福島

2016年03月11日

おはようございます。

震災から5年目の朝を迎えました。

5年というと長い感じがしますが、時間の長さというのは一人一人にとって相対的なものであって、おそろしく長い1秒もあれば、おそろしく短い1日もあるように思います。
これまでの5年間の長さ、そして重さは人によってまちまちなのではないかと思います。
私にとってのこの5年間は確実に長く、重いものでした。

あの震災の日のことは今でも忘れることができません。
山形にいる家族や仙台に住む友人や親戚の安否が気がかりでした。
テレビで流れる津波の映像のすさまじさに言葉を失いました。

そして、それに続く福島原発事故。
テレビで流れる映像を見て、すぐに私の頭に浮かんだのは「チェルノブイリと同じことになるのではないか・・・」という強烈な恐怖でした。
そして、その時は私が直接的に通訳として、この件に関わっていくことは正直予想していませんでした。

福島原発事故後の最初の通訳の仕事は農林水産省の方々の通訳でした。
聞いたこともない日本語・ロシア語の言葉が飛び交い、非常に戸惑ったのを覚えています。
移行係数などという言葉もそれまでは聞いたことがないものでした。
直接の訳語がわからない時は、その言葉の意味や内容を説明をして切り抜けました。
おそらく、福島の方々も移行係数や半減期など、それまでの人生で聞いたこともない言葉を耳にして、大いに困惑されたのではないかと思います。

2011年の秋には非常に大規模な視察団がベラルーシにやってきました。
その通訳では大きなプレゼンテーションでの通訳がありました。
そして、かなりの土地が汚染されているゴメリ州の中心都市ゴメリや、汚染地域に隣接する小さな町コブリンにも行きました。
その道の専門家の方々の通訳は非常に難しい内容でしたが、自分も山形の人間として、東北の人間として、何よりも日本人としてこの問題に関わっていこうという決意を強く持つきっかけになった仕事でした。

国会事故調の方々の通訳もさせていただきました。
メンバーの方々の真剣さが伝わってきて、「この人たちは本当に日本の、そして福島のために努力しておられるのだな」と思い、感銘を受けました。

福島県議会の議員の皆様ともご一緒しました。
政治家の立場から強い想いを持ってベラルーシまでいらしたのが印象的でした。

福井県の議員の方々とご一緒した時は体調を崩してしまい、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。
ゴメリにはご一緒することができ、原発を多く抱える県の事情というものを垣間見ることができました。
おととしになりますが、福井県にお邪魔させていただき、現在のベラルーシの状況をお話しさせていただく機会もいただきました。

福島市の視察団は2回、ご一緒させていただきました。
人数が多かったので、私の学生たちも通訳アシスタントとしてご一緒させていただきました。
彼らにとっても福島の現状を知ることは非常にいい経験だったのだろうと思いますが、それと同時に、自分たちが住んでいるベラルーシという国の現状を知ることができたのは大きな収穫だったのではないかと思います。
ベラルーシに住んでいても、チェルノブイリということを肌で感じる機会が少なくなっており、特に今の若い世代のベラルーシ人にとってはチェルノブイリは歴史的出来事として捉えられることが多いのです。
これを風化と呼ぶべきか、時が優しく解決してくれたと言うべきか・・・私にはわかりません。

このようにこの5年間を振り返ってみると、私にとっても激動の5年間でした。
通訳で出会った方々とはその後もいろんな形で交流させていただきました。
それは日本人の方々もそうですし、ベラルーシ人の方々ともいろいろお付き合いさせていただいています。
ベラルーシ人の中では特にゴメリの放射線学研究所の元所長さんで、国立ゴメリ大学の生物学部長のアヴェリンさんには非常によくしていただいています。

多くの人との関係は私にとって人生の財産のようなものです。
私は父親に「俺の一番の財産は友だちだ。お金の財産はないけど、友だちはそれ以上の価値がある」と教えられてきました。
ベラルーシという日本から遠く離れた国で、父親の言葉をかみしめています。

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そのような仕事の中で、私もベラルーシに住む人間として、多くのことを考えさせられました。
ベラルーシの検査体制や除染のやり方もそうですが、日本との考え方の違いなどもかなり見て取れました。

ベラルーシでは事故から約30年が過ぎ、「すでに復興ではない」という考え方をしています。
「今は発展の段階である」というのが今の考え方です。
30年経った今だからこそ言える言葉だと思います。
これまでの苦闘の道のりがあったからこその言葉なのでしょう。

実際、汚染地域にある町などを訪れると、全く暗さは感じません。
むしろ、町が整備されていて、非常にきれいな印象を受けます。
もちろん、田舎の町なので整備されていないところもありますが、そのことはチェルノブイリとは全く無関係です。

そして、放射能に対する考え方も日本人とベラルーシ人では違っていると思います。
汚染地域の住民の中で、放射能を恐れている人というのは出会ったことがありません。
子どもたちに聞いても、「正しい知識を持っていれば、怖がることは全くない」という意見が返ってきます。

もちろん、こう書くことによって、ベラルーシの方が上だとか、そういうことを言いたいのではありません。
事故後の時間の長さが違いすぎます。
この状況に至るまでの道のりはベラルーシも楽ではなかったはずです。

今の現状などは私も目にしますし、話しもよく聞きます。
ただ、そこに至るまでどのような過程があったのかがよくわからないのです。
事故直後の話しもよく出ますが、私が今興味を持っているのは事故から数年経った後のベラルーシの汚染地域です。
例えば、チェルノブイリ事故から5年経ったベラルーシはどうだったのでしょうか?
そこに視点をおいて、調査してみたいという気持ちでいます。

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つい最近、産経新聞の記事に気になる内容のものがありました。
福島県でコメの検査をしていることに関して、役所の人が生産者から「いつまで検査を続ければいいんだ」と言われる、という内容でした。
福島県では今もコメの全量全袋検査が行われています。
基準値は1キロ当たり100ベクレルですが、基準値を超えたものは26年度産のものからは一つも出ていません。

「いつまで検査を続ければいいんだ」という発言が出てくるということは、いつか検査をやめることを前提に話をしているということではないでしょうか。
確かに、基準値を超えた放射性物質の量のものが検査しても出てこないのであれば、検査自体の意義を問うような発言が出てきても不思議ではありません。

ベラルーシの場合、現在基準値を超える放射線量が検出されるのは森で採ったキノコやベリー類、そして野生の動物の肉が主です。
その他の一般食品に関しては基準値越えはほとんどありません。
例えば、牛乳の場合、基準値を超えるのは個人の自宅で飼っている牛の牛乳の場合だけです。
汚染されている牧草を食べた牛の牛乳から検出される場合があります。
もちろん、ここの牧草は食べてはいけない、ここで放牧してはいけないなどと、地元の役所などは広報活動をしているのですが、それでも違反したり、間違ったりする人がいた場合は牛乳の検査で違反や間違いが分かってしまうことがあるのです。

ベラルーシのとある検査場でのこと。
検査場の職員の方の説明「キノコやベリーなどの『森の恵み』以外の食品で基準値を超えるものが出ることはありません」。
そこで日本人の方が質問しました。
「基準値を超えるものが出ないのなら、検査をやめてもいいのではないですか? どうして検査を続けているんですか?」
検査場の職員の方の答えは・・・
「それは違いますよ。検査を続けているからこそ(基準値越えが)出ないんです」(カッコ内筆者)

私はこの検査場の職員の方の答えに感銘すら覚えました。
安全を守るための検査であり、安心するための検査ではないということでしょうか。
「基準値越えが出ないからもうやめよう」というのではなく、「基準値越えが出ないように、監視していこう」。
もちろん、チェルノブイリと福島では汚染の度合いや放出された放射性物質の種類も違うので、単純に比較はできません。
しかし、検査を続けることの意味は非常に大きいと思います。

放射性物質の検査を続け、その結果安全で安心して食べられるものであるということをアピールするしか方法はないような気もします。
客観的なデータ、客観的な事実の積み重ねしか、突破口はないように思います。
しかし、現状を覆すのは並大抵のことではないように思います。
風評被害の話を聞いていると、イメージや感覚的なものに支配されやすいのは日本人のメンタリティーなのかなと思ってしまいます。

ベラルーシ人は客観的な事実に対しては信頼をおきます。
汚染地域で言えば、「なんとなく怖い」とかそういう曖昧なイメージで何かを判断することはありません。
測定し、その結果、食べられるか食べられないか判断する、というごく普通の生活の営みです。

もちろん、最初から客観的なデータを見て冷静に判断するということができていたのかどうかは、ベラルーシ人であっても疑わしいところはあります。
ベラルーシ人もここに至るまでは様々な変遷があったのではないかと思います。
ベラルーシでは事故後数年間は汚染地域の人たちへの差別などもあったと聞いています。
日本はまだまだ精神的に事故後の混乱状態を抜け出せていない部分が残っているのではないでしょうか。
時と共に、そして食品の検査などを行う人々の努力によって、少しずつ解決していく問題なのかなと思います。

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つい最近、自分の学生たちに質問してみました。
「(汚染地域が多い)ゴメリ州の製品を何も気にしないで買いますか?」
22人中、「気にする」と答えたのは1人。
正直、1人いること自体に非常に驚きました。

私がベラルーシに住み始めたのは2000年の8月。
その頃は「気にする」と答える学生はグループの半分ぐらいでした。
「私の母はゴメリ州の物は買いません」「表示を確認してから買います」

でも、今ではほとんどの人が気にしなくなりました。
それがいいのか悪いのかは別問題だと思います。
国の政策として、チェルノブイリという問題を国民に常に意識させるような方向性を取っていないというのもあります。
簡単に言えば、「風化促進」とでも言えばいいのでしょうか。
しかし、客観的なデータの積み重ね、食品加工業の向上におけるトリプルチェックなど、そのような不断の努力が実を結んだという側面もきっとあると私は思っています。
そういう意味では、福島の現状というのは道半ばなのかなと思います。

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もう一つ気になることが。
福島の方から「福島のことに関しては、あまり自由にモノが言えないんですよ」ということを聞いたことが何度かあります。
インターネット上で何か書くと叩かれるから書かない。
何らかの形で発言すると、賛成してくれる人もいるかもしれないが、反対する人も出てくるから、何も言えない。

うーん、日本は言論の自由がある国ですよね?
言論の自由があるかどうかと発言しにくい雰囲気というのはちょっと論理が飛躍しているかもしれませんが、自由に発言できない空気というのは健全な状態とは言えないと思います。
私はドンドン発言し、議論していくべきことではないかと思います。

インターネット上の発言の中には事実に基づいていないものもあると思います。
怪しい情報も見かけたことがあります。
ベラルーシについては「奇形児が生まれている」とか、「生まれてくる子供たちの多くが健康問題を抱えている」など、とんでもない情報も多くみられます。
この問題に関しては、2012年12月25日「ベラルーシはそんなにかわいそうな国ですか?」をご覧ください。

インターネットというのは怖い媒体だと思います。
そこに書いてあることが真実かどうかは知る術もないことが多く、そこに何か書く人の中には自分というフィルターを通した内容、厳しい言い方をすれば、自分に都合のいいことしか書かない人もいます。
それをあたかも事実であるかのように、疑いもなく受容するのは非常に危険なことだと私は思います。

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今年は福島原発事故から5年、チェルノブイリ原発事故から30年という節目の年を迎えました。
毎年3月11日が近づくと、震災や福島原発事故に関する記事やニュースが多くなります。

日本人は節目が好きなんだなあと感じます。
ちなみに、ロシア語では「節目」という言葉は訳すのが難しいです。
どういえばいいのでしょうか・・・

しかし、現実にそこに住んでいる人たちにとっては普段の生活。
切れ目も節目もなく、絶えることなく続く現実です。

福島の新聞では常に原発のことが記事になっていますね。
しかし、他のところではどうでしょうか。
数年前、西日本のある県に行ったとき、福島の話をしたところ、まるで他人事の反応。
日本人としての連帯感はないのだろうかと、がっかりしたことを覚えています。

これは福島だけの問題ではなく、日本人全体の問題であるということを意識すること。
そのために重要なのは教育だと思います。
事故後最初の数年間は除染など喫緊の問題に取り組むためにベラルーシに視察に来る方が多かったのですが、ここ数年は教育や法律の専門家の方が増えてきています。

2014〜2015年はベラルーシを訪れる日本人の数が急激に減りました。
2012〜2013年は視察団の数も多く、通訳の仕事も多かったのですが、その後、仕事の数も減少しました。
特に、汚染地域を多く抱えるゴメリ州の人たちからは「日本人の人はめっきり来なくなっちゃったね」と言われるようになりました。

しかし、ベラルーシと日本の関係はこれからのような気がします。
ベラルーシはある意味、日本の先人。
チェルノブイリ事故後30年間の経験の蓄積があります。
住民に対する情報提供のあり方、教育活動のあり方など、その先人から学ぶべきことはまだまだあるように思います。

2016年という節目の年に当たり、今年ベラルーシを訪れる日本人の数はまた増加しました。
しかし、これが一過性の現象ではなく、常にある取り組みとして続いていくことが望ましいのではないかと思います。

これまでは日本から来た人たちが福島の復興に役立つ情報をもらうだけという一方通行的な関係が多かったと思います。
それでは「交流」とは言えないと思うのです。
これからは日本の現状をベラルーシの人々に伝えていくことも重要になっていくと思います。
ベラルーシの方からよく言われるのは「今、福島がどうなっているのか知りたい」「知りたくても、情報があまりにも乏しい」。

チェルノブイリ関連でベラルーシにいらっしゃる日本人の方々に「できれば、福島の現状を皆さんの前でお話しいただけませんか?」とお願いすることがあります。
以前は「視察に来ているのだから」「こちらが情報をもらいたいのであって、こちらから発信する余裕がない」という趣旨のことをおっしゃる方が多かったのですが、ここ数年は私からのお願いに応じて下さる方も増え、去年は私が勤務する大学や汚染地域の教師のみなさんの前でお話しくださった方もおられました。
ベラルーシと日本がより成熟した関係になっていくためには、お互いの現状を知ることから始めないといけないように思います。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
そして、福島原発事故で自らの町や村を離れることになってしまった方々に、いつか故郷に戻れる日が訪れることを心より願っております。


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2015年05月01日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日のテーマはチェルノブイリです。
直球です。

最近、チェルノブイリ近辺で森林火災があったことで、またチェルノブイリがにわかに注目されていますね。
焼けた木々の灰がベラルーシの方向に飛んでくるのではないかと心配しています。

しかし、ベラルーシの放射線環境をモニタリングしている機関のHPを見ると、放射線量に関しては全く変化は起きていません。
いつものように、5月1日のミンスクは0.1マイクロシーベルト/時。
比較的、値が高いブラーギンも0.53マイクロシーベルト/時と、普段と変わらず。

こんなことを書くと、「国の機関が発表していることを信じているのか!?」と言われそうな気がしますが、私は結構信じています。
そういうモニタリングをやっている機関や現場を私は自分の目で見ていますし。
非常にしっかり測定していますよ。
隠ぺいすることのメリットはベラルーシには全くありません。


さて、今日は昨年3月に私がチェルノブイリを訪れたときのレポートをしたいと思います。
通訳の仕事でチェルノブイリを訪れたのですが、そのときはちょうどウクライナの政情が不安定なときでした。
マイダンと呼ばれるキエフ中心部の広場での戦闘がようやく収まったばかりの頃で、非常に不安だったのを覚えています。
その時の様子は2014年3月31日「はぐれミーシャのウクライナレポート キエフに行ってきました!!! ティモシェンコを探せ!!!」をご覧ください。

ここではWikipedia的な解説は避けたいと思います。
例えば、事故の概要とかは他の解説を読めば事足りるわけですから。
私が改めて解説することでもないだろうと思いますので、ここでは私の個人的な感想、訪問レポートという形をとりたいと思います。


チェルノブイリへの道

地図で見ると、チェルノブイリはウクライナの一番北、ベラルーシとの国境にあります。
しかし、ベラルーシから直接チェルノブイリのある地域に入ることはできません。
直線距離ならとても近いんですけどね。
道がないのです。
ベラルーシの汚染地域は「ポレーシエ放射線環境保護区」となっており、立ち入りが厳しく禁じられています。

結局、キエフ経由ということになります。
かなり遠回りではあるのですが、これは仕方がないです。
最初は車での移動を考えていたのですが、ウクライナの地方都市でベラルーシナンバーの車が襲撃される事件が頻発しているという情報があったので、鉄道を使うことにしました。

キエフには朝の8時近くに到着。
ホテルで朝食をとり、そこからチェルノブイリへ向かいました。
車で2時間半ほどの道のりです。

途中、二か所のチェックポイントでパスポートなどの書類のチェックがありました。
チェルノブイリは見学ツアーが盛んで、以前にチェルノブイリを訪れたときも(←つまり、この時は2回目の訪問)、他の見学者が結構いたのですが、この日は私たち以外に一組だけ。
ツアーガイドの説明では、ウクライナの政情が不安定になってから、観光で訪れる人が激減したのだそうです。



チェルノブイリに到着! とは言っても、原発ではない

DSC01260チェルノブイリに到着! と言っても、これは原発ではなく、チェルノブイリという町。
この町の名前が原発の名前になったのです。
ベラルーシでもそうですが、町の入り口にはこういうモニュメントが必ず立っています。
このデザインからも原発産業で成り立っていた町なのだということが見て取れます。


DSC01261これはチェルノブイリの町の教会。
まだちゃんと機能しています。
時々、チェルノブイリ出身の神父さんが来て、礼拝が行われているそうです。
残念ながら中には入れませんでした。

DSC01267チェルノブイリの有名な広場に着きました。
この小道には両側に原発事故で消滅してしまった村などの居住地の名前が書かれています。
人々が住んでいたところ、その住民にとっては故郷を哀悼する意味が込められています。

DSC01266モニュメントの一つに「フクシマ」の文字が刻まれていました。
折り鶴をかたどったモニュメントです。

こういう演出、ウクライナ人はとても上手だなあと思います。
これはキエフのチェルノブイリ博物館でも感じることですが、見ている人に伝わるような展示方法や演出に非常に長けているのです。
ベラルーシ人とはだいぶメンタリティーが違います。
ベラルーシ人はそういうアピールはあまり上手じゃないところがありますから。

この広場の近くに店がありました。
というか、普通にチェルノブイリの立入禁止区域にお店があることが驚きです。
飲み物や食べ物が普通に売ってありました。

DSC_0110[1]そして、驚きなのが、チェルノブイリグッズ!
マグネットやボールペン、Tシャツまであるのです。
私はそこでマグカップを購入しました。
こういうところがウクライナ人らしいところです。
商魂たくましいというか。
キエフで戦闘のあった独立広場でもマグカップやTシャツなどのグッズが販売されていましたから。
戦闘直後で広場中、焼け焦げたようなにおいに満ちている中でも商売をしようというのがすごいなあと思いました。


チェルノブイリの町を歩く

DSC01270チェルノブイリの町の中は当然、人が住んでいません。
いたるところにこのような廃墟と化した家が。
失礼して、中を覗くと明らかに荒らされた跡が。
原発事故後、火事場泥棒的な事件が後を絶たなかったと言います。
ネジ一本に至るまで盗まれたと言う話を聞いています。

DSC01268このうちの壁に住んでいた人が書いたと思われる言葉が書いてありました。
「我が家よ、許しておくれ! そして、さようなら!」
自らの家を捨てて出ていく人の心の痛みは如何ほどのものだったでしょうか。

福島でも同じような悲劇が起こっているのかと思うと・・・
家はただの「モノ」ではなく、住んでいる人の想いや思い出が詰まったもの。
私は19歳のとき、実家が全焼し、自分が育った家、思い出がいっぱい詰まった家が灰になったところを見たことがあります。
福島の場合とは違う痛みかもしれませんが、家を失うことの辛さは察して余りあります。

DSC01271「ここには人が住んでいます」
そうなんです。
こちらのお宅には人が住んでいます。
中には避難勧告を無視して、住み続けている人がいます。
主に高齢の方々で、自分の故郷に住み続けたいということです。
強制的に避難させると言うことはないそうです。

ここに住んでいるのは高齢の女性。
息子さんが生活に必要な物資や食料を運んできてくれるそうです。

DSC01274これは事故処理に当たった機械の「墓場」。
放射性物質で汚染されているため、近くに行ったり触ったりすることはできません。
こういう機械を見ていると、当時の様子がリアルにイメージできたりします。



チェルノブイリが見えてくる

DSC01281チェルノブイリ原発が見えてきました。
川沿いを車はひた走ります。

以前チェルノブイリを訪れたとき、この時点でガイドさんに「原発の近くに行ったら、写真撮影やビデオ撮影をやめてください。決まったポイントでだけOKです」と言われました。
勝手に撮影などをしていると、当局に拘束され、映像や画像を削除されると言われたのです。
しかし、このときのガイドさんは「大丈夫だよ!」「ダメなところはあるから、そこだけ注意すれば、あとは普通に撮影していいよ」。
うーん、どっちが本当なんだろう?

DSC01287ここが原発に一番近いポイントになります。
ここから原発のほうの写真を撮るのは許可されています。

圧巻です。
このときは二回目でしたが、感じるものがあまりにも大きくて・・・
この廃墟が人々の生活を奪い、故郷を奪い、30年近くも人々を苦しめ続けているのかと思うと・・・

チェルノブイリ原子力発電所。
私は「負の世界遺産」として登録すべきだと思っています。
同じ過ちを犯さないために。

一度は見る価値があります。
放射能のことを心配する人がいますが、2〜3時間いたぐらいでは通常は問題はないはずです。
帰るときはチェックポイントで被ばく量をチェックされますが、私が行ったときはチェックで引っかかった人は一人もいませんでした。



リアルゴーストタウン、プリピャチの町を歩く

DSC01288それから私たちが向かったのはプリピャチの町です。
チェルノブイリ原発から4キロの近いところにあり、事故でゴーストタウンになってしまった町です。
「1970」という数字が書いてありますが、これはプリピャチの町が作られた年。
町自体が非常に新しい町だったことがわかります。

DSC01301これは有名な観覧車です。
チェルノブイリ原発事故が起こった4月26日の後でオープンする予定だったものです。
つまり、この観覧車は子供たちを乗せることなく、事故に遭ってしまったのです。

DSC01305プリピャチのレストラン。
プリピャチの住民のほとんどが原発で働いていた若者たちでした。
その若者たちもこのレストランに集い、夜の楽しい時間を過ごしていたのでしょうか・・・

DSC01311これは学校の敷地。
かつては子供たちの声が響いていたのでしょう。
目を閉じると子どもたちの声が聞こえ、目を開けると子どもたちの声は消えました。

プリピャチの町は二回目でしたが、やはり強い印象を受けました。
それは激しい感情ではなく、静かにしみいるように町の静寂が心の波を受け止めてくれるような感覚です。




チェルノブイリで働く、チェルノブイリで生きる

DSC01335それから、私たちはチェルノブイリのカフェで昼食をとりました。
これはスープに添えられていたパン。
名前は「パンプーシュカ」。
名前がかわいいです。
パンの上からニンニクオイルがかけられています。
ウクライナではポピュラーなもので、普通はボルシチに添えられるのですが、この時はえんどう豆のスープでした。
これ、すっごくおいしいんですよ。

このカフェ、チェルノブイリグッズも販売していました。
結構高めの値段設定。
たくましいなあ・・・

実はこのカフェで今回のチェルノブイリツアーで最も印象に残った出来事がありました。
それは次の写真の女の子の言葉。

DSC01339かわいいんですよ。
ウクライナ美人です。
ベラルーシも美人が多いですが、ウクライナの美人はちょっとタイプが違います。
顔立ちが違いますね。

それまでにチェルノブイリの区域で出会う人の中には若い人はいなかったので、私は驚きました。
彼女に「どうしてここで働いているの?」と聞くと、「私の父もチェルノブイリで働いているんです」
えっ? そんな理由で働いているの!?
私は何か彼女の中に使命感があるとか、そういうことなのかなと勝手に思っていたので、ちょっとビックリしました。

私「チェルノブイリで働いていて、怖くないの?」
女の子「??? なんで怖がる必要があるんですか?」
彼女は2週間働いて、2週間キエフで休むというシフト。
私「っていうか、ここに寝泊まりしているの?」
女の子「はい」

彼女の答えがあまりにも自然で。
何も特別なことなどないかのように。
むしろ彼女の方が私のリアクションに不思議がっていました。

確かにチェルノブイリ原発に近いからと言って、そんなに線量が高いわけじゃないんですよ。
ご一緒した方の中には線量計を持っていらっしゃる方も多かったのですが、それほど驚く線量ではありませんでした。

冷静に考えることができれば、彼女のようにチェルノブイリ原発の近くで働いても大丈夫なのでしょう。
チェルノブイリの場合はすでに30年近く経っているということも人々の心理に影響しているのかもしれません。
放射能を怖がるパニック状態からは脱している、ある意味、「放射能との成熟した共存関係」が築かれているように感じました。

もちろん、私は低線量被ばくの影響などを否定するわけではありません。
その女の子が100%安全な状況にいるとも思えませんし。
それは彼女自身の判断。
外的な要因を考慮して、大丈夫だと思っているから働いているのでしょうし。

ゴメリの放射線生物学研究所を訪れたときのこと。
日本人の方々が「低線量被ばくはどのように人体に悪影響を及ぼすのでしょうか?」と口々に質問しました。
研究所の人の答えは「わかりません」。
これが今のところの答えだと思うのですよ。

研究所の人「だって、まだ27年しか経っていないんですよ」(←数年前の話です)
「27年しか」
まさにその通りです。
研究所の人「低線量被ばくの影響の調査は時間がかかるものです。もしかしたら、50年後に影響が出るかもしれないし、数世代あとの世代に影響が出るかもしれないし。それはまだ誰にもわからないのです」
常に研究を続けていく必要があります。

DSC01341カフェの外に出ると、ネコが日向ぼっこしていました。
わずかに日の当たるところを見つけて、気持ちよさそう。



チェルノブイリにもネコはいるんです!!!
みんな、生きているんです!!!




今年も私はチェルノブイリに行きます。
また何を自分が感じるのか、何を思うのか。
チェルノブイリを訪れることはチェルノブイリを見るというだけにとどまらず、ベラルーシというチェルノブイリ原発事故で激しく汚染された国に住み続ける自分自身の心の中を覗き込むことでもあります。


生きるということ
その尊さを感じる旅になるでしょう。




追伸
チェルノブイリは一度は訪れてみる価値がある場所だと私は思っています。
チェルノブイリに行ってみたいという方がいらっしゃったら、コメント欄にメッセージをいただければと思います。
私の方でお手伝いできることがあれば、お手伝いさせていただきます。
その場合はメールアドレスを明記されることをお忘れなくお願いします。

追記
http://people.onliner.by/2015/05/01/radiaci9/
汚染地域に近いゴメリ市で放射能測定をした様子です。チェルノブイリ近辺の森林火災による影響はほとんどないことがわかります。ロシア語ですが、翻訳機能などを使って、ぜひ読んでみてください。


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2015年04月23日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日のミンスクは晴れ。
今は、ですが。
最近、天気がものすごく変わりやすいのです。
朝晴れていると思ったら、夕方は雪が降ったりして。

全体的にはちょっと暖かくなりました。
でも、ちょっと暖かくなったと思って、薄着なんかをするとすぐに風邪をひきます。
私の学生でも風邪をひいている子や体調を崩している子が結構います。

私も昨日の夜はちょっと熱が出ました。
でも、風邪というわけではなく、疲労がたまっていたようです。
寝たら、まあまあ元気になりました。

本当は今日はミンスク郊外の病院に行って、子どもたちと折り紙をする予定だったんです。
でも、今朝になって病院の人から電話があり、今日はチャリティーコンサートがあるので、違う日にしましょう、と。
正直、助かりました。
まだ体が重い感じなので。

そんなわけで、今はうちにいるのです。
山積みになった仕事を片付けないと・・・


さて。
ここ最近、このブログは去年の夏のことばかり書いているわけですが、今日でそれも最後です。
本当は去年のうちに書いておくべきことでした。
今日は福島に行った時のことを書きたいと思います。

2012年から毎年夏、私は福島を訪れています。
一人の時もあれば、家族と一緒の時もあります。
去年の夏は最初に日本へ留学中の私の学生たちと一緒に、それから家族と一緒に、つまり二回、福島を訪れました。

最初に学生たちと行ったときは様々なイベントに参加させていただきました。
福島市内の幼稚園で子供を持つお母さんたちとの交流会があったり、福島大学でディスカッションをしたり、と非常に有意義な時間を過ごさせていただきました。

私の学生も3人お邪魔したのですが、それにしても、よく飲みました。
飲んでいる最中、学生がいないなあと思ったら、みんなコンビニで大福を買ってきたのでした。
大福を食べながらお酒を飲むってどうよ!?
学生たちは「おいしいです!」と言っていましたが・・・
みんな和菓子が大好きで、しょっちゅう食べていました。


IMG_1667
8月に入って、私はベロニカちゃんと龍二くんと3人で改めて福島に行きました。
これは福島駅にあったのですが、よく近づいてみると、人の写真でできているんですね。
びっくりしました!!!

その日の夜は福島県議会の小桧山先生と杉山先生と夕食をご一緒しました。
お二人とも龍二くんが騒がしいのに嫌な顔一つせず、龍二くんと遊んでくれました。
いつもお世話になっております!!!

次の日は小桧山先生自らの運転で会津若松へ。
途中でいろいろなところへ行きました。

IMG_1738これは五色沼です。
小桧山先生いわく、水が濁っていてあまりきれいじゃないということでしたが、確かに2年前の時よりは色が違って見えました。
それでも、十分きれいなのですが。

IMG_1759お昼ご飯は小桧山先生お勧めのお店へ。
猪苗代のラ・ネージュさん。
喫茶店なのですが、そばが有名なのだそうです。
このそばとソースかつ丼のセット。
実は私もベロニカちゃんも気に入ったのはソースかつ丼。
これは最高においしかった!!!

そばは更科。
白っぽいそばはそんなに私は好みじゃないんです・・・
私が好きなマンガ「そばもん」にも、会津はさらしなそばが多いと書いてあって、「おおっ!」とは思いました。

IMG_1769これは飯盛山のさざえ堂。
上に登って降りるまでに、同じ階段を全く通らずに上り下りできるという不思議な建物です。
それにしても、この日は暑かった!!!



IMG_1793もちろん、鶴ヶ城も行きました。
この侍の人たちは何のためにいたんだろう?
観光客向けのサービス? コスプレ?
いずれにしても、ベロニカちゃんと龍二くんは大喜びでした!



夜は国会事故調査委員会の委員だった蜂須賀禮子さんとの夕食。
大熊町の商工会の会長さんです。
国会事故調の方々がベラルーシに視察に訪れたとき、私は通訳としてご一緒しました。

IMG_0525この夕食がすごかったのです!!!
会津若松って、海から遠いですよね?
信じられないほどの海の幸!!!
刺身は最高においしかった!!!

IMG_0526これは会津の郷土料理「こづゆ」。
干し貝柱のだしがきいています。
これは丼で食べたいくらいおいしかった!!!
だしがちょっと独特ですね。

IMG_0527これ、サラダですよ!
カニがごっつり入っています!!!
私、そんなにカニ好きというわけではないのですが、これはちょっと夢中になって食べちゃいました。

IMG_0529天ぷらもカニだ〜!
ああ、食べたい、食べたい・・・
すっごいおなか一杯になって、食べきれなかったです。

IMG_0530朝食もこの豪華さ。
ベラルーシでは絶対に食べられない朝ごはんです。

これは全て会津若松市内にあるシティホテル石橋の中にある「海神」さんの料理です。
こちらには2年前にもお邪魔していて、おいしいものをたくさんいただきました。
今回はベロニカちゃんや龍二くんにも食べてもらうことができてうれしかったです!!!

会津若松にお泊りの際はシティホテル石橋へ!
シティホテル石橋
正直、部屋はちょっと古めですが、私は全然気にならないです。

ホテルの二階は「海神」さんです!
海神
おいしい海の幸が堪能できます!!!

IMG_1881次の日は蜂須賀さんが住んでおられる仮設住宅にお邪魔しました。
私にとっても初めての体験です。
広さ的には一人ならまだ何とかなるとしても、家族3〜4人となると窮屈だろうなあという感じでした。

龍二くん、隣の部屋に勝手に入ってしまって。
お隣は若い女性とご両親の3人なのですが、そのご家族、とても優しく、初めて会ったばかりの龍二くんにお菓子までくださいました。

蜂須賀さんには龍二くんにおもちゃまでいただいて、本当に恐縮です。
ありがとうございました!!!
またお会いできる日を楽しみにしています!!!


IMG_1938
その日は会津若松を散策してから、郡山の知り合いのところにお邪魔しました。
駅の近くにあったスパイダーマン。
龍二くんも大喜びでした。


今年も福島に行きたいと思っています。
おいしいものも多いし、たくさんの知り合いの方にも会いたいですし。
今年はぜひ「とら食堂」に行ってラーメンを食べたいです!!!

akiravich at 19:38コメント(0)トラックバック(0) 

2015年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から4年が経ちました。

ベラルーシにいると、日本のニュースはインターネットでしか見られないわけですが、少しずつ福島関連のニュースが減っているように感じるのは気のせいでしょうか。
ベラルーシに来る視察団も激減。
以前は一年間に何度も通訳の仕事があったのですが、2014年は1回だけ。

去年の夏も日本へ一時帰国しましたが、福島以外の地域では福島のことを話したり、聞いたりすることはほとんどありませんでした。
ただ、福井県にお邪魔して講演などをさせていただいたときは、原発を多く抱えている県だけあってか、非常に関心が高かったのを覚えています。
それ以外の地域では福島の話をしても、あまりリアクションが帰ってこないことが多かったです。

すでに風化してしまったのでしょうか?
でも、福島に現に住んでいる方にとっては風化しようがないですよね。
仮設住宅にいまだに住んでいる人たち、自分の家を失った人たち、家族や大切な人を失った人たち・・・
その痛みに寄り添うやさしさを持った人たちが日本にはまだたくさんいる、と信じたいところです。

去年の夏、私は福島にお邪魔しました。
そのときに痛切に感じたことがあります。

数人の方が「原発事故から3年半も経って・・・」とおっしゃっていたのです。
私が違和感を感じたのは「も」という助詞。
この場合の「も」は長い時間や期間を強調する助詞です。

今、私が感じるのは「まだ4年しか経っていない」こと。
「しか」は少ないことや短いことを強調する言葉。
この「しか」と「も」の差は大きいと思います。

何度か福島で「も」を聞きました。
私にとっては3年半でも4年でも、まだまだ短いような気がしますから、「しか」のほうがしっくりくるのですが。

ただ、「3年半も経ったのに、何も変わっていない」というコンテキストなら、「も」は非常に適切になると思います。
確かに、まだまだ進んでいない部分もあるかと思います。
除染もそうですし、補償の問題も残っている。
確かに3年半はまだまだ短い時間ですが、もっとできることがあるのではないかと思い、歯がゆく感じる部分もあります。

ベラルーシ人の研究者に低線量被ばくの人体への影響について質問した時のこと。
その時の答えは「まだわかりません」。
なぜなら、「まだ29年しか経っていないから」。

汚染地域が多いゴメリ州の州都、ゴメリの人に聞いても、「まだ29年しか経っていない」という言い方をする人がいます。
もちろん、「29年も経った」という言い方をする人も非常に多いですが、「しか」と言う人も結構います。

福島の問題、風化するにはまだまだ早いと思います。
福島以外の人の意識からも福島の問題が消えていかないようにはどうすればいいのでしょうか?
私にも答えは見えてきません。

正直、自分の中の意識も少しずつ薄れてきているのは確かです。
ベラルーシでの日々の生活の中で、「福島」を意識する時間が少なくなっているのは事実です。
福島関係の本、去年の夏、買い込んできたのですが、まだ読んでいないものが多いなあ・・・
もっとやりたいことがあるはずなのに、できていない自分が情けなくも感じます。



そんな自分を少しでも前に進めたいという気持ち。
それが、昨日の記事で書いた原爆詩の朗読ということにつながってきます。

私の中では広島・長崎、チェルノブイリ、福島というワードが一つの線でつながっています。
ベラルーシ人はよく「ベラルーシと日本は悲劇で結ばれている」という人がいます。
広島・長崎という言葉を使う人が多い割には、その具体的なことについて知らない人がほとんどなのです。

とは言っても、私自身も詳しく知っているわけではありません。
私自身にとっても勉強の日々です。

来年はチェルノブイリ原発事故から30年の節目の年になります。
その年に向けて、できることをいろいろと考えています。
翻訳関係の仕事もしたいですし、福島の方で何かご一緒できる方がいれば、一緒にベラルーシでイベントができればなどとも考えています。



先日、NHK BS1の「地球アゴラ」という番組に出演させていただきました。
震災から4年経った福島からの生中継ということで、私も汚染地域のお医者さんと一緒にスカイプで生出演させていただきました。
非常に前向きな取り組みをしている若者たちが紹介されていて、希望の光が見えてくる想いがしました。

番組終了後、インターネット上で番組の感想として、「ベラルーシでの対策を伝えることは悪いことではないけれど、今一番伝えるべきは、この4年で蓄積されたデータに基づいた福島の現状だと思う。WBCでわかった内部被爆の有無、健康状態や農作物の状況をちゃんと伝えないで、ベラルーシのことを放送されても意味がない」というものがありました。

うーん、番組の趣旨と言うのはそれぞれにあるものだと思うので、福島の現状を伝える番組というのは他の番組でやればいいわけで(←そういう番組はないのでしょうか?)。
私としては最後の「ベラルーシのことを放送されても意味がない」という文が非常にひっかかってしまうのです。
もちろん、福島の現状を伝えることは大事ですが、それが「ベラルーシのことを放送することが意味がない」ということにはつながらないと思います。
悲しくなりました。

こういうコメントが出てくるということは日本では被ばくの有無や健康状態、農作物の状況がちゃんと伝えられていないということなのでしょうか?
それが本当だとしたら、それはそれで悲しくなります。
4年「も」経っているのに・・・



書いているうちに、自分の気持ちが「も」と「しか」の間を行きつ戻りつしているのを感じます。
4年が長かったのか短かったのか・・・
自分にとっては・・・やっぱりわかりません。
長いような気もするし、短いような気もします。

失われたものの痛みは永遠になくなることはないでしょう。
その「永遠」を前にして、4年が長かったのか短かったのかを論じるのはナンセンスにも感じます。



今、私ができること。
ベラルーシと福島をつなぐことが少しでも福島の方たちの役に立つのであれば、という気持ちです。



東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。
そして、仮設住宅で不自由な生活をされている方々がいつか自らの故郷に戻ることができる日がくることを祈っております。


akiravich at 18:20コメント(4)トラックバック(0) 

2014年08月16日

ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

木曜日の昼、ベラルーシに戻ってきました。
ええ、そうなんです。
一時帰国していたんです。

今年は7月4日から8月13日までの滞在でした。
割と長めですが、ゆっくりのんびりした感じは全くありませんでした。
いろんなところに行って、いろんなことをしてきたからです。

まず、最初の2週間はずっと旅行?でした。
旅行というか仕事半分ですが。

7月4日の13時半ごろ、成田空港に到着。
しかし!!!
スーツケースが到着しない!!!


はじめてのロストバゲッジ。
しかも、預けたスーツケース3つとも届きませんでした。
経由地のアブダビにあるようで・・・

これは困りました。
日本に着いてから一週間はうちのベロニカちゃんと龍二くんと旅行する予定なの二、着替えも最小限のものしか手元にないし、スーツケースの中にはベラルーシのお土産がたくさん。
これでは何もできないというものです。
何を言っても仕方がないので、成田空港のユニクロで着替えを調達しました。

その日の夜は東京にいる私の学生たちと飲み会。
全員ではありませんでしたが、8人の学生が来てくれました。

日本に一時帰国するときは、最初の夜は日本に留学中の学生たちとお酒を飲む、と決めているのです。
日本語教師の私にとって、学生たちが日本へ行けるようにしてあげることが一つの目標なのです。
ベラルーシは自費で日本へ行けるほど裕福な人はそれほど多くはありません。
学生たちが日本へ行くチャンスは日本政府や民間の奨学金を得ることでしか巡ってはきません。
そのチャンスをゲットする手伝いをするのが私の仕事の一つです。

そのチャンスをものにして、日本へ行った学生たちと会って、お酒を飲むのは私にとって一番うれしい瞬間。
最初はチェーンの居酒屋、そこからアイリッシュパブへ。
パブを出たのが23時ごろ。
私にとっては一年ぶりの日本ですから、テンションが上がりまくり、二人のナースチャさんを引き連れて、中華料理屋でもう一杯。
そして、最後の〆は「天下一品」のラーメン!!!
ナースチャさんとナースチャさん(←ベラルーシでは同じ名前の人は全く珍しくないのです)、最後まで付き合ってくれて、ありがとうね!!!

ここから先は簡単に。
近日中に詳しいことは書いてみたいと思っています。

5日は朝から福井県の小浜市へ。
昼からベラルーシ料理教室。
もちろん、講師はベロニカちゃんです。

6日は午後までは小浜観光、午後からは福井市へ移動。
夜は以前、ベラルーシに視察にいらっしゃった県議会議員や市会議員の先生方との会食でした。

7日は朝から恐竜博物館へ。
午後は学校訪問。
そして、夜はチェルノブイリについての講演をさせていただきました。

福井に行ったのは初めてだったのですが、とても楽しく、いい思い出ができました。

8日は朝から京都へ。
清水寺を見学。
夜は京都や大阪にいる学生たちと飲み会をしました。

9日は東京へ。
昼は大宮の鉄道博物館、夜はベラルーシ視察でご一緒した大学の先生方との会食でした。

10日は朝から藤子・F・不二雄ミュージアムへ。
午後から福島へ移動。
福島でベロニカちゃんと龍二くんとはしばらくお別れ。
私は福島市に残り、二人は私の山形の実家へと向かったのでした。
しかし、前日の大雨の影響で山形新幹線がストップ。
二人は予定を変更して、仙台へ行き、そこへ私の兄に車で迎えに来てもらうということになりました。

11日と12日は福島市での催し物に参加。
福島市の視察団の通訳をしたときにアシスタントをしてくれた、私の学生たちと一緒です。

13日は郡山へ行き、プロレス観戦!!!

14日は早朝からJRで移動。
行き先は・・・札幌!!!
朝6時台に出発して、札幌に到着したのは16時!
大変でしたが、そもそも電車に乗るのは嫌いじゃないので、全く苦になりませんでした。
それに、結構寝ていましたから、あっという間で。
夜は今年の3月にベラルーシ・ウクライナでご一緒した大学の先生と医師の方と会食。

ちなみに、何で郡山から札幌まで飛行機ではなく、JRだったのかというと、ジャパンレールパスという乗り放題チケットを持っていたから。
ここまで読まれて、「交通費はどうしているんだろう?」と思われた方もおられるかもしれませんね。
このジャパンレールパス、外国人、または海外永住者の日本人向けに販売されているもので、JRの路線が一部を除き、乗り放題になるのです。
新幹線の指定席も乗り放題なのですが、新幹線の「のぞみ」と「みずほ」は乗れません(←寝台車なども)。
「のぞみ」に乗れないのは結構痛いですが、「ひかり」や「こだま」で移動しました。
期間は一週間、二週間、三週間から選べます。
私は二週間のチケットを買いました。

15日は朝の飛行機で札幌から東京へ。
さすがにここでJR移動だと、一日潰れてしまいますから。
15日は横浜でクラシック音楽のコンサートへ。

16日は朝から自分が行きたかったところを散策。
夜は千葉のお寿司屋さんへ。
これまた通訳でご一緒した方のお店です。

17日はジャパンレールパスが使える最終日。
お昼に新幹線で福島に行き、市会議員の先生たちと会食。
それから、山形の実家に帰りました。

ふーっ。
我ながら、よくこんなに移動したなあ。
日本に着いて2週間は実家に帰っていないのです。
まとめてみると・・・

東京→福井→京都→東京→福島→札幌→東京→福島→山形

すごいなあ。
よくこんなにいろんなところに行ったもんだ。

実はその後、もう一度山形を離れたのですよ。
仙台に行き、一度山形に帰り、次の日、福島へ。
福島市で一泊し、それから会津若松で一泊。

今回の滞在では行きたいところを行きつくした感じがあります。

いや、違うな。
本当はちょっとした用事で高知県へ行こうとしていたのですが、ジャパンレールパスで移動できる期間が限られているので断念したのです。
あと、鳥取へ行って砂丘を見ようというプランもあったのですが、同様の理由で却下。
次に一時帰国した時にはぜひ行ってみたいです。

いろいろと書きたいことがあります。
しばらくは夏休みで時間があるので、どんどん書いていきたいと思います。




一時帰国することについてはこのブログでは一切触れていません。
長くこのブログを読まれている方ならわかると思いますが、家族の安全などを考えると、ブログには何も書けないのです。
その辺りの事情は2012年2月15日の記事に書かれています。
そして、昨年度(←ベラルーシの教育機関の年度だと、2013年9月から2014年6月まで)は新たな問題が。
誹謗中傷、脅迫、つるし上げ・・・
まあ、いろんな経験をさせてもらいましたわ。

私の知り合い数人のところに行って、私の悪口を言いまくった人もおられました。
私に面と向かって言う勇気もないのでしょう。

こそこそと勇気を振りかざす人間にろくな奴はいない。by はぐれミーシャ
そんな人間が増えているような気がするのですが、気のせいでしょうか?

いろんな不快なことが起こり、精神的に苦しい一年でした。
そのせいか、扁桃腺が腫れ上がり、高熱を出したまま、試験をやったりもしました。
自分が信頼していた人に裏切られたりもしました。
自分が手塩にかけて育てた学生に誤解が元でなじられたりもしました。

でもね。
そんなのは・・・
蹴散らしてやる!!!

今の私には守るべきものがたくさんある。
でも、守るだけじゃダメなんだ。
あらゆるものを蹴散らして、前に進む心こそ、今の自分に必要なもの。
今年は41歳になるけど、もっともっと上を目指したい。
日本語教師として、通訳として、そして、一人の人間として上を目指したい。
私を貶めようとする人間にかまっている暇はない。

辛い時、私の家族が支えになってくれます。
これは私たち家族にとってはごく普通のことです。

私がうれしかったのは学生たちがみんな私を支えてくれたこと。
私が問題を抱えていた時に、個人教室の生徒全員、文字通り全員が私を支えてくれました。
私の悪口を言っている人たちには信じてもらえない、いや、信じてもらえなくても結構なのですが、学生たちとの信頼関係は深く、それを知ることができ、私は幸せでした。

9月からの新学期は私にとっても正念場。
私の生活の中に変化が起こる可能性があります。
具体的にはまだ書けませんが。
がんばるよ!!!


日本でお会いした皆様のおかげで、充分にエネルギーを充電して、ベラルーシに戻ってくることができました。
ありがとうございました!!!
今回、時間の都合などでお会いできなかった皆様、ぜひ次の一時帰国の際はお会いしましょう!!!


akiravich at 23:11コメント(2)トラックバック(0) 

2014年05月28日

ご無沙汰しております。
はぐれミーシャです。

いやあ、いそがしいです。
いそがしいったらありゃしない。

ここ最近は大きい通訳の仕事などはないのですが、通常の仕事だけでも結構大変で。
常にチェックする宿題を抱えている状況です。
個人教室だけで100人以上の学生がいますからね。

さて。
今日のテーマは日本で話題の美味しんぼ鼻血問題です。

このニュース、私も気になっていて、毎朝インターネットのニュースをチェックするときは真っ先にこの問題についての記事を読むようにしていました。
簡単に言ってしまえば、私は鼻血は出るわけがないという考えでいました。
様々な方の意見などを読む限り、医学的には放射性物質のせいで鼻血が出るというのは考えにくいという意見が多く、私もその通りなのだろうと思っていました。

5月23日、国会内で「鼻血には医学的根拠がある」という内容の記者会見が開かれた、ということをYahooニュースで読みました。
会見をした方のお名前を見てびっくり。
お一人はつい最近、通訳でご一緒した方。
もうお一人は2年ほど前、通訳でご一緒した方。
いずれも非常に素晴らしい方たちで、私は通訳させていただいたことを誇りに思うほどです。

それまでは「鼻血はあり得ないだろう」と思っていたのですが、その記者会見のことを知って、ちょっと確信が揺らぎました。
お二人とも卓越したプロフェッショナル。
そのお二人が言うのであれば・・・

私は自分でも調べてみようと思いました。
「『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」を見ると、チェルノブイリの汚染地域では低線量被曝でも鼻血が出る、それは日常的であるということを書かれている方がおられました。
本当かな?


昨日は子供の保養施設に行ってきました。
いつものように折り紙教室です。
通訳で何度も訪れているところで、職員の方も知り合い。
昨日電話して、「明日折り紙をしに行ってもいいですか?」と聞くと、「もちろん!」と即答。

最初は鼻血関係のことを職員の人に聞きたいなあと思っていたのですが、施設に向かう途中、気が変わりました。
私は子供たちのところへ折り紙をしに行くのですから、そこの軸はぶれさせたくないのです。
あんまり難しく考えるのはやめて、普通に子供と遊んで来よう、と。
これこそが私の折り紙教室のベースにある考え方なのです。
私とチェルノブイリ 〜瓦討論泙蟷罎ら始まった
私とチェルノブイリ◆.福璽好船磴舛磴鵑悗竜Г

保養施設に着くと、職員の女性が出迎えてくれました。
そして、すぐに子供たちの娯楽室へ。
そこは子供たちが自分で何かを作ったりするプレイルームのようなところです。

子どもたちが12人ぐらい来て、折り紙スタート。
その保養施設にはベラルーシの様々な地域(主に汚染地域)から子供が来ているのですが、今回はゴメリ州のチェチェルスクという町の子どもたちでした。
いつものように日本語を軽く教えてから、鶴を折り始めました。

そのとき、ふと思ったのです。
子どもたちに直接聞いてみよう。
大人がいるといちいちコメントしてきたりして面倒だから、職員の人が席をはずしている今のうちに聞いてしまおう。
ちょっとデリケートな問題に感じるかもしれませんが、ベラルーシの子どもたちは割と抵抗なくいろんな質問に答えてくれることを私は知っています。

はぐれミーシャ「あのね、一つ変な質問があるんだけど、いいかな?」
子どもたち「どうぞ」「いいよ」
はぐれミーシャ「みんなの中で鼻血がよく出る子っている?」
そう聞くと、数人の子どもが手を挙げました。

はぐれミーシャ「あ、そうなんだ。みんなの周りにもそういう子、いる?」
子どもたち「いるよ」
はぐれミーシャ「それって頻繁に出るの?」
出ると答えた子どもたち「そんなことないよ。時々」
はぐれミーシャ「それって、放射能のせいだと思う?」
子供全員「違うよ。血圧のせいだよ」
速攻で否定されました。
その後、簡単に日本で話題になっている鼻血の話をすると、子どもたちは「血圧のせいだと思うけどな」。

彼らが暮らすチェチェルスクはチェルノブイリにそれほど近いわけではありませんが、他のベラルーシの町よりは放射線量が高い町。
移住権利区域(年間被ばく量が1ミリシーベルトを超える可能性がある地域)に指定されています。

DSC01615DSC01616DSC01617DSC01613
ここから先は普通に折り紙。
楽しく会話しながらの折り紙です。
みんななかなか積極的でした。

子どもたちに「今年の夏はどこか行くの?」と聞くと、口々に「イタリア!」「ドイツ!」。
彼らがお金持ちだから旅行に行くというわけではありません。
これは夏の保養のためにドイツやイタリアに招待されるのです。
ゴメリ州のようなチェルノブイリの汚染地域では珍しくないことです。
いまだにこういうことが続けられているんだなあ。

DSC01618DSC01619DSC01620DSC01623次のグループも楽しく楽しく。
このグループはチェチェルスク、レーチッツァ、レーリチッツィ、ゴメリと、いろんな町の子どもがいました。
最初は7人ぐらいだったのが、「ちょっと面白そうだ」と部屋を覗いてきた子どもたちで部屋はいっぱいになりました。
とても楽しい子供たちで、私もリフレッシュできました!!!


このグループでも全く同じ質問をしてみました。
そして、全く同じ反応が返ってきました。
鼻血が出ると言った子供たちに聞きました。
はぐれミーシャ「それはよく出るの?」
子どもたち「よくは出ないよ」
はぐれミーシャ「鼻血が出やすいとか」
子どもたち「出やすいわけじゃないよ」
はぐれミーシャ「何のせいだと思う?」
子どもたち「血圧」「みんな時々はあるんじゃないの?」
はぐれミーシャ「血圧、高いの?」
子どもたち「ちょっと高い」「興奮すると高くなるんじゃないの?」

ゴメリもレーチッツァもレーリチッツィも定期的放射線管理居住区域(住民の被ばく量が年間1ミリシーベルトを超えない地域)です。

子供が鼻血を出す理由はいろいろあるのでしょう。
その「血圧」という理由がちょっと気になったのですが、うちの奥さんに聞いたところ、それは子供たちが高血圧で悩んでいるという意味ではなく、興奮したり急にスポーツをしたりして一時的に血圧が上がったために鼻血が出るのだと言われているのだそうです。

子どもたちが帰った後、保養施設の副所長さんとお話ししました。
そこで、日本の鼻血騒動について話しました。
副所長さん「そんなのあり得ないですよ」

この施設はチェルノブイリの汚染地域(「汚染地域」という言葉の定義が難しいところですが)に居住する子供たちが保養する施設です。
どんなに汚染度の低いところでも、食物による内部被ばくなどは起こってしまうことがあります。
その検査と予防、治療のための施設です。
1クール24日間で、その間に検査や治療を受け、新鮮な空気を吸い、汚染されていない食べ物を摂取するようになっています。
これは国のプログラムに基づいて行われているもので、汚染地域の子どもたちは無料で保養できます。

副所長さんの話では「1クールでたくさんの子どもが来るけど、子供が鼻血を出すケースは1クールに一回あるかないか」とのことでした。
子どもたちが住んでいる地域は定期的放射線管理居住区域からもっと汚染度の高いところまで様々。
それでも、そんなに頻繁に鼻血が出ているというわけではない。
副所長さんは「私はここで14年働いているけど、子どもが鼻血が出て仕方がないというケースは記憶にない」ということでした。

これをもって、「ベラルーシには鼻血の問題はない」と結論付けるのは早計でしょう。
日本の団体がアンケート調査をしたところ、住民の何パーセントかの人が鼻血が出ると答えているという調査結果もありますから。
もう少しいろいろな人に話を聞いてみたいです。


いくつかの疑問点があります。
・放射能のせいで鼻血が出ると結論付けるような研究はないのでしょうか?
「可能性がある」「その可能性は否定できない」というフレーズは目にしますが、それを医学的に証明することはできないのでしょうか?
「事実、鼻血が出てるじゃないか」と声高に言う人がいます。
そういう現実があるとしても、それを放射能と結びつけるにはその因果関係を証明するしかないのではないでしょうか?

・鼻血が出る人がいるとして、その人の鼻血の原因を知ることは可能なのでしょうか?
健康の問題というのはいろいろな要因が絡んで起こるもので、たった一つの原因で起こるものではないと思うのです。
これは他の病気に関しても言えることです。
ベラルーシである疾患が増えると、すぐにチェルノブイリと結び付けて考えたがる人が多い(ベラルーシ人以外の人で)ように思います。
でも放射線の影響だけで病気が起こることはないわけで。

・鼻血が出ると訴えている人たちの被曝量はどれぐらいなのでしょうか? そこに相関関係は見いだせるのでしょうか?

・チェルノブイリ汚染地域で「鼻血が出る」と訴えた人たちがいるのはわかりますが、それが放射能によるものだと証明する研究はあるのでしょうか?
ベラルーシやウクライナの研究者がどう思っているのかが聞いてみたいです。



副所長さんが言っていた言葉が印象的です。
副所長さん「放射能の影響は今も研究段階なのだから」
これはゴメリの放射線生物学研究所の方たちも言っていました。
日本人が「低線量被曝の影響について教えてください」と聞いたところ、「それを知るにはまだまだ時間がかかる」という答えでした。

この「わからない」という答えこそ、今現在できる最良の回答だと思うのです。
わからないから研究・調査をする。
それでいいと思うのです。

これは伝言ゲーム的な感じのところがあるように思います。
プロの専門家たちは「可能性がある」、「可能性は否定できない」と言っているのですが、全く専門家じゃない人に限って、それをあたかも事実であるかのように情報を拡散しているように私には見えます。
推量や仮定の表現をそぎ落としてしまえば、それは事実のように受け止められてしまいます。
「可能性がある」という言葉はそれ以上でもそれ以下でもありません。

鼻血に関して、放射線による被曝は検討されるべき原因の一つに過ぎないと思います。
そもそも、鼻血自体が問題なのではなく、問題なのは被曝なのだと思います。
高線量でも低線量でも被曝はないに越したことはありません。
その被曝をどう防ぐかが一番大事な問題だと思います。
もし鼻血を出している人が被曝しているのだとしたら、その人の健康をどう守るのかが大事なことではないでしょうか。


私は「美味しんぼ」は好きです。
特に初期の「美味しんぼ」が。
尖っていた山岡さんは最高でした。

中学3年生の頃、私は音楽の先生から美味しんぼの第一巻をプレゼントされました。
私は音楽高校に入るために、放課後や休みの日もその先生に受験勉強を手伝ってもらっていたのです。
ある日、その先生が「これ、面白いから読んでみろ。あげるから」と言って差し出したのが、美味しんぼだったのです。
それから、私は美味しんぼにはまっていきました。

しかし、最近の美味しんぼは初期の頃とは全く違っています。
ストーリー展開も雑なものが多くて・・・
その鼻血が出た話の回、読んでみたいです。


もうちょっと聞き取りを続けたいと思います。
近いうちに、汚染地域からミンスクに移住してきた人たちと話すつもりです。

もう一つ調べようと思っていることがあります。
それは「チェルノブイリハート」という映画についてです。

ベラルーシに視察に訪れる人から「チェルノブイリハートを見ましたか?」とよく聞かれるのですが、私は見たことがありませんでした。
初めて見たのは3月の終わり、キエフのホテルでした。
非常に疑問に思う箇所が多く、正直、不快に思いました。
最近、ベラルーシ人学生たちにも見せたのですが、みんな「数字が怪しい」「こんなことはあり得ない」と口々に言っていました。
私も同感です。

すぐにわかる間違い(というか意図的な嘘なのかどうかはわかりませんが)はゴメリ市の人口。
映画の中では70万人となっていましたが、ゴメリの人口が70万人になったことはありません。
映画が製作されたのは2003年。
2002年のゴメリの人口は48万2000人でした。
他にも出生率や甲状腺がんの発症率が怪しいと思いました。
あの映画の中に描かれていることが事実なのかどうか、徹底的に検証するつもりです。


だいぶ話がそれてしまいました。
まとまりがない文章ですみません。

ここまで読まれて、私が鼻血が放射能のせいではないことを前提に書いていると思われるかもしれませんが、そんなことはありません。
子どもたちに聞いてみて、鼻血が頻繁に出るようなら、その原因と対処法などを知りたいと思うまでです。
今回は頻繁に出る子はいなかったので、よかったです。

また他のところでも聞き取りをしてみようと思います。

akiravich at 09:06コメント(37)トラックバック(0) 

2014年03月11日

今日、3月11日で東日本大震災から3年が経ちました。

もう3年なのか、まだ3年なのか。
インターネットのニュース動画で被災者の方のインタビューを見たのですが、その方は「3年間は短かった」とおっしゃっていました。

私には、この3年間は非常に長く感じられました。
様々な変化が起こり、様々なことに関わり、非常に濃密な時間を過ごしてきました。

今でもあの3年前のことは強く脳裏に焼き付いています。
学生からもらったショートメールで震災のことを知り、うちへ帰ってテレビをつけた時の衝撃。
そして、実家の山形が大丈夫だったのかという心配。
兄から携帯で電話がかかってきた時の安堵。
その安堵感はその後の長い不安の始まりだったとは全く考えてもみなかった・・・


福島原発の事故はいまだ終息の兆しを見せず、今も何万人もの人たちが避難生活をしている状況。
東日本大震災は終わったと言えるにはまだ程遠い状況かと思います。

これまでは福島のことを考える時間が多かったですが、今日になって津波のことにも思いを馳せました。
家族や友人を失った人々の喪失感は如何ほどのものだろうか、と。
私自身、妻や息子を持つ身になって、家族の大切さは痛いほど感じるようになりました。
その家族をこんな理不尽な形で失うことの悲しみは計り知れない深さを持っているのだろうと思います。

どんなに復興が進み、生活環境が改善されても、受けた傷は戻らず、その痛みは一生残るものなのだろうと思います。
せめて今の生活環境だけでもよくなってくれればと思うのですが、いまだに仮設住宅暮らしの人たちがたくさんいる状況。
少しでも状況が変わっていってくれればと、祈ってやみません。


去年の3月11日から今日までの一年間、それまでの「震災後」よりも通訳の仕事は減りました。
ベラルーシから復興対策のヒントを得ようと毎月のように視察団が訪れていた時と比べると、その数は急激に減少しています。

確かに、情報は資料を持ち帰ったり、いろんな人と会えば得ることができます。
そして、それを拡散すれば、より効果が得られるでしょう。

しかし、その「拡散」が行われていないことが多いように思います。
例えば、ある組織の方がベラルーシのチェルノブイリ関連施設で資料を受け取り、それを翻訳するなどして利用したとします。
そのほどんどが内部資料としての利用であり、外部に出さないということが時折見受けられるのです。

そこが私にとっても、ベラルーシ人にとっても不思議なところです。
似たような視察団がたくさん訪れて、全く同じ内容の話を聞いて帰る。
こういうことの繰り返し。
もっと情報を共有すれば、もっと効果的にベラルーシにある情報が伝えられるだろうに、と思います。

こんなことを書いていますが、私自身、「一つの視察団が来て、その情報を拡散すればそれで済むじゃないか」と考えているわけではありません。
自分の目で見ることの重要性はあると思います。
ベラルーシがチェルノブイリ原発事故後、約28年経って、どのような状況になっているのか、復興はどのように行われたのかを自分の目で見て確かめることには非常に大きな意義があると思います。
まさに「百聞は一見に如かず」です。

そして、チェルノブイリ原発。
私は一度、通訳の仕事で訪れましたが、圧倒的な存在感です。
一度は見る価値があります。

自分でも矛盾している感じがします。
似たような視察団がたくさん訪れるのはどうか、と書いておきながら、自分の目で見たほうがいいと書いているのは確かに矛盾かもしれません。
この震災後の混乱期では視察団がたくさん訪れるのは普通のことです。
しかし、一回訪れて、それで終わってしまっては何の意味もありません。
得た情報や知識を生かす方法を考えなければいけないと思います。

もちろん、ベラルーシで得た情報を非常に効果的に利用している方や団体もたくさんあります。
ベラルーシの子供の保養プログラムを参考にして、実際にそれを実行しておられる方もいます。
その努力には頭が下がる思いです。

情報の共有は必要です。
みんながみんなベラルーシを訪れるチャンスはありません。
日本で役に立つ情報があれば、どんどん共有していってほしいというのが私の願いです。


私は毎朝、日本のニュースをインターネットでチェックしています。
以前に比べると福島関連のニュースが少なくなったなあと感じます。

風化

震災から時間が経つにつれ、風化してく部分はどうしても出てきます。
それは私が日本に一時帰国するたびに感じていることです。
当事者じゃない人にとってはどうしても他人ごとになりやすいのでしょう。

しかし。
事実は何も変わりません。
津波で破壊された町の中にはがれきが撤去されただけで、町の復興には程遠いところも多いようですし、福島原発事後に発生した多くの問題はいまだに解決されていません。

風化するのは人の心です。
周りにある「もの」が風化するのではなく、人の心の中の何かが風化するのだと思います。

容易に移ろっていく人の心を繋ぎ止めておくことは簡単ではありません。
しかし、被災した方だけでなく、全ての日本人がこの震災を同じ痛みとして感じることはできないのでしょうか?
日本に住んでいる限り、いつどこで災害に遭うかわかりません。
そんな日本人だからこそ、被災していない人たちも少し心の中に場所を作ってあげれれば、風化させずに済むと思うのです。
人の痛みを自分の痛みとして感じること。
共有すべきは「情報」だけでなく、その「痛み」でもあると私は思っています。

私がベラルーシにいてできることは限られています。
それでも、少しでも福島の現状がよくなることを願いつつ、通訳などの仕事に邁進していきたいと考えています。
東北人として、そして日本人としてできることを少しでもやっていきたいです。


東日本大震災で亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したいと思います。
被災地の復興が一日も早く進み、被災者の皆様方が一日も早く心安らかに生活できる日々が訪れることを心から願ってやみません。


akiravich at 15:27コメント(0)トラックバック(0) 

2013年08月28日

おはようございます。
はぐれミーシャです。

今、ミンスクは朝の5時53分。
なんでこんなに早くブログを更新しているのかというと、時差ぼけがまだ抜けていないからです。
帰ってきて数日間は私もベロニカちゃんも龍二くんも朝の4時(日本時間の10時)に目が覚めていました。
今は二人はベラルーシの生活リズムに戻り、私だけ時差ぼけのまま、今日も5時には目が覚めてしまいました。
これって、時差ぼけじゃなくて、ただ単に早起きなのだと考えればいいのだな。

仕事はまだ始まっていないのですが、なぜか忙しい。
することが山のようにあって、全く手が回らない状態です。
今日も大学に行ったり、人に会ったりとなかなかうちにいる時間はありません。

正直なところ、まだ日本での夏休み気分に浸っていて、仕事モードにはなっていないです。
今年の夏も滞在期間は短かったけど、今回は非常に密度が濃い滞在になりました。
忘れられない思い出もたくさんできました。

そんな中、非常に印象に残った出来事がありました。
今日はそのことについて書いてみたいと思います。

私は8月8日から11日までと20日に福島に滞在しました。
視察団でお世話になった方々にお会いするためです。
視察で学んだことをしっかり「福島のこれから」に生かそうとしている人たちのお話を聞いて、私も学ぶところが多かったです。

それは20日の夜中、すでに21日になったときのことでした。
飲み会でご一緒した方々と別れ、ベロニカちゃんと龍二くんが待つホテルへ帰りました。

何か小腹がすいた(←その小腹の積み重ねが大腹←ぽっこりお腹へのプレリュード)。
ここはラーメンでしょ、と思い、千鳥足のまま福島の町へ。

これがいけないんだよなあ。
昔から「ちょうどいい」ところで止まれない性格なんです。

福島駅の東口。
時刻はすでに12時半過ぎ。
チョット歩いたら、すぐにラーメン屋は見つかったのですが、何かそそられない。

こういうときに私が求めるラーメンはすっごいおいしいラーメンというわけではないのです。
むしろ場末感全開の中華料理屋とか、札幌ラーメンのチェーン店とか、そういうので全然いいのですよ。
変にグルメ志向の店で当たりくじを引き当てることはほとんどありませんからね。

20分以上歩いてみましたが、なかなかいい店が見つからない。
そこで仕方なく、最初に見つけた小奇麗な店に入ってみることにしました。

最近、似たようなタイプの店は東京なんかでもよく見かけます。
何て説明すればいいのかわかりませんが、「狙った感」が異常に強い店。
そういう店にありがちなものを列挙すると・・・
・店名が豪快な書道風に書かれている
・ラーメンの名前が異常に長かったり、読めないような漢字で書かれている
・店員がマニュアル感たっぷりに元気よく「いらっしゃいませ」と言う
・かばんなどを直接床に置かないようにするためのカゴがあったりして、お客様のことを考えています感が出まくっているが、それよりは「味の事を考えろよ」と言いたくなるようなレベルのラーメンが出てくる
私が入った店はその全てに当てはまっていました。

メニューを見て、びっくり。
スープの種類がいろいろあるのね。
魚介の味が入っていたり入っていなかったり。

私がパッと見て注文を決めたのは一番辛いメニュー。
名前なんだったかな?
漢字が10文字ぐらい並んでいて、下手すると戒名にしか見えない。

そのラーメンを注文すると、店員が「本当に辛いですよ」。
無駄なお気遣い、ありがとうございます。

待っている間に店内を観察。
とは言っても、自分が首を動かして見える範囲の視野には特に面白いものはなくて超退屈。
マンガでも持って来ればよかったなあ(←私はもうすぐ40歳)。

すると、店員さんがやってきました。
「何だろう!?」と思っていると、私の前に伝票を置き、言いました。
「伝票から失礼します」

一瞬意味がわからず。
「伝票から!? なんだそれ?」
私の酔いは一気に覚めました。

今、日本では「バイト敬語」というのが蔓延していると聞きます。
アルバイトの若者が使う敬語で、敬っているように聞こえるけど、実際は日本としてはおかしいというものです。
例えば、「よろしかったでしょうか?」(←実は私はそれほど変だとは思っていません)とか、「1万円からお預かりします」(←これは変だと思う)と言ったフレーズです。

「一万円から」の「から」は何なんだ、ということですよ。
Wikipediaを見ると、いくつかの説明が挙げられていますが、私としては納得できる説明は一つもありませんでした。

普通、「から」の前にくるのは、人の名前とか時間、場所が普通だと思うんですよね。
そこに現れた「伝票から失礼します」。

「伝票からはじめましょう」という意味だったのだろうか?
となると、それは「友だちからよろしくお願いします」の「から」と同じだろうか?
そうなると、あの店員の告白だったと捉えるべきか?
しかし、あの店員は50代ぐらいのおじさん。
うーん・・・

「から」の前に来るのが人の名前だとしたら、「伝票」に近い人の名前は・・・
ユンピョウ!!!
でも、俺とユンピョウの間には何のつながりもないはずだ・・・

そうこうしているうちにラーメン登場。
表面は真っ赤っか。
でも、そういうのは全然気にならない。

一口食べてみると・・・辛い!!!
いくら辛い物好きな私でもこれは限度を超えている。
店員の告白・・・否、忠告を聞いておくべきだった。

辛さにもいろいろあって、韓国の唐辛子何かだと丸みが出て、味にも深みが出ることがあります。
しかし、そのラーメンの辛さは明らかに日本の唐辛子の直線的な辛さ。
スープの味も何も感じられない。
旨みを加えるわけでもなく、ただただ辛いだけのスープ。
これは大失敗だなあ・・・

それにしても。
「伝票から失礼します」は衝撃的。
「一万円からでよろしかったでしょうか?」というのはもう結構慣れた感じはあるけど(←日本語として間違っているかは関係なく、私はその言い回しが嫌いです)、「伝票から」はないだろ。
それとも、私が日本にいない間に、そういう言い方が普通になったのかな?

言語というのはどんどん変わっていくもの。
それを「進化」と捉えるか、「乱れ」と捉えるかは人によって違うのでしょう。
言葉は生き物だから変わっていくのは当たり前だというのが私の考え方。
ただ、それも程度問題で、何でもかんでもOKとしていたら、どんどんおかしくなっていくだろうとは思います。
でも、若者が変な言葉を生み出したからって、日本語はそんな簡単にはビクともしないと思うんですよ。
「乱れ」と騒ぐよりは、私は楽しんじゃいますね。

もちろん、好き嫌いはありますよ。
アラフォーとか意味わかんないし。
「ツンデレ」はいまいち意味がわからないけど、響きは楽しい感じだなあ。

それにしても。
ラーメンですよ、ラーメン。
福島駅東口付近でおいしいラーメン屋をご存知の方がいらっしゃったら、教えていただけるとうれしいです。
他にももう一軒入ったことがあるのですが、そこも全然おいしくなくて。

でも、福島はおいしいラーメンの町がたくさんありますよね。
喜多方とか、白河にもおいしい店がありますよね(←「とら食堂」に行ってみたい!)。
だから、福島市内にもおいしい店はあると思うんですよね。

あと、もう一つ感じたのですが、麺の量が多いと思ったのですが、気のせいでしょうか?

今日のミンスクは曇り。
仕事が山積みです。
頑張るぞ!!!

akiravich at 13:33コメント(5)トラックバック(0) 

2013年08月25日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

昨日、日本からベラルーシに帰ってきました。
またブログでは告知しないで、一時帰国しました。

これまでブログを読んでくださっている方ならご存知かと思いますが、例の問題がまだ解決していないので、帰国することはブログには書けないのです。
2012年の2月16日のコメントを最後に、誹謗中傷のコメントはストップしていますが、その人物が書いた一方的な終結宣言では安心できるはずもありません。
私はこの問題はまだ終わっていないと考えています。
なので、解決するまではブログの中で帰国のことが書けません。
これは辛いことですが、仕方がないです。

日本に帰国していたのは7月28日から8月23日までです。
しかし、ベロニカちゃんと龍二くんは7月3日から日本にいました。
というのは、私は7月20日から福島市の視察団の通訳をすることになっていたので、ベラルーシに残ったのです。
これは逆単身赴任状態。
龍二くん、3歳ですでに単身赴任状態!?
ベロニカちゃんと一緒だから、「単身」ではないな。
「複身赴任」かな?(←日本語が怪しい日本語教師)

7月2日にベロニカちゃんと龍二くんが日本へ行ってからは、何か心の中にぽっかりと穴が開いたような状態が続きました。
やっぱりみんなで一緒が一番いいんですよね。
ベロニカちゃんには「日本では単身赴任なんて珍しいことではないし、ベラルーシでもお父さんがモスクワかどこかに出稼ぎに行くのは普通のことなんだから」と話していたのですが、一人でいるのは私自身もきつかったです。

ベロニカちゃんと龍二くんは3日は東京に一泊し、4日は東京見物をした後で、私の実家がある山形へ向かいました。
東京ではベロニカちゃん念願の東京スカイツリー、動物好きな龍二くんのために上野動物園へ行きました。
3日も4日も私の学生たちで東京の大学に留学している子達が付き添ってくれました。
ベロニカちゃんも日常会話程度の日本語は理解できるとは言え、漢字などはまだまだ厳しいですし、しかも極度の方向音痴なので。

Изображение 076スカイツリーからの景色、龍二くんの目にはどんな風にうつっているんだろう?

Изображение 152楽しそうだなあ。
オレもこの場に一緒にいたかったなあ。
まあ、いつか一緒に行ければと思います。

私のほうは久しぶりに一人暮らし気分。
さびしいですが、100%自分のために時間が使えるのがうれしかったです。
勉強したり、本を読んだりとやりたいことはたくさんあったのですが、ほとんど何もできなかったです。
でも、一人じゃないとできないことができたりして。
例えば、ゆっくりクラシック音楽を聴いたり、映画を見たり。

最初はゆっくり、のんびり過ごしていましたが、福島市の視察団の訪問が近づくにつれ、どんどん多忙に。
「この仕事が終わったら、日本に帰って家族に会える。そして、日本の寿司が食べられるんだ」と自分に言い聞かせていました。
通訳の仕事は精神的にも肉体的にもかなりハードでした。
この視察団のことはまた改めてゆっくり書きたいと思います。

仕事が終わって、27日にミンスクを出発。
アブダビ経由で、28日の昼に成田に到着。
いつものように成田で寿司を食べました。
成田で食べる寿司は毎回恒例になっています。

私はすぐに山形には帰りませんでした。
東京に4泊し、それから日帰りで福井県に行ってきました。
山形に帰ったのは8月1日のことです。

去年は徳島や長崎まで足を伸ばしましたが、今回はそこまでの大旅行はしませんでした。
仙台と福島だけです。

結局、実家にいたのは正味二週間ぐらいでしょうか。
それでも、私にとっては最高の夏休みになりました。

今年は例年よりも涼しかったように思うのは私だけでしょうか?
去年のほうが暑さが厳しかったように思います。

よく「ベラルーシもこんなに暑くなるんですか?」と聞かれることがあります。
ベラルーシでも35度以上になることはあるんですが、それはそんなによくあることではありません。
それに、湿度が違うので、日本よりはだいぶ過ごしやすいですね。
東京だと、夜中でもモワッとした暑さがありますが、ベラルーシでは昼どんなに暑くても、夜には涼しくなります。

それにしても、よく食べて、よく飲みました。
ベラルーシにいる間の鬱憤を晴らすかのごとく、食べまくりました。
これからベラルーシでダイエットです!!!

日本での夏休みについてはまたブログでいろいろ書いていきたいと思います。
9月2日から新学期が始まるので、それまでは割と時間が取れると思うので・・・

いや、取れないかなあ。
することが山積みなんですよ。
今からあせっても仕方がないから、ゆっくりやろうかな・・・

akiravich at 20:11コメント(2)トラックバック(0) 

2013年03月11日

こんにちは。
はぐれミーシャです。

今日であの東日本大震災から2年が経ちました。
被災された皆様の中には未だに不自由な生活を余儀なくされている方々、悲しみに打ちひしがれている方々、様々な困難に直面されている方々などが多くおられることと思います。
皆様の一日も早い復興、一日も早く心安らかな生活を取り戻されることを心よりお祈り申し上げます。

失ったものは大きく、心の傷は深く、その深淵を覗き込もうとすれば、私には到底耐えられないほどの痛みが心の底から湧きあがってきます。
当事者でない私は想像することしかできませんが、自分の家族をあのような理不尽な災害で失うことは想像するだに恐ろしいことです。

人生には時が解決してくれるものと解決してくれないものがあるように思います。
復興しなければならないものの中には「心の復興」もあるように思うのです。

こんなことを書いていながら、自分は何もできていないことに歯がゆさを感じます。
私ができることは日本とベラルーシの橋渡し的な仕事だけなので・・・
私としては、ベラルーシでこれまで蓄積されてきた知識や経験が少しでも日本の、そして福島の復興に役立てばという気持ちでいます。

2012年3月11日からの震災後2年目は福島のことが頭から離れない一年でした。
通訳の仕事も非常に多く、4月の国会事故調の仕事を皮切りに、福井県議会、福島県議会、福島視察団と多くのチェルノブイリ関連の仕事をしてきました。
普段の生活の中でも、福島関連のニュースは必ず読むようにし、様々な資料に目を通しました。
それは仕事のためという側面はもちろんありますが、それ以上に一人の人間としてという意味合いも持っています。

外国に住んでいると、自分が日本人であることを強烈に意識する瞬間があります。
2011年3月11日から、私の心の中ではその瞬間が続いています。
もはや瞬間ではなく、持続した状態です。




ベラルーシのチェルノブイリ関係の省庁ではよく「もう復興の段階ではなく、発展の段階なのだ」という言い方をよく耳にします。
確かに、ベラルーシはすでに27年近く経っているだけあって、整っていますし、汚染地域の一般の人たちも放射能との「共存」に違和感を感じていないように見えます。

しかし、ベラルーシも事故当時は混乱を極めたのではないかと推測します。
「推測」と書いたのは、その当時の話というのがほとんど出てこないのです。
非常に大ざっぱな話として、「最初は手探り状態だった」という話が出てくる程度です。

今のベラルーシの現状と比べれば、福島の復興の道のりはまだまだ遠いのではないでしょうか。
まだ始まったばかりという感じがします。
気が遠くなるような道のりですが、前に歩いていくしかないのでしょう。




私は通訳という仕事で直接的に福島の方々のお手伝いをすることがあるわけですが、日本語教師としての仕事も非常に重要な意味を持つと考えています。
去年の11月、福島市からの視察団がベラルーシを訪れた際、私は4人の学生を同行させました。
彼らは福島市の方々との交流を通して、今の福島の現状を知ることができたと思います。
そして、彼らのような若い世代がこれからの日本とベラルーシの関係発展に努力していくのだろうと思います。

私は近いうちに大学で東日本大震災をテーマにした授業をしようと考えています。
次にいつか福島やその他の被災地の方がいらっしゃったときは、ぜひ大学に来ていただき、学生たちとお話していただけないかと考えています。
もしベラルーシにいらっしゃる方で、お時間を割いてくださる方がいらっしゃれば、ご連絡をいただければと思います。




私は大震災や福島原発のことを「伝える」ことは非常に重要だと思っています。
それは日本国内で情報を共有すること、正しい情報を伝えることはもちろんのことです。
そして、外国の人々にも知ってもらうことは重要な意義があるように思うのです。
私は大震災発生直後、ベラルーシの人々がどんなに心を痛めていたかを自分の目で見ました。
彼らの中ではチェルノブイリという同じ痛みを持つものとしての親近感を日本の人たちに感じているのです。
これから福島の復興にベラルーシの知識を役立てたいと考えいている以上、そのベラルーシの人たちに震災の当時の状況や福島の現状を伝えることは、義務ではないかと考えています。

これまでの福島関連の視察団はチェルノブイリ関係で日本で役立つ情報を集めることを主にやってきました。
しかし、「役に立つ情報をもらいました、はい、ありがとうございました」というだけでは、ベラルーシ人としても腑に落ちない部分があると思うのです。
これからはそれだけでなく、日本のこと、そして福島のことを伝えていくことも大事なのではないかと思います。
日本側の現状も伝えないで、「協力して欲しい」とだけお願いするのは虫が良すぎるように思うのです。
一方通行でない、本当の「交流」をしていかなければならないと思います。

ただ、中にはベラルーシの方たちに対して、プレゼンテーションをした日本の団体の方もいらっしゃいます。
相手は専門家の人が多かったのですが、彼らの反応は「そんなことは知っているから、早く質疑応答に移ろう」というものが多かったです。
彼らの反応はごもっともで、チェルノブイリのことを専門にしていたら、福島のことは当然注意して観察しているでしょう。
私がいろいろと伝えてほしいと思うのは一般のベラルーシ人に対して、ということです。

今、私が考えているのは、福島の方々と一緒にベラルーシで催し物が開けないかということです。
例えば、震災の状況を伝える写真展ですとか、福島原発の事故当時、そして現状を伝えるためのシンポジウムですとか。
何らかの形で実現できればと考えています。




私の通訳としての仕事は、コーディネーターとしての側面も持っています。
これまでの通訳の仕事を通じて、ベラルーシの様々な関係機関とのコネクションを構築することができました。
どこへ行けば、どのような情報が得られるのかというのは、ある程度把握しているつもりです。
日本人の方が欲しい情報は何なのか、行きたいところはどこなのか、という希望を聞いて、それを視察の日程に反映させることも私の仕事だと思っています。

日本の団体の方がいらっしゃった場合、訪問先は大体決まっています。
非常事態省や放射線学研究所などがスタンダードなところです。
多くの関係機関に私は知り合いがいますので、訪問時により建設的な話をするための段取りをするようにしています。

決まった訪問先を訪れるのもいいのですが、私としては一般の日本人の方がいらした場合は、一般のベラルーシ人の生の声を聞く機会をもっと作れないかと考えています。
私は一度だけ、実際に汚染地域に住んでいた方で、すでにミンスクに移住された方々のグループの通訳をしたことがあります。
それは政府の機関では聞けないような生の声でした。

それは「政府が情報を隠している」とか「政府の情報は間違っている」という意味ではもちろんありません。
政府機関の話では「移住した人々は住居も無償で提供され、雇用も保証されているので、みんな満足している」ということなのですが、それは正しい話です。
実際、移住者のグループの方たちも全員、政府がしてくれたことには満足しているという意見でした。

しかし、それは物質的な面であって、精神的には望郷の念を強く持っている人が多かったです。
中には涙を流している人もいました。
自分が生まれ育った町や村を捨てなければならなかったのですから、それは当然でしょう。

そのような痛みを持つベラルーシ人と日本人が精神的に共有できる部分はきっとあると思うのです。
何か痛みを持つ同士が助け合うことはきっと意味があると思うのです。
私の中ではまだ漠然としているのですが、何かできることがあるのではないかと考えています。




ベラルーシの「これまで」の経験を日本の復興に生かすことは非常に大事だと思います。
しかし、それにとどまらず、ベラルーシの「これから」と日本の「これから」をリンクさせていくような取り組みがこれから必要になってくるように思います。

遠いベラルーシという国にいて、自分ができること。
それはそんなに多くはないのかもしれませんが、少しでも日本の皆様のお役に立てればという想いがあります。
そして、ベラルーシと日本の関係が相互にとって有益なものになることを願っています。

akiravich at 23:10コメント(2)トラックバック(0) 
livedoor プロフィール

akiravich

山形県出身。
2000年からベラルーシ共和国の首都、ミンスク在住。ベラルーシ国立大学文学部・日本語教師。目指すのはベラルーシの金八(略してベラ金)。
愛する妻ベロニカちゃんと愛する龍二くん(5歳)とのベラルーシ生活!
日本の皆さまにベラルーシ一般国民目線のベラルーシを御紹介!

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