はぐれミーシャ純情派

2014年10月27日

こんばんは。
はぐれミーシャです。

今日は殴り書きです。
というのは、今お酒を飲んでいて、感じたことをそのまま書くからです。

私はお酒を飲みながら、大好きなプロレスを見たり、日本のテレビ番組を見たりするのですが、ちょっと深酒になると、Youtubeなどで中森明菜の歌を聞きます。
大好きです、中森明菜。

中森明菜の歌で好きなのは「SAND BEIGE -砂漠へ-」「難破船」「セカンド・ラブ」「TANGO NOIR」などなどです。
今も聞いていました。

私がまだ小学生の時、歌のベストテンでよく耳にしていました。
今聞くと、彼女の歌唱力、表現力などがとてつもないことがわかります。
胸が痛くなるほどです。

中森明菜を評して、「歌唱力はいまいちだが」という書き方をする人がいます。
でも、そもそも「歌唱力」とは何なのでしょうか?
よく「歌がうまい」という言い方をします。
歌を技術的に上手に歌うことを「歌がうまい」と言うのであれば、それは「歌」の本質をとらえていないような気がします。

歌は何かを伝えるためにあるのだと思います。
よりよく伝えるためには、ただ言葉を発音するよりも、歌という手段のほうが伝わる、そして染み渡るからこそ、歌があるのであり、人の胸を打つのでしょう。
それを技術的な部分だけを取り出して、うまいか下手かを論じるのはナンセンスというものです。
それに私は中森明菜が技術的に問題があるとはどうしても思えないのです。
十分うまいとおもいます。

「何かを伝える」ということで言えば、中森明菜以上の歌手を私は知りません。
不幸なほどに歌を生き、歌に呑み込まれていった歌手を私は知りません。

お酒を飲みながら、中森明菜の「スローモーション」を聞いて、自分の想いが止められなくなりました。



スローモーション

出逢いはスローモーション
軽いめまい 誘うほどに


はぐれミーシャ純情派 第六話 それは鎌倉の空から始まった
今の自分にはあの時の出逢いはスローモーションに映る。
ウズベキスタンという遠い国から来た彼女ができることの戸惑いと彼女が彼女となり一緒にいられる喜びが螺旋に絡まり、そして抱きしめたいという感情。
二人のめまいが絡まって、そしてほどけなくなる。

出逢いはスローモーション
恋の景色 ゆるやかだわ
出逢いはスローモーション
恋の速度 ゆるやかに

出逢いは走り出し、そして速度を緩め、僕たちの景色は一致していく。
二人が同じ速度で歩き出し、そして違う速度で歩き始めた砂漠の国。
ずれていく景色が軋む音は砂の嵐にかき消される。
そして、僕たちの足跡も消え、その景色の残像だけが網膜に嵐を起こす。





今の私は幸せそのもの。
愛する妻がいて、息子もいる。

しかし。
私の目の奥にはタシケントからモスクワに向かう飛行機の窓から見た砂漠が心の底に沈んだまま。
あのときの「渇き」で、今も喉が焼け付きそうな、そんな感情になるときがある。
はぐれミーシャ純情派 タシケントな時間А。厳遑影(最終回)


SAND BEIGE -砂漠へ-

サハラの夕陽をあなたに見せたい
さよならを私から決めた別離れの旅なのに
翼を広げて 火の鳥が行くわ
地の果ては何処までか 答えてはくれないの

私の地の果ては砂漠ではなく、強烈な渇きの果てにあるのが砂漠で。
渇く。
渇きが砂漠を引き寄せる。
むしろ砂嵐。
夕陽が見たい。




言葉を言うだけで何かが伝わるのなら、簡単でしょう。
それは揚げることによって、生よりもおいしくならないのであれば、てんぷらにする必要がないのと同じ。
生で食べればいいわけです。
歌は歌にすることに意味があり、歌を歌う人が言葉以上の言葉で語るためのもの。
そういう意味では中森明菜は・・・言葉が見つかりません。



私が常に心の中で常に想っている言葉があります。
「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の胸に響かない」(聖パウロのコリント人への第1の手紙の13章)

響いてますよ、明菜さん!!!

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2010年05月15日

おはようございます。
はぐれミーシャです。
今日はこの前の続きで、どうやって私がベラルーシへ来たのかを書いてみたいと思います。

ベラルーシに至るまでの経緯ははぐれミーシャ純情派をご覧ください。

私がベラルーシにやってきたのは8月25日の朝。
私は寝台車の個室で来たのですが、夜の間、国境で厳しいチェックがあるのではないかとビクビクしていたので、あまり寝られませんでした。
でも、実際は全くのノーチェック。
当時、ロシアとベラルーシの国境はほとんど国内移動扱いなので、チェックがなかったんです(←今はどうかはわかりません)。
ベラルーシ人の場合は飛行機で移動してもパスポートコントロールもありませんし。

8時半ごろ、ミンスク中央駅に到着。
降りると、そこには招待状を送ってくれたNさんが来てくれていました。
Nさんのいつもと変わらぬ笑顔を見て、私は心の底からホッとしました。

すると、そこに早速警官が。
「今の電車に乗っていたのか? パスポートを見せろ」
普通だったらドキドキものですが、このときはNさんがいたので、割と安心していました。

っていうか、ここ、駅?
プラットフォームが高くなっていなくて、地面がアスファルトになっているだけなんですけど。

駅舎を通って町に出るのですが、その駅舎が古くてびっくり。
そして、町に出ると・・・

そこに広がるのは灰色の町。
モノトーンと言えば聞こえはいいが、これは明らかに暗い。
全体的にどんよりしている。
モスクワは建物自体は暗い色合いの物が多かったが、それでもそこら中に鮮やかな看板があったから、そんなに暗い印象はなかった。

まずNさんのうちへ。
朝ごはんを食べながら、いろいろな話をする。
これまでのこと、これからのこと。

それにしても、Nさんはいつものように優しい。
Nさんというのは、私が東京で知り合ったベラルーシ人の女性。
私がロシア語の演劇グループに所属していたときに、彗星のごとく現れ、私たちの心をわしづかみにし、一緒に劇を作り上げてくださった方なのです。

一緒に買い物に出かける。
近くのディナモ・スタジアム。
8月だというのに、ミンスクは肌寒い天気だったので、ジャンパーを買いに出かけたのだ。
そういえば、私の冬物の服は全部タシケントに置いてきたままだ。

それから、外国人登録のために役所へ行く。
Nさんはその役所で私のために招待状を作ってくれたのだった。
そして、その手続きはかなり大変なものだったらしい。
今でも感謝の気持ちでいっぱいである。

その日は肉体的、精神的疲労で20時に就寝。

次の日は日本大使館へ。
Nさんと一緒に。
在住登録を済ませる。

そして、次の日も日本大使館へ。
そのとき、私はニャミーガという駅から歩いて大使館へ行ったのですが、そのニャミーガを流れる川の反対側にはトロエツコエ旧市街区という昔の町並みを再現した観光地があって。

その日は快晴。
澄んだ青空とレンガ色の家々。
川の向こうのその景色を見て、「俺はベラルーシに住むぞ!」と心に決めたのです。
自分の人生を決めてしまうほど、私はその景色が気に入ったのです。

我ながら単純だとは思いますが、でも、人生なんてそんなものですよね!?
きれいなものはきれい!

ベラルーシに着いたものの、仕事はありません。
Nさんにはタシケントにいたときから電話をしていて、「仕事があるかどうか保障はないけど、とりあえず来てみて」と言われていたのです。

着いてしばらくして、私はNさんとベラルーシ国立大学の国際関係学部に行きました。
私が今働いているところです。
夏休み期間で建物はガランとしていました。

東洋語講座の部屋に入ると、そこには私の未来の上司がいました。
彼は私に対して英語で話しかけてきました。
私が「すみません。ロシア語でお願いします」とお願いしても英語で話しかけてきました。
外国人だから英語のほうがいいだろうと思ったのでしょう。

私が「ここで働きたいです」と言うと、「今のところ、仕事はないんだけど」と前置きした上で、「第二外国語のグループを作ってみましょう。希望者がいればあなたを雇いますが、もしいなかったらすみません、ということで」

私は一週間の間、祈るような気持ちで返事を待ちました。
もしグループができればミンスクに残る。
もし出来なければ・・・タシケントへ帰る。

私の中では日本へ帰るという選択肢はありませんでした。
出発前、あれだけ壮行会をしてもらって、このまま何もせずに帰るなど絶対に出来ないことでした。

一週間後にもらった答えは「グループが出来たので、うちで働いてもらいます」
この返事をもらったときは本当にうれしかったです。

とまあ、こんな感じで、私はベラルーシで就職先を見つけたのでした。
でも、うちの大学に就職できていなかったら、全然違う人生を生きていたんだろうなあ。
ミンスクに住めなかったら、帰るところはタシケントしかなかったと思うし。
それに、他の国へ行ってたかもしれないし。
そうなったら、ベロニカちゃんとも出会っていなかったと思うし。
全ての幸せな偶然が重なって、今の私があるのだと思います。

ベラルーシに来てからのことはまたいつか書いてみたいと思います。
この10年間、いろんなことがありました。
本当にいろいろありすぎて、我ながら笑ってしまいます。
人には言えない失敗も散々してきました。
でも、それもいい経験なのかな。

では、また!

akiravich at 11:00コメント(3)トラックバック(0) 

2010年05月12日

こんにちは。
はぐれミーシャです。
今日は昨日の続きです。

モスクワにいたるまでのいきさつははぐれミーシャ純情派をご覧ください。


私のモスクワでの生活はなかなか楽しいものだった。
私はベラルーシに行くための招待状がないとビザを取ることが出来ない。
ミンスクに住んでいるNさんが全て手伝いをやってくれていたのだが、なかなか招待状を取るのも楽じゃないらしく、寮の近くの電話局から電話をするのだが、「もうちょっと待って」という返事しか聞けない。
こちらはお願いしている身なので待つしかない。

毎日、よく料理をした。
K君やMちゃんなどの日本人留学生にも食べてもらったりもした。
寮の台所は各階共同で使いにくかったけど、いろんな人との交流の場にもなっていて楽しかった。

私はモスクワではほとんど観光はしなかった。
特に興味がなかったし、精神的に観光どころではなかった。

それでも、何度か出かけたことがあった。
一つはマヤコフスキー博物館。
マヤコフスキーというのはロシアの有名な詩人。
かなり面白かったなあ。
行く途中で、モスクワの警官に捕まったりしたのもスリリングだったなあ。

あと、一人でチャイコフスキーの家博物館に行ったのもいい思い出。
それはチャイコフスキーが最後に住んでいた家をそのまま博物館にした物。
モスクワ郊外のクリンという町にあって、電車で・・・うーん、どれぐらいかかったかなあ、2時間ぐらいだったような気が・・・
クリンの駅からバスで行かないといけなかったのですが、どこで降りたらいいのか全くわからなかったので、車掌のおばさんに教えてもらって。
降りたはいいけど、博物館がどこにあるか全くわからずかなりさまよいました。

博物館には感動!
チャイコフスキーの遺品なんかがたくさん展示してありましたから。
いろんなことを忘れ、音楽への想いに耽った時間でした。

帰り道、クリンの町の市場へ。
まあ、特に面白いことはなし。
普通の町の普通の市場でした。

駅の近くの店に入ってみると、そこにはクリンのビールが売られていました。
あとで知ったのですが、結構有名だそうで。
モスクワでも売っていることを知らない私は喜び勇んでみんなへのおみやげとしてクリンビールを大量購入。
寮まで持って帰るのが大変でした。

そうこうしているうちに、ベラルーシのNさんから招待状が。
モスクワのベラルーシ大使館の住所を調べ、ビザの申請に。
地下鉄の駅から結構歩いたかな。

道に迷ったので、近くで何かを売っていたおばさんに道を聞くと、「私は道を説明するためにここにいるんじゃない」という冷たい返答。
正直、モスクワは人が冷たいなあと感じることがしばしば。
もちろん、いろんな人がいるんだろうけど、ミンスクだったらそんな反応をされることはほとんどありません。

大使館に着くと、長蛇の列。
かなりの人数です。
私の前のほうにはトルクメニスタン人が大量にいて。
そして、あとからその仲間たちが割り込んでこようとするので、軽い小競り合いに。
あれはむかついたなあ。
ベラルーシ大使館の営業時間が結構短かったので、時間内に入れないと困るのです。
でも、何とか無事にビザ申請。
結構高いし、時間もかかりました。

ビザが出来たら、すぐにベラルーシに向けて出発するつもりでした。
最後に寮に住んでいる日本人たちと大パーティー。
夏の間のサマーコースに来ている大学生がかなりいたから、参加者は30人近くいたんじゃないかなあ。
料理は豚の角煮とか、モスクワとは思えないような物ばかり。
あのときは楽しかったなあ。

そして、私は8月25日、ミンスクへ向けて出発しました。
その日の夜はみんなとの別れを惜しみました。
K君とMちゃんは駅まで見送りに来てくれて。
Mちゃんは私のために泣いてくれました。

モスクワではいろんな思い出が出来ました。
日本食材の店に行ったり、アルバート大通に行ったり、みんなで大人のおもちゃ屋に行ったり(←私は中を覗いただけでしたけど)。

全部、K君が快く私を迎え入れてくれたから。
今でも彼には感謝しています。
精神的にボロボロだった私を気遣うでもなく、それでいてさりげなくサポートしてくれたK君のことは今でも本当の親友だと思っています。
彼からすれば、かなり迷惑な客だったかもしれないけど。
本当にありがとう。

私は希望に燃えて、ベラルーシへと向かいました。
正直、私はベラルーシについての基礎知識も何もなく、日本語教師の職があればいいなあ、ぐらいにしか思っていなかったのです。
この国との出会いが私の人生を変えてしまうとは全く考えてもみなかったのです・・・

akiravich at 12:27コメント(0)トラックバック(0) 

2010年05月11日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日は私がウズベキスタンにいたときに書いた日記「はぐれミーシャ純情派」のその後を書いてみたいと思います。
以前から「どうやってベラルーシに住み始めたんですか?」とか「どうやってベラルーシで日本語教師の職を得たのですか?」という質問があったので、その質問に答える形です。

私がウズベキスタンにいたときの話をご存知でない方はぜひ「はぐれミーシャ純情派」をお読みいただければと思います。



私がウズベキスタンの首都タシケントを後にしたのは2000年8月1日。
死んだように眠って、つらつらと目が覚めたときには眼下に砂漠が広がっていました。
そんな砂漠の上を渇き切ったはぐれミーシャはモスクワへと向かったのです。

到着したのはドモジェドヴォ空港。
あっさりとパスポートコントロールを通り、ロビーに出ると、タクシー運転手の勧誘攻撃が。
一緒にロシア語を勉強したK君が迎えに来てくれるはずだったのですが、なかなか現れてくれません。
待っている間も「タクシーのほうが速いぜ」「お前の友だちは用事があって来られないんじゃないか?」と運ちゃんの攻撃が。

理由は忘れましたが、K君は1時間(1時間半だったかな・・・)遅れで迎えに来てくれました。
二人で地下鉄に乗って、ユーゴ・ザーパド駅へ。
そこからバスに揺られて、K君が勉強している大学へと行きました。
K君が住んでいる大学の寮に泊めてもらうためです。

実はタシケントにいたときから、ミンスクに住んでいるベラルーシ人の知り合いと連絡を取っていたんです。
「日本語教師の仕事があるかどうか保障はできないけど、とりあえず来てみたら?」と言われていたのですが、タシケントではベラルーシからの招待状がなかったのでビザが取れなかったので、モスクワでビザを取ることにしていたのです。
とりあえず招待状がないとビザが取れないので、それをモスクワで待つことに。

K君の学んでいた大学は外国人がロシア語を学ぶための大学。
そこの寮はお金を払えば泊めてもらうことが出来たのです。
お金がない私にとっては救いのようなものでした。

とりあえず私はK君の部屋に泊まることになりました。
せっかく彼は部屋を一人で使っていたのに、私がもぐりこんで彼にはずいぶん不自由をかけたと思っています。

他にもK君にはものすごくお世話になって、私は今でも感謝の念を強く持っています。
彼がいなかったら、モスクワでの生活は地獄のようになっていたでしょう。
タシケントを後にした私の精神状態は最悪だったからです。
別れたままになってしまったグーリャのこと、お世話になったラリサおばさんやアレーシアのこと・・・
とにかく自分を支えるだけで精一杯の私を元気付けてくれたのはK君でした。
本当にありがとう。

私は東京ロシア語学院時代の恩師Y先生がその大学に学生の引率で来ていることを知っていたので会いに行きました。
先生の部屋に入ると、先生はびっくりして「あなた、ミーシャなの!? 本当に?」。

なぜびっくりしたのかというと、タシケントに行く前とそのときとでは顔が全く違っていたからです。
私はタシケントの灼熱地獄の中、一ヵ月半で12キロもやせていたのです。
頬がそげて別人のように見えたそうです。

Y先生は私の話をたくさん聞いてくれました。
私はモスクワに3週間滞在することになったのですが、その間、いろいろと精神的に助けていただきました。
感謝しています。

久しぶりの再会を終えて、K君と晩御飯の買い物に。
一階のロビーを歩いていると、向こうからどこかで見たような顔が。
それは日本で一緒に劇をやったO君!
彼はいつものように飄々とした顔で「古○さん、こんなところで何をやってるんですか?」
はぐれミーシャ「それはこっちのセリフだ」
私は本当に心から彼との再会を喜びました。

スーパーに行ってみると、物が豊富でびっくり!
まあ、モスクワですからね。
ウズベキスタンとは全然違いました。
私は何度もそのスーパーには足を運びました。
お金の感覚がいまいちわからなくて、私はかなり高い食品もポカポカ買っていました。

こんな感じでスタートしたモスクワ生活。
K君の他にも、Y先生が連れてきた学生たちとも友だちになりました。
外国人寮なのでいろんな国の人がいます。
中国人の女の子や韓国人の女の子も優しかったなあ。
同じ屋根の下ですから、みんな何か連帯感があって、心が温かくなりました。
タシケントの灼熱の太陽の下、一人でさまよい歩いた日からは想像もつかないほどです。

私はモスクワに住み始めて、しばらくの間は体調が恐ろしく悪かったです。
タシケントの渇き切った空気から全く違う環境のところに来たのですから、体調を崩すのも当然かもしれません。
頭痛や吐き気などで、しばらくは体調を取り戻すのが大変でした。
そして、心の痛みは・・・言葉に出来ないほどの苦しみを味わいました。
タシケントを去るという俺の行動は正しかったのか、と・・・

モスクワ滞在三日目。
私はモスクワ市内のホテルに泊まることになりました。
それはK君から追い出されたわけではなく、外国人登録のため。
大学ではその手続きが出来なかったので、ホテルに一泊して登録してもらうことにしたのです。
一度登録すると、その後の滞在場所はどうでもいいようでした。

モスクワの町に不慣れな私はK君にホテルまで連れてきてもらいました。
そのホテルはインツーリストホテル。
赤の広場の近くです。

私はすることもなかったので、軽く赤の広場を見物し、そのあと近くの本屋へ行きました。
昔から本屋や古本屋が大好きでした。
心が落ち着きます。

特に私は古本屋が大好き。
東京に住んでいた頃は神田の神保町に入り浸っていましたから。

かなり大きい本屋の古本コーナーに行くと、また味のある背表紙がずらり。
色あせたものから、茶色がかったものまで、年季の入ったところを感じました。

私はふとそこに一人の東洋人が立っていることに気がつきました。
日本人かな。
何か背格好がどこかで見たことがある感じだなあ。
ひょっとして、Tさんかも?
この時期、モスクワに来ているって言ってたし。

で、近づいてみると、本当にTさん!
二人で歓喜!
言葉になりません。
こんなところで出会えるなんて!
二人で再会を喜び合いました。

それにしても、モスクワのような超大都会で友人と出会えるなんて、奇跡としか言いようがありません。
タシケントにいたときから、彼がモスクワにいることは知っていたので、何とかして会いたいなあと思っていたのです。

Tさんとはホテルの部屋でしばらくお話しました。
そして、近いうちに会う約束をしました。

ホテルから寮へ戻ってからの毎日は楽しく過ぎていきました。
もちろん、タシケントの地獄を思い出し煩悶することもありましたが、周りにいた人たちの優しさに助けられた感じです。

特にK君。
彼には感謝しても、感謝し切れません。
本当にありがとう。

ここから、私は8月25日までの3週間をモスクワで過ごしました。
モスクワでの生活についてはまた今度・・・

akiravich at 00:35コメント(0)トラックバック(0) 

2009年02月11日

今日で「はぐれミーシャ純情派」の連載を終わりました。
どれくらいの人が読んでくださったのかはわかりませんが、もし読んでくださった方がいらしたら、その方には心からありがとうと言いたいです。
これは自分の過去に「けじめ」をつけるために書き始めた文章。
簡単に言えば、自己満足のための文章なので、人に読んでもらうことは想定していませんでした。

タシケントで書き始めたのが、8年半前。
タシケントを去り、モスクワに行って、その後、ミンスクに住み着いてからもしばらくは書いていました。
しかし、思い出すことの辛さには勝てず、放置したまま8年もの歳月が過ぎてしまいました。
何とか形に残したいという気持ちをずっと持っていたのです。

私にとって、この「タシケント体験」は強烈に心の中に焼きついています。
今でも、あのときの一瞬一瞬が鮮やかに思い出せるほどです。

住むところを探して町中を歩き回ったあの日、私の中で何かが180度変わってしまいました。
あのタシケントの太陽の下で、私は心の底から「生きたい」と思ったのです。
それまでの私は常に心のどこかに自殺願望を抱いていました。
愛読書は太宰治の「人間失格」。
生きていられたのは、私の両親を悲しませたくない、自殺したらこれ以上の親不孝はないだろうという想いだけでした。
でも、死に惹かれる想いは常に心の中に巣くっていたのです。

私はタシケントの太陽の陽に灼かれて、心の底の底のまた底から「生きたい」と本能が叫ぶのを全身で受け止めました。
生れて初めて、「生きたい」と思い、誰にもわからないような小声でその言葉を繰り返したのです。

あの時以来、死にたいと思ったことはただの一度もありません。
地獄の中で生きる勇気をもらったのです。

その後、私はモスクワへ行きました。
東京ロシア語学院で一緒に学んだ友人のK君がモスクワに語学留学していたので、彼を頼って、彼が住んでいる寮に転がり込みました。
そこには、私の恩師である山田先生もいらっしゃいました。
山田先生は私を見て「ミーシャ、あんたなの!?」と目を疑っていました。
というのも、私はタシケントでの一ヵ月半の生活の中で12キロも体重を落としてしまっていたからです。
タシケントへ出発する前に挨拶したときとは別人のような顔だと言われました。

そのまま、私はK君の寮に3週間も居候しました。
彼にはとても迷惑を掛けたと思います。
今思うと、よく我慢してくれたなあ、と感謝の気持ちで一杯です。
その時の話もいつか書いてみたいです。

2000年8月25日、私はベラルーシに入りました。
東京で知り合ったベラルーシ人演出家のナターリヤ・イワノワさんの助けによるものです。
ナターリヤさんがいなかったら、今の私はなかったでしょう。
最初の一ヶ月は図々しくも、ナターリヤさんのうちに居候していたのです。
ナターリヤさんが私を今の大学の上司に紹介してくれたことから、私のベラルーシ生活は始まったのです。
今はナターリヤさんとは訳あって連絡を取っていません。
どんなことがあっても、私の心の中にある、ナターリヤさんに対する感謝の気持ちは変わりません。

いろんな人に支えられてここまで生きてきました。
やはり一番感謝したいと思うのは、両親です。
時にはケンカもしたし、ほとんど口を利かないような時期もありました。
私は反抗期が長かったので。
でも、こうやってベラルーシと日本、離れてみて、どんなに両親が心の支えになっていたのかを知りました。
今でも素晴らしい両親がいることは心の支えです。
いつか恩返ししたいと思いつつ、出来ないでいるのが歯がゆいのですが。

そして、タシケントの人々。
ベラルーシに来て、しばらくは何回かラリサ叔母さんに電話をしていました。
でも、その頃のタシケントは電話事情が悪く、うまくつながらなかったり、混線して、同時に二人の人が受話器を取ったりして、なかなか大変でした。
手紙もよく書きました。
アレーシアに誕生日のプレゼントを送ったこともあります。
送ったのはテニスウエア。
PUMAの本格的なもので、タシケントでは絶対に売っていないようなものでした。
後から来た手紙には「喜んで、天井まで飛び上がった」と書いていました。
私にとって、アレーシアは妹のような、いや、本当の妹なのです。

その後、ラリサ叔母さんとは連絡が途絶えています。
もう4年近く電話していません。
何故かはわかりません。
私の心の中にはいつも「電話しなきゃ」という気持ちがあるのですが・・・

ラリサ叔母さんに聞いた話しでは、グーリャはもう結婚したとのことでした。
ここでは詳しくは書きません。
とにかく幸せになっていて欲しいと思います。

いつかはウズベキスタンに行きたいと思っています。
もちろん、ベロニカちゃんと一緒に。
今の私の原点とも言うべき場所。
タシケントは、そして砂漠は今も私の心の中にあります。

はぐれミーシャ純情派
第一話 出会い
第二話 デートなのか、国際交流なのか
第三話 焼き物からカルボナーラへ
第四話 スパニッシュオムレツ in 世田谷
第五話 二つのコートと一つのポケット
第六話 それは鎌倉の空から始まった
第七話 一秒の決断
第八話 ドトールで指輪の交換を
第九話 うちにおいでよ
第十話 桜の花びらが舞う頃
第十一話 束の間の別れ
第十二話 愛で自転車が曲げられますか?
第十三話 僕たちの約束の場所

はぐれミーシャ純情派 タシケント激闘編
?7月5日
?7月6日
?7月7、8日

はぐれミーシャ純情派 黒い水
?黒い水
?黒い水

はぐれミーシャ純情派 タシケントな時間
?7月23日
?7月24日
?7月27日
?7月28日
?7月29日
?7月31日
?8月1日

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8月1日(火)

運命の日である。これで俺の中でタシケントが終わる。いや、多分これからも続くのだろうが、タシケントを離れれば少しは気も楽になるだろう。長い長い旅の一区切り。

5時前に目が覚めた。寝たのが2時近くだから、強烈に眠い。しかし、時間に遅れるわけにはいかない。眠気を振り払って身支度をする。ラリサ叔母さんとアントンが見送ってくれるのは知っていたが、アレーシアも空港に行くと言い出した。それはとてもうれしかった。

いつものようにお茶を飲むのだが、今日はなんか雰囲気が違う。珍しく全員そろった。誰かが言った冗談がカラコロと空々しく響く。昨日の夜まで、ラリサ叔母さんは「行くのやめて、タシケントに残ったら」と言っていたが、当日の朝になるとさすがにあきらめがついたらしい。笑おうと努力している。にっこり笑って、お別れしたいけど・・・。

日々の疲れと寝不足が重なって、おれは笑顔を見せることが出来なかった。もうタシケントを出ることで必死である。もう迷いはない。彼女の事に関しては、迷っていない。

2、3日前の夜、おれの心に致命的なダメージを与える出来事が起こった。夕食を終わり、いつものように静かな夜。ラリサ叔母さんと座って話していると、アレーシアがテニスのバッグを抱えて何かやっている。彼女から頼まれて、おれがプレゼントしたバッグである。かなり気に入っていた様なので、いつも触れていたいのだろう。

すると、アレーシアがバッグの脇のポケットから何かを取り出した。それはリップクリーム。アレーシアは唇にぬっている。最初は気づかなかった。でも、どこかで見たことがある。アレーシアがまたバッグの中にしまおうとするのを「ちょっと見せて」と言って、その手を止めさせた。

それはおれが彼女にあげたリップクリーム。おれより先に彼女がタシケントに帰るときに成田空港で渡したやつだ。空港でおれはいろんな物を渡した。それ以外に何をすればいいのかわからなかった。彼女との1ヶ月以上の別れ。またタシケントで会えることがわかっているのに、せつない。離れることがわかっていたからであろうか、その日までおれと彼女は二度と会えない二人のように逢瀬を繰り返していた。その「温度」は俺の人生の中でも最高のものであった。あまりにも情熱的に、燃え尽きることを恐れないほどに。別れの後の寂しさを想像しては、一人身悶えをしたものである。彼女は、この別れのときになっても、俺がタシケントに行くことを信じていなかった。そして、おれは二人がタシケントで幸せになれることを信じて疑わなかった・・・

おれはポケットやバッグの中に入っていたものをみんなあげた。ガムやペン、消しゴムなど。少しでも彼女を近くに感じたいし、彼女にもそう感じて欲しいから。その中にはリップクリームも入っていた。普段、俺が使っていたやつである。彼女にそれを渡すと、彼女はまず自分の唇に塗り、そしておれの唇に塗った。家族のいる前ではキスも出来ない。その代わりのつもりなのだろう。それが日本での最後のキスである。

そのリップクリームがおれの目の前に、しかもアレーシアの手の中にある。彼女からもらったらしい。まだおれが東京にいたときのことである。彼女がそのリップを持っているのを見て、アレーシアが「それ、何?」と聞いたのだ。まあ、タシケントには存在しないものだから珍しかったんだろう。アレーシアが珍しそうにそれを見ていると、彼女が「欲しいんなら、あげる」 ・・・。

心は決まった。迷いもない。モスクワだ。このときの気持ちはなんとも表現しようがない。それまではまだ迷っていた。彼女のことを愛する気持ちは少しも弱まっていなかったのだ。でも、そのリップクリームを見た瞬間、すべてが終わった。愛が消えたわけじゃあない。背中を押されたのだ。苦しさと愛しさのパラドックスから抜け出すこと。とどめの一撃は、あまりにも残酷に。

5時半、ラリサ叔母さん、アントン、アレーシア、みんな一緒に空港に向かう。タクシーで10分ほどの道のり。窓からの眺めはいつものタシケント。

空港に着くと、入口の近くにはたくさんの人だかり。見送りの人達だ。空港の中に入れるのは、搭乗券をもっている人だけ。見送りの人でごった返している。

みんなとお別れ。言葉がない。テレビ番組でよくあるような涙の別れになると思っていたが、何も出てこなかった。何かしたい。アレーシアを抱きしめたい。アントンも、ラリサ叔母さんも。ラリサ叔母さんには抱きしめられた。しかし、おれには抱き返す力がない。そのために必要な「感情」が枯れたかのような・・・。強烈な疲労感だけ。肉体的にも精神的にも、立っているのがやっとなのだ。アントンとは握手。「また会おう」・・・。アレーシアはにっこり笑った。二人してぎこちない笑顔を交わす。

アントンはいずれモスクワに行くだろうから、また会えると思う。でも、アレーシアとは会えないかもしれない。会えるとすれば、それはアレーシアがプロのテニスプレーヤーになったときだ。海外でプレーするほどの選手になれるかどうか。ラリサ叔母さんとは、きっと会えないだろう。「いつか必ず日本に行くわ」としょっちゅう言っていた。ラリサ叔母さんの夢である。

おれがまたタシケントに来れば、また会える。サイラム・ツーリズムの誘いに乗れば、またタシケントに住むことになるのだ。でも、彼らは直感的に感じている。おれがタシケントには戻ってこないだろうということを・・・

空港のロビーに入る。ラリサ叔母さん達は、おれが税関審査を終えるまで、外から見ていてくれる。

まず税関申告書を書く。おれは入国時の申告書を持っていない。もう一度書けば許してもらえるとは聞いていたが、一応係員に聞いてみる。「もう一度書けばいいよ」

その申告書を持って税関の所まで行く。X線を通して、申告書を渡した。係のやつはすぐ気づいた。入国時の申告書のほうにはんこが押してなかったからだ。押してあるわけがない。たった今書いたんだから。その係員は「これはダメだ」の一点張り。それしか言わない。じゃあどうすりゃいいんだよ。

そして、50ドルまでしか持ち出ししちゃあいけない、などとわけのわからないことを言い出した。おれも切れた。逆切れである。「50ドルまでって何だよ。そんな法律あるのか! あるんなら見せてみろ!」 返事は「ダメなもんはダメだ」の一言のみ。「お前、名を名乗れ! おれは日本の大使を知ってんだ。これから電話してやる。日本大使館でもう一回言ってみろ!」「そんなのは知らん。おれには関係ない」うーん、なかなか相手もやるなあ。「お前のロシア語は早すぎるんだよ。もっとゆっくり話せ!」ここまで来ると単なる言いがかりである。「おれはもともとこんなしゃべり方だ。ゆっくり話せねえんだ」向こうも怒っている。こんなやりとりが続いた。しかし、こちらの否は明らかである。この口論は税関に軍配が上がった。ラリサ叔母さん達は心配そうに見ていた。

他の税関職員のところに行ったら、あっさりOK。「次は気をつけなよ」で終わりである。
あのけんかは何だったんだろう・・・

ここでラリサ叔母さん達とは完全にお別れ。大きく手を振る。霞んで見えないのは、空港の窓ガラスが汚れているからだ。

次は搭乗手続き。明らかに重量オーバーの荷物を量りの上にのせる。係員が「すごい!」と言っているのだが、何のこと? よくよく聞いてみると、スーツケースを誉めているらしい。ライトグリーンという色も珍しいし、造りも頑丈である。他の乗客のを見ると、こんな立派なスーツケースはない。

そして、飛行機のチケットとパスポートを係員に渡す。このおっさん、いい味出してる。大村昆ばりの黒ぶちメガネに金歯。すると、「お前、日本人か? おれは日本語、知っているぞ!」何を言うのかと思ったら「やらしい!!」 うれしそうな顔で連発している。どうゆう意味だか知っているのか聞いてみると「それはハラショー(いい)という意味だ」
いったい誰がそんな日本語教えたんだ? 一応、意味を説明して、使わないように勧めた。こんな暗い気持ちのときには、こんな笑いが助けになる。
 
出国審査を終えて、登場のアナウンスを待つ。普通、空港のロビーだったら、椅子ぐらいありそうなものだが、ここにはそんなものはない。トイレに行きたくてもどこにあるのか。国際空港なのに。

ここまで来ると、感慨も何もない。がんばって「浸ろう」としたが、強烈な疲労感だけが、心を支配していた。

1時間近く立ちっぱなしで、アナウンスを待つ。飛行機の時間は8時16分。

飛行機に乗る。何も考えることはない。ただ、新しい未来に向かっていることを感じる。でも、不思議とこんなときに限って、余計な事を考えたりするものだ。思い出すのはどうでもいいことばかり。

飛行機が動き出す。もう引き返せない、もう終わる、などと感慨に浸るのだろう、と思っていたのだが、離陸の瞬間、おれは居眠りしてた。おれって以外と神経図太いのかも。
というか、それほど疲れていたということだ。

空から見下ろすウズベキスタンは砂漠である。渇いている。

何もない。俺には何もない。今、俺が欲しいのは何も見えない眼、何も聞こえない耳、何も感じない心、だ。これは俺が好きな詩のフレーズなのだが、そのまま今の心にぴったりと当てはまる。生きるために何も感じない。これしか生きる道がないのだ。

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2009年02月10日

7月31日(月)

明日、タシケントを出る。朝8時15分の飛行機で。もう腹は決まっている。迷いはない。昨日あった一つの出来事も作用しているのだが、それを書く元気は今のところない。

今日は忙しい。まず、彼女の家に送ってもらった荷物を取りにいかなければならない。1ヶ月前に両親が送ったものだ。宛名は彼女のところになっている。とはいっても、彼女のところに荷物があるわけではなく、郵便局に留め置きになっており、その引換証を彼女のところに取りに行くのだ。それ以外にも、彼女の家に置きっぱなしになっていた俺のビデオテープも持って行かなければならない。郵便局では俺本人じゃないと受け取れないだろうからということで、ラリサ叔母さんと一緒に俺も行くことになってしまった。はっきり言って行きたくない。急ぐために家からタクシーで彼女の家に向かう。結構遠いので多めにお金を払うことになるだろう。

久しぶりに彼女の家まで来る。会いたくないから俺は車のそばで待機。ラリサ叔母さんが下に降りてくるまでだいぶ待った。15分ぐらい待っただろうか。車の中で説明を聞く。ビデオテープは三本。しかし、俺がどうしても取り戻したかった「宇多田ヒカル」のビデオクリップがない。ラリサ叔母さんがそのことを聞くと、彼女のお父さんが「そんなものはない」と言って突っぱねたのだそうだ。あったまきた。いいよ。くれてやるよ。そんなに欲しけりゃなんでも俺のところから持って行け。悔しい。ビデオそのものが惜しいのも確かだが、それ以上に何故だか悔しい。

そのまま、郵便局に向かう。その郵便局を探すまでがたいへんだった。やっとのことで見つけたのだが、郵便局で荷物の引取りを拒否されてしまった。受取人の名前が彼女の名前になっていたから、その本人でないと受け取れないのだそうだ。それにしても郵便局のおばちゃんの応対はむかつく。ラリサ叔母さんは何とかしておれが働く町に送ってくれると約束してくれた。

家の近くのいつも行っているバザールのそばでタクシーを降りる。今日はタシケントでの最後の日。知り合いになった人達を呼んでご馳走することにしたのだ。当然、料理するのは俺。そのために材料を買わなくちゃ。まず、生クリームを買いに行く。バザールとは別に、乳製品だけを売っているスペースがある。そこでは自分の家で取った牛乳や生クリーム、ヨーグルトなどを売っている。

数日前にそこで生クリームを買った。ウズベク人の美人姉妹が売っていた。叶姉妹というよりはこまどり姉妹のほうに近い。生クリームはものすごく味が濃くてうまかった。近くにいたおばちゃん達も愛想が良かった。タシケントでは「日本から来た」というと、とたんに愛想が良くなったりすることがあるのだ。

今日もあの美人姉妹は同じ場所にいた。すぐに俺に気づいて「こっちにいらっしゃい」という。俺も行こうと思ったのだが、ラリサ叔母さんが違う人のところに行ってしまったので、仕方なくそちらに行く。味見をさせてもらったが、あまりおいしくない。その間中、美人姉妹の姉のほうがものすごい笑顔でずっと手招きしてる。やっぱり美人姉妹のところのほうがおいしいので、そっちに行く。

「また来てくれてうれしいわ」だって。お姉さんは顔がかわいいわりにハスキーな声だ。妹は黙ってにこにこしている。よくみたら隣りにいるおばちゃんたちも前回と同じ顔ぶれだ。みんなにこにこしてる。おいしいのはわかっていたがもう一度味見。「私のところのほうがおいしいでしょ?」その通り。半リットル買う。50円。日本では考えられない安さ。お姉さんはニコニコ顔で「またいらっしゃい」だって。また行きたいんだけどね。

その他の買い物のことはどうでもいい。滞りなく買い物を済ませた。

家に帰って料理開始。鶏肉の団子を作るために鶏肉を骨と肉に分けなければならない。ここで鶏肉といったら当然、骨付きなのだ。骨なしは一度も見たことがない。これがまた面倒な作業。はずした骨のほうでだしを取る。肉は徹底的に叩く。とても時間がかかった。今日の3時にはロシアのビザを取りにサイラム・ツーリズムに行かなければならない。その後は寮に行かなきゃなんないから、急いで料理しないと。

3時すぎにサイラム・ツーリズムに行く。エレーナがお待ちかね。さっそくロシアのビザを受け取る。これでロシアに行ける、タシケントでの全てが終わる。そう思っていた。しかし、ことはそう簡単には運ばない・・・

エレーナにロシアのビザのことやレギストラーツィアのことを一通り質問した。すると、エレーナが妙な質問をしてきた。「あなたにとって普通の給料ってどれぐらいなの?」どうゆうこと? 「タシケントで働くとしたらどれくらい給料が欲しいの?」なんで? 話が見えない。「一月200ドルだったら、タシケントで生活できますか?」と聞くと、「十分生活できるわ」だって。いったいこれって何の話し? 「私が話すよりも社長と話してもらったほうがいいわ。あなたの話しを聞いてから思いついたことがあったのよ」何の話ししたっけ? 大学の給料が安いとか、これからミンスクで仕事探しだ、とかは言ったけど・・・。まあ、ここまで来ると俺にも察しがついてきた。

社長室に通される。社長は前歯が欠けている。まず名刺を出された。丁寧な応対。「うちでガイドとして働いてくれないか」・・・。突然すぎる。しかも明日出発だっていうのに。会社の説明を聞く。日本からの観光客は年間4000人ほど。この会社は「地球の歩き方」のシルクロード編を作るときも手伝ったらしい。「世界の車窓から」のシルクロード編もこの会社がコーディネイトした。日本の旅行の組合のようなものにも入っている。社長自身、年に数回日本に行っている。今現在、日本語を話せる人が二人いるが、二人ともウズベキスタンの人。日本語ネイティブの人間が欲しいのだそうだ。

そして、条件面の話し。「仮に」という言葉付きだが、給料は200ドルというのを前提に話しが進められた。200ドル! 大学での給料は10ドルだから20倍だぜ。タシケントでの平均給料が20ドルだからその10倍。なんかリアリティーに欠ける話しだ。その時点で完全に舞い上がってしまった。その給料の他にガイド料が一日15ドル出る。これだけで大学の給料を超えてるじゃん。当然、ホテルの宿泊費と食事代・交通費は別である。

その他に大学で日本語を教える口を紹介するという。まずは東洋学大学。社長はそこの学長と知り合いだから、すぐにでも教えられるという。そこでは日本人が二人教えている。その二人とも社長は仲がいい。そして、俺が教えるはずだった世界言語大学。そこの学長とも知り合い。そして、世界経済外交大学。明日、彼女が受験する大学・・・。そこは学長と知り合いだが、職を得られるかはわからない。三つの大学で同時に教える可能性がある。全部を合わせたら、タシケントで生活するには十分な給料が得られるはず。

社長は終始ニコニコ顔。歯の欠けた人がリアリティーの欠けた話をしている。まあ、サイラム・ツーリズムは中央アジアでは最大手の旅行会社。信用するに足る。それにしても、自分の力を評価してもらえたようでうれしい。社長曰く、「ガイドの仕事は君のロシア語力を高めるのにも役に立つはずだよ」とのこと。確かにそのとおりである。すぐには決められない。

その理由を事細かに説明する。何故自分がタシケントに来たのか説明したとき、社長が「君の言っている日本で知り合った人ってウスマーノフさんのことかい?」と聞いてきた。社長が日本に行ったとき知り合ったのだ。最近、彼女のお姉さんがやってきてサイラム・ツーリズムに就職しようとしたらしい。その返事を社長はまだしていなかった。絶対、いっしょには働きたくない。その話しが出て動揺してしまった。なぜタシケントを去るのかを、彼女との別れに至るまで事細かに説明してしまった。社長の顔がちょっと曇る。俺のこと面倒な人間だと思っちゃったかも。まあ、いいや。

とりあえずモスクワとミンスクには予定通り行くことにして、8月の末に返事をすることにした。いつでもいいから戻ってきてほしいとのことだ。エレーナはにこにこして「いい返事を待っているわ」だって。

正直言ってどうしていいかわからない。こんなの初めてだから。こうゆうのをアメリカンドリームって言うのかな(国が違うって!)。日本円にしたら2万だけど、この国では大金。だって普通の人の給料が2千円なんだから。また、心のなかで綱引きが始まる。シルクロード自体に興味はないが、仕事としてはとっても興味深い。確かにこの仕事を経験すれば、俺のキャリアとしては十分すぎる。頭の中がぐちゃぐちゃ。仕事のことだけを純粋に考えたらこれ以上いい仕事はない。ロシア、旧ソ連諸国のどこに行っても200ドルの給料はもらえないだろう。そして、おれはタシケントを好きになりだしている。でも・・・

ここには彼女が住んでいる。狭い町だからずっと顔を合わせないわけにはいかないだろう。もし、彼女の他の男が出来て、それを俺が見かけたとして・・・。そんな苦しさを耐える力は今の俺にはない。そして、彼女の家族ともつきあう派目になるかもしれない。そして、ラリサ叔母さんの家とも。もう全てにうんざりしているから、タシケントを去るのだ。タシケントでの人間関係を全てかなぐり捨てて行こうとしているときに、何で? もしも、まだ俺が彼女と付き合っているときにこんな話しが来たとしたら、状況はもう少し変わっていたかもしれない。いや、それでも結果は同じことか。いや、どうだろう。もっと早く言ってくれれば、俺も考える時間を持てたのに。モスクワに出発するまであと16時間しかないんだぜ。

何故だか笑顔になってしまう。やっぱり自分の力を評価されるのはうれしいもんだ。

急がなきゃ。料理をしなきゃいけないんだけど、まだやる事がある。寮に行ってかぎを返してこなきゃいけない。でも、一つ問題が。最後にフサンに会ったとき、「出発する日取りが決まったら絶対連絡してくれ」とくどいほど念をおされたのだ。フサンは自宅の電話番号まで渡してきた。でも、これにはなんか狙いがあるに違いない。俺が日本に帰るといったのを信じていないのだろうか。単に見送りたいだけとは思えない。

パスポートは返してもらったとはいえ、俺の運命を左右する力が彼にはまだ残っている。それは俺がレギストラーツィアした寮に住んでいないということ。つまり、俺は法律に違反した状態のまま生活しているのだ。この国でその手の法律に違反することがどんなに恐ろしいことか、今の俺は肌で感じてわかっている。もし、フサンが俺のモスクワ行きを知ったら、どんな手を打ってくるかわからない。警察を使ってくる可能性もある。彼は「国立大学」の人間なのだ。国とのつながりがあるということは、警察などの組織とつながりがあっても不思議ではない。これは誇張でもなんでもない。この国ではそんな冗談のようなことが起こりうるのだ。「そんな大げさな」と思われそうだけど、これが事実。おれが過剰に反応しているのではない。現地の人間がそう言っているのだ。

とりあえず駅から寮まで行くのに、タクシーを拾う。ウズベク人のおじいちゃんが運転しているワゴン車だ。後ろのほうではカーブのたびにたくさんのスイカがゴロゴロと転がってはものすごい音を立てる。こんなのどかな雰囲気を味わうのも今日限りか。タシケントでは苦しいことが多かったが、こんなのんびりした雰囲気は愛しく思う。

寮に到着。2階にある自分の部屋に向かう。他の人と会うのは面倒だ。隣りの韓国人の夫婦はいい人だが、英語しか話せないしな。出来ることなら会わずに済ましたい。と思っていたが、その願いは届かなかった(誰に?)。隣りの部屋のドアが開けっぱなしだ。俺が自分の部屋の前まで行くと旦那のほうが出てきた。俺がこの部屋を出ることを告げると「部屋が汚いからねえ」だって。その通り。人間の住むところじゃないよ。この夫婦も寝泊りするのはホームステイしているウズベク人の家なのだそうな。適当に、そしてにこやかに別れの挨拶をして自分の部屋に入る。

するとそこには一枚の紙切れが。「あなたのことを探しています」と書いてあって、最後には彼女と彼女のお姉さんの名前が。俺が彼女の家を飛び出した日の翌日の日付けになっている。彼女のお姉さんの名前が先に書いてあることに、俺は何故だか強烈に憤った。彼女はお姉さん抜きでは行動できない。やるせない。そして、悲しい。

この部屋には荷物なんてない。誰かが俺の所在を調べに来たときのために、新聞を机の上に広げておいたり、飲み物を置いたりしているだけだ。何にもない部屋をガサ入れされたら一巻の終わりだからねえ。簡単に片付けて部屋を出る。

俺が部屋を出ると、すぐに韓国人の旦那のほうが出てきた。そして、おれにメロンをプレゼントしてくれた。「あなたの幸運を祈ってます」だって。三回しか会ったことないのに。うれしくて涙が出そうになる。ビニール袋に適当にカットしたメロンが入っている。全然、予期していなかった。彼らを避けようとしたことを恥ずかしく思った。

タクシーを拾うために大きな通りに向かう。道々、メロンを食べて歩く。うまい。うますぎる。ちょうどのども乾いていたし。それにしても、歩きながらメロンを食べるなんて贅沢の極みだね。

大きな通りでタクシーを拾う。家の近くのミルゾ・ウルグベック駅まで200スムで行きたい。相場では250だろう。300では多すぎる。何度か断られたが、なんとか200で行ってくれる運転手を捕まえた。車が動き出すと運転手は「200は安すぎるよ」と言い出した。俺が「最初に約束したんだから、だめー」と言うと、運転手は黙ってしまった。悪いことしたな。確かに200は安すぎる。

運転手に話しかける。話題は「お約束」、給料の話し。彼はウズベキスタンの民族アンサンブルの歌手だった。当然、俺と話しが合う。「日本に俺達のアンサンブルを呼んでくれ」「いつか呼んでみたいねえ」「で、いつだ?」こんな軽い会話が続く。ある人にあげようと思って折っておいた折り紙、鶴とくじゃくがリュックの中に入っている。「こどもはいるのか?」「ああ、男の子と女の子だ。まだちっちゃくてかわいいぞ」俺はその折り紙をあげた。「200じゃ安いのは知っているからねえ。ちょっと悪いなと思ってたんだ。その代わりにこれを子供にプレゼントするよ」

もう、運転手はニコニコ。絶対、自分たちのアンサンブルを聞きに来いという。降りるときに彼の住所を手帳に書いてもらう。「これは俺からのプレゼントだ」と言って、小指ほどの大きさのナイフを渡された。ペーパーナイフだ。彼はニコニコ顔で握手してきた。これまで、正直言って、ウズベク人に対してはいい印象を持っていなかった。でも、彼らのなかにもいい人はいる。それは日本人にしたって同じこと。自分のなかに偏見を持つ要素があることが恥ずかしい。そして、このタシケントの人達が愛しい。

家に帰って料理を続ける。ミーラおばさんがすぐにやってきた。アレーシアとミーラおばさんに、今日の出来事を話す。「ふぅん」だって。リアクションが薄い。しばらくすると出かけていたラリサ叔母さんが外出先から電話をかけてきた。俺がサイラムでの出来事を伝えると「シューラが言った通りでしょ。あなたの未来は明るいって。もう迷うことないわ。タシケントに残りなさい」 うーん。俺も決心がぐらついてきた。

ポテトサラダは前もって作ってある。煮物は味を整えるのが大変。醤油は韓国製の激マズ醤油だし、だしを取るものがないから「ふえるわかめちゃん」で代用したら、変な味になっちゃった。でも、ベストは尽くした。カルボナーラは面倒だから中止。

みんなそろってお別れ会、ってな雰囲気になるのかと思ったが、普通のときと変わりなかった。途中でジーマ(ミーラおばさんの息子らしいが、よくわからない存在)がやってきた。サイラムの件を相談したら、「給料200あったらこれだよ」と言って、腹いっぱいという意味のジェスチャーをしてた。

暗くなってしまった。ミーラおばさんをバス乗り場までみんなで送る。「またタシケントで会いましょう」だって。そのあとジーマともお別れ。「タシケントで待ってるから」だって。モスクワ、行きづらいじゃん! いい人達。忘れたくない人達。

家に戻ると、しばらくしてアントンの友達・ヴィターリーがやってきた。すぐにアントンと二人して出ていった。ヴィターリーは「元気でな」と言って、微笑んだ。身体がでかいくせに子供っぽいやつだが、まあ悪いやつじゃない。いろんな人と出会った。

さーて、あとは明日の出発を待つばかり。と、思っていたら、またまた一波瀾。夜の10時すぎに玄関のチャイムが。誰かと思ったら、彼女のおやじ! 今日の朝はラリサ叔母さんに対してものすごく冷たい態度を取ったらしいが、ここでは一転して笑顔笑顔。おやじは俺と話しがしたいという。おいおい、俺のことを殴りに来たんじゃあないだろうな?

ラリサ叔母さんはお茶でも飲みながら、と言って部屋の中に入るように勧めたが、おやじは拒否して俺を外に連れ出した。これはピンチである。殴られたらどうしよう? 殴られるだけじゃなくて、どこかに連れて行かれたりして・・・

真っ暗な夜道を歩きながらの会話。「さあ、話してくれ」「何を話すんです?」「タシケントを出てどこに行くんだ?」くそー。ラリサ叔母さん、しゃべったなー。あれだけ俺がモスクワに行くことは黙っててくれって言ったのに。以前、アントンとラリサ叔母さんと俺とでその件について話したとき、俺は「絶対ウスマーノフの人達には教えないでくれ」とお願いしたのだ。そのとき、アントンは「俺達は絶対に言ったりしないから、俺達を信じてくれ。あきらがタシケントを出たら、彼らにそのことを伝えるようにするから」と約束してくれたのだ。

受検前の彼女を動揺させたくないという気持ちもあったが、それはかっこつけのような気がする。ただ彼女を同じぐらい傷つけたかったんじゃないかな、と自己分析。明日は彼女の受検の日。そのあと、どうなるか。彼女が友達としての付き合いを求めてくることは必至である。そんなのは耐えられない。そして、彼女は大学に行って、きっと他の男を見つけるだろう。

そう、俺はモスクワに逃げるんだ。苦しいことから逃げて何が悪い。みっともないのは百も承知だ。大体、俺がいなくなったとして、彼女が悲しんでくれるかどうかもわからない。悲しんでくれたら俺のことをまだ思っている証拠だからうれしい。でも、そのとき俺はいない。彼女と会えないのだから苦しい。悲しまなかったとしたら、俺のことを愛していないのだから、苦しい。どっちにしたって苦しいのだ。まあ、タシケントに残っても、モスクワに行っても苦しいのは一緒。どっちに転んでも地獄なら、生活条件がいいところのほうがいいに決まってる。新しくやり直したい。人生にリセットボタンはない。そもそも、全てを忘れようなんて思っちゃあいない。苦いものが心の海に沈んでいくのを、ただ見つめるばかりである。

おやじとの会話は続く。おやじが言ったことを要約するとこんな感じ。「ナターシャ(彼女の母親)は心配している。お節介を焼きすぎたかもしれないが、お前を思ってのことだ。お前の母親に『面倒を見る』って約束したのだから、世話を焼くのは当然の事だ」などなど。何度同じ道を行ったり来たりしたかわからない。親父は終始ニコニコ顔。

もう隠しても仕方がないので、明日モスクワに行くことを告げた。でも、ミンスクに行くことは言わなかった。「どうするのか決めたら連絡してくれ」「残念ですが、連絡する気はありません」「ナターシャに電話して『さようなら。お世話になりました』って言ってくれないか」「できません・・・」俺はおやじが頼んできたことを全部断った。人間として当然の事が出来ないくらいに心は追いこまれている。そうするべきである事は承知の上でのことだ。ただひたすらに苦しいのだ。そして、彼女のことは全く話題にならなかった・・・

二人で家に戻る。ラリサ叔母さんはお茶を飲んでいけと強く勧めたが、おやじは断った。おやじは握手を求めてきた。手を差し出したらグッと引き寄せられて、外国人風の抱擁。ニコニコ顔で「また会おう」だって。本当に思っているのか? 

おやじが帰った後、ラリサ叔母さんに「なんでしゃべったの!?」と問いただしたが、これはおれのわがままなのだから仕方がない。おれがモスクワに去ったあとに、そのことを告げるのは気まずいのだそうな。どんなに嫌っていても親戚であることにかわりはないのだから、付き合いというものがあるんだろう。

荷物をまとめる。かなり大量な荷物なので、一度に持っていくことが出来ない。2つの箱を残していくことにした。ラリサ叔母さんには手持ちのスムを全額渡した。冬服や本を置いていくのはちょっと不安。まあ、ここまでいろいろしてあげたのだから、裏切って荷物を送らないなんてことはないと思う。ただ、郵便事情がとても悪いので、途中で盗まれたりしないかということが心配なのだ。

タシケント最後の夜はみんな無口である。明日、5時半には家を出なければならない。ラリサ叔母さんは朝まで起きているという。おれもそうしようかと思ったが、疲れがどっと出てきて眠ってしまった。

akiravich at 00:14コメント(0)トラックバック(0) 

2009年02月09日

7月29日(土)

今日はモスクワ行きの飛行機の切符を買わなければならない。昨日の夜、アレーシアが「いっしょに買いに行こう」と言い出したので、彼女のテニスの練習が終わる2時ぐらいまで家でごろごろすることに。

昨日のこともあってラリサ叔母さんとは話したくない。ひとこと言ってやろうかと思ったが、我慢した。酒を飲んで騒ぐのは自由。それは俺には関係のないこと。でも、アレーシアのことを考えると・・・。俺は許せない。ラリサ叔母さんは母親だ。一人で生きているんじゃない。一人で生きているんだったら飲もうが誰かを連れ込もうが自由だ。でも、娘の前であれはないだろう。あんなラリサ叔母さんでもアレーシアにとっては大事なお母さんなのだ。もう少ししっかりしてもらわないと。

文句を言うのを我慢したのには、もう一つ理由がある。それはラリサ叔母さんも寂しいのだということ。ラリサ叔母さんは毎日のように愚痴っている。俺は家にいることが多いから、自動的にその愚痴の聞き役になってしまうのだ。彼女の家との確執の話しはもう聞きたくない。彼女の名前が出てくるたびに心臓が止まりそうになる。これを書いている今でも彼女の名前を書くことさえ出来ない。ラリサ叔母さんの愚痴はほとんどが彼女の家とのことだが、時には自分の人生をふりかえって恨み言を言う。

ラリサ叔母さんは18歳で結婚して、20すぎたころにはもうアントンとアレーシアを産んでいた。日本と違って、ウズベキスタンでは18歳ぐらいで結婚するのが普通である。その後大学の通信過程を卒業。家事をやりながら学業も続けたのだ。卒業後はタシケントのオペレッタ劇場で衣装係としてずっと働いてきた。たしか17年と言っていた。

しかしソ連崩壊後、ウズベキスタンのナショナリズムの高揚と共に彼女の生活も変わっていく。全ての公共施設の長はウズベク人にとって変わられた。そして、ウズベク人にとって邪魔なロシア人は何らかの手段で解雇に追い込まれる。ラリサ叔母さんもその一人。ウズベク人が劇場の支配人になってしばらくたったある日、ラリサ叔母さんはその支配人に呼び出された。そして、関係を持つように強要される。まさにそうゆう「関係」のことである。当然、ラリサ叔母さんは断った。そして、ラリサ叔母さんは劇場を追われることになるのだ。

なんともやるせない話しだ。フサンは「この国ではいろんな民族が仲良くやっている」と言っていたが、嘘に決まっている。ウズベク人からすれば、ウズベキスタンはもともとウズベク人の国なんだろうが、ここには他の人たちだって暮らしているのである。

ラリサ叔母さんはだいぶ前に離婚をしている。旦那が他に女を作ってしまったのだ。ラリサ叔母さんとその旦那は学校時代の同級生。そして、旦那の愛人も同級生。ラリサ叔母さんはその愛人がどんな人間かよく知っているのだそうな。旦那はラリサ叔母さんのところを出てその愛人のところに行くとき、ほとんど全ての電化製品や金目のものを持っていったのだ。ラリサ叔母さん曰く、それまでの暮らしは全くお金に不自由することがなく、あらゆる電化製品、車などがあって幸せそのものだったのだそうな。そのあとの暮らしは、当然楽ではない。二人の子供を育てるのだから。あるとき、「養育費とかはもらわないんですか?」と聞いたことがあった。ラリサ叔母さん「それだけは絶対に嫌だったから、断ったわ」
 
その後、プロポーズされたこともあったらしいのだが、全部断ったのだとか。「私はまだ若い」というのがラリサ叔母さんの口癖だが、そう言っているときの顔は寂しそう。ラリサ叔母さんは今年で40歳。再婚する気は全くないらしい。子供の成長だけが彼女の楽しみ。いまは注文を受けて服を作ったり、その服をバザールで売ったりして生計を立てている。苦しくないはずがない。アレーシアのテニスのトレーナーに払うレッスン代もバカにならない。アントンはモスクワにある演劇の大学に入ろうとしている。ラリサ叔母さんはよくがんばっていると思う。そのストレスが昨日のように爆発してしまうのだろう。そのことを考えると、もう俺には何も言えない。責められない。でも、今日はあまり話したくない。

約束の時間からだいぶ遅れてアレーシアが帰ってきた。もう3時近い。なんとしても今日中にチケットを手に入れたいのに、アレーシアはビデオ屋に寄りたいという。何とかというアニメがとても面白いのだとか。こうもあからさまにねだられると、いやーなものだ。ちょっと不機嫌。向こうもそれを感じ取ったのか、ビデオ屋にはあまり長居せずに飛行場に行くことにする。

タシケントにはチケットオフィスのようなものは存在しない。サイラム・ツーリズムにお願いしようと思ったら、「それは自分でやってくれ」とやんわりと断られた。航空会社に電話したら、飛行場の窓口で買ってくれとのこと。当然、激安チケットが存在するはずもなく、正規運賃での移動となる。ドモジェードヴォというロシアの航空会社が一番安かった。モスクワまで186ドル。この飛行機にはエコノミーしか存在しない。

飛行場までタクシーで行く。チケットを売っていそうなところは2階にあった。ダフ屋っぽいおっさんを振りきって中に入る。窓口のおばさんに言ったら外国人は別のところで買うのだそうだ。それにしても最悪の応対である。

おばさんに言われたほうに行くとそこは出発ロビー。入口のところには兵隊が立っている。おいおい、むき出しで拳銃(ライフル?)持つなよ。なかの方に航空会社のカウンターが見えるのだが、入口には兵隊が居るし、飛行機のチケットを持っている人しかなかに入れてもらえない様子。どうやってチケット買うんだよ! 

先のほうに歩いていくと、そこはVIP用のロビー。VIPとはいってもビジネスクラス、ファーストクラスの乗客を通すためのものである。そこに立っていた係員にアレーシアがどうすればいいのか聞いた。当然、飛行場またはウズベキスタン航空の職員である。ここでは飛行場とウズベキスタン航空という航空会社の間に境はないらしい。この係員、ネクタイを締めて名札を付けていて、一見普通の職員。でも、ちょっと嫌な予感・・・

係員は「俺がチケットを買ってきてやる」と言い出した。だったら、俺たちを通してくれたほうが話しが早いのにどうして? 値段を聞いてきてやると言ってなかに入っていった。彼はもどってきて「210ドル」だって。あきらかにおかしい。「俺は186ドルって聞いたぞ」というと、「チケット欲しいんだろ? これは別に俺達の仕事じゃないから、無理に買えとは言わないけどな」もうわかったぞ。金稼ごうとしてんな、このやろー。ちょっと考えた振りをして、アレーシアに「じゃあ、行こうか」と言って俺は歩き出した。するとその男が呼びとめてくる「191ドルだ!」なんですぐ値段が下がるんだよ! まあ、その値段だったら5ドル多いくらいだし、早くチケットが欲しかったのでOKした。

彼にパスポートを渡す。金はきっちり191ドル渡した。すると、係員は「マラジェッツ(すばらしい)! ぴったり191ドル払ってきやがった」と言って苦笑い。近くに立っていたおねえちゃんも笑っている。俺は何のことだかわからなかったので、アレーシアに尋ねると、彼は俺が200ドル払うのを期待していたのだそうな。200ドル受け取っておつりは返さないつもりだったらしい。そうか。もし190ドルだったら、ぴったり払う可能性があるから、払いづらいようにおつりが出るように191ドルって言ったのか。

しばらくして、係員は手ぶらで戻ってきた。「チケットは?」「いまなかで手続きをやっている。あと5ドル払え」なんじゃそりゃ。俺がむっとしていると、係員はお金のうちわけを説明しだした。「チケット代がいくらで、その手続き代がいくらで・・・」あきらかにめちゃめちゃな計算。係員は身体がごつくて、ゴリラのような顔をしている。その内訳の内容に納得いかないことはともかく、彼は足し算が出来ていない。もう一回算数やったほうがいいじゃないの? 

俺が無視してると係員は「なあ、わかるだろ。俺だって暇じゃないんだ。お前のために特別にやっているんだからさ」と猫なで声で俺の肩に手を置こうとする。おれは手を振って、触られないようにした。いつのまにか係員は3人に増えていた。それでも、おれはきっぱりと拒否した。「191ドルって言われたからその通りに払ったんだ。何のためにそれ以上払うんだ?」かなり頭にきてたので、すごい声だったらしい。

しばらくして係員がチケットを持ってきた。チケット見せて中身の確認。確かに8月1日のチケット。チケットを受け取り、「パスポートをよこせ」と俺はちょっと怒った声で言った。「わかった、わかった」といって係員はパスポートをよこす。やはりまわりには取り囲む様に3人の係員。「で、あと5ドルはどうした?」知るか! 誰が払うかバカヤロー! 日本人をなめんじゃねえぞ! 

俺とアレーシアはベンチに座って、もう一度中身を確認。ちょっと怖い気もするが、俺にはあと5ドル払う理由がない。「じゃあ行くか。本当にどうもありがとう」にっこり笑って、さーっとその場を立ち去る。係員を置き去りにして。係員の視線を背中に感じながら、俺とアレーシアは笑いをこらえる。おかしくて仕方がない。痛快だ。係員のがっかりした顔が目に浮かぶ。アレーシアは「もうどうなることかと思ったわ。あきらったら。怖くなかったの?」だって。怖かったのはちょっとだけ。もうウズベキスタン全体に対して「切れて」たからねえ。全部怒りをぶちまけちゃった感じ。結構、俺もきつい口調でしゃべっていたらしい。チケットの値段を確認してみると本当の値段は180ドル。結局、11ドル多く払ったわけだが、210ドル払わなくて済んだだけでもよしとしよう。 

そのあと二人でブロードウェイに行って買い物。とはいっても、俺の買い物ではない。アレーシアにねだられるために行くようなものだ。でも、今日は彼女も遠慮気味。ビデオ屋で露骨に嫌な顔をしたからかも。現地のお金が減ってきていたのであまり無駄遣いしたくなかったのだ。革のブレスレットを買う。30円。安すぎ。

お腹が空いたので食事をしようと思う。俺がブロードウェイに来たのはそのためだ。タシケントを離れる前に、もう一度外食したかったのだ。俺の提案でブロードウェイの端っこにある韓国料理のレストランに入ることにする。「レストラン」とは言っても、野外である。先にカウンターで注文をする。メニューを見て「ククシーってどんな料理?」と尋ねると、ウェイトレスの奇麗なおねえちゃんは「韓国人のくせに知らないの!?」と言って驚いている。俺は韓国人じゃねえよ。ククシーとは韓国風の麺料理。韓国レストランに限らずタシケントではよく見かける。そのレストランにあるのはククシーとキムチ以外は普通のロシア料理。あと、ウェイトレスの一人が韓国系(食べられません)。ククシーと魚料理を注文した。アレーシアは普通のロシア料理を注文。待っている間にテーブルの上の調味料を吟味する。匂いをかごうとしたらカウンターにいた兄ちゃんが寄ってきて説明をする「それは酢だよ」。俺がむせると笑っていた。

さてククシーの味は・・・ 悪くない。スープは冷麺とほとんど同じ。具も一緒。でも、麺が柔らかすぎる。冷麺の麺が延びたそうめんになったような料理だ。これで麺がおいしかったら最高なのにな。全く辛くなかったので、テーブルの上の唐辛子をがばがば入れた。それを見てアレーシアは呆れ顔。魚はフライにしてあった。骨っぽくておいしくなかった。鯉の類だろう。かなり泥臭い。でも、その付け合せのご飯がおいしかったから許してあげる。お金を払うとき、ウェイトレスの奇麗なおねえちゃんが寄ってきて「ククシーはどうだった?」と聞いてきた。「日本で食べたのとは違うけど、おいしかった」ちょっと、うそをついた。

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2009年02月08日

7月28日(金)

今日こそはなんとかパスポートを手に入れなければならない。12時に電話をする約束になっていたが、電話では埒があかない。直接行ってみることにした。

12時ちょっと前に行くと、そこにフサンの姿はなく、そこにいたのは秘書のおばちゃんだけだった。パスポートはまだないと言う。預けてある機関に電話をしたのだが、責任者がいないから3時に来い、と言われたのだそうだ。仕方がない。

そして、ビザのお金は払えないことを告げた。その理由は、飛行機の切符が高いということ。高いのは事実だが、払う事は十分に出来る。全くの嘘。するとおばちゃんは「誰がビザのお金を払えって言ったの?」と聞いてきた。そんなのフサンに決まっている。でも、おばちゃんは知らないようだ。おばちゃんは同情しているような目つきで「払わなくてもいいわ」と言ってきた。おっ、こんなにうまくいくとは思わなかった。俺の演技もなかなかのものだ。

おばちゃんは3時すぎにもう一度パスポートを取りに行くという。5時ごろだったらフサンは絶対にここにいるし、おばちゃんも帰ってくるから、5時にもう一度来てくれとのこと。今日は絶対に逃がさないぞ。5時前に来てやる。

なぜか最近食欲がある。大学の帰り道、カフェ・ホシロットに寄る。目いっぱい食べておなかパンパン。

ちょっと休もうと思ったが、今日は電話局に行って国際電話の料金を支払わなければならない。ここ最近毎日のように電話していたからいくらになるか不安であった。予想は二万スムぐらい。三千円ちょっとである。でも、実際は四万六千スム。ちょっと痛い。もうドルを換金しないでいこうと思っていたのだが、この電話代で残りのスムを一気に吐き出してしまった。最初に持っていたお金では足りなかったので、家に戻ってもう一度電話局へ。へとへと。でも、何で俺が全部払わなきゃなんないんだ? 俺がかけたのじゃないのも含まれてたんだぞ!

電話局から帰ったらすぐに大学へ。今日は一日中歩きっぱなしである。大学には4時50分ぐらいについた。フサンは何食わぬ顔で俺を迎えた。そこでは二人の学生がパソコンをいじっていた。フサンは彼等と話していて、俺のことはほったらかし。10分ほどしてようやく俺の前の椅子に座った。おばちゃんはまだ帰ってきていないから、パスポートはまだここにない、と言う。

帰りの飛行機の話などをした後、俺はビザの話を切り出した。すると、フサンは「話しは聞いている。ビザのお金は払わなくてもいい。でも、レギストラーツィアのお金は払ってくれ。20ドルだ」とのこと。20ドルもかかるはずがない。しかもドルで払う理由がない。でも、50ドルよりはましである。迷惑もかけたから仕方がないと思って、その額で同意した。

さあ、ここがこの話しのクライマックス。俺が財布を出そうと思ってポケットの中に手を入れると、フサンは自分の手帳をめくり出した。俺が20ドルを出そうとすると、フサンは手帳の間から俺のパスポートを出してきたのだ!!!・・・やられた!!! 俺の演技はうまくいっていたと思っていたのに。絶句。つまり、お金をおれから引っ張り出すためにパスポートを隠し持っていたのだ。

フサンは何食わぬ顔をしてにこにこしている。20ドルを受け取ると彼は自分の財布にしまった。おそらくその20ドルはフサンのおこづかいになるのだろう。大学の副学長までが嘘をつくなんて! 俺が甘いんだろうか? こんな町には1秒だって居たくはない。フサンは俺にプレゼントだ、と言って、ウズベクの帽子を渡してきた。「また戻ってきてくれ」だってさ。誰が戻ってくるか! 

まあ、いろいろあったがパスポートは戻ってきた。一安心。家に帰って改めてパスポートを見ると、レギストラーツィアはずっと前に終わっていた。ということは、フサンがずっと隠し持っていたことになる。つまりはあのおばちゃんもぐるだったということ。あったまくる! パスポートがない間、どんなに不安だったか。こんな国でパスポートなしで歩くなんて自殺行為だ。フサンに対する怒りとパスポートが戻ってきたうれしさがないまぜになっていた。

ラリサ叔母さんは知り合いとレストランに行くのだといって、7時すぎに出かけて行った。おれはアレーシアのために晩ご飯を作ってやった。ここまでは普通の夜と何ら変わりはない。しかし、そのあと・・・。

11時をすぎてもラリサ叔母さんは帰ってこない。ラリサ叔母さんがかぎを持って出たのかわからなかったので、一応待っていようかと思ったが、今日は疲れたので先に寝ることにする。アレーシアはもう寝ている。歯を磨く。すると、ドアのチャイムが鳴った。ドアを開けるとラリサ叔母さんが立っていた。相当酔っている。

ラリサ叔母さんは「あきら、ビールのみたい?」普段だったら、二つ返事でOKだが、きょうはちょっと疲れているからなあ。でも、少しぐらいならと思って「飲みたい」と答えた。「実は連れがいるんだけど」とラリサ叔母さん。誰だよ。そこに現れたのは身体がごついはげの男。真ん中は見事につるつるで、両脇の残った髪はちぢれている。お腹が出ている。目つきが怖い。こんな役者いたな。こちらが挨拶しようと思ったのに、はげ男は無視。彼の目的は一目瞭然。ラリサ叔母さんだ。予想していなかった邪魔者(おれ)が現れたせいで機嫌が悪いらしい。

3人で食卓につく。彼らはかなり飲んだらしく、ビールはもういいという。俺が一人でバルチカを飲んでいた。その間の二人の会話がまあすごい。俺のことなんかそっちのけ。ラリサおばさんは完全に周りが見えていない。ぐちゃぐちゃわけのわかんないことを言っている。

俺のために乾杯をするといって、俺のことを褒めちぎり出した。「もしタシケント以外のところに行っても二、三年経ったら絶対戻ってきて。そのときはアレーシアをあきらのところに嫁にやるから」おいおい、俺に選ぶ権利はないのか? こんな話しが延々続く。当然、その男は無関心。

ラリサ叔母さんは俺のことを本当の家族だと言って、とうとう泣き出してしまった。ラリサ叔母さん「わたしったら、泣いちゃったりして。赤ん坊みたい」すると、はげ男「女ってやつはいつまでたっても赤ん坊さ」だとさ。黙れ! その男は何とかして二人っきりのムード(俺を無視して)を盛り上げようとする。慰める振りをして触る触る。そして、なんとか寝室に行こうとする。俺もいいかげん嫌になってきた。すぐ隣りにあるベランダではアレーシアが寝てるのに。自分の母親のこんな姿を見たら悲しいだろうな。

と思っていたら、とうとうアレーシアが起きてしまった。時はすでに夜中の12時半。まあ、これだけ騒いでいれば無理もない。アレーシアは彼らが買ってきたコンデンスミルクとパンを食べて黙っている。ラリサ叔母さんは踊りたいといってきかない。アレーシアに大声で「私の大好きなあの曲のテープを持ってきなさい」と言いつける。その男はしらけきっている。アレーシアはそのテープを探したが見つけられなかった。音楽抜きでもラリサ叔母さんは踊っている。

すると、またチャイムの音。もう1時だぜ。そこに現れたのはラリサ叔母さんの友達のナターシャとウズベク人のアリ。ナターシャはもうだいぶ酒が入っていた。ラリサ叔母さんの友達で歯が欠けたおばさんである。相変わらずうるさい。アリはにこにこしていてまあよさそうな人。でも、こんな時間に人の家に来るようなやつにいいやつがいるわけがないか。彼らはスイカとウォッカを持ってきた。こうなるともう止められない。

アレーシアは「お母さんが時々友達を連れてくるんだけど、すごくいや」という。不憫でならない。二人で彼らを無視しようとするが、そううまくはいかない。ナターシャが絡んできて「あきら、ベランダで一緒に飲みましょう」といってくる。断ったが、力づくでつれて行かれた。そこにあったのはウズベキスタン産のウォッカ。味は最悪。アルコールを直接飲んでいるようだ。なんとか振りきって逃げる。

アレーシアに俺の部屋で寝るように勧めたが、眠くないという。まあ、こんなに騒がしくっちゃ、どこの部屋に居たって寝れないだろう。居間のソファーに座ってアレーシアと二人で全く違う話しをする。テニスの話しやモスクワの話し。そして、一緒にジャッキーチェンの映画を見た。ベランダでははげ男が切れて、「俺は帰るぜ」と言い出した。ナターシャとそりが合わなかったらしい。そのうえ、自分の本当の目的が果たせなかったこともあるのだろう。なだめたりすかしたりして、仲直りする。バカらしくって見てらんない。これが大人のすることか。自分の娘に見せて恥ずかしくないのか。

アレーシアに悪い影響がないはずがない。ラリサ叔母さんはいつもアレーシアをこき使う。ラリサ叔母さんは家事が嫌いなのだ。「私が働いて食わしてやってるんだから、家事ぐらいやりなさい」というのが口癖。俺が食器を洗おうとすると「アレーシアにやらせなさい」と言い出す。仕事がうまくいっていないときはやつあたりをする。そのやつあたりも尋常なレベルではない。もう、かわいそうで見ていられない。もしこれが日本だったら、家出するかぐれるかである。

音楽だけが彼女の逃げ道らしい。俺が持ってきたCDウォークマンで音楽を聴いているときは、ラリサ叔母さんの声も聞こえないから自分の世界に浸れるのだろう。ちなみにタシケントにはCDウォークマンは存在しない。CDプレーヤー自体、持っている人は少ないのだ。アレーシアがものすごく気に入っているのを見ていたから、プレゼントしようかな、とずっと迷っていた。

このとき、この夜、決めた。プレゼントしよう。それを告げたときのアレーシアの表情、ものすごく喜んでいて、そして驚いている。そりゃそうだ。タシケントに存在しないものだし、もしあったとしてもとても買えるような代物ではないのだ。「モスクワでCDラジカセを買おうと思っているから、CDウォークマンは使わないんだ」と嘘をついた。ラジカセが欲しいのは確かだが。「シュテフィ・グラフは試合の前に、ウォークマンで音楽を聴いて精神を集中させるんだよ」まあ、それがグラフだったか、セレシュだったかははっきりと覚えていないがこの際そんなことはどうでもいい。

もうすぐ、おれは一人でモスクワに行ってしまう。俺はいいかもしれないが、彼女はこんな生活を続けていかなければならないのだ。彼女が少しでも幸せになれるようにと思うが、俺にはこんなことにしか出来ないのか。せめて、好きな音楽を好きなだけ聴けるようにしてやりたい。その一心である。センチメンタル、と言いたければ、どうぞ。おれはこうゆう「くそセンチメンタル」な人間だから。

2時半をすぎた。宴は一向に終わる気配を見せない。ラリサ叔母さんは踊り、アレーシアにあれこれと命令をする。そして、ついにアレーシアが切れた。「こんな時間に恥ずかしくないの? あきら、向こうの部屋に行こう」二人で俺の部屋に行く。そこで、おれは「こんなことはしょっちゅうなの?」と聞いてみた。「時々」とアレーシア。時々だって嫌だろうな。その後は普通の話し。テニスの話し。「プロの選手になりたい」「日本に来たら俺が通訳するから」

4時すぎに飲み会終了。俺もアレーシアもあくびばかり。アレーシアは居間のベッドで、俺は自分の部屋で寝ることにする。ラリサ叔母さんは自分の部屋にいるらしい。玄関の靴を見ると、まだあの男が残っている。残っているということは、ラリサ叔母さんの部屋にいるとしか考えられない。もしもそこで何かそうゆうことが始まるようだったら、俺は許さない。娘がいるっていうのに、適当な男と関係を持とうなんて。しかも、居間ではその娘が寝ているのだ。

俺はトイレに行くとき、わざと大きな音を立てて歩いた。俺の部屋はラリサ叔母さんの部屋と隣り合わせだ。隣りからは何やら物音がする。まあ、別に普通の物音だが、なんか嫌なので壁をどんどん叩いた。もしもあの男がその気だったら、その気をなくさせてやろう。おれはしばらく壁をこつこつとやっていた。

次の日、アレーシアに「昨日音を立ててたのはあきらなの?」と聞かれた。「そうだ」と答えると笑っていた。

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2009年02月07日

7月27日(木)

出きるだけ早くパスポートが欲しいところだが、今日は手に入れることが出来ない。その前にやるべきことをやってしまおう。問題は山積みである。

まず、税関申告書の件。タシケントの空港についたときに、あるウズベク人の家族に税関手続きなどを手伝ってもらった。外国人は税関申告書を二枚記入しなければならない。1枚は入国するときに提出して、もう1枚は出国するときに提出しなければならない。しかし、俺はそのウズベク人にならって1枚しか記入しなかったのだ。彼らはウズベキスタンの人だから出国するときのための申告書は必要ないのだ。入国時に記入した税関申告書がないと罰金を請求されることがあると聞いている。なかには悪い税関職員もいて、数百ドル取られた例もあるというのだから恐ろしい。そのことに今日の明け方気づいて、そのあとは眠れなかった。

10時になったら、すぐに日本大使館に電話した。俺の名前を言うと、電話をとった若いロシア人?女性が「世界言語大学で日本語の先生をしていらっしゃる古○さんですね」なんで俺のこと知ってるんだ? すぐ日本人の大使館員が電話に出た。事情を説明すると「まあ、別に問題にならないと思います。なくされる方が多いんですが、そのことで空港でトラブルになったという話しは聞いたことがありません。罰金を払ったという例も聞いてはいますが、スムで払うようなたいしたことない金額だったそうです。もう一度書きなおせば終わりでしょう」とのこと。なーんだ、スムで済むのか。一応、領事の人に電話をつないでもらった。内容はほとんど同じ。堤さんという人だった。最初は気づかなかったが、この人とは大使館でも会っているし、電話でも話したことがあった。頼りにしてます。

さて、その次はロシアのビザ。これがないことにはどうにもならん。何度かロシア大使館に電話をしたが誰も受話器を取らない。「地球の歩き方」に書いてある電話番号でちゃんとつながった電話番号はほとんどない。大使館の番号が間違っているんだから恐ろしい。大使館に直接申請するのもたいへんだと思ったので、旅行会社に頼むことにする。サイラム・ツーリズムに電話をする。この会社には一度訪れたことがある。オフィスの雰囲気はアメリカやヨーロッパのいかにもオフィスといった感じ。みんなきびきび働いていたので好感を持った。電話をすると、担当のエレーナが説明してくれた。8月1日までに出発したいと告げると、今日中にオフィスに来いと言われた。写真三枚とパスポート。パスポートはコピーしか持っていなかったがそれでもいいという。

すぐ家を出る。いつものショッピングセンターにスピード写真屋があるはずだ。ここ数年、タシケントではスピード写真を撮るところが急増してるのだという。この「写真」というのがくせものだった。エレーナがいうには、無光沢の写真でなければならないのだ。コンピューターの写真やてかてかしてるのはだめなのだという。ショッピングセンターで撮れるのはてかてか写真のほうだった。

とりあえず、サイラム・ツーリズムに一番近い駅のアミール・チムール・ヒヨボネ駅に行く。その辺を歩いてみるが写真屋が見当たらない。なんとか見つけた写真屋はてかてか写真しか撮れないところだった。そこのお兄ちゃんにどこで撮れるのか聞いたら、スーパーマーケット「ミール」のなかの写真屋で取れるという。簡単に道を教えてもらったが、どうにもたどり着けない。いろんな人に道を聞きながらたどり着いた。やはりそこもダメだった。仕方がないのでサイラム・ツーリズムに行くことにする。とにかく歩いた。暑い。たまらなく暑い。部屋探しの時の地獄を思い出した。

サイラム・ツーリズムに着いたら、エレーナは電話中だった。明かに仕事をサボっている。5分ぐらい待たされたあと、すぐに手続きをはじめた。写真がないことを告げると、明日の午前中にロシア大使館に行くから明日の朝でもいいとのこと。ツムの近くに行けば写真屋が幾つかあるということで、エレーナは地図まで書いてくれた。いいひとだ。そのうえ、なかなか美人である。しかし、歯並びがちょっと悪い。

お金は150ドルかかった。かなり高いが仕方がない。急いでやってもらうんだから。50ドルはロシア大使館に持っていく現金、100ドルはサイラム・ツーリズムに払うものでカード払いである。しかし、俺はカードを持っていない。そのことにエレーナはひどく驚いていた。「外国人のくせにカードを持っていないなんて」だってさ。悪かったな。カードの代わりに、銀行で払わなければならない。よくシステムがわからないが、振り込みのようなものである。招待状の手配も全部やってもらうとはいえ、100ドルはちょっと高い。

サイラムの運転手に銀行まで車で送ってもらう。2階の20号室で書類を渡すと、パスポートを出せといわれた。しかし、今はコピーしかない。そのことを告げると、受付のおばちゃんはパスポートをもってこいの一言と一緒に書類をつき返してきた。でも、今日払わないことにはビザが取れない。パスポートを大学に預けているという証明書を見せたらやっと納得してくれた。

一階の支払所の前で待つ。すると二人の東洋人が支払所のところに来た。男と女である。タシケントでは日本人によく似た人をよく見かける。韓国系の人がかなり多いのだ。だから、今回も韓国人だろうと思っていた。しかし、話しているのを聞いていると、日本語のようだ。関西なまりがきつくて最初はわからなかった。

すると、2階で俺のことを冷たくあしらったおばちゃんがやってきて、彼らに説明し始めた。ロシア語なんだから彼らにわかるわけがない。おばちゃんはさっきとは打って変わった笑顔でおれに助けを求めてきた。彼らは昨日泊まったホテルの代金を振り込みに来たのだ。そこで換金しようと思ったのだが、聞いていたレートと違っているので「ノー、ノー」と繰り返していたらしい。彼らが聞いたというのは1ドル680スム。闇レートじゃねえか。銀行が闇レートで換金してくれるはずないのに。彼らはしぶしぶ公定レートで換金した。

しばらく話をしたが、ちょっと変な人。二人ともものすごく汚い格好をしている。話しを聞いていると危なっかしくて仕方がない。かなりおきらくな旅をしている様子。これ以上関わらないほうがいいと思ったので、「さようなら」を言って、話を打ち切った。

akiravich at 00:03コメント(0)トラックバック(0) 
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