消燈グレゴリー その三

牛隆佑のブログです。短歌。 元・空き家歌会管理人。

お知らせ一覧

〇借り家歌会・・・・・・定期開催中(毎月第1日曜日)

〇昭和歌会・・・・・・定期開催中(毎月第2月曜日)

〇犬街歌会・・・・・・定期開催中(毎月第3日曜日)

〇葉ねのかべ・・・・・・第28弾制作中
http://hanebunko.com/

〇歌人寫眞館・・・・・・NHKテキスト「NHK短歌」奇数月号掲載
https://www.nhk-book.co.jp/list/textcategory-09173.html

〇フクロウ会議・・・・・・次回企画中
http://a-parliament-of-owls.mystrikingly.com/

〇牛と街灯・・・・・・「牛と街灯11」2027年3月開催予定
http://inumachi.main.jp/

2013年12月から2023年3月まで、なんばのまちライブラリー@大阪府立大学にて、「借り家歌会」という歌会を行っていました。現在の「昭和歌会」「犬街歌会」と原型で、月2回のペースで200回を超える開催をさせてもらいました。まちライブラリーは他にも、「大阪短歌チョップ」や「現代の名作短歌を読む会」や「虫武一俊歌集『羽虫群』批評会」など、多くの短歌イベントをさせてもらった思い出の空間です。

十三のタワーマンション「ジオタワー大阪十三」に新しく、「まちライブラリー@履正社十三図書館」がオープンしました。また、ここで借り家歌会をはじめようと思います。もちろん、事前申込は不要です。大阪での用事の前にふらっと来る感じでお越しください。毎月第1日曜日の午前中に開催しています。

■開催日:11月1日(日)
■場所:まちライブラリー@履正社十三図書館(大阪市淀川区十三東1-18-18)
 ※阪急 十三駅 徒歩2分
■時間:10:30~12:00
 ※10:00から開館。
■参加費:無料
■申込:不要
■進行:牛隆佑
■問合:牛隆佑(ushiryu313131@yahoo.co.jp)まで

肋骨が折れるまでしてくれはって それから折れた骨の静けさ
仲内ひより「これやるわ」(『詩の盆踊り2026』)2026


谷脇クリタ・編集、犬と街灯・発行、の詩のアンソロジー『詩の盆踊り』の2026年版から。作者の区切りがページの区切りにこないレイアウトが面白い。別々の作者によるすべての作品が盆踊りのように円環的につながる。
「これやるわ」は祖父の臨終を詠んだ20首の連作で当該歌はその四首目。上の句は親族の言葉だろう。なにか急変があって、医師が心臓マッサージを施したということだ。「~はる」の敬語がリアルで良い。〝公〟ではない〝私〟の敬語で、敬いよりもありがたさを感じている時の言葉だ。
一字空けと「それから」の接続詞によって、上の句からの時間の経過を思わせる。言葉からの時間の経過ではなく、親族の言葉から想像する出来事からの時間の経過だ。着地点の「静けさ」は無論、死の表現あのだけれど、「骨の静けさ」が良い。高齢の骨であっても、生きているならまたくっつこうとする、でも、もうその骨はずっと静かなままなのだ。

「ごめんね」で許されるから警察のいらない僕らの独立国家
野上時雨『フリーハンド・ラブ』私家版 2024


あまい……! 子どもの頃から聞き慣れている「〝ごめん〟で済んだら警察いらんのじゃ」と、いわゆる「二人だけの世界」の言い換えとしての「僕らの独立国家」を組み合わせて恋愛の一首にしている。組み合わせ方はシンプルではあるが、接続がスムーズで巧い。
かつて、こうした恋愛の歌はとても苦手だったし、割と私のまわりは甘々の恋愛の歌に厳しい人が多かったことにも安心してこのような歌はスルーしてきたのだけれど、たぶん、人気にはなるのだと思う。おそらく、インターネットとも相性が良くて、それは人工甘味料の良さなのだと思う。いかにも作り物めいているし、わざとらしくさえあるし、さらにいえばチープにも感じられる。しかし、その一見、欠点に思えるもろもろが、インターネットの世界では反転して真実を掴んでいるように、私に思えてくるのである。何を言っているのか、自分でも判別できない。ただ、今年はずっとこうしたことを考えている。

ははの死を一万日も生きてきつ初蟬が鳴く森をふるわせ
池田裕美子『時間グラス』短歌研究社 2022


一万日は年に直すと二十七年ほど。二十七年とすると非常に現実味のある年数なのだけれど、一万日だとちょっとぼんやりとはるか遠い日の出来事みたいだ。「ははの死を~生きてきつ」の助詞「を」がテクニカルだ。この助詞で、母の不在をずっと意識しながら生きてきたのだと分かる。大切な人を喪ってからの二十七年は、他人からは長い時間だろうが、当人にとっては分からない。短いように感じてきたのだろうと思う。ところが、ある時、何かのきっかけで(二十七年って一万日なのか)と気づく。気づくと母の死がふっと遠くの出来事のような気もしてくる。「生きてきつ」の完了の助動詞「つ」にとても味わいがある。(ああ、気がつけば一万もの一日一日を私が生きてきたんだな)という実感のある「つ」だと思う。
「ははの死を一万日も生きてきつ」で〝切れ〟があり、「初蟬が鳴く森をふるわせ」は倒置になっている。そのために、構成としては、

ははの死を一万日も生きてきつ/初蟬が鳴く/森をふるわせ

と〝切れ〟が二度あるようにも見えてくる。実際、下の句を倒置というよりも、語順のとおりに受け取って、三部構成の一首と捉えるほうが良いと思う。まず、心のなかの気づきがあり、そこではじめて初蟬の鳴き声が聞こえる。はかない命の蟬だが、その短い命を懸命に生きようと鳴く声だ。そこからさらに律動が森全体にまで広がる。(この瞬間この場所から私もまた生きてゆくのだ)という心の動きを感じ取るのは大げさな読みだろうか。

白々と蛍光灯さすエビチリの皿にレタスのくらきさみどり
上中将平「木犀」(「玲瓏」2025年3月号)2025


以前、「料理を歌にする時は美味しそうに読まれるように詠む」と言う歌人の話を聞いたことがある。素敵なポリシーだなと思いつつ、読者としての自分自身の好みでは、美味しく食べられなかった料理や食材の哀しみのほうに惹きつけられる。
エビチリを食べ終わって、下に敷いてあるレタスが露になっている。チリソースが残っているし、熱も通っているしで、けっこう汚く見苦しい。蛍光灯の白い光がそこに当たる。さらにあまり美味しそうには見えない光だ。なかなか哀しみのある歌で、その哀しみが「くらきさみどり」に集約されてゆく。なのだけれど、最後まで読み切ると印象に残っているのは、白、赤、薄緑、濃緑、の色彩のあざやかさだ。現実の状況としては惨さのあるシーンでありつつ、言葉のイメージでは色の命がもう一度蘇る。

玄関に折りたたみ傘の濡れしまま新元号の朝になりたり
ぱいんぐりん『ひとつの部屋』吉備人出版 2025


なんかもう平成から令和になった時のことを忘れてしまったな。たぶん、何の実感もなく変わったのだと思う。この歌が述べるのもそのようなことだ。雨が降るなかを折りたたみ傘で帰ってきて、すぐに畳んで括ってしまうと臭うので、乾かすために翌日まで畳まずに置いておく。その雨粒さえ残ったままの元号の更新。古来、朝露がすぐに消えてしまうことは儚いことの、つまり死の象徴だったので、崩御ではない譲位であったこととひそかに重ね合わせているのかもしれない。それは読み過ぎだとしても、なんの変化もない新元号で、もはや「天皇」という存在の希薄さも思わせる。希薄さ、というとちょっとアレか。もう少し歌について述べると、「たた」「かさ」「まま」「あさ」「な(り)た(り)」という音の重ね合わせがある。すーっと水平に流れていくような静かな進行で、このことも静謐さを演出している。

夢といふ意識がありて見る夢のなかにて聞きぬ亡き妻のこゑ
松村英一『樹氷と氷壁以後』新星書房 1981


私が生まれた1981年に91歳で亡くなっている。経歴を見るとかなりの大物なのだけれど、よく知らなかった歌人だ。素朴な詠みぶりだが、均整のとれた文体をしている。
「夢といふ意識がありて見る夢」は「(これは)夢だという意識を持ちながら見ている夢」ということだろう。時々、そういう夢を見ることはある。それだけなら、まあまあリアルな感覚だよな、で終わるところなのだが、その夢のなかに出会うのが「亡き妻の声」なのだとすると、一気に哀感を増す。夢だと認識せずに会えたほうが良かったのか、夢だと理解しているからそこになおさら歓びがあるのか、とても微妙で実際にその状況になってみなければ、たぶん分からない。妙なる組み合わせで繊細な感情を表したとても良い歌だと思った。

あぁ、皮膚が、筋肉が、骨が、思考が、大衆と同化していく都会
水口キサ『流星と同じ速さで』私家版 2024


けっこう危うい短歌ではある。「大衆」という語は一般的には「エリート」「インテリ」自認の者が自分(たち)以外の大勢を指して言う言葉で、この歌でも「大衆」の語の選択は妥当なのかという疑いはある。ただ、「都会」の語に注目すると、いわゆる地方から大都市に出てきた人の姿が想像されて、少し趣向が変わってくる。
地方に大衆はいない。大阪は一応、日本で2位か3位の規模の都市ということになっているが、実際の様相は、地方都市の一番手といったところで、実はけっこう「地方」寄りだ。「地方」では一人一人に役割があり、名前と顔がある。大阪でもかろうじてそうだ。たまに東京に行くと、人でも情報でも圧倒的な量で、それに曝されるうちに自分を失った感覚になる。この感覚を「大衆と同化していく都会」と表現しているならば、わかる。
皮膚→筋肉→骨→思考、と外側から内側に徐々に侵食してくる感じに切迫と嫌悪があって、良い。「思考」が最内なのかと言えばそうではないだろう。おそらくさらに内側には、「感情」とか「本能」とかパトスの部分があって、まだそれが自分自身を保っている。しかし、それも「思考が、」の読点「、」によって、続きをあることを想起させられる。怖い歌だ。

飛行機が空汚してたかと仰ぐ今年の冬は晴天つづき
一海美根『夜明けに届くまで』書肆侃侃房 2025


コロナ禍のことを詠んだ連作のなかの一首。知人のなかには新型コロナウィルスが原因で亡くなったり後遺症に苦しんだり、ということがあったので、ロックダウンを「不要な対策だった」とは絶対に言えないのだけれど、どこかふわふわと不思議な感覚があったことは間違いない。たまに歩いて梅田まで出かけたが、あんなに閑散とした梅田を見たのははじめてだった。後ろめたさを覚えつつも昂揚感があった。
飛行機の就航もとりやめになって、飛行機のない空を美しいと思ってしまう。空を見る回数が多くなり、そうしてはじめて(あ、この冬は晴天が多いな)と気づく。台風や地震とは違う、なんとも不思議な感覚のある災害だった。

猫背気味 ハムの少ないハムサンドめくって閉じて黙って食べた
川田ゆかる『ハムの少ないハムサンド』KADOKAWA 2026


面白い歌集だった。江戸雪、小島なお、とともに栞を書いている写真家・金川晋吾は「ドキュメンタリー」をキーワードに、「具体的な生の手触り」と述べている。そのとおりだと思う。ただ、そうした作風の歌人は多く、それだけでは特別とは言えないのだけれど、抑制的な感情と文体が、歌集で読んでいると徐々に面白さを増してくる。

「ハムの少ないハムサンドめくって」というのは、語順を見ても、また経験則でもめくる前から(ハム少ねえな)とはすでに思っているものだ。で、パンをめくってみてやっぱり少ないなと思う。少ないハムサンドは本当に少ない。まるで、(よしよしやっぱり少ないな)と思っているフシさえある。その、一人だけでひそかに楽しんでいる感じが良い。
「猫背気味」の初句も面白い。奇妙な把握だ。おそらくは自分のことだろうと思うのだけれど、ハムの少なさを確かめながら、猫背の自分をも引いた視点で確認している。
「めくって閉じて黙って食べた」の動詞の羅列もまた面白い。脱力系ドキュメンタリー漫画の台詞のない4連続のコマを見ているような面白さがある。

就活なんてしないでほしい ひとかけのバターを熱いところへ落とす
緒川那智『星降る砂漠』私家版 2025


就活の主体は誰かという点で、大きく二種類の読み筋があると思う。「この社会は就活なんてしないでほしい」もあり得るけれども、ちょっと可能性が低いかなと思うので、これは取り上げない。
まず一つは、「君には就活なんて似合わないから、しないでほしい」というものだ。たとえば、奇抜な髪型や服装がかっこよく自由なところにひそかに憧れていたという人が、就職活動の時期になり、髪を黒に染めリクルートスーツを着て、圧迫面接の後でも元気な声で「本日は貴重なお時間いただきありがとうございました!」なんて言っている。と書くだけでつらい。いわゆる就職氷河期の時代だったら、こちらの読みが多数派かもしれない。
もう一つは、就職活動をしているのは自分のほうで、その体験のつらさから「君にはこんな思いはしないでほしい」と思っている、というものだ。この歌に関してはこちらの読みのほうが良いと思う。つらい就活の体験といっても、そこまで泣くような苦しみがあるのではなくて、あくまでも一般的なもやもやで些細な苦しみなのだが、とても嫌な感じに心の裏側に残る。なんか嫌だ。なんか、だが、すごく、嫌だ。それでも、しっかりその日の面接を終えて、バターをトーストかホットケーキかの熱いところに落として溶かしてゆく。身構えた心を溶かしてゆくように。そのちょっとホッとした感情が、「(君には)就活なんてしないでほしい」と思わせる。とても切なさのある優しい歌だ。

みどりのバナナぎつしりと詰め室をしめガスを放つはおそろしき仕事
葛原妙子『原牛』白玉書房 1960


この作者については「幻視」というキーワードを先に知っていたので、このようなのもあるのかと意外に思った歌だ。バナナの輸入は緑の成熟していない状態で運び、その後エチレンガスで熟成を促すことはよく知られている。だから、これはそのままの歌でもあるのだけれど、しかし、どうしたって強制収容所のガス室を連想するだろう。そのこわさを与えているのは「おそろしき」ではなくて「ぎつしりと」という表現と、淡々と丁寧に作業工程を並べているところだ。まさしく仕事ですな。強制収容所の看守たちはまさしく仕事としてガス室に人間を詰め、ガスを放ったのだという。短歌のテキストだけを見れば「おそろしき」は言い過ぎているようにも思える。しかし、実際に起こった現実を思うと「おそろしき」と言うよりほかないという気もする。

昭和歌会は、大阪、天王寺から2駅、古民家スペースでの短歌の会です。事前申込は不要です。仕事や用事の帰りに時間と気持ちが合って、ふらっと来る感じでお越しください。毎月第2月曜日に開催しています。

■開催日:10月12日(月祝)
■場所:昭和サロン(大阪市阿倍野区昭和町4-3-23)
 ※JR阪和線 南田辺駅 徒歩3分、大阪メトロ御堂筋線 西田辺駅 徒歩7分
■時間:15:00~16:50※祝日開催のためいつもより早い時間です。
 ※18:30から入れます。
■参加費:500円
■申込:不要
■進行:牛隆佑
■問合:牛隆佑(ushiryu313131@yahoo.co.jp)まで



犬街歌会は、大阪、梅田から4駅、ギャラリー&リトルプレス専門店「犬と街灯」での短歌の会です。こちらも事前申込は不要です。買い物や用事の帰りに時間と気持ちが合って、ふらっと来る感じでお越しください。基本的に毎月第4日曜日に開催しています。

■開催日:10月18日(日)
■場所:犬と街灯(大阪府豊中市庄内西町3‐10‐27)
 ※阪急宝塚線 庄内駅 徒歩5分
■時間:17:00~18:50
 ※店舗は12:00より営業。
■参加費:500円(300円分クーポン付)
■申込:不要
■進行:牛隆佑
■問合:牛隆佑(ushiryu313131@yahoo.co.jp)まで

【共通】
参加者は会場に短歌を一首用意して会場に来ます。提出は当日のその場で構いません。既発表未発表も問いません。短歌を歌会用の用紙に書き、みんなで閲覧します。作者名を伏せたまま鑑賞し、自由に感想を言い合います。
また、自作以外の短歌を一首選んできてください。好きな歌でも気になっている歌でも構いません。こちらも自由に感想・批評を言い合います。
自作の歌や好きな歌のどちらかだけ、という参加の仕方や、どんなことをしているのかを見てみたい、というだけの参加の仕方も大丈夫です。お気軽にご参加ください。

あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている
柴田葵『母の愛、僕のラブ』書肆侃侃房 2019


さまざまな作品で用いられてきた凡庸な上の句を逆手にとっての下の句が楽しい。また、実際にいわゆる「心の友」という存在は、その多くが日常的には年月を経るほどに疎遠になるものだ。心のなかの友と、現実の友が徐々にどんどん乖離していく。おそらくは「私の心のなかの友>小田原の友」であろうシビアな把握がリアルで面白い。
小田原、という地名の選択も良い。主体がどこに住むのかで意味合いが少々変わってくる。横浜なら絶妙な近さが面白いし、東京ならたぶん「同じエリア内の最遠地」というニュアンスが生まれる。私は大阪在住なので、大阪からの視点だと、名前でしか知らない街の希薄感が良い。あるいは、小田原は歌の主体者や友の〝ふるさと〟なのかもしれない。(この読みが最も素直か。)それはそれで趣がある。短歌のなかで地名を用いることの面白さを考えさせられる歌だ。

天使にも欠点はある したあとのうんちを嬉々として食うことだ
やまのうえのいくら『ドブ川ラブリーバケツ』私家版 2026


今年の文フリ大阪で、手に取って開いたページにこの歌があってたまげた。これはすごい!と思って即購入した。あらためて読むと愛犬を詠んだ一連のなかの一首であって、「天使=犬」だと分かる。それならまあ、、、、、、と納得もするのだが、歌集の他の歌を見ても、やっぱりけっこう「天使」のことを詠んでいるような気もしてくる。少なくとも、そのように読まれ得ることは十分想定していると思う。分かっていてやっている。
「天使=天使」として読むと、ぶっとんだ魅力のある歌なのだが、不思議と納得感もある。天使という存在は人間の理屈では理解できないだろうから。検証不可能な叙述に説得力を与えているのが三句目の「したあとの」だと思う。天使の意味不明さを述べるだけなら絶対必要というわけではない箇所だが、この「したあとの」が〝まさに今、目の前で起こっていること〟を想像させる。いや、やっぱりすごいんじゃないか。

大花火小花火あまたやり過ごしたったひとつの線香花火
村田馨『疾風の囁き』六花書林 2009


短歌の叙述トリックと言えば良いのだろうか。
大花火(打ち上げ花火)に対しての小花火(こはなび)という言い方があるにはあるらしいが、私は使ったことも聞いたこともない。「おもちゃ花火」とか「手持ち花火」と言ってきたと記憶している。それらを「やり過ごす」とはどういうことだろう。人生にいくどとあった大花火も小花火を楽しむような場面で、楽しむことができずに楽しんでいるふりをしてきた、というようなことかもしれない。分かるような気がする。そんな〝私〟がたったひとつの線香花火を一心に見つめている。
大花火→手持ち花火→線香花火、の並びならどんどん小さくなっていく順序としてスムーズで意外性を感じないが、大花火→小花火、と記されるとそこでいったん対句として閉じるので、結句の「線香花火」がとても唐突に現れる。まるで、人生のなかで期せずして出会ったような。
「たったひとつの」の、一見過剰に思える表現も良い。「たったひとつ」と〝唯一〟を詠むと同時に「たったこれだけの」と小花火よりもさらに小さいものへの愛おしさを詠んでいるように思う。

わたしたち鍵と鍵穴とかじゃなく青と橙 隣を歩く
月階柚『定点観測』私家版 2026


「わたしたち鍵と鍵穴」とあると、これはもう間違いなくフロイトが前提だろう。鍵が男性器の、鍵穴が女性器の象徴だという有名なあれだ。フロイトのその理論をはじめて知ったのはたしか大学1回生の時の一般教養の授業だったと思うのだけれど、(えぇ……何それ?)と呆れ気味に驚いたことを記憶している。比喩にしたって、なんて嫌な比喩なんだ。何より勝手に規定されるのが嫌だ。〝わたし〟と〝あなた〟(つまり〝わたしたち〟)の関係性を〝わたしたち〟の言葉で規定しなおそうというものだ。この歌の〝わたしたち〟は「青と橙」、これはつまり、空と夕焼けなのではないか。どちらかが一方的に干渉するということもなく、はっきりと独立し合っていて、しかし、境界面はぼんやりと滲んでグラデーションになっている。恋人関係でも友人関係でも、親しい者同士の関係性は普遍的にやっぱりこちらではないか。鍵と鍵穴とかじゃなく。
定型には収めているのだけれど、助詞が少ないことと句跨りのために言葉がブツ、ブツと切れてなだらかさはない。しかし、その分、一つ一つの言葉をはっきり言い切るようなリズムになっていて、より意志の強さを感じさせる。

このビルの中にも生首があるんだろうな切られていないだけで
小柳とかげ『大阪環状線半周分の最寄り駅』私家版 2025


大阪のJR環状線のいくつかの駅を題材にした散文と短歌と写真のZINEで、どれも見応えがある。当該歌は大阪城公園駅での歌。大阪城公園はその名のとおり、大阪城(天守閣とその周辺)を市民公園化したエリアなのだけれど、OBP(オオサカビジネスパーク)という名のビジネスビル群のエリアでもある。その駅周辺の街の二つの側面を貼り合わせて一首に仕上げている。豊臣家が滅ぼされたかつての時間と、ビジネス街の夜に流れる現在の時間。貼り合わされて、ビルのなかで働く人の頭部を「切られていないだけの生首」と想像する。暴力的な認識だけれども、夜遅くにオフィスに一人で残業していた経験が私にもあるので、けっこう分かる。夜が更けるごとに生きている実感が薄れて、自分が生霊のように思えてくる。
土地の歌を詠うということは、その場所を軸にして複数の時間を想像することだと思う。

花束は土佐堀川のにおいしてすこし吸い込みあなたに渡す
江戸雪『声が聞きたい』七月堂 2014


最初に読んだ時は印象に残っていなかったのか、まったく憶えていなかった。が、最近の犬街歌会という歌会で紹介されて(おお、すごいぞ)と思い直した歌だ。

土佐堀川はいわゆる旧淀川の分流で、大川から分かれて中之島の南側を流れる。北を流れるのは堂島川と再び合流して安治川になり大阪湾に出る。近年は水質改善が進み随分ときれいになったとのことだが、それでも街の川なので、清流とはとても言えない。「土佐堀川のにおい」と聞いて、快い匂いをイメージする人は少なかろうと思われる。だからこそ「花束」が生き生きと生々しい。花の香りだけではない。茎の匂い。葉の匂い。水の匂い。生の匂い。死の匂い。花が生き物であること、花束が生き物だったことを思い出させる。連作とつなげて読まずとも、この花束はお祝い事の花束ではなくて、病院のお見舞いに持参した花束であると感じられる。
「すこし吸い込み」の動作も良い。ほんの少し渡すのを躊躇したのかもしれないし、その花束に祈りを託したのかもしれない。それは読者には窺い知ることはないのだけれど、たしかな感情の揺らめきがある。

置き傘をときどき使ふ傘であることを忘れてしまはぬやうに
門脇篤史『微風域』現代短歌社 2019


置き傘を用意する人は元から慎重だしちゃんとしているので、毎日天気予報をチェックすしたりするし、そもそも鞄に折り畳み傘を入れていたりする。そんなわけで、置き傘はあるものの全然使わないな……という状況になる。とは言うもののあって困るものではないので、置きっぱなしになる。歌としてはたったこれだけだ。これだけのことしか言わないので、かえって思わせぶりに何か他のことを言い含めていそうな気がしてくる。「いつか頼るかもしれないもの」として自分のものにしておく、しかしぞんざいにあつかいがちなもの。人。思い出。そのように読めるだろうと思う。
「置き傘を」の「を」が良い。

置き傘をときどき使ふ傘であることを忘れてしまはぬやうに
置き傘はときどき使ふ傘であることを忘れてしまはぬやうに

並べると違いがよく分かる。一般的な文章なら「置き傘は」が自然なところ、「を」を置くことで、「忘れてしまふ」に重心が移る。この効果で先述の歌のイメージの広がりをより与えているはずだ。

あっあっという間に過ぎし一年よ余韻をもって紅白を観る
古賀大介『三日月が小舟』六花書林 2018


「NHK紅白歌合戦。」と題詞がある。昨日の「全員海に沈めた」もそうなのだけれど、最小限の言葉の操作で何でもない日常の言葉を短歌に化けさせる短歌は、まるで合気道の達人の動作のように惚れ惚れとさせる。この歌もそうだ。予定では12月まで取っておこうと思っていたとっておきの歌なのだけれど、良い流れなので、取り上げる。
「あっという間に過ぎた一年」と書けば、定型句of定型句。しかし、そこに「あっ」を足して「あっあっという間に過ぎた一年」と書くと、「現代社会のハイスピードに戸惑って日々に追われるうちに一年が過ぎた」となる。鮮やかな転換だ。しかも、「あっという間」よりも「あっあっという間」のほうが確かに私たちの実感に近い。これだけでも見事なのだけれど、「余韻をもって紅白を観る」の着地も良い。ハイスピードの一年も12月31日の夜だけは時間の進みが緩む。そのことを〝余韻〟と表している。
紅白歌合戦詠でもある。紅白歌合戦のつまらなさもネット上で取り上げられることも多いが、紅白歌合戦はそれでいいのだと思う。むしろ、それでこそと言うべきだ。なんかちょっと締まらないから時間が緩む。常時、ハイスピードで遷移する現代社会の大晦日の夜には余韻で観ることのできるくらいの紅白歌合戦が必要だ。

助手席で「今の行けた」と言ってくるやつは全員海に沈めた
山本コヤ「ちょっとほんと」(『歌の種 東海短歌アンソロジー二〇二六』)2026


昨日と同じく『歌の種 東海短歌アンソロジー』から。歌の出発点は運転あるあるで、割と誰しもが思ったことがあるんじゃないだろうか。黙ってろよ。殺すぞ。と思うよね。もちろん思うだけで、そんなことはしない。誰しもがそうだろう。だから、本来は「全員海に沈めたい」とか「全員海に沈みたろ」と言うべきなのだ。せめて「海に沈める」とか。それを「全員海に沈めた」とすでに完了済の過去形で表す。いや、題材選びのユニークさの他は、それだけと言えばそれだけの歌なのだけれど、それだけで面白くなるのだから言葉というもの、短歌というものは奥深い。

少年が作った巨大なロボットに父親が乗るアニメが見たい
小森砂Q「ライフハック」(『歌の種 東海短歌アンソロジー二〇二六』)2026


たしかに。ロボットものの物語のほとんどは父親が開発したロボットに息子が乗り込み戦うというものだ。メタ事情では、そうした漫画やアニメが読者/視聴者対象とするのが少年なので、感情移入しやすいようにそのような設定が類型化したのだろうが、考えてみれば相当にグロテスクな話だ。それをグロテスクさをはっきりと描いたのが、『新世紀エヴァンゲリオン』だったのだろう。いや、お前が乗れよ。安全なところから指示だけ出してんちゃうぞ。こっちは負けたら死ぬんやぞ。と現実ならばどの主人公も考えるだろうと思う。
こういう時、57577の定型にばっちり嵌っていることが怖いと思う。句跨りもないので、完全な定型だ。助詞も4語と少ない。そのうち3語が格助詞「が」なので、余計に淡々とした散文口調になる。感情が死んでいる。「見たい」と願望を述べつつ、願望っぽさを感じさせない。なぜなら、そんなアニメは存在しないことをすでに知っていて、叶うことを諦めているからだ。主体者の背景を想像してしまうことは読み過ぎではないと思う。父親、父親とは決めつけないまでも父的な存在によって、敷かれたレールから逸れては生きられない人物像が思い浮かぶ。そのような人が虚ろな目で、たとえばエヴァを観ながら、こう思っている。

さよならは二種類あってこの手からあふれたものと奪われたもの
伊勢谷小枝子『平熱ボタン』あざみ書房 2008


普通、さよならに二種類あると言われれば、主体的な別れと受動的な別れだな、と思うが、実際に経験したさまざまな別れを思い出すと、主体/受動では分けられない別れがあったと気づく。自分で別れを選んだと思わせて、そう仕向けられていたような別れ。あるいはその逆。人が何かを手放すのは単純ではないということだ。
でも、「この手あふれたさよなら」と「奪われていったさよなら」は、ああ、たしかにすべての別れが分類できる気がする。自分で選び取った別れも、その多くは「手からあふれたさよなら」だった。能力だったり時間だったり余裕だったり、が足りなくて手放してしまったものだ。そしてまた、自分で選び取ったつもりの別れ、また自然消滅的な別れにも、奪われたさよならがある。社会に。時間に。
本当は何とも別れたくなかったのだ、と気づかされる歌だ。

長生きのご褒美としていいだらう大人は毎日電車に乗れる
山木礼子『太陽の横』短歌研究社 2021


歌人の飲み会なんかで「いいだらう」の解釈で盛り上がりそうだ。連作全体で読むと、子どもが出てくるので、我が子に対して「ほら、いいでしょう、大人になるまで長生きすると、今はまだたまにしか乗れない電車に毎日乗れるんだよ」という歌意に取れる。取れるのだけれど、それだと「として」があまり良くない気がする。やはり、これは内心の言葉であって、「長生きのご褒美として妥当だな」と内省している表現のように思える。
毎日毎日、通勤電車に揺られている。それは、どちらかといえば辛い(というほどでもないかもしれないが)ことなのだが、かつては「もっと毎日電車に乗りたい」と思うような子どもであって、その願いが叶ってはいるのだな、と考えている。何かを成し遂げてきたわけではない。ただ、生き永らえてきただけだ。あの時の自分から見れば、なんか長生きと言えるくらいの年齢にはなったけれども、その報酬としては妥当なんだろうな、一応、子どもの頃に願いが叶っているわけだし……。と電車の窓から外の風景を眺めながらぼんやりと思いを巡らせている。
毎日、電車に乗れるし、食べたい時にハムをいくらでも食べることもできるし、徹夜してゲームをすることもできる。知らない間に子どもの頃の願い事をかなえていることがある。うん。

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