消燈グレゴリー その三

牛隆佑のブログです。2014年8月から再開しました。短歌。 空き家歌会管理人。大阪短歌チョップ実行委員。

お知らせ一覧

〇大阪短歌チョップ2・・・・・・動画・写真・テキスト公開しました。
http://www.tankachop.com/

〇空き家歌会・・・・・・次回は日程調整中です。
http://blog.livedoor.jp/akiya31/

〇借り家歌会・・・・・・次回は12月8日(金)です。
http://blog.livedoor.jp/akiya31/

〇現代の名作短歌を読む会・・・・・・次回は12月9日(土)です。
http://blog.livedoor.jp/akiya31/

〇もしも短歌がつくれたら・・・・・・次回は12月14日(木)です。
http://ourai.jimdo.com/himakatsu/tanca/

〇伊丹歌壇・・・・・・次号発行は11月30日(木)です。
http://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/EDSHOGAI/EDLIB/event/boshuu/itamihaidan_kadan/index.html

〇葉ねのかべ・・・・・・第十弾「鈴木晴香×ケント・マエダヴィッチ」12月2日(土)から。
http://hanebunko.com/

どうぞよろしくお願いします!

このコラムではこれまでに、ネットプリントやツイキャスなど新しいメディアを取り上げてきましたが、ここ最近は歌会についての意見がツイッターのタイムラインを賑わせたように、今はそれぞれに自分自身の活動を見つめなおす、といった時期なのかもしれません。とすれば、この号が出る頃にはまた新たな動きや試みが現れているかもしれず、楽しみです。

さて、この記事を執筆している今は、第十九回空き家歌会を終えた頃です。ツイッターで話題となった「歌会論争」についてここで触れるつもりはありませんが、それにしても歌会についてのポリシーというものが話題になるというところに、ひとつの歴史を感じます。ツイッター上での関係を基盤のひとつとして開催する歌会としては2011年に始まった東京の「空き地歌会」(野比益多)をその起点に挙げることができ、その後の2012年からの大阪の「空き家歌会」(牛隆佑・虫武一俊)、新潟の「空き瓶歌会」(ユキノ進、現代表は香村かな)が現在の流れを決定づけたように思います。その頃のそうした歌会は、一言で言えば「集まるということ自体が目的」だったところがあったように感じます。個々はそれぞれの考えを持っていたはずですが、それよりも「短歌をしている人がいる!」ということだけで珍しかったし嬉しかったのです。

その他方、最近ちらほらと耳にするのは「歌会に行っても短歌がうまくなるわけではない」という言葉です。同感です。ちゃんと言葉を補えば「短歌がうまくなりたいのを目的とするのなら歌会は必ずしも効率的とは言えない」ということでしょう。2~3時間ほどで10首~15首を読んでいくというところを見れば、確かに何とも効率は悪い。(ただし実際にやってみるとそれでも時間が足りない!)もっと効果的で効率的な方法はいくらでもあるはずです。

しかし同時に私たちは知っています。一見、何の関係もないような話や些細で無意味な話からでさえ、ある重大な気づきを受け取ったり、核心に迫るヒントを手に入れたりするようなことがあります。もちろんもしくは得られなかったりということも含めて。そのような体験は人生上で何度もしてきているはずです。そしてその瞬間はいつでもスリリングでエキサイティングです。

通販サイトのAmazonは「この商品を買った人はこんな商品も買っています」と確かに魅力的な本を次々と教えてくれます。その最適解に最短距離で向かうような高度に洗練されたシステムはもはや美しくすら思えます。でもそれは統計に支えられた、他人の足跡をそのまま辿ろうとする行為であり、そこに創造的な歓びはありません。

ちなみに、この号が発行される秋には、空き家歌会は第二十回を、借り家歌会は第五十回を迎えます。この歌会はまだまだやっていきたいと思っています。

(「うたつかい」第29号 掲載)

キドアイラク


宇宙人を殺めるような勢いが大事なのです採点業務は

更に生きると書いて更生 どいつもこいつも畜に生きると書いて畜生

名を見れば全身で喜び努め愛し楽しむ生徒だきみは

ああ川の流れのように残されし業務が明日に先送られぬ

シュプレヒコール遠くに聞こゆ 僕たちは結果論者で運命論者

先日の2017年2月25日の大阪短歌チョップ2にお越しいただいたみなさま、ありがとうございました。少なくとも延べ350名以上の方にお出でいただきました。短歌にはさまざまな楽しみ方があるのだ、ということを空間として示せたのではないかと自負しています。また、特筆すべきは参加者の多様さです。2014年の第1回よりもさらに多種多彩な人がそれぞれの動機で訪れたように思います。どうしても狭い世界の中で「知り合いの知り合い」までをその範囲としてきた短歌のイベントでは、かなりその外側に踏み出したものであったことは間違いありません。そしてそれが実現した、ということに短歌の急速な広がりを感じます。(イベントの詳細は公式サイトをご覧ください。)

この広がりを齎したのは誰なのか。かねてより短歌の普及活動をしてきた歌人や団体は数多く存在しますし、近年では大阪短歌チョップ2の実行委員でもあった天野慶から、なべとびすこまでも、そこに加えることができます。しかし、本当は短歌自身の力によって広がっているのではないか、という気持ちをこの数年間、持ち続けています。

むしろ変化があるとすれば、それは読者の側かもしれません。私は普段、高校生に国語を教えていますが、私たちの頃と比べても、今の高校生たちの知性や感性、つまり受容の感度が上がっていることを日々感じます。授業で塚本邦雄の短歌を紹介して、そこに一言説明を加えると、普通の高校生が「めっちゃかっこいいな。」と言ったり、歌集を回すと「これは1700円の価値があるな。」と言ったりします。そうした反応をするのは、取り立てて文学に興味のない高校生で、彼らがこんなに深いところで受容できるのか、と驚きます。しかし、これは世代よりも、おそらくはその時代のほうに要因があります。

原田郁子、ミト、伊藤大助によるバンド、クラムボンは2010年のTOWER RECORDSのコーポレートボイス「NO MUSIC,NO LIFE」のインタビューにおいて、「受け取り手の感度が上がった。」「浅いユーザー、消費者がいなくなった。」と述べています。それはネガティブな意味での「一億総評論家社会」が頻繁に言われはじめた時期と重なり、彼らも「厳しい人たちですよ。」と述べています。しかし、こうも言います。「より深いところまで受け取ってもらえる。」「中途半端なものでなく、本当に面白いものを欲しがっている。」「消費者が、自分が本当に欲しいものを探している感じが(音楽の)質の高さ等にこれから表れてくる。」簡単にはいかないユーザー、消費者だからこそ、作り手は受け手を信頼して自分の表現したいものを投げだせる、そのような時代が来たのだと思います。そして、そのようなユーザーが「短歌」を見つけたのではないでしょうか。2009年に短歌に触れはじめた私自身も、今にして思えばそうしたユーザーの一人だった気がします。(さらに言えば、2011年の東日本大震災以降、その傾向が加速したように感じます。)

「うたの日」や「借り家歌会」において「短歌はじめたばかりなんです。」や「作ったことはないですが興味があって。」と言う人の評のその深さに驚いたことのある歌人は少なくないはずです。少なくとも彼らの評を聞いていると「本当に自分がいいと思えるものを探しに来ている」ということを感じます。

短歌を「マイナーなもの」として捉える時、その反対側には「大衆」が意識されますが、その「大衆」の輪郭が壊れつつあるようです。たとえば、2016年に刊行された歌集『キリンの子』(鳥居/KADOKAWA)が、同日に発売された伝記的単行本よりもはるかに売れたことも、従来の「大衆」観では計れない読者の存在を感じさせる出来事です。鳥居歌集だけでなく、『食器と食パンとペン 私の好きな短歌』(安福望/キノブックス)や『きみを嫌いな奴はクズだよ』(木下龍也/書肆侃侃房)のヒットも、そして大阪短歌チョップ2のあれほどの賑わいも、「大衆」ではないユーザーたちの希求の力と作品や短歌自体の力との交点上にあったものであると言えます。

クラムボンは先述のインタビューの中で「大きなカンパニーがどんどん無くなっていって、個人やフリーランスの方に(役割の)バトンが回ってきている。」ということも述べています。短歌に照らし合わせて言えば、「うたらば」(田中ましろ)や「葉ね文庫」(池上規公子)はまさしくその力学上に現れたものでしょうし、さらには『大阪短歌チョップ2メモリアルブック』内の「沖縄から見た関西の短歌シーン」の中で、光森裕樹が書いたような「若者においては、複数の同人誌や歌会に所属するのが当然であるかのような構造(N:N)になっている」こともその側面に思えます。コミュニティ主体の時代から個人主体の時代へ。大阪短歌チョップ2のあの空間にいた人は、多かれ少なかれそのエネルギーを感じ取ったのではないでしょうか。

(「うたつかい」第28号 掲載)

逃げるように


逃げるように教室を出るというフレーズを思い浮かべて教室を出る

定食を汚く食べて散らかしてだれも幸せを求めていない

寝不足の時代できっとぼんやりとしたままたぶん戦争に征く

(っはい、その夢あきらめましょう)ジャパネットたかたの声で告げてやりたし

人は変わる、変わるが僕に変えられるわけではなくて施錠を済ます

たとえばスポーツには「する楽しみ」と「観る楽しみ」があると言いますが、それを短歌に置き換えるならば「詠む楽しみ」と「読む楽しみ」になるでしょう。しかし、このところ、複数の人がTwitCasting(スマートフォンやパソコンを利用してライブ配信ができるサービス、以下、通称の「ツイキャス」を使用します)を利用して、短歌についてのライブ配信をしているのを見ると、短歌には「語る楽しみ」もあるのだな、ということを実感せずにはいられません。(そういえば歌会は三つの楽しみ方の合わさったものと言えるかもしれません。)

インターネット上の動画共有サービスとしてはツイキャスに先立って、より高画質放送が可能なUstreamが存在しており、短歌を語る場としても、「歌会たかまがはら」(天野うずめ)、「堂園食堂」(堂園昌彦)、「むしたけのぞき」(虫武一俊)など、いくつかの個性的な番組が放送されていました。しかし、これらの番組が「公」の意識を持っていたのに対して、ツイキャスはUstreamと比較して手軽に配信ができることからか、より身近な、よりプライベートに短歌を語る場として、利用されているようです。内容としても、朗読を中心としたもの、具体的な短歌や、同人誌、ネットプリントの短歌について語ったもの、短歌を超えた歌人のパーソナリティーについてのもの、また、コメント機能などを利用してリスナーとのコミュニケーションを図るものなど、多彩で可能性を感じさせます。(かくいう私も先日七月一日に山本まとものツイキャスに招かれ、二人で「短歌ヴァーサス」というかつて発刊されていた短歌雑誌について語りました。)

さて、インターネットを取り込んだ短歌の世界はハイスピード化しています。いわゆる「Web2.0」以降、インターネットが短歌の創作・発表の場となり、より多くの短歌がより速いスピードで発表されるようになりました。そしてそのスピードは短歌同人誌や短歌のネットプリントにも及び、文学フリマなどでは毎回、多くの新しい同人誌が並びます。そのスピードの中で、ひとつ前の短歌はすぐ新しい短歌に押し流され、読者に立ち止まってじっくりと味わわれ、そして語られる機会を得ないまま、堆積化していく短歌も多くあります。もちろん、より多くの短歌が生まれるのは好ましいことですし、もはや留められるものでもありません。それよりもツイキャスはむしろ、短歌を語る場として、そのスピードにさらに適応していこうというしなやかな流れなのではないかと思えてきます。

インターネットでは、かねてより「短歌を語る場」としてブログサービスがあり、歌人もやはり多くの人が自らのブログを開設しています。「トナカイ語研究日誌」(山田航)「あとがき全集」(柳本々々)といった卓抜したブログも生まれ、山田や柳本は評者としても確固たる地位を築いています。これから先、ツイキャスを短歌を語る場にして、また新たな評者が登場するのかもしれません。

(「うたつかい」第27号 掲載)

決められたレールを走りたくないのなら人を轢く覚悟をしろよ
(宇野なずき「乗換案内」)

句跨りを利用して定型に収めているのだが、だんだん歪になるのがまさにレールを外れていくようだ。その中で「人を轢く覚悟」というワードははっきりと浮き上がって聞こえる。


明かりを消したら急に涼しくてさすがわたしの脳だと思う
(空日一「普通」)

温度を知覚しているのはもちろん脳なのだけれど、まるで自分が自分の脳と向かい合っていて、しかも奇妙な信頼感があるような。でも暗闇の中でこう思っている人には愛おしみを感じる。


今ならばわかる みたいに追ってくる音に花火は消え落ちてゆく
(志稲祐子「雫」)

花火の音を聞きつつ目前の花火は消えてゆく。「今ならばわかる」と花火の音が相互の比喩になっているのだと思う。「今ならばわかる」の内実は分からないけれど底知れなく切ない。


Pork or Chicken or Chicken of Chickens 選ばれるためだけに生まれた
(田中ましろ「DL278」)

機内食を選ぶシーンなのだろうけれど、根底には飛行機に運ばれる自分自身の生命に対する不確かさの感覚があるのだと思う。


むかしむかしあるところにもいただろう「そうだそうだ」というだけの役
(西村湯呑「むかしむかしパート2」)

簡素化された昔話の背景である人も元を辿れば現実にそこに存在していたかもしれない人だ。そしてここにいる私も社会の中で数字や背景として語られる。


傘袋を傘にゆっくりつけながらコンドームみたいだなって思う
(水沼朔太郎「七月と六月」)

虚ろな短歌だ。「コンドームみたいだなって思う」と思っている、その引いた感覚が余計に虚ろに感じさせる。動作だけでなくて行為のどことなく情けないところが重ねあっていると思う。

能登ごいた保存会大阪支部の米井敬人さんと知り合う機会があり、中崎町のボードゲームカフェ賽翁と天満の噺カフェにてごいたを遊んだ。

ごいたとは、江戸時代より能登半島の端っこにある能登町で漁師にのみ細々と伝わっていたとされる伝統娯楽で、保存会の活動によってじわじわと普及中のゲーム、らしい。ウィキペディアにもまとめられているのでそちらもご参照されたい。

ゲームのことは詳しくないが、ごいた自体の面白さに加えて、歴史性というのはやはり面白くて、「能登の漁師はごいたがめちゃくちゃ強い」とか「能登に伝わるごいたの格言がある」とかそういうものの一つ一つに人の息遣いが感じられて、そこに惹かれた。

米井さんは最近、短歌にも興味があり、葉ね文庫で短歌の本を買って読み漁っているという。「#ごい短歌」というハッシュタグでごいたを題材にした短歌もツイートしているので便乗して僕も作ってみた。

それはたしかに会話にも似て慎ましく切りだす駒を手繰るゆびさき
格言のひとつひとつに陽に灼けた爺さまたちのドヤ顔が見ゆ
半島の先のその先を知らないがおそらく修羅の国だとおもう
大駒を余して香で勝つ 僕もそんな生き方してみたかった


ちなみに噺カフェは残念ながら12月で閉店するとのことで、18日(日)には落語家であり詩人でもある、笑福亭智丸(疋田龍乃介)さんによる「智丸の文芸落語会in噺カフェ~落語と、朗読と~」が開かれ、短歌からは岡野大嗣さんととみいえひろこさんが出演する。興味のある方はぜひ。

智丸の文芸落語会in噺カフェ~落語と、朗読と~
■日時 2016年12月18日(日)13時開場 13時30分開演
■会場 噺カフェ(大阪市北区天満3丁目4-5)
■料金 1500円(1ドリンク込)
■申込 hanashicafe☆gmail.com(☆を@に変えてメールをお送り下さい)

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前号のコラムでは「ネットプリントは、これからも読者を読者でいさせないためのツールとして短歌の世界を彩っていく」と述べましたが、歌集、雑誌、結社誌、同人誌、フリーペーパー、ブログ、などにネットプリントも加わるとなると、読者としておぼろげながらでも全体を把握するのはもはや不可能です。

もちろん、読者として何を読むかの選択肢が増えるのは歓迎すべきことですが、よりたくさんの人に読んでもらおうとしている作者にとっては大変です。毎日生まれる山のような作品の中から、束の間、自分の作品を選んでもらうにはどのような方法が考えられるでしょうか。より良い短歌を作っていくということは自明として、まずは発表方法の面での工夫にその糸口がありそうです。例えば、イラストや写真を組み合わせたり、朗読や音楽を用いたりなど、「短歌をどのように見せるか」という工夫です。岡井隆、俵万智から青木麦生、田中ましろまで、昔も今もそのような意識を持って活動していた歌人はいますが、今後さらに顕著となっていくに違いなかろうと思うのです。しかし、「短歌の見せ方」を考える時、自分にとってのそうすることの目的は何なのか、という意識は持たねばなりません。

六条くるるは二〇一五年に、連作「2回目の14歳」を発表しましたが、活字ではなく、朗読による音声データでのみの発表、というユニークな方法を取りました。(翌年、歌集『君がいたってだめなんだ』に収録。)しかし、その発表は六条個人のブログ上で極めてひっそりと行われ、短歌自体の良さと発表方法のユニークさとは裏腹にほとんど話題になることはありませんでした。その理由について六条くるるは「実験的試みであり万人に見せる(聴かせる)クオリティになく、告知をほとんどしなかったため。」と述べています。これは、自分の読者以外の人に新たに読んでもらうための発表の工夫であるならば、その発表の工夫自体にもアイデアだけではなく、十分なレベルが必要である、ということを知るからこその言葉であると言えます。

「葉ね文庫一周年企画 葉ねのかべ」での詩歌の展示作品は、まさにその意識上にあります。この号が発行される頃はおそらく第三弾「虫武一俊×三宅愛子」による展示期間中です(現在は第四弾「八上桐子×升田学」)。連作「極東の午後」(虫武一俊)から一首引いてみたいと思います。

  暗闇がどの身にもある現実に口をおおきく開けてやまない

人間の体内は洞であり、つまり私たちはだれもがその身に暗闇を持っています。口を開く行為は闇である内部にささやかでも光を取り込もうとする切望なのかもしれません。この短歌を写真家の三宅愛子は、どのように見せようとしたのでしょうか。たくさんの方にご覧いただきたいと思っています。しっかりとしたアイデンティティーを秘めた短歌はどのような【見せられ方】をしたとしても、個性を喪うことはありませんから。

(「うたつかい」第26号 掲載)

戦争で死んだ祖父は広島カープを知らない


















  戦争で死んだ祖父は広島カープを知らない

とおつひと広島市民球場マツダスタジアム沸きたれば人間の血は広島のいろ

たくなわのながいながーい旅でした二十五そして七十一と

しらつゆの奥田民生の高らかに君というより僕らのうたを

ぬばたまの黒田博樹よああ是は曼珠沙華いちめんの花野だ

ふかみるのふかみどりいろの広島を護る菊池や丸や田中や

くさかげの新井貴浩は必死だよ皆生きなければならないよ

ちはやふる神りておりと仰がるる鈴木誠也も人らしきひと

ひさかたの亜米利加という国ゆ来し広島という町を助けに

たまかつま安部友裕が水色の手紙のような犠打を決めたり

しらたまの緒方孝市は二度生まる何回だってやり直すから

やましたの赤松真人駆けてゆく生まれなかった者の代りに

つのさわう岩本貴裕逆転弾はなちてそれはひかりのように

たまだすき畝龍実より白球とそのほか白きものを受け取る

かたいとの會澤翼が2を示す殺すではなく守るということ

みつくりの中崎翔太が踊りだす後の言葉は要らないだろう

【掲載】
2011年12月~
『うたつかい』(制作:うたつかい編集部)
五首自由詠に毎号参加

2013年4月
『短歌男子』(制作:田中ましろ)
二十首連作「マリッジ」

2013年6月
『ぺんぎんぱんつの紙 膝~もしぺんぎんぱんつが膝を打ったら』(制作:ぺんぎんぱんつ)
五首連作「土井真」

2013年9月
『かたすみさがしWEB』(制作:田中ましろ)
五首連作「希求する/しない」

2014年3月
『NHK短歌』四月号
七首連作「先進国に生まれてよかった」リスペクトブックス「森本平『町田コーリング』」

2014年7月
『大阪短歌チョップメモリアルブック』(制作:大阪短歌チョップ実行委員会)
五首連作「スローモーションの雄叫び」(タイトル提供:三潴忠典)

2014年8月
『ぺんぎんぱんつの紙 十二支』(制作:ぺんぎんぱんつ)
十二首連作「果ての果て」

2014年11月
『ぺんぎんぱんつの紙 ジューシー』(制作:ぺんぎんぱんつ)
六首連作「空き家を燃やす」

2015年4月
『ぺんぎんぱんつの紙 イヨはまだ16だから』(制作:ぺんぎんぱんつ)
五首連作「私が正岡子規になっても」

2015年7月
『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』(安福望著/キノブックス)
一首掲載

2015年9月
『うたつかい』2015年秋号(制作:うたつかい編集部)
エッセイ「うたつかい四周年に寄せて」

2016年1月
『ぬくたん』(制作:千原こはぎ)
六首連作「十一月二日/長い夢」


2016年1月~
『うたつかい』2015年冬号~(制作:うたつかい編集部)
コラム「牛さんの短歌なう!」連載

2016年6月
『みずつき5』(制作:千原こはぎ)
六首連作「水曜の使者」 

2016年9月
『歌人のふんどし』(制作:田中ましろ)
六首連作「家電について」(タイトル提供:藤島優実)

2016年9月
『短歌の本音』(制作:中村成志)
エッセイ「短歌なのだから」

2017年1月
『とり文庫』vol.2(制作:千原こはぎ)
散文+短歌三首「空白は」

2017年2月
『さくはなの』(企画:尾崎まゆみ、松城ゆき)
五首鎖歌連作「さくはなの」

2017年2月
『大阪短歌チョップメモリアルブック2』(制作:大阪短歌チョップ2実行委員会)
五首連作「再構築します」

2017年6月
『夕化粧』vol.12(制作:いくらたん)
題詠一首+十首連作「労いて哂おう」

2017年9月
『歌人のふんどし2017』(制作:田中ましろ)
六首連作「あらかじめ失われたサウダーデ」(タイトル提供:綿菓子)

2017年10月
『濱松哲朗トリビュート 作品集交響曲とコギト』(制作:龍翔)
五首連作「インカのめざめ」

2017年11月
短詩系マガジン『guca』リニューアル創刊号
エッセイ「ただそこにある葉ねのかべ」


【活動】
2012年5月~継続開催中
空き家歌会」管理人/司会
(会長:虫武一俊)

2012年8月
歌会たかまがはら」ゲスト
(主催:天野うずめ ゲスト:谷じゃこ)

2013年1月
「第二回空き瓶歌会」ゲスト選者
(主宰:ユキノ進 ゲスト選者:谷じゃこ)

2013年10月~定期開催中(月1回)
暇活 もしも短歌がつくれたら」ファシリテーター
(主催:コワーキングスペース往来 司会:奈良絵里子)

2013年12月~定期開催中(月2回)
借り家歌会」ファシリテーター
(主催:まちライブラリー@大阪府立大学、空き家歌会) 

2013年12月
空き家パラダイス」主催/司会
(ゲスト判者:檀可南子、廣野翔一、虫武一俊、龍翔)

2014年7月
大阪短歌チョップ」実行委員
(実行委員:天野慶、岡野大嗣、田中ましろ、谷じゃこ、虫武一俊)

2014年9月・2015年1月
そうだ!歌会始行こう」ゲスト
(主催:伊丹市立図書館ことば蔵 司会:奈良絵里子)

2015年1月
かたすみぴあの」発起人/総合司会
(発起人:龍翔 ゲスト:濱松哲朗、江戸雪、吉岡太朗、虫武一俊)

2015年4月・5月
OsakaBookFesta+2015」参加(ファシリテーター)
(主催:まちライブラリー ゲスト:嶋田さくらこ、池上規公子、田中ましろ、岡野大嗣)

2015年7月
とととと展」コーディネーター
(主催:岡野大嗣、安福望、葉ね文庫 ゲスト:木下龍也、長谷川健一、柳本々々)

2015年8月~定期開催中
伊丹歌壇」コーディネーター
(主催:伊丹市立図書館ことば蔵 選者:尾崎まゆみ)

2015年9月
龍翔『Delikatessen/Young,Cute』読書会」発起人/司会
(発起人/ナビゲーター:辻聡之 ゲストナビゲーター:ななみーぬ)

2015年12月~定期開催中
葉ね文庫1周年企画「葉ねのかべ」コーディネーター
(主催:葉ね文庫)
・第一弾 高塚謙太郎【詩】×はらだ有彩【絵】(15年12月)
・第二弾 石原ユキオ【俳句・絵】(16年2月)
・第三弾 虫武一俊【短歌】×三宅愛子【写真】(16年6月)
・第四弾 八上桐子【川柳】×升田学【針金】(16年8月)
・第五弾 小島きみ子【花】×塚本佳紹【美術】(16年11月)
・第六弾 やすたけまり【短歌】×秦直也【絵】(17年1月)
・第七弾 曾根毅【俳句】×ななみーぬ【絵】(17年5月)
・第八弾 西尾勝彦【詩】×安福望【絵】(17年7月)
・第九弾 榊陽子【川柳】×利便性【漫画】(17年9月)
・第十弾 鈴木晴香【短歌】×ケント・マエダヴィッチ【絵】(17年12月)

2016年2月・3月
借り家歌会α」ファシリテーター
(主催:まちライブラリー@大阪府立大学、空き家歌会)

2016年4月・5月
BookFesta2016in関西」参加(ファシリテーター)
(主催:まちライブラリー ゲスト:岡野大嗣、虫武一俊)

2016年5月
俳句短歌ライブ」企画スタッフ
(主催:伊丹市立図書館ことば蔵 ゲスト:坪内稔典、尾崎まゆみ、朝倉晴美、田中ましろ) 

2016年9月~継続開催中
現代の名作短歌を読む会」ファシリテーター
(主催:まちライブラリー@大阪府立大学、空き家歌会)
・(1)たとへば君 ゲスト:江戸雪(16年9月)
・(2)日本脱出したし ゲスト:尾崎まゆみ(16年12月)
・(3)「はなびら」と点字をなぞる ゲスト:土岐友浩(17年4月)
・(4)さくら花幾春かけて ゲスト:中津昌子(17年8月)
・(5)サバンナの象のうんこよ ゲスト:荻原裕幸(17年12月)

2017年2月
大阪短歌チョップ2」実行委員
(実行委員:天野慶、田中ましろ、谷じゃこ、土岐友浩、なべとびすこ)

2017年7月
虫武一俊『羽虫群』批評会」総合司会
(主催:空き家歌会 パネリスト:穂村弘、染野太朗、大森静佳、魚村晋太郎)

2017年12月
連作相互感想会 たこ焼き」共同主催
(主催:水沼朔太郎)

いろはすでうんと気配を薄くしてみんな寝ている家を出てゆく
(うにがわえりも「大人になるためのプチ家出」)

水を飲んで気配を薄めるのは家族を起こさないようにするのと同時に、旅への小さな決意なのかもしれない。いろはすの響きも何だか忍術っぽくて可笑しい。


配下という言葉をニュースに聞いている小さな傘を分けてあげたい
(高松紗都子「千の傘」)

「傘さして帰りて来たる娘には傘のやうなる誰かの気配」(河野裕子)を連想した。それはテロのニュースなのかもしれない。テロに向かう「配下」もまた哀しみの存在なのだ。


この当時オレが笑っていたなんて信じ難いが夏の一枚
(工藤吉生「夏の一枚」)

「あるある」とも言えるのだけれど「あるある」を超えた情感のある歌だと思う。その写真のなかの夏みたいな笑顔から、夏の光や風のようなものが「オレ」のところまで広がって届くのだ。


「あひるの、あ」「いぬの、い」かなの練習をする子は告げる白熊の死を
(御糸さち「子 子」)

ホッキョクグマは温暖化の影響で絶滅を懸念されているそうだ。それはともかく、実体のない言葉から発せられた「死」ゆえに親には逆に実感として生々しく立ち上げる。


イチローが打ったボールを追いかけてそのまま駆けてゆく枯野かな
(むぎたうろす「あけぼのふかき夢のなかにて」)

イチローが打つ右中間を破る打球は美しくて、ずっと見ていたい魅力がある。イチローも晩年だがその打球は芭蕉のような不易の雰囲気を持ち、気高い。
 

短歌の世界では、「作者=読者」であることが、時として「問題点」として取り上げられます。しかしながら、学校で、講座で、あるいは友人から、秀歌を紹介されると、多くの場合、どこかの時点で自分でも作りたくなってくるようです。そういうものです。つまり、そもそも短歌には「読者を読者のままでいさせない力」があるのかもしれません。たとえば野球観戦が趣味という人が草野球チームを結成するまでの距離を思うと、それは短歌の偉大な力です。
 
二〇一二年から起こったコンビニのネットプリントサービスを活用して、自作の短歌作品を発表する動きもこの延長線上にあったように思います。『ピヌピヌ』(石畑由紀子・氏橋奈津子・村上きわみ)など、初期は折本という形から始まった短歌のネットプリントは、その後、『月刊ミドリツキノワ』(やすたけまり)のような定期刊行のものや、『ぺんぎんぱんつの紙』(しんくわ・田丸まひる)のようにゲストを迎えるもの、『大人短歌計画juke box』(稲泉真紀)のような多人数の作品を掲載する冊子形式のもの、そして数多くの個人の作品、などなど多方向に広がり、その性質は今や同人誌以上の多彩さを誇ります。
 
短歌のネットプリントの利点は、読者側から言えば、お気に入りの作者(たち)の短歌を一個の作品として【手軽に】【無料で】読める、ということでしょう。(印刷代は必要ですが、それは無料のイベントに掛かる交通費のようなものです。)しかし、ネットプリントのユニークさはむしろ発信者側に顕著です。ツイッターで短歌をツイートすることに比べ、予約番号を必要とするネットプリントは「その作品を読みたい人だけにその作品を届ける」ことができます。発信者として、作者として、より読者と関わっていこうとする姿勢だと言えます。
 
また、発行期間が短い、という一見、短所に思える点も全体から見ればかえって特長になります。作品の洪水化を防ぎ、常に「現在」に目を向けさせる作用をもたらすのです。これは紙の媒体でありながら極めてネット的で、しかしもちろん読者はお気に入りの作品を(書籍と同じように)手元に残すことができます。「ネットと現実」という二項対立ではなく、もはや現実の中にネットがある現在に相応しい発表形態であるように思います。短歌のネットプリントは、これからもしばらくは読者を読者のままでいさせないための一つのツールとして、短歌の世界を彩っていくのではないでしょうか。
 
最後に、執筆時現在発行されていた短歌のネットプリント、『君の背中に背中を向けて歩き出した日』(大波ななみ)から一首取り上げます。

  目を瞑り赤い世界が広がれば置き傘をして帰っていい日

瞼の裏で日の光を知覚しており、主体は普通に目を開けて見る世界を信じません。知識的な情報ではなくもっと身体的な感覚を頼りに生きていこうという態度でしょう。それは「君」から離れて歩こうとする「私」の意志と重なるのです。

(「うたつかい」第25号 掲載)

  マザコン




















  マザコン

僕の子がマザコンであり孫たちがおばあちゃん子でありますように

同棲の棲なら棲息 こんなにも昏い夜明けのなか抱きあって

タイムふろしきで卵子と精子に割れるときみたいに君が死ぬとさびしい

博物館のナウマン象が動きだし悲しみは楽しくなっちゃった

総ての子がまざこんであり子子孫孫がおばあちゃん子でありますように

「うたつかい」第26号

2014年7月19日の大阪短歌チョップからそろそろ2年。「大阪短歌チョップ2」の準備をはじめています。天野慶さん(「歌集喫茶うたたね」、歌集『つぎの物語がはじまるまで』)や田中ましろさん(「うたらば」、歌集『かたすみさがし』)はもちろんのこと、今回は企画スタッフに土岐友浩さん(「一角」、歌集『Bootleg』)となべとびすこさん(「YUTORICK」)が加わってさらにパワーアップします!前回の様子はこちらからご覧いただけます。

 大阪短歌チョップ2の準備はまだ始まったところですので、これから色々な方に出演のご依頼や、スタッフのお願いがいくかと思いますが、その際はどうぞよろしくお願いします!決まっているのは「楽しい!」ということだけです。

どうぞよろしくお願いします。 

三十三回
  

















  三十三回

会いしことなき親戚の、これからも会わざるままの伯父の法事へ

話など聴けただろうかヒカシューとプラスチックスのCDを貰う

もうこれでやっと終いと言う父を見ており兄と息を並べて

くりかえし少しずつ死なす 枯草がやがては土に浸みゆくように

何時でも何処でも何者でも何が何でも最後は一人だ栄養のあるものを食べて帰りつ

「うたつかい」第25号

この10月で借り家歌会がはじまって二年になる。借り家歌会は【平日の夜に】【事前連絡なしで】【詠草事前提出もなしで】【まちライブラリーで】行う歌会で、2013年の10月から毎月開催している。(歌会の詳しいシステムは上記リンクやまちライブラリーのFaceBookページで見ていただけます。)当初、少ない時では参加者が2名という時期もあったが、2015年を越えたあたりから、ほとんど呼びかけなくともコンスタントに10名を超えるようになった。しかも毎月に必ず1~2名の参加者は初参加だったりもする。短歌は作らずに好きな短歌を紹介するだけ、現代短歌の集まりはどんなものかを見学しにきただけ、という人もいる。常連参加者の中には、歌会は借り家歌会にだけ参加している、という人も。また、「OsakaBookFesta+2015」というまちライブラリーのイベント内で開催した時には20名を超えた。この広がり方は率直に言って自分でも予想外だった。

ツイッターで歌会の話題が上がると、多くの場合「敷居の高さ」がキーワードとなる。「ハードルの高さ」と言ってもいい。歌会の「ハードルの高さ」を話題にする時、その中身は大体の場合が「短歌歴の浅い人にとってベテランが主催する歌会に行くには抵抗感がある」というものだ。しかしながら、実際には選者を務めるくらいのキャリアを持つ歌人に「空き家歌会というものに興味があって一度行ってみたいが、私のような者が交じってもいいのか迷う」と言われたこともあったように、言わば「逆のハードルの高さ」もあるのではないか。(そういった面もあって、かつて「空き家歌会」を「初心者のための歌会」と紹介されかけた時には訂正させてもらったこともあった。)

「借り家歌会」は本体の「空き家歌会」と比べても、あらゆる人にとって、さらにもっと「行きやすい」歌会にしたかった。そのための【平日の夜に】【事前連絡なしで】【詠草事前提出もなしで】【まちライブラリーで】行うという仕組みだった。仕事帰りにふらっと立ち寄ったライブラリーで歌会をやっていたから参加してみたら話が弾んで思いのほか楽しかった、というのをしてみたかった。この感覚が「まちライブラリー」という場所の力も相まって、受け入れられたのだと思う。先日の借り家歌会で参加者の一人が、また別の参加者が雑誌で取り上げた古典和歌を、「この雑誌を読みましてね」と好きな短歌として紹介したシーンは、大げさに言えば借り家歌会の一つの到達点だと感じた。

あらゆる人にとっての歌会の「行きやすさ」は「ハードルの低さ」とイコールではないと思う。「行きやすさ」とはとどのつまり「行かなくてもよさ」だ。借り家歌会は事前連絡も詠草の事前提出もない。会場のまちライブラリーは会場費もかからないので、だれも来ずとも僕は図書館の本を読んで帰ればいいだけだ。忙しかったり気分がのらなかったりする時には「当然」行かなくてもいい、という雰囲気が、借り家歌会の「行きやすさ」を作っているのだと思う。借り家歌会用の用紙を作ってはいるが、大きい紙があれば借り家歌会は実施可能なので、じわじわとこの形式が広まっていってくれればうれしい。

借り家歌会にぜひいちど来てみてください。そしてもちろん来なくてもいいです。

愛する


















  愛する

愛国はかなしむこころ なくなってしまうからみんなこの国が好き

死にたいの対義は生きるではなくて殺したいだと知って涼しい

誰が僕を役立てるだろうエスカレータを上がれば釣り上げられた鯖の鱗のような雲

不思議MANブラザーズバンド現れて信じることが不思議だと言う

この町にグーグルアースで目印を刺すようにして夕日がとどく

  「うたつかい」第24号 

9月5日(土)、空き家にて龍翔歌集『Delikatessen/Young,Cute』読書会を挙行した。読書会の流れとしては、まず装丁を担当したななみーぬと、発起人の一人でもある辻聡之がナビゲーターとして基調発表を務め、休憩の後、列席者全員でディスカッションを行った。ディスカッションとは言え、アットホームかつ闊達な雰囲気の元で「みんなで考える」読書会ができたと思う。また、列席者以外にも、「好きな短歌一首」と「作者へ一言」を送ってもらうという形での参加を募ったが、大変多くの方からメッセージを頂戴することができた。厚く感謝したい。当日は頂いたメッセージをプロジェクターで壁面に映した。

基調発表では、まずななみーぬがパワーポイントを用いて、歌集デザインの経緯を説明した。歌集の読書会や批評会でデザインが取り上げられることは少ないが、『Delikatessen/Young,Cute』の装丁には作者自身も相当にこだわっていたようで、作者の「歌集観」というものに近づくことができた。また歌集タイトルの「デリカテッセン」は「惣菜店」の意であり、歌集には身近な食べものに自意識が向けられている短歌が多く見られるという指摘がなされた。

存分に痛がれば良い じわじわとシャウエッセンに突き刺すフォーク(「雨を看取る」)

怒りを本来向けるべき人に向けることができずにシャウエッセンにフォークを突き刺すこの歌には「かなしみのおかしみ」があるという指摘である。

辻聡之の基調発表では、まず、女子高生や人妻(あるいは夫)、いじめを受ける男子生徒など多様な作中主体(架空の人物)が登場する点が特徴として挙げられた。短歌の内容については「ラブ」「笑い」「毒」をキーワードとした説明がなされた。また、修辞の面でも文体及び構成・比喩表現・小道具の用い方の観点から「他の人にはない視点があるが目新しさがメインになってしまうともったいない」という指摘もあった。以下の短歌は辻が「一瞬ふっと立ち止まらせる良さ」があるとして選んだ一首である。

まだ意味を知らないままの純粋な響きとしてのえれくとろにか(「July 14 2013」)

総じて言えば、文体や表現の解りやすさ(素直さ)と、作中主体問題に見られるような複雑さが魅力の鍵であるような印象を受けた。

その後の全員参加でのディスカッションではあらかじめ「好きな短歌or連作三首(三篇)」「嫌いな短歌or連作二首(二篇)」「歌集を象徴する短歌一首」を提出してもらい、それを基にそれぞれの思うところを述べてもらった。ディスカッションでは「不全感はハッピーを志向する裏返しではないか」(門脇)「憧れと絶望が表裏一体に同時に存在している」(楠)「単純ななりきりでなくそれぞれの人生が歌集の中で動いている」(野田)「愛されていない自分自身を憎んでいる部分がある」(ルイド)「箱庭世界をさらに客観視している」(千原)「龍翔という作者が龍翔というイメージを作っている」(山本)「多様な作中主体はパラレルワールドのような印象」(御子柴)「短歌定型だけでなく社会や性などの定型への意識が強い」(じゃこ)というような意見が個人的には印象的だった。
読書会では結論というべきものに辿りついたとは言えないが、たった一日の読書会で結論を出すような単純な歌集でもないようだ。それぞれの考えるきっかけであればいいだろうと思う。

ここからは読書会を踏まえて至った私見を述べてみたい。

絶対に死ねるわけない(だって今日綺麗なパンツ穿いてないもん)(「ピアスホール」)
呼び鈴を連打している片手間にかかとでじゅっと踏み潰す蟻(「こんぺいとう」)
ねねねねねねねねねねねねね っていう文字が段々 ぬ に見えてくる(「雨を看取る」)

三首とも三十首連作の中の短歌であり、一首目は「嫌いな短歌」として、二三首目は「好きな短歌」として挙げた。それぞれの短歌は制作年代に一年毎の差がある(「ピアスホール」は三年前の連作であり「雨を看取る」は昨年のものである)が、すべて「死」をモチーフにしており、年を経るごとに段々と「死」そのものに近づいていることがわかる。三年前当時、私は一首目における「死」はファッションとしての「死」として捉えたのだが、「雨を看取る」から遡って考えるとやはり作者の内にあった「死」だったのだろう。それがファッション的な「死」で表されたのは、端的に言って作中主体の選択の失敗ではなかったかと私は考えている。
ディスカッションにおいて楠が「作中主体はバラバラでもどの主体にも『われ』が表れている」と言ったことに関連するが、龍翔の作中主体問題は「われ」を隠すための架空の主体ではなく、逆に「われ」を表現するための架空の主体ではないかと思うのだ。決して本音だけでは生きていけない龍翔(もっと言えば現代人)にとって、「作者=主体」の短歌が直ちに「われ」の短歌にはなり得ない。表現するべき「われ」に適合した主体の模索こそが、龍翔という歌人の作中主体問題なのではなかったか。多種多様な主体を演じることのその是非ではなく、「なぜそのような主体を必要としたか」という視点がこの歌集の読み解きの一助になるように思う。

制服を脱ぐときいつも気を付ける たましいだけにならないように(「こんぺいとう」)

龍翔歌集『Delikatessen/Young,Cute』読書会参加者
門脇篤史・千原こはぎ・楠誓英・野田オリカ・ルイドリツコ・山本純平・じゃこ・御子柴楓子・龍翔(作者)・ななみーぬ(ナビゲーター)・辻聡之(発起人・ナビゲーター)・牛隆佑(発起人・司会)

めためたドロップス』という同人誌がある。ショージサキ、小川千世、まひろ、浪江まき子、奈良絵里子、山田水玉、じゃこ、ゆいこ(第二号『めためたドロップスU(ユニヴァース)』から参加)をメンバーとして作られた、短歌を中心とした同人誌である。短歌同人誌と言うよりも「短歌を中心とした」サブカルの同人誌と言う方がいいだろう。9月20日の第三回文学フリマ大阪や11月23日の第二十一回文学フリマ東京で、第三号にして最終号の『めためたドロップスS(ストーリーズ)』が販売される。

「めためたドロップス」がテーマとしているのは「かわいい」なのだが、テレビで見るような薄っぺらな「かわいい」を予想して読むと混乱させられる。そのような画一的な価値ではなく、それぞれの個性の立った力量を持った作者たちであり、中津にある本屋シカクが付けた帯コピーの通りまさしく「カワイイがゆさぶられる」作品群となっている。

女子になる覚悟はないし女子じゃない部分が好きと言われたけど負け
(ショージサキ「くだらないことだけ信じてた」めためたドロップス)

ひらがなが漢字のよこに座るときみたいにそっととなりに座る
(小川千世「春夏私冬」めためたドロップス)

あいうえおかきくけこさしすきでしたちつてとなにぬねえきいてるの
(まひろ「いっぽんあしを抱えて眠れ」めためたドロップス)

晴天が雪になる窓 変わるのは天気じゃなくてわたしの位置だ
(奈良絵里子「歌を忘れていたころ」めためたドロップス)

雨ふりの曲がり角には熱帯魚 知らない町へ泳いでいこう
(ゆいこ「明日の町」めためたドロップスU)

1人中1人がわたしのしあわせを祈っています 祈りませんか
(じゃこ「合法ドキュメンタリー」めためたドロップスU)

試験のために覚えろと言う 死ぬときは地獄に堕ちるのだろうと思う
(浪江まき子「嘘と英断」めためたドロップスU)

烏龍茶うーがカラスと知ったなら子供時代は終わりさベイベー
(山田水玉「感じる葦」めためたドロップスU)

おもしろいのは、それぞれ個性がばらばらな八人なのに、一冊を通して読むとまるで「めためたドロップス」という一人の人格であるように思えてくる点だ。ばらばらなようでいて何か通底するものがあるのだろう。それでも、山田水玉とじゃこが少々ユニークな印象を受けるが、それも一人の人の日記や酔っぱらった姿など、隠されていた面が見えてしまったみたいで、そうした部分もあって豊かな人格を作っているようだ。キャプテンのじゃこが何となく集めたメンバーのように見えて、何かの予感が働いていたのかもしれない。

第二号の『めためたドロップスU』制作前、誰か一人新たに加わってもらうということになり、キャプテンのじゃこから「誰がいいと思うか」という相談を受けた。その時、僕は「歌集も刊行していて人気の歌人だがぎりぎり参加してくれそうなぐらいの人」を何名か挙げたのだが、その提案に対してのじゃこの答えは「何ていうか未完成な人とやりたい」というものだった。その「未完成」は短歌の作風や技術といったもののことで、「一緒に成長をめざす仲間が欲しい」ぐらいに理解したのだが、今にして思うとそれも少し違うような気がする。作品の範囲を超えたもっと人間的な「未完成」を求めていたのではないかと思うのだ。(一応付け加えると「未熟」ということではない。)

「めためたドロップス」の作者や作中主体はよく転職をする。社会的な一般的な価値観で測れば、転職は未だよろしくないものと言えるだろうが、彼女たちの転職にはそうしたニュアンスはない。(もちろんスキルアップのようなポジティブな転職でもないが。)そのような経済社会の枠組内での転職ではなく、言うなれば、自分の半径3メートルの周囲を良い方に変えていこうとする意志の表れとしての転職なのだ。そうしてみると、ゆいこにとっての旅も、単なる紀行ではなく、自分の感性を手で触れて確かめるための行動のように思えるし、小川千世にとっての同棲もまた、恋愛の自然な延長というよりも、自分の好きなものを信じていこうとする働きかけのように思える。「めためたドロップス」における転職や旅や同棲は、一見、矛盾した言い方になるが、自分が自分のままで変わっていこうとする、そのための選択なのではないか。その意志に溢れているからこその「未完成」ではなかったのか。

鮮やかなビジュアルデザインの冊子にはセンチメンタルではない「せつなさ」が込められている。「かわいい(可愛い)」とは「かなしむべし(愛シム可シ)」であり、かなしみいとしむべき心のことを言うのだろう。読者のかなしむべき心の部分がゆさぶられるのである。

きたる9月5日(土)に大阪で龍翔歌集『Delikatessen/Young,Cute』の読書会を行います。著者を招いてゆったりと話を交わす読書会です。ご興味のある方は牛隆佑までお知らせください。会場スペースに限りがありますのでお早めによろしくお願いします。 満席となりました。ありがとうございます。

今回、「行きたいけれど都合が合わなくて…」という声をたくさん頂戴しております。ありがとうございます。著者にお届けしますので、「好きな歌一首」(歌集以外からでも構いません)と「著者へ一言」を頂戴できればと思います。「著者へ一言」は批評でも感想でも応援でも叱咤でも告白でも何でも結構です。ushiryu313131☆yahoo.co.jp(☆は@)、もしくはツイッターのDMにて、9月3日(木)24時までにお送りいただいた分はとりまとめて当日、著者にお渡しします。ぜひよろしくお願いします。

【概要】
龍翔歌集『Delikatessen/Young,Cute』読書会
日時:2015年9月5日(土)14時~(開始時間は予定です)
場所:空き家(予定)※人数によっては変更するかもしれません
発起人:辻聡之、牛隆佑
会費:200円(お茶代)

ナビゲーター:辻聡之、ななみーぬ

※歌集をお持ちでない方は「葉ね文庫」か著者本人からお買い求めいただけます。 

「龍翔」という存在は短歌の世界において、歌人的にも作風・文体としても位置づけ(価値づけ)が特異で非常にユニークな存在ではないでしょうか。今回の読書会を通じて、龍翔短歌の本質に深く迫っていければと思います。とは言うもののゆったりとざっくばらんな会にしたいと思いますので、どうぞお気軽にご参加ください。


果てしなく繰り返されるさよならで雨の音さえ聞こえなかった
(「五月の雨」『Delikatessen』より)

(原形をたとえ留めていなくとも)おうちに帰るまでが遠足
(「豚になりたい」『Delikatessen』より)

僕の頭の中には川が流れてて夏には蛍が大量に死ぬ
(「雨を看取る」『Delikatessen』より)

 NZNZNZN(風に吹かれて転がってます)
(『Young,Cute』より) 

「それは私の(君の)キャラじゃない」は落とし穴だ。そもそも「キャラ」とはなんだ。人間性をそんな一面で捉えられるのか。むしろ、いかに自分の「キャラ」をどれだけはみだしていけるか。それが豊かな人間性を獲得していくということだろう

というのは一般論であるが、「キャラ」を「作風」に、「人間性」を「作家性」に変えると、それは短歌の話にもなる。YUTRICKが取り組んだネットプリント『らしからぬ短歌』も、意図は逆に「自分とはなにか?」を問うものだ。

世界中がわたしを渇望してるから飛び出してゆけ世界のわたし
(荻森美帆「きゃりーぱみゅぱみゅのなりすましに注意」)

恋がしたい恋がしたい恋がしたい誰かわたしのあたまをなでてなんて言ってたらあなたが夢に出てなでろ つってんのに手をつながれた
(亜梨「喜劇のヒロイン」)

闇 闇 闇 最後の灯りを吹き消して僕らはそっくり獣になった
(長月優)

スーパーがスーパーマーケットじゃなくてただスーパーな場所となる雨
(風橋平「Love River」)

個人的に好きな短歌を四首挙げた。これらの短歌が「らしからぬ」短歌なのかはそもそも普段の短歌の作風を知らないので何とも言えないし、また「らしからぬ短歌」という性質上、それはどこかで見たような既存の作風でもある。そして短歌の質という面から言えば、かなり石の割合多めの玉石混交な作品集である。しかし、「自分とはなにか?」という問いを内包する短歌であるならば、それはすでに意義のある「いい短歌」と言って良いと思う。

YUTRICKは平成2年生まれのなべとびすこさんと平成6年生まれの深川青さんを発起人とした、平成生まれの歌人にスポットを当てた同人集団(と言っても、平成生まれであることを参加条件にしているのみで、今のところ明確な会員・非会員の区別があるわけではなさそう)で、現在はフリーペーパーの創刊を目指しているということだ。
僕や僕の近しい歌人たちは昭和の終わりの生まれなので、YUTRICKの歌人たちの大体十年ほど上の世代にあたる。昭和の終わり世代はいわゆるゆとり教育の初期の学校教育を受け、また絶望的に暗い経済社会を見て育ってきており、そこでは「個性」が求められてきたと記憶している。実体としてはともかく、「個性的」であることをよしとする雰囲気はたしかにあったと思う。
それに比べ、YUTRICKの世代はもう少し複雑だ。「個性的」であることはすでに前提として要求され、しかしエコロジーであり、合理的でありつつ、ところが経済を前向きに進めるための「生きる力」も求められる。ありのままの私でありつつ世界にひとつだけの花でなければならずしかし空気を読むことが必要でさらに時には空気をあえて読まないことも求められる(それも空気を読む行為である)、という非常に難しい立ち居振る舞いを強いられてきた世代ではないか。YUTRICKはそうした要請から外れて「自分とはなにか?」を模索をはじめた蠢きであるように思えてならない。

うたらば」購読サポーターに申し込んだところ、サポーター証とうたらばフリーペーパー「花」をいただいた。ありがとうございます。

花瓶 その花の終わりにふさわしくまたうつくしいお墓でしたね (木下龍也)

たんぽぽの綿毛は宇宙に飛び出して見知らぬ星で花の祖となる (土屋智弘)

花柄の傘をさしたら灰色の世界でわたしだけいいにおい (嶋田さくらこ)

「うたらば」は田中ましろさんが私財(のほか色々なもの)を犠牲にして取り組んできたプロジェクトであるが、しばしば「いつまで続けるのか」という話題が持ち上がる。今回の取り組みは、ましろさんが「うたらば」を続けていくことの、大げさに言えば決意が固まったということなのだろう。

それにしても常々思うのは、田中ましろさんや岡野大嗣さんなど写真(あるいはイラスト)と短歌を合わせるという選択の見事さだ。短歌の写真の組み合わせることは、ともすればお互いがお互いを限定させてしまう。短歌とイラストを組み合わせるという発想自体の凡庸さに比べて実例が少ないのは、その合わせるということの難しさも理由なのだろう。組み合わせを掛け算として成功させるだけの能力が、短歌の創作とは別のものとして備わっているのだと思い知らされる。

食器と食パンとペン」のブログでおなじみ、安福望さんの画集『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』(キノブックス)が7月10日に発売されました。それを記念して、「とととと展~『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間~」と題し、ギャラリー・古書店・カフェと、横断イラスト展を開催します。僕はコーディネーター的なところでお手伝いをさせていただいております。ぜひ、お立ち寄りください。

とととと展~『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間~
安福望 × 岡野大嗣
7月27日(月)~8月2日(日)

● 展示場所
大阪・中崎町の3つのお店
 
ギャラリーモノコト
〒530-0015 大阪市北区中崎西1-7-11
OPEN 12:00 CLOSE 19:00(水曜休廊)
※最終日(2日)は17時閉廊。
 
葉ね文庫
〒530-0015大阪市北区中崎西1-6-36(サクラビル1F)
OPEN 19:00 CLOSE 21:30 (火~金)
OPEN 11:00 CLOSE 21:30 (土)
OPEN 11:00 CLOSE 19:00 (日)
 
コモンカフェ
〒530-0015 大阪市北区中崎西1-1-6(吉村ビルB1F)
8月2日(日)「ととととライブ~私たちの好きな短歌と音楽~」
OPEN 11:30 START 12:00
入場料2500円(ワンドリンク別・入退場自由)


大阪短歌チョップ の一コーナーとして安福さんの展示をしたのだが、スペース的にも期間的にも不十分だった気がしていて、大阪短歌チョップ終了後、岡野大嗣さんと「もっとちゃんとした個展をしたいですよね」という話をしたのだった。一年後になってしまったが、実現できて大変うれしい。

上記の『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』にはありがたいことに僕の短歌も掲載されている。

  地球には風ってものがありたまに誰かの初夏を伝えたりする

うたらば ブログパーツの表紙にも採用してもらった幸運な短歌で、田中ましろさんによる写真と安福望さんによる絵を付けていただいたことになる。ましろさんの写真にも、安福さんの絵にも言えるのは、そこに「解釈」を含むということだ。短歌の説明資料でも、逆に短歌を原典とした二次創作でもない。短歌に寄り添いながら、そこから新たな世界観を付与し、最終的には最初の短歌を一層佳いものにしてしまう。「解釈」であり、「批評」と言えるだろう。

主に短歌の作り方などを説明した本の冒頭には、「短歌には無限の可能性」というような旨のことがしばしば述べられるが、それは創作ではなく短歌の楽しみ方のほうにこそあるのかもしれない、というようなことを思った。


新世界


















  新世界

人間の世界の終わりを松木立ひかりを連れて雨が降ります

ぼくたちは新人類にならないと選んだ方の原人類のように

愛だとも言えなくないがそれならばむしろピーマンではなかろうか

浴室の白熱灯を取り換えるここから生まれ変われ小さく

何時何分地球が何回周った日かは知らないが君に触れるとき

  「うたつかい」第23号

やっつけ仕事人
 

















  やっつけ仕事人

あらがわないこともあるいはたくましさだとおもうんだ青椒肉絲

三十分でこのそれっぽさとはお前さてはやっつけ仕事人だな

パーフェクトイエスマンとして生きてきた課長代理がノーを告げる日

同じように、は同じではなく同じように春は訪れ仕事場を去る

二〇一五年大阪の空に秀吉も眺めただろう夕焼けがある

  「うたつかい」22号 

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