消燈グレゴリー その三

牛隆佑のブログです。2014年8月から再開しました。短歌。 空き家歌会管理人。大阪短歌チョップ実行委員。

カテゴリ: 文章

短歌なのだから

 

短歌をうまくなるにはどうすればいいですか」と尋ねられたら、精一杯の軽々しさで、しかし本気で「結社に入るといいですよ」と答えることが多いのですが、これは僕が結社無所属だから言えることです。もし結社に所属している歌人が、こんな答え方をしたら「ほう、ではうまくなったあなたの短歌を見せてくださいよ」と思われてしまいそうです。少なくとも僕は思っています。

 

今回のようなテーマで歯切れが悪いと物事が分かりにくくなるので、率直に言わせてもらえば、この企画の執筆者のほとんどは「短歌上達法を語る上で、拙さを恥じる必要もないが、巧さを誇るにはちょっと恥ずかしい」くらいの言わば偏差値50歌人です。だから短歌上達法を語るには説得力がないし、もし語ればその人はもうそれまでの歌人だ、という落とし穴があって、これは中村成志さん、なかなかえげつない人選をされていますね

 

しかしながら、そんなことは承知で自らの思う短歌上達法を語れるというのが格好いいと思うので、良い機会をいただいたのだとして、「短歌がうまくなるにはどうすればいいのか」を考えてみました。もちろん、どのような短歌がうまい短歌なのか、ということはその「短歌の場」にもよりますし、また、その短歌の作者が誰なのかという点でも他者からの(または自分自身の)評価は違ってきます。そもそも、短歌がうまいとはどういうことなのか、短歌がうまい必要があるのか。これらのことは当然、「短歌がうまくなるには」と問いかける際の前提にすべきです。

 

さらに言えば、それは誰からの問いなのか、という点も重要です。馬場あき子から「短歌うまくなりたいのだけどどうすればいいのかしら」と問われて答えられる言葉が偏差値50歌人にありますかね。結局のところ、短歌の上達法を語れてしまうのは、その相手を自分よりも下に見ているということです。しかしそれだって自身の定規で測った自分だけの基準なのかもしれないのです。だから本当は「短歌をうまくなるにはどうすればいいのか」を問う相手は自分です。自分が自分自身に問いかける、そしてこの問いが意味を持つのはそこにしかありません。

 

僕が現時点で唯一言える短歌上達法は「やめない」ということだけです。そしてこれはたぶん真実です。とは言うものの、短歌を作り続けること自体が目的になって人間を疲弊させてしまうのは、おそらく違うような気がします。短歌を楽しみながら、短歌というものに促され導かれるように、短歌を作り続ける、つまりそれは、短歌を消費して、しかし短歌に消費されず、短歌を生産せず、短歌に生産される、ということになるだろうか。

 

当たり前ですよね。短歌なのだから

 

「短歌の本音」169

※「うまくなりたいのか?~男たちの短歌上達法」がテーマのネットプリント散文集。

うたつかい四周年に寄せて

 

四周年おめでとうございます。うたつかいを振り返るとき、必ず行き当たる思い出があります。それは20125月の石川美南『裏島』『離れ島』の京都批評会後の懇親会のことでした。今は某結社で選者を務めるAさんが「うたつかいのようなものが50もできたら短歌の世界も変わるよ」と仰ったと記憶していますが、その時、同じテーブルにいた飯田和馬、虫武一俊、たた、ちょろ玉、そして私のおそらく全員が「さくらこさんみたいな変わった人が50人もいるわけないし無理や……」と思ったはずです。実際、その後、「のような同人雑誌」は生まれず現在に至っています。

 

うたつかいの特長は言うまでもなく、選歌も前号評もなく、ただ各々が信じる短歌が掲載される点です。共通した価値基準によって収集されていない短歌は、混沌でありつつ多彩です。もちろん、長く投稿していくうちに何となくの共通の意識は作られていきますが、また新たな投稿者によって壊されていく、その川のようなうねりこそがうたつかいの生命力です。ここで改めてAさんの言葉を。なぜ、うたつかい(のようなもの)が短歌の世界を変えうるのか。それはヒエラルヒーが主であった短歌の世界にそうではない景色を作るからではないでしょうか。山ばかりの世界に川が流れはじめるように。このような雑誌が50もあればたしかに短歌の世界の見え方は大きく違ってくるでしょう。

 

創刊からの4年間を見てみると、うたつかいと同じように短歌の世界に新たな価値観を与える出来事が続々と現れています。2012年からのネットプリントによる短歌の発信に始まり、13年にはBL短歌雑誌「共有結晶」や、詩誌や結社に所属しない人の詩を集めたフリーマガジン「あるところに、」が発刊されました。12年の全国短歌大会大会賞受賞の木下龍也は翌13年に新鋭短歌シリーズから『つむじ風、ここにあります』を上梓し、その後もどの団体にも拠らずに活動を続け、新風を吹き込んでいます。14年春には短歌サイト「うたの日」がスタートし、冬には詩歌の言わばセレクトショップである「葉ね文庫」が開店しています。そしてこの15年には「平成生まれ」にスポットを当てた新しい形態のグループである「YUTRICK」が発足し、安福望は『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』の刊行によって、短歌の世界においても確たる存在となったと言えます。

 

もちろん、続けることのできなかったであろう企画も多くあり、維持していくことの困難さを窺わせます。その中で、次の段階へと移行をはじめたのはやはり「うたらば」でした。購読サポーターという制度は経済的な面よりも、「うたらば」を続けていくという田中ましろの決意として重要な起点のように思えます。

 

「うたらば」も含めてこれで10。Aさんの言う50まであと40。私たちは今、短歌の世界が変わろうとしているその真っ只中の景色を見ているのかもしれません。

 

「うたつかい2015年秋号」159

このコラムではこれまでに、ネットプリントやツイキャスなど新しいメディアを取り上げてきましたが、ここ最近は歌会についての意見がツイッターのタイムラインを賑わせたように、今はそれぞれに自分自身の活動を見つめなおす、といった時期なのかもしれません。とすれば、この号が出る頃にはまた新たな動きや試みが現れているかもしれず、楽しみです。

さて、この記事を執筆している今は、第十九回空き家歌会を終えた頃です。ツイッターで話題となった「歌会論争」についてここで触れるつもりはありませんが、それにしても歌会についてのポリシーというものが話題になるというところに、ひとつの歴史を感じます。ツイッター上での関係を基盤のひとつとして開催する歌会としては2011年に始まった東京の「空き地歌会」(野比益多)をその起点に挙げることができ、その後の2012年からの大阪の「空き家歌会」(牛隆佑・虫武一俊)、新潟の「空き瓶歌会」(ユキノ進、現代表は香村かな)が現在の流れを決定づけたように思います。その頃のそうした歌会は、一言で言えば「集まるということ自体が目的」だったところがあったように感じます。個々はそれぞれの考えを持っていたはずですが、それよりも「短歌をしている人がいる!」ということだけで珍しかったし嬉しかったのです。

その他方、最近ちらほらと耳にするのは「歌会に行っても短歌がうまくなるわけではない」という言葉です。同感です。ちゃんと言葉を補えば「短歌がうまくなりたいのを目的とするのなら歌会は必ずしも効率的とは言えない」ということでしょう。2~3時間ほどで10首~15首を読んでいくというところを見れば、確かに何とも効率は悪い。(ただし実際にやってみるとそれでも時間が足りない!)もっと効果的で効率的な方法はいくらでもあるはずです。

しかし同時に私たちは知っています。一見、何の関係もないような話や些細で無意味な話からでさえ、ある重大な気づきを受け取ったり、核心に迫るヒントを手に入れたりするようなことがあります。もちろんもしくは得られなかったりということも含めて。そのような体験は人生上で何度もしてきているはずです。そしてその瞬間はいつでもスリリングでエキサイティングです。

通販サイトのAmazonは「この商品を買った人はこんな商品も買っています」と確かに魅力的な本を次々と教えてくれます。その最適解に最短距離で向かうような高度に洗練されたシステムはもはや美しくすら思えます。でもそれは統計に支えられた、他人の足跡をそのまま辿ろうとする行為であり、そこに創造的な歓びはありません。

ちなみに、この号が発行される秋には、空き家歌会は第二十回を、借り家歌会は第五十回を迎えます。この歌会はまだまだやっていきたいと思っています。

(「うたつかい」第29号 掲載)

先日の2017年2月25日の大阪短歌チョップ2にお越しいただいたみなさま、ありがとうございました。少なくとも延べ350名以上の方にお出でいただきました。短歌にはさまざまな楽しみ方があるのだ、ということを空間として示せたのではないかと自負しています。また、特筆すべきは参加者の多様さです。2014年の第1回よりもさらに多種多彩な人がそれぞれの動機で訪れたように思います。どうしても狭い世界の中で「知り合いの知り合い」までをその範囲としてきた短歌のイベントでは、かなりその外側に踏み出したものであったことは間違いありません。そしてそれが実現した、ということに短歌の急速な広がりを感じます。(イベントの詳細は公式サイトをご覧ください。)

この広がりを齎したのは誰なのか。かねてより短歌の普及活動をしてきた歌人や団体は数多く存在しますし、近年では大阪短歌チョップ2の実行委員でもあった天野慶から、なべとびすこまでも、そこに加えることができます。しかし、本当は短歌自身の力によって広がっているのではないか、という気持ちをこの数年間、持ち続けています。

むしろ変化があるとすれば、それは読者の側かもしれません。私は普段、高校生に国語を教えていますが、私たちの頃と比べても、今の高校生たちの知性や感性、つまり受容の感度が上がっていることを日々感じます。授業で塚本邦雄の短歌を紹介して、そこに一言説明を加えると、普通の高校生が「めっちゃかっこいいな。」と言ったり、歌集を回すと「これは1700円の価値があるな。」と言ったりします。そうした反応をするのは、取り立てて文学に興味のない高校生で、彼らがこんなに深いところで受容できるのか、と驚きます。しかし、これは世代よりも、おそらくはその時代のほうに要因があります。

原田郁子、ミト、伊藤大助によるバンド、クラムボンは2010年のTOWER RECORDSのコーポレートボイス「NO MUSIC,NO LIFE」のインタビューにおいて、「受け取り手の感度が上がった。」「浅いユーザー、消費者がいなくなった。」と述べています。それはネガティブな意味での「一億総評論家社会」が頻繁に言われはじめた時期と重なり、彼らも「厳しい人たちですよ。」と述べています。しかし、こうも言います。「より深いところまで受け取ってもらえる。」「中途半端なものでなく、本当に面白いものを欲しがっている。」「消費者が、自分が本当に欲しいものを探している感じが(音楽の)質の高さ等にこれから表れてくる。」簡単にはいかないユーザー、消費者だからこそ、作り手は受け手を信頼して自分の表現したいものを投げだせる、そのような時代が来たのだと思います。そして、そのようなユーザーが「短歌」を見つけたのではないでしょうか。2009年に短歌に触れはじめた私自身も、今にして思えばそうしたユーザーの一人だった気がします。(さらに言えば、2011年の東日本大震災以降、その傾向が加速したように感じます。)

「うたの日」や「借り家歌会」において「短歌はじめたばかりなんです。」や「作ったことはないですが興味があって。」と言う人の評のその深さに驚いたことのある歌人は少なくないはずです。少なくとも彼らの評を聞いていると「本当に自分がいいと思えるものを探しに来ている」ということを感じます。

短歌を「マイナーなもの」として捉える時、その反対側には「大衆」が意識されますが、その「大衆」の輪郭が壊れつつあるようです。たとえば、2016年に刊行された歌集『キリンの子』(鳥居/KADOKAWA)が、同日に発売された伝記的単行本よりもはるかに売れたことも、従来の「大衆」観では計れない読者の存在を感じさせる出来事です。鳥居歌集だけでなく、『食器と食パンとペン 私の好きな短歌』(安福望/キノブックス)や『きみを嫌いな奴はクズだよ』(木下龍也/書肆侃侃房)のヒットも、そして大阪短歌チョップ2のあれほどの賑わいも、「大衆」ではないユーザーたちの希求の力と作品や短歌自体の力との交点上にあったものであると言えます。

クラムボンは先述のインタビューの中で「大きなカンパニーがどんどん無くなっていって、個人やフリーランスの方に(役割の)バトンが回ってきている。」ということも述べています。短歌に照らし合わせて言えば、「うたらば」(田中ましろ)や「葉ね文庫」(池上規公子)はまさしくその力学上に現れたものでしょうし、さらには『大阪短歌チョップ2メモリアルブック』内の「沖縄から見た関西の短歌シーン」の中で、光森裕樹が書いたような「若者においては、複数の同人誌や歌会に所属するのが当然であるかのような構造(N:N)になっている」こともその側面に思えます。コミュニティ主体の時代から個人主体の時代へ。大阪短歌チョップ2のあの空間にいた人は、多かれ少なかれそのエネルギーを感じ取ったのではないでしょうか。

(「うたつかい」第28号 掲載)

たとえばスポーツには「する楽しみ」と「観る楽しみ」があると言いますが、それを短歌に置き換えるならば「詠む楽しみ」と「読む楽しみ」になるでしょう。しかし、このところ、複数の人がTwitCasting(スマートフォンやパソコンを利用してライブ配信ができるサービス、以下、通称の「ツイキャス」を使用します)を利用して、短歌についてのライブ配信をしているのを見ると、短歌には「語る楽しみ」もあるのだな、ということを実感せずにはいられません。(そういえば歌会は三つの楽しみ方の合わさったものと言えるかもしれません。)

インターネット上の動画共有サービスとしてはツイキャスに先立って、より高画質放送が可能なUstreamが存在しており、短歌を語る場としても、「歌会たかまがはら」(天野うずめ)、「堂園食堂」(堂園昌彦)、「むしたけのぞき」(虫武一俊)など、いくつかの個性的な番組が放送されていました。しかし、これらの番組が「公」の意識を持っていたのに対して、ツイキャスはUstreamと比較して手軽に配信ができることからか、より身近な、よりプライベートに短歌を語る場として、利用されているようです。内容としても、朗読を中心としたもの、具体的な短歌や、同人誌、ネットプリントの短歌について語ったもの、短歌を超えた歌人のパーソナリティーについてのもの、また、コメント機能などを利用してリスナーとのコミュニケーションを図るものなど、多彩で可能性を感じさせます。(かくいう私も先日七月一日に山本まとものツイキャスに招かれ、二人で「短歌ヴァーサス」というかつて発刊されていた短歌雑誌について語りました。)

さて、インターネットを取り込んだ短歌の世界はハイスピード化しています。いわゆる「Web2.0」以降、インターネットが短歌の創作・発表の場となり、より多くの短歌がより速いスピードで発表されるようになりました。そしてそのスピードは短歌同人誌や短歌のネットプリントにも及び、文学フリマなどでは毎回、多くの新しい同人誌が並びます。そのスピードの中で、ひとつ前の短歌はすぐ新しい短歌に押し流され、読者に立ち止まってじっくりと味わわれ、そして語られる機会を得ないまま、堆積化していく短歌も多くあります。もちろん、より多くの短歌が生まれるのは好ましいことですし、もはや留められるものでもありません。それよりもツイキャスはむしろ、短歌を語る場として、そのスピードにさらに適応していこうというしなやかな流れなのではないかと思えてきます。

インターネットでは、かねてより「短歌を語る場」としてブログサービスがあり、歌人もやはり多くの人が自らのブログを開設しています。「トナカイ語研究日誌」(山田航)「あとがき全集」(柳本々々)といった卓抜したブログも生まれ、山田や柳本は評者としても確固たる地位を築いています。これから先、ツイキャスを短歌を語る場にして、また新たな評者が登場するのかもしれません。

(「うたつかい」第27号 掲載)

前号のコラムでは「ネットプリントは、これからも読者を読者でいさせないためのツールとして短歌の世界を彩っていく」と述べましたが、歌集、雑誌、結社誌、同人誌、フリーペーパー、ブログ、などにネットプリントも加わるとなると、読者としておぼろげながらでも全体を把握するのはもはや不可能です。

もちろん、読者として何を読むかの選択肢が増えるのは歓迎すべきことですが、よりたくさんの人に読んでもらおうとしている作者にとっては大変です。毎日生まれる山のような作品の中から、束の間、自分の作品を選んでもらうにはどのような方法が考えられるでしょうか。より良い短歌を作っていくということは自明として、まずは発表方法の面での工夫にその糸口がありそうです。例えば、イラストや写真を組み合わせたり、朗読や音楽を用いたりなど、「短歌をどのように見せるか」という工夫です。岡井隆、俵万智から青木麦生、田中ましろまで、昔も今もそのような意識を持って活動していた歌人はいますが、今後さらに顕著となっていくに違いなかろうと思うのです。しかし、「短歌の見せ方」を考える時、自分にとってのそうすることの目的は何なのか、という意識は持たねばなりません。

六条くるるは二〇一五年に、連作「2回目の14歳」を発表しましたが、活字ではなく、朗読による音声データでのみの発表、というユニークな方法を取りました。(翌年、歌集『君がいたってだめなんだ』に収録。)しかし、その発表は六条個人のブログ上で極めてひっそりと行われ、短歌自体の良さと発表方法のユニークさとは裏腹にほとんど話題になることはありませんでした。その理由について六条くるるは「実験的試みであり万人に見せる(聴かせる)クオリティになく、告知をほとんどしなかったため。」と述べています。これは、自分の読者以外の人に新たに読んでもらうための発表の工夫であるならば、その発表の工夫自体にもアイデアだけではなく、十分なレベルが必要である、ということを知るからこその言葉であると言えます。

「葉ね文庫一周年企画 葉ねのかべ」での詩歌の展示作品は、まさにその意識上にあります。この号が発行される頃はおそらく第三弾「虫武一俊×三宅愛子」による展示期間中です(現在は第四弾「八上桐子×升田学」)。連作「極東の午後」(虫武一俊)から一首引いてみたいと思います。

  暗闇がどの身にもある現実に口をおおきく開けてやまない

人間の体内は洞であり、つまり私たちはだれもがその身に暗闇を持っています。口を開く行為は闇である内部にささやかでも光を取り込もうとする切望なのかもしれません。この短歌を写真家の三宅愛子は、どのように見せようとしたのでしょうか。たくさんの方にご覧いただきたいと思っています。しっかりとしたアイデンティティーを秘めた短歌はどのような【見せられ方】をしたとしても、個性を喪うことはありませんから。

(「うたつかい」第26号 掲載)

短歌の世界では、「作者=読者」であることが、時として「問題点」として取り上げられます。しかしながら、学校で、講座で、あるいは友人から、秀歌を紹介されると、多くの場合、どこかの時点で自分でも作りたくなってくるようです。そういうものです。つまり、そもそも短歌には「読者を読者のままでいさせない力」があるのかもしれません。たとえば野球観戦が趣味という人が草野球チームを結成するまでの距離を思うと、それは短歌の偉大な力です。
 
二〇一二年から起こったコンビニのネットプリントサービスを活用して、自作の短歌作品を発表する動きもこの延長線上にあったように思います。『ピヌピヌ』(石畑由紀子・氏橋奈津子・村上きわみ)など、初期は折本という形から始まった短歌のネットプリントは、その後、『月刊ミドリツキノワ』(やすたけまり)のような定期刊行のものや、『ぺんぎんぱんつの紙』(しんくわ・田丸まひる)のようにゲストを迎えるもの、『大人短歌計画juke box』(稲泉真紀)のような多人数の作品を掲載する冊子形式のもの、そして数多くの個人の作品、などなど多方向に広がり、その性質は今や同人誌以上の多彩さを誇ります。
 
短歌のネットプリントの利点は、読者側から言えば、お気に入りの作者(たち)の短歌を一個の作品として【手軽に】【無料で】読める、ということでしょう。(印刷代は必要ですが、それは無料のイベントに掛かる交通費のようなものです。)しかし、ネットプリントのユニークさはむしろ発信者側に顕著です。ツイッターで短歌をツイートすることに比べ、予約番号を必要とするネットプリントは「その作品を読みたい人だけにその作品を届ける」ことができます。発信者として、作者として、より読者と関わっていこうとする姿勢だと言えます。
 
また、発行期間が短い、という一見、短所に思える点も全体から見ればかえって特長になります。作品の洪水化を防ぎ、常に「現在」に目を向けさせる作用をもたらすのです。これは紙の媒体でありながら極めてネット的で、しかしもちろん読者はお気に入りの作品を(書籍と同じように)手元に残すことができます。「ネットと現実」という二項対立ではなく、もはや現実の中にネットがある現在に相応しい発表形態であるように思います。短歌のネットプリントは、これからもしばらくは読者を読者のままでいさせないための一つのツールとして、短歌の世界を彩っていくのではないでしょうか。
 
最後に、執筆時現在発行されていた短歌のネットプリント、『君の背中に背中を向けて歩き出した日』(大波ななみ)から一首取り上げます。

  目を瞑り赤い世界が広がれば置き傘をして帰っていい日

瞼の裏で日の光を知覚しており、主体は普通に目を開けて見る世界を信じません。知識的な情報ではなくもっと身体的な感覚を頼りに生きていこうという態度でしょう。それは「君」から離れて歩こうとする「私」の意志と重なるのです。

(「うたつかい」第25号 掲載)

このページのトップヘ