郊外系の小さな部屋~作家・秋沢一氏のブログ/小説家・コピーライター・相模原から~

郊外系の小さな部屋は、作家・小説家・コピーライター・秋沢一氏の公式ブログです。 日々の雑記を、「郊外系の町」相模原・相模大野の仕事部屋から。 活動報告・お知らせ関係は随時更新。軽めのエッセイから、音楽ネタ、相模原ニュースいじり、美味しい食の話題、スポーツ寸評、硬派な社会コラムまで。

【April Fool】年内に出家か家出します。

関係各位

 

私アキサワは、これまで地道な努力を重ねてまいりましたが、

ついに現実に嫌気がさし、今年中に「出家」する決意をいたしました。

 

なお、途中で心が折れた場合は、「家出」に切り替える予定でおります。

 

詳細につきましては、明けて2日頃、全部言っちゃうね。


 

42日追記】

ということで、エイプリル・フールのジョークでした。

出家も家出もしません、たぶん。


小説『淵に立つ』(著・深田晃司)の感想。

映画監督・深田晃司は、モノづくりに対して、常に「意識的な」クリエイターである。

 

『歓待』『ほとりの朔子』などの代表作をもつ彼が、最新作にしてカンヌ国際映画祭受賞作品でもある『淵に立つ』の国内一般上映と、ほぼタイミングを同じくしてその小説版を世に問うと聞いて、私は正直驚きもした。

 

しかし、実際に読んでみれば、なるほど映画版と「並立」していることが不思議ではない中身になっていると感じた。

 

では、上記のように、常に「意識的な」クリエイターである深田晃司が、この『淵に立つ』小説版の出版にあたって、強く意図したこととは一体何だったろうか。

 

それはズバリ、世にあふれる「映画ノベライズ本」と一線を画す、ではないだろうか。

 

小説『淵に立つ』のポイントとして挙げられるのは、主に以下の3点である。

 

1)会話の処理

2)視点の問題

3)映画版との内容の違い

 

まずは(1)について。

 

深田監督の映画作品の特徴のひとつに、説明臭さを極力排した、自然なニュアンスの台詞と会話がある。監督自身が表現するところの「リアルなノイズ」の混じった会話だ。

 

小説版『淵に立つ』における台詞や会話は、映画版を既に観ている方は気づかれる通り、基本的には「映画の脚本そのまま」である。

 

ただ、かなり特徴的な点がある。それは、台詞をカギカッコに入れず、いわゆる地の文に溶け込ませるという手法を採っていることだ。

 

(引用 P.7

私、今日、女性会ですから。昼ごはん冷蔵庫に入れときます、と章江はいう。利雄は、うん、と返事というよりはただ喉を鳴らすように相槌を打つ。

 

これはよく考えてみると、不思議な選択である。

 

深田の本来のフィールドは映画であり、彼が小説版の執筆を行った段階で、映画版『淵に立つ』の脚本もしっかりと固まったものが存在していたはずだ。作中の台詞が「映画そのまま」であることが、その何よりの証拠である。

 

台詞を地の文に溶け込ませる手法を採れば、読者が台詞の区切りを読み間違えるリスクが発生する。リズムも決して良いとは言えない。しかしカギカッコを使えば、少なくとも地の文との区分けははっきりし、変な誤読のリスクはなくなる。

 

台詞や会話に並々ならぬこだわりをもつ深田であれば後者の手法を選択しそうなものを、彼はあえて小説版『淵に立つ』に、誤読のリスクを孕む前者の手法を採用している。

 

実はこの、台詞を地の文に溶け込ませるという叙述の仕方は、現代日本文学の「純文学」のフィールドでよく用いられる方法である。逆に、「エンターテイメント小説」のフィールドではあまり用いられない。

 

前述の、世にあふれる「映画ノベライズ本」の多くは、当然のように、後者のようなカギカッコ付きの台詞と会話で構成されている。このあたりに、深田の意図が見え隠れするのではないか。

 

つまり深田は、あえて「純文学」的な叙述方法を採ることで、小説版『淵に立つ』を映画版との密接な関係を保ちつつも、文学作品として単体独立し得るものとして仕上げようと考えたのではないだろうか。

 

次に、(2)について。

 

小説の描写の基本スタイルは、「一人の視点+一人の心理」である。

例えば、「太郎」を主語にして書いていく場合、「太郎に見えていること」と「太郎の考えていること」で組み立てていく。「私」「僕」のような一人称主語の場合も基本は同じだ。

 

逆にいえば、太郎が主語の文章内に「花子は○○と思った」というように、太郎以外の心理描写が紛れ込むのは、一般的にNGとされている。

 

そして章なり、行がえの段落分けなりで、視点が切り替わる以外は、同じブロック内ではこの「一人の視点+一人の心理」の原則をブレさせないというのが基本ルールになる。

 

もちろん、太郎を「彼」としたり、太郎の苗字が山田だとしたら「山田太郎」とするような「言い換え」に関しては、元の視点が切り替わるわけではないのでOKだ。

 

※上記の内容は、あくまでも「基本」であって、その原則スタイルを崩していくところに新しい表現の可能性があることも、もちろん否定はできない。

 

さて、文芸の分野においてもしばしば書き手を悩ませ、多くの議論の対象となるこの視点の問題に関して、小説『淵に立つ』は、実に興味深い実験的手法を提示している。

 

小説『淵に立つ』も、行がえによるブロックごとに視点を切り替えつつ、いずれかの登場人物の「一人の視点+一人の心理」を基本に書き連ねられていくのだが、時折ふいに以下の引用部分のような描写が挟み込まれる。

 

場面としては、登場人物の一人である八坂が、章江にとある告白をするシーン。このブロックは、章江を主語に、章江による「一人の視点+一人の心理」で話が進んでいる。

 

(引用 P.32

ここまでいうと、男の言葉は急に途絶えて消えた。その視線はふっと目の前に座る女の視線と交わったかと思うとまた逸れて、息詰まるような硬い沈黙がふたりを締めつけた。女はその沈黙にじっと耐えて待っていた。待ちながら、次の言葉を欲している自分に気がついた。再び男は口を開いた。

 

客体である八坂を「男」と表現するのは「言い換え」としてあり得るとしても、このブロック内における主語であり視点者でもある章江を、あえて「女」と突き放して描写している点が、実に興味深い。

 

この場面は、八坂による、とある「重い告白」を章江が受け止めるシーンでもあり、そうした章江の不安定な心理状態を表現しようとしたものとも考えられる。

 

また、まるでカメラが向かい合う二人の表情を客観的な視点で追いかけているような感触もあるので、そういった意味では、ポイント(1)とは対照的に、あえてカメラアイ的な映画的手法を文芸の分野に取り込もうとしたという意図があるようにも感じられる。

 

いずれにしても、引用部分の「男」「女」を単純に「八坂」「章江」と読み替えてみた場合と比べ、圧倒的に前者に描写的な軍配が上がることや、同様の表現がこの一箇所だけではないことを考えると、深田が意図的にこうした表現を選択したことは間違いないだろう。

 

最後に(3)について。

 

小説版『淵に立つ』の、映画版との最大の違いは、やはり結末部分の内容が大きく変更されている点に見出せるだろう。

 

また、ストーリーにまつわる種々の情報を提示する順序や、各登場人物に関する情報の深さ(あるいは細かさ)についても、違いが確認できる。

 

結末に関して言えば、小説版については、『淵に立つ』のプロットにおいて落としどころとしていくつか考えられた可能性のうち、映画版の脚本よりも「腑に落ちる」感の強い着地点を選択し、具現化しようという意図が深田晃司にあったのではないかと思われる。

 

情報の出し方についても同様のことが指摘できるが、小説というものが「文章の連なり」で表現されるメディアである以上、程度の差こそあれ、ある程度「説明的」にならざるを得ないのは、ジャンル的な宿命と言えるだろう。

 

「意識的な」クリエイターである深田は、小説のそんなジャンル的特性を戦略的に意図した上で、まるで映画『淵に立つ』の創作ノートを開陳するかのように、可能性のあった別の結末と、映画版ではマスクされていた背景的な情報も含める形で、この小説版を仕上げている。

 

このような小説版の表現スタンスを把握した上で、改めて映画版の構成に目を転じてみると、映画版はそれとは対照的に、「映像的なインパクト」を重視した組み立てになっていることが分かる。

 

ストーリー中盤の「とある事件」の結果もたらされる「とある悲劇」の提示については、映画版の構成ほど「残酷」でインパクトのある見せ方はないとも思われる(小説版では先に説明してしまっている)。また、映画版における特徴的なラストシーンも、「頬を張る」という象徴的な肉体動作を、ストーリー全体を貫く一連のモチーフとして印象づけるのに効果的に働いていたはずだ(別のシーンに出てくる「ビンタ」は、小説版ではそれほどのインパクトは感じ取れない)。

 

 

以上3つの論点から見てきたように、小説『淵に立つ』と映画『淵に立つ』は、深い関連性をもちつつも、それぞれのジャンルの表現特性を踏まえて、意図的に描き分けられていると言える。

 

映画版の「単なる再生」ではなく、数々の新鮮な魅力を内包した小説版『淵に立つ』は、やはり、世にあふれる「映画ノベライズ本」とは明らかに一線を画した、良作と言えるだろう。

 

 

↓小説『淵に立つ』(著・深田晃司/ポプラ社)

http://u0u1.net/ASYO



2016年、アキサワ3大ニュース。

では、恒例の3大ニュースです。

 

 

番外「友人・深田晃司、カンヌ国際映画祭で受賞」

 

自分のことではないので「番外」としておくが、今年一番のニュースといえば、やはりこれになるのではないかと思う。

正確に記せば、映画『淵に立つ』が、カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門の審査員賞(部門の2位)に選ばれた、ということになる。カンヌですよ、カンヌ。

互いに「完全な無名時代」からの知り合いが、こういう結果を残すというのは、本当に夢のような感じがする。と同時に、「自分も頑張ろう」という気にさせてくれる。

着実に成功を積み重ねながら、不思議と「妬み・嫉み」といった感情を周囲に抱かせないのは、ひとえに深田君の人徳によるものなのだろう。これも、お手本にすべきこと。

 

 

3位「丹沢大山で滑落した男性を救助」

 

思えば2016年は、初詣に訪れた丹沢大山で、下山中に足を滑らせて転倒した年配の男性を崖の寸前で受け止めるという、衝撃の出来事からスタートした。

と言えばカッコいい話のようだが、実際は「火事場のクソ力」とやらで、気を失った男性の体重を坂の途中で支えるのがやっとの状態で、その後は周囲の人たちにも協力してもらって、何とか救急車に引き渡せたという感じだった。

まあ、でも山中みたいな場所でのトラブルにどう対処すればいいのか、実際に体験してみないと分からないことも多かったので、いい経験になったと思う。

 

 

2位「専門分野の拡大」

 

夏以降は、「とある業務」に関連して、今まで経験したことのない分野でのライティング作業が格段に増えた。

これは、どんな業務に関しても言えることだが、新しい分野に関わってみると、程度の大小はあれども、日々の世界の見え方が変わってくるから不思議だ。

それはもちろん、ポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも。その分野の「暗部」を知ってしまったがゆえに、その業務に取り組む意志が全くゼロになる、といったことも過去には経験している。

夏以降の「とある業務」に関しては、今のところは、個人的に「ポジティブな」意味での専門分野の拡大になっているのではないかと思っている。

 

 

1位「FM-JAGA CMアワード2016で大賞受賞」

 

自分自身の成果としては、今年の最初のほうにあった、この出来事が1位として挙げられるのではないかと思う。

久々に受賞インタビューなるものを受け、「猫ネタ」を放り込めたのも、まあ面白かった。

これで、2014年のエフエム秋田、2015年のとあるエッセイのコンテストに続いて、3年連続で、何らかの賞・コンテストでの「ナンバー1」獲得を継続できていることになる。

一方自分が目標としているのは、当然ながら、もっと規模の大きなところでの実績を積み上げることでもあるので、その点においては、今年も多々課題を残す締めくくりとなってしまったと考えている。

ラジオCMコンテストに関しては、勝ち負けももちろん大事なのだが、いかに自分の「推し案」(納得のいく案)で高い評価を受けるか、みたいな部分に意識が移りつつある。

2016年は、妙に忙しい日々であったが、そんな中で文芸の分野においても「弾」を仕込むことができたので、来年は確実に「次の段階」へのステップを踏めるような結果を出していきたいと考えている。

お知らせ

tachikawa3

小説『見えない光の夏』を含む『立川文学3―第三回「立川文学賞」作品集』(けやき出版)は、現在好評発売中です。Amazon.co.jp、セブンネットショッピングなどのインターネット書店での購入、お近くの一般書店での取り寄せ購入も可能です。ぜひチェックしてみてください。
livedoor プロフィール
livedoor 天気
QRコード
QRコード