2005年07月03日

虚ろな言葉。

人は社会で生きていく上では、ある程度自分を拘束して生活しなければならない。当然それは形の有るものも、形の無いものも一緒である。そして、完全な自由を得た人は不安になり、きつく不自由に縛られれば不満を感じるものらしい。人は自分の住む自由な世界の中で、自分にとって都合の良い不自由を選択し、その不自由の輪の中で暮らす事ができるのだ。
そのようにして集まった同志がいたとしても、誰もが同じ方向を向き、同じものを見ているとは限らない。それは家族や恋人も同じ事で、隣にいる誰かは皆それぞれが別のものを見ているのだ。むしろ単純に、自分と同じ人は全く存在し得ないと言った方が早いが。
人々は出会い、「はじめまして」から関係は始まっていく。出会う度に多くのやり取りが行われ、多くの駆け引きが交差していく。仲の良い友ができる事があれば、馬の合わない敵が生まれるかも知れない。そして時が流れるとともに、その関係も刻々と変化していく。ふたりの間で起こった、些細な出来事で。ふたりの周囲を取り巻く環境が影響し合い、思わぬ方向へと歩まされる事がある。時の流れは世界に変化をもたらし、そして変わらないものは無い。自分はその変わっていく世界を愛し、胸に抱きながら生きていく事ができるだろうか。変化した世界は自分の事を愛し、その世界に抱かれながら生きる事が許されるのだろうか。人は自分の望む世界にすべく努力する事ができる。人は自分の望まない世界に見切りをつけ、その腕の中から抜け出す事もできる。しかし人はそれを望んだとしても、思い通りにいくという保障はない。それは努力が足りなかったからか、己の視線が見当違いな方向を向いていたせいなのか。もともとこの世界には、ロジックのような確定している要素は限りなく少なく、時の運によって事の成否が決まる事もある。運にのみ頼り得る事のできる世界もあるが、そんな世界は自分の事を抱いてくれはしない。運命の女神は後ろ髪がないのである。だから多くの人は奮闘し、強く足掻きながら自分の運命を掴み取ろうとするのだろう。

仲間もいれば、敵もいる。しかもそれぞれが自分の世界の為に足掻き続けている。そんな人々が道の向こう側に立ち、自分の前に立ちはだかってきた場合、どうなるのだろうか。あくまでも敵対し戦い合う、面倒を避ける為に道を譲る、または手を差し伸べて和解するという選択があり、どう行動するかは己に与えられた自由である。そして同じように、敵にもそれを選択する自由がある。ただどのように選択し振舞ったとしても、いずれは大なり小なりの嫌悪感を抱く事になる。そしてその嫌悪感を抱き続ける限り、その相手は敵になり得る。相手を落ち着いて聞き理解する体勢でなかったり、思考や性格を読み取り相手の伝えたい事を正確に判断し、相手に歩み寄り話し合う時間や努力が少なければ少ないほど、お互いの確執は大きくなり、自分の生活を脅かすほどの脅威になり得る。そして敵を目の前にした時の自分の行動を、敵を叩き潰すまで、延々と考えていかなければいけないのだ。自分の好む自由を勝ち取る為に、敵に歩み寄り友好的に接する。自分の好む自由を勝ち取る為に、徹底的に敵と戦う。人と接するとはそういう事で、関わる人々の数が多いほど敵は増え、ひとりの相手に割く事のできる時間も少なくなるのだ。全ての人を心から愛し、慈しむ事は可能である。が、人間社会の中ではそれは希少種の変異体であり、ある意味精神的な病気のようなものだと思わなくもない。
わたしには友人が少なく周囲には敵しかいないという理由とはこういう事であり、敵が多い分友人ひとりに割く事のできる時間を増やし、嫌悪感を抱く以上に好きな部分を多く得たいからだ。無節操に友人を増やし適当な思いやりを欠き独り善がりな理論を並べ立て理想の世界を構築していると思いこんでいる人は信頼する事ができない。人はその理論や主義に基づいた行動により信頼する事ができるのであり、空想や妄想で信頼するのではない。人付き合いが下手で敵ばかりつくっていても、素直で直向な心に接する事ができた人の方が、わたしは好きになれそうだ。現実を語り、現実を見て生きていつつも、心の中にほのかな理想を抱く程度がちょうど良いのだろう…。

わたしは相手の嫌な部分と戦う事と、好きな部分を愛でる事を別個に分けて接している。もちろん自分の個人的な気分や体調によっては、全然混同したまま接してしまう事も多々ある。自分では人付き合いは苦手な方だと思っているのだが、こういう気持ちの切り替えがハッキリとできるという部分については、結構自信があったりしなくもない。器用な人だなとか、都合のいいやつだとか、自分でも思わなくもないが。もちろん他人から見た場合は、それが分かるわけではない。全ては自分の心の中で展開している事だからだ。相手に好意を持っているように見せかけて敵意満々だとか、相手の行動を非難し中傷したりしつつも好意をよせていてドキドキしていたりとか。後半は、自分でもよく分からないが。こういった心の切り替えは人間関係に限らず、様々な仕事をこなす時にも大変有利である。「公」と「私」を分ける、と言った方が早いか。

いい加減何を言いたいのか分からなくなってきたが、ともかくこれが今日起こった出来事から生まれたものである。自分自身は第三者の人間だと思っていたから、今回はかなり無責任に行動していた。その無責任さが文章にも現れていると思われる。
自分に大切な事は自分が理解していればいいわけで、苦労してまで他人に理解させようとは思わない。何故かと言うと、その結論に至るまでの過程は他人が体験したわけではなく、自分自身やその周囲のごく限られた人々しか体験していないからである。つまり他人にはその結論を得る資格が無い。完全に理解できるわけがないからだ。その結論を他の場で活かそうと思っても、上記のように掴み所のないものにしかならない。真意を完全に伝える事ができない時点で無責任である。事の中心にいつつもそれを語らない事も、ある意味無責任ととれるかも知れないが、わたしはそうは思わない。
なのでわたしは大切な事が起こっても、日記には書かない。結論は独り占めし、自分の中で有りふれた答えのひとつに昇華させる。答えはいつか記憶の中から呼び出され、真意の見えないぼやけた文章として無責任に社会に放り出される。つまりは、虚ろな言葉なのだ。

みんな、騙されるんじゃない。
妥当な指摘がされていたとしても、
それは有りふれた答えが並べ立てられているだけ。
わたしが、何かしたんじゃない。
そこらじゅうに散らばっている答えを、
わたしの主観で拾い集めただけ。
先人達の創り出した言葉という文化が、
奇跡に近いものなだけだ…。



結論、はやく「Lカツ」を「マヨネーズ」で注文しろって事だ。



無責任に補足:

手段の為に目的を選ぶのではない。
目的に向かって歩む以上、進む方向を誤る事は余計に時間を消費する事になる。それに費やす時間の量は、目的を達成する事、得る答えには関係ない。経験量はものを言うかも知れないが。
余計に消費した時間は無駄ではないが、無駄だと思いこむだけの余地をあけてしまえば、自分の心に取り込まれてしまう。

敵とは自分の敵意が創り出すものだ。対峙すべきは己の敵意、つまりは自分。
敵を叩き潰すという事は、自分の中で答えを出す事。潰した死骸を蒐集したり蘇生したりするのは、結構楽しい。そして敵の側に立つ事は自分の可能性を見つけ出す事にもなる。自分の可能性の幅を広げる事は答えの数も増やす事になる。答えは複数追い求め、その中から選択していくものだ。そうすると、より手際よく敵を切り潰す事ができる。

選択を見誤り、失敗するという事はない。そう思う限り、失敗は有り得ない。
現にわたしは、ここ最近失敗した事はない。しかし、成功した事もない。
得るものも失うものも多かったが、それにより自分を見失う事がなかっただけだ。
今のところは。

自分が丈夫だと思うのなら強引な手段に出るのもいいが、己の力量を見誤る事はないようにしたい。
人はそんなに器用でも丈夫でもない。
保険金を得る為に自害する事についてどう思うか、その答えを出せるなら可能かも知れないが。

結論、はやく「Lカツ」を「マヨネーズ」で注文しろって事だ。
ノブさんの報告を、今も待ち焦がれていますよ。



補足に補足:
ノブさんのブログからトラックバックされたので、反撃に出ます。
牙を向かれたなら、その牙は折っておかなければ…。

アかんそうブログ
http://blog.nsk.ne.jp/akansou/


面白い記事があれば、積極的にトラバするようにしようかな。



追加で補足:
ゆこさんのブログからトラックバックしていただいたので、こちらからもリンクです。何故かゆこさまのブログはわたしのパソコンからは閲覧できないので、通常のリンクのみとさせていただきました。ごめんね…。

ゆこweb
http://www.ii-park.net/~yukoweb/


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<a href="http://blog.livedoor.jp/akiroom/">あきべや<br> http://blog.livedoor.jp/akiroom/</a>      いやぁ勝手にURL晒していいのかどうなのかはしらんが、お友…
Lカツマヨで迷ってる      ワケデハナイ【アかんそうブログ】at 2005年07月05日 01:23
友達のあきちゃんのブログを読んでいたら、とても共感できる一節がありました。>人はその理論や主義に基づいた行動により信頼する事ができるのであり、>空想や妄想で信頼するのではない。>人付き合いが下手で敵ばか...
・・・それは、当たり前のようでいて【y u k o @ d a y s】at 2005年07月05日 22:21
この記事へのコメント
>牙を向かれたなら、その牙は折っておかなければ…。
あのぉ。牙むいたつもりないんすけどぉ^^;

>面白い記事があれば、積極的にトラバするようにしようかな。
どんどこトラバしてくだされー。
それ以前に私のブログ面白い記事かけるのかが問題ではありますが。
A^^;
Posted by ノブ at 2005年07月06日 00:40
わたしは各種牙蒐集家なのですよ。
それはいいとして、牙関連の表記は冗談です。すいませんでした。

面白いというより、興味があるかですね。
面白くても興味がなければトラバしないというのが正直なところです。
Posted by あき at 2005年07月06日 03:09