東日本大震災

2015年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から4年が経ちました。

ベラルーシにいると、日本のニュースはインターネットでしか見られないわけですが、少しずつ福島関連のニュースが減っているように感じるのは気のせいでしょうか。
ベラルーシに来る視察団も激減。
以前は一年間に何度も通訳の仕事があったのですが、2014年は1回だけ。

去年の夏も日本へ一時帰国しましたが、福島以外の地域では福島のことを話したり、聞いたりすることはほとんどありませんでした。
ただ、福井県にお邪魔して講演などをさせていただいたときは、原発を多く抱えている県だけあってか、非常に関心が高かったのを覚えています。
それ以外の地域では福島の話をしても、あまりリアクションが帰ってこないことが多かったです。

すでに風化してしまったのでしょうか?
でも、福島に現に住んでいる方にとっては風化しようがないですよね。
仮設住宅にいまだに住んでいる人たち、自分の家を失った人たち、家族や大切な人を失った人たち・・・
その痛みに寄り添うやさしさを持った人たちが日本にはまだたくさんいる、と信じたいところです。

去年の夏、私は福島にお邪魔しました。
そのときに痛切に感じたことがあります。

数人の方が「原発事故から3年半も経って・・・」とおっしゃっていたのです。
私が違和感を感じたのは「も」という助詞。
この場合の「も」は長い時間や期間を強調する助詞です。

今、私が感じるのは「まだ4年しか経っていない」こと。
「しか」は少ないことや短いことを強調する言葉。
この「しか」と「も」の差は大きいと思います。

何度か福島で「も」を聞きました。
私にとっては3年半でも4年でも、まだまだ短いような気がしますから、「しか」のほうがしっくりくるのですが。

ただ、「3年半も経ったのに、何も変わっていない」というコンテキストなら、「も」は非常に適切になると思います。
確かに、まだまだ進んでいない部分もあるかと思います。
除染もそうですし、補償の問題も残っている。
確かに3年半はまだまだ短い時間ですが、もっとできることがあるのではないかと思い、歯がゆく感じる部分もあります。

ベラルーシ人の研究者に低線量被ばくの人体への影響について質問した時のこと。
その時の答えは「まだわかりません」。
なぜなら、「まだ29年しか経っていないから」。

汚染地域が多いゴメリ州の州都、ゴメリの人に聞いても、「まだ29年しか経っていない」という言い方をする人がいます。
もちろん、「29年も経った」という言い方をする人も非常に多いですが、「しか」と言う人も結構います。

福島の問題、風化するにはまだまだ早いと思います。
福島以外の人の意識からも福島の問題が消えていかないようにはどうすればいいのでしょうか?
私にも答えは見えてきません。

正直、自分の中の意識も少しずつ薄れてきているのは確かです。
ベラルーシでの日々の生活の中で、「福島」を意識する時間が少なくなっているのは事実です。
福島関係の本、去年の夏、買い込んできたのですが、まだ読んでいないものが多いなあ・・・
もっとやりたいことがあるはずなのに、できていない自分が情けなくも感じます。



そんな自分を少しでも前に進めたいという気持ち。
それが、昨日の記事で書いた原爆詩の朗読ということにつながってきます。

私の中では広島・長崎、チェルノブイリ、福島というワードが一つの線でつながっています。
ベラルーシ人はよく「ベラルーシと日本は悲劇で結ばれている」という人がいます。
広島・長崎という言葉を使う人が多い割には、その具体的なことについて知らない人がほとんどなのです。

とは言っても、私自身も詳しく知っているわけではありません。
私自身にとっても勉強の日々です。

来年はチェルノブイリ原発事故から30年の節目の年になります。
その年に向けて、できることをいろいろと考えています。
翻訳関係の仕事もしたいですし、福島の方で何かご一緒できる方がいれば、一緒にベラルーシでイベントができればなどとも考えています。



先日、NHK BS1の「地球アゴラ」という番組に出演させていただきました。
震災から4年経った福島からの生中継ということで、私も汚染地域のお医者さんと一緒にスカイプで生出演させていただきました。
非常に前向きな取り組みをしている若者たちが紹介されていて、希望の光が見えてくる想いがしました。

番組終了後、インターネット上で番組の感想として、「ベラルーシでの対策を伝えることは悪いことではないけれど、今一番伝えるべきは、この4年で蓄積されたデータに基づいた福島の現状だと思う。WBCでわかった内部被爆の有無、健康状態や農作物の状況をちゃんと伝えないで、ベラルーシのことを放送されても意味がない」というものがありました。

うーん、番組の趣旨と言うのはそれぞれにあるものだと思うので、福島の現状を伝える番組というのは他の番組でやればいいわけで(←そういう番組はないのでしょうか?)。
私としては最後の「ベラルーシのことを放送されても意味がない」という文が非常にひっかかってしまうのです。
もちろん、福島の現状を伝えることは大事ですが、それが「ベラルーシのことを放送することが意味がない」ということにはつながらないと思います。
悲しくなりました。

こういうコメントが出てくるということは日本では被ばくの有無や健康状態、農作物の状況がちゃんと伝えられていないということなのでしょうか?
それが本当だとしたら、それはそれで悲しくなります。
4年「も」経っているのに・・・



書いているうちに、自分の気持ちが「も」と「しか」の間を行きつ戻りつしているのを感じます。
4年が長かったのか短かったのか・・・
自分にとっては・・・やっぱりわかりません。
長いような気もするし、短いような気もします。

失われたものの痛みは永遠になくなることはないでしょう。
その「永遠」を前にして、4年が長かったのか短かったのかを論じるのはナンセンスにも感じます。



今、私ができること。
ベラルーシと福島をつなぐことが少しでも福島の方たちの役に立つのであれば、という気持ちです。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。
そして、仮設住宅で不自由な生活をされている方々がいつか自らの故郷に戻ることができる日がくることを祈っております。


akiravich at 18:20コメント(4)トラックバック(0) 

2014年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から3年が経ちました。

もう3年なのか、まだ3年なのか。
インターネットのニュース動画で被災者の方のインタビューを見たのですが、その方は「3年間は短かった」とおっしゃっていました。

私には、この3年間は非常に長く感じられました。
様々な変化が起こり、様々なことに関わり、非常に濃密な時間を過ごしてきました。

今でもあの3年前のことは強く脳裏に焼き付いています。
学生からもらったショートメールで震災のことを知り、うちへ帰ってテレビをつけた時の衝撃。
そして、実家の山形が大丈夫だったのかという心配。
兄から携帯で電話がかかってきた時の安堵。
その安堵感はその後の長い不安の始まりだったとは全く考えてもみなかった・・・


福島原発の事故はいまだ終息の兆しを見せず、今も何万人もの人たちが避難生活をしている状況。
東日本大震災は終わったと言えるにはまだ程遠い状況かと思います。

これまでは福島のことを考える時間が多かったですが、今日になって津波のことにも思いを馳せました。
家族や友人を失った人々の喪失感は如何ほどのものだろうか、と。
私自身、妻や息子を持つ身になって、家族の大切さは痛いほど感じるようになりました。
その家族をこんな理不尽な形で失うことの悲しみは計り知れない深さを持っているのだろうと思います。

どんなに復興が進み、生活環境が改善されても、受けた傷は戻らず、その痛みは一生残るものなのだろうと思います。
せめて今の生活環境だけでもよくなってくれればと思うのですが、いまだに仮設住宅暮らしの人たちがたくさんいる状況。
少しでも状況が変わっていってくれればと、祈ってやみません。


去年の3月11日から今日までの一年間、それまでの「震災後」よりも通訳の仕事は減りました。
ベラルーシから復興対策のヒントを得ようと毎月のように視察団が訪れていた時と比べると、その数は急激に減少しています。

確かに、情報は資料を持ち帰ったり、いろんな人と会えば得ることができます。
そして、それを拡散すれば、より効果が得られるでしょう。

しかし、その「拡散」が行われていないことが多いように思います。
例えば、ある組織の方がベラルーシのチェルノブイリ関連施設で資料を受け取り、それを翻訳するなどして利用したとします。
そのほどんどが内部資料としての利用であり、外部に出さないということが時折見受けられるのです。

そこが私にとっても、ベラルーシ人にとっても不思議なところです。
似たような視察団がたくさん訪れて、全く同じ内容の話を聞いて帰る。
こういうことの繰り返し。
もっと情報を共有すれば、もっと効果的にベラルーシにある情報が伝えられるだろうに、と思います。

こんなことを書いていますが、私自身、「一つの視察団が来て、その情報を拡散すればそれで済むじゃないか」と考えているわけではありません。
自分の目で見ることの重要性はあると思います。
ベラルーシがチェルノブイリ原発事故後、約28年経って、どのような状況になっているのか、復興はどのように行われたのかを自分の目で見て確かめることには非常に大きな意義があると思います。
まさに「百聞は一見に如かず」です。

そして、チェルノブイリ原発。
私は一度、通訳の仕事で訪れましたが、圧倒的な存在感です。
一度は見る価値があります。

自分でも矛盾している感じがします。
似たような視察団がたくさん訪れるのはどうか、と書いておきながら、自分の目で見たほうがいいと書いているのは確かに矛盾かもしれません。
この震災後の混乱期では視察団がたくさん訪れるのは普通のことです。
しかし、一回訪れて、それで終わってしまっては何の意味もありません。
得た情報や知識を生かす方法を考えなければいけないと思います。

もちろん、ベラルーシで得た情報を非常に効果的に利用している方や団体もたくさんあります。
ベラルーシの子供の保養プログラムを参考にして、実際にそれを実行しておられる方もいます。
その努力には頭が下がる思いです。

情報の共有は必要です。
みんながみんなベラルーシを訪れるチャンスはありません。
日本で役に立つ情報があれば、どんどん共有していってほしいというのが私の願いです。


私は毎朝、日本のニュースをインターネットでチェックしています。
以前に比べると福島関連のニュースが少なくなったなあと感じます。

風化

震災から時間が経つにつれ、風化してく部分はどうしても出てきます。
それは私が日本に一時帰国するたびに感じていることです。
当事者じゃない人にとってはどうしても他人ごとになりやすいのでしょう。

しかし。
事実は何も変わりません。
津波で破壊された町の中にはがれきが撤去されただけで、町の復興には程遠いところも多いようですし、福島原発事後に発生した多くの問題はいまだに解決されていません。

風化するのは人の心です。
周りにある「もの」が風化するのではなく、人の心の中の何かが風化するのだと思います。

容易に移ろっていく人の心を繋ぎ止めておくことは簡単ではありません。
しかし、被災した方だけでなく、全ての日本人がこの震災を同じ痛みとして感じることはできないのでしょうか?
日本に住んでいる限り、いつどこで災害に遭うかわかりません。
そんな日本人だからこそ、被災していない人たちも少し心の中に場所を作ってあげれれば、風化させずに済むと思うのです。
人の痛みを自分の痛みとして感じること。
共有すべきは「情報」だけでなく、その「痛み」でもあると私は思っています。

私がベラルーシにいてできることは限られています。
それでも、少しでも福島の現状がよくなることを願いつつ、通訳などの仕事に邁進していきたいと考えています。
東北人として、そして日本人としてできることを少しでもやっていきたいです。


東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。


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2012年04月21日

おはようございます。
はぐれミーシャです。

今日のミンスクは珍しいことに晴れです。
ここしばらく曇りがちの天気が続いていたので、気持ちがいいです。

今日は朝から大好きなプロレスを見ていました。
1980年12月11日 蔵前国技館
ニック・ボックウィンクルVSビル・ロビンソン


このカードを見て、「おおっ〜!」とうなったあなたは目が高い!
こんなカード、夢のまた夢ですよ。
しぶい! しぶすぎる!

試合内容もしぶい。
というか、「しぶい」というのは今のプロレスから見ればということかな。
実況の松永さんが「大技を連発しています!」と言うとそう見えちゃうんですよね。
でも、そこまでの展開で出た技って、ヘッドロックとフライングメーヤーぐらいなんですけどね。
そんな流れなので、パイルドライバーやワンハンドバックブリーカーが超大技に見えてしまう。

そういえば、子供の頃はヘッドロックで試合が動かなかったりすると、「長いなあ」「早く大技出ないかなあ」なんて思っていたものです。
今見ると、「子供の頃は全くわかっていなかったんだなあ」と思います。

今のプロレスって、ポンポン大技が出るじゃないですか。
あれっていいのかなあと思うんです。
大人になってガチャポンを大人買いするのもいいけど、やっぱり100円を握り締めて、好きなヒーローの小さいフィギュアが出てくるようにと願いながらガチャポンした子供の頃のほうがいいと思うんです(←わかります?)

ビル・ロビンソンの欧州スタイルのテクニックとニック・ボックウィンクルの小憎らしいまでのずる賢さ。
人間風車というだけあって、ビル・ロビンソンのダブルアームスープレックスはダイナミック。
ニック・ボックウィンクルの足4字固めも痛みが伝わる大技。
30分時間切れ引き分けという結果でしたが、堪能させてもらいました。

ちなみに、ニック・ボックウィンクルの名前はどこからが苗字なのか、子供の頃はわかりませんでした。
ニックボック・ウィンクルだとずっと思っていました。
まあ、私は子供の頃、「おすぎとピーコ」のことを「おはぎとピーコ」だと思っていましたから、ニックボック・ウィンクルという間違いはまだ罪のないほうです。

さあ、ここまでが前書きです!!!(←長すぎ!)

ここ数ヶ月は忙しくて大変でした。
というのも、通訳の仕事が多かったからです。
日本語教師の仕事もやりながらなので、体力的にかなり厳しかったですね。
そして、精神的に余裕が全くありませんでした。

去年の9月からトータルすると、通訳の仕事は7回ありました。
これはね、ものすごい数なんですよ。

以前は一年に1回、多くて2回でした。
ひどいときは1回もないこともありました。
通訳の仕事は一度にまとまった収入があるからいいけど、日本語教師の仕事も忙しいから、通訳の仕事がなくてもそれほど困ったりすることはなかったんですよ。

通訳の仕事が増えたのは・・・
まあ、お分かりだと思いますが、東日本大震災以降。
チェルノブイリの被害を受けた国ということで、にわかに注目が集まっているのです。

ベラルーシ非常事態省の方の話だと、多いときで一週間に一組の日本人のグループがヒアリングに訪れているそうです。
今週も日本人グループの通訳をしたのですが、他の日本人グループもベラルーシに来ていると耳にしました。

これは今までにない事態。
だって、そんなにベラルーシに来る人、いなかったんですよ。
観光資源があるわけでもなし。
まず、日本人観光客が来ることは滅多にありませんでしたから。
バックパッカーの方は結構来ているようですが。

あと、以前多かったのは30〜50代の日本人男性。
日本で働いていたベラルーシ人のホステスさんに会いに来る男性が非常に多かったのです。
しかし、最近はホステスで日本へ行く女性というのはほとんど聞かなくなり、それに伴って、会いに来る男性も減っているようです。

私の個人的な意見なのですが、別にホステスさんに会いに来るのもいいと思うんですよ。
それをきっかけにベラルーシに興味を持ってくださる方、ベラルーシでビジネスをやりたいと思う方など、様々な方がいらっしゃるようで、それはそれでいいと思います。
始まりは何でもいいんですよね。

ある学生が言っていたのですが、「ベラルーシにたくさんの日本人が来てくれるのはうれしいことだけど、チェルノブイリ以外のベラルーシも見て欲しい」
私も全く同感です。
確かにベラルーシは観光スポットには乏しいけど、魅力的なところはたくさんあります。
もっとベラルーシのことを知ってもらえるように、私もがんばらないといけないなあと思います。

今日は5コマ授業。
通訳の仕事が終わったばかりで疲れが取れていないけど、がんばります!

akiravich at 15:23コメント(14)トラックバック(0) 

2012年03月11日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日、東日本大震災から一年経ちました。
この一年は私にとっても人生で大きい意味を持つ年になりました。
今の気持ちは深く深く祈るだけの気持ちです。

震災後の一年間、私の生活にも大きい変化が現れました。

一年前のあの日、私は大学にいました。
学生からのショートメールであの大震災のことを知りました。
山形に住む家族の安否が心配で心配で・・・
山形は津波などの被害は直接受けてはいませんが、電話がつながらず、何が起こっているのか、怪我などはしていないかなど、頭の中を様々な考えが渦巻きました。
ミンスク時間の14時ぐらいに兄から携帯電話に電話が来て、やっと安心することができたのでした。

そして、仙台に住む友人や親戚、知り合いの安否が気にかかりました。
皆無事だったのですが、それがメールなどで確認できるまではとにかく心配でなりませんでした。

私は大学での授業のときも大震災の話をしました。
それしかできませんでした。
学生たちも私と一緒に心を痛めました。

一般のベラルーシ人たちの間にも深い祈りの空気が流れていました。
様々な人から電話があり、「家族は大丈夫か?」と聞かれました。
多くの人が「寄付金を送りたいのだが、どうすればいいのか?」という電話がありました。

この遠いベラルーシにいながら、自分には何もできないことに焦燥感を感じました。
私は日本人であると同時に、東北人という意識があります。
同じ東北の人たちが苦しんでいる、そして何度も行ったことがある仙台の人たちが苦しんでいる。
何か自分でもできることはないのだろうかと悩みました。

それから、私は予期せぬ形でこの問題と関わることになりました。

まずベラルーシの地元の新聞やテレビ局からインタビューや出演の依頼が来るようになりました。
最初は私のような人間がテレビに出て日本の話をするなんて、そんなことをしてもいいのだろうかと悩みました。
しかし、ベラルーシで目にすることができる地元やヨーロッパのニュースを見て、報道の偏りというものを感じたことから、私はせめて自分が知りうる情報だけでもベラルーシの人々に伝えたいと思うようになりました。

テレビ番組を通じて、いろいろな方と知り合いになりました。
チェルノブイリの現場で働いていた元作業員の方、汚染地域のブラーギン市の市役所の方などなど。
その方たちとはその後も何度も顔をあわせることになりました。

4月16日にはミンスク市内にある仙台広場(←ミンスクは仙台と姉妹都市です)において、復興を祈念する植樹祭があり、私も招待されました。
ちょうどその日にはNHKの地球ラジオに電話で出演させていただきました。

夏が近づいてきた頃から、通訳としての仕事が舞い込んでくるようになりました。
ご一緒するのは日本の省庁の方々や被災地からいらっしゃった方々、研究者の方々など様々でした。
ベラルーシ緊急事態省や放射線学研究所などでの通訳です。
私は元々、音楽を勉強していたので、理系の話、ましてや放射能の話などは全くの門外漢です。
しかし、少しでもベラルーシにある情報が日本の皆様の役に立てばと思い、様々な言葉を勉強しました。

正直に言えば、ベラルーシというチェルノブイリの被害を受けている国に住んでいながら、そのことを痛烈に意識したことはそれほどありませんでした。
大震災後の1年間は自分がどこに住んでいるのかということを痛いほど感じることになった一年でした。

私の家族や親戚、知り合いは無事だったと書きましたが、大震災後に知り合いになった人たちは被害を受けていました。
家族を亡くした方、家を流されてしまった方、農業ができなくなってしまった方・・・
言葉を返せないほどに何もできない自分をはがゆく思いました。
そして、私は私ができること、通訳の仕事を一生懸命やるしかないのだということを理解しました。

ベラルーシの人たちは同じ放射能の被害を受けている人たちのことを想い、心を痛めています。
できる限りたくさんの情報を共有したいという思いの人がこの国には大勢います。
私も少しでも情報の共有のお手伝いができればと考えています。

このブログでもチェルノブイリのことについて書いていければと思っています。
この国にいると書けないことも多いのですが、書ける範囲で書いていきたいです。
2011年1月27日「私とチェルノブイリ 愾瓦討論泙蟷罎ら始まった』」
2011年1月29日「私とチェルノブイリ◆悒福璽好船磴舛磴鵑悗竜Г蝓戞

そして、日本へ帰ったときには皆様に直接ベラルーシについてお話しする機会があればと思っています。
自分の家族や知り合い、友人たちと話すのはもちろん、私が卒業した学校などにも行って、子どもたちに話ができないかと考えています。

私は2000年からベラルーシに住んでいるのですが、来た当初はチェルノブイリのことなど、全く考えていませんでした。
その後、病院で子供を相手に折り紙をするようになり、チェルノブイリということを強烈に意識するようになりました。
「この国に住んでいて本当にいいのだろうか? 危険はないのだろうか?」とも考えました。

私がベラルーシに住み続けている理由は二つあります。
一つは私がいなくなれば、日本語を教える日本人がほとんどいなくなってしまうこと。
もう一つは私がいなくなれば、ベラルーシの子供たちと遊ぶ人間が一人少なくなってしまうこと。

誰かに必要とされること。
それが私にとって「生きているという実感」なのです。
「ベラルーシに住むということはチェルノブイリを受け入れるということなのだ」
私はそのことを理解し、それを受け入れることにしたのです。
私がベラルーシに住んでいることの意味、そして日本人であることの意味を何らかの方法で形にしていきたいと思っています。

この大震災で亡くなられた方々に哀悼の意を表したいと思います。
津波や地震の被害にあわれた方々に一日も早い復興をお祈り申し上げます。
福島原発の事故により避難生活を余儀なくされている皆様、一日も早く故郷に戻れる日が来ることを切に願っております。


akiravich at 17:16コメント(6)トラックバック(0) 
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