」

彼女の答えがあまりにも自然で。
何も特別なことなどないかのように。
むしろ彼女の方が私のリアクションに不思議がっていました。

確かにチェルノブイリ原発に近いからと言って、そんなに線量が高いわけじゃないんですよ。
ご一緒した方の中には線量計を持っていらっしゃる方も多かったのですが、それほど驚く線量ではありませんでした。

冷静に考えることができれば、彼女のようにチェルノブイリ原発の近くで働いても大丈夫なのでしょう。
チェルノブイリの場合はすでに30年近く経っているということも人々の心理に影響しているのかもしれません。
放射能を怖がるパニック状態からは脱している、ある意味、「放射能との成熟した共存関係」が築かれているように感じました。

もちろん、私は低線量被ばくの影響などを否定するわけではありません。
その女の子が100%安全な状況にいるとも思えませんし。
それは彼女自身の判断。
外的な要因を考慮して、大丈夫だと思っているから働いているのでしょうし。

ゴメリの放射線生物学研究所を訪れたときのこと。
日本人の方々が「低線量被ばくはどのように人体に悪影響を及ぼすのでしょうか?」と口々に質問しました。
研究所の人の答えは「わかりません」。
これが今のところの答えだと思うのですよ。

研究所の人「だって、まだ27年しか経っていないんですよ」(←数年前の話です)
「27年しか」
まさにその通りです。
研究所の人「低線量被ばくの影響の調査は時間がかかるものです。もしかしたら、50年後に影響が出るかもしれないし、数世代あとの世代に影響が出るかもしれないし。それはまだ誰にもわからないのです」
常に研究を続けていく必要があります。

DSC01341カフェの外に出ると、ネコが日向ぼっこしていました。
わずかに日の当たるところを見つけて、気持ちよさそう。



チェルノブイリにもネコはいるんです!!!
みんな、生きているんです!!!




今年も私はチェルノブイリに行きます。
また何を自分が感じるのか、何を思うのか。
チェルノブイリを訪れることはチェルノブイリを見るというだけにとどまらず、ベラルーシというチェルノブイリ原発事故で激しく汚染された国に住み続ける自分自身の心の中を覗き込むことでもあります。


生きるということ
その尊さを感じる旅になるでしょう。




追伸
チェルノブイリは一度は訪れてみる価値がある場所だと私は思っています。
チェルノブイリに行ってみたいという方がいらっしゃったら、コメント欄にメッセージをいただければと思います。
私の方でお手伝いできることがあれば、お手伝いさせていただきます。
その場合はメールアドレスを明記されることをお忘れなくお願いします。

追記
http://people.onliner.by/2015/05/01/radiaci9/
汚染地域に近いゴメリ市で放射能測定をした様子です。チェルノブイリ近辺の森林火災による影響はほとんどないことがわかります。ロシア語ですが、翻訳機能などを使って、ぜひ読んでみてください。


akiravich at 17:01コメント(4)トラックバック(0) 

2015年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から4年が経ちました。

ベラルーシにいると、日本のニュースはインターネットでしか見られないわけですが、少しずつ福島関連のニュースが減っているように感じるのは気のせいでしょうか。
ベラルーシに来る視察団も激減。
以前は一年間に何度も通訳の仕事があったのですが、2014年は1回だけ。

去年の夏も日本へ一時帰国しましたが、福島以外の地域では福島のことを話したり、聞いたりすることはほとんどありませんでした。
ただ、福井県にお邪魔して講演などをさせていただいたときは、原発を多く抱えている県だけあってか、非常に関心が高かったのを覚えています。
それ以外の地域では福島の話をしても、あまりリアクションが帰ってこないことが多かったです。

すでに風化してしまったのでしょうか?
でも、福島に現に住んでいる方にとっては風化しようがないですよね。
仮設住宅にいまだに住んでいる人たち、自分の家を失った人たち、家族や大切な人を失った人たち・・・
その痛みに寄り添うやさしさを持った人たちが日本にはまだたくさんいる、と信じたいところです。

去年の夏、私は福島にお邪魔しました。
そのときに痛切に感じたことがあります。

数人の方が「原発事故から3年半も経って・・・」とおっしゃっていたのです。
私が違和感を感じたのは「も」という助詞。
この場合の「も」は長い時間や期間を強調する助詞です。

今、私が感じるのは「まだ4年しか経っていない」こと。
「しか」は少ないことや短いことを強調する言葉。
この「しか」と「も」の差は大きいと思います。

何度か福島で「も」を聞きました。
私にとっては3年半でも4年でも、まだまだ短いような気がしますから、「しか」のほうがしっくりくるのですが。

ただ、「3年半も経ったのに、何も変わっていない」というコンテキストなら、「も」は非常に適切になると思います。
確かに、まだまだ進んでいない部分もあるかと思います。
除染もそうですし、補償の問題も残っている。
確かに3年半はまだまだ短い時間ですが、もっとできることがあるのではないかと思い、歯がゆく感じる部分もあります。

ベラルーシ人の研究者に低線量被ばくの人体への影響について質問した時のこと。
その時の答えは「まだわかりません」。
なぜなら、「まだ29年しか経っていないから」。

汚染地域が多いゴメリ州の州都、ゴメリの人に聞いても、「まだ29年しか経っていない」という言い方をする人がいます。
もちろん、「29年も経った」という言い方をする人も非常に多いですが、「しか」と言う人も結構います。

福島の問題、風化するにはまだまだ早いと思います。
福島以外の人の意識からも福島の問題が消えていかないようにはどうすればいいのでしょうか?
私にも答えは見えてきません。

正直、自分の中の意識も少しずつ薄れてきているのは確かです。
ベラルーシでの日々の生活の中で、「福島」を意識する時間が少なくなっているのは事実です。
福島関係の本、去年の夏、買い込んできたのですが、まだ読んでいないものが多いなあ・・・
もっとやりたいことがあるはずなのに、できていない自分が情けなくも感じます。



そんな自分を少しでも前に進めたいという気持ち。
それが、昨日の記事で書いた原爆詩の朗読ということにつながってきます。

私の中では広島・長崎、チェルノブイリ、福島というワードが一つの線でつながっています。
ベラルーシ人はよく「ベラルーシと日本は悲劇で結ばれている」という人がいます。
広島・長崎という言葉を使う人が多い割には、その具体的なことについて知らない人がほとんどなのです。

とは言っても、私自身も詳しく知っているわけではありません。
私自身にとっても勉強の日々です。

来年はチェルノブイリ原発事故から30年の節目の年になります。
その年に向けて、できることをいろいろと考えています。
翻訳関係の仕事もしたいですし、福島の方で何かご一緒できる方がいれば、一緒にベラルーシでイベントができればなどとも考えています。



先日、NHK BS1の「地球アゴラ」という番組に出演させていただきました。
震災から4年経った福島からの生中継ということで、私も汚染地域のお医者さんと一緒にスカイプで生出演させていただきました。
非常に前向きな取り組みをしている若者たちが紹介されていて、希望の光が見えてくる想いがしました。

番組終了後、インターネット上で番組の感想として、「ベラルーシでの対策を伝えることは悪いことではないけれど、今一番伝えるべきは、この4年で蓄積されたデータに基づいた福島の現状だと思う。WBCでわかった内部被爆の有無、健康状態や農作物の状況をちゃんと伝えないで、ベラルーシのことを放送されても意味がない」というものがありました。

うーん、番組の趣旨と言うのはそれぞれにあるものだと思うので、福島の現状を伝える番組というのは他の番組でやればいいわけで(←そういう番組はないのでしょうか?)。
私としては最後の「ベラルーシのことを放送されても意味がない」という文が非常にひっかかってしまうのです。
もちろん、福島の現状を伝えることは大事ですが、それが「ベラルーシのことを放送することが意味がない」ということにはつながらないと思います。
悲しくなりました。

こういうコメントが出てくるということは日本では被ばくの有無や健康状態、農作物の状況がちゃんと伝えられていないということなのでしょうか?
それが本当だとしたら、それはそれで悲しくなります。
4年「も」経っているのに・・・



書いているうちに、自分の気持ちが「も」と「しか」の間を行きつ戻りつしているのを感じます。
4年が長かったのか短かったのか・・・
自分にとっては・・・やっぱりわかりません。
長いような気もするし、短いような気もします。

失われたものの痛みは永遠になくなることはないでしょう。
その「永遠」を前にして、4年が長かったのか短かったのかを論じるのはナンセンスにも感じます。



今、私ができること。
ベラルーシと福島をつなぐことが少しでも福島の方たちの役に立つのであれば、という気持ちです。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。
そして、仮設住宅で不自由な生活をされている方々がいつか自らの故郷に戻ることができる日がくることを祈っております。


akiravich at 18:20コメント(4)トラックバック(0) 

2015年03月10日

大変ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

とても忙しいです。
というか、とても忙しかったです。

ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが、日曜日の17時からNHK BS1の「地球アゴラ」という番組に出演させていただきました。
その準備がなかなか大変でした。
福島の未来についての番組だったんですが、非常に責任が重い仕事でした。
生放送だったのですが、本番は自分なりに楽しめました!

何と言えばいいんだろう・・・
最近、心が乱れています。
乱れて、ちぎれて、壊れて、溶けて、消えて・・・
うーん、41歳でも心は・・・惑い、惑わし、惑わされ・・・

当然と言えば当然だけど、自分以外の何かに規定された「自分」という者があって。
それは私の場合は先生であったり、父親であったり、夫であったり。
自分で自分がわからなくなっているのに、なのに・・・周りに決められた自分が「自分」であると思うことが楽で。
急に本当の自分と向き合うとどうしたらいいのか・・・

乱れた心を支えてくれるのは学生たち。
授業が終わって、「ちょっと飲んでいかない?」という私の言葉に呼応してくれた学生たち。
私の心の乱れに、学生たちは自分の心の乱れをさらけ出し答えてくれる。
みんな迷っている。
みんな惑っている。
みんなありがとう。



正直、41歳になって、焦りが出ています。
今、この年齢になって、自分は何ができるんだろう?
何か自分が生きていた証しを残したいと思うようになりました。

今、私がやろうとしていること。
それは原爆詩の朗読。

実はこのアイデアはかなり前からありました。
NHKのドキュメンタリー番組で、吉永小百合さんが朗読されているのを見て、ベラルーシの人にも広島・長崎のことを知ってもらいたいと思ったのです。

最初は日本から誰かに来てもらって、朗読してもらうことを考えていました。
もし吉永小百合さんが来てくださったら、ベラルーシの人にもっと広島・長崎のことを知ってもらえるだろうと思いました。
長崎のアナウンサーの方々も原爆詩の朗読をやっていると聞いたので、何とか来てもらえないかと思いました。
でも、やはりベラルーシは遠い・・・

そのあと、私の頭に浮かんだのは、学生たちと朗読すること。
例えば、日本語を勉強しているベラルーシ人学生が日本語で読み、ロシア語を学んでいる日本人留学生がロシア語で読む。
でも、学生たちにとって原爆詩を読むのは精神的負担が大きすぎる・・・

ここ最近の心が乱れている中、ふと私は思いました。
何の前触れもなく。
「原爆詩の朗読をやってみよう」

以前からやりたかったこと。
他人任せにしないで、まず自分でやってみよう。

でも、自分の心と体を通して、原爆詩を体験することは怖い・・・
でも、やりたい。

もうすぐ東日本大震災から4年。
チェルノブイリは4月26日で29年。
いまこそ、やるべきとき。

私は何度か読む練習をし、それを信頼する学生の一人に聞いてもらいました。
「伝わった?」「伝わりました・・・」

正直、自分がどこまでいけるか、不安があります。
自分の限界が見てみたいです。
自分をギリギリまで追い込んでみたいです。

夜中、練習をしています。
精神的な負担が大きく、練習を終えるとぐったりしてしまいます。
あるお母さんが書いた詩は・・・龍二くんのことを置き換えてとらえてしまって、涙が出てしまいます。

3月21日、土曜日の19時15分から私たち夫婦が経営している「東洋語センター」の教室で朗読をします。
もしそれがうまくいけば、自分が働いている大学でも朗読会をします。
そして、4月26日のチェルノブイリ事故の日に汚染地域に行って、朗読会をしたいと考えています。

akiravich at 04:53コメント(0)トラックバック(0) 

2014年05月28日

ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

いやあ、いそがしいです。
いそがしいったらありゃしない。

ここ最近は大きい通訳の仕事などはないのですが、通常の仕事だけでも結構大変で。
常にチェックする宿題を抱えている状況です。
個人教室だけで100人以上の学生がいますからね。

さて。
今日のテーマは日本で話題の美味しんぼ鼻血問題です。

このニュース、私も気になっていて、毎朝インターネットのニュースをチェックするときは真っ先にこの問題についての記事を読むようにしていました。
簡単に言ってしまえば、私は鼻血は出るわけがないという考えでいました。
様々な方の意見などを読む限り、医学的には放射性物質のせいで鼻血が出るというのは考えにくいという意見が多く、私もその通りなのだろうと思っていました。

5月23日、国会内で「鼻血には医学的根拠がある」という内容の記者会見が開かれた、ということをYahooニュースで読みました。
会見をした方のお名前を見てびっくり。
お一人はつい最近、通訳でご一緒した方。
もうお一人は2年ほど前、通訳でご一緒した方。
いずれも非常に素晴らしい方たちで、私は通訳させていただいたことを誇りに思うほどです。

それまでは「鼻血はあり得ないだろう」と思っていたのですが、その記者会見のことを知って、ちょっと確信が揺らぎました。
お二人とも卓越したプロフェッショナル。
そのお二人が言うのであれば・・・

私は自分でも調べてみようと思いました。
「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」を見ると、チェルノブイリの汚染地域では低線量被曝でも鼻血が出る、それは日常的であるということを書かれている方がおられました。
本当かな?


昨日は子供の保養施設に行ってきました。
いつものように折り紙教室です。
通訳で何度も訪れているところで、職員の方も知り合い。
昨日電話して、「明日折り紙をしに行ってもいいですか?」と聞くと、「もちろん!」と即答。

最初は鼻血関係のことを職員の人に聞きたいなあと思っていたのですが、施設に向かう途中、気が変わりました。
私は子供たちのところへ折り紙をしに行くのですから、そこの軸はぶれさせたくないのです。
あんまり難しく考えるのはやめて、普通に子供と遊んで来よう、と。
これこそが私の折り紙教室のベースにある考え方なのです。
私とチェルノブイリ 〜瓦討論泙蟷罎ら始まった
私とチェルノブイリ◆.福璽好船磴舛磴鵑悗竜Г

保養施設に着くと、職員の女性が出迎えてくれました。
そして、すぐに子供たちの娯楽室へ。
そこは子供たちが自分で何かを作ったりするプレイルームのようなところです。

子どもたちが12人ぐらい来て、折り紙スタート。
その保養施設にはベラルーシの様々な地域(主に汚染地域)から子供が来ているのですが、今回はゴメリ州のチェチェルスクという町の子どもたちでした。
いつものように日本語を軽く教えてから、鶴を折り始めました。

そのとき、ふと思ったのです。
子どもたちに直接聞いてみよう。
大人がいるといちいちコメントしてきたりして面倒だから、職員の人が席をはずしている今のうちに聞いてしまおう。
ちょっとデリケートな問題に感じるかもしれませんが、ベラルーシの子どもたちは割と抵抗なくいろんな質問に答えてくれることを私は知っています。

はぐれミーシャ「あのね、一つ変な質問があるんだけど、いいかな?」
子どもたち「どうぞ」「いいよ」
はぐれミーシャ「みんなの中で鼻血がよく出る子っている?」
そう聞くと、数人の子どもが手を挙げました。

はぐれミーシャ「あ、そうなんだ。みんなの周りにもそういう子、いる?」
子どもたち「いるよ」
はぐれミーシャ「それって頻繁に出るの?」
出ると答えた子どもたち「そんなことないよ。時々」
はぐれミーシャ「それって、放射能のせいだと思う?」
子供全員「違うよ。血圧のせいだよ」
速攻で否定されました。
その後、簡単に日本で話題になっている鼻血の話をすると、子どもたちは「血圧のせいだと思うけどな」。

彼らが暮らすチェチェルスクはチェルノブイリにそれほど近いわけではありませんが、他のベラルーシの町よりは放射線量が高い町。
移住権利区域(年間被ばく量が1ミリシーベルトを超える可能性がある地域)に指定されています。

DSC01615DSC01616DSC01617DSC01613
ここから先は普通に折り紙。
楽しく会話しながらの折り紙です。
みんななかなか積極的でした。

子どもたちに「今年の夏はどこか行くの?」と聞くと、口々に「イタリア!」「ドイツ!」。
彼らがお金持ちだから旅行に行くというわけではありません。
これは夏の保養のためにドイツやイタリアに招待されるのです。
ゴメリ州のようなチェルノブイリの汚染地域では珍しくないことです。
いまだにこういうことが続けられているんだなあ。

DSC01618DSC01619DSC01620DSC01623次のグループも楽しく楽しく。
このグループはチェチェルスク、レーチッツァ、レーリチッツィ、ゴメリと、いろんな町の子どもがいました。
最初は7人ぐらいだったのが、「ちょっと面白そうだ」と部屋を覗いてきた子どもたちで部屋はいっぱいになりました。
とても楽しい子供たちで、私もリフレッシュできました!!!


このグループでも全く同じ質問をしてみました。
そして、全く同じ反応が返ってきました。
鼻血が出ると言った子供たちに聞きました。
はぐれミーシャ「それはよく出るの?」
子どもたち「よくは出ないよ」
はぐれミーシャ「鼻血が出やすいとか」
子どもたち「出やすいわけじゃないよ」
はぐれミーシャ「何のせいだと思う?」
子どもたち「血圧」「みんな時々はあるんじゃないの?」
はぐれミーシャ「血圧、高いの?」
子どもたち「ちょっと高い」「興奮すると高くなるんじゃないの?」

ゴメリもレーチッツァもレーリチッツィも定期的放射線管理居住区域(住民の被ばく量が年間1ミリシーベルトを超えない地域)です。

子供が鼻血を出す理由はいろいろあるのでしょう。
その「血圧」という理由がちょっと気になったのですが、うちの奥さんに聞いたところ、それは子供たちが高血圧で悩んでいるという意味ではなく、興奮したり急にスポーツをしたりして一時的に血圧が上がったために鼻血が出るのだと言われているのだそうです。

子どもたちが帰った後、保養施設の副所長さんとお話ししました。
そこで、日本の鼻血騒動について話しました。
副所長さん「そんなのあり得ないですよ」

この施設はチェルノブイリの汚染地域(「汚染地域」という言葉の定義が難しいところですが)に居住する子供たちが保養する施設です。
どんなに汚染度の低いところでも、食物による内部被ばくなどは起こってしまうことがあります。
その検査と予防、治療のための施設です。
1クール24日間で、その間に検査や治療を受け、新鮮な空気を吸い、汚染されていない食べ物を摂取するようになっています。
これは国のプログラムに基づいて行われているもので、汚染地域の子どもたちは無料で保養できます。

副所長さんの話では「1クールでたくさんの子どもが来るけど、子供が鼻血を出すケースは1クールに一回あるかないか」とのことでした。
子どもたちが住んでいる地域は定期的放射線管理居住区域からもっと汚染度の高いところまで様々。
それでも、そんなに頻繁に鼻血が出ているというわけではない。
副所長さんは「私はここで14年働いているけど、子どもが鼻血が出て仕方がないというケースは記憶にない」ということでした。

これをもって、「ベラルーシには鼻血の問題はない」と結論付けるのは早計でしょう。
日本の団体がアンケート調査をしたところ、住民の何パーセントかの人が鼻血が出ると答えているという調査結果もありますから。
もう少しいろいろな人に話を聞いてみたいです。


いくつかの疑問点があります。
・放射能のせいで鼻血が出ると結論付けるような研究はないのでしょうか?
「可能性がある」「その可能性は否定できない」というフレーズは目にしますが、それを医学的に証明することはできないのでしょうか?
「事実、鼻血が出てるじゃないか」と声高に言う人がいます。
そういう現実があるとしても、それを放射能と結びつけるにはその因果関係を証明するしかないのではないでしょうか?

・鼻血が出る人がいるとして、その人の鼻血の原因を知ることは可能なのでしょうか?
健康の問題というのはいろいろな要因が絡んで起こるもので、たった一つの原因で起こるものではないと思うのです。
これは他の病気に関しても言えることです。
ベラルーシである疾患が増えると、すぐにチェルノブイリと結び付けて考えたがる人が多い(ベラルーシ人以外の人で)ように思います。
でも放射線の影響だけで病気が起こることはないわけで。

・鼻血が出ると訴えている人たちの被曝量はどれぐらいなのでしょうか? そこに相関関係は見いだせるのでしょうか?

・チェルノブイリ汚染地域で「鼻血が出る」と訴えた人たちがいるのはわかりますが、それが放射能によるものだと証明する研究はあるのでしょうか?
ベラルーシやウクライナの研究者がどう思っているのかが聞いてみたいです。



副所長さんが言っていた言葉が印象的です。
副所長さん「放射能の影響は今も研究段階なのだから」
これはゴメリの放射線生物学研究所の方たちも言っていました。
日本人が「低線量被曝の影響について教えてください」と聞いたところ、「それを知るにはまだまだ時間がかかる」という答えでした。

この「わからない」という答えこそ、今現在できる最良の回答だと思うのです。
わからないから研究・調査をする。
それでいいと思うのです。

これは伝言ゲーム的な感じのところがあるように思います。
プロの専門家たちは「可能性がある」、「可能性は否定できない」と言っているのですが、全く専門家じゃない人に限って、それをあたかも事実であるかのように情報を拡散しているように私には見えます。
推量や仮定の表現をそぎ落としてしまえば、それは事実のように受け止められてしまいます。
「可能性がある」という言葉はそれ以上でもそれ以下でもありません。

鼻血に関して、放射線による被曝は検討されるべき原因の一つに過ぎないと思います。
そもそも、鼻血自体が問題なのではなく、問題なのは被曝なのだと思います。
高線量でも低線量でも被曝はないに越したことはありません。
その被曝をどう防ぐかが一番大事な問題だと思います。
もし鼻血を出している人が被曝しているのだとしたら、その人の健康をどう守るのかが大事なことではないでしょうか。


私は「美味しんぼ」は好きです。
特に初期の「美味しんぼ」が。
尖っていた山岡さんは最高でした。

中学3年生の頃、私は音楽の先生から美味しんぼの第一巻をプレゼントされました。
私は音楽高校に入るために、放課後や休みの日もその先生に受験勉強を手伝ってもらっていたのです。
ある日、その先生が「これ、面白いから読んでみろ。あげるから」と言って差し出したのが、美味しんぼだったのです。
それから、私は美味しんぼにはまっていきました。

しかし、最近の美味しんぼは初期の頃とは全く違っています。
ストーリー展開も雑なものが多くて・・・
その鼻血が出た話の回、読んでみたいです。


もうちょっと聞き取りを続けたいと思います。
近いうちに、汚染地域からミンスクに移住してきた人たちと話すつもりです。

もう一つ調べようと思っていることがあります。
それは「チェルノブイリハート」という映画についてです。

ベラルーシに視察に訪れる人から「チェルノブイリハートを見ましたか?」とよく聞かれるのですが、私は見たことがありませんでした。
初めて見たのは3月の終わり、キエフのホテルでした。
非常に疑問に思う箇所が多く、正直、不快に思いました。
最近、ベラルーシ人学生たちにも見せたのですが、みんな「数字が怪しい」「こんなことはあり得ない」と口々に言っていました。
私も同感です。

すぐにわかる間違い(というか意図的な嘘なのかどうかはわかりませんが)はゴメリ市の人口。
映画の中では70万人となっていましたが、ゴメリの人口が70万人になったことはありません。
映画が製作されたのは2003年。
2002年のゴメリの人口は48万2000人でした。
他にも出生率や甲状腺がんの発症率が怪しいと思いました。
あの映画の中に描かれていることが事実なのかどうか、徹底的に検証するつもりです。


だいぶ話がそれてしまいました。
まとまりがない文章ですみません。

ここまで読まれて、私が鼻血が放射能のせいではないことを前提に書いていると思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
子どもたちに聞いてみて、鼻血が頻繁に出るようなら、その原因と対処法などを知りたいと思うまでです。
今回は頻繁に出る子はいなかったので、よかったです。

また他のところでも聞き取りをしてみようと思います。

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2014年04月25日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日も昨日の続きです。
ベラルーシ東南部のゴメリ州で折り紙教室をやったときの話です。
昨日はホイニキ地区のストレリチェヴォ村の散歩と校長先生のお宅にお邪魔した時の様子を書きました。
はぐれミーシャのベラルーシひとり旅 ,海海如前貊錣法狙泙譴燭蕕いい函(^^♪
はぐれミーシャのベラルーシひとり旅◆60度の衝撃!!!

次の日はブラーギンの学校で折り紙。
ホテルをチェックアウトして、私が向かったのはホイニキ地区執行委員会。
お世話になった副市長のジャンナさんにご挨拶。
また秋になったらホイニキ地区のどこかの学校で折り紙をすることを約束しました。

それにしても、のどが渇く。
前日にあれだけお酒を飲めば、のどが渇くのも当然。
でも、二日酔いの感覚はありません。

それは飲み方に秘密があるのです。
基本的にウオッカを飲むときはチャンポンしないのがいいのです。
もし他の飲み物を飲むときは徐々に度数を上げていくのがいいと言われています。
つまり、最初にビールを飲んで、次にウオッカを飲むのはOKですが、逆は悪酔いすると言われています。
そして、それは私も自分の身をもって体験しています・・・

あと、ウオッカを飲むときはチビチビ飲むと余計酔います。
一気に飲んで、すぐにジュースなどを流し込むか、食べ物をどんどん食べるのがいいのです。
水よりはジュースのほうがいいようです。

ちなみに、これまで私が体験した中で最悪のコンビネーションはウオッカとシャンパンです。
これは・・・言葉にできない・・・
次の日は立ち上がれませんでした。

昨日行ったストレリチェヴォの学校の体育の先生が車でブラーギンまで送ってくれることに。
ホイニキからブラーギンまでは車で20分ほどなので、校長先生が「すぐそこだから、問題はないよ」と、体育の先生にお願いしてくれたのです。
本当にありがたい。


ブラーギンではまずブラーギン地区執行委員会の副議長、平たく言えば副市長のアンナさんのところへ。
このアンナさん、たくましいベラルーシの女性の代表のような方。
ホイニキ地区のジャンナさんは非常に柔らかい方ですが、アンナさんは一言で言えば「強い女性」。
アンナさんに出会ったのは2011年3月11日から数週間後、ミンスクのテレビ局の生放送に出演したときに隣に座っていたのです。
その後、日本からの視察団の通訳でブラーギンを訪れた時に何度もお会いしています。

その時から何故か私には優しかったです。
元々、子供が大好きで心優しい人なんです。
なので、私が「ブラーギンの学校で折り紙をやりたい」と言った時も二つ返事でOKしてくれました。

アンナさんの執務室で雑談。
一時間ぐらい雑談していたかな。
話ながらも、部屋にはアンナさんのサインをもらいに部下がひっきりなしに入ってきました。

話のテーマはウクライナ情勢。
ブラーギン地区はウクライナとの国境に接しています。
いろいろ貴重な意見が聞けました。

1時間ほどして、校長先生が登場。
執務室の窓から見えるほど、学校はすぐそば。
アンナさんにお別れして、校長と二人で学校へ。

DSC01600DSC01601これが学校の建物とグラウンド。
田舎の学校とは思えないほど立派な建物。
グラウンドは小さいながらもスタジアムのような造りになっています。

復興予算がだいぶ入ってきているのでしょうか。
ゴメリ州の学校は非常によく整備されているものに出会うことが多いです。
他の州の学校でも折り紙をやったことがありますが、ゴメリ州はだいぶ違います。

校長室に入って気づいたのですが、校長はだいぶ若いみたいで、年齢を聞くと、「34歳です」。
ちょっと髪が薄くなっていて、恰幅もいいのですが、時折見せる表情が若かったので、聞いてみたのですが、予想以上の若さにびっくり!!!
俺より6歳も年下なのに、校長!?

ゴメリ州では割と若い校長先生に出会うことがあります。
今まで私が出会った好調で一番若かったのは27歳の男性。
そして、男の校長先生の割合が非常に高いように思います。
他の地域、ミンスクなどでも校長先生は圧倒的に女性が多いのです。

軽くお茶を飲んで、早速折り紙教室スタート!!!
最初は10年生の子供たち。
普通は担任の先生が教室にいることが多いのですが、今回はなぜか子供たちだけ。
そうなると、子供たちが騒いでコントロールできなくなることがあるのですが、ブラーギンの子供たちはどの学年もよくこちらの言うことを聞いてくれました。

DSC01588DSC01590DSC01592みんな呑み込みが早くて、すぐに二つの折り紙(←鶴とカエル)を作り上げてしまいました。
校長先生が教室に入ってくると、みんな「次の授業も折り紙を続けていいですか?」。
校長先生「そうしてあげたいのは山々だが、他の学年の子たちも折り紙をやりたがっているんだよ」
こういう言い方をすると子供たちは納得しますよね。
話し方が校長先生というよりは理解がある担任の先生という感じです。

DSC01594次の学年の子たちも楽しそうに折り紙をしてくれました。

折り紙をしながら、おしゃべり。
私が「校長、まだ若いよね」というと、子供たちが「ねえ、何歳なの?」と聞いてきました。
私が「何歳に見える?」と聞くと(←坂上忍に向かって言ったら、「めんどくせえ奴だな!」とばっさり斬られそうな質問)、「25歳!」「27歳!」。
君たちはとてもかわいくて、いい子供たちだ!!!

私が「40歳だよ!」と言うと、子供たちは「え〜!!!」「信じらんない!!!」。
ベラルーシでは東洋人は若く見られることが多いのですが、ここまで若く見られるとは思わなかったなあ。

DSC01598最後のグループも楽しく、最後まで折り紙ができました。
ブラーギンの子供たちはすごく素直でいい子たちばかりでした。


ブラーギンの子供たちに「日本人、見たことある?」と聞くと、たいてい「ある」と答えます。
でも、「日本人と話したこと、ある?」と聞くと、全員「ない」。
これはホイニキの子供たちに聞いた時も全く同じ反応でした。

確かに、言葉の壁はあります。
でも、何らかの交流はできるはず。
私が視察の通訳をするときは地元の人たちと一緒にご飯を食べたり、お茶やお酒を飲んだりする機会をできる限り設けるようなセッティングを心がけています。
同じテーブルを囲んでの交流はいいですよね。
ざっくばらんに話ができる雰囲気を作れればと私はいつも思っています。

「日本人は自分たちが欲しい情報をもらったら、『はい、さようなら』と言って帰ってしまう」「一緒に何かプロジェクトを立ち上げられればと思っているんだけど、その時限りの付き合いが多い」などと言われたことがあります。
「共同プロジェクトがうんぬん・・・」と言う人の中には寄付や援助がほしいだけの人も結構いるのですが、中にはブラーギンの人たちのように心からそう思っている人たちもいます。

私が今考えているのはブラーギンやストレリチェヴォの学校と日本の学校の交流ができないかということです。
外国の学校との交流と言うのは日本ではそれほど珍しいことではないと思います。
現に、仙台の学校とミンスクの学校は交流があります。
もしかしたら、まだ時期尚早かもしれませんが、福島の学校とゴメリ州の学校、その子供たち同士の交流ができればいいなあと考えています。
今はスカイプで顔を見ながら話すこともできますし、通訳は私がベラルーシの学校に行けばいいだけの話ですから。

他にも、それぞれの分野の人同士の交流ができないかと考えています。
例えば、子どもを持つお母さん同士とか、汚染地域で農業をしてきた人同士とか。

やっぱりベラルーシに来てもらって、直接交流するのがいいんですが、みんながみんな行けるわけではありませんから。
でも、交流の方法はあるはずです!!!


ブラーギンの学校での折り紙が終わって、ゴメリまで戻ることに。
まずは校長先生の車でホイニキのバスターミナルまで。
所要時間20分。

ホイニキからゴメリまでは約2時間の道のり。
疲れもあって、爆睡してました。

それにしても、よくあんな遠いところまで行ったなあ。
普通、視察の場合は車やチャーターしたバスで行くので楽なんですよ。
でも、公共交通機関を使うと時間もかかるし、本数も異常に少ないし。
ミンスクにいると、乗り物に乗ったりして生まれる「隙間の時間」が少ないんです。
そういう意味では私にとっては最高の休息です。


ゴメリのバスターミナルに到着したのは16時半ごろ。
そこから、ホテルまで歩いていきました。
歩くには結構な距離なのですが、どんな交通機関で行けるのかがわからないので。
こういうところ、ベラルーシは不親切です。
前もって知っておかないと、公共交通機関は利用しにくいんです。

ホテルに着いて、のんびり・・・とはいきません。
19時30分からは個人レッスン!
もちろん、日本語の、です。

実は私の学生の中にゴメリから毎週土曜日通っている女の子がいます。
土曜日の夕方のグループの子で、もう1年半、通ってきています。
ミンスクまでは4時間半ぐらいかかりますから、往復で9時間列車に乗っている計算になります。
それでも、勉強したいという気持ちがあるから、わざわざ通ってきているのです。

彼女は銀行員なのですが、シフトの関係で、この2か月ほど授業に出られない状態が続いています。
なので、ゴメリで会って勉強しようということになったのです。
実は3月の視察でゴメリに行った時も、レストランで1時間ほどレッスンをしました。

今回もホテルの中のレストランで日本語教室。
1時間ほどみっちりと勉強しました。
私も疲労困憊でしたが、授業を始めると疲れを忘れちゃうんですよね。

彼女と晩ごはんを食べることもあるのですが、今回は用事があるとかで、彼女は帰っていきました。
そこからは晩ごはんタイム!!!

実はゴメリでの一つのお楽しみがこの晩ごはんなのです。
レストランの名前は「北京飯店」。
そう、中華料理の店なのです。
最高においしい・・・とは言えませんが、そこそこおいしいのです。
ミンスクの変な店よりは全然おいしいですよ。

私が注文するものはいつも決まっています。

IMG_0345[1]麻婆茄子です!!!
でも、ひき肉などの肉は一切入っていません。
そして、味がちょっと辛くて甘いんです。
最初食べた時は「何だこれ?」と思ったのですが、だんだん病みつきに。
しかも、茄子が小麦粉か何かをつけて揚げてあるらしく、その食感がたまらないです。

IMG_0346[1]これもいつも注文する鶏肉のサラダ。
辛いです。
でも、ビールが進むんです!
ガッツリ食べて飲んで、ゴメリでの晩ごはん終了!!!


次の日は朝の4時起き。
5時過ぎの電車でミンスクに向かいました。
10時前にはミンスクへ。
うちへ帰って、シャワーを浴びて、すぐ大学の授業へ。
疲れてはいましたが、気持ちは軽かったですね。


やっぱり折り紙は楽しい!!!
またベラルーシのいろんな町へ行きたいです!!!

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2014年04月23日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日は昨日の続きです。
ベラルーシ東南部のゴメリ州で折り紙教室をやったときの話です。
昨日はホイニキ地区のストレリチェヴォの学校での折り紙教室の様子を書きました。
はぐれミーシャのベラルーシひとり旅 ,海海如前貊錣法狙泙譴燭蕕いい函(^^♪

3つのグループで折り紙をやって、クタクタ。
やっとご飯だ!!!

DSC01557学校の食堂で昼ごはん。
校長先生が「授業は2つぐらいだと思っていたら、3つもやるんだから。昼ごはん、冷めちゃったじゃないか」
言葉はきつめですが、笑顔です。
トマトもキュウリもおいしくて、言うことなし!

もしかしたら、これを読んでいる人の中には「食べて大丈夫なの?」と思った人がいるかもしれません。
ストレリチェヴォ村は「移住権利区域」というところに指定されています。
これはセシウム137の値が5〜15キュリー/平方キロメートルの地域です。

私は普通に食べます。
私は通訳の仕事を通じて、ベラルーシの放射線管理の実情を自分の目で何度も見てきました。
安全が守られていることはよく知っていますし、ストレリチェヴォの学校の人に聞いても、最近は基準値を超えるような野菜が出てくることはまずないと聞いていますから。
基準値を超えることがあるのはキノコや野生動物の肉がほとんどだそうです。

DSC01552学校の中にこんな掲示物が。
これはゴシケーヴィチという人について。
ゴシケーヴィチは江戸時代、ロシア帝国の初代領事として日本に赴任した人です。
ベラルーシ人なんですよ。

今年はゴシケーヴィチの生誕200年として、いろいろなイベントがありました。
その一環として国際会議があり、私も参加したのですが、その中である歴史家の方が「実はこれまでゴシケーヴィチの生地に関してはいろんな説がありましたが、最近の調査でホイニキ地区のストレリチェヴォ村であることがわかりました」と発表したのです。
で、その人の話では「実はストレリチェヴォ村の人たちもそのことは知らないようです」と言っていたのですが、学校の図書館員の人の話では「もちろん、知っていますよ」。
こんな小さい村に日本とのつながりがあるなんて!!!
おもしろいですねえ。


昼食の後は子供たちと散歩。
せっかく来たのに、折り紙だけで帰ってしまうのはもったいないからね。
子供たちに「この村の面白いところを見せて」とお願いしてみました。

DSC01558これはストレリチェヴォ村の人で、独ソ戦で戦った兵士を慰霊する記念碑。
ベラルーシではどんなに小さい村でも、このような戦争関係の記念碑があります。
記念のプレートに兵士一人一人の名前が書いてあるのですが、子供たちはそれを見て「俺の名字と同じだ!」「変な名字!」「これ、俺の親戚かも・・・」。
ほのぼのします。

DSC01561子供たちと村をブラブラ。
世間話をしながらです。
こういうゆったりした時間の流れ方、私にはあまりにも心地よくて。

何か特別な遊び場があるわけじゃないし、子供たちもプレイステーションとかを持っている子はいないし。
でも、子供たちは楽しく時間を過ごす才能を持っている。
大人がなくしてしまいがちな才能を。
ただ散歩するだけでいい。
ただ石をなげるだけでいい。
遊ぶ方法は無限にあるのだから。

子供たちと一緒に幼稚園へ。
私が「どこか面白いところある?」と聞いたら、みんな「じゃあ、幼稚園に行こう!」と言ったのです。
その幼稚園、ミンスクの普通の幼稚園と違いはありません。
でも、子供たちにとっては自分たちが通ったところ。
園長先生は学校の先生も兼任しているから、子供たちは全員顔なじみ。
そもそも、この村には940人しか人が住んでいないのだから、全員が顔なじみ。

DSC01563学校の男の子が「うちのおじいちゃんとおばあちゃんに会ったら、いろんなことが聞けるよ」と提案してくれたので、この道を通って行きました。
舗装されていない道も結構多いです。
典型的なベラルーシの村の風景。

DSC01566道の行き止まりのところにこんな花が。
子供の一人が「日本の桜に似てるでしょ?」
そうかな?
そうかもね!!!

おじいちゃんは村の歴史やチェルノブイリ事故の時の様子などを話してくれました。
正直、ロシア語の訛りがきつくて、話がわかりにくかったです。

帰るとき、入口のところに車いすの男性が。
誰かと思ったら、男の子のお父さん。
お父さん「健康が第一だぞ。俺はチェルノブイリのせいでこんな体になったんだ」
はぐれミーシャ「チェルノブイリのせいなんですか?」
お父さん「だって、他に理由がないだろ」
何の病気かよくわからないのだそうです。

男の子「僕も健康の問題があるんだ。電車の機関士になりたかったんだけど、心臓の問題があるから駄目だって」
はぐれミーシャ「それもチェルノブイリのせいだって思うの?」
男の子「もしかしたらね」

健康の問題があると、何でも「チェルノブイリのせいだ」という傾向、いまだにここではあるようです。
実際にチェルノブイリの影響なのかどうかわかればいいのですが、わからないのだから何とも・・・
どこまでがチェルノブイリの影響で、どこまでが他の要因によるものなのか、それは証明が難しいことでしょう。
事故から28年。
ある病院の人の話では「研究しようにも、時間が経ちすぎている」という言葉を思い出しました。

学校に戻ると、校長先生が入口のところで他の先生と雑談。
校長「あんまり遅いから、捜索願出そうと思ったよ」

DSC01567ストレリチェヴォの入口のところの写真。
また来ることになるだろうなあ。
来てよかった。
いつもは通訳だから自分勝手な行動はとれないけど、今回は自分一人だから、我がままを言っていろんなことができたなあ。


校長先生が車でホテルまで送ってくれました。
校長「晩ごはんはどうするんだ?」
はぐれミーシャ「適当にどこかで買って食べますよ」
校長「それはいかん。一人でホテルにいてもつまらないだろう。うちの奥さんに聞いてみるから、OKだったら、うちで晩ごはんを食べていけ」
正直、かなり疲れていたので、一人でホテルでのんびりしたいという気持ちもあったのですが、せっかくのお誘い。
行こう!!!
元々、私は他の人のうちでご飯を食べるのが大好きなのです。


校長先生のうちは二階建てマンションの二階。
建物自体は古いものですが、中はリフォームがちゃんとしてあります。

校長は「うちの奥さんがOKだったら」と言ったのですが、それは理由があります。
奥さんは幼稚園の子供たちを連れて保養施設に24日間滞在し、その日の昼、ホイニキに帰ってきたばかりだったのです。
うちを留守にしていて帰ってきたばかりだから、奥さんも疲れているだろうし、食べ物もないかもしれない。
でも、校長が奥さんに聞いたら「何でその日本人をすぐに連れてこなかったの? 晩ごはんを作るのは当然でしょ!」と言われたそうです。

IMG_0343[1]校長先生の奥さん「ありあわせのものだけど」
いえいえ、全然豪華です!!!
この後もどんどん料理が出てきました。

飲み物は当然、ウオッカです。
私は普段は飲みませんが、こういうときは付き合います。
今どきの若い人はビールやワインなどを飲む人が多いですが、校長ぐらいの世代なら、当然ウオッカだろうなあと思っていたので、覚悟はできていました。

校長は「もっと強いのもあるぞ」
それは60度のウオッカ。
そんなの飲んだら、大変なことになります。
はぐれミーシャ「明日はブラーギンで折り紙教室をするので、お酒の匂いをさせて子供の前にでるわけにはいかないじゃないですか」
校長「子供たちは親のお酒の匂いに慣れているだろうから、大丈夫だよ!」

最初は疲れていて、私も口が重かったのですが、杯を重ねるにつれ、どんどん饒舌に。
会話のテーマはやはりウクライナ情勢。
ホイニキでもブラーギンでもそうだったのですが、ロシア寄りの発言が多かったです。

どんどん飲んで、二人でウオッカ一本空いてしまいました。
校長「じゃあ、もっと強いの、行くか?」
ここまで来ると逃げられません。

60度のウオッカ。
久しぶりだなあ、こういうの。
私は今までで92度のを飲んだことがありますが、あれもかなり昔のことだもんなあ。

40度の普通のウオッカの場合は、一気に飲み干すのが普通ですが、60度ともなると一気にはいけない。
いや、いけなくないんだけど、明日のことがあるからちょっと躊躇してしまいます。
どんどん酔っぱらっていきます。

DSC01576たくさん飲んで食べて、大満足!!!
校長先生、ごちそうさま!!!


校長先生のうちから歩いてホテルへ。
甥っ子の子供も一緒に。

ホテルに行く途中に校長のダーチャがあるので、寄ってみることに。
ダーチャというのは旧ソ連圏によくあるのですが、小さい家と菜園がある、いわばセカンドハウスのようなもの。
別荘というには小さいものですが、そこで夏の間に野菜や果物を作ったり、それを瓶詰にしたりして、冬に備えるのです。
まあ、セカンドハウスは言い過ぎかな。
かなり小さかったり、古かったりするのが普通なので。
でも、校長のダーチャはさすがに立派なものでした。

DSC01579DSC01585部屋の中にはサッカーやホッケーに関するものがいっぱい。
校長はサッカーのコーチをずっとやっていたのです。
道理でがたいがいいわけだ。
明らかに昔スポーツをやっていた体型です。

校長先生、ベラルーシで1のチーム、「FC BATEボリソフ」の前ヘッドコーチだったガンチャレンコが少年だった時のコーチをやっていたのそうです。
今でも交流があるのだそうで、サインやら写真やら、お宝グッズがいっぱいでした。

私はホテルに帰って爆睡。
明日はブラーギンで折り紙だ!!!

では、続きはまた明日!!!


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2014年04月22日

こんばんは。
はぐれミーシャです。

久々の投稿です。
実は今日は休みだったんですよ。
ロシア正教の復活祭、いわゆるイースターだったので、授業を全部休みにしたのです。
いつもなら、日曜日は朝の9時から19時までずっと日本語を教え続けているのですが、今日はゆっくり休養しました。

さて。
先週、私は久々にベラルーシの地方都市に折り紙をやりに行ってきました。
元々、ベラルーシに住むきっかけになったのが折り紙。
その辺の経緯については2012年1月27日「私とチェルノブイリ 〜瓦討論泙蟷罎ら始まった」に詳しく書いてあります。
以前は一か月に一回ほどはどこかで折り紙を教えていました。
結婚してからはいろいろと忙しくて、一年に1〜2回ほどしかやっていませんでした。
私としては以前のようにもっと頻繁にやりたいという気持ちがあります。

以前にも書いたのですが、この折り紙教室は断じてボランティアではありません。
ただ単に子供たちのところへ遊びに行っているだけです。
楽しいから、楽しい人のところへ行き、会いたいから、会いたい人のところへ行く。
それだけのことです。

今回行ったのは、ベラルーシ東南部のゴメリ州。
ゴメリ州は多くの地域がチェルノブイリにおいて汚染された地域です。
その中のホイニキとブラーギンという町に行ってきました。
ホイニキ地区もブラーギン地区もその一部が強制移住地域に入っており、今現在も立ち入りが制限されている「ポレーシエ放射線環境保護区」に一部が含まれています。

これも念のために書いておきますが、私がホイニキやブラーギンに行ったのは、チェルノブイリの汚染地域だからではありません。
たまたま通訳の仕事を通して知り合いができたので、行っただけです。

いくら行きたいと言っても、何のアポイントメントもなく行くわけにはいきません。
先々週の木曜日、ホイニキの地区執行委員会の女性、ジャンナさんに電話しました。
その人は簡単に言えば、副市長の立場の人。
通訳で訪れた時は必ずお世話になる人です。
もう6回ぐらい会っていて、ツーカーの間柄。
でも、副市長ですからね。
電話するときはちょっと緊張。

はぐれミーシャ「こんにちは」
ジャンナさん「こんにちは。今日はどうしたの?」
はぐれミーシャ「ホイニキの学校でで折り紙したいんですが・・・」
ジャンナさん「いいわよ。いつも視察団が行くストレリチェヴォ村でいいのね?」
はぐれミーシャ「はい。でも、村までどうやって行けば・・・」
ジャンナさん「車出すから大丈夫」
はぐれミーシャ「ありがとうございます。ホイニキに泊まりたいんですが・・・」
ジャンナさん「ホテル、予約しておくわ」

あっさり準備完了。
所要時間3分。

それから、ブラーギン地区執行委員会の副議長、簡単に言えば、こちらも副市長のアンナさんに電話。
はぐれミーシャ「こんにちは」
アンナさん「あら、アキラさん。今日はどんな御用?」
はぐれミーシャ「ブラーギンの学校で折り紙をしたいんですけど」
アンナさん「いいわよ。いつ来るの?」
はぐれミーシャ「来週の火曜日なんですが・・・」
アンナさん「わかったわ。じゃあ、来るの楽しみにしてるわ」
所要時間2分。

日本でもそうかもしれませんが、ベラルーシはやはり直接のコネクションがものをいう世界。
ベラルーシに視察に来たことがある方はご存知かと思いますが、普通はいろんなレターが必要になることが多いのです。
でも、今回は電話一本で、全部OK。
いろんな仕事をしたおかげで、素晴らしい人脈ができました。
二人の副市長さんは私には何故か優しいんです。

私が出発したのは日曜日の夜。
夜20時過ぎの電車でまずゴメリへ。
0時50分にゴメリに到着。
車内が異常に暑く喉がカラカラ。
ゴメリの駅の売店でビールを探すも、瓶ビールで栓抜きもない状態なので、断念して、すぐにホテルに向かうことに。

ホテルは駅の目の前にあるパラダイスホテル。
このホテルは6年ほど前に一度泊まったことがあり、一緒だった日本人の人も「ここはほんとにパラダイスだね」と言ったほど、いいホテル。
ワンフロアだけの小さいホテルです。

フロントに着いて、すぐに冷蔵庫発見。
店にあるような透明なドアのやつです。
非常に感じのいいフロントの女性に「このビールは売っているんですか?」と聞くと、「もちろん!」
普通の店よりはちょっと高めでしたが、即購入。
やはりこのホテルはパラダイスでした。
2時過ぎに就寝。

次の日は5時に起床。
すぐそばにあるバスターミナルでホイニキ行きのチケットを購入。
ベラルーシの鉄道駅やバスターミナルは時々、大行列することがあるので、早めに買っておくことにしたのです。

8時50分のバスで出発。
バスとは言っても、15人乗りの小さいものです。

バスの中からジャンナさんに電話。
「ホイニキのバスターミナルに○○さんが迎えに行くから」
誰が迎えに行くのか全く聞き取れず。

10時40分にバスターミナルに到着。
でも、誰も迎えに来ていない。

11時になって、それらしき車が到着。
運転席から降りてきたのは・・・ストレリチェヴォの学校の校長先生!
校長自らのお迎えでちょっとびっくり。

DSC01571まずホテルにチェックイン。
ホイニキは人口13320人の小さい町。
あまりホテルには期待していなかったのですが、部屋自体は普通でした。
ベラルーシの地方都市にはひどいホテルも結構あるのですが、ここは全然OK。
ベッドがちょっと乱れているのは、私が一度座ったからです。
荷物を置いて、すぐにストレリチェヴォの学校へ向かいました。

DSC01543これが学校の概観。
ホイニキに視察に行かれた方なら、見覚えのある建物ではないでしょうか。

DSC01544校長室に通されると、すぐに食べ物が登場。
校長「軽い朝食だ」
全然軽くな〜い!!!
めっちゃ炭水化物!!!
でも、ここで食べないと途中で息切れするので、全部食べました。
子供相手の折り紙教室はエネルギーを使うのです。

DSC01545まずは9年生と折り紙。
なかなか頭の回転が速い子たちで、普通は鶴を作るだけで時間が終わってしまうのですが、口をパクパクするカエルも作ることができました。

この写真で、一番前の列の左から二人目の女の子、私は何度も会ったことがあるのです。
というのは、日本からの視察団が来ると、この学校の生徒たちが「放射線の安全」に関するプレゼンテーションをしてくれるのですが、そのときに中心になって話をするのが、このナースチャちゃんなのです。
プレゼンの時はメチャメチャしっかりしているのですが、このときは子供らしい笑顔を見せてくれました。

DSC01547最後に記念撮影。
また会おうね!!!

DSC01549次のグループは10年生と11年生のグループ。
ベラルーシの学校は11年生まであるのが普通。
日本のように小・中・高と別々の学校には分かれていないのが普通です。
16〜17歳ぐらいの子供たちはあまりリアクションが大きくないです。
もう大人だという意識がそうさせているのでしょうか。
下の学年のようなはしゃいだ感じはないですね。


ここで折り紙教室の全体の流れを。
最初に自己紹介します。
次に、子供たちに「日本について何知ってる?」と聞きます。
大体、大雑把な答えが多いです。
例えば、「ソニー!」「トヨタ!」「隣に中国と韓国がある!」。
今回はある子供が「ジャッキーチェン!」と言ってきたので、「日本人じゃねーよ!!!」と返してやりました(←大人げない)。

それから、「こんにちは」「さようなら」などの日本語の簡単な挨拶が書かれた紙を渡します。
それをみんなで発音します。
それから、黒板に漢字を書いて、意味をあてるゲーム。
例えば、「山」という漢字を書いて、「これはどういう意味でしょうか?」と質問します。
もちろん、ヒントを与えながらです。
「これはベラルーシにはありません」「自然界にあるものです」
これは結構盛り上がります。

それから、折り紙のスタートです。
普通は鶴を折ります。
ベラルーシでも折り紙は知られているので、鶴の折り方を知っている子供もいるのですが、間違った折り方のことが多いのです。
最後のほうのある過程を飛ばしてしまうので、太った鶴になってしまっているのです。

それが終わったら、記念撮影。
そして、一人一人の子供にその子の名前と私の名前を日本語で書いてあげます。
子供たちが教室を出ていくとき、「さようなら」と日本語で言ってくれるのがうれしいです。

子供たちにとってはいい思い出になるのではないかと思っています。
日本は子供たちにとっては未知の遠い国。
日本のことは少し聞いたことはあっても、詳しいことは知らないし、ましてや日本人と話すなんて、特にベラルーシの田舎ではありえないこと。

このストレリチェヴォの学校には多くの日本の視察団が訪れました。
日本人の目的はチェルノブイリ関係の対策について知ることです。
この学校には「地域情報センター」が設置されており、食品の放射線測定ができるのです。
子供たちが自分たちで機器を使い、測定をすることで、放射能に関する知識を学ぶクラブがあるのです。
視察団が訪れると、そのクラブのプレゼンテーションを見せてもらうのが通例です。

私はそのこと自体は全く悪いとは思いませんし、むしろこの学校で見たことを日本で役立ててもらいたいと願っています。
ただ、これからは一方的に見せてもらったり、情報を得るのではなく、「交流」もしていかないといけないと思うのです。
自分たちが必要なものをもらっただけでは、片手落ちだと思うのです(←うまく説明できなくてすみません)。
似たようなことをベラルーシ人に言われたことがあります。
「日本人は私たちから情報や知識は欲しがりますが、私たちと交流はしたくないんでしょうか?」

だからというわけではないのですが、少しでもこの学校の子供たちに日本の文化に触れてほしいと考えたのです。
まあ、単純に子供たちと折り紙がやりたかったというのが第一の理由ですが。


二つ目の授業を終わって、校長先生が「じゃあ、昼ご飯を食べましょう」と言ってきました。
でも、せっかくこんな遠いところまで来たのに、折り紙教室が二つだけでは物足りない。
「もう一回、違うクラスで折り紙をやることはできますか?」
校長先生はびっくりしていました。
「そんなにたくさんやって、疲れないか? 大丈夫か?」
はぐれミーシャ「大丈夫です!!!」

DSC01553DSC01555次のグループは8年生。
いやあ、元気ですよ、みんな。
他の学年の子たちから話を聞いていたのか、みんなうれしそうに折り紙をしていました。
このグループの中にも、通訳で来た時に見かけた顔が。
また日本人と来るかもしれないけど、よろしくね!!!

終わったのは14時30分。
疲れたけど、楽しかった!!!

この続きはまた明日!!!

akiravich at 01:26コメント(0)トラックバック(0) 
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