放射能

2014年05月28日

ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

いやあ、いそがしいです。
いそがしいったらありゃしない。

ここ最近は大きい通訳の仕事などはないのですが、通常の仕事だけでも結構大変で。
常にチェックする宿題を抱えている状況です。
個人教室だけで100人以上の学生がいますからね。

さて。
今日のテーマは日本で話題の美味しんぼ鼻血問題です。

このニュース、私も気になっていて、毎朝インターネットのニュースをチェックするときは真っ先にこの問題についての記事を読むようにしていました。
簡単に言ってしまえば、私は鼻血は出るわけがないという考えでいました。
様々な方の意見などを読む限り、医学的には放射性物質のせいで鼻血が出るというのは考えにくいという意見が多く、私もその通りなのだろうと思っていました。

5月23日、国会内で「鼻血には医学的根拠がある」という内容の記者会見が開かれた、ということをYahooニュースで読みました。
会見をした方のお名前を見てびっくり。
お一人はつい最近、通訳でご一緒した方。
もうお一人は2年ほど前、通訳でご一緒した方。
いずれも非常に素晴らしい方たちで、私は通訳させていただいたことを誇りに思うほどです。

それまでは「鼻血はあり得ないだろう」と思っていたのですが、その記者会見のことを知って、ちょっと確信が揺らぎました。
お二人とも卓越したプロフェッショナル。
そのお二人が言うのであれば・・・

私は自分でも調べてみようと思いました。
「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」を見ると、チェルノブイリの汚染地域では低線量被曝でも鼻血が出る、それは日常的であるということを書かれている方がおられました。
本当かな?


昨日は子供の保養施設に行ってきました。
いつものように折り紙教室です。
通訳で何度も訪れているところで、職員の方も知り合い。
昨日電話して、「明日折り紙をしに行ってもいいですか?」と聞くと、「もちろん!」と即答。

最初は鼻血関係のことを職員の人に聞きたいなあと思っていたのですが、施設に向かう途中、気が変わりました。
私は子供たちのところへ折り紙をしに行くのですから、そこの軸はぶれさせたくないのです。
あんまり難しく考えるのはやめて、普通に子供と遊んで来よう、と。
これこそが私の折り紙教室のベースにある考え方なのです。
私とチェルノブイリ 〜瓦討論泙蟷罎ら始まった
私とチェルノブイリ◆.福璽好船磴舛磴鵑悗竜Г

保養施設に着くと、職員の女性が出迎えてくれました。
そして、すぐに子供たちの娯楽室へ。
そこは子供たちが自分で何かを作ったりするプレイルームのようなところです。

子どもたちが12人ぐらい来て、折り紙スタート。
その保養施設にはベラルーシの様々な地域(主に汚染地域)から子供が来ているのですが、今回はゴメリ州のチェチェルスクという町の子どもたちでした。
いつものように日本語を軽く教えてから、鶴を折り始めました。

そのとき、ふと思ったのです。
子どもたちに直接聞いてみよう。
大人がいるといちいちコメントしてきたりして面倒だから、職員の人が席をはずしている今のうちに聞いてしまおう。
ちょっとデリケートな問題に感じるかもしれませんが、ベラルーシの子どもたちは割と抵抗なくいろんな質問に答えてくれることを私は知っています。

はぐれミーシャ「あのね、一つ変な質問があるんだけど、いいかな?」
子どもたち「どうぞ」「いいよ」
はぐれミーシャ「みんなの中で鼻血がよく出る子っている?」
そう聞くと、数人の子どもが手を挙げました。

はぐれミーシャ「あ、そうなんだ。みんなの周りにもそういう子、いる?」
子どもたち「いるよ」
はぐれミーシャ「それって頻繁に出るの?」
出ると答えた子どもたち「そんなことないよ。時々」
はぐれミーシャ「それって、放射能のせいだと思う?」
子供全員「違うよ。血圧のせいだよ」
速攻で否定されました。
その後、簡単に日本で話題になっている鼻血の話をすると、子どもたちは「血圧のせいだと思うけどな」。

彼らが暮らすチェチェルスクはチェルノブイリにそれほど近いわけではありませんが、他のベラルーシの町よりは放射線量が高い町。
移住権利区域(年間被ばく量が1ミリシーベルトを超える可能性がある地域)に指定されています。

DSC01615DSC01616DSC01617DSC01613
ここから先は普通に折り紙。
楽しく会話しながらの折り紙です。
みんななかなか積極的でした。

子どもたちに「今年の夏はどこか行くの?」と聞くと、口々に「イタリア!」「ドイツ!」。
彼らがお金持ちだから旅行に行くというわけではありません。
これは夏の保養のためにドイツやイタリアに招待されるのです。
ゴメリ州のようなチェルノブイリの汚染地域では珍しくないことです。
いまだにこういうことが続けられているんだなあ。

DSC01618DSC01619DSC01620DSC01623次のグループも楽しく楽しく。
このグループはチェチェルスク、レーチッツァ、レーリチッツィ、ゴメリと、いろんな町の子どもがいました。
最初は7人ぐらいだったのが、「ちょっと面白そうだ」と部屋を覗いてきた子どもたちで部屋はいっぱいになりました。
とても楽しい子供たちで、私もリフレッシュできました!!!


このグループでも全く同じ質問をしてみました。
そして、全く同じ反応が返ってきました。
鼻血が出ると言った子供たちに聞きました。
はぐれミーシャ「それはよく出るの?」
子どもたち「よくは出ないよ」
はぐれミーシャ「鼻血が出やすいとか」
子どもたち「出やすいわけじゃないよ」
はぐれミーシャ「何のせいだと思う?」
子どもたち「血圧」「みんな時々はあるんじゃないの?」
はぐれミーシャ「血圧、高いの?」
子どもたち「ちょっと高い」「興奮すると高くなるんじゃないの?」

ゴメリもレーチッツァもレーリチッツィも定期的放射線管理居住区域(住民の被ばく量が年間1ミリシーベルトを超えない地域)です。

子供が鼻血を出す理由はいろいろあるのでしょう。
その「血圧」という理由がちょっと気になったのですが、うちの奥さんに聞いたところ、それは子供たちが高血圧で悩んでいるという意味ではなく、興奮したり急にスポーツをしたりして一時的に血圧が上がったために鼻血が出るのだと言われているのだそうです。

子どもたちが帰った後、保養施設の副所長さんとお話ししました。
そこで、日本の鼻血騒動について話しました。
副所長さん「そんなのあり得ないですよ」

この施設はチェルノブイリの汚染地域(「汚染地域」という言葉の定義が難しいところですが)に居住する子供たちが保養する施設です。
どんなに汚染度の低いところでも、食物による内部被ばくなどは起こってしまうことがあります。
その検査と予防、治療のための施設です。
1クール24日間で、その間に検査や治療を受け、新鮮な空気を吸い、汚染されていない食べ物を摂取するようになっています。
これは国のプログラムに基づいて行われているもので、汚染地域の子どもたちは無料で保養できます。

副所長さんの話では「1クールでたくさんの子どもが来るけど、子供が鼻血を出すケースは1クールに一回あるかないか」とのことでした。
子どもたちが住んでいる地域は定期的放射線管理居住区域からもっと汚染度の高いところまで様々。
それでも、そんなに頻繁に鼻血が出ているというわけではない。
副所長さんは「私はここで14年働いているけど、子どもが鼻血が出て仕方がないというケースは記憶にない」ということでした。

これをもって、「ベラルーシには鼻血の問題はない」と結論付けるのは早計でしょう。
日本の団体がアンケート調査をしたところ、住民の何パーセントかの人が鼻血が出ると答えているという調査結果もありますから。
もう少しいろいろな人に話を聞いてみたいです。


いくつかの疑問点があります。
・放射能のせいで鼻血が出ると結論付けるような研究はないのでしょうか?
「可能性がある」「その可能性は否定できない」というフレーズは目にしますが、それを医学的に証明することはできないのでしょうか?
「事実、鼻血が出てるじゃないか」と声高に言う人がいます。
そういう現実があるとしても、それを放射能と結びつけるにはその因果関係を証明するしかないのではないでしょうか?

・鼻血が出る人がいるとして、その人の鼻血の原因を知ることは可能なのでしょうか?
健康の問題というのはいろいろな要因が絡んで起こるもので、たった一つの原因で起こるものではないと思うのです。
これは他の病気に関しても言えることです。
ベラルーシである疾患が増えると、すぐにチェルノブイリと結び付けて考えたがる人が多い(ベラルーシ人以外の人で)ように思います。
でも放射線の影響だけで病気が起こることはないわけで。

・鼻血が出ると訴えている人たちの被曝量はどれぐらいなのでしょうか? そこに相関関係は見いだせるのでしょうか?

・チェルノブイリ汚染地域で「鼻血が出る」と訴えた人たちがいるのはわかりますが、それが放射能によるものだと証明する研究はあるのでしょうか?
ベラルーシやウクライナの研究者がどう思っているのかが聞いてみたいです。



副所長さんが言っていた言葉が印象的です。
副所長さん「放射能の影響は今も研究段階なのだから」
これはゴメリの放射線生物学研究所の方たちも言っていました。
日本人が「低線量被曝の影響について教えてください」と聞いたところ、「それを知るにはまだまだ時間がかかる」という答えでした。

この「わからない」という答えこそ、今現在できる最良の回答だと思うのです。
わからないから研究・調査をする。
それでいいと思うのです。

これは伝言ゲーム的な感じのところがあるように思います。
プロの専門家たちは「可能性がある」、「可能性は否定できない」と言っているのですが、全く専門家じゃない人に限って、それをあたかも事実であるかのように情報を拡散しているように私には見えます。
推量や仮定の表現をそぎ落としてしまえば、それは事実のように受け止められてしまいます。
「可能性がある」という言葉はそれ以上でもそれ以下でもありません。

鼻血に関して、放射線による被曝は検討されるべき原因の一つに過ぎないと思います。
そもそも、鼻血自体が問題なのではなく、問題なのは被曝なのだと思います。
高線量でも低線量でも被曝はないに越したことはありません。
その被曝をどう防ぐかが一番大事な問題だと思います。
もし鼻血を出している人が被曝しているのだとしたら、その人の健康をどう守るのかが大事なことではないでしょうか。


私は「美味しんぼ」は好きです。
特に初期の「美味しんぼ」が。
尖っていた山岡さんは最高でした。

中学3年生の頃、私は音楽の先生から美味しんぼの第一巻をプレゼントされました。
私は音楽高校に入るために、放課後や休みの日もその先生に受験勉強を手伝ってもらっていたのです。
ある日、その先生が「これ、面白いから読んでみろ。あげるから」と言って差し出したのが、美味しんぼだったのです。
それから、私は美味しんぼにはまっていきました。

しかし、最近の美味しんぼは初期の頃とは全く違っています。
ストーリー展開も雑なものが多くて・・・
その鼻血が出た話の回、読んでみたいです。


もうちょっと聞き取りを続けたいと思います。
近いうちに、汚染地域からミンスクに移住してきた人たちと話すつもりです。

もう一つ調べようと思っていることがあります。
それは「チェルノブイリハート」という映画についてです。

ベラルーシに視察に訪れる人から「チェルノブイリハートを見ましたか?」とよく聞かれるのですが、私は見たことがありませんでした。
初めて見たのは3月の終わり、キエフのホテルでした。
非常に疑問に思う箇所が多く、正直、不快に思いました。
最近、ベラルーシ人学生たちにも見せたのですが、みんな「数字が怪しい」「こんなことはあり得ない」と口々に言っていました。
私も同感です。

すぐにわかる間違い(というか意図的な嘘なのかどうかはわかりませんが)はゴメリ市の人口。
映画の中では70万人となっていましたが、ゴメリの人口が70万人になったことはありません。
映画が製作されたのは2003年。
2002年のゴメリの人口は48万2000人でした。
他にも出生率や甲状腺がんの発症率が怪しいと思いました。
あの映画の中に描かれていることが事実なのかどうか、徹底的に検証するつもりです。


だいぶ話がそれてしまいました。
まとまりがない文章ですみません。

ここまで読まれて、私が鼻血が放射能のせいではないことを前提に書いていると思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
子どもたちに聞いてみて、鼻血が頻繁に出るようなら、その原因と対処法などを知りたいと思うまでです。
今回は頻繁に出る子はいなかったので、よかったです。

また他のところでも聞き取りをしてみようと思います。

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2013年03月11日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日であの東日本大震災から2年が経ちました。
被災された皆様の中には未だに不自由な生活を余儀なくされている方々、悲しみに打ちひしがれている方々、様々な困難に直面されている方々などが多くおられることと思います。
皆様の一日も早い復興、一日も早く心安らかな生活を取り戻されることを心よりお祈り申し上げます。

失ったものは大きく、心の傷は深く、その深淵を覗き込もうとすれば、私には到底耐えられないほどの痛みが心の底から湧きあがってきます。
当事者でない私は想像することしかできませんが、自分の家族をあのような理不尽な災害で失うことは想像するだに恐ろしいことです。

人生には時が解決してくれるものと解決してくれないものがあるように思います。
復興しなければならないものの中には「心の復興」もあるように思うのです。

こんなことを書いていながら、自分は何もできていないことに歯がゆさを感じます。
私ができることは日本とベラルーシの橋渡し的な仕事だけなので・・・
私としては、ベラルーシでこれまで蓄積されてきた知識や経験が少しでも日本の、そして福島の復興に役立てばという気持ちでいます。

2012年3月11日からの震災後2年目は福島のことが頭から離れない一年でした。
通訳の仕事も非常に多く、4月の国会事故調の仕事を皮切りに、福井県議会、福島県議会、福島視察団と多くのチェルノブイリ関連の仕事をしてきました。
普段の生活の中でも、福島関連のニュースは必ず読むようにし、様々な資料に目を通しました。
それは仕事のためという側面はもちろんありますが、それ以上に一人の人間としてという意味合いも持っています。

外国に住んでいると、自分が日本人であることを強烈に意識する瞬間があります。
2011年3月11日から、私の心の中ではその瞬間が続いています。
もはや瞬間ではなく、持続した状態です。




ベラルーシのチェルノブイリ関係の省庁ではよく「もう復興の段階ではなく、発展の段階なのだ」という言い方をよく耳にします。
確かに、ベラルーシはすでに27年近く経っているだけあって、整っていますし、汚染地域の一般の人たちも放射能との「共存」に違和感を感じていないように見えます。

しかし、ベラルーシも事故当時は混乱を極めたのではないかと推測します。
「推測」と書いたのは、その当時の話というのがほとんど出てこないのです。
非常に大ざっぱな話として、「最初は手探り状態だった」という話が出てくる程度です。

今のベラルーシの現状と比べれば、福島の復興の道のりはまだまだ遠いのではないでしょうか。
まだ始まったばかりという感じがします。
気が遠くなるような道のりですが、前に歩いていくしかないのでしょう。




私は通訳という仕事で直接的に福島の方々のお手伝いをすることがあるわけですが、日本語教師としての仕事も非常に重要な意味を持つと考えています。
去年の11月、福島市からの視察団がベラルーシを訪れた際、私は4人の学生を同行させました。
彼らは福島市の方々との交流を通して、今の福島の現状を知ることができたと思います。
そして、彼らのような若い世代がこれからの日本とベラルーシの関係発展に努力していくのだろうと思います。

私は近いうちに大学で東日本大震災をテーマにした授業をしようと考えています。
次にいつか福島やその他の被災地の方がいらっしゃったときは、ぜひ大学に来ていただき、学生たちとお話していただけないかと考えています。
もしベラルーシにいらっしゃる方で、お時間を割いてくださる方がいらっしゃれば、ご連絡をいただければと思います。




私は大震災や福島原発のことを「伝える」ことは非常に重要だと思っています。
それは日本国内で情報を共有すること、正しい情報を伝えることはもちろんのことです。
そして、外国の人々にも知ってもらうことは重要な意義があるように思うのです。
私は大震災発生直後、ベラルーシの人々がどんなに心を痛めていたかを自分の目で見ました。
彼らの中ではチェルノブイリという同じ痛みを持つものとしての親近感を日本の人たちに感じているのです。
これから福島の復興にベラルーシの知識を役立てたいと考えいている以上、そのベラルーシの人たちに震災の当時の状況や福島の現状を伝えることは、義務ではないかと考えています。

これまでの福島関連の視察団はチェルノブイリ関係で日本で役立つ情報を集めることを主にやってきました。
しかし、「役に立つ情報をもらいました、はい、ありがとうございました」というだけでは、ベラルーシ人としても腑に落ちない部分があると思うのです。
これからはそれだけでなく、日本のこと、そして福島のことを伝えていくことも大事なのではないかと思います。
日本側の現状も伝えないで、「協力して欲しい」とだけお願いするのは虫が良すぎるように思うのです。
一方通行でない、本当の「交流」をしていかなければならないと思います。

ただ、中にはベラルーシの方たちに対して、プレゼンテーションをした日本の団体の方もいらっしゃいます。
相手は専門家の人が多かったのですが、彼らの反応は「そんなことは知っているから、早く質疑応答に移ろう」というものが多かったです。
彼らの反応はごもっともで、チェルノブイリのことを専門にしていたら、福島のことは当然注意して観察しているでしょう。
私がいろいろと伝えてほしいと思うのは一般のベラルーシ人に対して、ということです。

今、私が考えているのは、福島の方々と一緒にベラルーシで催し物が開けないかということです。
例えば、震災の状況を伝える写真展ですとか、福島原発の事故当時、そして現状を伝えるためのシンポジウムですとか。
何らかの形で実現できればと考えています。




私の通訳としての仕事は、コーディネーターとしての側面も持っています。
これまでの通訳の仕事を通じて、ベラルーシの様々な関係機関とのコネクションを構築することができました。
どこへ行けば、どのような情報が得られるのかというのは、ある程度把握しているつもりです。
日本人の方が欲しい情報は何なのか、行きたいところはどこなのか、という希望を聞いて、それを視察の日程に反映させることも私の仕事だと思っています。

日本の団体の方がいらっしゃった場合、訪問先は大体決まっています。
非常事態省や放射線学研究所などがスタンダードなところです。
多くの関係機関に私は知り合いがいますので、訪問時により建設的な話をするための段取りをするようにしています。

決まった訪問先を訪れるのもいいのですが、私としては一般の日本人の方がいらした場合は、一般のベラルーシ人の生の声を聞く機会をもっと作れないかと考えています。
私は一度だけ、実際に汚染地域に住んでいた方で、すでにミンスクに移住された方々のグループの通訳をしたことがあります。
それは政府の機関では聞けないような生の声でした。

それは「政府が情報を隠している」とか「政府の情報は間違っている」という意味ではもちろんありません。
政府機関の話では「移住した人々は住居も無償で提供され、雇用も保証されているので、みんな満足している」ということなのですが、それは正しい話です。
実際、移住者のグループの方たちも全員、政府がしてくれたことには満足しているという意見でした。

しかし、それは物質的な面であって、精神的には望郷の念を強く持っている人が多かったです。
中には涙を流している人もいました。
自分が生まれ育った町や村を捨てなければならなかったのですから、それは当然でしょう。

そのような痛みを持つベラルーシ人と日本人が精神的に共有できる部分はきっとあると思うのです。
何か痛みを持つ同士が助け合うことはきっと意味があると思うのです。
私の中ではまだ漠然としているのですが、何かできることがあるのではないかと考えています。




ベラルーシの「これまで」の経験を日本の復興に生かすことは非常に大事だと思います。
しかし、それにとどまらず、ベラルーシの「これから」と日本の「これから」をリンクさせていくような取り組みがこれから必要になってくるように思います。

遠いベラルーシという国にいて、自分ができること。
それはそんなに多くはないのかもしれませんが、少しでも日本の皆様のお役に立てればという想いがあります。
そして、ベラルーシと日本の関係が相互にとって有益なものになることを願っています。

akiravich at 23:10コメント(2)トラックバック(0) 

2012年03月11日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日、東日本大震災から一年経ちました。
この一年は私にとっても人生で大きい意味を持つ年になりました。
今の気持ちは深く深く祈るだけの気持ちです。

震災後の一年間、私の生活にも大きい変化が現れました。

一年前のあの日、私は大学にいました。
学生からのショートメールであの大震災のことを知りました。
山形に住む家族の安否が心配で心配で・・・
山形は津波などの被害は直接受けてはいませんが、電話がつながらず、何が起こっているのか、怪我などはしていないかなど、頭の中を様々な考えが渦巻きました。
ミンスク時間の14時ぐらいに兄から携帯電話に電話が来て、やっと安心することができたのでした。

そして、仙台に住む友人や親戚、知り合いの安否が気にかかりました。
皆無事だったのですが、それがメールなどで確認できるまではとにかく心配でなりませんでした。

私は大学での授業のときも大震災の話をしました。
それしかできませんでした。
学生たちも私と一緒に心を痛めました。

一般のベラルーシ人たちの間にも深い祈りの空気が流れていました。
様々な人から電話があり、「家族は大丈夫か?」と聞かれました。
多くの人が「寄付金を送りたいのだが、どうすればいいのか?」という電話がありました。

この遠いベラルーシにいながら、自分には何もできないことに焦燥感を感じました。
私は日本人であると同時に、東北人という意識があります。
同じ東北の人たちが苦しんでいる、そして何度も行ったことがある仙台の人たちが苦しんでいる。
何か自分でもできることはないのだろうかと悩みました。

それから、私は予期せぬ形でこの問題と関わることになりました。

まずベラルーシの地元の新聞やテレビ局からインタビューや出演の依頼が来るようになりました。
最初は私のような人間がテレビに出て日本の話をするなんて、そんなことをしてもいいのだろうかと悩みました。
しかし、ベラルーシで目にすることができる地元やヨーロッパのニュースを見て、報道の偏りというものを感じたことから、私はせめて自分が知りうる情報だけでもベラルーシの人々に伝えたいと思うようになりました。

テレビ番組を通じて、いろいろな方と知り合いになりました。
チェルノブイリの現場で働いていた元作業員の方、汚染地域のブラーギン市の市役所の方などなど。
その方たちとはその後も何度も顔をあわせることになりました。

4月16日にはミンスク市内にある仙台広場(←ミンスクは仙台と姉妹都市です)において、復興を祈念する植樹祭があり、私も招待されました。
ちょうどその日にはNHKの地球ラジオに電話で出演させていただきました。

夏が近づいてきた頃から、通訳としての仕事が舞い込んでくるようになりました。
ご一緒するのは日本の省庁の方々や被災地からいらっしゃった方々、研究者の方々など様々でした。
ベラルーシ緊急事態省や放射線学研究所などでの通訳です。
私は元々、音楽を勉強していたので、理系の話、ましてや放射能の話などは全くの門外漢です。
しかし、少しでもベラルーシにある情報が日本の皆様の役に立てばと思い、様々な言葉を勉強しました。

正直に言えば、ベラルーシというチェルノブイリの被害を受けている国に住んでいながら、そのことを痛烈に意識したことはそれほどありませんでした。
大震災後の1年間は自分がどこに住んでいるのかということを痛いほど感じることになった一年でした。

私の家族や親戚、知り合いは無事だったと書きましたが、大震災後に知り合いになった人たちは被害を受けていました。
家族を亡くした方、家を流されてしまった方、農業ができなくなってしまった方・・・
言葉を返せないほどに何もできない自分をはがゆく思いました。
そして、私は私ができること、通訳の仕事を一生懸命やるしかないのだということを理解しました。

ベラルーシの人たちは同じ放射能の被害を受けている人たちのことを想い、心を痛めています。
できる限りたくさんの情報を共有したいという思いの人がこの国には大勢います。
私も少しでも情報の共有のお手伝いができればと考えています。

このブログでもチェルノブイリのことについて書いていければと思っています。
この国にいると書けないことも多いのですが、書ける範囲で書いていきたいです。
2011年1月27日「私とチェルノブイリ 愾瓦討論泙蟷罎ら始まった』」
2011年1月29日「私とチェルノブイリ◆悒福璽好船磴舛磴鵑悗竜Г蝓戞

そして、日本へ帰ったときには皆様に直接ベラルーシについてお話しする機会があればと思っています。
自分の家族や知り合い、友人たちと話すのはもちろん、私が卒業した学校などにも行って、子どもたちに話ができないかと考えています。

私は2000年からベラルーシに住んでいるのですが、来た当初はチェルノブイリのことなど、全く考えていませんでした。
その後、病院で子供を相手に折り紙をするようになり、チェルノブイリということを強烈に意識するようになりました。
「この国に住んでいて本当にいいのだろうか? 危険はないのだろうか?」とも考えました。

私がベラルーシに住み続けている理由は二つあります。
一つは私がいなくなれば、日本語を教える日本人がほとんどいなくなってしまうこと。
もう一つは私がいなくなれば、ベラルーシの子供たちと遊ぶ人間が一人少なくなってしまうこと。

誰かに必要とされること。
それが私にとって「生きているという実感」なのです。
「ベラルーシに住むということはチェルノブイリを受け入れるということなのだ」
私はそのことを理解し、それを受け入れることにしたのです。
私がベラルーシに住んでいることの意味、そして日本人であることの意味を何らかの方法で形にしていきたいと思っています。

この大震災で亡くなられた方々に哀悼の意を表したいと思います。
津波や地震の被害にあわれた方々に一日も早い復興をお祈り申し上げます。
福島原発の事故により避難生活を余儀なくされている皆様、一日も早く故郷に戻れる日が来ることを切に願っております。


akiravich at 17:16コメント(6)トラックバック(0) 
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