文学

2009年04月14日

今日のBGMはまたまたブリテンの「チェロソナタ」。
何故か聴いてしまいます。
ブリテンがすごく好きというわけでもないのですが、ブリテンが好きなのです(意味不明)。
例えば、ヴィスコンティの映画なんかもそうですね。
好きなわけじゃないのに、何故か見てしまうという。

今日はここ最近のドタバタから解放されて、静かな一日でした。
でも、授業はしっかり6コマ。
疲れたなあ。
でも、心地よい疲れです。

夜、学生を待っている間、「はじめての文学 山田詠美」という本の「海の庭」という短編小説を読んでいました。
私は山田詠美さんの言葉に射抜かれて骨抜きにされています。
思春期の女の子の心の中がここまで鮮やかに描いた作品を私は読んだことがありません。
鮮やかすぎて、眩しいくらいです。
でも、眩しいからと言って目を閉じることも出来ず。

本当はもうちょっとうまく内容を説明できるといいんですけど、いい文学とか説明するの嫌いなんですよ。
私の下手な説明を読むよりも本を読んだほうが100万倍いいですよ。
ぜひ読んでみてください!

説明が下手なはぐれミーシャ、今日は私が大好きな映画をご紹介したいと思います。

「エステサロン/ヴィーナス・ビューティ」V���nus Beaut��� (institut)という映画です。
1999年のフランス映画です。
タイトルを見て「35歳のおじさんが見るような映画じゃないだろ」と思ったあなた!
あなたは非常に間違っています!

簡単にあらすじを。
40歳のエステティシャン、アンジェル(ナタリー・バイ)は結婚もせず、エステサロンの仕事を真面目にこなす女性。
孤独な彼女は本当の恋愛を求めつつも、行きずりの男と関係を結んでしまったりする。
そんなある日、彼女の前に現れたのは、たまたま彼女を見かけて一目ぼれしてしまった若者、アントワーヌ(サミュエル・ル・ビアン)。
素直に愛を受け入れられないアンジェルと恋人を捨ててまでアンジェルに入れ込むアントワーヌ。

これ以上は書きません。
もし見たいと思った人がいたら、悪いですから。

6、7年ほど前でしょうか。
私はたまたまベラルーシのテレビ局で放送したのをビデオに撮ったんですよ。
元々、フランス映画が好きだったので、どんな内容かも知らずにビデオに撮ったんですけど、一度見て大好きな映画の一つになったのです。
それ以来、何度も繰り返し見ていますが、全然飽きません。

この映画の音楽が私は大好きなのですが、どうしてもサントラ盤を見つけることが出来ません。
日本にはないようなので、フランスとかだったらあるのかなあ。
特に、アンジェルがバスに乗って、窓の外を眺めているときに流れるシャンソンのような歌は心の中に染み入って離れません。

最後のシーンも秀逸。
見る人が見れば、おとぎ話かもしれませんが。

そこで、私はこの映画についてインターネットでいろいろ調べてみました。
高い評価をしている人もいるようですが、だいたいは「佳作」という感じの評価ですね。
まあ、好き嫌いはあるでしょうから。

それよりも気になったのは、この映画についてのコメントの多くに書かれていた、次のような内容の言葉です。
「あんな若くてかっこいい男が40歳のおばさんに一目惚れして恋をするのは無理がある」
「無理がある」とか「あり得ない」とか、そういう言葉が多かったんですよ。
その「かっこいい若い男」と「確かにきれいだけど40歳の女性」という組み合わせに無理があるということらしいんですが。

正直、私はそれらの感想を読んでびっくりしました。
というのは、私の中では全く考えても見なかったことだからです。
本当に「年の差」のことなんて、全く気にしなかったからです。
うちのベロニカちゃんに聞いてみたのですが、「いや、年の差のことなんか全く気にならなかったよ」と言ってました。

ベラルーシでは男女の関係について話すとき、年の差の話しにはほとんどなりません。
というのは、年の差を気にする人が少ないからです。

私とベロニカちゃんの年齢差は10歳。
私は35歳で、ベロニカちゃんは25歳です。
結婚したときは、32歳と22歳でした。

このことを日本人に話すと「ロリコン!」とか「それは犯罪だ!」とか言われるんですよね。
でも、ベラルーシ人に話しても、そんなリアクションの人は皆無。
年齢が離れすぎだなどと言われたことは、ただの一度もありません。
本当に、それらしきことすら言われたことがないんですよ。

年下か年上かということもあまり気にしない人が多いです。
例えば、「年上と年下とどっちが好き?」と聞いても、「???」っていう顔をする人が多いんです。
「その人がいい人だったら、それは関係ないんじゃないですか」と言う人が多いですね。
日本人だったら、それだけでどんぶりめし三杯食えるくらい大好きなテーマじゃないですか(←意味不明)。

日本人って、年齢とか気にしすぎだと思うんですけど。
その人間を、その人だけを見ればいいのに、それに付帯する状況にばかり目を向ける傾向、ありません?
まあ、最初に会ったりするときは他に判断材料がなかったら、年齢とか職業とかに目を向けてしまうのは仕方がないことなんでしょうけど。

実際、この映画の主人公の女性は若くないのですが、私から言わせれば「だからどうしたの」。
若くなくても魅力的であることは出来るし、若い男が一目惚れするというのも十分に「アリ」だと思います。
年齢的に無理があるとか言うのは、その人の考え方のほうに無理があるのかも・・・(←はぐれ☆過激☆ミーシャ)

まあ、どうぞお好きなように映画を解釈なさってください。
好き嫌いは別れるかもしれませんが、私は大好きな映画です!

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akiravich at 05:41コメント(6)トラックバック(0) 

2008年12月13日

今日は割と楽な一日でした。
でも、授業以外の仕事がたまってきたなあ・・・
通信教育、翻訳、報告書作成・・・
ああ、早く来い来いお正月!

今日は昨日の出来事について、ちょっと書きたいと思います。
それは一年生の学生たちがしようとしている劇のことです。
この劇は日本語・中国語・韓国語を学ぶ学生たちが一緒にロシア語で劇をしようというものです。
台本を書いたのは一年生の学生の女の子。

昨日の14時半、劇に参加する学生・教師の全員が初めて集まることになりました。
小さい部屋に教師側が4人(←そのうち一人は秘書)、学生はおそらく12人ほどだったと思います。
その雰囲気は最初から雲行きが怪しいものでした。
なんとなく、ですが・・・

最初に話したのは台本を書いた学生。
その学生、正直に言って、私はいい印象を持っていない子でした。
私の学生ではありませんが、非常に不真面目な行動が目に付いていたからです。
そんな学生があんな戯曲を書いたなんて、意外に思いました。

「あんな戯曲」というのは、内容がかなり重くまじめなテーマだからです。
舞台は核戦争後の世界。
人々は核シェルターとなった地下鉄の駅に暮らしている。
地上にいた頃のことを思い出す人々や地上の生活を知らない子どもたち。
その人間模様が描かれています。

しかし、レベルは非常に低いもの。
テーマを言葉のレベルだけでなぞった感じで、深く入り込んではいません。
この前も書きましたが、「愛」を表現するのに「愛」という言葉はいらないと思うんですよね。
「いらない」というと極端ですが、舞台で見せる上ではいらないだろうと思うのです。
他にも、エピソードがどんどん連なっているところが、かなりとっちらかった印象を受けます。

実はこの台本、もともとのアイデアは他の小説から取ってきたもので、学生が自分で考えたものではないんですよ。
それを読んだ感想文のような台本なんです。
つまり、台本としては全く話にならないレベル。

台本を書いた学生は「台本がまだ出来上がっていない」。
教師たちが「もうちょっとこうしたほうがいい」と手直しするように命じていたのです。
大学職員の女性は「これはハッピーエンドじゃダメだと思うのよ。思いっきり暗く終わらないと」と必要以上に干渉。
この女性、自分は最高に頭がよくて、最高にセンスがいいと思い込んでいる人。
彼女の言うとおりに変えたら、その台本を書いた学生のものではなくなってしまいますよ。

台本を書いた学生「まだ先生方に見せられるようなものは何もないので、ある程度、形が出来たらお見せします」。
でも、これってかなり間違ってる。
だって、教師が指導者・演出として何かをするなら、最初から関わっていかないとダメだと思うんですよ。

それでも、教師たちは「読むだけでもいいから、見せて欲しい」と言い続け、学生たちは最初のところの読み合わせを見せてくれました。
みんな、なかなか上手なんですよ。
かなりびっくり。
特に、私の学生のナースチャちゃん。
かなり感情が籠もっていてよかったです。
でも、それだけじゃダメなんだということに気がついていないようで・・・
ナースチャちゃん、子どもの頃から女優になるのが夢だったんだそうです。
じゃあ、何でうちの大学に入ってきたんだろう!?

しばらくして、初老の男性が部屋に入ってきました。
それは近くにある芸術アカデミーの演出学科の学科長。
秘書の女性が知り合いで、助けを求めたのです。
彼は「喜んで手を貸しましょう」と約束。
演出の勉強をしている学生たちに演出させようかというアイデアはかなり面白いと思います。

最後にまた教師からの「説教」。
学生たちもうんざりした様子。
私はほとんど発言できず。
教師たちは「古○さんにぜひ演出をやってもらいたい」と散々言っていたのに、まるで何も言わなかったかのように、その話は全く出ませんでした。

その後、東洋語の教師の部屋に戻ると、教師たち「私たちの助けがいらないのなら、勝手にすればいいんじゃない!?」
かなり怒っていた様子。
私が「この戯曲は演技で表現すべきところまで全て言葉で表現している。これは戯曲とは言えない」と言うと、教師たちみんな、「その通り!」
ついこの前まで「この戯曲はすごい」って、褒めちぎってませんでしたっけ!?

とにかく。
この学生演劇は最初から暗礁に乗り上げてしまったのでした。

今日、学生の一人、Aちゃんに電話をしてみました。
やはり、学生たちは全員、教師たちの言動に異常なまでの圧力を感じ、ショックを受けていたのでした。
だって、教師たちがしていたのは「指導」という名の「ダメだし」ですから。
学生たちの中には教師たちに対する不信感が生まれてしまっているようでした。

みんな、まるで演劇の専門家のように振る舞っているのがおかしいです。
それは学生たちも含めてです。
台本を書いた女の子の言動もかなり間違っていますが、教師たちも「私は学生演劇の経験があるから、何でも知っているのよ」みたいな。
なんで、こんなにかっこつけるんでしょうか・・・

PC132411今までのが前振りです(←長すぎるだろ!)。
私は戯曲を読むのが大好き!
今まで翻訳したもののほとんどは戯曲。
私の夢は自分が翻訳したものをベラルーシ国立ヤンカ・クパーラ劇場で上演してもらうことなんです。
いろいろ読みましたが、私は別役実さんや清水邦夫さんの本が好きです。

そして、もう一つ考えているのが、一年生の学生たちと日本語で劇をすること。
ずっとこの「はぐれミーシャ」を読んでいる方はご存知かと思いますが、私は去年、劇をやろうとして失敗していますからねえ。
リベンジです!

もっとも困るのが戯曲選び。
学生たちに合う劇を選ぶのはかなり難しいんですよ。
木下順二の「夕鶴」にしようかとも思いましたが、一年生は男が3人しかいないんですよね。
登場人物の数は女1、男3で、ちょうどいいんですが、男どもがみんな日本語が上手だったら問題ないんですけどね・・・
結局、女3・男2の劇にしようかと思っています。
作者に上演許可をもらわないとなあ・・・

そういえば、この写真にも写っていますが、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」。
この本、なんなんですかね。
一度読み始めて挫折して、二回目に読んだときはかなり感動しました。
本当にわけのわからないところばかりなんだけど、それが妙な余韻になって残っているような。
理解されることを拒否しているというか、理解とかそういう枠を超えちゃっているというか。

今日のブログの内容も、学生の台本に負けず劣らず「とっちらかって」いますね。
すみません・・・

akiravich at 07:47コメント(4)トラックバック(0) 

2008年06月16日

d9e35821.JPG今日は久しぶりの劇場!
約一ヵ月半ぶりじゃないかなあ。

今日見たのは、ベラルーシ国立ヤンカ・クパーラ劇場の新作「ピンスクの貴族達(Пiнская Шляхта)」です。
名前を聞いたときは、正直、期待してなかったんですよね。
作家もドゥーニン=マルツィンケーヴィッチという古い作家。
今年で生誕200年だそうですが、正直、イメージないし。
同じ劇場で同じ作家の「田園詩(Идиллия)」という劇を見たのですが、全くわからず。
なので、全く期待していなかったのです。

劇場に行く途中、友人の俳優ジーマ・ラチコフスキーにばったり会って、「どこ行くの?」と聞かれたので、「『ピンスクの貴族達』を見に行くんだ」と言うと、彼は「本当?! あれはすごいよ。だって演出がピニーギンだもん!」
おお、ピニーギン!
彼こそ、ベラルーシ演劇界が誇る天才演出家です。
彼の劇には毎度、驚嘆させられています。
これは期待ができる!

そして、劇は・・・
超すごかった!
もう久しぶりに心ごと持っていかれたような感じです。

お話しはピンスクというベラルーシの田舎での出来事。
ベラルーシ文学によくあるパターンですよ。
若い男女が恋に落ちる、しかし、お互いの両親はちょっとしたことでけんかをしてしまう。
ここまでは普通ですよね。
その若い女の子、マルィシャ役を私達の友達の女優、アーニャちゃん(Анна Хитрик)が演じてました。
相変わらず、エンジン全開。
皆さんに見せたいですよ、本当に。
歌と踊りで、観客を全てとりこに。

さあ、ここからが非常にベラルーシらしいところ。
お互いの父親がけんかというか、男の子の父親が女の子の父親を侮辱するようなことを言ったんです。
なので、言われたほうは殴っちゃったんですね。
そこで、登場するのが役人クルチコフ。
そのいさかいを解決するためにピンスクに送り込まれた役人。
彼は穏便に済ませたい双方から賄賂を取りまくり、お金をもらったくせに結局二人を罰金と百叩きの刑に。
それも、二人のけんかを目撃した人たちからも「二人をとめられなかったから」という理由で罰金をとり、けんかを目撃しなかった人からは「目撃しなかったから」という理由で罰金を取るという横暴。

みんな、クルチコフの秘書に賄賂を渡して、刑を免れようとします。
その秘書の言った言葉「頭のいい人の秘書ってのは、いい仕事だ。こっちから賄賂をくれと手を伸ばさなくても、お金のほうからこっちのポケットに入ってくるんだから」
その賄賂が効いたのか、彼らは刑を免れます。

そこで二人の若い恋人達はクルチコフに助けを求めます。
「結婚したいんです! 何とかしてください!」
そこでクルチコフは無理やり親達を仲直りさせ、無事に結婚して、ハッピーエンド。

で、終わるかと思いきや!!!
ベラルーシ文学はそんなに甘くはないですぞ!

結婚式でお酒を飲み、盛り上がっている最中、クルチコフは二人の貴族に「○○がお前の悪口を言っていたぞ」とうそをつき、ケンカをけしかけるのです。
けしかけた本人は「またお金が貯まったら、僕を呼んでね!」と言って、町を後に。
そして、大喧嘩が始まり、彼らは自ら破滅していきます。
最後に彼らに残ったのは、自らの家の紋章が描かれた旗だけ。
その旗が虚しく空に掲げられます。
彼らは貴族といいながらも、田舎の貴族で、農民と変わりない人たち。
貴族としての名声にしがみつき、自らを見失っていく人たちが生き生きと描かれています。

かなり面白かったです。
この「救いのなさ」こそベラルーシ文学の真骨頂!

これは1866年に書かれた本。
1890年に発禁本になり、発行中止。
1918年に再発行開始。
といういわくつきの本。

っていうか、こんな本、今でもやばいんじゃないの?
ベラルーシのリアリティー、そのまんまだもん。
この演出家、ピニーギンのやった劇の中で、今では上演されてない劇があって、それもかなりやばい劇でした。
おそらく禁止されているんでしょうけど、僕はもう一度見たいなあ。
その劇は僕が今まで見た劇の中でベスト3に入ります。

今日の主役は国民的俳優、ヴィクトル・マナーエフ。
彼は最高!
最高の喜劇俳優だと思います。
彼の「長ぜりふの一気読み」は相変わらずすご過ぎ。
僕の大好きな俳優です。

ベラルーシ文学、日本語に訳さないと!!!
だって、ほとんど本がないんですよ。
ブイコフという作家の「死者に痛みはない」という作品ぐらいしか翻訳はないんじゃないかなあ。
しかも、出版されたのが、1967年だし。

よし、俺がやる!
やってやるって!
俺達の風が吹くって!

akiravich at 04:34コメント(0)トラックバック(0) 

2008年05月28日

03745329.JPG今日も仕事はあまりなし。
でも、細々とやることがあって、なかなか楽にならないなあ。

今日は4年生の最後の授業。
本当は5月の最終週は、授業をしない先生も多いんですけど、僕はしっかりやります。
でも、いつもの教科書などではなく、何か面白いことをやりたいと思ったんですよんね。
最後だし、みんな試験期間に入って勉強することが多いから準備が大変だし。

で、今日は日本の文学作品を、原文とロシア語に翻訳されたもので読んで比較してみました。
簡単に言えば、今日の授業は失敗。
もうちょっと作戦を練るべきでした。

材料に使ったのは、村上春樹の「ダンスダンスダンス」
ロシア語圏では、ここ数年、村上春樹はとても人気があって、どこに行っても売ってるんです。
でも、本当にちゃんと訳しているのかなあ、と前々から思っていたので。
新刊本とかが出ても、すぐロシア語に翻訳されたのが出てくるんですよね。

皆さんは「ダンスダンスダンス」、読まれましたか?
かなりすごい翻訳になっているので、ちょっと御紹介します。

例えば、冒頭の部分。
原文「つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている」
ロシア語「По какому-то странному стечению обстоятельств я -- его часть」
ロシア語を日本のに直すと・・・「ある変な状況が重なって、僕はその一部である」
日本語でもわかりにくいところですよね。
でも、「状況が重なって」ではないな。

こんなのはまだ序の口。
原文「あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる」
ロシア語「Такой узкий и длинный, что вроде и не отель, а каменный мост под крышей」(下線、はぐれミーシャ)
この下線部分は「石造りの」。
そんな言葉はどこにもありません。

原文「その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている」
ロシア語「Фантастический мост, который тянется из глубины веков до последнего мига Вселенной」(下線、はぐれミーシャ)
下線部分は「ファンタスティックな」「幻想的な」
もちろん、そんな言葉はどこを探してもありません。
この翻訳そのものがファンタスティック!

最後にもう一つ。
原文「誰かが僕のために泣いているのだ」
ロシア語「Плачет и зовет меня」
ロシア語を日本語に訳すと・・・「(誰かが)泣いていて、僕を呼んでいるのだ」
誰も呼んでません。

これはごく一部です。
細かいことを挙げたらキリがないほど、翻訳者の主観が入っているのです。
学生の一人が「なんか、裏切られたような感じがします」と言っていましたが、まさにその通り。
これは読者に対して、そして作者に対して、二重の裏切りです。

翻訳というのは、作者が意図しているものを汲み取って、他の言語でそれを伝える作業。
自分の主観や解釈を入れるのは、御法度なのです(と私は思う)。

翻訳って、悲しい作業なんですよね。
意味もニュアンスもタイミングも受ける印象も、全てがぴったり来る訳語なんて、本当にないんですよ。
最初から「無理だ」ということをわかった上でしなければならない、絶望的な仕事なんです。
ロシア語できれいにしようとすれば、原文から遠くなってしまい、原文に忠実であろうとすれば、ロシア語のほうが不自然になってしまう。
まさに両刃の剣。
どこまで原文から離れてもいいか、その距離感の問題なのです。
どこに線を引くか。
バランス感覚が要求されます。

そうゆう意味で、ロシア人の翻訳者の姿勢にはかなり首を傾げてしまうことがあります。
ロシア語として美しければいい、という考え方が顕著に見て取れるからです。
日本語がどうだったかは問題にならない、という考え方には、私は断固として反対します。

今日は公正を期すために、ロシア語から日本語に訳されたものを持っていきました。
それはチェーホフ「三人姉妹」、神西清さんの名訳です。
昨日の夜、読んでいて、これはすごいなあと思いました。
古い翻訳ですが、これを超える翻訳は出ていない、という話を聞いたことがあります。
ただ、小田島雄志さんが英語から訳したものを読んでみたいなあ。
重訳(ある言語で書かれたものを他の言語から翻訳すること)って、よくないことだとは思うんですけど、その翻訳が「チェーホフ」になっていたら、アリだと思うし。

例えば。
ロシア語「ты лежала в обмороке, как мертвая.」
日本語の翻訳「あなたは気が遠くなって死んだみたいに臥ていたっけ」
これは「気が遠くなって」ではなくて、「気を失って」のほうが正しいですね。
最初のページを見て、はっきり違うなあ、と思ったのはここだけ(不遜な発言、お許しください)。
後は原文に非常に忠実です。
忠実でありながら、日本語として、舞台で役者が発声したときにどのように聞こえるかも考えられた名訳だと思います。

一つ問題が。
ロシア語で「читает книжку」という文があって、その訳が「小型な本を読んでいる」となっていたんです。
僕もちょっと引っかかったんですが、この「книжка」という言葉、「книга」、つまり「本」という言葉の指小形というもの。
つまり、その形を使うことで、言葉がちょっとかわいくなるんですね。
「本」をかわいくしたら「本ちゃん」でしょうか。
私はその指小形を使うと、「小さい」という意味が入ることがある(いつもではない)と捉えていたので、「小型な」でも間違いではないと思っていたのですが、学生達が口々に「そんな意味はない」というのです。
授業の後でうちの奥さんと話したのですが、ベロニカちゃんは「もちろん、『小さい』っていう意味に捉えることもできるよ」と言ってます。
ちょっと、これはいろんな人に聞いてみないといけませんね。
チェーホフがわざわざ指小形を使ったことに何か意味があるのではないか、と勘繰りたくもなります。

学生達は「そんな意味はない」と言います。
まあ、別に間違いだったとしても、それはそれほど遠いことではないと思うんですね。
他の学生達に聞いても「いや、それはただの『本』という意味で、『小さい』という意味はないと思いますよ」と言います。
まあ、それはそれでいいでしょう。
私も「小さい」というニュアンスはあると思っていました。
小さいものに対して、かわいいものに対して、指小形を使う、と私も教えられたのです。
神西さんもそう考えていたから、そうゆう訳になったのだと思います。

しかし。
「先生、日本人の翻訳者がやったことは、ロシア人の翻訳者がやっていることと何が違うんですか」(確かそんな感じだったと思う)と言われて、先生、切れる。
「もし、この部分が間違いだったとしても、それは内容を変えてしまうようなものじゃないでしょ? ロシア人翻訳者がやっていることは、明らかな裏切り行為。一緒にしないで欲しい」(確かこんな感じだったと思う)
「間違ってしまった」というのと、原文にないことを自分の好きなように付け加える確信犯と、一緒にしてはいけないと思うのです。

同じレベルで考えるのがバカらしいほど、この二つの翻訳は違っています。
レベルとか完成度とか、そうゆう問題ではありません。
「姿勢」の問題です。
翻訳をするとき、作者の伝えたいことを伝えるのか、自分の感じたことを伝えるのか、どちらがあるべき姿なのでしょうか?
もちろん、前者でしょう。

比較する対象も悪かったかもしれません。
村上春樹とチェーホフですから。
しかも、チェーホフは戯曲なので、勝手が違うし。
でも、神西さんが現代文学を訳したとしても、原文に書いてあることに自分の解釈を付け加えたりすることは絶対にないと思います。

私も翻訳をやる人間の端くれとして、自分のスタイルには自信を持っています。
私が翻訳をするときは原文を徹底的に読んで、できる限り原文に近い訳を選びます。
そして、原文から受ける印象と翻訳文から受ける印象が一致するように、周りの人に聞いて回ります。
そうやって行くと、だんだん言葉の迷路にはまり込むんですよ。
どうがんばっても、同じ意味にはならないんです。
だからと言って、妥協するわけにも行かない。
以前、翻訳をやっていて、一つの言葉をどう訳すかで、一ヶ月以上悩んだこともあります。
そんな仕事です、翻訳は。

翻訳された言葉で完成度が高くなければ、意味がないのも確か。
いくら原文に忠実でも、読む人に伝わらなければ意味はないですね。
微妙なんですよ。
原文にも忠実で、訳語もきれいに、というところには、なかなか着地できません。

ロシア語できれいだと読んでいるほうも読みやすいとは思うんですよ。
でも、それじゃあ、ロシア文学読んでるのとかわらないでしょう。
外国文学って、それなりのテイストがあると思うんですよね。
日本文学であることを意識して訳す必要、あると思います。

学生にわかってもらいたかったけど、私の詰めが甘かった。
学生達も「ロシア人がダメで、日本人がいい」という身びいきの発言だと捉えたのかもしれません。
日本人でもダメな翻訳者はいるんですけどね・・・
私が伝えたかったのは、翻訳をするときの心得のようなもの。
伝わった人と伝わらなかった人がいたようです。
悲しいですね・・・最後の授業だったから、もうちょっといい授業をするべきだったのに・・・

学生の前で激高するのは、よくないですね。
もうちょっと冷静にならないと・・・

久しぶりに翻訳やろう!
でも、正直怖いんですよ。
やり始めると、異常な緊張感と集中力が必要とされるので、精神的にかなりのエネルギーを消費するのです。
この苦しみをどういたそうか、のう。
あ〜!!! やるぞ! 学生には負けられん!

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2008年04月23日

c050730f.JPG今日は暖かくて、素晴らしい天気でした。
久しぶりに空を見たなあ。
春ですねえ。

今日はくたくた。
いつものことですが、今日は何時にも増してひどいです。
もう少しで夏休みだと自分に言い聞かせながら、自分にむちを打っています。

今日は授業の後で、郵便局へ荷物をとりに行きました。
前にもちょっと書きましたが、今度、ロシア語に翻訳された日本の文学作品をチェックする仕事をするのです。
今回で2度目です。

本は加賀乙彦の「高山右近」です。
歴史ものですね。
正直、歴史ものは全く読まないのですが、今回ばかりは仕事なので、読むことになります。
でも、帰りの地下鉄の中で読んでみると、これが結構おもしろくて。
でも、これ、ロシア語に訳すのは大変だろうなあ。
翻訳者の方に同情します。

僕、本が好きなんですよ、意外と。
高校生ぐらいまでは全く読まなかったんですけどね。
小・中学生のときの読書感想文が何より嫌いで。
夏休みの宿題でどうしても出さなければならなかったときは、「世界の国旗」とか「けんだま入門」などを読んで、感想文を書いてました。
例えば「この国の国旗はとてもきれいだ」とか、「けんだまでこの技をするのはとても難しいとか」

それが、突然、本を読むようになって。
音楽高校のときに、音楽をやる人間はあらゆる芸術に精通していなければならない、と考えるようになったんです。
それって、ある日本人の有名指揮者が海外でオペラを振った時、「あの指揮者は音楽的才能は素晴らしいが、オペラの内容を理解していない。文学的センスはなさそうだ」と批評されていたのを見て、「こりゃ、いかん」と思ったからなんですけど。

読み始めたら、面白くって。
一番最初に読んだのが、井伏鱒二の「黒い雨」。
あれは衝撃だったなあ。
引き込まれるように夢中になってました。
次が太宰治の「人間失格」
いろんな意味で影響、受けてますね。
考え方とか。

それから「どうせ読むなら、でっかいの読まないとダメだ!」と思い、トルストイのアンナ・カレーニナ(新潮文庫の3巻本)を読んだんです。
それにはまって、その後「戦争と平和」「復活」などを読み、他の大作ではロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などを読みました。

僕が某音楽大学の音楽学学科に入学したとき。
新入生歓迎コンパで、教授の先生から「君は文学部に入ったほうがよかったんじゃないの?」と言われたんですよね。
音楽と文学の関係を研究したいです、とか何とか言ったんですよね。

僕の好きな作家は、太宰治、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋の4人。
この中でも一番好きなのは、福永武彦です。
今ではあまりメジャーじゃないのかもしれませんけど。
福永武彦については、また改めて詳しく書いてみたいです。

本当は太宰についてとかも書いてみたいんですけど、書けるほど読んでないんですよね。
時間もないし、本もないし。
日本から本を送ってもらうことはあるんですが、重いのでなかなか。

今日は疲れているので、この辺で。
明日は授業4コマ、劇の練習。
ああ、楽だなあ・・・

akiravich at 05:06コメント(0)トラックバック(0) 
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