戦争

2009年08月21日

日本から帰ってきて、ダラダラと生活しているはぐれミーシャです。
9月1日の新学期を前に、今はエネルギー充電のときです。
今日はどこへも行かず、何もせず、ただただメールの返事だけを書いていました。
9月1日からはお正月までほぼノンストップで突き進む生活になりますから、今のうちに休んでおかないと。

今日は日本の話はお休み。
最近の出来事を一つ。

アドルフに告ぐ (1) (文春文庫―ビジュアル版)アドルフに告ぐ (1) (文春文庫―ビジュアル版)
著者:手塚 治虫
販売元:文芸春秋
発売日:1992-04
おすすめ度:5.0
クチコミを見る
日曜日、ベロニカちゃんの実家に行く途中の地下鉄の中、私は日本から持ってきたマンガ「アドルフに告ぐ」を読んでいました。
存知の方も多いかと思いますが、このマンガは奇妙な運命で結ばれた3人のアドルフの物語。
私の大好きなマンガの一つです。

しかし、私は気づきました。
ここはベラルーシなのだ、と。
私が読んでいたのは、ちょうどヒトラーが大衆の前で演説しているシーン。
ベラルーシの地下鉄の中でこれを読むのはまずかったなあと思ったのです。

というのも、ベラルーシは第二次世界大戦でドイツ軍にメチャクチャにやられた国。
そこでヒトラーやハーケンクロイツなんかが出てくるマンガを読んでいたら、誰だって反応すると思うんですよ。
幸いなことにマンガに気づいた人はいなかったようなので良かったのですが、ちょっと無神経だったなあと反省。

以前にも書きましたが、第二次世界大戦ではベラルーシ人の3人に一人が亡くなっています。
なので、戦争に対する想いはかなり強いのです。

これも以前に書いたことですが、私は学生たちに「ドイツ人が嫌いですか?」と聞いたことがあります。
学生たちの答えは「嫌いではありません」。
つまり、「ファシストは嫌いですが、ドイツ人は嫌いじゃありません」というものでした。
このことは2008年10月12日「ドイツ人は好きですか?」に詳しく書いています。

でも、ヒトラーは全くナチスそのものなわけで。
ベロニカちゃんは普通に反応しましたが、年配の方が見たら「何を読んでるんだ!」ということで、気分を害されるかもしれません。
以後、気をつけます。

それにしても、「アドルフに告ぐ」は傑作だと思います。
ベロニカちゃんに最初の2章を私の通訳付で読ませてあげたのですが、ものすごく面白かったようです。

手塚治虫のマンガは世界中のどこの人が読んでも感動を与えられる素晴らしいものだと思います。
でも、ロシア語には全然訳されていないようです。
何かだいぶ前に、「ブラックジャック」を翻訳した人がいたんだけど、著作権などを全く無視したものだったので、すぐに発売中止になったと聞いたことがあるのですが、本当かどうかはわかりません。

実は以前から手塚マンガを初めとして、日本のマンガをロシア語圏の人に紹介できないかとずっと考えていたのです。
でも、どうしたらいいんですかね?
翻訳して出版すると言っても、その権利を得るのには莫大なお金がかかると聞いたことがあるのですが。
どなたか出版関係のことに詳しい方がいらしたら情報をお寄せいただければうれしいです。

私のアニメおたくの学生たちはインターネットに流出しているマンガを読んでいるようです。
まあ、海賊版と同じことですな。
でも、そういう形じゃなくて、ちゃんと本になった形のほうがいいと思うし、許可を取った上のほうがいいと思うし。

私、アイデアはたくさんあるんですよ。
でも、なかなか実行に移せないんですよね。
あ、これって逃げてる感じだなあ。
「移せない」んじゃなくて、「移さない」んですよね。
はぐれミーシャ、攻めの姿勢を忘れてはならぬぞ!


P8181116P8181115今日のおまけ写真。
これは赤スグリです。
ベロニカちゃんのお父さんがくれたんです。
きれいですよね。
右の写真は砂糖にまぶしたもの。
以前、カシスやブルーベリーでやったように、リキュールを作ろうとしているのです。
半年後が楽しみ!
詳しい作り方などは、2008年7月29日「カシスの誘惑」2009年7月24日「ブルーベリーの誘惑」を御覧ください。

明日もお休み。
何もしたくないです。
仕事のことも考えたくないし、何にも考えたくない。
明日はゆっくり読書でもしようかな・・・

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2009年07月04日

今日(7月3日)はベラルーシで一番大きいお祭りです!
ベラルーシの独立記念日!

「独立記念日」と言っても、「ソビエト連邦が崩壊して独立した日」という意味ではありません。
これはベラルーシ全土がドイツ軍から解放された日なのです。

大祖国戦争の初め、1941年の9月にベラルーシはドイツ軍に占領されました。
占領されるまでのベラルーシでの抵抗は非常に激しいもので、ドイツ軍は予想外の抵抗にモスクワへの進軍計画を変更しなければならなかったほどです。

ドイツ軍の占領下にベラルーシ領内で活躍したのがパルチザンです。
簡単に言えば、「ゲリラ」ですね。
ドイツ軍はベラルーシのパルチザンに手を焼き、そのために部隊をベラルーシ領内に留め置いておかなけらばならず、部隊を先に進めることが出来なかったと言われています。
1944年当時、パルチザン活動をした人の数は37万3942人いたというデータがあります。
戦時中、パルチザンが支配していた地域は20箇所。
その地域はドイツ軍も占領できなかった地域です。

パルチザンたちの働きはめざましいものでした。
数万人ものドイツ兵が死傷し、948の司令部・駐留地が破壊され、1355台もの戦車・装甲車がパルチザンによって破壊されました。
線路を寸断することもパルチザンが有効に利用した方法です。

ドイツ軍占領下、ベラルーシ領内には260もの強制収容所が存在しました。
強制収容所で殺された人の数は軍人・民間人合わせて、約140万人だったと言われています。
もちろん、収容されていた人の多くはユダヤ人(←もちろん、普通のベラルーシ人や捕虜なども含まれていたそうです)。
もともと、ベラルーシにはユダヤ人がかなり多かったんです。

パルチザン活動に協力した町や村は破壊されたり、住民は強制収容所に送られたりしました。
当時、ベラルーシにあった町や村などの中で、全てまたは一部が破壊されたのは5500。
そのうちの620は、住民と共に全滅させられています。

大祖国戦争では、ベラルーシの住民の3人に一人が亡くなったと言われています。
以前は4人に一人と言われていたのですが、現代の歴史研究家の調査で、亡くなった人の数はどんどん増えているのです。

ある歴史家の評価では、ベラルーシは第二次世界大戦で最も甚大な被害を受けた国の一つだそうです。
ベラルーシ人の戦争に対する想い、戦争で戦った人、亡くなった人に対する想いは並々ならぬものがあります。
誰に聞いても、「おじいさんが戦争で戦った」とか、そういう話をよく聞きます。
家族や親戚の中に戦争で戦った人、亡くなった人がいることが多いんです。
だから、子供のときから戦争の話しを聞かされて育った人が多いんです。

なので、戦争反対の平和主義者が多いのでしょうとベロニカちゃんは言っています。
確かに他のヨーロッパ諸国・旧ソ連諸国と違ってナチズムなどに走る若者がほとんど見られないし、性格的に穏やかな人が多く、争いを好まないのもベラルーシ人の性格だし。
直接的な因果関係を実証することは出来ませんが、いろんなところに戦争の影響を感じることが出来ると想います。

ここで、今日の記念パレードの様子をちょっと御紹介。
テレビの画面を撮影したものなので、かなりひどい写真になっていますが、雰囲気だけでも伝わればと思います。

P7031674これはベラルーシ語で7月3日は独立記念日!っていうことが書いてあるんです。
パレードのスタートは昼の11時半。
今日はかなり暑いので、軍服を着ている人たちは大変でしょう。
それに、見ている人もかなり暑そうです。



P7031679パレードには戦争で戦った人たちが招待されます。
そして、最新の軍備機器の紹介があったり。
音楽隊やスポーツ選手もパレードでみんなの前で歩きます。
中でも印象に残ったものを御紹介します。



P7031680これは何て言うんだろう。
人文字と言えばいいんですかね。
これを見て、甲子園でのPL学園の応援団のことを思い出したのは私だけ?(←ベラルーシ国内では間違いなく私だけ)
もちろん、これはベラルーシの国旗ですよ。


P7031684P7031682これはアイスホッケーですね。
ミンスク市内にはスケートリンクが多いんです。
競技人口も多いし、人気のスポーツです。
ベラルーシ代表チームって、結構強いらしいです。
2014年にはアイスホッケーの世界選手権がミンスクで開かれるんですよ。

P7031687最初見たとき、「これは何だろう?」と思いました。
これは人が作ったオブジェのようなものです。
作品名を「ベラルーシの花瓶」と言うのだそうで。
1980年のモスクワオリンピックでも披露されたパフォーマンスなんだそうです。
この形の骨組みの上でみんなで動いて、一つの花が動いているようにするんです。
これをやっているのはミンスクの体育大学の学生さんたちだそうです。

P7031694アップにするとこんな感じ。
テレビで見ても、かなりの高さなんですけど、見ている私のほうが怖くなりました。
なかなかの迫力です。


今日はお天気にも恵まれて、いいお祭りになりました。
私たちは朝からゴロゴロ。
私にとっても、いい休日になりました!

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2008年10月12日

今日は朝の9時半から夜の9時までの7コマ。
かなりヤバイ疲れ方です・・・

さて。
昨日、大学の授業で日中関係について読んだんですよ。
日本と中国・韓国の関係という話になると、どうしても避けて通れないのが戦争の話。

うーん、今日のテーマは危険だなあ。
以前、韓国人についてこのブログで書いたとき、大量のコメントが来てしまい非常に怖かったことがあります。
でも、こういう話題も避けないのがはぐれミーシャ!

日本語の授業で日本に関するテキストを読ませるとき、私は「ベラルーシではどうですか?」という質問を必ずするようにしています。
昨日の授業でも「ベラルーシではどうですか? ベラルーシ人とドイツ人が仲が悪いなんてことはないんですか?」と聞きました。
学生たちの答えは「全然、問題ないです」
基本的にドイツやドイツ人に対して悪いイメージは持っていないというのが全員一致した答えでした。

ベラルーシは第二次世界大戦で徹底的にやられています。
ベラルーシ人の3人に一人が亡くなったと言われているのです。
実は私がベラルーシに来た8年前は「4人に一人」と言われていたのですが、その後の調査で亡くなった人の数が増え、今では「3人に一人」と言われているのです。
そういうことって、あるんでしょうね。
いまだに名前がわからないまま墓地に葬られている人たちもたくさんいるでしょうから。

ベラルーシでドイツ軍がやったことは非常に残酷だったと言われています。
一番有名なのはハティニ村の悲劇です。
小さい村にドイツ軍がやってきて、住民を小屋の中に集めました。
そこに火を放ったのです。
燃え盛る小屋を軍人たちが取り囲み、小屋から逃げ出した住民を射殺していったといいます。
非常に残酷なやり方でした。
同じような形で全滅させられた村はベラルーシにはたくさんあるのです。

学生たちに「子供の頃はドイツ人に対して、『怖い』という気持ちはありましたか?」と聞くと、ほとんどみんな「怖いと思ったことはありません」
一人だけ、ブレスト出身の女の子だけが「ちょっとだけ怖かったです」と答えました。
それは戦争を経験したおじいさんやおばあさんから聞いた話しが元になっているそうです。

私もいろんなお年寄りの方に話を聞いたことがあるんですが、中には「ドイツ軍の軍人たちはやさしかった」と言う人もいるんですよ。
子供にチョコレートをくれたり、非常に礼儀正しかったり。
もちろん、みんながそうだったというわけじゃないですよ。
ドイツ軍の中には略奪、強姦など、悪の限りを尽くした軍人もいたそうですが、そういう人だけではなかったということです。

そして、逆にソビエト側にもひどいのがいたそうです。
特にパルチザン。
「戦争なのだから、全ては国のために」という建前のもとに、村の住民たちから食料など全てを奪い、中には暴力を振るったものさえいたそうです。
この話はソビエト時代から(←もしかしたら今でも?)タブー。
似たような話って、日本の沖縄戦の話で聞いたことがあります。
やはり、どこの国にもいい人もいれば、悪い人もいるということでしょうか。

ちょっと話はずれますが、私も戦争関係で嫌な思いをしたことがあります。
私は8年前にベラルーシに来たときから、6年ほど大学の職員寮に住んでいました。
12階建てで、結構大きい寮でした。
私が住んでいたのは1211号室で、そのドアを開けると中にまたドアがあって、大きい部屋と小さい部屋に分かれているんです。
つまり、一つのブロックが二つの部屋に分かれていて、それぞれ違う人が住んでいるんですね。
トイレとお風呂はブロックに一つです。

そのブロックの小さいほうに私は住んでいました。
これがまた、ものすごく小さくて、本当に住みにくかったですね。
で、大きいほうの部屋に中国人の夫婦が住んでいました。
御主人のほうがうちの大学の大学院で勉強していて、奥さんはそれについてきた、という感じでした。
御主人のほうはちょっとだけロシア語が話せて、奥さんは全くダメでした。

普通、引っ越したら挨拶に行きますよね。
私も隣の部屋をノックして、「これからお世話になります」と言ったんですよ。
でも、奥さんは私のほうを睨んでいるし、御主人のほうはニコニコしながらも、早く会話を終わらそうとするし。
私としたら「なんで!?」という感じでした。

そこからは苦しい日々でした。
同じブロックに住んでいるのですから、嫌でも顔を合わせることがよくあるわけですよ。
特に奥さんは仕事しているわけでも勉強しているわけでもないので、いつもうちにいるんですね。
なので、顔を見る機会は多いんです。
当然、私は「こんにちは」とロシア語で言うのですが、返事なし。
完全無視。
無視どころか、ものすごく嫌そうな顔をして自分の部屋のドアを閉めてしまうのです。
私は自分が何か悪いことをしたのかもしれないと思い、非常に悩みました。
御主人のほうは「こんにちは」は言うんですけど、あとはそそくさと自分の部屋に入っていくだけで、奥さんと大差なし。

私は自分の部屋に帰るのが怖くなってしまいました。
中国人夫婦の部屋のドアが開け放しになっていることがよくあったのですが、私が大学から帰って、1211号室のドアを開けると、奥さんがものすごい勢いで自分の部屋のドアを閉めるんですよ。
それが毎日のように続くんです。
嫌な顔をされるのも嫌だし、ドアを「バーン!」とものすごい音で閉められるのも嫌だし。
私がシャワーを浴びていると、奥さんがものすごい剣幕で中国語でまくし立てているのが聞こえたりして。
私はトイレに行くのも気を使うほどで、とにかく自分の部屋のドアを開けないようにしていました。
それに毎晩のように中国人が集まってきて、ものすごくうるさかったんですよね。
怖かったですよ。
何考えてるかわからないし。
正直、すごく悩みました。

そんな生活を始めて一年後、その夫婦の所に来る一人の中国人と話をするようになりました。
そこで思い切って聞いてみました。
「どうして隣の人は僕のことを嫌っているの?」
中国人「それはね、奥さんのおじいさんや親戚が戦争で亡くなっているからなんだよ」

私は激しい怒りを覚えました。
日本人と中国人の間には戦争に関して、いまだにしこりが残っています。
それは私も知っていたし、もっと建設的に話ができればいいのに、と思っていました。
日本の側の非というのは確かにあるのでしょう。
でも、私個人は誰も殺したことがないし、中国人に対して反感も何もない。
いくら戦争の恨みがあったとしても、私がそんな扱いを受ける覚えはない。
国と国との関係を個人の関係に持ち込むなんて、フェアじゃないよ。
私は怒りに震えると同時に、そんな風に考える人たちがいることに衝撃を受けたのでした。

そんな生活は2年も続きました。
その後も彼らとの関係は改善することはありませんでした。
2002年の秋ごろになって、彼らは帰国しました。
最初に奥さんが一人で帰国し、御主人が後から帰国したのですが、ある日、御主人のほうから私に話をしてきました。
そして、彼は今までの行動を謝ったのです。
「実は私の妻は極度の日本嫌いで・・・」
それは見ていてわかったんですが。
「これからは仲良くしよう」と言われて、私は涙が出そうになりました。
それはうれしかったからではありません。
2年もひどい目にあわされて、いきなり「仲良くしよう」なんて言われても、仲良くできるわけないじゃないですか!
あの2年間は本当に心から苦しみました。
「僕はこの部屋に住んでいて、一瞬たりとも心の休まることはなかったんだよ!」
彼とは挨拶程度の話をする関係にはなりましたが、友情など芽生えるはずもなく、彼は中国へと帰って行きました。

そんなとき、私は大学の学生たちに聞いたことがあります。
「皆さんはドイツ人が嫌いですか?」
このストレートすぎる質問に、学生たちは戸惑うこともなく「嫌いではありません」
彼らはきっぱりと言いました。
「ドイツ人とファシストは違うからです」
「ファシストは嫌いですが、ドイツ人は違います」

とても正しいと思いました。
私はとても感心しました。

そんなわけで、ベラルーシに住んでいて、今のドイツに対する反感などを聞いたことがないんです。
全くと言っていいほど。

実は昨日の授業で読んだテキストには、歴史教科書問題のことにも触れられていて。
そこで学生たちに「ドイツ人が作った歴史の教科書、読んでみたいと思う?」と聞くと、「今まで考えたことなかったですが、言われてみれば第二次世界大戦の記述がどうなっているのか読んでみたくなりました」

この手の話題は難しいですよね。
もうちょっと軽い内容のブログに戻します・・・

akiravich at 06:13コメント(6)トラックバック(0) 

2008年08月17日

今日は8月13日(水)に訪れたブレスト要塞(Брестская крепость)についてレポートしたいと思います。

この要塞は1836年に工事が始まり、1842年に完成したものです。
戦略的な要所としてロシア帝国によって建てられました。
1914〜1918年の第一次世界大戦のときは西部前線の供給基地として使用されましたが、その後占領されてしまいました。
大戦後、要塞の敷地内にある「白い宮殿(Белый дворец)」でブレスト=リトフスク条約が結ばれたことでも、この要塞は歴史に残っています。

ブレスト要塞を語るとき、最も重要な出来事は第二次世界大戦での激闘です。
ちなみにベラルーシでは世界全体での戦争である第二次世界大戦と区別して、ソビエトとドイツの戦争を「大祖国戦争(Великая Отечественная Война)」と呼んでいます。

1941年6月22日早朝、ドイツ軍が国境を超え、ブレスト要塞への攻撃を開始しました。
ブレスト要塞はソビエト連邦の国境に位置していたため、ソ連領内でドイツ軍の攻撃を受けた場所になりました。
この攻撃によって大祖国戦争の火ぶたが切られたのです。
そもそも、当時のドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたため、ドイツの奇襲攻撃はソ連にとって寝耳に水。
(ヒトラーがソ連攻撃を計画していたことは、ソ連のスパイによってスターリンに伝えられていましたが、スターリンは信じようとはしなかったという説があります)
なので、ブレスト要塞は戦闘の準備は特にしておらず、兵士の数も限られていました。

当初、ドイツ軍はブレスト要塞を8時間以内に陥落させる計画で、朝の9時までには要塞を完全に包囲してしまいました。
ブレスト要塞の中にいた人の中で、そのときまでに脱出できたのは全体の半分だけ。
中に残った3500〜4000人の人々はドイツ軍を相手に戦うことになりました。
外部とは完全に遮断された状態で、戦いに必要な銃弾などはおろか、水や食糧、医薬品なども要塞には入ってきませんでした。
にもかかわらず、彼らは約一ヶ月に渡り要塞を守り続けたのです。
建物の壁に銃剣で刻まれた有名な言葉。
「私は死んでいくが、降参はしない。さらば、祖国よ。1941年7月20日」

戦後、ブレスト要塞には「英雄」の称号が与えられました(「英雄」という称号は人に対してだけではなく、町などに対しても与えられます)。
1971年9月25日には、ブレスト要塞の敷地内に「メモリアルコンプレックス『ブレスト要塞』」がオープンしました。
ソビエト時代から現在に至るまで、国の内外から多くの観光客が訪れる場所であり、戦争関係の記念日には国の要人などが訪れたりする重要な場所にもなっています。

前置きが長かったですね。
ここからは私たちが行ったときのレポートです。

ブレスト要塞はブレストの町の中にあります。
なので、町の中心からは歩いても行けますが、タクシーやバスで行くことをお勧めします。
私たちは居候先の家から一本でいけるマルシュルートカ(乗り合いタクシー)があったので、それで行きました。

P7310699
今回、私たちは北門から中に入ったのですが、皆さんのために正門の写真を載せます。
この星はソビエトのシンボルですよね。
これがまた、ものすごく大きいんです。
初めて見たときは圧倒されました。
この門に近づくと、繰り返し流れる放送が聞こえてきます。
時計の針が動く音が戦争が近づく音を表し、その後、爆撃の音。
そして、戦争開始を告げる当時のラジオ放送がそのまま流れます。
その当時に流れていたものですから、心に迫るものがあり、私は聞くたびに鳥肌が立ちます。
それから、ソビエトの軍歌が流れます。

P7310722
中に入ると見えてくるのは、巨大な男性の顔の像。
遠くからでも見えるこの像の名前は「勇気」または「勇敢さ」(мужество)です。
ソビエトの人々の勇敢さや不屈の闘志を表しています。

その像の前には永遠の火が24時間、絶えることなく燃え続けています。
メモリアルプレートにはブレスト要塞で亡くなった962人の名前が書かれており、彼らと共に270人の無名戦士が葬られています。

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「勇気」の像の横に見えるのは、銃剣を表したモニュメントです。
高さは約100メートル。
チタンを使って、丈夫に作られているそうですが、私たちが行ったときは補修工事をしていました。

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敷地内には当時の兵舎の後などが残されています。
写真はホルムスク門という門です。
壁にはおびただしい銃弾の跡があり、非常に生々しい歴史を語ってくれます。

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「ブレスト要塞博物館」には当時の遺品や写真などが数多く展示されています。
当時の様子を知るためには欠かせない資料を目にして、いかに恐ろしい闘いだったか深く理解することができます。

P8131884
ちなみに、敷地内には「べレスチエ考古学博物館」と「美術館」があります。
私たちは「べレスチエ考古学博物館」に行ってみました。
「べレスチエ」はブレストの昔の名前です。
ブレスト要塞のそばで発掘された遺跡を取り囲むように建物が建てられています。
13世紀ごろの町がそのまま発掘されており、それほどいい状態で残っているものはなかなかないのだそうです(ドイツにも13世紀ごろのものがあるそうですが、規模が小さく、状態もそんなによくないのだとか)。
実はブレスト要塞の敷地内やそのそばにはもっとたくさんの遺跡が眠っているらしいのですが、発掘が禁止されているのだそうです。
ブレスト要塞を掘り返すわけにはいきませんからねえ。

P8131902
敷地内には当時の戦車や武器なども展示されています。
軍事マニアにはたまらないのではないでしょうか。

私がブレスト要塞を訪れたのは今回で6、7回目になります。
正直、何回行ったか覚えていないくらいです。
7年前に初めて訪れたときから、行く度に深く感じるものがあります。
日本人の皆さんにもぜひ訪れていただきたい場所です。

P8161652
最後におまけ。
ブレスト要塞博物館の売店で買ったお土産です。
ソビエトの軍人の人形で、木で作られています。
私はとても気に入っているのですが、うちのベロニカちゃんは「この女の軍人は顔がいけてない」と言って、非常に気に入らない様子。
かわいいと思うんだけどなあ・・・

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livedoor プロフィール

akiravich

山形県出身。
2000年からベラルーシ共和国の首都、ミンスク在住。ベラルーシ国立大学文学部・日本語教師。目指すのはベラルーシの金八(略してベラ金)。
愛する妻ベロニカちゃんと愛する龍二くん(5歳)とのベラルーシ生活!
日本の皆さまにベラルーシ一般国民目線のベラルーシを御紹介!

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