僕が小さい頃、よく祖父が戦争体験を話したものです。
以前、ノモンハン事件の話をしていたのを思い出し、実家経由で軍歴証明(兵籍簿)を取ってもらいました。届いた兵籍簿から浮かび上がった、祖父の足跡を追います。




兵籍簿とは、軍人の履歴書のようなものです。
所属部隊や異動、所在地等が記載されています。




当時、高度な技術を要した高射砲と、東工大電気科の学歴は無関係ではなかったのではないかと。
祖父は明治42年生まれなので、この年(昭和6年)22歳。
高射砲第一連隊は浜松に所在していたので、浜松に在住していたのでしょうか。





幹部候補生課程を高射砲部隊、砲兵学校で過ごし一旦予備役。
昭和12年の招集で地元小倉(祖父は行橋出身)で第12師団の野砲兵第24連隊第一野戦高射砲隊長となります。少尉ながら4門程度の高射砲を指揮したんですかね。

時期的には7月7日の盧溝橋事件から、同9日不拡大方針を決定。
その後の7月28日支那派遣軍が総攻撃、月末までに北京占領したあたりと符合します。








南苑飛行場は陸軍の航空兵団が進出する大拠点となります。
この「徳川航空兵団」の記載、7月に編成されたばかりの航空兵団で、徳川とは兵団長の徳川好敏中将から。この徳川中将、実は徳川将軍家ともつながり日本で初めて飛行機で空を飛んだ人物。
それにしても、公募にも「徳川航空兵団」と書かれてるんですね。

当時の戦闘序列の資料によると、8月31日付けで
第12師団第1〜3野戦高射砲隊が北支那方面軍臨時航空兵団の麾下に入っているようです。
第一野戦高射砲隊、4門80名程度を指揮していた模様。祖父28歳。
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C01005674600





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ちなみに93式はこんな感じ。この時期にはすでに旧式機。






新郷、開封は最前線で、この時期黄河を挟んだ鄭州は中国軍が保持している。
鄭州の占領は1944年の大陸打通作戦まで待たねばならない。





武漢作戦は日中戦争の前半の到達点であり、この作戦の成功後一旦進撃が停滞する。





昭和14年5月9日は襄東会戦や南昌作戦のさなかではあるけども、徳川航空兵団は北支へ。
北支では粛清作戦に従事?





運城は北支戦線の西の果て。砂塵の舞う地だったようです
この戦傷の記録に羊駄寺という地名が出てきますが、市街にとても近い場所ですね。
航空写真では市の北東に滑走路がありますが、これが日本軍の航空隊が駐留したところでしょうか。





最前線の運城には三ヶ月弱の滞在。
航空兵団は先立つ昭和14年6月に満州へ移動、航空兵力の多くは同年9月新設された第三航空集団に充てられたらしいのですが、この満州移動は航空兵団に引き続き所属してたということかな。
一方、満州の第二航空集団はこの航空兵団に統合され、ノモンハン事件を戦います。
ちなみに北支からの航空部隊は停戦直前の9月15日に初めてタムスクを攻撃。





停戦合意は9月16日ですね。つまり停戦合意の日前線に到着。
ノモンハン従軍の話を祖父から聞いた記憶が今回の調査の動機。いかにして激戦地で戦ったのかを追いたかったのですが、主力の第23師団に従軍していたわけではなく。
真相は伝聞情報だった模様。





満州国内での移動が早い印象。アルシャンからハルピンは一晩で着く距離なのかな。





第12師団第一野戦高射砲隊は高射砲第四連隊に改組されていたので、内地復員はこちらへ。
記録では俸給が加算された「戦地勤務」は昭和12年8月から昭和14年8月まで。
ノモンハンへの移動は戦地扱いではない模様。戦地勤務じゃなくても従軍記章がもらえたようだ。










昭和14年に応召解除になった高射砲第四連隊に再び。





11月29日に小倉を出発、同日鹿児島着。
http://www17.big.or.jp/~father/aab/4thAAD/136AA/kagoshima/kagoshima.html
こちらの記事によると第21中隊は現在の鹿児島市長島美術館に陣取っていたようだ。





ここでの連隊本部附の職務は不明。




















高射砲第131連隊からは第一中隊が鹿児島へ移動しているようだ。






祖父は当時大尉。連隊本部附でなければいずれかの中隊長だったと思われる。
第6中隊が一部で有名な12cm高射砲で若松の石峰山に布陣していた。
原爆搭載機を追い払ったという話も伝え聞くが、祖父からはそういう話は聞いたことがない。
(本人は目撃したという話はしていたが、追っ払ったとは聞いていない)





兵籍簿には勲功欄が空白。ただ、こちらは中尉との記載で最終階級と異なる。





以上、祖父の足跡を追ってみた。終戦時36歳。今の僕よりも一回りくらい若い。
復員後、会社経営。平成4年に82歳で永眠した。