郊外系の小さな部屋~作家・秋沢一氏のブログ/小説家・コピーライター・相模原から~

郊外系の小さな部屋は、作家・小説家・コピーライター・秋沢一氏の公式ブログです。 日々の雑記を、「郊外系の町」相模原・相模大野の仕事部屋から。 活動報告・お知らせ関係は随時更新。軽めのエッセイから、音楽ネタ、相模原ニュースいじり、美味しい食の話題、スポーツ寸評、硬派な社会コラムまで。

小説『海を駆ける』(著・深田晃司)の感想。

映画監督・深田晃司が、映画作品の上映とほぼ時を同じくして小説版を発表するのは、前作『淵に立つ』(2016)に続いて2度目になる。

 

ポプラ社から刊行された前作、小説『淵に立つ』については、映画版との違いや、映画作家としての深田があえて小説版を並立させることの意義などについてブログ記事で述べた。

 

今回の小説『海を駆ける』(文学界4月号)は、前作『淵に立つ』とのスタンスの相違という点においても、興味深く読むことができた。以下、そのあたりのポイントも踏まえて感想を述べていきたい。

 

※文芸春秋社より単行本の刊行が予定されていますが、まだ手元にないので、文章の引用・ページ番号等は初出の「文学界4月号」に準拠します。

 

さて、小説『海を駆ける』を読んで、私は以下のような点に注目した。

 

1)視点の置き方と叙述のスタイル

2)各章の語られる「時点」の差

3)移民・マイノリティーについての問題提起

4)カメラ(レンズ)が象徴するもの

5)ラウの正体  ※この項目にネタバレ要素が強く含まれます※
(6)まとめを兼ねて最後に 

以下、順に述べていく。

 

1)視点の置き方と叙述のスタイル

 

前作『淵に立つ』は、三人称を用いて、語り手のメタな(高次の)視点と一人の心理描写を基本軸とし、そこに映画監督でもある著者・深田晃司ならではの様々な映像的・実験的手法を持ち込むスタイルで叙述されていた。それは、かつての記事で指摘した通りだ。

 

対して、今回の『海を駆ける』では、だいぶ細かな断章形式を採用すると同時に、各章とも一人称(わたし、私、僕、ボク)による叙述を「原則」としている。「原則」であるならば、やはり「例外」があり、そのあたりにこの作品の隠れたポイントがあると思われるが、それは後述。

 

また、それぞれの登場人物たちの一人称によって語られる各章のうち、クリスの章とレニの章については、特定の相手に向けた手紙、いわゆる書簡形式を採っている。

 

多視点からの断章形式により同じエピソードを多角的・立体的に叙述する方法や、書簡形式といった手法は、日本文学の中に伝統的かつ古典的なスタイルとして存在している。一方で、そういった手法には、語りや表現が冗長になりがち、情報の整合性が怪しくなりがちといったデメリットも指摘できるかと思う。

 

その点、小説『海を駆ける』は、メインとなるエピソードの時間の流れをキープした上で、前の章で振ったネタの周辺やその後の展開を、次の章の中でしっかりと受けてリレーしていく形で展開されていく。各章における一人称の語りによって群像劇的にそれぞれの登場人物たちの個性を十分に肉付けし引き立てながらも、読み手にストーリーの本流を容易に見失わせず、先へ先へと読み進めていく推進力を与えている点は、さすがの構成といえるだろう。

 

それから、各章を一人称で叙述することの効用として、物語のキーマンである「謎の男」の存在を、距離を置いて「謎のまま」客観的に描写できるという点もある。一人称であるということは、常に描写の視点者が彼以外の誰かになるので、彼の内面や心理には踏み込みようがない。

 

そして唯一、「謎の男」の内面・心理に直接的に踏み込んでいるブロックは・・・、それは後述。

 

2)各章の語られる「時点」の差

 

作中の時間設定について気になる点があったので、ここで整理してみる。

 

(引用 P.70「イルマ[1]」)

今年は、津波がこの街を襲ってからちょうど十五年目の節目にあたるので、ありがちだなとは思いつつも、津波の特集を組むことにした。

 

小説『海を駆ける』の主な舞台であるインドネシア・スマトラ島北端の街「バンダ・アチェ」を大津波が襲ったのは、20041226日。「年目」は起点となる年を「1」とカウントするので、物語内におけるメインエピソードの「現在」は2018年ということになる。

 

前述のように、この小説は、登場人物たちの一人称で語られる各章によって展開されていくわけだが、登場人物のうち、イルマ、タカシ、レニの章は2018年現在の視点で描かれ、クリスの章は「とある事情」により20数年後からの回想として描かれ、さらにはメインキャラクターであるサチコの章に至っては、当人の語りから読み取れるかぎり30年近く後あるいは40数年後からの回想として描かれている。

 

単純に、クリスの章を23年後、サチコの章を43年後として計算するならば、クリスは2041年からの回想、サチコは2061年からの回想としてメインエピソードを語っていることになる。

 

私自身の感覚から言うと、2061年はずいぶんと「未来」な感じがするし、43年後の社会がどうなっているか見当もつかないし、そこからあえて現在である2018年を回想するというのは物珍しくも思えるのだが、もしかすると著者・深田晃司の本来のフィールドである映画の世界では意外と珍しくない手法なのかもしれない。

 

また、単純にメインエピソードの舞台となるバンダ・アチェ周辺の描写などは、見に行けば取材できる「現在」が最も描きやすいという技術的な事情もあるかもしれないし、全体的に一人称の語りが中心となるため、ストーリーに複層的な立体感を出すためにも、多少メタな(高次の)視点を持ち込む必要性があったという理由もあるかもしれない。

 

と、ここまで書いて、メインキャラクターであるサチコの「年齢」に意識が向いた。

 

(引用 P.69「サチコ[1]」)

それは、三年前の大学入学のときに、東京の練馬区に新しく借りた一人暮らしのためのアパートの前で、母と並んで撮影したものだった。

 

つまり、バンダ・アチェを訪問した2018年時点のサチコは21歳くらい。回想している時点が43年後とすれば、64歳くらいということになる。細かな年齢の計算は、実はどうでもいい。私の意識が向いたのは、サチコが「そこそこ長生きしている」という事実についてだ。

 

ストーリーの核心に触れるかもしれないこの点については・・・、やはり後述ということになる。

 

3)移民・マイノリティーについての問題提起

 

ディティール的な面において注目した点のひとつに、さりげなく、しかし刺激的になされている移民・マイノリティーについての問題提起がある。それは、我々日本人の中に根深く存在している「排外主義的な意識(あるいは無意識)」に関する問題である。

 

これは、SNS等で深田晃司自身が、ヘイトデモ、ヘイトスピーチといった政治・社会問題に対して、繰り返し表明してきた批判的スタンスでもある。

 

こうしたテーマや問題提起は、映画『歓待』(2010年)においてシンボリックに提示されたのをはじめ、深田がこれまで発信してきた様々なクリエイティブの中に盛り込まれ、繰り返し、形を変えて表現されてきたものだと思う。

 

しかし、日本を舞台にしたこれまでの作品では、いかんせんその指摘は比喩的なものにならざるを得ず、最も伝えるべき相手である我々一般の日本人にとって、若干伝わりづらいものになっていたことは否定できない。

 

小説『海を駆ける』は、深田の主だった作品としては『ざくろ屋敷』(2006年)以来ではないかと思われる、日本以外の土地を舞台に設定した内容ということで、こうしたテーマをかなり直接的な形で示すことができている。

 

バンダ・アチェの復興支援NGOの代表である日本人・貴子と、その子供であるタカシは、インドネシアという「異国」におけるマイノリティーなのである。正確にはタカシは日本人とインドネシア人のハーフだが、サチコの表現を借りれば「見た目は日本人」だ。

 

つまり、ほぼ我々一般の日本人に近い立場の二人を、インドネシアという異国にマイノリティーとして放り込むことに成功している。これ以上に、「伝わる」設定はないと思われる。

 

(引用 P.80「タカシ[1]」)

確かに、二年前までは僕はインドネシアと日本の二つの国籍を持っていたけど、十八になるとそのどちらかを選ばなくてはならないため、自分は迷うことなくインドネシア人になることを選んだのだ。その話にサチコは妙に感心していた。

[中略]

何か答えなくてはと思い、いや、別に、生まれも育ちもインドネシアだから、と素直な気持ちを口にしてみたが、サチコは今ひとつ納得していない様子だった。

 

日本におけるマイノリティー、特にヘイトスピーチやヘイトデモの対象となってしまうような立場の人々は、環境的には日本のカルチャーに大きな影響を受けて育つため、例えば民族的な意味での母国語が不得意だったり、アイデンティティークライシスに陥ったり、いわゆる本国の人々からもいわれなき差別を受ける「二重差別」に苦しんだりするケースも少なくないと聞く。

 

上記の引用部分とその周辺の記述は、そうした日本におけるマイノリティーが抱える悩みや葛藤、そんな彼らが当たり前に考えること、その結果導き出されるかもしれないある種の選択を、インドネシアという国におけるマイノリティーである「タカシ」という存在を通じて、我々一般の日本人にとって、とても他人事とは思えない熱量で伝えることに成功している。

 

これは、深田晃司のフィルモグラフィー(あるいは文芸作品も含めたクリエイティブ)の中でも、エポックメーキングなワンシーンになったはずだ。

 

4)カメラ(レンズ)が象徴するもの

 

もう1点、ディティール的な部分に触れておく。深田晃司の前作『淵に立つ』の感想でも少し指摘したように、映画監督として映像の分野を本来のフィールドとする深田の小説には、やはり映画作家ならではの視点や手法が見え隠れする部分がある。

 

そうした点は、本作『海を駆ける』においては、文学の世界では珍しいような実験的手法を取り入れるというよりは、状況や登場人物の内面の描写の中にこそ現れ出ていると感じる。

 

それは、端的にいえば、「カメラ(レンズ)といったもの」に対するスタンスだ。

 

(引用 P.69「サチコ[1]」)

タカシの真新しいスマートフォンの液晶に映るわたしは曖昧な笑みを浮かべ、まるでわたしでありながらわたしとは無関係のよそよそしい他人であるかのように見えた。

 

(引用 P.105「サチコ[4]」)

一方で、わたしは日本で、三月十一日の津波の被災地の写真をニュースやドキュメンタリー番組で幾枚も見てきたが、そこに遺体はまるで写ってはいなかったはずだ。

 

他にも、タカシはフィルム式のカメラ(写真)を趣味にしている。

 

(引用 P.92「タカシ[2]」)

ファインダーを覗いて世界を見ると、色褪せて退屈だったはずの景色が、息を吹き返したように様々な表情を見せてくれる。

 

そしてまた、主要な登場人物の一人で、個人ブログを運営するジャーナリスト志望の女性であるイルマにも注目したい。彼女は、ジャーナリスト志望ということもあって、「ネタになりそうな」物事をデジタルカメラに収めることに血道をあげているように見える。

 

作中で、そのイルマが「間違いなく」実際に目撃・体験し、動画に収めることにも成功した「とある不思議な現象」が、見る者によっては映像の「トリック」のように思え、ましてやそれが電波にのせて放送されるに至ると、より一層うさん臭く、現実と乖離した距離のあるものに見えてしまう、という一連のエピソードは、実に象徴的だ。

 

作中における「カメラ(レンズ)といったもの」の意味するところは、一定ではない。真実を映し出すものなのか、そうではないのか。平気でウソをつくのか、そうではないのか。それをポジティブに捉えるのか、ネガティブに捉えるのか(ネガ・ポジというフィルム写真用語もあるが)。

 

こうした一連の描写は、深田自身の映像作家としてのこだわりがにじみ出たものと読むこともできるし、またそうしたこだわりを持つがゆえの自戒や自己批判と読むこともできる。

 

いずれにしても、「カメラ(レンズ)が象徴するもの」の意義は小さくないと思われる。

 
5)ラウの正体  ※この項目にネタバレ要素が強く含まれます※

 

さて、小説『海を駆ける』を読み終えた読者にとって、最大の関心事はやはり、「謎の男」=ラウは一体何者だったのかという点になるのではないだろうか。

 

この論点に関しては、ネタバレ要素を抜きに語ることが難しいので、未読の方や映画版を楽しみにされている方は、読了後・鑑賞後にお読みいただくなど、適宜ご対応いただきたい。

 

ここまでの各項目で「後述」とした内容についても、この項目で合わせて触れていく。

 

まず、ストーリーの最終盤で、ラウの存在は以下のように語られている。

 

(引用 P.123「サチコ[6]」)

ようやくわたしはラウが死をもたらす者であったことを確信した。

 

確かに、ストーリーの「現在時間」の中で、ラウの動く先々には次々と「死」がもたらされている。漁村の老人、犬のルンプ、村の子供たち、そして主要人物の一人。しかしサチコが断じるように、ラウの存在に「死」の側面「だけ」を見るのには、何か少し違和感がある。作中でラウが人々にもたらす「死」には、どこか自然で、ナチュラルな感触があるからだ。

 

深田晃司作品のファンにとっては、まずは『歓待』の加川や『淵に立つ』の八坂のように、安定した状況を掻きまわし破壊するジョーカー的な存在として、ラウがイメージされるだろう。もちろん、小説『海を駆ける』において、ラウにそうした一面があることは確かだ。

 

しかし構図としては似ていても、ラウにはそれ以上のものが仮託されているように思えてならない。

 
◆ラウがもたらしたもう一つのもの◆

前述した、イルマが目撃し、動画に収めた「とある不思議な現象」は、熱中症的な症状に陥り瀕死の状態で路上に倒れていた女児を、ラウが超越的な力で復活させた、という出来事だった。また序盤には、トラックの荷台の上の籠の中に入れられてぐったりとしていた魚たちが、ラウの歌の力によってほんの一瞬だけ蘇生するという描写もあった。

 

そして、上記の引用部分でラウを「死をもたらす者」と断じているサチコ自身が、実はラウの力によって病から復活していたのではないかと読み取れる(類推される)シーンもある。

 

(引用 P.109「サチコ[5]」)

風のせいか虫のせいか、まるで水面に落ちた木の葉のようにわたしの影はゆらゆら揺れて、ふたつに割れた。割れた? 違う。その影はふたり分あった。隣に誰かいる、と思った途端、わたしの眼前は大きな手の平に覆われていた。そして潮の匂いがした。

 

この部分、サチコの隣にいたのがラウであったことは明示されていないが、前述の女児を復活させた際にもラウが「手」を用いたこと、その後サチコが前日の不調がウソのように回復したこと、そして最後の一文が象徴するものなどを踏まえると、ラウであった可能性が高い。

 

項目(2)において、私は、2018年の記憶を40数年後から回想するサチコが「そこそこ長生きしている」という点を指摘した。同じラウの「手をかざす」という行為によって、漁村の老人は程なく死を迎えたが、サチコはその後もだいぶ長く生きている。このことは、ラウが必ずしも「死のみ」をもたらす存在ではないことを示唆しているのではないだろうか。

 

では、人間に時に「死」を、時に「生」をもたらす、ラウの正体とは一体何なのだろうか? それは端的にいえば「海」そのものだろう。あるいは「自然」そのものと言ってもいいかもしれない。

 

改めて言うまでもなく、小説『海を駆ける』が誕生したきっかけには、2004年のスマトラ島沖地震と、2011年の東日本大震災(=東北地方太平洋沖地震)によって引き起こされた大津波のイメージがある。「海」は津波のような破壊や「死」をもたらす存在であるとともに、水産資源、鉱物資源といった豊かな恩恵をもたらす存在でもある。また人間の身体を構成する要素の約6065%が水であることを考えれば、「海」は我々の「生」の究極の源といっても過言ではないだろう。


巧妙に仕かけられたトリック
 

この小説の著者である深田晃司は、実はこの答え「ラウの正体=海」を、作中にはっきりと読み取れる形で示している。それも文芸作品でありながら、巧みなビジュアル的トリックを用いながらだ。完全な私見にはなるが、その解釈内容をご紹介しよう。

 

項目(1)で、小説『海を駆ける』は各章とも一人称での語りを「原則」にしていると述べた。またそのメリットとして、「謎の男」=ラウの心理や内面にいたずらに踏み込まず、距離を置いて客観的に描写できるという点を指摘した。

 

既に示唆したように、作品のほとんどを貫くこうした「原則」には、「例外」がある。その唯一の「例外」である章が、冒頭の「海」と題された章である。このブロックでは、「彼」という三人称の主語を用いて、後に貴子によってラウと名付けられる「謎の男」の内面心理を、独白まで含めて直接的に描写している。

 

なぜこの章だけ、他の章とは違う書き方をしなければならなかったのか。それは、この冒頭の章をプロローグ(あるいはイントロダクション)的に見せる、視覚トリックを仕かけるためだ。

 

文学界4月号のP.66-67の見開きを目にした読者は、「海」と題されたブロックと「サチコ[1]」と題されたブロックを見る。このとき読者は、「サチコ[1]」という少々デジタルな雰囲気もある題の付け方を見て、なるほどこの小説は「サチコ[1]」「サチコ[2]」といったように、断章形式で展開されていくのだなと直感的に理解する。

 

そして同時に、冒頭のブロックの題「海」を、脚本で場面を示す柱(あるいはト書き)のようなものとして捉える。これは著者である深田が映画作家であるという先入観も多分に影響するだろう。そして読み進めていくうちに「イルマ[1]」というブロックを目にするにあたって、冒頭の「海」は柱(ト書き)であり、その章は他の章とは違ったプロローグ(イントロダクション)的なものだったと見事に勘違いしてしまうのである。

◆そのトリックを解くヒントとは?◆

 

が、しかし、その一方で深田は、このトリックを解くカギも、実は作中にしっかりと提示している。

 

一人称での語り、あるいは手紙で展開される各章を人物別に整理すると、サチコは[1]~[6]、イルマは[1]~[4]、タカシは[1]~[3]、クリスは[1]~[3]とそれぞれ複数の章があるのだが、ただ一人1章分しか立てられていない人物がいる。それは「レニ」だ。

 

作中で、若いイルマが撮影したラウの映像を横取りし(カネで買い)、手柄を我が物にしたジャーナリストであるレニ。作中のヒール役を一人で担っている感のあるレニだが、このレニの章は若干違和感のある章だ。一言でいうと、何か不要な感じがする中身だということだ。

 

イルマの経済的な問題につけこみ、カネによってラウの「不思議な力」の映像を奪った経緯は、続く「イルマ[4]」でイルマ自身に語らせても全く問題のない情報だ。ではなぜレニの章が必要だったかというと、それは、冒頭の章のトリックを解くヒントを示すためである。

 

繰り返しになるが、このレニには1章分しか与えられていない(同じ手紙形式のクリスが3章分を与えられているというのに)。そのためこの章の題は「レニ」で、「レニ[1]」には決してならない。つまり、このレニの章によって指し示されているヒントは、1章分しか与えられていない人物の章は、その章の主体となる人物の「名前」のみが題に据えられる、という作品全体を貫く「記述上のルール」なのだ。

 

再び、冒頭の「海」の章に目を転じる。この章の主体となる人物は、後に貴子によってラウと名付けられる「謎の男」だ。そしてその男の「名前」は、レニの章が指し示すヒントに従えば、章の題の位置に示された言葉ということになる。それは、言うまでもなく「海」だ。この「海」はプロローグの柱(ト書き)などではなく、「謎の男」の名前であり正体だったのだ。

 

(6)まとめを兼ねて最後に

 

今回、小説『海を駆ける』を読んで、かなり個人的なレベルで感じたのは、私(秋沢一氏)自身がこれまで地味ながら世に送り出してきた作品群と、キーワード的に重なる部分が多いという印象だった。

 

津波、海辺の町、叔母、男女のイトコ、散骨、月が綺麗ですね・・・。

 

中でも、上でも取り上げた「海」と題された冒頭のブロックと、拙作・小説『見えない光の夏』(第3回立川文学賞・佳作)のエンディングシーンは、描写的にも共通する部分が多い。

 

以下、小説『見えない光の夏』のエンディングシーンの一部をご紹介する。

 

(引用P.202『立川文学3-第三回「立川文学賞」作品集』[けやき出版])

鼻と口とのどに同時に海水が入った。舌が麻痺したようになり、息ができなくなった。目は海に突っ込む直前に反射的に閉じていた。耳にはゴボゴボと鈍い水中音を感じるだけだった。肌は沖合の海水の冷たさに満たされていた。

五感がほぼ失われた暗黒の世界の中で、タケルは死を覚悟した。

[中略]

次の瞬間、タケルは冷たい海水で満たされた肌の表面に微かなぬくもりを感じた。閉じた両瞼の向こうにオレンジ色の熱を感じる。救命胴衣の浮力で、身体が海面に向けて静かに持ち上がっていくようにも思えた。

[中略]

空のような海なのか、海のような空なのか。青空とほとんど同化した色彩で揺らめく海面の向こう側に、温かな光の気配が感じられた。太陽の光のようだった。

 

私は『見えない光の夏』のエンディングで、主人公をバナナボートから勢いよく放り出し、海に飛び込ませた。対して、深田の小説『海を駆ける』は、同じような描写を経て、「謎の男」が陸に打ち上げられるシーンから物語が始められている。

 

小説『見えない光の夏』の作者である私は、まるで自分の作品のエンディングシーンからの続きを読むような気持ちで、この作品を読みはじめた。こういう経験はなかなかない、本当に稀なことだ。

 

深田晃司とのシンクロニシティは、2013年発表の小説『見えない光の夏』と、2014年公開の映画『ほとりの朔子』が、ともに湘南の海辺の町を舞台にしていたことあたりからも起こっていたと思う。

 

同じ時代の空気を吸い、全くの無名時代から時々は「同じ釜の飯」を食った、そんなバックボーン的な共通項が、こんな不思議なシンクロニシティを時々生み出すのかなと個人的には思っている。

 

さて、ずいぶんと長々としたレビュー(書評)になってしまったが、これだけ語らせる(語りたくさせる)ということ自体が、小説『海を駆ける』が内容の濃い、評価されるべき魅力的な作品であることの何よりの証左だろう。

 

前作『淵に立つ』がそうであったように、意欲的なクリエイターである深田晃司は、小説版と映画版でまた違った面白さを提示してくれるのではないだろうか。大いに期待しつつ、5月下旬の映画版の公開を待ちたいと思う。

 

 

↓【参考】ブログ記事「小説『淵に立つ』(著・深田晃司)の感想。」

http://blog.livedoor.jp/akisawa14/archives/1872350.html

 

↓【アマゾン】小説『海を駆ける』単行本

http://urx.blue/JMoL

 

【April Fool】夢想通貨ONEM(おねむ)、はじめました。

先日、私アキサワは夢の中で、とある画期的なアイデアを思いつきました。

 

そのアイデアをもとにして、その筋の専門家たちとタッグを組み、新しいデジタル通貨の開発を秘密裏に進めてまいりましたが、この度ついに、「夢想通貨ONEM(おねむ)」を正式リリース発表するに至りました。

 

従来のビットコイン、リップル、イーサリアム、ライトコイン、モナコイン、NEMといった仮想通貨とは全く異なる新方式を導入した「夢想通貨ONEM(おねむ)」は、当社比で約5倍というまるで別世界のような安全性を誇る、文字通り「夢のような」デジタル通貨です。

 

「投資でヒトヤマ当てたい」「現実離れした額のカネを稼ぎたい」という方は、ぜひともこの「夢想通貨ONEM(おねむ)」にご参加ください。なお、詳細につきましては、近日中(2日頃)にリリースする予定となっております。ご期待ください。

 

※夢想通貨ONEM

(おねむ)の価値は、レートの変動により、「とんで、とんで、とんで、まわって、まわって、まわって」……落ちる(墜ちる)可能性もあります。投資は自己責任で。


42日追記】

ということで、エイプリル・フールのジョークでした。

ちなみに、つい先日のK-mix RADIO CM コピーコンテスト」の件はウソではありません。念のため。

kinka01

K-mix RADIO CM コピーコンテストで佳作。

ご報告です。

この度、第14回「K-mix RADIO CM コピーコンテスト」で、佳作(4位タイ)を受賞いたしました。

 

K-mixは、静岡エフエム放送株式会社の愛称。静岡県浜松市に本社を置くFMラジオ局です。

 

今回佳作をいただいた課題企業は、富士市にある「ブランジュムッシュ」というパン屋さん。1回に作る量を少なくし、焼く回数を増やすことで、「焼きたて・揚げたて・作りたて」のパンを提供することにこだわりをもっているのが特長だそうです。

 

受賞作は、そんなこだわりを、サッカー練習の雰囲気と絡めて書いてみた案になります。

 

サッカー王国・静岡ゆえに、このサッカー・ネタが通ったのかどうか、そのあたりは定かではありません。

 

※興味のある方は、下のリンク先の上から10番目をご覧ください。ご参考まで。

 

▽第14回「K-mix RADIO CM コピーコンテスト」

http://www.k-mix.co.jp/ccc/2018/03/14k-mix-radio-cm.html


 

お知らせ

tachikawa3

小説『見えない光の夏』を含む『立川文学3―第三回「立川文学賞」作品集』(けやき出版)は、現在好評発売中です。Amazon.co.jp、セブンネットショッピングなどのインターネット書店での購入、お近くの一般書店での取り寄せ購入も可能です。ぜひチェックしてみてください。
プロフィール

アキサワ

livedoor 天気
QRコード
QRコード