August 31, 2014

シリ−ズ「三角の話」(三角絞めの発祥)

マニアの方々(ワタシではない!)の間で、
三角の話がさらに盛り上がったのである。

横三角やら裏三角の推理の話は以前にも書いたが、
最初の三角(前三角)の話の方が、
ついに大正時代までさかのぼった。

三角の話、創世記編である。

正直、私は古い資料なぞ手元にないし、
そこまでのマニアではないのだが、
各種資料がメールで送信されてきて、
いろんな考察がメールで飛び交っているので整理しておいた。
というか自分で整理しなおさないと
何がなんだか、ついていけなくなったんである。

膨大な資料から必要な部分だけ「電子化」しとくわけである。
これで、あとで検索できる。マニアの役に立つ。
くどいが、わたしはもともとマニアではない。

なお、今回「三角」の資料の選択・提供とか、情報の整理についても、
実質的な作業は、東北大OBの某教授とかの大先生方である。
このブログは私の頭の再整理のためであることをお断りしておく。

それと新たに情報がわかったり、
思いつくことがあれば、更新・追加のため、
このブログ自体を書き換えていくこともお断りしておきます。

さて、
「三角の発祥は六高か、四高か?という話」

一般には六高の金光師範&早川(勝)選手が
創案した
という説が流布しているらしい。

柔道史にも詳しい
「木村政彦はなぜ〜」
にもそういう記載がある(p102〜、p334〜)。
もはや定説のようである。
 

しかし、実際は、四高の方が数年早いかもしれない。
六高での完成が大正9〜10年(1921)ころ?らしいが
四高ではそれに先立つ大正6〜7年(1918)頃?
どちらも最初の開発に関わった部員の名前まで出てくるので、
年代は特定できる。

さらに、大正7年(1918)には
講道館の高段者相手に公開指導がされていた(小田常胤)という情報もあり、
既に、世に広まっていたということになる。
小田常胤は、この時の三角の指導について、
当時(大正7年)の「高専柔道」を参考にしたように述べている。

(いずれも「完成」の精度まではわからないが)

情報を総合すると、三角(前三角)の開発は、
四高の方が数年早かった(大正7年?)が、
四高全盛時代から
急速に六高全盛期に移行したため
その後、実際に高専大会で威力を発揮した
六高の三角の印象だけが歴史に残ったと考えてもよいのではないか。
(※四高全盛期は大正9年までの七連覇

日本のプロレスと言えば力道山が「元祖」みたいな話である。
(実際は日本国内としても「日本人」としても、
もっと古いプロレスラーは色々いる)。

ただ、初期の四高では三角の技はあったものの「三角」は
公式試合(高専大会)では不発らしい。
最初に三角の決まり手を残したのが
どうも六高の早川勝ということらしい。
(公式試合(大正11)、高専大会(大正12))。

<・・・以下資料から抜粋する・・・>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★旧制六高系の三角開発の逸話★
(師範は、金光弥一兵衛/明治25〜昭和41(1892〜1966
大正9年に六高に赴任。
ちなみに、六高は、早川勝による三角絞め投入の年の
大正11年から高専柔道大会を8連覇。)

「第六高等学校柔道部部史」
<三角締めの糸口つくる>
・田坂:・・・三角絞めの糸口をつくったのは
早川君(※六高:大正11年入学)ではないか。
ぼくらは松葉固めといっていたが。
早川君があの大きな体でベェーッと飛び上がってくる。
それで左足か何か首へ引っかけてグッと引っ張ってきた。
・青木:三角やったのは早川さんだろう。
・加藤:山沢(※六高:大正9入学?)が初めてだ。
・青木:中学の時に早大大化会と六華会が試合をやったやろ。
あのときに早川が先鋒で三角で抜いて・・・ぼくはあの試合を見ているんだ。
早川が三角で早稲田の大化会に勝ったのだ。
・田坂:私が三角は早川勝君が初めに
こういう技はどうだということをやったんじゃないかと言ったら、
いま加藤君がいや、それは山沢が初めてだと言われた。
・佐々木:それは奥村の同級生に高橋徳兵衛(※六高:大正8年入学)というのがいた。
これが始めた。ただしこれは金光先生(※大正9〜六高師範)と話している間に、
昔の起倒流の逆があった。起倒流の逆に、ちょうど引っ込んで、
ああいう逆をとるのがある。ただし、それは
首と手をまっすぐにはさんだからすぐ抜けたんだ。
それを高橋徳兵衛がやり出して、それではいかんというので
足のきく勝がこう引っかけることを考えた。
・田坂:とにかくそれを得手にしたのは私の隣にいる田上君。
君は松葉固めがお得意だったな。
・青木:しかしぼくらが入ったときの早川さんの強さというのは
どれだけ強いかわからん。その中であの三角だけには
どうにもならなかった。三角締めといえば
大山(※大正13入学)が代表的な選手のように
言われている。大山にはわしは幾ら三角をはさませておいても逃げた。
腰で切れた。ところが早川さんのは絶対にはさまれたら取られたね。
早川さんの三角だけは後にも先にもない決め技だったな。・・・・・

・・・・・・・・・・

※金光弥一兵衛は大正9年より六高師範
※早川勝(六高:大正11年入学)
※高橋徳兵衛(六高:大正8〜10年在学)
※山沢は、山沢準三郎(六高:高専出場大正9〜11年、卒業が大正12卒)
(『第六高等学校柔道部部史』(平成元年4月1日発行、非売品より))
早稲田の大化会に勝った試合というのは、武徳会主催の青年演武大会。
 当時最も大きな大会の1つで、大化会は当時無敵を誇り、二連覇をねらっての出場。
 六高は高専大会初優勝(大正11)の余勢を駆って六華会の名前で
 一宮、佐々木、佐藤、桜田、早川(勝)の5名で出場。
 決勝では、早川の三角絞め(三角
緘)が本邦初の決まり手として炸裂、
 一対ゼロで早稲田(大学生)を相手に六高(旧制の高校生)が優勝。
 この時、六高が引き込みと寝技を駆使したため、
 以降、講道館審判規定が改正されるきっかけとなった
(「闘魂」より要約(
p329〜))。

『闘魂(湯本修治)(抜粋307pp)
・・・
一宮(※六高:大正10年入学)に始まった
六高の緻密な、固め技を完成させたのは、
翌(※大正)十一年入学の早川勝

早川は立わざも強かったが、寝わざはことにすぐれており、
高橋徳兵衛(※大正8〜11)
、桜田武(※大正9入学)
木下芳平(※大正10入学)
らから始まった
「松葉緘」、別名「三角絞」をも完成させた。
この三角絞については、戸田清(※大正8〜11)

六華「若き日の思い出」で
高橋徳兵衛という不器用な同輩がいた。
不器用なるが故に、苦しまぎれに変な挟み逆をやり出した。
すりこ木で挟むような芸であったが、
その着想が発展完成されて、三角にもなっていった』
と述べているのは興味深い。・・・

・・・・・・・・・・・・

「第六高等学校柔道部部史」
<三角緘みの由来>早川勝八段(大正11年六高入学);文責
大正十年七月、全国高専大会で、四高と六高とが接戦の末、
引き分けに終わった歴史的な試合が行われた。
この時、六高の戸田選手が四高の江川選手に対し
新兵器「膝関節に対する十字固め」を施した。
これが規定違反であるかどうかで大悶着となって、
結局この新兵器は、「お預け」となった。

その翌年には、彗星の如く、次の新兵器「三角緘み」が現れた。
それにはこういう話がある・・・
<以下、内容の要旨>
・大正10年、神戸一中の道場で六高生(※一宮?)と
中学生(※早川ら?)が「三角緘み」を開発。
この時は両足を伸ばして腕関節を極める形だったらしい。
(・・・立っている相手に対して下から飛び込んで、
その頸部と肩とを自分の両脚で挟み(自分の両足首部分を緘み合わせ)、
腰の力で相手の腕関節を極めるという風のものであった・・・)
・その年の11月、中学の大会では
神戸一中(早川)の「三角」が猛威を振るった。
大正11年早川勝が六高に入学した際には
脚を三角に絡み合わせるように進化していた。
(脚部を三角型に緘み合わせる様になっており、
相手の姿勢にかかわらず確固たる効果がある)
・六高では、この技は、その両三年前から六高内の練習試合で
偶然発見され、漸次、改良、研究が加えられ、金光弥一兵衛師範が創成した。
・当初は、小型選手の抜き技として利用されたが、
安全性、副次効果としての絞め、変化が研究され、
一流超弩級選手の主力攻撃技として完成した。
・名称は、はじめはただ何となく「挟み逆」、三角型に固めるに至って
「三角逆」と言い習わし、関節より絞めで極める場合も生じて来たため
「三角絞め」とも言われ、非公式ながら一般にも通用していた。
・当時、講道館では認めていなかったので未だ公式の名称は確立されていない。
(※昭和30年前後の文章か)
・技の創始者である金光九段は、その著書の中で、これに
松葉固」の名称を与え、又在京某高段者(※三船久蔵?)は、
これを
三角緘み」と呼んでいた。
・持ち上げて逃げようとすれば、下から技を施しながら相手の足、裾を取って
腰をひねれば釣り上げられることはない。
・絞めで攻撃を加え、ひるむところを逆をとるという使い方。
・第一人者は、六高の大山(省三)、堀部(道輔)等であった。
・絞めの段階では、挟まれた肩を突出し、両脚を施術者の脇腹にかけて
仰向けに倒れて逃げる方法が有効。
又、挟まれた方の腕を外側に張り出して頑張る方法もあったが、
緘み風に脚部で攻められる恐れがあった。
・「三角緘み」は不完全な状態で持ち上げて落とされたり、
上から乗りかかられたりして、施術者が頭部、頸椎を怪我する事例があり、
持ち上げられた際は、施術者は挟んだ足を放すという審判規定になった。
・「頸部を直接脚で締めること」は禁止だが、
頸部と肩部を挟むので、この規定には違反しない。
当時の学生が「自由」を尊重し、
「創造」に精進した学習求道の結晶である。
新兵器はかくしてこそ生まれる。
・固技による勝負方法について、審判規定の改正をもって
権力的に圧力を加えんとする行き方に対し、当時帝大柔道会が
最後まで抵抗した所以もここにあった。

・・・・・・・・・・・

※大正10年に神戸一中の道場で「三角の原型」を研究していたのは
この話の流れから中学生当時の早川勝らであろう。
六高生とは一宮勝三郎※か?
(※「一宮」との情報は、「木村政彦は〜」の記載による(p103)。
増田さんは、他にも資料持ってるのかもしれない。)

(・・・と思ったら、以下資料を提供いただいた(東北大OB某教授より)・・・)

「第六高等学校柔道部部史」(※平成元年4月1日発行、非売品より
<一宮に関する断想>文:大正14年卒早川勝(※入学は11年)
・・・彼(※一宮)が、(※神戸一中を)卒業後、
六高に進み、その年の秋、前年の宿怨を晴らすべく、
県下優勝大会(※中学の大会)を目指して練習中、
忽然として来神(※神戸に来た)せる彼により、
秘術(今にして思えば三角逆)を伝授せられた。
午前五時頃であったが、電燈のない道場の暗闇で蝋燭の灯りを頼りに
説明を受け研究をした光景は今もまざまざ想起される・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※一宮は早川勝の一年上級で
神戸一中から六校に進学。
早川が在学中だった神戸一中に帰って三角を研究。
一宮(旧制六高一年生)から早川(旧制中学5年生)へと
三角が伝わった時の話(大正10年の秋)。
ちなみに、一宮は六高卒業後は九大(医)に進学したらしい。

●『第六高等学校柔道部部史』
「私の柔道観:
金光弥一兵衛」
・・・六高の柔道が強くなり新しい技を産み出して従来のものと
柔道の内容が変わってきた。
寝技が立技以上に世を風靡せんとしてくると
従来の専門家連中は安閑としておれなくなった。
そしてこれを研究し自分のものにするということよりも
これを恐れてきらった人が多かった。・・・
・・・講道館の大勢は寝技をきらってこれまでの審判規定を改正して
なんとか固技試合をやらせないようにしようとした。
・・・嘉納先生は「京大主催の高専大会に六高は優勝しているが、
優勝している六高が寝技をやめようといえば止めることはできると思うが
六高から言い出さないか」と。
私は、「それは話が違うように思います。京大主催ですから
大学が言うべきで、
六高は気に入れば参加し、
気に入ねば参加せぬまでだと思います。
嘉納先生は「磯貝はどう思うか」。
「生徒がいうことをききませぬ」。
嘉納先生は「それでは文部省へいってやめさしてしまおう」・・・・・。
とにかく講道館柔道にとっては重大な危機が到来した。
ここで何とか対策をこうぜねばならぬという不安感が
先生方の顔に溢れておった。

嘉納先生はさらに「金光は両足で片手と首を絞める技をやっているが、
あれは危ないからやめてはどうか」。
私は「いえ危なくありません。持ち上げたら離せとなっており、
持ち上げは禁じております」。
磯貝先生「私は危ないと思います」・・・・・
結局この時の話合いでは、持ち上げる姿勢になった時には離す。
それまではやってよいということになった。・・・・・

この松葉搦み(三角絞)あるいは腕挫松葉固め(三角逆)は私の
考案した代表的な技の1つだが、これは
最初、六高の高橋徳兵衛君(※大正8入学)が
両方の脚をのばしてはさんでいたのを、片脚の方へ三角にはさますように
直していって松葉で
搦らむようなあの型になったものだ。
一宮(大正10年入学)早川勝(大正11入学)の頃には
もう技としてものになっておった。
その頃は持ち上げてもはなさなかった。
・・・<以下内容の要約>・・・
・工藤一三(強豪柔道家)が東京から六高に練習に来たが、
一宮が三角で何本もとったので工藤は稽古をやめた。
高等学校の生徒だとバカにできんと驚いていた。
・大正11年の講道館の紅白試合に六高の
山沢一宮、佐々木、
早川昇(※文章中は早川勝だがその兄で昇の間違いと思われる)の四人が出た。
松葉搦みで抜くというウワサが伝わったため、
六高生出場の前に試合を中断して、三船久蔵が逃げ方を指導した。
こんなことは、講道館創始以来はじめてで、前代未聞。
しかも教え方が反対方向だった(技が効いてしまう方向)。
四人は三角は使わぬことにしようと相談し、
主として立技勝負で20数人を抜いた。
・六高の柔道、高専柔道は日本の柔道界に大きな影響を与え、
講道館は審判規定を変え、寝技を制限し、柔道界は2つにわかれてしまった。
戦後はさらにこの寝技制限に拍車がかかり、昔の高専柔道も滅びんとした。
ヘーシンクに二度も抑え込まれて多少は目が覚めてきたか。
恥ずかしいことじゃ
(※昭和42年記(前年に録音取材したもので金光はその年に死亡したらしい))。

・・・・・・・・・・

※:講道館での六高生による
「三角をあえて使わずボロ勝ちの件」
金光さんの言う「立技勝負で」っていうところが
ホントかな?と思ったら、
以下のように、出場した当人らによる
別の情報も教えてくれた
(東北大OB某教授より)・・・)

「第六高等学校柔道部部史」(※平成元年4月1日発行、非売品より
佐々木吉備三郎(大正12卒)「六高柔道の思い出」
<・・以下、要約・・>
・・・技の面からすると昨秋考案された三角絞は未完成で、
どの程度使えるか確信が持てなかったものの、
押さえ込みでは、独特な崩上四方や縦四方が完成していたし、
締はもっとも実践的な送り襟の取り方、
相手の肩に足をかけての締め方が工夫され、
如何に相手が防ごうとも、必ず絞める自信をつけていた・・・
(※三年生時代、大正11年4〜12年3までの話。
なので昨秋とは、大正10年秋)

(※大正11年7月?)京都の青年演武大会に六華会の名前で出場。
桜田、佐々木、一宮、佐藤、早川(勝)の五名。
勝ち抜きではなく、点取り勝負。
早稲田の大化会が二連覇中。
六華会は決勝で大化会と対戦
25歳までだったので石黒敬七は不出場だったが早大は強豪ぞろいだった。
早川は引き込んで田中を三角逆に仕留めた
(※下記の試合記録にもあるが、おそらく公式戦初の三角の決まり手
大将どうしの試合は、引き込んだ一宮(六高)を
結城が引きづって柱にぶつけようとしたり、
当身まで使う乱暴さだったが引き分けた。
引き込んでも返せなかった六高と、
寝技を避けた大化会の引き分けの連続だった。
一宮は立っている間は
腰を引いて右手で相手の襟の下方を握って突っ張っていた。
そのため、身体が自護体になり
腹部の筋肉に力が入っていたため当身も効かなかった。
六高の宿舎までの帰路を大化会の応援団が襲うというウワサがあり、
京都武専の柔道部が対抗に集まり出したりした。
結局、何事もなく無事だった。

(※大正11年の秋に)講道館の月例試合に出て見ろということで、
(※六高から)早川(昇)、山沢、一宮、佐々木が選ばれ上京。
四人とも三段になったばかりであったが、
三段の上位位置に並べられた。
六高先陣の佐々木が試合場に出たとき、突然異様なことが起こった。
試合を中断して、三船師範が出てきて注意を与えるという、
「最近、関西では、変な逆が行われている」といって、
われわれの三角絞の型を、一門下生を相手にして実演して見せ、
この逆は邪道の技であり、かけてくる相手を持ち上げれば効かない。
従って、持ち上げれば、かけた方に非常に危険であるから、
持ち上げて投げ下ろすことは禁止し、持ち上げた方を勝ちとする
と長々と実演解説した。
こんなことはこれまでにない異例中の異例。

「こん畜生、講道館何するものぞ、今日の試合をみろ」
とわれわれは相当腹を立てたが、
当時の三角絞めは未完成であったことと、
我々が引き込んでも絶対ついて来ず、逃げる一方の相手には、
三角に持ち込む機会をつかめず
これで一本もとれなかったのは残念であった。

われわれ四人の相手方は、大部分慶応、
早稲田大学の柔道部の現役選手。
試合の進行につれ、佐々木が一人、二人抜くと、
慶応の連中は全部棄権して出てこず。
早稲田の連中は一人もやめなかった。
佐々木は四人を抜いて五人目と引き分け。
戦法は寝技特に、固め技に徹し引き込むやいなや
相手の足を刈って倒したり、カニ挟みで倒して抑え込んだ。
相手は絶対についてこないので、
引っ込み返しを用いなかったのが勝因と思う・・・
二番手山沢は、ケンケン内股で崩して抑え込み、
3人目と引き分け・・・
(※抜き勝負で大量に棄権、勝ち抜きとなったので
試合結果記入の紙が足りなかったらしい)
また(※講道)館生がほとんどであったが、われわれに対し
、露骨に敵意を示した声援も、ものすごいものであった。・・・・


・・・・・・・・・

※要約でも臨場感伝わるんでは?
当時の荒っぽさと真剣さ、注力度がすごい。
※早稲田の結城が使った当身技は、「人中当身」で、
得意の必殺技で、有名だったらしい。
さすがに飯塚審判から注意を受けたらしい(「闘魂」p332、333)
※引き込みアリ、というかそれが反則という規定がなかったらしい。
それで講道館柔道が相手ならそりゃ勝てるか。
※引き込みされると講道館柔道が成り立たぬということで
 嘉納治五郎が『試合は立ち技を以て始むべし』と規定を変更したらしい
(大正13年、翌14年には武徳会も(「闘魂」p335))
※大正11年だが、まだ三角は未完成だったと
少なくとも一部の人間は言っている。
※本人らは、立技でなく固技の戦法だった、
三角を使いたかったが
相手が逃げてできなかったと言っている。
金光さんが言うように、立技したというよりは、
相手が寝技を逃げ回ったという感じ。
金光さんは、たぶん現場は見てないと思う。
だいぶニュアンスが違う。
※早川昇は早川勝の兄(おそらく2学年上級で大正9年入学)

「第六高等学校柔道部部史」(※平成元年4月1日発行、非売品より
山沢準三郎(大正12年卒(※9年入学?))
<要約>
・・・(※大正11年)10月には、佐々木、私(山沢)、早川昇、一宮が
講道館の紅白大試合に四人で出ることになった。
佐々木が五人抜き、四名合わせて相手方不出場棄権を入れて、
二十四名の差をつけて勝負の赤線が斜めとなって書き様がないと言う
講道館始まって以来の未曾有の出来事をしでかして
寝業問題の種をまき、斯道に於いて
六華会の先輩達に溜飲を大いに下げさせた。・・・

・・・・・・・・・・・・・・

※早川昇は、早川勝の2学年上級で兄。
※試合結果も微妙に違うけど、まぁ誤差範囲か。
増田さんの本(木村政彦は〜)に「4人で24人を抜いた」とあるのは
もしや、このあたりの記載からか?

「新式柔道(金光弥一兵衛:大正15年)」
<・・・名称について・・・>
二六、「松葉搦みの絞め」(p148)
・・・この業は著者が発見したる業の内にても、
人々の注意を惹きたるものの一つにして、
この名称は絵に書く
折松葉の如く
搦みて絞むるをもって
名付けたのである・・・

・・・・・・・・・・・

<ワタシのまとめ>
★まとめると、六高系では、
・高橋徳兵衛(大正8年入学)が三角の原型の「はさみ技」をやり、
・そこから金光師範(大正9年着任)が着想を得て、
・一宮勝三郎(大正10年入学)ほか、あたりで、
「三角形に足を組む」改良・完成がなされ、
・早川勝(大正11年入学)の技が、
実際に試合で威力を発揮したため印象に残った・・・
みたいな感じです。

完成は、ひいき目にみて大正9年〜10年。
金光は、自分が中心で
開発が早かったと、
自分の手柄を強調したいようだが、
六高への着任自体が大正9年だし
(前任は広島高等師範学校らしい、ちなみに六高の金光の前任は岡野好太郎)、
実際は大正11年でも未完成と言っている人もいる。

ちなみに、最初に三角の決まり手を残したのは、
おそらく下記の試合結果のように、
大正11年入学の早川勝。

(※ローカル大会とかだと、
もっと早期にあっても不思議はないが、
メジャーな試合で記録が探せたものでは
大正11年の早川勝だと思う。
そうだよね?O君。)

・・・・・・・以下は、四高系の話・・・・・・・・・

★★旧制四高系の三角開発の逸話★

(※高専柔道での四高の全盛期は大正3〜大正9までの七連覇。
ちなみに「北の海」の井上靖が四高に入学したのは
昭和2年で四高の全盛期は過ぎている)

加藤敬道(四高:大正6年入学)(文集「高専柔道と私」より)
・・・この年※の南下軍までの期間に私は、柔軟な胴体と、
よく言うことをきく足と手を造り、切られない握り方を工夫し、
寝技の多くの技を、一応は習得した。
えび攻め、三角絞めや俵がえしなどの攻め技や、
寝技の防御についても、習得することができた。
五高もこの時期には力をつけて来たが、優勝戦は、やはり六高とであった。
この試合で、前から五人までは引き分けに終わったが、
四高の井浦君が、珍しいリズムの変化を応用した
特殊の技法を用いて勝ち、その後は引き分けが続き、
この年も四高は、大将一人を残して優勝した※。

・・・・・・・・・・・・・・

※これは大正7年12月29日の高専大会らしい(東北大OB某教授談)


星崎治名(四高:大正8〜11)著「新柔道−寝技篇」昭和9年出版
<・・四高での三角開発の逸話p48〜p52:要約(新仮名遣いに改)>
・かに挟み逆が勝負で鮮やかに決まった実例は、第一回東西両大学の対抗で
加藤敬道六段と濱田六段との対戦。
東大は中堅星崎、阿部、茂木、里村の奮闘で一人喰い込んで
京大の総帥濱田六段の出場となった。
東大副将後藤六段は・・・力尽き・・・
両大学大将同志の顔合わせとなった。
加藤六段、一礼して立つや、
やにわに濱田六段をあおり気味に前に泳がせ
得意のかに挟み逆で快勝。その間わずかに八秒。
・この逆十字固め逆の発見には面白い挿話がある。
・やはり高専試合のとき四高の後藤久(※四高:大正6年入学)が
一年に入学の始め南下軍の補欠で京都に遠征した。

・若冠、後藤選ばれてすっかり上がり気味となり、
無茶苦茶に敵を引っ張り込んだ。
敵は組し易しとみて強引に上から絞めに移って来た。
苦し紛れに後藤は防御しようと足をあげたらなんだか十字固めの様な
逆がとれそうな気がしたので、
腰をひねりながら腹をそらし敵の絞め手を引っ張ったら折れてしまった。
・この経緯に耳を傾けたのが当時四高のコーチ三船八段※
これを力学上、理論上、無理のない様に仕上げ、
その名もかに挟み逆という技となった。
・研究心の強い女房役加藤敬道(※四高:大正6年入学)がこの技を進歩させ、
ついに敵の頸部をけさに挟んで逆・絞両様に利く三角固めを案出した。
・この技は四高の特技で、たまたま四高の凋落が
この技の案出の2〜3年後に始まったため
全盛だった六高の特技の様に世に誤り伝えられる様になった。
非常に残念と考えるので禁止されたこの技の歴史を物語り、
案出者の労苦を一般へ公開する。
高専でこの技を巧みにしたのはまず
四高 後藤久(※大正6年入学)
、内藤雄二郎(※大正10年入学)
六高 早川勝(※大正11年入学)、花房寿一(※大正11年入学)
に指を屈する。
殊に後藤の妙技、早川の猛技、今なお武徳殿上の華と謳われているくらいだ。


・・・・・・・・・・・

※四高の後藤久氏が「三角の原型」を極めた試合は、おそらく
大正6年の四高Vs六高戦(※東北大OB某教授のコメント)。
※「闘魂」には、大正6年の第四回高戦大会の決勝で
 四高の新人後藤久が六高の小山昇を破った旨の記載はあるが
 決まり手などの記載はない。
※ 後藤久、加藤敬道の両名とも「闘魂」の記述によれば
 大正7〜8年には、四高の代表的な強豪として扱われており、
 四高の寝技としても最強黄金時代だったとされている。
※三船久蔵十段(1883年(明治16年)〜1965年(昭和40年))

は、一時期、四高コーチだったらしい。
初めての四高の指導が大正6年で、当時は六段(「闘魂」p181)。
(普段は講道館にいたらしいが、指導の開始時期は、
金光の六高着任よりちょうど3年はやい)
 
※ちなみに、上述の六高の講道館での試合の時のように、

三船十段は、当初、三角を「邪道」といってたらしいが
その後のご自身の著書では、
自分が編み出した良く効く技として紹介しているらしい
(以下参考。※東北大OB某教授より提供)。


「道と術(三船久蔵:昭和29年)」

三角固腕挫(さんかくがためうでくじき)
・・・この技は、私の発明した逆技のうちでもなかなか確実的な一つである。・・・
(p128)

・・・・・・

ちなみに、この本は三船さんが技をかけている連続写真とその解説付き。

「袈裟形三角固腕挫防禦(けさがたさんかくがためうでくじきぼうぎょ)」
として、いわゆる前三角に対する防御法もある。
下からの前三角から頭を外して腕だけを十字に決める技は
「仰向形腕挫(あおむけがたうでくじき)」として解説がある。
他に「足挫(あしくじき)」として紹介されているのは、
アキレス腱固めからのボストンクラブ(逆エビ固め)である。
明治時代に禁止されたはずの「足緘(あしがらみ)」
(外掛けの膝固め)の掛け方、防御法も載っている。
・・・(極まれば)膝関節を捻挫あるいは脱臼することになる・・・
と書いてある。
サブミッションレスリングみたいな
あいてのがぶり(前方からの抱え込み)を切り返す
回転式のワキ固めもある。
相手の打撃に対するワキ固めもある。
「参考」ということらしいが。

●その他の四高関連の三角の情報
「闘魂(湯本修治)」の記載を確認したが、
大正6(三船久蔵が四高コーチに着任)〜大正9まで
四高を含めて高専柔道大会の戦記の中に、
三角絞めを思わせる攻防の記述はない。
三角ができたと思われる
四高の後藤久、加藤敬道の両選手だが、
強豪でもあり、かつ四高黄金時代である。
不出場のまま試合に勝ってたり
相手が逃げ回ったり、立ち技の攻防だった試合もあるようだ。
そのため三角の攻防にならなかった可能性もある。
 

ただ、大正10年の記載には以下がある。

〇郵盻斉刺瑤愍霾鵝覆そらく郵便か電信)として
「六高での(前)三角の発見」の報が四高に入った旨の記載がある。
<京都の斉藤憲吉より四高柔道部に来信があった
・・・(略)・・・また六高においては、
絞めと逆とを同時にとれる技の発見があったと、
知らせてきたのもこのころのことで、
三角
の情報が流れたときは、
大変な驚きであったろうと想像される。・・・(略)・・・


(※
どの立場の人のコメントをどう判断して記載したのかはわからない。
 しかし、
この大正10年の情報は、他と整合性が取れない。

 こうなると、もう時系列(年代)も内容も
 何を信じたらいいのか分からない?)

△泙拭大正10年の大分予Vs四高の試合の戦記に
「挟み逆」の決まり手がある。

<・・以下、「闘魂」より、要約・・>
四高七番手小野鶴太郎は、
大医四将宮下初段と対したが・・・・
宮下散々翻弄されし挙句腕を折らる(南下戦記)とあり
「挟み逆」をもって打ち取り参将田村を迎える・・・

・・・・
※上記の四高の三角開発の話によれば
この
「挟み逆」は、形態こそ明確ではないが、
前三角の原型だと思われる。

※この記載の前後で、「蟹挟み」との記述が
足で相手の足をはさんで倒す技か、
足で腕と首を挟む三角の原型か
わからない箇所があるが、
ここの記述は明らかに腕への逆。

・・・・

(※ちなみに三角が決まり手として登場するのは、
六高の早川(勝)で、大正11年が初)

<その他>

「柔道大観(小田常胤※:昭和4年)」

※小田常胤(旧制二高師範/(明治25〜昭和301892〜1955)は、
「柔道大観(昭和4年)」において、
「三角法の部」に、以下のような記述をしている。
(新仮名遣いに改)
・そもそもこの三角法は、京都帝国大学主催の
高等学校、専門学校の優勝戦の始まってからの問題で、
確か大正七年と自分は記憶している。
大正七年の八月に講道館が東京高等師範学校の道場を借りて、
四段以上の柔道講習会を開催した際、
自分が磯貝八段を相手に説明し、来合わせたる有段者に紹介し、
公開したのである。
それ以来、急速の進歩を見、全国的に研究されるに至ったのである。
高等学校の優勝戦を中心として、精錬に精錬を重ねて、
もはや、寝勝負における権威あるものとして、その価値を認められるに至ったのは、
まことに斯道の為に祝福すべき事である。

(※この記載を信じれば、
六高には「三角」が存在しない大正7年の時点で
既に「高専柔道」を参考にしたらしい小田常胤が
講道館対象の講習という形で広めている。
それなら、この時の前三角のオリジナルは四高と考えてもよいか?
)。

<当時、(講道館では)禁止技だった旨の記載・・・>
(新仮名遣いに改)
・・・・三角法は、絞、逆、押込という具合に、
種々変化に富み、勝負上権威あり興味ある業であるので、
一般修行者もたとえ講道館の審判規定にて禁止せられて居るにしても、
大いに研究すべき重大事項である。
講道館の審判規定に禁止されているものをやるから、
邪道とか、柔道でないとか、価値がないとか云う言は慎まねばならぬ。

※ちなみにこの「柔道大観」には
甲種とか丁種とか、各種三角の解説だけで70ページくらいあるらしい。
(※某教授コメント)
防御法とかもとにかく詳細。
さらには、なんと当身技(當身業)の部まである。
とにかく膨大な情報を盛り込んだ大著。

●ライバル関係:
一高対二高戦についての
「闘魂」(湯本修治)」の記載で
大正7年〜9年という状況が、ある程度わかった。

ちなみに、一高Vs二高戦というのが
この大正7年の第五回大会の開催を最後に廃止されているが、
この一高対二高戦は小田常胤の指導を受けた二高が寝技戦法で
一高を破るなど高専柔道大会とも相互に影響を与えあったとされている。
<以下、時系列にそって要約>
・大正7年1月、二高が小田常胤を師範として招聘。
・大正7年4月、第五回一高対二高戦で二高が勝利
 (段位などは劣るが寝技戦法で優ったとされている)
・大正7〜8年、一高は二高への復讐の念を抱き、
稽古、合宿に励むが、寝技にも取り組むようになる。
・大正9年、寒稽古の終わる頃より
「柔道はこうして勝て(小田常胤)」などで寝技の研究も開始。
 (以前に二高から贈呈されていたが、憤慨してあえて見ていなかったと)
・大正9年6月、一高は金光弥一兵衛を頼って岡山の六高で合宿。
(※金光は大正5年まで一高師範、大正9年から六高師範)
以降も一高と六高は協力関係にあった・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

※当時、小田常胤が師範の二高と一高とはライバル関係だったらしい。
金光(六高師範)は、元一高師範で一高とは友好的な立場だったみたいだから
小田常胤と金光弥一兵衛もライバル関係だろうか?
(現代の友好的な感覚とは違うはず)。

四高と六高との間も当然ながら、
高専柔道大会の頂点を争っていた時代だからライバル関係。
なので金光(大正9年より六高師範)と
三船(大正6年より四高コーチ)もライバル関係?

小田(二高師範)と三船(四高コーチ)も、
もともと講道館とかでもライバル関係じゃないの?
だとしたら小田が四高(三船コーチ)の三角を参考にしたとは言わないか・・・?

いずれにしても、誰もが人の名前は出さず、
自分の手柄にしたそう?!
 

・・・・・・・・・・

<ワタシのまとめ>
★まとめると、四高系では、
・大正6年の対六高戦で後藤久(大正6年四高入学)が、
三角の原型のような「かに挟み」的な技で勝ち、
・四高コーチの三船久蔵がこれを「かに挟み」として発展させ、
・加藤敬道(四高:大正6年入学)が「三角絞め」として完成、
大正7年にはいちおう完成(存在)していたことになる。
(※記載を信じればの話)

・・・・・・・・・・
<私の感想>
これ、時系列で見ると四高系の三角の方が早い(大正6〜7年)。
また小田常胤の記載のように、六高にはまだ三角がない
大正7年(1918)に既に高専大会でみられていることになっている
(小田常胤はこれを踏まえて大正7年に講習で
公開したことになっている)
ホントだとすると、この三角は四高由来と考えるのが自然か?
星崎治名(四高:大正8〜11)の書いた「新柔道−寝技篇」
の記載とは整合性がある。
 

六高や金光は早くて大正9年頃に改良を始めたことになるが、
そっちの情報知らなかったのかね?
ただ、当時の小田常胤と金光弥一兵衛はライバル関係かもしれない。
そのせいだろうか?
たぶん金光と三船もライバル?
それだと、あえて伝えないとか、伝わらないようにするとか?
自分が先だと言うとか、人の開発は知らないフリをするとか?
しかし小田が言うように、
公に「講習」したとなるとどこからでも伝わるように思うが・・・

六高では、四高や小田常胤の方面から着想を得たとか
講習で知ったとかいう記述はない。
「講習」の件自体、触れてない。
六高の自力開発だとなっている。

しかし、小田常胤(つねたね)が言うように
『・・それ(※大正7年の講習)以来、
急速の進歩を見、全国的に研究されるに至った・・』
・・・のなら、六高での開発もその由来がどうであれ、
時系列的には、そういう全国での研究の一環ともとれる。
(※小田常胤の記述を疑い出すとどうしようもないが)

開発の経緯(技の由来)については、似たようなもの。

四高も六高も両脚ではさんで十字逆に入るような技から始まって
足を三角に組むように改良したと言っている。

案外、寝技をやりこんでいたら
自然に思いつくものかもしれない。
高専柔道も最盛期で、
四高も六高も当時はピークの頃だし。

特に、その中でもともと「柔道」が強く
研究熱心で、大柄で、足も効いたらしい
六高の早川勝さんが抜きんでていたんだろう。

技が凄いと印象が強くなる。
相撲で「呼び戻し」といえば
初代若乃花みたいな話。

それと、着想としては、「絞め」ありきじゃなかったんだね。
十字からの発展らしい。
首だけを足で絞めると柔道では反則だから
腕も挟んで絞めるように工夫したところから
「三角」ができたという説もあるが、
言われてみれば
下から十字に攻める入り方から発展した、
という方が自然な気がする。

ただ六高が三角を確立・習得した時点(大正11年)でも
四高コーチだった三船さんについては三角を邪道扱いしたり、
三角が習得できていない(理屈がわかっていない)ことになるな〜?
四高の学生(後藤さんとか、加藤さん)の精度については不明だけど、
その後の大学生としての試合でも「三角」ではなく
「かに挟み」と呼んでいる例もある(上記)。
そもそも「指導者」が「邪道」とか批判してるんだから、
金光さんに手柄がいくのはしょうがないかもね。

ちなみに、四高の全盛期は大正3〜大正9までの七連覇で終わるが、
それに代わって、六高は、大正11年、
まさに早川勝による三角絞め投入の年から高専柔道大会を8連覇している。

六高全盛期は、三角絞め開発とともに始まり
三角の発展とともにあったということができる。

<その他>

「柔道一代 徳三宝」:
徳三宝(・・・の明治43年逸話。経歴不詳の「30歳代の壮漢」)
立派な体格をした三十歳をこえたと見える壮漢が(※講道館に)現れた。
・・・ところがこの壮漢なかなか強い。酒井君(※二段)は
両足で首をはさまれて、だんだん旗色が悪くなってきた。
みていた徳先生は、居たたまれず、
「よしッ、俺が相手になってやる」と酒井君を相手から引き離すと・・・
(「柔道一代 徳三宝」)

※Wikipediaの「三角絞め」に紹介されている
「古流柔術起源説」の逸話はコレらしいが、
「両足で首を挟んだ」っていうだけで、
身体の位置関係も方向も相手の腕がどうなっていたかも不明。

・・・・・・・・・・・・・
<ワタシのコメント>
古流柔術まで調べてないけど、
そんなに昔に三角(特に前三角)あったんだろうかどうだろうか?

あんまり古い武術の時で
甲冑着用とかだと無理な掛け方だし、
「レスリング」の寝技は投げ勝負の延長なので
下からの攻めはない(※肩がつけばもう負け)。
屋外の戦いで、なんでもアリなら、自分から下になりたくないし、
動物的にも自ら下になって相手に腹をさらしたくはない。

(※レスリングのような裸でやる競技は、
武技というより奉納相撲みたいに神事に近いと思う。
肩が付いたら負けというのは、制圧、トドメではなく
投げの効果の確定程度の意味だと思う。
ちなみに柔道の抑え込み一本は
甲冑戦でのトドメ(刺し殺し、首をとる)という意味だと思う)

レスリングより古い
古代パンクラチオンでは噛み付き、目潰し※以外は、
打撃も、指折りも含めて全部アリで、
ギブアップ(戦えなくなる)までやっていたらしいから、
三角(前三角)も使う余地はあるが、
全裸※で戦うのに、自分の股間に相手の顔を挟むものかどうか?

(※パンクラチオンでは
 眼、口、肛門などの粘膜部位をえぐることは禁止)
(※パンクラチオンでは全裸で全身に油を塗って戦ったらしい)

畳の上での(着衣の)武術として、
普及、発展、洗練されないと生まれない気もする。

特にワタシが気になるのは、三角(特に前三角)だと、
攻められた方が、
口(歯)で相手の足に噛み付けるじゃないかという点。
(相手に失礼というより自分が危険)

技を掛ける方は、自分の急所や内またやふくらはぎを
相手の攻撃装置(口)にさらすわけですから。

だって動物なら口(キバ)が最強の攻撃装置なわけです。
ルール無用のサルを相手に戦うことを想像したら
怖くて前三角なんてかけられない。
こっちが股開いた瞬間に、
急所とか内モモに噛み付かれる。

(まぁ打撃の話以外にも、
目つぶし、噛み付き、頭突き、指折りとかあったら
寝業もクソも技術体系が全部変わるワケですが)

本能的な話なんですが、
いちおう気になります。
動物的には前三角は絶対ありえない技。
(合意によるルール整備、審判がいる)

だから、十字固や前三角より、
腕がらみの方が
本能的には自然かな。
相手の口(歯)による攻撃に身をさらさないという意味。
さらに、格闘技的にも
抑え込んだまま掛けられるという意味もある。
そういう意味だと、
バックからのチョークがいちばん本能に近いか。

具体的には書きにくいが、某高師範は
三角がお嫌いで、絞めがお好きだ。
そういう背景もあるのかもしれないと
書きながら思った。
(もしかしたら、相手の顔(首)を足で絞めるのが
失礼っていう意識もあるのかな?
わかんないけど)

どっちにしても、本能から遠い技は、
いきなり現れることはないはず。

相撲にあるような立関節技なら本能でも
やりそうな気はする(古流柔術にもたいていある)が、

三角は、文化レベルがあがらないと、
あんまり古代の原始的な武技(闘争)には
ないんじゃなかろうか?

逆に言うと人間的な技で、
洗練された高度な技と言えるかも。

どっちにしても、古流柔術にまで
三角を探すのはさらにマニアになるので
ワタシには、さらに無理です。

<参考>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●三角絞め記述のまとめ(※東北大OB某君調べ/コメントの文章も同じ)

 

赤字:補足

茶字:推定

斜字:未確定

 

 

『闘魂』 著:湯本修治

より三角絞め記述内容

 

■六高の三角絞め開発秘話

【『闘魂』抜粋307pp】 

『一宮に始まった六高の緻密な、固め技を完成させたのは、翌大正十一年入学の早川勝T 11入学で早川は立わざも強かったが、寝わざはことにすぐれており、高橋徳兵衛T 8入学T 11卒)、桜田武T 9入学、木下芳平T 10らから始まった「松葉緘」、別名「三角絞」をも完成させた。この三角絞については、戸田清T 8T 11卒)が六華「若き日の思い出」で「高橋徳兵衛という不器用な同輩がいた。不器用なるが故に、苦しまぎれに変な挟み逆をやり出した。すりこ木で挟むようなげいであったが、その着想が発展完成されて、三角にもなっていった」と述べているのは興味深い。』

 

参考

星崎治名(四高T 8T 11卒)

金光弥一兵衛(六高T 9赴任)

 

 

  史上初の三角絞め投入

大正10 六高系試作版の三角絞め投入(不発)

【『闘魂』302pp(三角絞め記載初ページ)

第八回高専大会 決勝 四高対六高戦 

六高(大将 早川昇)→四高(大将 里村楽三) :三角絞めの機会を狙い

 
(※
早川昇は早川勝の兄)
 

  三角絞め普及時期

大正11年(前年の大正12年) 試作版の三角絞めの普及

【『闘魂』347pp

・・・「北大)予科は前年(大正11年)大会 第九回高専)には不出場で、京都の情勢を探求しておかなかったことが、今さらのように悔やまれてならなかった」(北大柔道旧交会誌)としるされ、ことに予科の選手たちは、このとき初めて三角絞めを見てその威力に驚き、一夜作りではあったが、その三角絞の形態を繰り返しやってみて・・・

 

■三角絞め史上初の決まり手公式試合

大正117月下旬 六高系改良版の三角絞め投入

【『闘魂』331pp

大正117月下旬 武徳会主催青年演武大会

六華会(六高)二番手 早川勝 初段 ⇒ 大化会(早大)二番手田中正一 三段

:『田中正一三段と組むやまず引っ込んだ。すると田中は早川の足を制して攻め込んで来る。この一瞬をねらった早川は、下から足で三角緘に挟み、これを逆に極めて一本とる。「三角緘」が実戦において効果をあげたのは、これが初めてだともいわれている。』

 

  三角絞め史上初の決まり手高専大会試合

大正12 高専柔道の三角絞め完成

【『闘魂』367pp

大正12年 第十回高専大会

六高(中堅 早川勝)→四高(五将 東 静) :三角緘みに陥っていた

 

■早川勝(T 11入)の三角緘からの連携技の妙技

【『闘魂』392pp】 

大正13年 第十一回高専大会

六高(五将 早川勝)→四高(副将 小林庄平)

:『早川まず小林を引っ込む。小林も早川の三角緘を警戒して戦ううち、早川の右足が小林の左肩から滑り込んで、あッという間に挟み逆1に入る。これは早川の最も得意とする絞と間接逆の両攻めだったのだ。小林は早川のこの挟み逆を逃げたと思ったときはすでに遅く、早川の足は小林の腕を逆(変形腕緘)*2に決めていた。』

 

連携技の推定

前三角絞め⇒下からの回転十字固め

 

1(挟み逆):カニ挟み逆の略称(『新柔道 寝技篇』 50pp

(参照→下より取る法【『新式柔道』164pp)

(参照→下から入って十字逆を下向きになっての固め【『闘魂』369pp

2(変形腕緘)(現代版別称 三角緘?) 

 

 

『柔道大観』(昭和4年発行) 著:小田常胤

より三角絞め記述内容

 

◇小田常胤の三角緘を公開

大正7?1227日 四高系試作版の三角絞め投入?

【『柔道大観』抜粋1354pp

抑々この三角法は、京都帝国大学主催の高等学校、専門学校の優勝戦の始まってからの問題で、確か大正七年かと自分は記憶して居る。大正七年の八月に講道館が東京高等師範学校の道場を借りて、四段以上の柔道講習会を開催した際、自分が磯貝八段に説明し、来合わせたる有段者に紹介し、公開した。

 

  :以下推定で

‘付が大正7年で正しければ→ 小田常胤、大正77月までに三船から四高系試作版の三角絞めの説明受けた可能性がある?

 

日付が大正8がならば→小田常胤は、5回高専大会 大正71227日 四高対山口高商(小田常胤コーチ)の試合で四高系試作版の三角絞め〜但し不発〜を観戦した可能性がある?

 

ちなみに、第5回柏蜂戦 大正747日 一高対二高(小田常胤師範

 

『新柔道 寝技篇』(昭和8もしくは16年?発行) 著:星崎治名*

より三角絞め記述内容  *:四高T8入、東大柔道部元主将

 

四高の三角絞め開発秘話

【『新柔道 寝技篇』(抜粋5052pp

『この逆十字固逆(かに挟逆)の発見には面白い挿話がある。

矢張り大正6年第四回高専試合(参加校 三高、四高、六高、七高 、山口高商、?)の時四高の後藤久T6入学)が一年に入学の始め南下軍の補欠で京都へ遠征した。12/27大会第一日 四高vs?高、12/28大会第二日 四高vs?高、12/29大会第三日決勝戦 四高vs六高、)正選手の病気で若冠 後藤選ばれて晴れの舞台に立つのですっかり上り気味となり無茶苦茶に敵をひっぱり込んだ。敵は組し易いと見て強引に上から締めに移って来たので苦しまぎれに後藤はこれを防御しやうと足をあげたら何だか十字固の様な逆がとれそうな気がしたので腰を試みに左右に捻りながら手は捨てばちに腹をそり気味に敵の絞め手を引張つた様な次第で敵の腕は分からない内に折れてしまひ負くるべき後藤が勝名乗を受けて初陣の功名を立てたわけだ。

この経緯を耳を傾けたのが当時四高のコーチ三船八段。透徹な柔道への頭は全くこれを力学からも理論からも無理のない様に仕上げて其の名もと云ふ技に仕立て上げた様な理由だ。

研究心の強い女房役 加藤敬道T6入学)が孜々としてこの技を進歩させ遂に敵の頸部をけさに挟んで逆絞両様に利く三角固を案出した。

この技は四高の特技で会々四高の凋落がこの技を案出してから二三年で始まったので全盛期六高の特技の様に世に誤りつたはれる様になつたのだ。

非常に残念と考へるので禁止されたこの技の歴史を物語り案出者の労苦を一般へ公開する次第だ。

高専でこの技を巧みにしたのは先ず四高 後藤久(T6、内藤雄二郎(T10、六高 早川勝T11)*、花房寿一(T11)*、に指を屈する。殊に後藤の妙技 早川の猛技 今尚武徳殿上の華と謳はれて居る位だ。』

 

*:

早川勝(T11)得意技:三角絞め(『闘魂』377ppより)

花房寿一(T11)得意技:飛び込み十字逆(『闘魂』377ppより) 


●三角絞め関係の時系列まとめ(※東北大OB某君調べ/コメントの文章も同じ

引用
:『新柔道 寝技篇』 著:星崎治名(昭和8もしくは16年?発行)
◇:『柔道大観』 著:小田常胤(昭和4年発行)
■:『闘魂』 著:湯本修治
 
赤字:補足
茶字:推定
斜字:未確定
 
大正6年12月7第5回高専大会 四高対?高(六orその他未確定)戦 
・後藤久(T6四高入学)“カニ挟み逆”原型(偶然案出)で初勝利
 
大正7年 前半期
・三船久蔵 四高コーチ “上記の後藤久の技”をから“カニ挟み逆”考案
・加藤敬道(T6四高入学)“カニ挟み逆”を改良し四高系の三角絞め案出
 
■大正7年4月7日 第5回柏蜂戦 一高対二高戦(小田常胤 二高師範)
         寝技の入り方 ” スタート ” を使用

◇大正7?年8月 講道館主催柔道講習会(於東京高師道場)
・小田常胤、三角法を磯貝八段に説明し、有段者に紹介し公開
 
■大正7年12月27日 第5回高専大会 四高対山口高商(小田常胤 山商コーチ)
?四高系試作版の三角絞め投入?(不発)
 
■大正9年 金光弥一兵衛 六高に赴任
■大正9年 高橋徳兵衛(T8六高入学)六高系の三角絞め原型案出
 
■大正10年 第8回高専大会 決勝 四高対六高戦 
六高(大将 早川昇※)→四高(大将 里村楽三) :三角絞めの機会を狙い
 :「早川は終始寝たまま下からの、三角締めの機会を狙いスタミナを貯える。」
六高系試作版の三角絞め投入(但し不発)
(※早川勝の兄も三角を習得していたらしい(「闘魂pp302」)!

■大正11年4月 早川勝(早川昇 元主将の弟)入学
 
■大正11年7月 第9回高専大会 
北大予科『「北大予科は前年の大正11年第九回高専大会には不出場で、
京都の情勢を探求しておかなかったことが、今さらのように悔やまれてならなかった」
(北大柔道旧交会誌)』と三角絞め(但し不発)にて対四高戦、対松江高戦に苦戦
三角絞め普及初期(但し不発)
 
■大正11年7月下旬 武徳会主催青年演武大会 
六華会(六高)二番手 早川勝 初段 ⇒ 大化会(早大)二番手田中正一 三段
六高系再改良版の三角絞め投入
!公式試合にて三角絞めが初の決まり手!
 
■大正12年7月 第10回高専大会 
六高(中堅 早川 勝)→四高(五将 東 静) :三角緘みに陥っていた
!高専大会にて三角絞めが史上初の決まり手!
高専柔道の三角絞め完成

*同大会にて
六高対四高戦にて早川勝(T11六高入学)の妙技が極まる
六高(五将 早川 勝)→四高(副将 小林 庄平)
三角緘からの連携技:
 三角緘【前三角】
  ⇒(カニ)挟み逆【下からの回転十字固め
   ⇒変形腕緘(足で腕の逆)
 
■大正14年7月 第12回高専大会
大山省三(T13六高入学)“三角絞め”にて大活躍
以後の高専大会から決まり手に“三角絞め”が増える
三角絞め普及

<あこう堂>
あこう堂ホームページ
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(2号線からだと神戸新聞販売所のビル下をくぐって下さい)

※以下、いろいろ書いてるけど、ご要望さえあれば、
開催法、曜日・時間、料金体系とも見直します。
まぁ、いっぺんお問い合わせください。
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‘讃譽譽鵐織襪両豺隋紛いてればいつでも可):
平  日:1時間:1000円〜(21時以降は1時間1200円)
土日祝:1時間:1200円。
(※ご予約はお早めに。平日は極力2時間以上お願いします。
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∨莉疑緲砲量襪蓮
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(※最新状況はお問い合わせ、あるいはブログなどでご確認ください。
待ってる時でも人が来なけりゃ帰ります。
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J親夜21〜23:00ならいつでもできます。
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内容は、まあ参集者次第でテキトーにあわせます(以下参照下さい)。
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