日本語教育

2014年03月23日

ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

本当に久しぶりです。
ブログが書けなかった理由は簡単。
超いそがしかったのです!!!

その理由は二つ。
一つはうちの大学で学会があり、そこで発表しないといけなかったのです。
もう一つは火曜日から日本から視察に来る方たちの通訳をするのです。

学会はきつかったです。
私は教育者なので、研究者というわけではないんです。
でも、大学で働いている以上、研究のようなこともしないといけないわけで。
この2週間は寝る時間を削っていろんなことを調べまくりました。
発表の内容は学者の方から見れば、全然甘い内容だったと思いますが、一応形になってよかったです。

そして、通訳の仕事。
今回はウクライナにも行きます。
あのウクライナへ・・・
行き先はキエフとチェルノブイリです。
この話はまた改めて。


今日は簡単に近況報告。
難しい内容のことを書くエネルギーがないので・・・

学会があろうが、通訳の仕事があろうが、日本語教師の仕事が減るわけではありません。
いつものように忙しい毎日。
特に土日は朝から晩まで教えっぱなし。
明日も朝の9時からだなあ・・・
授業が終わる19時には疲労困憊なのです。

3月8日は国際婦人デーでした。
ベラルーシでは国の祝日でお休みになります。
その前日、龍二くんの幼稚園でお遊戯会がありました。
いつも優しくしてくれるお母さんたちにありがとうの気持ちを伝えるというのがコンセプトです。

IMG_0268おっ、龍二くんがみんなと一緒に動いてる!
これまでのお遊戯会ではことごとく団体行動ができていませんでしたから、これはすごいことですよ!
みんなかわいいなあ。
それにしても長いなあ。
子供に30分以上もいろいろさせるのには無理がありますよ。

3月8日は土曜日で、お休みだったわけですが、私は授業。
ベラルーシでは休みはきっちり休むのが普通。
国際婦人デーに働くというのは正気の沙汰ではないのです。
でも、学生たちに「勉強したいですか?」と聞くと、「もちろん!」「当たり前です!」
俺もちょっとは休みたいんだけどなあ・・・
でも、学生がやる気があるのはいいことです!!!

ただ、時間をずらして、すべての授業が終わる時間を15時30分に設定しました。
それからバスでベロニカちゃんの実家があるヴェスニャンカへ。
それはベロニカちゃんのお母さんと妹の家族と一緒にシャシュリクをする約束だったのです!!!

シャシュリクと聞いても、日本ではピンと来ないかもしれません。
これはですね、名前を聞いただけでテンションが上がる料理ですよ。

IMG_0280これです!!!
炭火で肉を焼くんです。
「バーベキュー」と言われてしまうんですが、これはシャシュリクというまた別の料理です。
マリネをして肉を焼くんですが、サイズが結構大きいんです。
焼き鳥の肉よりは5倍ぐらい大きいんじゃないかな。
だから、表面だけ焦げて、中は生、なんてことになりやすい。
そうならないように、水をかけながら焼くんです。
これが楽しい。

IMG_0281これは鶏肉バージョン。
最初のは豚肉です。
シャシュリクは旧ソ連圏ではポピュラーなアウトドアメニュー。
これは食べてみないとわからないですよ。

すでに味がついているからおいしいんですよね。
酢やレモン、マヨネーズなどもマリネに使うからでしょうか。
バーベキューって、肉とか野菜をそのまま焼いて、それを焼き肉のたれとかにつけるイメージがありますよね。
でも、たれの味ばっかりがたってしまって、肉自体は大したことがないこと多いように思うのです。
でも、このシャシュリクは・・・おいしいんですよ!!!

なぜか今回は豚肉、鶏肉、羊肉のフルコース。
羊はかなり硬かったけど、味はよかったなあ。
ウズベキスタンでは羊ばっかりだったけど、おいしかったもんなあ。

IMG_0276IMG_0277IMG_0270龍二くんも外で食べるご飯は楽しかったみたいで、すごくはしゃいでました。
こうやって、家族みんなで(←ベロニカちゃんの家族も含めて)食べることってなかなかないもんなあ。
私も楽しかったです。











































そして、次の日。
日曜日も私はがっつり授業。

普通に授業をしていたのですが、一コマ目の後に異常が。
授業が終わり、帰ろうとしていた学生たちが入り口近くの暖房のところで、猫があたたまっているのをみました。
私が借りているスペースはオフィス用のスペースなので、猫に住み着かれては困ります。
そのときは猫になれている学生がうまく外に連れて行ってくれたのです。

しかし。
先週の日曜日、いつものように朝の8時30分に教室のある建物に行くと、ドアの前に見慣れた猫が!!!
ドアを開けると、なかに滑り込んで、二階まで上がり込んできて。
挙句の果てには、教室に入ってきて、座布団を占領する始末。
うーん、困った。

授業が始まった時、学生たちが猫を何とか連れ出してくれたからよかったんですが、トイレに行こうと思って、廊下に出ると、そこで待っているんですよ。
あるはずのない良心が痛む・・・

次の授業でも猫は外に出ず。
最後の授業でもやっぱりに教室内に入ってきました。

IMG_0288ちゃっかり座布団に座ってるし。

IMG_0292何か溶け込んじゃってるし。


学生たちは口々に「先生、これは野良猫じゃなくて、ちゃんとしたうちの猫だと思います」と言ってきました。
「野良猫にしてはよく面倒を見られている」と言うのです。
首輪こそありませんが、行動は粗暴なところが一切ありません。
毛並みもいいように思います。

明日、っていうかもう今日ですが、猫はいるのでしょうか?
気になっている自分がいます・・・

なぜか春になると、猫が私によって来るんですよ。
誰も寄ってこないのもいやですが、猫ですもんね・・・

こんな感じです。
また近況報告します!!!

akiravich at 06:19コメント(3)トラックバック(0) 

2013年12月09日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

ここ最近、かたいお話が続いていますが、もう少しお付き合いください。
相当長い記事になるので、覚悟してお読みください。

前回は「みんなの日本語」という教科書の副読本「翻訳・文法解説」という本についての自分の考えを書かせていただきました。
まあ、本についてというよりは、本をだしにして、自分の日本語教育におけるスタンスを表明したというほうが近いかもしれません。

1.直接法か間接法か・・・日本語で話していればいいかしら?
話の流れ的に触れなければならないテーマがあります。
それは直接法か間接法かという話です。

日本語教育の専門家でない人のために簡単に説明すると・・・
直接法・・・日本だけを使って日本語を教える方法。基本的には文法説明なども全て日本語で行う。
間接法・・・学生の母国語や教室にいる多くの学生が理解できる言語を使用しながら授業を行う方法。

「日本語だけで説明ってできるの?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
プロの日本語教師の方の多くは直接法のやり方を学んでいます。
絵やジェスチャーなどを使って、日本語のみで巧みに説明していくのです。

日本語だけで授業を組み立てるのが直接法。
そんなことを言っていると、「ただしゃべるだけでいいんでしょ?」なんて誤解をする方がいらっしゃいます(←実はこういう人は非常に多い)。

実際、私も日本人の人から「日本語を教えたいんだけど、大学に紹介してよ」と言われたことがあります。
その人は日本語教育の勉強など一切したことがありません。
はぐれミーシャ「でも、日本語教育の勉強をなさったことがありませんよね?」
その人「だって、日本語で話していればいいんでしょ?」

まあ、話になりません。
私としては自分が誇りを持ってやっている仕事を侮辱されたようにしか感じませんでした。
確かに、日本語で話すだけでいいのなら、日本人であれば誰でも日本語教師になれます。
しかし、そんなに簡単なものではありません。
この話はまたいつか書きたいと思います。
どんどん脱線しそうなので。

最初に言っておきますと、私は完全に間接法で教えています。
授業でもロシア語をガンガン使います。

私が日本で日本語教師の勉強をしたのは90年代後半なのですが、直接法じゃない日本語教師はダメという風潮があったように思います。
教師になるための教科書は直接法で教えることを前提で書かれていることが多かったです。

かなり前のことですが、某国家機関の偉い先生と某国家機関の方が私の授業に来たことがあります。
私は「直接法でやらないとまずいかな」と思いつつも、いつものようにロシア語も使いながら授業をしました。
授業後、その先生と二人で話したとき、「いろいろ工夫をされているようですが、直接法じゃないですからね・・・」とあからさまに批判されました。
「直接法じゃないからダメ」というだけで、何の根拠も示されることはありませんでした。

もう一人の方も「ロシア語を使いすぎなんじゃないでしょうか?」と言ってきました。
素人の方から見れば、日本語だけで授業を組み立てているほうがすごいように見えるのでしょう。

今考えたら、そのときキチッと反論しておくべきだったと思います。
その当時は教師としての経験も浅かったですし、今ほどの確信もなかったこともあります。
でも、「直接法じゃないからダメ」という言い方には強い反発を覚えました。
直接法のメリットは理解しつつも、直接法があたかも絶対的な唯一の教授法であるというような言い方には強い反発を覚えます。

今現在も「直接法信仰」が強いのかと思ったら、そういうわけでもないようです。
ある日本語教師から「最近はそうでもないですよ」と聞いたこともありますし、この記事を書くにあたりインターネットで直接法と間接法に関する文章を読んでみると、いろいろな論調があるようです。


2.直接法のメリットはデメリット隠し?
しかし、いまだに日本国内における外国人向けの日本語教育の世界では直接法が主流。
直接法が礼賛される理由はいくつかあります。
1.学生が日本語に触れる時間が長くなる
2.教室にいる学生が多国籍の場合、共通の言語で説明することができない

1番の理由は私から見れば、正直、ばかげています。
日本語に触れる時間が長くなると言っても、授業時間はせいぜい1時間から1時間半。
私は間接法を使いますが、それでものべつ幕なしにロシア語を話しているわけではありません。
文法や語彙の説明はロシア語でチャッチャッとやって、あとは全部日本語で話すというのが私のスタイル。
その方が日本語で話す時間が長く取れると考えています。

少しでも長く日本語に触れる時間を作るというのは直接法か間接法かに関わりなく、日本語教師がしなければならないことだとは思います。
しかし、直接法のやり方で絵を使ったりして説明に時間を費やすよりは、説明はスピーディーに終わらせて、あとは日本語を「体験させる」ことのほうが私はいいと思っています。
授業中に教師がどれだけ長い時間日本語を使っているかは問題ではありません。

そもそも、日本語でたくさん話していれば、それを聞いている学生は日本語が上手になるという発想があまりにも短絡的です。
学生の中には「日本へ行けば日本語が上手になる」と思っている子が非常に多いです。
「周りが日本語の環境に身をおけば上手になるはず」という他力本願な発想(←私は学生たちにはそういう考えは捨てるように勧めています)。
そういう学生たちの発想と直接法のメリットと言われているものはどちらも「日本語をたくさん話せば上手になる」という非常に単純な発想に基づいているように感じます。
言語習得のプロセスがそんなに単純でないことは知識や良識を持つ専門家の方であれば、説明する必要もないことです。

ある現地人教師が高学年の試験後、学生たちに向かってロシア語で、「あなたたちの日本語の会話レベルが低いのは仕方がないと思います。日本へ行ったことがないんだから」と言いました。
私は学生たちに「日本へ行ったことがないから日本語の会話ができないというのはただの言い訳だ」と教えています。
そして、「どこで勉強するかは重要ではない。どのように勉強するかが重要だ」と言います(←私が尊敬するロシア語の先生に言われた言葉です)

もちろん、ロシア語でばかり授業をやるというのは論外です。
実際、ロシア語圏のある特定の地域ではそういうタイプの授業は非常に多いと聞いています。
ベラルーシも然り。
訳読法と呼ばれるスタイルがあります。
学生にテキストを読ませて、それを翻訳させるだけのスタイルです。
その手の授業だと、学生はうちでテキストを読んできます。
そして、授業ではそれをロシア語に翻訳する、それを聞いた教師がこのロシア語の言い方のほうがいいだろうと訂正する。
結果、授業中に話している言葉はほとんどロシア語になってしまいます。
「翻訳の授業」としてやるのならまだいいですが、「日本語の授業」としては問題があるでしょう。

2番目の理由「教室にいる学生が多国籍の場合、共通の言語で説明することができない」のほうが理由としては大きいのではないでしょうか。
いろんな国の人が同じクラスにいたら、全員が英語を理解するかどうかはわかりませんし、英語が全員通じたとしても、その理解度は人によってまちまちのはずです。

例えば、その教室の学生が一つの国の人間(または同じ母国語を持つ人間)で統一されていたとしても、文法の説明をその学生たちの母国語で説明するのにはかなりの語学力が必要になります(←まあ、直接法の先生なら、その国の言葉を知っていたとしても、日本語だけで授業をやるのでしょうが)。
ましてや、働いている国や教える相手がしょっちゅう変わる日本語教師であれば、いちいち学生の母国語のエキスパートになることは非常に難しいことでしょう。

しかし、自分の学生たちの母国語は知っているに越したことはありません。
文法説明もしやすくなりますし、言葉の説明においても、よりきめ細やかな対応ができます。
そして、教室内外で学生たちとのコミュニケーションがとりやすくなります。

直接法で教えることが「共通の言語がないから」という消極的な理由で選択されているとしたら、それはどうなのでしょう?
もちろん、そういう意味ではなく、より建設的に直接法を選び利用している人もたくさんおられると思います。
しかし、学生と共通の言語がないということのマイナス面を考慮せずに、直接法がさも絶対的にいい方法であるかのように言う教師や専門家がいることには腹が立ちます。
直接法が絶対であるかのように話している教師の心の中に、その学生の言葉がわからないことの「引け目」がないと言い切れるでしょうか?


3.間接法とは言っても、訳をあたえるだけではない!!!
あるサイトでこんなのを見つけました。
直接法寄りの内容のサイトです(←少しだけ単語を変えてあります)。
例えば、「犬はdogですよ。わかりましたか?」
このような雑な導入には問題があります。


誰がこんな導入するの!? するはずないでしょ!!!

訳を与えるだけでいいなら、こんなに簡単なことはないでしょう。
間接法というと、こんな教え方を想像する人が多いのかもしれませんが、ここまで雑なことをすることは私はありません。

残念なことに、ベラルーシの現地人教師はこのタイプ、つまり訳を与えただけで単語の導入としてしまっていることが多いです。
単語をたくさん覚えれば、日本語が上手になると思い込んでいる人は学生の中にも多いです。
なので、私は学習を始める最初の段階で、単語の訳を覚えるだけの勉強はするなと教えています。

単語の導入にはいろいろなやり方があると思います。
初級の簡単な単語の場合、私は実際に物を使ったり、ジェスチャーを使ったりすることが多いです。

例えば・・・
「犬」という単語が出てきたら、そこでロシア語の訳を言うのではなく、「ワンワン」と犬のまねをしてみせます。
まさか教師が声帯模写などするとは学生も思っていませんし、私のことをちょっと強面の教師だと思っている学生はみんなびっくりします。
そうすると、忘れないわけですね。
訳だけでなく、そこに「思い出」が残るわけですから。
本当にちょっとしたことだけで、受ける印象が変わってくるのです。

何でもジェスチャーでやろうとすると、表現しきれないことがあります。
例えば、「なす」という言葉が出てきたとき。
私が一生懸命、手を使ってなすを表現しようとしていると、学生が「壺ですか?」「こん棒ですか?」。
それに対して、「『баклажан(なす)』だよ!」とアンジャッシュの児嶋っぽくキレてみせる。
学生はみんな笑って、その言葉をメモします。
そういう簡単な場面を作る(←アクセントをつける)ことで、ただ訳を与えるだけの説明とは違ってきます。

もちろん、その後、「なすが好きですか?」となすについての話を続けます。
そうやって、言葉を「定着」させようとするわけです。
「なす=баклажан(ロシア語訳)」という意識をできるだけなくすというのが目的です。

私にとって、訳はその言葉への「入口」に過ぎません。
というか、ある単語や文を理解するためのツールの一つに過ぎません。

その言葉がどんな場面で使われるのかも非常に重要な要素です。
ロシア語の訳も教えますが、日本語の言葉の意味とズレがある場合もかなりありますから、それは必ず説明します。
そして、徹底的に使わせます。
「使う」というのは学生本人が使うだけでなく、私が言うことで学生たちの耳や頭を使わせるという広い意味で「使わせます」。


4.間接法には間接法なりのメリットがある!!!

1.学生の精神的負担を軽くすることができる
教師が意地でも日本語しか話さないとなった場合、特に初心者の学生にとっては精神的なプレッシャーが大きくなるでしょう。
学生から見れば、いざとなったらロシア語で説明してもらえる、ロシア語で言ってもコミュニケーションがとれるというのは精神的に楽だと思います。

しかし、これは諸刃の剣。
学生がロシア語でばっかり話してしまうこともあります。
そうならないように、クラスの雰囲気を持っていくのは教師の技量だと思います。

実はこれは私にとっても難しいことで、どうしてもロシア語で話す時間が長くなってしまうことはあります。
これはまさに「さじ加減」の問題。
例えば、授業中、学生たちが疲れているなあと気づいたら、ロシア語で日本文化について簡単に話しを入れたりします。
軽い脱線は学生たちの疲れを和らげてくれます。
脱線がとまらなくなったりすると大変ですが・・・(←私の授業ではよくありますが、学年が上になってくると脱線も全て日本語になります)

ここまで読んでいただければわかると思いますが、「媒介言語で話すからダメ」というのはナンセンスです。
私には媒介言語が話せない人間が負け惜しみで言っているようにしか聞こえません。
間接法のメリットを無視し、直接法でなければダメという乱暴なことを言う人、今もいるんだろうか・・・
いるとしたら、ちょっと話してみたい気もします。

2.文法の説明を正しく、簡潔にすることができる
これはある程度の語学力を要求されます。
新出語や例文の訳を教えただけでOKなんてことはありませんから。

いろいろ調べてみると、ここの部分は臨機応変に媒介言語を使って説明している教師の方も多いようです。
ちょっと安心しました。

しかし、そうじゃない教師の方もたくさんいるでしょう。
それはそれでいいと思います。
学生がちゃんと理解しているのであれば、方法は何でもいいのです。

文法の説明をロシア語でするのはなかなか大変なことです。
実は私もベラルーシに来た当初は、説明をするのは現地人教師の仕事で、私は会話中心の授業をやっていればいいのだと思っていました。
つまり、現地人教師がロシア語で文法を導入した後で、確認のような形で絵などの視覚的な教材を使って補足し、あとは会話で使う練習をさせればいいのかと思っていたのです。

しかし、現実は全く違っていました。
大学に就職して最初の授業で、私は直接法的な授業を始めたところ、学生たちに「先生はロシア語がわかりますよね? どうしてそんな面倒な説明をしているんですか?」とロシア語で言われたのです。
彼らにしてみれば、日本語でだけ説明するとか、絵を使うとか、そういうものが子供っぽく見えたらしいのです。

私の授業の前に他の教師の授業があったので、私はすでに学生たちが文法を導入されていると思ったのですが、全くそんなことはなくて。
しかも、文法の多くが間違って導入されていました。
例えば、学生が全員「寒いでした」と言ったのには衝撃を受けました。
はぐれミーシャ「それは『寒かったです』が正しいんだよ」
学生「???」「(ロシア語で)その言い方は初めて聞きました」

他の教師たちに聞いたところ、それは学生の間違いではなく、授業でそのように教えたというのです。
要は「日本人が聞いてわかるんだから、いいんじゃないの?」ということ。
教師が正しく導入した上で、学生が間違っているのなら話はわかるのですが、最初のインプットが間違っているのはお話になりません。

そこで、私は「自分が文法を教えなければいけない」ということを悟ったのです。
普通なら、現地人教師が文法を導入し、日本語ネイティブが練習させるという二人三脚方式になるのでしょうが、この国ではそれは通用しない、自分がどちらの役割も負わなければならないということなのです。

私はどうやってロシア語で日本語の文法を教えればいいか、徹底的に勉強しました。
ある意味、当時のベラルーシの状況のおかげで、私は日本語教師としてかなりのことを勉強することになり、得るところは大きかったと思っています。

私がロシア語で文法説明をするときは、いくつか気を付けている点があります。
1.ロシア語の訳を提示するが、その訳が本当に日本語のニュアンスと同じかどうか
2.日本語の文法とそのロシア語訳がそれぞれの言語で使われる頻度はどうか

例えば、「〜につれて」という言い方。
日本語ではよく使いますし、「〜にしたがって」など、似たような表現もかなりあります。
ロシア語では「по мере того как」という訳になるのですが、ほとんど耳にすることはありません。
例えば、「冬が近づくにつれて、寒くなってくる」という文。
もちろん、「по мере того как」と言えなくはないのですが、実際にそう言っているのは聞いたことがありません。
普通は「冬が近づくと寒くなってくる」という言い方になることが多いです。

学生たちには上に書いたような説明をした後で、「ロシア語ではпо мере того какとはあまり言わないと思いますが、日本語では良く使う言い方なんです。だから、使うチャンスがあったら、どんどん使っていきましょう」と言います。
こういうきめ細やかな説明は直接法では不可能な部分です。

何かだんだん脱線してきているような気がします。
話を元に戻しましょう。


5.媒介言語は話せたほうがいいのか?
直接法、間接法うんぬんで議論するのは全く意味がないようにも思います。
二項対立論的な考え方をしても、何にも生まれません。
要は学生が上手になるのであれば、方法はどちらでもいいのです。

私のところには、他の教室などで勉強した学生が「教えてください」と言ってくることが多い(←ある種の駆け込み寺のようなもの)のですが、その中には直接法で教えられた学生も少なくありません。
しかし、そういう学生たち、全然日本語に慣れていないことがあるんです。
私は直接法のメリットは日本語に触れる時間が長く、日本語で話すことに慣れていることだと思っていたのですが、必ずしも結果はそうではないようです。
もちろん、そのような学生の数は絶対的に多いというわけではないので、一概には言えないのでしょうが、直接法が万能ではないということの証明にはなるのではないでしょうか。

そして、そうゆう学生の多くは文法的な間違いが多い。
これは直接法のデメリットというよりは、「流暢さ」を求めてきた日本語教育の問題かと思います。
この点に関してはまた改めて書きたいと思っています。

彼らの多くは私が何か説明すると「わかります」と答えるのが癖になっていることが多いです。
授業で先生の説明がよくわかっていなくても、「わかります」と答えてしまうのです。
私が「わかっているんだったら、説明してみて」と言うと、学生は「説明はちょっと・・・」
私は「ロシア語で説明ができなければわかっていることにはならない」と学生たちには教えています(←これも直接法ではできないやり方)。

あるとき、学生たちに「わかっていないのに、どうして『わかります』って答えるの?」と聞くと、「いつもの癖で・・・」と答えました。
学生「『わからないので説明してください』って言っても、あの先生は説明できないので・・・」
はぐれミーシャ「でも、ちゃんと絵とかを使って説明してくれるでしょ?」
学生「そのときは自分ではわかったような気持ちになるのですが、自分が正確に理解しているのかを知る術がないので、すごく不安になります」
教師の中には学生が「わかりません」と答えると、「何でわからないんだ!?」とキレる教師もいたそうです(←問題外)。
そうなると、学生たちは当然、わかっていなくても「わかります」と言うことが多くなります。

直接法って、学生が理解していることを「期待して」進めていくやり方だと思うんです。
もちろん、間接法だって、学生が100%理解していないことはよくあります。
でも、教師が説明したことを学生が間違って理解したりする可能性は直接法よりは圧倒的に低いと思います。

ベラルーシでは外国語教育は訳読法が普通。
学生たちはその目標言語のテキストを読んで、それをロシア語に訳す、というのがスタンダードな教え方なのです。
もちろん、私はそのやり方がいいとは思っていません。
私は間接法をベースに直接法のいいところをとろうと思っています。

ベラルーシでは訳読法が普通なので、もちろん、外国人教師にもロシア語の知識を求めてくることが多いです。
私がよく耳にするのは、「あの人は教師としてはいいのかもしれないけど、ロシア語がわからないからねえ・・・」という言葉(←これは日本語教師だけの話ではなく、全ての外国人教師についての話なので、お間違えなく)。
このフレーズは大学の教師や職員だけでなく、学生からも聞かれることが多いです。

私個人としては、その意見には賛成できません。
「ロシア語がわからないからダメ」というのは非常に乱暴な言い方だと思います。
教師が「ダメ」なのだとしたら、それは「ロシア語がわからないから」ではなく、「教え方が下手だから」「学生が上手になっていないから」ということだと思います。

それと同時に、ロシア語がわかることによるメリットの大きさは否定できません。
媒介言語はわかるに越したことはないと思うのです。
それは授業のときの説明に便利だというだけでなく、その学生たち、そして、彼らの母国のことを理解するのにも言語は役に立つと思います。


長々と書いてきましたが、ちょっと話がとっちらかった感じになってしまいました。
最初の方に書きましたが、直接法が絶対であると思っている人に全否定されたこと、結構トラウマになっているんですよ。
私が日本で日本語教師の勉強をしていた90年代後半は「直接法信仰」がすごかったのを記憶しています。
ちょっと反論してみたかったんです。

もちろん、直接法を否定しているわけではありません。
でも、直接法が絶対ではないということが誰かに伝わっていればいいかなと思います。

いろいろとサイトを読んでみましたが、間接法のメリットなどが書いてあるサイトもあることに私は安心しました。
しかし、直接法が絶対であるという立ち位置は崩さず、間接法についても言及するというパターンが多いと思いました。
なので、その立ち位置をツンツンとつついてみたかったのです。

あるサイトには「アジアの国では直接法が多く、ヨーロッパでは間接法が多い」と書いてありました。
そうなんですかね?
それって、現地人教師の話じゃなくて?
日本人教師に限ってみれば、直接法のほうが多いんじゃないのかな?
もうちょっと調べてみたいです。

前の数回の記事も日本語教育について書いたのですが、日本語教師の方からコメントが来てうれしかったです。
このブログには日本語の仕事のことも結構書いてきたのですが、実際に現場にいる教師の方からコメントが来ることはほとんどなかったのです。
今回の記事に関しても、教師の方のご意見を寄せていただければありがたいと思います。

akiravich at 20:08コメント(6) 

2013年12月01日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日も前回の続きです。
ベラルーシについてのお話を期待されている方には申し訳なく思います。

前回は日本語の教科書「みんなの日本語」の「翻訳・文法解説」という本について書きました。
この本は英語や中国語など多くの言語で出版されており、ロシア語版もあります。
各課の新出語やその課の文の訳、文法の解説などが書かれている本です。
前回は新出語の提示のし方について書きましたが、今回は文法の解説について書いてみたいと思います。

「みんなの日本語」では、各課に新しい文法が登場します。
例えば、第14課では「て形」を使った表現、「〜てください」「〜ています」という具合です。
「翻訳・文法解説ロシア語版」を見れば、そこにはロシア語で詳しい説明が施されています。

私は学生にはその本を使用することを禁じています。
理由は二つあります。

1.時々、微妙な説明がある
説明の中に間違いがあることがあります。
それは非常に数としては少ないですが、学生が勝手に読んで、それを間違ったまま理解するのは避けたいところです。

そして、説明が非常にわかりにくい部分があります。
それは内容の問題というよりはロシア語での説明の問題です。
言い回しが非常に複雑になっているのは、日本語の文法説明を直訳に近い形でしたからではないかと推察しています。

しかし、この理由はたいした問題ではありません。
「翻訳・文法解説」のロシア語版、なかなかよくできていると思います。
私は日本語だけでなく媒介言語も使用する「間接法」という教授法で教えていますが、時々、参考のために授業の前に読むことがあります。
一年に一回ぐらいですが。

2.学生が教師の説明を聞かなくなる
これが一番の問題です。
私が文法の説明をロシア語でしているとき、この「翻訳・文法解説」を持っている学生は心のどこかで「ちょっとわからないけど、うちで『文法解説』を読めばいいや」と思っていることが多いのです。

意識的にそう考えている学生もいます。
例えば、文法の説明が終わったとき「ちょっとわかりにくかったんで、うちに帰って『文法解説』を読みます」と言ってきた学生がいました。
これは私の力不足・・・と言いたいところですが、その学生は私が説明している間、携帯電話をいじったり、他の生徒に話しかけたりして、明らかに集中力を欠いていました。

「文法解説」を頼りにしている学生は集中力が落ちてしまいます。
私も教師の勘で「この学生は怪しい」と思うことがあるのですが、そのときはわざと「この前勉強した文法をロシア語で説明してみてください」と頼みます。
そうすると、私が説明したのと違う説明が出てくることがあります。
「どこでそんな説明を聞いたの?」と聞くと、「文法解説に書いてあって・・・」

こんなことを書いていますが、私の教室ではこういうケースは今は非常に稀です。
かなり厳しく使用を禁止していますから。
ただ禁止するのではなく、上に書いたような理由を詳しく説明して、学生には納得してもらっている(と思います)。

同じような理由で、私はICレコーダーの使用も禁止しています。
うちの大学の教師が「私が話すことは私の『財産』である」という理由で録音を禁止していましたが、私の理由は全く違います。
ICレコーダーに録音していると、心のどこかで「聞き逃したけど、また聞けばいいや」という意識が働き、集中力を欠く場合が多いのです。

それを言えば、私は旅行などをした際、写真を撮るのがあまり好きではありません。
きれいなところに行って、すぐにカメラを構える人がいますよね?
でも、その前に自分の目で見ないとダメだと思うのですよ。
その時、その場所にいることを「一期一会」だと思い、心から楽しむこと。
後からもう一度見ようなんてことを言えば、心のレンズが曇ります。
これって、茨木のり子さんの詩にあったよなあ。

私のカメラ

 眼
 それはレンズ

 まばたき
 それは わたしの シャッター

 髪でかこまれた
 小さな 小さな 暗室もあって

 だから わたし
 カメラなんかぶらさげない

 ごぞんじ? わたしのなかに
 あなたのフィルムが沢山しまってあるのを

 木洩れ陽のしたで笑うあなた
 波を切る栗色の眩しいからだ

 煙草に火をつける 子供のように眠る
 蘭の花のように匂う 森ではライオンになったっけ
 
 世界にたったひとつ だあれも知らない
 わたしのフィルム・ライブラリイ



日本人教師の中にはその「翻訳・文法解説」を配って、文法の説明とする人がいます。
ベラルーシで話されている言語はロシア語。
ロシア語を習得してベラルーシに来る教師の方というのはあまりいませんし、それに日本語だけで説明する「直説法」が日本語教育界では主流ですから、文法解説は「翻訳・文法解説」に任せるということなのでしょうか。

私は文法の説明は全てロシア語でやっています。
その方が正確に伝わりますし、日本語で絵などを使って説明することにエネルギーを使うよりはドリル的な練習や自由な会話に時間を使ったほうが効率的だからです(←この直接法か間接法かという話は次回書きます)。

ある日、ある学生から、突然こんなことを言われました。
学生「あの先生(←ベラルーシ人)の文法の説明は全く意味がありません」
はぐれミーシャ「どういうことですか?」
学生「あの先生は『翻訳・文法解説』に書いていることをそのまま読んでいるからです。あれだったら、うちで自分で読んだほうがましです」

他の教師について学生と批判めいた話をするのはご法度。
なので、そこは学生に「つまり、あなたは『翻訳・文法解説』を持っているんですね? あれを読むんじゃなくて、先生の説明を聞いたほうがいいと思うよ」と説きました。

しかし。
教師がそういう本をそのまま読むだけの授業をするというのはいかがなものか、と。
その学生の話では「翻訳・文法解説」の本を授業に持ってきて、学生たちの前で読んでいたこともあったそうで。
本に書いてあることを読むだけで先生になれるのなら、誰でも先生になれちゃいますよ。

ここまで話が来ると、直接法・間接法の話に触れないわけにはいきません。
私にとってはかなり重要なテーマ。
これまでも書きたかったのですが、かなりの分量になりそうだし、話をまとめるのが難しそうだったので、ちょっと避けてきたテーマです。
書きます!!!

akiravich at 00:03コメント(6)トラックバック(0) 

2013年11月30日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日は前回の続きです。
まあ、内容的にはあまり続いていないのですが・・・

みなさん、「優しさ」って何だと思いますか?
本当の「親切」ってどんなものだと思いますか?


「何を突然?」と思った方も多いかと思います。
「優しさ」という言葉。
私にとっては人生でとても重要な意味を持つ言葉です。

何が本当の「優しさ」なのか?
これは私にとっては永遠のテーマです。

今の日本や日本人を見ていると、表面的な「優しさ」に包まれて、本質を見失っている部分があるのではないかとよく感じます。
「優しさ」を「甘さ」「甘え」と取り違えているような気がします。

この「優しさ」という言葉についてはまたいずれ詳しく書いてみたいと思っています。

さて、日本語の話です。

昨日も書きましたが、私が使っている教科書は「みんなの日本語」という教科書です。
非常にいい教科書だと思います(←ビデオを除いては)。

この教科書の副教材の中に「翻訳・文法解説」という本があります。
この本はいろんな言語で出版されています。
英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、インドネシア語、タイ語、中国語、韓国語、そしてロシア語です。

「みんなの日本語」に対応していて、各課に対して同じような構成になっています。
内容は・・・
1.各課に出てくる新出語の訳
2.文型、例文、会話の文の訳
3.補足的な語彙など
4.その課の文法解説

ここまで見ると、「なんて便利な本なんだろう!」とか「学習者のことを考えてる」なんて、思われた方がいらっしゃるかもしれません。
確かに、これは便利ですし、私も参考にすることがあります。

しかし!!!
私は学生たちにはこの本を使用することを固く禁じています。
この本、ベラルーシではインターネット上で見つけることができるのですが、学生たちにはダウンロードを禁じています。
それには私の経験に裏打ちされた理由があります。

まず、新出語の訳に関してです。
これは学生たちにとっては便利なものです。
その課に新しく出てくる日本語の単語の訳が書いてあるわけですから。

しかし、これって「親切」なんでしょうか?


そりゃあ、学生たちにとっては便利でしょうよ。
自分で辞書を引かなくても、そこに自国語で訳がついているんですから。

でも、それって「親切」なんでしょうか?
自分で辞書を引いて調べた言葉のほうがよっぽど価値があると思うのは私だけでしょうか?

私は「辞書を引くこと」も「勉強」という行為を構成する重要な要素であると思っています。
自分の手で辞書を引くことこそ勉強なのではないでしょうか?

私がロシア語を習っていたとき、「文法の鬼」と呼ばれる厳しい先生がいました。
その先生はよく「君たちの辞書はきれいダネ。全然使っていないからダネ」と皮肉っぽい笑みを浮かべながら言っていました。
手垢で汚れ、ページがよれよれになった辞書こそ、勉強してきた証。
語学屋にとって汚れた辞書は勲章なのです。

これって、ちょっと根性論に近いですよね。
私の考え、古いでしょうか?

学生たちには私のクラスに入ってくる時点で、翻訳・文法解説は絶対に使うなと念を押します。
最近も学生たちに言いましたが、数人の学生が「便利なのになんで?」という感じでピンと来ない顔をしていたので、私は言いました。

例えば、君たちが高い山に行ったとする。
自分の足で歩いて頂上まで登りつめるのと、ヘリコプターで簡単に頂上に着くのと、どちらが価値があると思う?


この比喩で全員、納得です。

「翻訳・文法解説」の単語集、暗記しようとする学生が多いです。
それも大きい弊害の一つ。
丸暗記で頭に詰め込んだ言葉ほど忘れやすいものです(←受験勉強で経験している方も多いのではないでしょうか?)

言葉の説明というのは非常に難しいものです。
「犬は英語でdogですよ」なんて、単語の意味を訳で与えるだけで済むのなら、こんなに楽なことはありません。
しかし、それでは説明したことにはなりません。
ましてや単語集を渡して、「じゃあ、これを暗記してください」なんて何の意味もありません。

私が重要視しているのは「インパクト」と「リアリティ」です。
「インパクト」というのは、新出語を学生が初めて目にしたり、耳にしたりしたときのシチュエーションやコンテキストを重視するという意味です。
例えば、特別なシチュエーションで特別な人から聞いた言葉はずっと忘れないですよね?
実際の場面でもいいし、好きなドラマの中の出来事でもいいと思うのです。

例えば、学生が恋愛ドラマを見ていたとします。
そこで、愛し合っている二人が愛し合っているがゆえに「別れよう」となった場合。
そこで「別れる」という言葉を聞くのと、紙に書いてある訳「別れる=расстаться」を見るのと、どちらが心に残るでしょうか?
シチュエーションやコンテキストから切り離された言葉は死んだ言葉も同然です。
訳だけ覚えても、何にも楽しくないですから。

新出語が出た場合、訳を伝えて終わり、というやり方は私はしません。
何かその言葉に関係がある自分の思い出を話したり、ジェスチャーを使って、一人で小芝居をしたりします(←小芝居は自分でやっていても楽しい)。
そこでみんなで笑えば、心に残る「思い出」になります。
新しい言葉を説明するときは、そういう「体験」をしてもらうことが重要だと私は考えています。

もう一つの「リアリティ」。
例えば、「みんなの日本語」の第13課に「市役所」「外国人登録」という言葉が出てきます。
しかし、外国に住んでいる学生にとっては何のリアリティもありません。
そんな言葉は日本へ行ってから覚えればいいのです。

もちろん、これは「みんなの日本語」の罪ではありません。
元々、日本に在住している外国人をターゲットにしている教科書なのでしょうから。
日本にいる外国人にとっては「市役所」も「外国人登録」も非常にリアリティのある言葉でしょう。

そこで、それぞれの国の人にとっての「リアリティ」を勉強の中に取り入れていくことが大事だと思います。
それは国別の事情や国民性、学生の年齢などを考慮した上になります。

例えば、若い世代にとっては「市役所」「外国人登録」よりも「恋人」とか「つきあう」という言葉のほうが身近なわけです。
自分にとって身近かどうかは重要なファクターです。
身近なものの方が頭にも心にもスッと入ってきやすいものです。

そこで単語集の話。
羅列された単語とその訳には何のインパクトもリアリティもありません。
そこにあるのは、何らかの情報を伝える文字の羅列にすぎません。

そもそも、元々の言葉とその訳が意味的に一致していると考えること自体が間違いです。
例えば、「つきあう」(←男女交際として)という言葉。
ロシア語の辞書を見ると「общаться」という言葉が真っ先に出てきますが、これは「つきあいがある」という程度の意味で、「男女がつきあっている」という意味にはなりません。
実際に男女交際の意味で使われるのは「встречаться」という言葉なのですが、これは直訳すると「会う」。
例えば、ベラルーシ人が「彼と会っています」というと恋人としてなのか、友達としてなのかはわからないことがあります(←たいていは恋人として、ですが)。

こんなこともありました。
ある男子学生が「私は彼女と交際しています」と言いました(←ここでの「彼女」はある日本人留学生を指していました)。
ちょっと古めかしい言い方ではありますが、まあ、恋人関係なんだろうな・・・と思ったのは一瞬だけ。
あの日本人の女の子がこんなしっかりしないベラルーシ人学生を相手にするわけがない、と。
ちょっと考えたら、彼が言わんとしていた意味がわかりました。

その学生は日本語のレベルはかなり低く、頭の中でロシア語から日本語に訳しながら話しているので、不自然な日本語になることが多かったのです。
彼が言いたかったのは「私はその女の子と付き合いがあります」という程度のもの。

ロシア語から直訳したために起こってしまった間違いです。
まず、「彼女」。
英語で言うところのsheですが、それを「彼女」と言ってしまうことは日本語ではあまりありません。
大体、名前で呼ぶことが多いと思います。
「彼女」という言葉を文字通り「彼女(she)」ととららえるか「恋人」「ガールフレンド」ととらえるかは文脈によるところが大きいと思います。
でも、ロシア語では一度文脈に登場した人は全て人称代名詞で言うんです。
そして、学生の中に「女の子」というロシア語の言葉の訳が「彼女」であると間違って覚えている人が多いのです。

もう一つ問題なのは「交際する」
その学生はロシア語のобщатьсяを直訳したのです。
辞書でその意味を見ると「交際する」「付き合う」と出ています。
特に具体的な文脈がないところで日本語で「交際しています」と言われれば、「彼と彼女の関係」ととらえられてしまうのは普通のこと。
しかし、ロシア語にはそのような意味がほとんどありません。
うちの奥さんに聞いても、「その前に具体的な文脈があったら、『彼と彼女の関係』と考えられなくもないけど、普通はただ『付き合いがある』という意味」。
私はこのобщатьсяという動詞を「恋人のような関係」という意味で使われているのを聞いたことはありません。
かなり遠まわしな言い方であれば、ありえますが・・・

あと、日本語の場合は状況への依存性が強いという性格があります。
その言葉が書き言葉なのか会話の言葉なのか、文学で使われる言葉なのかなど、どのような状況で使われるのかが非常に重要な意味を持っています。
例えば、学生が「火災」という言葉を聞いたとします。
そこで、学生が「昨日、近所で火災がありました」と言うと、何か普通の会話とニュースが混ざったような感じがします。
私は新しい語彙が出てきたときに、どんな状況や文脈で使われる言葉なのかを必ず説明します。

長々と書きましたが、これが単語を覚えることの危険性の話です。
訳だけを覚えるのは意味がないし、そこで単語集を渡すだけというのも意味がないのです。
単語集を渡した教師はそこで安心するし、学生たちは単語の訳を覚えてわかったつもりになり安心します。
そもそも、ロシア語がわからない教師はそこに書かれている訳語が正しいかどうかも調べられないし、それを学生たちがどう受け取っているかを推測することもできません(←私はロシア語ネイティブがどのようにそのロシア語の訳語をとらえるかを考えた上で説明していきます)。

単語の訳を暗記しただけでは、わかったことにはなりません。
それは死んでいる語彙を増やしているだけです。
語学の教育で重要な・・・
1.聞く
2.読む
3.話す
4.書く
この4つが全てできて、初めてその単語を理解したことになると私は考えています。

この「翻訳・文法解説」は二つの経路で学生の手にわたることがあります。
1.教師が配布する
2.学生がインターネット上でダウンロードする

2番のように、学生が勝手に見つけてしまった場合は「使わないように」と念を押すしかありません。
それでも、使っている学生がいますが、誰が使っているかは観察していれば結構わかります。

問題なのは1番の場合。
時々、そういう教師がいます。
そのほうが一つ一つの単語を自分で説明する手間をはぶけるし、そもそもロシア語で説明できないし。
そりゃあ、楽かもしれないけど、そのせいで間違いを引き起こすことはあるということを認識するべきだと思います。

最近の日本語教材には英語と中国語と韓国語でいちいち訳が付いている本が結構あります。
それさえなければ、ページ数も減って、本の値段も下がるだろうにと思うような本もあります。

でも、これって「優しい」んでしょうか?
学生が日本語のニュアンスを無視して、外国語を通して日本語の言葉を理解することで引き起こす間違いを無視していませんか?
そして、学生たちが汗水たらして、自分で辞書を引く機会を奪うことになっていませんか?

この話、次回も続けます。

akiravich at 18:47コメント(0)トラックバック(0) 

2013年11月29日

おはようございます。
はぐれミーシャです。

今、朝の5時30分。
昨日は珍しく早く寝たのですが、そのせいで2時半に目が覚めてしまい、その後、本を読み始めたらとまらなくなりました。
結局、最後まで読み通し、今は完全に目が覚めてしまった状態です。

読んでいたのはこれ。
ドラマ「半沢直樹」の原作本。
ドラマとはかなり違う部分がありますが、おもしろかったです!
正直、ドラマを見るのが先でよかったなあと思いました。
原作とドラマを比べて、「間違い探し」をすることほどつまらないことはないですからね。

さて、今日も日本語教師の話です。

私が使っている教科書は「みんなの日本語」という教科書です。
少し古くなっては来ていますが、それでもやはり日本語を教える教科書としては決定版という感じです。

この「みんなの日本語」の魅力の一つは副教材の充実度合い。
問題集や副読本、CDなども別売りされています。

ただ、ビデオだけはいただけません。
各課の会話がビデオになっているのですが、初めて見たときは絶句しました。
クオリティーのひどさにびっくりします。
かなりの低予算でやっているのがわかりますし、監督なんかも日本語教育に関しては素人なのが見え見え。

登場人物は外国人と日本人の両方なのですが、まともな発音の人がほとんどいません。
外国人でまともなのは中国人のワンさんとドイツ人のシュミットさん(←発音が良すぎて、逆に気持ち悪い)だけです。
あとの外国人、特に主人公のミラーさん役の俳優は「どこからこんなひどい役者を連れてきたんだろう?」と言いたくなるほど演技が下手ですし、日本語の発音があまりにもひどいです。

そして、日本人の登場人物もかなりひどいです。
みんな、句や節、または単語ごとに大きい間を入れて話すのです。
よくある「みなさん(間)わたしは(間)日本から(間)来ました」という外国人の日本語学習者に配慮したような読み方です。

しかし、こういう読み方は「百害あって一利なし」です。
理由は簡単。
日本人の中にそんな特殊な話し方をする人間はいないからです。
例えば、教師がそのような話し方をしていたら、学生はそのような話し方に慣れてしまいます。
学生にとってはまず耳から入る音声情報が重要なのです。

それは赤ちゃんと同じこと。
赤ちゃんにとってはお母さんが話している言葉がまず最初の出発点になります。
それを学生に当てはめて考えると、教師が話している日本語がスタートになるのですから、スタートの時点でリアリティのない日本語を聞かせてしまうのはいいことではありません。

私は最初から割りとナチュラルなスピードで話すようにしています。
わざとスピードを落として話すようなことはしません。

私は自分の授業に日本人をゲストとして呼ぶことがよくあります。
前もって「できるだけ間を空けないで、普通のスピードで話してください」とお願いするときもありますが、普通は特にお願いはしないです。
学生の前で間を空けた話し方をしている人には「間を空けないで話してください」とすぐにお願いするようにしています。

外国人に対して間を空けて話す日本人の中には二つのタイプがいると思います。
1.純粋に親切心でやっている人
2.ちょっと日本語教育をかじって、「私は日本人だから日本語を教えてやろう」というド素人

この2番目のタイプが私は嫌いです。
最初から私に向かって「お手伝いします」という言い方をする人が結構います。
私としてはただ「遊びに行く」という感覚で来て欲しいのですが。

それにしても、「みんなの日本語」のビデオ。
あのビデオを学生に見せると、みんな爆笑します。
演技がひどいし、発音がひどいのは初心者の学生にだってわかります。

もちろん、課によってはなかなかのクオリティのものもあります。
50課のうち、3、4課ぐらいでしょうか。
ミラーさんとサントスさんが出ていない課はまあまあです。

お笑いのビデオとして見ると、結構笑えます。
学生たちの中には「先生、ビデオを見せてください!」と楽しみにしている子もいます。
もちろん、それは「教材」としてではなく、「笑いの種」としてです。

うーん、本当は違う話を書く予定だったのですが、ビデオのことに触れてしまい、止まらなくなってしまった。
本来書く予定だったものは明日にします!

akiravich at 12:20コメント(0) 
livedoor プロフィール
Twitter プロフィール
ベラルーシでの生活は楽しいな♪
メッセージ

名前
メール
本文