福島

2016年03月11日

おはようございます。

震災から5年目の朝を迎えました。

5年というと長い感じがしますが、時間の長さというのは一人一人にとって相対的なものであって、おそろしく長い1秒もあれば、おそろしく短い1日もあるように思います。
これまでの5年間の長さ、そして重さは人によってまちまちなのではないかと思います。
私にとってのこの5年間は確実に長く、重いものでした。

あの震災の日のことは今でも忘れることができません。
山形にいる家族や仙台に住む友人や親戚の安否が気がかりでした。
テレビで流れる津波の映像のすさまじさに言葉を失いました。

そして、それに続く福島原発事故。
テレビで流れる映像を見て、すぐに私の頭に浮かんだのは「チェルノブイリと同じことになるのではないか・・・」という強烈な恐怖でした。
そして、その時は私が直接的に通訳として、この件に関わっていくことは正直予想していませんでした。

福島原発事故後の最初の通訳の仕事は農林水産省の方々の通訳でした。
聞いたこともない日本語・ロシア語の言葉が飛び交い、非常に戸惑ったのを覚えています。
移行係数などという言葉もそれまでは聞いたことがないものでした。
直接の訳語がわからない時は、その言葉の意味や内容を説明をして切り抜けました。
おそらく、福島の方々も移行係数や半減期など、それまでの人生で聞いたこともない言葉を耳にして、大いに困惑されたのではないかと思います。

2011年の秋には非常に大規模な視察団がベラルーシにやってきました。
その通訳では大きなプレゼンテーションでの通訳がありました。
そして、かなりの土地が汚染されているゴメリ州の中心都市ゴメリや、汚染地域に隣接する小さな町コブリンにも行きました。
その道の専門家の方々の通訳は非常に難しい内容でしたが、自分も山形の人間として、東北の人間として、何よりも日本人としてこの問題に関わっていこうという決意を強く持つきっかけになった仕事でした。

国会事故調の方々の通訳もさせていただきました。
メンバーの方々の真剣さが伝わってきて、「この人たちは本当に日本の、そして福島のために努力しておられるのだな」と思い、感銘を受けました。

福島県議会の議員の皆様ともご一緒しました。
政治家の立場から強い想いを持ってベラルーシまでいらしたのが印象的でした。

福井県の議員の方々とご一緒した時は体調を崩してしまい、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。
ゴメリにはご一緒することができ、原発を多く抱える県の事情というものを垣間見ることができました。
おととしになりますが、福井県にお邪魔させていただき、現在のベラルーシの状況をお話しさせていただく機会もいただきました。

福島市の視察団は2回、ご一緒させていただきました。
人数が多かったので、私の学生たちも通訳アシスタントとしてご一緒させていただきました。
彼らにとっても福島の現状を知ることは非常にいい経験だったのだろうと思いますが、それと同時に、自分たちが住んでいるベラルーシという国の現状を知ることができたのは大きな収穫だったのではないかと思います。
ベラルーシに住んでいても、チェルノブイリということを肌で感じる機会が少なくなっており、特に今の若い世代のベラルーシ人にとってはチェルノブイリは歴史的出来事として捉えられることが多いのです。
これを風化と呼ぶべきか、時が優しく解決してくれたと言うべきか・・・私にはわかりません。

このようにこの5年間を振り返ってみると、私にとっても激動の5年間でした。
通訳で出会った方々とはその後もいろんな形で交流させていただきました。
それは日本人の方々もそうですし、ベラルーシ人の方々ともいろいろお付き合いさせていただいています。
ベラルーシ人の中では特にゴメリの放射線学研究所の元所長さんで、国立ゴメリ大学の生物学部長のアヴェリンさんには非常によくしていただいています。

多くの人との関係は私にとって人生の財産のようなものです。
私は父親に「俺の一番の財産は友だちだ。お金の財産はないけど、友だちはそれ以上の価値がある」と教えられてきました。
ベラルーシという日本から遠く離れた国で、父親の言葉をかみしめています。

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そのような仕事の中で、私もベラルーシに住む人間として、多くのことを考えさせられました。
ベラルーシの検査体制や除染のやり方もそうですが、日本との考え方の違いなどもかなり見て取れました。

ベラルーシでは事故から約30年が過ぎ、「すでに復興ではない」という考え方をしています。
「今は発展の段階である」というのが今の考え方です。
30年経った今だからこそ言える言葉だと思います。
これまでの苦闘の道のりがあったからこその言葉なのでしょう。

実際、汚染地域にある町などを訪れると、全く暗さは感じません。
むしろ、町が整備されていて、非常にきれいな印象を受けます。
もちろん、田舎の町なので整備されていないところもありますが、そのことはチェルノブイリとは全く無関係です。

そして、放射能に対する考え方も日本人とベラルーシ人では違っていると思います。
汚染地域の住民の中で、放射能を恐れている人というのは出会ったことがありません。
子どもたちに聞いても、「正しい知識を持っていれば、怖がることは全くない」という意見が返ってきます。

もちろん、こう書くことによって、ベラルーシの方が上だとか、そういうことを言いたいのではありません。
事故後の時間の長さが違いすぎます。
この状況に至るまでの道のりはベラルーシも楽ではなかったはずです。

今の現状などは私も目にしますし、話しもよく聞きます。
ただ、そこに至るまでどのような過程があったのかがよくわからないのです。
事故直後の話しもよく出ますが、私が今興味を持っているのは事故から数年経った後のベラルーシの汚染地域です。
例えば、チェルノブイリ事故から5年経ったベラルーシはどうだったのでしょうか?
そこに視点をおいて、調査してみたいという気持ちでいます。

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つい最近、産経新聞の記事に気になる内容のものがありました。
福島県でコメの検査をしていることに関して、役所の人が生産者から「いつまで検査を続ければいいんだ」と言われる、という内容でした。
福島県では今もコメの全量全袋検査が行われています。
基準値は1キロ当たり100ベクレルですが、基準値を超えたものは26年度産のものからは一つも出ていません。

「いつまで検査を続ければいいんだ」という発言が出てくるということは、いつか検査をやめることを前提に話をしているということではないでしょうか。
確かに、基準値を超えた放射性物質の量のものが検査しても出てこないのであれば、検査自体の意義を問うような発言が出てきても不思議ではありません。

ベラルーシの場合、現在基準値を超える放射線量が検出されるのは森で採ったキノコやベリー類、そして野生の動物の肉が主です。
その他の一般食品に関しては基準値越えはほとんどありません。
例えば、牛乳の場合、基準値を超えるのは個人の自宅で飼っている牛の牛乳の場合だけです。
汚染されている牧草を食べた牛の牛乳から検出される場合があります。
もちろん、ここの牧草は食べてはいけない、ここで放牧してはいけないなどと、地元の役所などは広報活動をしているのですが、それでも違反したり、間違ったりする人がいた場合は牛乳の検査で違反や間違いが分かってしまうことがあるのです。

ベラルーシのとある検査場でのこと。
検査場の職員の方の説明「キノコやベリーなどの『森の恵み』以外の食品で基準値を超えるものが出ることはありません」。
そこで日本人の方が質問しました。
「基準値を超えるものが出ないのなら、検査をやめてもいいのではないですか? どうして検査を続けているんですか?」
検査場の職員の方の答えは・・・
「それは違いますよ。検査を続けているからこそ(基準値越えが)出ないんです」(カッコ内筆者)

私はこの検査場の職員の方の答えに感銘すら覚えました。
安全を守るための検査であり、安心するための検査ではないということでしょうか。
「基準値越えが出ないからもうやめよう」というのではなく、「基準値越えが出ないように、監視していこう」。
もちろん、チェルノブイリと福島では汚染の度合いや放出された放射性物質の種類も違うので、単純に比較はできません。
しかし、検査を続けることの意味は非常に大きいと思います。

放射性物質の検査を続け、その結果安全で安心して食べられるものであるということをアピールするしか方法はないような気もします。
客観的なデータ、客観的な事実の積み重ねしか、突破口はないように思います。
しかし、現状を覆すのは並大抵のことではないように思います。
風評被害の話を聞いていると、イメージや感覚的なものに支配されやすいのは日本人のメンタリティーなのかなと思ってしまいます。

ベラルーシ人は客観的な事実に対しては信頼をおきます。
汚染地域で言えば、「なんとなく怖い」とかそういう曖昧なイメージで何かを判断することはありません。
測定し、その結果、食べられるか食べられないか判断する、というごく普通の生活の営みです。

もちろん、最初から客観的なデータを見て冷静に判断するということができていたのかどうかは、ベラルーシ人であっても疑わしいところはあります。
ベラルーシ人もここに至るまでは様々な変遷があったのではないかと思います。
ベラルーシでは事故後数年間は汚染地域の人たちへの差別などもあったと聞いています。
日本はまだまだ精神的に事故後の混乱状態を抜け出せていない部分が残っているのではないでしょうか。
時と共に、そして食品の検査などを行う人々の努力によって、少しずつ解決していく問題なのかなと思います。

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つい最近、自分の学生たちに質問してみました。
「(汚染地域が多い)ゴメリ州の製品を何も気にしないで買いますか?」
22人中、「気にする」と答えたのは1人。
正直、1人いること自体に非常に驚きました。

私がベラルーシに住み始めたのは2000年の8月。
その頃は「気にする」と答える学生はグループの半分ぐらいでした。
「私の母はゴメリ州の物は買いません」「表示を確認してから買います」

でも、今ではほとんどの人が気にしなくなりました。
それがいいのか悪いのかは別問題だと思います。
国の政策として、チェルノブイリという問題を国民に常に意識させるような方向性を取っていないというのもあります。
簡単に言えば、「風化促進」とでも言えばいいのでしょうか。
しかし、客観的なデータの積み重ね、食品加工業の向上におけるトリプルチェックなど、そのような不断の努力が実を結んだという側面もきっとあると私は思っています。
そういう意味では、福島の現状というのは道半ばなのかなと思います。

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もう一つ気になることが。
福島の方から「福島のことに関しては、あまり自由にモノが言えないんですよ」ということを聞いたことが何度かあります。
インターネット上で何か書くと叩かれるから書かない。
何らかの形で発言すると、賛成してくれる人もいるかもしれないが、反対する人も出てくるから、何も言えない。

うーん、日本は言論の自由がある国ですよね?
言論の自由があるかどうかと発言しにくい雰囲気というのはちょっと論理が飛躍しているかもしれませんが、自由に発言できない空気というのは健全な状態とは言えないと思います。
私はドンドン発言し、議論していくべきことではないかと思います。

インターネット上の発言の中には事実に基づいていないものもあると思います。
怪しい情報も見かけたことがあります。
ベラルーシについては「奇形児が生まれている」とか、「生まれてくる子供たちの多くが健康問題を抱えている」など、とんでもない情報も多くみられます。
この問題に関しては、2012年12月25日「ベラルーシはそんなにかわいそうな国ですか?」をご覧ください。

インターネットというのは怖い媒体だと思います。
そこに書いてあることが真実かどうかは知る術もないことが多く、そこに何か書く人の中には自分というフィルターを通した内容、厳しい言い方をすれば、自分に都合のいいことしか書かない人もいます。
それをあたかも事実であるかのように、疑いもなく受容するのは非常に危険なことだと私は思います。

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今年は福島原発事故から5年、チェルノブイリ原発事故から30年という節目の年を迎えました。
毎年3月11日が近づくと、震災や福島原発事故に関する記事やニュースが多くなります。

日本人は節目が好きなんだなあと感じます。
ちなみに、ロシア語では「節目」という言葉は訳すのが難しいです。
どういえばいいのでしょうか・・・

しかし、現実にそこに住んでいる人たちにとっては普段の生活。
切れ目も節目もなく、絶えることなく続く現実です。

福島の新聞では常に原発のことが記事になっていますね。
しかし、他のところではどうでしょうか。
数年前、西日本のある県に行ったとき、福島の話をしたところ、まるで他人事の反応。
日本人としての連帯感はないのだろうかと、がっかりしたことを覚えています。

これは福島だけの問題ではなく、日本人全体の問題であるということを意識すること。
そのために重要なのは教育だと思います。
事故後最初の数年間は除染など喫緊の問題に取り組むためにベラルーシに視察に来る方が多かったのですが、ここ数年は教育や法律の専門家の方が増えてきています。

2014〜2015年はベラルーシを訪れる日本人の数が急激に減りました。
2012〜2013年は視察団の数も多く、通訳の仕事も多かったのですが、その後、仕事の数も減少しました。
特に、汚染地域を多く抱えるゴメリ州の人たちからは「日本人の人はめっきり来なくなっちゃったね」と言われるようになりました。

しかし、ベラルーシと日本の関係はこれからのような気がします。
ベラルーシはある意味、日本の先人。
チェルノブイリ事故後30年間の経験の蓄積があります。
住民に対する情報提供のあり方、教育活動のあり方など、その先人から学ぶべきことはまだまだあるように思います。

2016年という節目の年に当たり、今年ベラルーシを訪れる日本人の数はまた増加しました。
しかし、これが一過性の現象ではなく、常にある取り組みとして続いていくことが望ましいのではないかと思います。

これまでは日本から来た人たちが福島の復興に役立つ情報をもらうだけという一方通行的な関係が多かったと思います。
それでは「交流」とは言えないと思うのです。
これからは日本の現状をベラルーシの人々に伝えていくことも重要になっていくと思います。
ベラルーシの方からよく言われるのは「今、福島がどうなっているのか知りたい」「知りたくても、情報があまりにも乏しい」。

チェルノブイリ関連でベラルーシにいらっしゃる日本人の方々に「できれば、福島の現状を皆さんの前でお話しいただけませんか?」とお願いすることがあります。
以前は「視察に来ているのだから」「こちらが情報をもらいたいのであって、こちらから発信する余裕がない」という趣旨のことをおっしゃる方が多かったのですが、ここ数年は私からのお願いに応じて下さる方も増え、去年は私が勤務する大学や汚染地域の教師のみなさんの前でお話しくださった方もおられました。
ベラルーシと日本がより成熟した関係になっていくためには、お互いの現状を知ることから始めないといけないように思います。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
そして、福島原発事故で自らの町や村を離れることになってしまった方々に、いつか故郷に戻れる日が訪れることを心より願っております。


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2015年07月04日

こんにちは。
はぐれミーシャです。
ご無沙汰しております。

私は明日、日本へ一時帰国します。
その前に、ベラルーシにいるうちに書いておきたかったことを一つ書いておきたいと思います。
それは今年の3月にやった原爆詩の朗読についてです。

とりあえず、動画を貼り付けます。
正直、日本人の皆さんに見ていただくのは怖い、というより、恐怖を感じます。
自分では全く納得しておらず、自分の朗読のビデオを見て、愕然としたからです。
どうしても、自分のこととなると、評価が厳しくなるものですが、これは本当に自分でも納得できないのです。

しかし、今の自分をさらけ出すことに意味があると考え、ここに出すことにしました。
ダメな自分も自分。
ありのままの自分を出してみたいと思いました。



朗読会を思い立ったのは2月のことでした。
プライベートでいろいろと苦しい時期があり、そんな時期にふと「何かやらなければ」という気持ちになったのです。

原爆詩の朗読というのは以前からあったアイデアでした。
しかし、朗読するのは私ではない、というのが当初の考えでした。

私は吉永小百合さんの原爆詩の朗読をNHKのドキュメンタリー番組で聞きました。
それ以来、朗読の会をベラルーシで開けないかと考えていたのです。

ベラルーシ人の中には「日本とベラルーシは悲劇で結ばれている」という人が少なくありません。
ここでいう悲劇は言うまでもなく、広島、長崎、チェルノブイリ、そして福島のことです。
そんなベラルーシで原爆詩の朗読を行うことには大きな意味があると私は考えたのです。
ベラルーシでは「ヒロシマ」「ナガサキ」という言葉は知られていますが、実際に何があったのかを知っている人はほとんどいません。
そんなベラルーシの人たちにもっと知ってもらいたいと私は考えました。

実際に長崎の方に「ベラルーシに来て朗読してくださる方がいれば」という話をしていました。
もちろん、吉永小百合さんに来ていただきたいと考えましたが、それは夢のような話で・・・

「ベラルーシに来てほしい」と言っても、相当なお金がかかります。
私がお金を出すのならいざ知らず、「自腹で来てくれませんか?」というのは虫が良すぎる話。
誰にお話をしても、話が先に進むことはありませんでした。

次に私の頭にひらめいたのは、学生たちに読ませること。
学生たちに日本語で読んでもらおうと考えたのです。

しかし、実際に詩の本を取り寄せて読んでみると、精神的な負担があまりにも大きい。
読むだけでも辛いのに、それを朗読するとなると・・・
学生たちにその「詩を生きる」ことを強いるのはあまりにも残酷だと考えました。

そして、そのまま時は流れ・・・
結局、そのアイデアが生まれてから4年近くが経過してしまいました。



今年になってから、精神的に苦しむ中、私は「何かしなければならない」という衝動に突き動かされました。
そこで、ふと朗読のことを思い出したのです。
2011年の東日本大震災以降、福島関連の通訳の仕事が増え、チェルノブイリにも何度か訪れる機会がありました。
そのことも今回のことを決める大きな要因になりました。

人に任せるのではなく、自分でやってみよう
とりあえず、自分がやってみせよう



私はすぐに本を手に取り、声を出して、詩を形にしようとしました。
初めて声を出して原爆詩を読む感覚は苦しいものでした。
そして、その苦しさは強まりこそすれ、本番の時まで消えてなくなることはありませんでした。

私が初めて人前で朗読したのは、私の学生で、私の会社で働いているカーチャさんの前です。
あまりの内容に絶句していました。
私は彼女に聞きました。
私「この朗読、みんなの前でする価値があるだろうか」
カーチャさん「はい、あると思います」
その言葉に後押しされ、私は朗読会を開く決意をしました。

それは非常に辛い道のりでした。
練習と言っても、何度も読めばいいわけではありません。
一日に何度も真剣勝負はできません。
読むたびに自分の心が削られていくような気持ちでした。

その詩を生きること。
それが詩を読むための唯一の道でしたが、私が「生きた」ものは実際に「生きた」人々の悲しみ、苦しみ、全てを投げ込んだ地獄の諸相の何万分の一に過ぎないことが、より私を戸惑わせ、ある種の絶望の淵へと追いやりました。

全くやったことがないことをゼロからすることは面白い場面もありましたが、手探りで迷いながらの辛い作業でした。
感情を込めていくと芝居がかってしまうのです。
練習の際はカーチャさん、もう一人の学生でありながら教師をしてもらっているマリーナさんの二人に聞いてもらうことが多かったのですが、あまりにも熱がこもった時の方が二人には不評だったりしました。
聞いている二人の間でも、感情がこもった方がいいという意見と、もっと抑えた表出方法のほうが伝わるものが多いという意見に分かれてしまいました。

感情を抑えて読むこと。
私は迷いに迷いました。
しかし、私は吉永小百合さんのような静かな、そして確かな表現力は持ち合わせていません。
私は自分にできることをしようと、開き直れたのは朗読会の開催の数日前でした。

「どうせやるなら」ということで、私は音楽にもこだわることにしました。
最初は吉永小百合さんと坂本龍一さんのように朗読に音楽を重ねることを考えたのですが、それを自分でやってみると、どうしても音楽に引っ張られてしまって、朗読ができなくなってしまいました。
なので、オープニングとエンディング、そして詩と詩の間に音楽を入れることにしました。

選曲は私の趣味がかなり反映されています。
フィリップ・グラス、武満徹、伊福部昭などなど。
現代音楽がピッタリ来るだろうと思ったのです。
観客の皆さんには好評でした。

そして、照明。
できるだけシンプルに。
光と影を作ろう。
私は冬に一緒に仕事をしたCM制作などを手掛ける会社を経営する友人に照明機材を貸してほしいとお願いしました。

ギリギリまで準備をしましたが、照明と音楽を本格的につけた形で朗読する練習はできず、最終的な形はぶっつけ本番ということになりました。
私の頭の中のイメージが形になるのはうれしいことでしたが、本番がどうなるかはその時次第でした。

体重も落としました。
食事をかなり減らし、毎日エアロバイクでトレーニング。
誰の目から見てもわかるほど、やせていきました。
なぜかそうする必要があると感じたからです。

会場は私が経営する「東洋語センター」の教室。
椅子の数は頑張って30個。
しかし、実際は立ち見が出るほどで、おそらく50人近くは入っていたと思います。
せまい教室の中で蒸し暑く、息苦しいと不満を言う人も後で出てきましたが、それもある意味では少しだけ計算していました。
8月の太陽と結びつけるのは安直かもしれませんが、それもいいだろうと思ったのです。

観客のほとんどは私の学生でしたが、私が招待したかった日本人の方をお二人、そして懇意にさせてもらっているロシア正教のシスターの方をご招待しました。

プロジェクターの不調で、開始時間が10分ほど遅れてしまいました。
このYoutubeのビデオにはありませんが、最初に広島の原爆のことを紹介するスライドが流れています。

DSC_0168始めはあまり調子に乗り切れませんでした。
自分なりにはしっかり読んだと思うのですが、少し空回りしている感じが自分でもしました。

詩と詩の間は音楽だけで、余計なものは挿入しませんでした。
私は照明の当たっているところから、当たっていない暗いところへ行き、呼吸を整えたり、苦しみをため息に変えたりしていました。
私が苦しんでいるところも朗読の一部としてとらえたのです。

あとから、照明とビデオ撮影をやってくれた友人二人から、「詩と詩の合間にビデオを流したり、写真をプロジェクターで映し出したりしたほうがよかった」と言われました。
しかし、学生たちからは「あれでよかった」と全員に言われました。
詩一つ一つが受け止めるのに辛い内容。
詩と詩の合間の何もない時間は、誰かにとってはクールダウンの時間であり、他の人にとってはその意味を深くとらえる時間であり、悲しみに沈む時間であり。
多くを語らずして、読む者や見る者の想像に委ねることによって完成させると言う日本的な発想に基づいたやり方でした。

DSC_0179朗読を進めるにつれ、自分の中でも熱いものが止められなくなっていきました。
照明が顔にもろに当たっているせいもあり、聞いている人たちの顔は全く見えませんでしたが、すすり泣く声が聞こえたり、耐え切れず廊下に出ていく人もいました。

手や体の動きは最小限にとどめました。
素人の私が動いても、わざとらしく見えるだけだと思ったからです。
それに、内容的にも動きはいらないと思いました。

ただ、流れている音楽を止める時、手で合図をしました。
その手の動きが雰囲気に合っていたという人が多かったです。

DSC_0180最後の詩を読み終わりました。
読み終わった瞬間、照明が落ち、ギターの音楽が流れるという寸法でしたが、照明が落ちるタイミングが若干遅れました。

そして、音楽が流れない。
私は焦りました。
友人である照明さんと、友人の紹介で来てくれたある劇場の音響さんには、最後のところだけはタイミングを外さないでくれと散々お願いしていたのです。

結局、5〜6秒遅れで音楽が流れだしました。
その数秒間、観客たちは暗闇の中で置き去りにされました。
逆に、それがよかったようで、音楽のタイミングが遅れたことを言うと、学生たちは「えっ?そうでしたか? 全然気になりませんでした」

あとで、音響さんのところに行くと、「すみませんでした!」
音響さんの隣にはマリーナさんが座ってキューを出していたのですが、彼女が小声で「早く音楽を!」と言うまで音響さんはずっとボーっとしていたそうです。
音響さん「聞き入ってしまって・・・」
そう言ってもらえて、私としてはとてもうれしかったです。

ビデオ撮影をしてくれた友人も同じことを言っていました。
聞き入ってしまったせいでビデオのメモリーカードのチェンジのことを忘れてしまい、チェンジするまでに私が間をつなぐ羽目になってしまいました。

でも、聞き入ってもらえたのは自分の力ではなく、詩の内容なのだろうと思います。
私には修業が足りません。
更なる精進が必要だと感じました。

学生たちの反応はあとから聞いたものですが、好意的なものでした。
中には何の朗読か全く知らずに来て、かなりの衝撃を受けた女子学生もいました。
「何かとりついているように見えました」「いつもの先生とは別人に見えました」「聞いているのが辛かったです」など、いろいろな反応でした。

DSC_0203最後に記念写真。
向かって、私の左隣にいるカーチャさんと右隣のマリーナさんには本当にいろいろと手伝ってもらいました。
二人には詩を全てロシア語に翻訳してもらいました。
カーチャさんにはプロジェクターで映す字幕やスライドの作成もやってもらいました。

その作業は二人にとってはあまりにも辛いもので、二人とも「こんな詩を読んで、先生は大丈夫ですか?」と何度も聞かれました。
そして、私は彼女たちのことを心配しました。
二人とも感じやすく、練習しながら一緒に深い闇に沈んでいくのが私にはわかったからです。
同じ時間を生きてくれたことに感謝。
本当にありがとう。

左端にいるナースチャさんは私が最も信頼している学生の一人。
今は東京の大学で勉強しているのですが、ちょうど3月にベラルーシに一時帰国していたので、照明など細かいことを手伝ってもらったのです。
すでに私が教えていない学生と一緒に何かできることは幸せです。
教えていなくても、学生と先生という関係は変わりません。
彼女にとっても、原爆詩を聞くのは辛かったと思います。
手伝ってくれて、ありがとう。


もう一度やりたいです。
辛いのはわかっています。
自分を追い込み、ギリギリの精神状態で読む作業は非常に苦しいものです。
でも、だからこそやる意味があります。
そして、ベラルーシの人たちにもっと広島・長崎、そして福島のことを知ってもらいたいです。

大学でもやって学生たちに聞いてもらいたいですし、汚染地域の町にも行きたいです。
昨日はキエフのチェルノブイリ博物館に行ってきたのですが、そこでもやらせてもらえないかという話をしてきました。

でも、やらせてもらうには自分の朗読をもっと深化させていかないといけないと思います。
時間が必要です。

そして、カーチャさんとマリーナさんの助けが必要です。
信頼する二人を道連れにするようで悪いのですが・・・

原爆詩の朗読の後、私や聞いていた人たちの心の中に残ったのは、祈りの気持ちではないでしょうか。
平和への祈り、間違いを繰り返さない決意。

もう一度、朗読やります。

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2015年05月01日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日のテーマはチェルノブイリです。
直球です。

最近、チェルノブイリ近辺で森林火災があったことで、またチェルノブイリがにわかに注目されていますね。
焼けた木々の灰がベラルーシの方向に飛んでくるのではないかと心配しています。

しかし、ベラルーシの放射線環境をモニタリングしている機関のHPを見ると、放射線量に関しては全く変化は起きていません。
いつものように、5月1日のミンスクは0.1マイクロシーベルト/時。
比較的、値が高いブラーギンも0.53マイクロシーベルト/時と、普段と変わらず。

こんなことを書くと、「国の機関が発表していることを信じているのか!?」と言われそうな気がしますが、私は結構信じています。
そういうモニタリングをやっている機関や現場を私は自分の目で見ていますし。
非常にしっかり測定していますよ。
隠ぺいすることのメリットはベラルーシには全くありません。


さて、今日は昨年3月に私がチェルノブイリを訪れたときのレポートをしたいと思います。
通訳の仕事でチェルノブイリを訪れたのですが、そのときはちょうどウクライナの政情が不安定なときでした。
マイダンと呼ばれるキエフ中心部の広場での戦闘がようやく収まったばかりの頃で、非常に不安だったのを覚えています。
その時の様子は2014年3月31日「はぐれミーシャのウクライナレポート キエフに行ってきました!!! ティモシェンコを探せ!!!」をご覧ください。

ここではWikipedia的な解説は避けたいと思います。
例えば、事故の概要とかは他の解説を読めば事足りるわけですから。
私が改めて解説することでもないだろうと思いますので、ここでは私の個人的な感想、訪問レポートという形をとりたいと思います。


チェルノブイリへの道

地図で見ると、チェルノブイリはウクライナの一番北、ベラルーシとの国境にあります。
しかし、ベラルーシから直接チェルノブイリのある地域に入ることはできません。
直線距離ならとても近いんですけどね。
道がないのです。
ベラルーシの汚染地域は「ポレーシエ放射線環境保護区」となっており、立ち入りが厳しく禁じられています。

結局、キエフ経由ということになります。
かなり遠回りではあるのですが、これは仕方がないです。
最初は車での移動を考えていたのですが、ウクライナの地方都市でベラルーシナンバーの車が襲撃される事件が頻発しているという情報があったので、鉄道を使うことにしました。

キエフには朝の8時近くに到着。
ホテルで朝食をとり、そこからチェルノブイリへ向かいました。
車で2時間半ほどの道のりです。

途中、二か所のチェックポイントでパスポートなどの書類のチェックがありました。
チェルノブイリは見学ツアーが盛んで、以前にチェルノブイリを訪れたときも(←つまり、この時は2回目の訪問)、他の見学者が結構いたのですが、この日は私たち以外に一組だけ。
ツアーガイドの説明では、ウクライナの政情が不安定になってから、観光で訪れる人が激減したのだそうです。



チェルノブイリに到着! とは言っても、原発ではない

DSC01260チェルノブイリに到着! と言っても、これは原発ではなく、チェルノブイリという町。
この町の名前が原発の名前になったのです。
ベラルーシでもそうですが、町の入り口にはこういうモニュメントが必ず立っています。
このデザインからも原発産業で成り立っていた町なのだということが見て取れます。


DSC01261これはチェルノブイリの町の教会。
まだちゃんと機能しています。
時々、チェルノブイリ出身の神父さんが来て、礼拝が行われているそうです。
残念ながら中には入れませんでした。

DSC01267チェルノブイリの有名な広場に着きました。
この小道には両側に原発事故で消滅してしまった村などの居住地の名前が書かれています。
人々が住んでいたところ、その住民にとっては故郷を哀悼する意味が込められています。

DSC01266モニュメントの一つに「フクシマ」の文字が刻まれていました。
折り鶴をかたどったモニュメントです。

こういう演出、ウクライナ人はとても上手だなあと思います。
これはキエフのチェルノブイリ博物館でも感じることですが、見ている人に伝わるような展示方法や演出に非常に長けているのです。
ベラルーシ人とはだいぶメンタリティーが違います。
ベラルーシ人はそういうアピールはあまり上手じゃないところがありますから。

この広場の近くに店がありました。
というか、普通にチェルノブイリの立入禁止区域にお店があることが驚きです。
飲み物や食べ物が普通に売ってありました。

DSC_0110[1]そして、驚きなのが、チェルノブイリグッズ!
マグネットやボールペン、Tシャツまであるのです。
私はそこでマグカップを購入しました。
こういうところがウクライナ人らしいところです。
商魂たくましいというか。
キエフで戦闘のあった独立広場でもマグカップやTシャツなどのグッズが販売されていましたから。
戦闘直後で広場中、焼け焦げたようなにおいに満ちている中でも商売をしようというのがすごいなあと思いました。


チェルノブイリの町を歩く

DSC01270チェルノブイリの町の中は当然、人が住んでいません。
いたるところにこのような廃墟と化した家が。
失礼して、中を覗くと明らかに荒らされた跡が。
原発事故後、火事場泥棒的な事件が後を絶たなかったと言います。
ネジ一本に至るまで盗まれたと言う話を聞いています。

DSC01268このうちの壁に住んでいた人が書いたと思われる言葉が書いてありました。
「我が家よ、許しておくれ! そして、さようなら!」
自らの家を捨てて出ていく人の心の痛みは如何ほどのものだったでしょうか。

福島でも同じような悲劇が起こっているのかと思うと・・・
家はただの「モノ」ではなく、住んでいる人の想いや思い出が詰まったもの。
私は19歳のとき、実家が全焼し、自分が育った家、思い出がいっぱい詰まった家が灰になったところを見たことがあります。
福島の場合とは違う痛みかもしれませんが、家を失うことの辛さは察して余りあります。

DSC01271「ここには人が住んでいます」
そうなんです。
こちらのお宅には人が住んでいます。
中には避難勧告を無視して、住み続けている人がいます。
主に高齢の方々で、自分の故郷に住み続けたいということです。
強制的に避難させると言うことはないそうです。

ここに住んでいるのは高齢の女性。
息子さんが生活に必要な物資や食料を運んできてくれるそうです。

DSC01274これは事故処理に当たった機械の「墓場」。
放射性物質で汚染されているため、近くに行ったり触ったりすることはできません。
こういう機械を見ていると、当時の様子がリアルにイメージできたりします。



チェルノブイリが見えてくる

DSC01281チェルノブイリ原発が見えてきました。
川沿いを車はひた走ります。

以前チェルノブイリを訪れたとき、この時点でガイドさんに「原発の近くに行ったら、写真撮影やビデオ撮影をやめてください。決まったポイントでだけOKです」と言われました。
勝手に撮影などをしていると、当局に拘束され、映像や画像を削除されると言われたのです。
しかし、このときのガイドさんは「大丈夫だよ!」「ダメなところはあるから、そこだけ注意すれば、あとは普通に撮影していいよ」。
うーん、どっちが本当なんだろう?

DSC01287ここが原発に一番近いポイントになります。
ここから原発のほうの写真を撮るのは許可されています。

圧巻です。
このときは二回目でしたが、感じるものがあまりにも大きくて・・・
この廃墟が人々の生活を奪い、故郷を奪い、30年近くも人々を苦しめ続けているのかと思うと・・・

チェルノブイリ原子力発電所。
私は「負の世界遺産」として登録すべきだと思っています。
同じ過ちを犯さないために。

一度は見る価値があります。
放射能のことを心配する人がいますが、2〜3時間いたぐらいでは通常は問題はないはずです。
帰るときはチェックポイントで被ばく量をチェックされますが、私が行ったときはチェックで引っかかった人は一人もいませんでした。



リアルゴーストタウン、プリピャチの町を歩く

DSC01288それから私たちが向かったのはプリピャチの町です。
チェルノブイリ原発から4キロの近いところにあり、事故でゴーストタウンになってしまった町です。
「1970」という数字が書いてありますが、これはプリピャチの町が作られた年。
町自体が非常に新しい町だったことがわかります。

DSC01301これは有名な観覧車です。
チェルノブイリ原発事故が起こった4月26日の後でオープンする予定だったものです。
つまり、この観覧車は子供たちを乗せることなく、事故に遭ってしまったのです。

DSC01305プリピャチのレストラン。
プリピャチの住民のほとんどが原発で働いていた若者たちでした。
その若者たちもこのレストランに集い、夜の楽しい時間を過ごしていたのでしょうか・・・

DSC01311これは学校の敷地。
かつては子供たちの声が響いていたのでしょう。
目を閉じると子どもたちの声が聞こえ、目を開けると子どもたちの声は消えました。

プリピャチの町は二回目でしたが、やはり強い印象を受けました。
それは激しい感情ではなく、静かにしみいるように町の静寂が心の波を受け止めてくれるような感覚です。




チェルノブイリで働く、チェルノブイリで生きる

DSC01335それから、私たちはチェルノブイリのカフェで昼食をとりました。
これはスープに添えられていたパン。
名前は「パンプーシュカ」。
名前がかわいいです。
パンの上からニンニクオイルがかけられています。
ウクライナではポピュラーなもので、普通はボルシチに添えられるのですが、この時はえんどう豆のスープでした。
これ、すっごくおいしいんですよ。

このカフェ、チェルノブイリグッズも販売していました。
結構高めの値段設定。
たくましいなあ・・・

実はこのカフェで今回のチェルノブイリツアーで最も印象に残った出来事がありました。
それは次の写真の女の子の言葉。

DSC01339かわいいんですよ。
ウクライナ美人です。
ベラルーシも美人が多いですが、ウクライナの美人はちょっとタイプが違います。
顔立ちが違いますね。

それまでにチェルノブイリの区域で出会う人の中には若い人はいなかったので、私は驚きました。
彼女に「どうしてここで働いているの?」と聞くと、「私の父もチェルノブイリで働いているんです」
えっ? そんな理由で働いているの!?
私は何か彼女の中に使命感があるとか、そういうことなのかなと勝手に思っていたので、ちょっとビックリしました。

私「チェルノブイリで働いていて、怖くないの?」
女の子「??? なんで怖がる必要があるんですか?」
彼女は2週間働いて、2週間キエフで休むというシフト。
私「っていうか、ここに寝泊まりしているの?」
女の子「はい」

彼女の答えがあまりにも自然で。
何も特別なことなどないかのように。
むしろ彼女の方が私のリアクションに不思議がっていました。

確かにチェルノブイリ原発に近いからと言って、そんなに線量が高いわけじゃないんですよ。
ご一緒した方の中には線量計を持っていらっしゃる方も多かったのですが、それほど驚く線量ではありませんでした。

冷静に考えることができれば、彼女のようにチェルノブイリ原発の近くで働いても大丈夫なのでしょう。
チェルノブイリの場合はすでに30年近く経っているということも人々の心理に影響しているのかもしれません。
放射能を怖がるパニック状態からは脱している、ある意味、「放射能との成熟した共存関係」が築かれているように感じました。

もちろん、私は低線量被ばくの影響などを否定するわけではありません。
その女の子が100%安全な状況にいるとも思えませんし。
それは彼女自身の判断。
外的な要因を考慮して、大丈夫だと思っているから働いているのでしょうし。

ゴメリの放射線生物学研究所を訪れたときのこと。
日本人の方々が「低線量被ばくはどのように人体に悪影響を及ぼすのでしょうか?」と口々に質問しました。
研究所の人の答えは「わかりません」。
これが今のところの答えだと思うのですよ。

研究所の人「だって、まだ27年しか経っていないんですよ」(←数年前の話です)
「27年しか」
まさにその通りです。
研究所の人「低線量被ばくの影響の調査は時間がかかるものです。もしかしたら、50年後に影響が出るかもしれないし、数世代あとの世代に影響が出るかもしれないし。それはまだ誰にもわからないのです」
常に研究を続けていく必要があります。

DSC01341カフェの外に出ると、ネコが日向ぼっこしていました。
わずかに日の当たるところを見つけて、気持ちよさそう。



チェルノブイリにもネコはいるんです!!!
みんな、生きているんです!!!




今年も私はチェルノブイリに行きます。
また何を自分が感じるのか、何を思うのか。
チェルノブイリを訪れることはチェルノブイリを見るというだけにとどまらず、ベラルーシというチェルノブイリ原発事故で激しく汚染された国に住み続ける自分自身の心の中を覗き込むことでもあります。


生きるということ
その尊さを感じる旅になるでしょう。




追伸
チェルノブイリは一度は訪れてみる価値がある場所だと私は思っています。
チェルノブイリに行ってみたいという方がいらっしゃったら、コメント欄にメッセージをいただければと思います。
私の方でお手伝いできることがあれば、お手伝いさせていただきます。
その場合はメールアドレスを明記されることをお忘れなくお願いします。

追記
http://people.onliner.by/2015/05/01/radiaci9/
汚染地域に近いゴメリ市で放射能測定をした様子です。チェルノブイリ近辺の森林火災による影響はほとんどないことがわかります。ロシア語ですが、翻訳機能などを使って、ぜひ読んでみてください。


akiravich at 17:01コメント(4)トラックバック(0) 

2015年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から4年が経ちました。

ベラルーシにいると、日本のニュースはインターネットでしか見られないわけですが、少しずつ福島関連のニュースが減っているように感じるのは気のせいでしょうか。
ベラルーシに来る視察団も激減。
以前は一年間に何度も通訳の仕事があったのですが、2014年は1回だけ。

去年の夏も日本へ一時帰国しましたが、福島以外の地域では福島のことを話したり、聞いたりすることはほとんどありませんでした。
ただ、福井県にお邪魔して講演などをさせていただいたときは、原発を多く抱えている県だけあってか、非常に関心が高かったのを覚えています。
それ以外の地域では福島の話をしても、あまりリアクションが帰ってこないことが多かったです。

すでに風化してしまったのでしょうか?
でも、福島に現に住んでいる方にとっては風化しようがないですよね。
仮設住宅にいまだに住んでいる人たち、自分の家を失った人たち、家族や大切な人を失った人たち・・・
その痛みに寄り添うやさしさを持った人たちが日本にはまだたくさんいる、と信じたいところです。

去年の夏、私は福島にお邪魔しました。
そのときに痛切に感じたことがあります。

数人の方が「原発事故から3年半も経って・・・」とおっしゃっていたのです。
私が違和感を感じたのは「も」という助詞。
この場合の「も」は長い時間や期間を強調する助詞です。

今、私が感じるのは「まだ4年しか経っていない」こと。
「しか」は少ないことや短いことを強調する言葉。
この「しか」と「も」の差は大きいと思います。

何度か福島で「も」を聞きました。
私にとっては3年半でも4年でも、まだまだ短いような気がしますから、「しか」のほうがしっくりくるのですが。

ただ、「3年半も経ったのに、何も変わっていない」というコンテキストなら、「も」は非常に適切になると思います。
確かに、まだまだ進んでいない部分もあるかと思います。
除染もそうですし、補償の問題も残っている。
確かに3年半はまだまだ短い時間ですが、もっとできることがあるのではないかと思い、歯がゆく感じる部分もあります。

ベラルーシ人の研究者に低線量被ばくの人体への影響について質問した時のこと。
その時の答えは「まだわかりません」。
なぜなら、「まだ29年しか経っていないから」。

汚染地域が多いゴメリ州の州都、ゴメリの人に聞いても、「まだ29年しか経っていない」という言い方をする人がいます。
もちろん、「29年も経った」という言い方をする人も非常に多いですが、「しか」と言う人も結構います。

福島の問題、風化するにはまだまだ早いと思います。
福島以外の人の意識からも福島の問題が消えていかないようにはどうすればいいのでしょうか?
私にも答えは見えてきません。

正直、自分の中の意識も少しずつ薄れてきているのは確かです。
ベラルーシでの日々の生活の中で、「福島」を意識する時間が少なくなっているのは事実です。
福島関係の本、去年の夏、買い込んできたのですが、まだ読んでいないものが多いなあ・・・
もっとやりたいことがあるはずなのに、できていない自分が情けなくも感じます。



そんな自分を少しでも前に進めたいという気持ち。
それが、昨日の記事で書いた原爆詩の朗読ということにつながってきます。

私の中では広島・長崎、チェルノブイリ、福島というワードが一つの線でつながっています。
ベラルーシ人はよく「ベラルーシと日本は悲劇で結ばれている」という人がいます。
広島・長崎という言葉を使う人が多い割には、その具体的なことについて知らない人がほとんどなのです。

とは言っても、私自身も詳しく知っているわけではありません。
私自身にとっても勉強の日々です。

来年はチェルノブイリ原発事故から30年の節目の年になります。
その年に向けて、できることをいろいろと考えています。
翻訳関係の仕事もしたいですし、福島の方で何かご一緒できる方がいれば、一緒にベラルーシでイベントができればなどとも考えています。



先日、NHK BS1の「地球アゴラ」という番組に出演させていただきました。
震災から4年経った福島からの生中継ということで、私も汚染地域のお医者さんと一緒にスカイプで生出演させていただきました。
非常に前向きな取り組みをしている若者たちが紹介されていて、希望の光が見えてくる想いがしました。

番組終了後、インターネット上で番組の感想として、「ベラルーシでの対策を伝えることは悪いことではないけれど、今一番伝えるべきは、この4年で蓄積されたデータに基づいた福島の現状だと思う。WBCでわかった内部被爆の有無、健康状態や農作物の状況をちゃんと伝えないで、ベラルーシのことを放送されても意味がない」というものがありました。

うーん、番組の趣旨と言うのはそれぞれにあるものだと思うので、福島の現状を伝える番組というのは他の番組でやればいいわけで(←そういう番組はないのでしょうか?)。
私としては最後の「ベラルーシのことを放送されても意味がない」という文が非常にひっかかってしまうのです。
もちろん、福島の現状を伝えることは大事ですが、それが「ベラルーシのことを放送することが意味がない」ということにはつながらないと思います。
悲しくなりました。

こういうコメントが出てくるということは日本では被ばくの有無や健康状態、農作物の状況がちゃんと伝えられていないということなのでしょうか?
それが本当だとしたら、それはそれで悲しくなります。
4年「も」経っているのに・・・



書いているうちに、自分の気持ちが「も」と「しか」の間を行きつ戻りつしているのを感じます。
4年が長かったのか短かったのか・・・
自分にとっては・・・やっぱりわかりません。
長いような気もするし、短いような気もします。

失われたものの痛みは永遠になくなることはないでしょう。
その「永遠」を前にして、4年が長かったのか短かったのかを論じるのはナンセンスにも感じます。



今、私ができること。
ベラルーシと福島をつなぐことが少しでも福島の方たちの役に立つのであれば、という気持ちです。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。
そして、仮設住宅で不自由な生活をされている方々がいつか自らの故郷に戻ることができる日がくることを祈っております。


akiravich at 18:20コメント(4)トラックバック(0) 

2014年05月28日

ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

いやあ、いそがしいです。
いそがしいったらありゃしない。

ここ最近は大きい通訳の仕事などはないのですが、通常の仕事だけでも結構大変で。
常にチェックする宿題を抱えている状況です。
個人教室だけで100人以上の学生がいますからね。

さて。
今日のテーマは日本で話題の美味しんぼ鼻血問題です。

このニュース、私も気になっていて、毎朝インターネットのニュースをチェックするときは真っ先にこの問題についての記事を読むようにしていました。
簡単に言ってしまえば、私は鼻血は出るわけがないという考えでいました。
様々な方の意見などを読む限り、医学的には放射性物質のせいで鼻血が出るというのは考えにくいという意見が多く、私もその通りなのだろうと思っていました。

5月23日、国会内で「鼻血には医学的根拠がある」という内容の記者会見が開かれた、ということをYahooニュースで読みました。
会見をした方のお名前を見てびっくり。
お一人はつい最近、通訳でご一緒した方。
もうお一人は2年ほど前、通訳でご一緒した方。
いずれも非常に素晴らしい方たちで、私は通訳させていただいたことを誇りに思うほどです。

それまでは「鼻血はあり得ないだろう」と思っていたのですが、その記者会見のことを知って、ちょっと確信が揺らぎました。
お二人とも卓越したプロフェッショナル。
そのお二人が言うのであれば・・・

私は自分でも調べてみようと思いました。
「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」を見ると、チェルノブイリの汚染地域では低線量被曝でも鼻血が出る、それは日常的であるということを書かれている方がおられました。
本当かな?


昨日は子供の保養施設に行ってきました。
いつものように折り紙教室です。
通訳で何度も訪れているところで、職員の方も知り合い。
昨日電話して、「明日折り紙をしに行ってもいいですか?」と聞くと、「もちろん!」と即答。

最初は鼻血関係のことを職員の人に聞きたいなあと思っていたのですが、施設に向かう途中、気が変わりました。
私は子供たちのところへ折り紙をしに行くのですから、そこの軸はぶれさせたくないのです。
あんまり難しく考えるのはやめて、普通に子供と遊んで来よう、と。
これこそが私の折り紙教室のベースにある考え方なのです。
私とチェルノブイリ 〜瓦討論泙蟷罎ら始まった
私とチェルノブイリ◆.福璽好船磴舛磴鵑悗竜Г

保養施設に着くと、職員の女性が出迎えてくれました。
そして、すぐに子供たちの娯楽室へ。
そこは子供たちが自分で何かを作ったりするプレイルームのようなところです。

子どもたちが12人ぐらい来て、折り紙スタート。
その保養施設にはベラルーシの様々な地域(主に汚染地域)から子供が来ているのですが、今回はゴメリ州のチェチェルスクという町の子どもたちでした。
いつものように日本語を軽く教えてから、鶴を折り始めました。

そのとき、ふと思ったのです。
子どもたちに直接聞いてみよう。
大人がいるといちいちコメントしてきたりして面倒だから、職員の人が席をはずしている今のうちに聞いてしまおう。
ちょっとデリケートな問題に感じるかもしれませんが、ベラルーシの子どもたちは割と抵抗なくいろんな質問に答えてくれることを私は知っています。

はぐれミーシャ「あのね、一つ変な質問があるんだけど、いいかな?」
子どもたち「どうぞ」「いいよ」
はぐれミーシャ「みんなの中で鼻血がよく出る子っている?」
そう聞くと、数人の子どもが手を挙げました。

はぐれミーシャ「あ、そうなんだ。みんなの周りにもそういう子、いる?」
子どもたち「いるよ」
はぐれミーシャ「それって頻繁に出るの?」
出ると答えた子どもたち「そんなことないよ。時々」
はぐれミーシャ「それって、放射能のせいだと思う?」
子供全員「違うよ。血圧のせいだよ」
速攻で否定されました。
その後、簡単に日本で話題になっている鼻血の話をすると、子どもたちは「血圧のせいだと思うけどな」。

彼らが暮らすチェチェルスクはチェルノブイリにそれほど近いわけではありませんが、他のベラルーシの町よりは放射線量が高い町。
移住権利区域(年間被ばく量が1ミリシーベルトを超える可能性がある地域)に指定されています。

DSC01615DSC01616DSC01617DSC01613
ここから先は普通に折り紙。
楽しく会話しながらの折り紙です。
みんななかなか積極的でした。

子どもたちに「今年の夏はどこか行くの?」と聞くと、口々に「イタリア!」「ドイツ!」。
彼らがお金持ちだから旅行に行くというわけではありません。
これは夏の保養のためにドイツやイタリアに招待されるのです。
ゴメリ州のようなチェルノブイリの汚染地域では珍しくないことです。
いまだにこういうことが続けられているんだなあ。

DSC01618DSC01619DSC01620DSC01623次のグループも楽しく楽しく。
このグループはチェチェルスク、レーチッツァ、レーリチッツィ、ゴメリと、いろんな町の子どもがいました。
最初は7人ぐらいだったのが、「ちょっと面白そうだ」と部屋を覗いてきた子どもたちで部屋はいっぱいになりました。
とても楽しい子供たちで、私もリフレッシュできました!!!


このグループでも全く同じ質問をしてみました。
そして、全く同じ反応が返ってきました。
鼻血が出ると言った子供たちに聞きました。
はぐれミーシャ「それはよく出るの?」
子どもたち「よくは出ないよ」
はぐれミーシャ「鼻血が出やすいとか」
子どもたち「出やすいわけじゃないよ」
はぐれミーシャ「何のせいだと思う?」
子どもたち「血圧」「みんな時々はあるんじゃないの?」
はぐれミーシャ「血圧、高いの?」
子どもたち「ちょっと高い」「興奮すると高くなるんじゃないの?」

ゴメリもレーチッツァもレーリチッツィも定期的放射線管理居住区域(住民の被ばく量が年間1ミリシーベルトを超えない地域)です。

子供が鼻血を出す理由はいろいろあるのでしょう。
その「血圧」という理由がちょっと気になったのですが、うちの奥さんに聞いたところ、それは子供たちが高血圧で悩んでいるという意味ではなく、興奮したり急にスポーツをしたりして一時的に血圧が上がったために鼻血が出るのだと言われているのだそうです。

子どもたちが帰った後、保養施設の副所長さんとお話ししました。
そこで、日本の鼻血騒動について話しました。
副所長さん「そんなのあり得ないですよ」

この施設はチェルノブイリの汚染地域(「汚染地域」という言葉の定義が難しいところですが)に居住する子供たちが保養する施設です。
どんなに汚染度の低いところでも、食物による内部被ばくなどは起こってしまうことがあります。
その検査と予防、治療のための施設です。
1クール24日間で、その間に検査や治療を受け、新鮮な空気を吸い、汚染されていない食べ物を摂取するようになっています。
これは国のプログラムに基づいて行われているもので、汚染地域の子どもたちは無料で保養できます。

副所長さんの話では「1クールでたくさんの子どもが来るけど、子供が鼻血を出すケースは1クールに一回あるかないか」とのことでした。
子どもたちが住んでいる地域は定期的放射線管理居住区域からもっと汚染度の高いところまで様々。
それでも、そんなに頻繁に鼻血が出ているというわけではない。
副所長さんは「私はここで14年働いているけど、子どもが鼻血が出て仕方がないというケースは記憶にない」ということでした。

これをもって、「ベラルーシには鼻血の問題はない」と結論付けるのは早計でしょう。
日本の団体がアンケート調査をしたところ、住民の何パーセントかの人が鼻血が出ると答えているという調査結果もありますから。
もう少しいろいろな人に話を聞いてみたいです。


いくつかの疑問点があります。
・放射能のせいで鼻血が出ると結論付けるような研究はないのでしょうか?
「可能性がある」「その可能性は否定できない」というフレーズは目にしますが、それを医学的に証明することはできないのでしょうか?
「事実、鼻血が出てるじゃないか」と声高に言う人がいます。
そういう現実があるとしても、それを放射能と結びつけるにはその因果関係を証明するしかないのではないでしょうか?

・鼻血が出る人がいるとして、その人の鼻血の原因を知ることは可能なのでしょうか?
健康の問題というのはいろいろな要因が絡んで起こるもので、たった一つの原因で起こるものではないと思うのです。
これは他の病気に関しても言えることです。
ベラルーシである疾患が増えると、すぐにチェルノブイリと結び付けて考えたがる人が多い(ベラルーシ人以外の人で)ように思います。
でも放射線の影響だけで病気が起こることはないわけで。

・鼻血が出ると訴えている人たちの被曝量はどれぐらいなのでしょうか? そこに相関関係は見いだせるのでしょうか?

・チェルノブイリ汚染地域で「鼻血が出る」と訴えた人たちがいるのはわかりますが、それが放射能によるものだと証明する研究はあるのでしょうか?
ベラルーシやウクライナの研究者がどう思っているのかが聞いてみたいです。



副所長さんが言っていた言葉が印象的です。
副所長さん「放射能の影響は今も研究段階なのだから」
これはゴメリの放射線生物学研究所の方たちも言っていました。
日本人が「低線量被曝の影響について教えてください」と聞いたところ、「それを知るにはまだまだ時間がかかる」という答えでした。

この「わからない」という答えこそ、今現在できる最良の回答だと思うのです。
わからないから研究・調査をする。
それでいいと思うのです。

これは伝言ゲーム的な感じのところがあるように思います。
プロの専門家たちは「可能性がある」、「可能性は否定できない」と言っているのですが、全く専門家じゃない人に限って、それをあたかも事実であるかのように情報を拡散しているように私には見えます。
推量や仮定の表現をそぎ落としてしまえば、それは事実のように受け止められてしまいます。
「可能性がある」という言葉はそれ以上でもそれ以下でもありません。

鼻血に関して、放射線による被曝は検討されるべき原因の一つに過ぎないと思います。
そもそも、鼻血自体が問題なのではなく、問題なのは被曝なのだと思います。
高線量でも低線量でも被曝はないに越したことはありません。
その被曝をどう防ぐかが一番大事な問題だと思います。
もし鼻血を出している人が被曝しているのだとしたら、その人の健康をどう守るのかが大事なことではないでしょうか。


私は「美味しんぼ」は好きです。
特に初期の「美味しんぼ」が。
尖っていた山岡さんは最高でした。

中学3年生の頃、私は音楽の先生から美味しんぼの第一巻をプレゼントされました。
私は音楽高校に入るために、放課後や休みの日もその先生に受験勉強を手伝ってもらっていたのです。
ある日、その先生が「これ、面白いから読んでみろ。あげるから」と言って差し出したのが、美味しんぼだったのです。
それから、私は美味しんぼにはまっていきました。

しかし、最近の美味しんぼは初期の頃とは全く違っています。
ストーリー展開も雑なものが多くて・・・
その鼻血が出た話の回、読んでみたいです。


もうちょっと聞き取りを続けたいと思います。
近いうちに、汚染地域からミンスクに移住してきた人たちと話すつもりです。

もう一つ調べようと思っていることがあります。
それは「チェルノブイリハート」という映画についてです。

ベラルーシに視察に訪れる人から「チェルノブイリハートを見ましたか?」とよく聞かれるのですが、私は見たことがありませんでした。
初めて見たのは3月の終わり、キエフのホテルでした。
非常に疑問に思う箇所が多く、正直、不快に思いました。
最近、ベラルーシ人学生たちにも見せたのですが、みんな「数字が怪しい」「こんなことはあり得ない」と口々に言っていました。
私も同感です。

すぐにわかる間違い(というか意図的な嘘なのかどうかはわかりませんが)はゴメリ市の人口。
映画の中では70万人となっていましたが、ゴメリの人口が70万人になったことはありません。
映画が製作されたのは2003年。
2002年のゴメリの人口は48万2000人でした。
他にも出生率や甲状腺がんの発症率が怪しいと思いました。
あの映画の中に描かれていることが事実なのかどうか、徹底的に検証するつもりです。


だいぶ話がそれてしまいました。
まとまりがない文章ですみません。

ここまで読まれて、私が鼻血が放射能のせいではないことを前提に書いていると思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
子どもたちに聞いてみて、鼻血が頻繁に出るようなら、その原因と対処法などを知りたいと思うまでです。
今回は頻繁に出る子はいなかったので、よかったです。

また他のところでも聞き取りをしてみようと思います。

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2014年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から3年が経ちました。

もう3年なのか、まだ3年なのか。
インターネットのニュース動画で被災者の方のインタビューを見たのですが、その方は「3年間は短かった」とおっしゃっていました。

私には、この3年間は非常に長く感じられました。
様々な変化が起こり、様々なことに関わり、非常に濃密な時間を過ごしてきました。

今でもあの3年前のことは強く脳裏に焼き付いています。
学生からもらったショートメールで震災のことを知り、うちへ帰ってテレビをつけた時の衝撃。
そして、実家の山形が大丈夫だったのかという心配。
兄から携帯で電話がかかってきた時の安堵。
その安堵感はその後の長い不安の始まりだったとは全く考えてもみなかった・・・


福島原発の事故はいまだ終息の兆しを見せず、今も何万人もの人たちが避難生活をしている状況。
東日本大震災は終わったと言えるにはまだ程遠い状況かと思います。

これまでは福島のことを考える時間が多かったですが、今日になって津波のことにも思いを馳せました。
家族や友人を失った人々の喪失感は如何ほどのものだろうか、と。
私自身、妻や息子を持つ身になって、家族の大切さは痛いほど感じるようになりました。
その家族をこんな理不尽な形で失うことの悲しみは計り知れない深さを持っているのだろうと思います。

どんなに復興が進み、生活環境が改善されても、受けた傷は戻らず、その痛みは一生残るものなのだろうと思います。
せめて今の生活環境だけでもよくなってくれればと思うのですが、いまだに仮設住宅暮らしの人たちがたくさんいる状況。
少しでも状況が変わっていってくれればと、祈ってやみません。


去年の3月11日から今日までの一年間、それまでの「震災後」よりも通訳の仕事は減りました。
ベラルーシから復興対策のヒントを得ようと毎月のように視察団が訪れていた時と比べると、その数は急激に減少しています。

確かに、情報は資料を持ち帰ったり、いろんな人と会えば得ることができます。
そして、それを拡散すれば、より効果が得られるでしょう。

しかし、その「拡散」が行われていないことが多いように思います。
例えば、ある組織の方がベラルーシのチェルノブイリ関連施設で資料を受け取り、それを翻訳するなどして利用したとします。
そのほどんどが内部資料としての利用であり、外部に出さないということが時折見受けられるのです。

そこが私にとっても、ベラルーシ人にとっても不思議なところです。
似たような視察団がたくさん訪れて、全く同じ内容の話を聞いて帰る。
こういうことの繰り返し。
もっと情報を共有すれば、もっと効果的にベラルーシにある情報が伝えられるだろうに、と思います。

こんなことを書いていますが、私自身、「一つの視察団が来て、その情報を拡散すればそれで済むじゃないか」と考えているわけではありません。
自分の目で見ることの重要性はあると思います。
ベラルーシがチェルノブイリ原発事故後、約28年経って、どのような状況になっているのか、復興はどのように行われたのかを自分の目で見て確かめることには非常に大きな意義があると思います。
まさに「百聞は一見に如かず」です。

そして、チェルノブイリ原発。
私は一度、通訳の仕事で訪れましたが、圧倒的な存在感です。
一度は見る価値があります。

自分でも矛盾している感じがします。
似たような視察団がたくさん訪れるのはどうか、と書いておきながら、自分の目で見たほうがいいと書いているのは確かに矛盾かもしれません。
この震災後の混乱期では視察団がたくさん訪れるのは普通のことです。
しかし、一回訪れて、それで終わってしまっては何の意味もありません。
得た情報や知識を生かす方法を考えなければいけないと思います。

もちろん、ベラルーシで得た情報を非常に効果的に利用している方や団体もたくさんあります。
ベラルーシの子供の保養プログラムを参考にして、実際にそれを実行しておられる方もいます。
その努力には頭が下がる思いです。

情報の共有は必要です。
みんながみんなベラルーシを訪れるチャンスはありません。
日本で役に立つ情報があれば、どんどん共有していってほしいというのが私の願いです。


私は毎朝、日本のニュースをインターネットでチェックしています。
以前に比べると福島関連のニュースが少なくなったなあと感じます。

風化

震災から時間が経つにつれ、風化してく部分はどうしても出てきます。
それは私が日本に一時帰国するたびに感じていることです。
当事者じゃない人にとってはどうしても他人ごとになりやすいのでしょう。

しかし。
事実は何も変わりません。
津波で破壊された町の中にはがれきが撤去されただけで、町の復興には程遠いところも多いようですし、福島原発事後に発生した多くの問題はいまだに解決されていません。

風化するのは人の心です。
周りにある「もの」が風化するのではなく、人の心の中の何かが風化するのだと思います。

容易に移ろっていく人の心を繋ぎ止めておくことは簡単ではありません。
しかし、被災した方だけでなく、全ての日本人がこの震災を同じ痛みとして感じることはできないのでしょうか?
日本に住んでいる限り、いつどこで災害に遭うかわかりません。
そんな日本人だからこそ、被災していない人たちも少し心の中に場所を作ってあげれれば、風化させずに済むと思うのです。
人の痛みを自分の痛みとして感じること。
共有すべきは「情報」だけでなく、その「痛み」でもあると私は思っています。

私がベラルーシにいてできることは限られています。
それでも、少しでも福島の現状がよくなることを願いつつ、通訳などの仕事に邁進していきたいと考えています。
東北人として、そして日本人としてできることを少しでもやっていきたいです。


東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。


akiravich at 15:27コメント(0)トラックバック(0) 

2013年03月11日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日であの東日本大震災から2年が経ちました。
被災された皆様の中には未だに不自由な生活を余儀なくされている方々、悲しみに打ちひしがれている方々、様々な困難に直面されている方々などが多くおられることと思います。
皆様の一日も早い復興、一日も早く心安らかな生活を取り戻されることを心よりお祈り申し上げます。

失ったものは大きく、心の傷は深く、その深淵を覗き込もうとすれば、私には到底耐えられないほどの痛みが心の底から湧きあがってきます。
当事者でない私は想像することしかできませんが、自分の家族をあのような理不尽な災害で失うことは想像するだに恐ろしいことです。

人生には時が解決してくれるものと解決してくれないものがあるように思います。
復興しなければならないものの中には「心の復興」もあるように思うのです。

こんなことを書いていながら、自分は何もできていないことに歯がゆさを感じます。
私ができることは日本とベラルーシの橋渡し的な仕事だけなので・・・
私としては、ベラルーシでこれまで蓄積されてきた知識や経験が少しでも日本の、そして福島の復興に役立てばという気持ちでいます。

2012年3月11日からの震災後2年目は福島のことが頭から離れない一年でした。
通訳の仕事も非常に多く、4月の国会事故調の仕事を皮切りに、福井県議会、福島県議会、福島視察団と多くのチェルノブイリ関連の仕事をしてきました。
普段の生活の中でも、福島関連のニュースは必ず読むようにし、様々な資料に目を通しました。
それは仕事のためという側面はもちろんありますが、それ以上に一人の人間としてという意味合いも持っています。

外国に住んでいると、自分が日本人であることを強烈に意識する瞬間があります。
2011年3月11日から、私の心の中ではその瞬間が続いています。
もはや瞬間ではなく、持続した状態です。




ベラルーシのチェルノブイリ関係の省庁ではよく「もう復興の段階ではなく、発展の段階なのだ」という言い方をよく耳にします。
確かに、ベラルーシはすでに27年近く経っているだけあって、整っていますし、汚染地域の一般の人たちも放射能との「共存」に違和感を感じていないように見えます。

しかし、ベラルーシも事故当時は混乱を極めたのではないかと推測します。
「推測」と書いたのは、その当時の話というのがほとんど出てこないのです。
非常に大ざっぱな話として、「最初は手探り状態だった」という話が出てくる程度です。

今のベラルーシの現状と比べれば、福島の復興の道のりはまだまだ遠いのではないでしょうか。
まだ始まったばかりという感じがします。
気が遠くなるような道のりですが、前に歩いていくしかないのでしょう。




私は通訳という仕事で直接的に福島の方々のお手伝いをすることがあるわけですが、日本語教師としての仕事も非常に重要な意味を持つと考えています。
去年の11月、福島市からの視察団がベラルーシを訪れた際、私は4人の学生を同行させました。
彼らは福島市の方々との交流を通して、今の福島の現状を知ることができたと思います。
そして、彼らのような若い世代がこれからの日本とベラルーシの関係発展に努力していくのだろうと思います。

私は近いうちに大学で東日本大震災をテーマにした授業をしようと考えています。
次にいつか福島やその他の被災地の方がいらっしゃったときは、ぜひ大学に来ていただき、学生たちとお話していただけないかと考えています。
もしベラルーシにいらっしゃる方で、お時間を割いてくださる方がいらっしゃれば、ご連絡をいただければと思います。




私は大震災や福島原発のことを「伝える」ことは非常に重要だと思っています。
それは日本国内で情報を共有すること、正しい情報を伝えることはもちろんのことです。
そして、外国の人々にも知ってもらうことは重要な意義があるように思うのです。
私は大震災発生直後、ベラルーシの人々がどんなに心を痛めていたかを自分の目で見ました。
彼らの中ではチェルノブイリという同じ痛みを持つものとしての親近感を日本の人たちに感じているのです。
これから福島の復興にベラルーシの知識を役立てたいと考えいている以上、そのベラルーシの人たちに震災の当時の状況や福島の現状を伝えることは、義務ではないかと考えています。

これまでの福島関連の視察団はチェルノブイリ関係で日本で役立つ情報を集めることを主にやってきました。
しかし、「役に立つ情報をもらいました、はい、ありがとうございました」というだけでは、ベラルーシ人としても腑に落ちない部分があると思うのです。
これからはそれだけでなく、日本のこと、そして福島のことを伝えていくことも大事なのではないかと思います。
日本側の現状も伝えないで、「協力して欲しい」とだけお願いするのは虫が良すぎるように思うのです。
一方通行でない、本当の「交流」をしていかなければならないと思います。

ただ、中にはベラルーシの方たちに対して、プレゼンテーションをした日本の団体の方もいらっしゃいます。
相手は専門家の人が多かったのですが、彼らの反応は「そんなことは知っているから、早く質疑応答に移ろう」というものが多かったです。
彼らの反応はごもっともで、チェルノブイリのことを専門にしていたら、福島のことは当然注意して観察しているでしょう。
私がいろいろと伝えてほしいと思うのは一般のベラルーシ人に対して、ということです。

今、私が考えているのは、福島の方々と一緒にベラルーシで催し物が開けないかということです。
例えば、震災の状況を伝える写真展ですとか、福島原発の事故当時、そして現状を伝えるためのシンポジウムですとか。
何らかの形で実現できればと考えています。




私の通訳としての仕事は、コーディネーターとしての側面も持っています。
これまでの通訳の仕事を通じて、ベラルーシの様々な関係機関とのコネクションを構築することができました。
どこへ行けば、どのような情報が得られるのかというのは、ある程度把握しているつもりです。
日本人の方が欲しい情報は何なのか、行きたいところはどこなのか、という希望を聞いて、それを視察の日程に反映させることも私の仕事だと思っています。

日本の団体の方がいらっしゃった場合、訪問先は大体決まっています。
非常事態省や放射線学研究所などがスタンダードなところです。
多くの関係機関に私は知り合いがいますので、訪問時により建設的な話をするための段取りをするようにしています。

決まった訪問先を訪れるのもいいのですが、私としては一般の日本人の方がいらした場合は、一般のベラルーシ人の生の声を聞く機会をもっと作れないかと考えています。
私は一度だけ、実際に汚染地域に住んでいた方で、すでにミンスクに移住された方々のグループの通訳をしたことがあります。
それは政府の機関では聞けないような生の声でした。

それは「政府が情報を隠している」とか「政府の情報は間違っている」という意味ではもちろんありません。
政府機関の話では「移住した人々は住居も無償で提供され、雇用も保証されているので、みんな満足している」ということなのですが、それは正しい話です。
実際、移住者のグループの方たちも全員、政府がしてくれたことには満足しているという意見でした。

しかし、それは物質的な面であって、精神的には望郷の念を強く持っている人が多かったです。
中には涙を流している人もいました。
自分が生まれ育った町や村を捨てなければならなかったのですから、それは当然でしょう。

そのような痛みを持つベラルーシ人と日本人が精神的に共有できる部分はきっとあると思うのです。
何か痛みを持つ同士が助け合うことはきっと意味があると思うのです。
私の中ではまだ漠然としているのですが、何かできることがあるのではないかと考えています。




ベラルーシの「これまで」の経験を日本の復興に生かすことは非常に大事だと思います。
しかし、それにとどまらず、ベラルーシの「これから」と日本の「これから」をリンクさせていくような取り組みがこれから必要になってくるように思います。

遠いベラルーシという国にいて、自分ができること。
それはそんなに多くはないのかもしれませんが、少しでも日本の皆様のお役に立てればという想いがあります。
そして、ベラルーシと日本の関係が相互にとって有益なものになることを願っています。

akiravich at 23:10コメント(2)トラックバック(0) 

2013年03月08日

ご無沙汰しております。
大変ご無沙汰しております。
はぐれミーシャでございます。

遅ればせながら・・・あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いいたします!!!

っていうか、遅い。
新年の挨拶が遅すぎる・・・
もう3月ですもんね・・・

この2ヶ月何をしていたかというと、もちろん、仕事です。
結構、ドタバタやっていました。
今週になって、ようやく落ち着いた感じです。

うーん、何から書けばいいだろう・・・
書きたいことがありすぎて、「ご主人様が帰ってきて、うれしすぎて、どうしたらいいかわからない犬」状態です。

Reiner Conducts Strauss
Reiner Conducts Strauss [CD]
今日の音楽はリヒャルト・シュトラウス。
フリッツ・ライナーって、こんなによかったのね。
完全に好みです。
表現がストレートですね。
職人芸、名人芸的な演奏ですな。

ウェーバー:序曲集
ウェーバー:序曲集 [CD]
「職人」と言えば、ドイツの名指揮者、ヴォルフガング・サヴァリッシュ氏が2月22日に亡くなりました。
私にとっては、クラシックに初めて触れた頃から親しみがあった指揮者でした。
N響アワーを初めて見たときに指揮をしていたのがサヴァリッシュでした。
曲目は「真夏の夜の夢」。
まだビデオテープが残っています。
音楽からその「素材の味を引き出す」ところなどは、日本料理の料理人に通じるものがあると思います。
稀有な指揮者であったと思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。

サヴァリッシュについては、以前、2009年7月16日「サヴァリッシュと柳家小三治」に書いておりますので、ご一読いただければ幸いです。

簡単に近況報告を。
1月、私は日本へ行ってきました。
様々な用事があったのですが、一番の用事は福島で様々な方たちに会うことでした。
一週間だけの滞在だったのですが、かなり濃い時間を過ごしました。

ウィーン経由で日本に到着したのは1月11日。
その日は築地の近くのホテルにチェックイン。
シャワーを浴び、急いで町へ。
夜、留学している自分の学生と会う約束があるので、それまでに用事を済ませないといけなくて。

私がロシア語を学んだ東京ロシア語学院へ書類を受け取りに。
経堂の町もだいぶ変わったなあ。
駅があまりにも違いすぎて、ちょっと悲しくなりました。

新宿へ戻る電車に乗ったのは17時半ぐらい。
学生との待ち合わせが18時半だから、ほとんど時間がない!
楽しみにしていた東急ハンズでの買い物も15分しか時間がとれなくて。

学生と待ち合わせしたのは恵比寿駅。
15分ほど遅れて現れたのは東京学芸大に留学中のカーチャさんとリューダさん。
見た目は全然変わっていませんでした。

チェーンの居酒屋がお金がかからなくていいだろうということで、某有名チェーン店で飲み会スタート。
感動の再会という感じではなく、ベラルーシにいたときと同じような感じの飲み会に。
しかし、話の内容は非常に興味深いものでした。
今度、そのときの話を書いてみたいと思います。

20時過ぎにリューダさんが恵比寿駅へ。
というのは、私に会うために、大阪大学に留学中のナースチャさんが東京まで来るので、リューダさんが駅まで迎えに行ったのです。
もちろん、ナースチャさんも東京で他に用事があったのでしょうが、会えるとは思っていなかったのでうれしかったです!

飲み会が終わったのは23時半ごろ。
同じホテルを予約したナースチャさんと一緒に地下鉄の恵比寿駅に向かいました。
日比谷線で一本だなあと思って、駅に行くと、そこに来るのは広尾どまりばかり。
つまり、ホテルまで帰る電車はない!
がーん、がーん!
また大阪の悪夢がよみがえる・・・

急いでJRの恵比寿駅へ。
しかし、人身事故で電車が遅れている。
結局来た電車は大崎どまり。
つまり、ホテルにはタクシーで帰るしかない!!!
4500円ほどかかってしまい、超ショック・・・
終電の時間はちゃんとチェックしておかないとダメだなあ・・・

今回、築地の近くのホテルを取ったのには理由が。
それは・・・朝から築地の寿司を食べたい!
ナースチャさんにも食べてもらいたい!ということで、同じホテルにしてもらったのでした。

ホテルに着いたのは夜中の1時過ぎ。
築地の超人気店「寿司大」が開店するのは朝の5時。
4時過ぎには行列に並ばないといけません。
なので、ナースチャさんの部屋で朝まで飲みながら時間をつぶすことに。

ベラルーシでは教師と生徒が一緒にお酒を飲む、ということは基本的にはありません。
でも、ナースチャさんのグループは前からずっと一緒にお酒を飲んでいますから、もう慣れています。
とはいえ、東京のホテルで二人で飲むと言うのは非常に不思議な感覚でした。
だって、相手がベラルーシ人の学生ですから。

元々、私はサシで飲むのが大好き。
人の話を聞くのは嫌いなほうじゃありません。

4時までおしゃべりしてから、徒歩で築地市場へ。
4時30分ごろに到着すると、すでに行列が!!!
土曜日と言うことも災いしたか、口開けでは入店できないことが確定。
二回転目ということになると、6時近くまで待つしかありません。
ナースチャさんに「どうする?」と聞くと、「せっかく来たんだから、食べましょう」という返事。

それにしても寒かった!!!
私はいいとしても、ナースチャさんは相当辛かったようです。
お店の方が出してくれたお茶のサービスがどんなにありがたかったことか!

やっと入店して食べた寿司は・・・最高でした!!!
数年前の夏、ベロニカちゃんと寿司大で食べたことがあるのですが、そのときよりもはるかにおいしいと思いました。
やっぱり冬の方が寿司はおいしいのかな?
マグロのづけが最高においしかったです。
っていうか、全部おいしかったです。

ナースチャさんも大満足。
「こんなにおいしい寿司は食べたことがありません!」
そりゃあ、そうでしょう。
一睡もしていない状態で一緒に寿司を食べてくれたナースチャさんに感謝!

ホテルに戻り、私は一時間だけ睡眠をとり、すぐに行動開始。
日本にいる時間は短いので、短時間でできるだけ多くの場所を訪れたい。
東京駅でお買い物。
ベロニカちゃんと龍二くんへのおみやげが中心。

そして、11時には新幹線で福島へ。
寝たら絶対に起きられないと思い、寝ないで福島へ。

13時すぎに福島に到着。
そこでは、去年の夏にベラルーシでご一緒した県議会議員の小桧山先生が迎えに来てくださって、一緒に昼食。
ベラルーシと福島の協力関係などについて、いろいろとお話させていただきました。
小桧山先生は非常に面倒見がよく、気さくな方です。
いろいろと勉強になりました。
ありがとうございました!

16時にはホテルで人と待ち合わせ。
そして、17時には去年の11月の福島視察団の方たちの会合に合流。
2ヶ月ぶりとは言え、なんか懐かしいような感じがしました。

18時半からは視察団の方たちが私を歓迎する宴を開いてくださいました。
福島市の瀬戸市長も来てくださって、大感激!
短い時間でしたが、様々な方たちとお話ができ、とても楽しかったです!
というか、こんなにしていただいていいんだろうか?という想いがありました。
とにかく、素晴らしい時間でした!
ありがとうございました!!!

そういえば、今気付いたんですが、写真とか全然撮っていない!
記念写真とか撮っておけばよかったなあ・・・

次の日は13日の日曜日。
私は朝一番の新幹線で山形の実家へ。
駅に到着して、すぐに両親の車で買い物に。
まあ、いろいろ買いました。
日本で一番楽しいのはやっぱりお買い物ですよ。
ベラルーシにはないものばかりですから。

山形には16日まで滞在。
歯医者に行ったり、いろんな人に会ったりと、とても有意義な時間を過ごしました。

そこで感じたこと。
日本のうちは寒い!!!
あまりの寒さにびっくりしました。

というのは、ベラルーシは基本的にセントラルヒーティング。
建物によって、その快適さはまちまちなのですが、うちの場合は室内は半袖でいることが多いのです。
むしろ、暑いぐらいのときもあって。

ところが、山形の実家は寒い寒い。
自分の部屋に行って、石油ファンヒーターをつけようとすると、現在の温度が4度。
ベラルーシではあり得ないです。
トイレに行くのも寒くて億劫になるくらい。
あの寒さにはまいりました。

16日の昼にまた福島へ。
福島大学やJA新福島で様々な打ち合わせ。
そして、夜は飲み会!!!
たくさん飲みました。
いろんな方々にお会いできて、楽しかったです。

17日はJA新福島で講演会。
ベラルーシの現状やこれからの福島との関係をどうしていくべきか、などについて、僭越ながらお話させていただきました。
JAということで、農業関係の話を期待されていたのかなあという気持ちもありましたが、私はその道の専門家ではありませんから、自分が話せることを話そうと思いました。
なので、来場されていた方の中には期待はずれと思われた方もいるかもしれません。
私ももっと勉強しないといけないなあ・・・

17日の夕方は東京で人と待ち合わせ。
仕事関係の打ち合わせ。

それから、東京駅の大丸の地下で晩ご飯となるお惣菜を購入。
そして、成田エクスプレスで成田空港へ。
空港から無料送迎バスでホテル日航成田へ。

ホテルの部屋で一人で打ち上げ。
お惣菜はおいしかったけど、塩辛が異常にしょっぱくて閉口。

次の日は朝から空港へ。
最後の買い物と寿司を楽しみ、飛行機へ。

「買い物」と何度も書いていますが、今回はかなりの量の本を買いました。
実はオーストリア航空は日本人だけの特別サービスで、スーツケース2個まで預けることができるのです。
それぞれが23キロですから、46キロまでOK!!!
これは海外在住者にとっては、最高のサービスです!!!

それでも、ベラルーシに持ってこれなかったものがたくさんありました。
DVDとVHSの一体型のデッキを買ったのですが、山形を出るときまでに届かず。
そして、SHARPのスロージューサーを買おうと思ったのですが、意外に大きくて、手荷物で持っていく自信をなくし、断念。
パナソニックのホームベーカリー、GOPANを買おうと思ったのですが、予算の都合上、そして手荷物も余裕がなく、これまた断念。
うーん、残念・・・

ウィーンまでの飛行機は快適でした。
日本に行くときの飛行機よりも新しい飛行機だったようで。
何よりもうれしかったのが、機内エンターテイメントサービス。
最新のディスクが聴けるので、うれしかったです。

何か、日本滞在のことだけで今日の更新は終わりそうです。
あまりにも簡単に書いてしまっていて、読んでいる人にとっては面白くないだろうなあと思います。
すみません・・・

明日も何か書きます!
何でもいいから、何か書きます!

akiravich at 19:57コメント(1)トラックバック(0) 

2012年12月31日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今年最後の投稿は今年の夏、福島を訪れたときの話です。
通訳の仕事でご一緒した方々に再会する旅でした。

2011年の6月を皮切りに、私は様々な代表団の通訳をする機会に恵まれました。
中でも福島の方とご一緒した通訳の仕事は非常に感慨深いものがありました。

8月9日、私は普通電車を乗り継いで福島まで行きました。
新幹線の切符を買うお金がなかったんです。
でも、時間的には普通電車でもそれほど変わらないように思います。

駅には福島大学の小山良太先生が迎えに来てくださっていました。
2011年秋の福島調査団で知り合いました。
農学博士で原発事故後の農業のあり方など、様々な提言をなさっている方です。
今回の飲み会もセッティングしていただきました。

DSC00453
DSC00454
調査団でご一緒した方々が来てくださいました!
野菜がおいしいお店ということで、料理もお酒も最高でした!!!
この後、浪江焼きそばもご馳走になって、大満足でした!!!

お酒の席でもテーマはやっぱり福島のこれからのこと。
復興の最前線にいる方たちの話を聞くのは非常に貴重なことでした。
ベラルーシでもインターネットで日本のニュースを知ることはできるのですが、やはりメディアを通して入ってくる情報と実際に現場にいる人たちから直接聞く情報にはかなりの隔たりがあるように思います。

そして、もう一つ感じたのは日本国内の温度差。
今回は日本中を旅行したのですが、福島以外の土地だとどうしても他人事のような感覚で見ているような、というよりは福島の事故がもうすでに過去のことであるような感覚があるように思うのです。
原爆の被害にあったからでしょうか、長崎で出会った人たちは福島のことを気にかけていました。

DSC00457
次の日は福島大学へ。
私が勤務しているベラルーシ国立大学と協定を結んでおり、様々な打ち合わせがあったのです。
そのときには福島市役所の方ともお会いして、11月の市民視察団の訪問についても打ち合わせを行いました。

お昼は福島大学の食堂でご馳走になったのですが、とてもおいしくてびっくり!
学食があんなにおいしいなんて、かなり驚きました。

午後からはうつくしまふくしま未来支援センターや桜の聖母短期大学、福島県生活協同組合連合会などにお邪魔させていただきました。
生協連では具体的な復興の取り組みなど、国に頼らず様々な活動を自分たちで行っていることを知り、感銘を受けました。
桜の聖母短期大学の二瓶由美子先生にはわざわざ車で生協連やホテルまでお送りいただいて、本当にありがたかったです。
ありがとうございました!!!

夜は7月にご一緒した福島県議会の議員の方々との夕食。
大変お忙しい中、6人ほどの方々が来てくださいました。
本当にありがとうございました!!!

8月11日は朝から会津方面へ向かいました。
県議会議員の小桧山善継先生が自らの運転で連れて行ってくださいました。
前日の夕食も小桧山先生が幹事をしてくださいました。
本当にありがとうございました!!!

磐梯吾妻スカイラインを通ったのですが、絶景!!!
本当に気持ちがよかったです。

しかし、あのスカイラインのクネクネ曲がった道を走るうちにどんどん気分が悪くなってしまって・・・
途中で車を止めてもらって、休まないといけませんでした。

DSC00467
五色沼に行きました!
信じられないほど綺麗な、青とも緑ともつかない色。
こんなに美しい場所が福島にあることを私は知りませんでした。

結構観光客がいるように思ったのですが、小桧山先生曰く「全然少ないですよ」。
風評被害は実際に原発の被害を受けている浜通り、中通りにとどまらず、ほとんど放射性物質が検出されない会津のほうまで広がっているのです。
「福島=危険」というイメージです。
ああ、もったいない!!!
こんな綺麗なところを見ないなんて!!!
本当に何が危険で、何が安全なのかをしっかりと判断することが必要だと思います。

DSC00463
小桧山先生と記念に一枚。
感謝しても感謝し切れません。
ベラルーシでご一緒したときから、非常にフレンドリーに接してくださり、私も仕事がしやすかったです。
非常に気さくな方で「『先生』って呼ばれるの、あんまり好きじゃないんですよ」と言っておられました。
でも、ここはやっぱり「先生」と書かせていただきます。
あの焼酎、本当においしかったです!!!
最高の思い出をありがとうございました!!!

小桧山先生との旅はまだまだ続きます。

せっかく来たからということで、野口英世記念館に立ち寄りました。
館長さんともお話させていただくことができ、感激!!!
ここも観光客がすごく多いように感じたのですが、「全然少ないですよ!」。

小桧山先生、どこに行っても、いろんな人に挨拶されています。
お土産やさんに入っても、すぐ「先生、こんにちは!」と声をかけられて。
それが非常に自然なんです。
偉そうなところもないし、気さくな人柄で。

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そして、喜多方ラーメン!!!
ラーメンはすごくあっさり。
麺がおいしかったです。
そして、この餃子がおいしかった!!!
私は餃子にはそれほど思い入れがなく、特に食べたいとも思わない料理なのですが、これは本当においしかった!
今まで食べた餃子の中で一番です!!!

喜多方では製麺所にも寄りました。
小桧山先生が「奥様にもお土産を持っていかないと、『自分だけいい思いして!』って怒られちゃうでしょ」ということで、数え切れないほどの生麺をいただきました。
本当に気を使ってくださって、感謝感激です!!!

DSC00485
会津若松市では小桧山先生と一緒に鶴ヶ城と飯盛山に行きました。
私が汗だくで山に登る中、小桧山先生は汗一つかかずにスイスイと登っていきます。
運動不足と体重増加のおそろしさをまざまざと知りました・・・

DSC00489
会津若松市の喫茶店で一休み。
ドーンと立っている木が印象的。
この木の温かい雰囲気がすてきです。
ベラルーシにもこういう店があったらなあ・・・

小桧山先生にはホテルまで送っていただき、そこでお別れ。
言葉にならないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました!!!

会津若松に来たのは理由があります。
4月に国会の事故調査委員会の方たちがベラルーシにいらっしゃって、そのとき私は通訳をしたのですが、そのときご一緒した方が会津若松にいらっしゃるのです。
なので、ぜひお会いしたいとコンタクトをとったら、快諾していただいて。
ホテルのレストランで待ち合わせだったのですが、諸事情で遅れるとのこと。
なので、会津若松の町をブラブラ。

土曜日の夕方という時間だったためか、店がどんどん閉まっていってしまって。
でも、町はなかなか風情があってよかったです。
次はもうちょっとゆっくりしたいなあ。

DSC00492
20時過ぎにようやく会いたかった人に会うことができました!!!
私の左側にいるのが蜂須賀礼子さん。
大熊町商工会会長で、国会事故調の委員を務めておられた方です。
とても気さくな方で、ベラルーシでご一緒したときも楽しく仕事をさせていただきました。

蜂須賀さんは今、会津若松で避難生活をおくっておられます。
普段はニコニコしていますが、言葉にならないほどの辛い思いをされているのだと思います。
いろいろな話を聞かせていただき、いろいろと感じるものがありました。

蜂須賀さんとお話していて、国会事故調の方たちとご一緒したときのことを思い出しました。
スケジュールがタイトで、本当に大変な仕事だったんです。
でも、皆さんのチームワークが素晴らしくて。
皆さんの明るさと情熱のおかげで何とか乗り切ることができました。
国会事故調の報告書を読んだとき、こんなに素晴らしい仕事をしている人たちとご一緒できたんだなあと思い、非常に感慨深いものがありました。

そして、この店の料理がすごかったんです!!!
蜂須賀さんと電話で話したとき、「ホテル、そんなに綺麗じゃないけど我慢してくださいね。でも、料理はすごくおいしいですから」。
小桧山先生も「あそこは海鮮料理がすごいんですよ」とおっしゃっていて。
会津で海鮮???と思ったのですが、食べてびっくり。
本当に海の近くいるのかしら?というほどの新鮮さ。
何でも、元々魚の卸しをやっていたので、新鮮な魚を手に入れるルートを持っているのだそうで。

ホテルの名前はシティホテル石橋です。
http://ishibashi-kaijin.co.jp/
確かに古めですが、私にとっては全然問題なく泊まれるホテルです。
そして、そのホテルの中にあるのが「海鮮料理 海神」。
魚もおいしかったのですが、馬刺しがすごくおいしかったです。
よくふぐ刺しを端から端までごそっととって食べるのが夢、みたいな話がありますが、このときは馬刺しをごそっととって口の中へ。
至福のときでした。

次の日は郡山へ。
ブログを通して知り合った美容室の方とお会いしました。
いろいろとお話を聞かせていただいて、私も勉強になりました。
それから、県議会議員の三村博昭先生においしいうどんをご馳走になりました。
自ら車で私を郡山駅まで送ってくださいました。
お二方とももう少し時間があれば、ゆっくりお話したかったです!
本当にありがとうございました!

これで私の福島旅行は終わり!
よく食べて、よく飲みました!
かなり太りました・・・

隣の県に住んでいながら、福島のことは全く知りませんでした。
おいしい食べ物、おいしいお酒、美しい自然、素晴らしい人たち・・・
これ以上、何が必要だと言うのでしょうか!?
根拠のないうわさや恐怖心に惑わされている人たちは相当損をしていますよ!!!
感動の三日間でした。
皆様、本当にありがとうございました!!!



福島の事故以来、私は様々な仕事をしてきました。
それまでも自分がチェルノブイリの事故で被害を受けた国に住んでいるという意識は持っていました。
しかし、それも最初の頃に比べれば、だんだん意識は薄くなっていました。
福島の事故があってから、もう一度自分が住んでいるベラルーシという国、そして、自分が生まれた日本という国への思いを強くしました。
自分が生まれたのが隣県の山形であることも、私の中では強く意識することです。
これからも福島の皆様、そして日本の皆様のために仕事ができればと考えております。

ベラルーシでチェルノブイリの関係機関を訪れると、「チェルノブイリ事故の『回復』の段階はすでに終わっている。これからは『発展』のときだ」ということを言う人が多くいます。
確かに、26年経ち、状況はだいぶ変わっていると思います。
そして、実際に対応済み、解決済みの問題も多くあります。
外国からのお客さんが来たときは、対外的にそういう言い方になるのでしょう。

しかし、ベラルーシに問題がないと言えば、これはうそになります。
今から大きな問題になりそうなのが、アメリシウムの問題。
私は専門家ではないので、詳しい言及は避けますが、このアメリシウム汚染についてはベラルーシの専門家たちも問題視しています。

低線量被爆についての研究もまだまだ不十分です。
もちろん、危険を回避するには低線量であっても避けるに越したことはないのですが、そういう問題ではないと思うのです。
まだわからないことが多い中で、さも全てがわかっているかのように発言する人がいるようですが、私はわからないことは「わからない」と言うべきだと考えています。
現にベラルーシの研究者たちは日本人に低線量被爆について聞かれても「まだはっきりとは言えない」「わからない」と言うことが多いのです。
もちろん、放射性物質が様々な病気を引き起こしている可能性はありますから、それを否定することはできません。
それと同時に何かの病気が放射性物質によって引き起こされていることを100%肯定することもできないはずなのです。
肯定も否定もできないことを単に「危険だ」と煽るのはいかがなものかと私は思っています。

「危険性があるから避ける」というのは当然なことだと思います。
それがただ恐怖心を引き起こすようではいけないと思うのです。
そのためには情報提供のあり方というのが重要になると思います。
今の日本は情報が錯綜して、何を信じていいのかわからないという状況なのかなという印象を受けます。
どう伝えるかということも重要でしょうが、誰が伝えているのかというのも重要かと思います。
信頼できる人や機関から出てくる情報はみんな信じるでしょうし、一度うそをついて信頼を失ってしまったら、そこからの情報は二度と信じられなくなるでしょう。
今、日本政府の情報を信じる人はどれぐらいいるのでしょうか・・・

誰かが誰かを手伝うとか、援助するとかではなく、共に歩むという感覚が日本とベラルーシの間で生まれればいいと私は思っています。
ベラルーシでは資金不足などで研究したくてもできないことが山ほどあります。
その研究が日本でも役に立つようなものであれば、共同で研究を行ったらいいと思うのです。
例えば、ベラルーシの経験豊かな研究者を日本に呼ぶとか、日本の若い研究者がベラルーシに行って研修を受けるだとか。
話を聞くだけではなく、実際に日本人とベラルーシ人が一緒に働くようなことがあればいいと思います。

ゴメリにある放射線学研究所の所長であるアヴェリン氏は福島の方たちに対して「いつでも福島に行く用意がある」とおっしゃっています。
彼は「研究所で何かやるのもいいのだが、私は福島の現場で農場の方たちと直接話して、その現場で仕事をしたい」とおっしゃっています。
ベラルーシにそこまで熱い想いを持っている人がいることを日本の皆様に知っていただきたいと思います。

福島の「これから」とベラルーシの「これまで」。
この二つがうまく結びつけば、お互いにとって実り多い関係が築けるのではないかと思います。

福島や日本の「これから」のことばかり考えるのもよくないと思います。
ベラルーシにも「これから」があります。
「チェルノブイリは終わっている」という言い方をする人が多いのですが、私はそうは思いません。
まだまだ「これから」のことも多いのです。

ベラルーシ人の中にも自分の利益を追求するために日本や福島と関わろうとする人がいます。
残念ながら、それは否定できません。
しかし、中には心から福島や日本の「これから」のことを考えている人たちがいます。
そのような人たちがもっと直接的に福島と関わっていけるようになればいいなあと願っています。

これから、ベラルーシと日本の絆はどんどん強まっていくことと思います。
私も少しでもそのお手伝いをすることができればと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。
皆様、よいお年をお迎えください!

akiravich at 23:13コメント(1)トラックバック(0) 
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