2004年11月

2004年11月30日

曇りのち晴れ。

 本など読んでいる場合ではない。しかし、畏友nozueに先に感想を書かれてしまった。危うく感想を読んじまうところだった。やばいやばい。思い入れのある作家ゆえ、先入観なしに読みたかったのだ。なにしろ、9年ぶりの「沢崎の帰還」である。

 というわけで、今日は日記省略。というか、こもりきりで仕事をしていたので書くことがない。

★原寮『愚か者死すべし』(早川書房)

 あの原寮(ウ冠ありません、が、この文中では代用します。読みは「りょう」)の新刊が出た。『さらば長き眠り』以来、9年ぶり。もともと寡作である。わずかに長篇3作と短編集が1冊出ているにすぎない。

 デビュー作『そして夜は甦る』は無名の新人の書下ろしというリスキーな出版にも関わらず、口コミで評判になった。次の『私が殺した少女』で直木賞を受賞。短編集『天使たちの探偵』、3作目の長篇が『さらば長き眠り』である。

 すべて主人公(語り手)は西新宿のボロマンションに事務所を構える沢崎という中年の探偵である。いささか偏屈な「自分自身のルール」に則って生きている。沢崎は事件に巻き込まれるや、依頼人、警察、犯罪者たちの間をすれすれですり抜けるようにして、事件解決の糸口を見つける。

 作者自身がレイモンド・チャンドラーへの敬愛を隠そうとしないように、沢崎は和製フィリップ・マーロウである。そして、探偵のライセンスもないこの日本で、なんとかリアリティーのある探偵像、それも「ハードボイルド」な探偵を創出しようと苦心の末に生まれたのが沢崎シリーズなのである。

 『そして夜は甦る』が刊行された当時は、ミステリブーム、ハードボイルドブームの最中だった。北方謙三、大沢在昌、船戸与一、志水辰夫、稲見一良、風間一輝、松本賢吾……。みなさん、男くさい小説を書いていたが、なぜ、ハードボイルドだったのか。今となってはあれほどハードボイルドが流行したのも不思議な気もするが、もしかすると、フェミニズムの隆盛に対する男からのリアクションの一つであったのかもしれない。

 ただ、当時、リアルタイムで読んでいた立場でいえば、ハードボイルド小説には「男とは……」みたいなアナクロニズムよりも、「なにがしかのややこしい事情」を背景に「個人」で「闘う」という状況のなかに生まれるサスペンスの緊迫感が面白かった。個人でなにものかに向かっていく、というヒロイズムは男女問わず実生活で十分にありうる状況だろう。そのときに、自身で決めたルールを守れるかどうか。ハードボイルド小説の魅力は過酷な状況にあっても自分を信じることの出きる主人公への共感でもあったのだろう。

 また、ハメット、チャンドラーら米国「ハードボイルド」の創始者たちの作品は文明批評が読みどころの一つだった。都会の裏社会とすれすれの仕事をしている探偵の視点から見上げた文明社会の歪みが、皮肉なユーモアとともに批評される。それもハードボイルド小説の側面の一つだったのである。

 原寮の作品にも現代の社会に対する批評が込められている。沢崎が大金の報酬を断り、だまっていれば一件落着しそうな事件の「真実」に迫ろうとするのも、世の中がそうはできていないからだろう。お金さえあれば、まるくおさまるようであれば、自分に火の粉が掛からないことはどうでもいい。それが現代人のホンネだからだ。

 「新・沢崎シリーズ」第1弾と銘打たれた本作は、これまでの作品からブランクを感じさせるものではない。沢崎は相変わらずかつての年長のパートナーの名前を掲げた探偵事務所にいる。そして、事件に巻き込まれる。「偶然」が重なったような2つの事件のおかげで、人間関係、人生の綾がもつれていく。

 かつて、原作品に夢中になった向きにはやや軽量級、肩すかしと感じられるかもしれない。たしかに、登場人物の「濃度」はやや下がっているような気はする。沢崎自身がこの事件そのものに偶然、巻き込まれてしまった以上の関心を向けていないというか。

 魅力的な女性が登場しないことも原因の一つだろう。沢崎が心動かされる女性が出てこなかったことが、この事件への沢崎の関与を「薄く」させているような気がする。

 しかし、たとえば、この国のスキャンダル捏造システムや、ヤクザ、警察に共通する「論理」の醜悪さを描いて強い印象を残す。沢崎の前に現れるたびに名前を変える男の存在もユニークだ。この国の政治システムに寄生してきた男のフィルムライブラリーに揃っている映画のラインナップなど、ディテールを楽しむこともできる。

 「あとがき」によれば、次回作はそれほど長く待たなくても済みそうだ。ミステリ不調、ハードボイルドにいたっては、ジャンル自体が忘れ去られつつある現在、原作品を待ち望む読者は多い。せめて2年に1作くらいのペースで読みたいものだ。



(12:41)

2004年11月29日

 快晴。

 朝からせわしなかった。週末にやっておこうと思ったことのつじつま合わせで午前中が終わり、午後は麻布十番のアルゼンチン大使館で、アルゼンチンの写真家、マルコス・ツィーマーマンさんにインタビュー。

 ツィーマーマンさんと開催中の写真展についてはscannarsに書いた

 ツィーマーマンさんは物腰柔らかくサービス精神旺盛で、ギャラリー・トークでも今日のインタビューでも、人間的にもすばらしい人だと感じた。

 取材を終えるとすっかり暮れている。陽が落ちるのがめっきり早くなった。

 ところで、恋愛小説ブームである。いま、さるオンライン書店から恋愛&ミステリというお題でブックリストの選定とガイドを頼まれている。その恋愛のリストに加えた本を紹介しよう。

★絲山秋子『袋小路の男』(講談社)

 未知の作家である。1966年生まれというからぼくが高一の時の高三だ。ほぼ同世代といって差し支えないだろう。それゆえ、なのかどうかはわからないが、表題の「袋小路の男」と、その続編「小田切孝の言い分」、ど真ん中に入ってきた恋愛小説で、ぐいぐいと引き込まれた。

 「私」は新宿にある高校に通っていて、私服通学をいいことに学校をサボっては新宿の街をうろうろしていた。新宿昭和館のそばにあるジャズ・バー「エグジット・ミュージック」もいきつけのひとつ。そこで、射るように自分を見る視線に気づく。「私」はそのときから、その視線の主である小田切に恋をする。しかし、小田切にその気はない。「私」はそんなことはおかまいなしに、小田切をひたすらに追いかける。

 小田切は頭はいいのに、授業をサボってばかり。「私」がストレートで大学に入っても、2浪する始末だ。

 「私」は就職して大阪勤務になるが、偶然、小田切と再会を果たす。小田切は小説を書いているが賞には通らず、「エグジット・ミュージック」でバーテンダーをしている。「私」は東京に来るたびに「エグジット・ミュージック」に顔を出すようになる。

 彼らは恋人同士ではないし、手を握ったことすらない。そんなこんなで12年、というお話である。

 いったい、この二人の関係って……と読者の多くが思うだろう。友人にいたら、一言言ってやりたくなるに違いない。「そんな男、やめとけよ」と。

 なのに、なぜか、「私」には奇妙な充足感が感じられる。人を思い込みで恋すること、追いかけることは、一人相撲ではあるけれど、本当に一人ではできない。はぐらかしつつつきあってくれる相手があればこそ。適正な距離を保ってくれる相手と、実は絶妙な関係を築いているともいえるのだ。

 続編の「小田切孝の言い分」では、「私」に名前が与えられ、二人の関係が客観的な視点から語られる。そこにはとうぜん、小田切側の気持ちも描かれる。「私」あたらめ日向子のしでかした「失敗」に小田切が助け舟を出すエピソードもある。

 しかし、二人の関係が「友人以上恋人未満」から進展するわけではない。

 二人の特異な関係にあきれながらも、どこかうらやましくも感じるところもある。少なくとも、二人にはてきとうなところで手を打とうというところがない。そして、そこまで一読者に思い入れさせる作者の力量たるや、なみなみならないものである。

 ところで、この「私(日向子)」どこかで見たことがある。少女マンガの中で、だと気づいた。こういう少女マンガの主人公、よく知っている。そして、少女マンガの主人公が文学に転生するとこんなふうになるのかあ、とも思った。

 併録の「アーリオ・オーリオ」もいい。清掃局勤務の天文学オタクの三十代後半独身男性が、自分とはまったく逆にまっとうに暮らす兄の中三の娘と文通をする。ロマンチックで切ない。孤独ということの意味を改めて考えたくなる。

■絲山秋子公式サイト
絲山秋子WEBサイト

■『袋小路の男』について書かれているブログ
「袋小路の男」絲山秋子著(えびすねこ)
借りたその日に三冊とも読んでしまい、明日の楽しみがなくなってしまった事。(朗読者)
本に恋煩い?(百聞は一見にしかず・・・)

(21:35)

2004年11月26日

キエフのロータリーキエフの少年
↑キエフ(ウクライナの首都)2001年9月


 曇り。

 ウクライナが大変なことになっている。

 <ウクライナ>政府機能マヒ 野党デモ隊が主要施設封鎖

 2001年にウクライナを旅行したことがある。日本ではマイナーな国だが、以来、気になっている。ゆえに、「親ロシア」か「親欧米」かでまっぷたつ、という今回の問題もよくわかる。かの地にはたくさんのロシア人が住んでいるが、ウクライナ人との関係は微妙である。倒れかけたソ連邦のなかで、ロシアとは別の道を進みたいと独立はしてみたものの、経済的には綱渡りが続いている。ソ連邦の黄金時代には肥沃な大地と鉱山で潤ったウクライナだが、旧ソ連時代の技術は古び、設備はさび付く。川の上流はチェルノブイリである。ウクライナも旧ソ連の負の遺産を抱えた国なのだ。

 黒海に面するという立地のよさが、ヤルタやオデッサのようなリゾート、港町を栄えさせたが、観光地として盛り上げるためには、やはり欧米との太いパイプが必要だ。たとえば、旧ユーゴスラビアのモンテネグロや、クロアチア、スロヴェニアは西ヨーロッパの中産階級の保養地としてにぎわっている。しかし、後ろにロシア、隣に旧ソ連の内紛国家(グルジアとか)があるウクライナは西ヨーロッパからは地理的にも精神的に遠い。

 ロシアにつくか、欧米につくか。ベラルーシがロシアと連携しつつある現在、ウクライナの人々が迷うのも無理はない。

 と、いうわけで、ウクライナがこのようなかたちで脚光を浴びることは複雑な心境だが、たしかに、あの国の問題は旧ソ連の国々が直面している問題のひとつを象徴している。

 ところで、たまたまだが、ウクライナ産の小説が話題を呼んでいる。

★アンドレイ・クルコフ著 沼野 恭子訳『ペンギンの憂鬱』(新潮クレストブック)
 ヴィクトルは中年の作家。短編小説を書いているが、カネや名声には縁がない。いっしょに住んでいたガールフレンドも出て行った。動物園のペンギンコーナーが閉鎖されることになり、行き場のなくなったペンギンのミーシャをもらいうけ、1人と1羽で暮らしている。

 そこへ、「首都報知」新聞から仕事が舞い込む。追悼文を書く仕事だった。それも、まだ生きている人間の予定稿である。書くことになった相手は大物ばかり。やがてヴィクトルが書いた追悼文が新聞に載るようになると、その人物の死と追悼文に何やら政治的テロとマフィアの暗躍の匂いが漂ってくる……。

 原稿料を弾んでくれる仕事の裏には何があるのか。新聞社とは別に追悼文を依頼してくるグループが現れ、事態は混沌としてくる。薄暗い穴に入ってしまったような息苦しいサスペンス。独立後のウクライナの政治的イニシアティブをめぐって残虐なつばぜりあいが続いていると想像できるが、それは決してヴィクトルの前には姿を現さない。ただ、追悼文を書き、ペンギンと葬儀に出ることを所望され、手元にはその報酬である米ドルがつみあがっていく。

 物語のトーンは全体に暗いが、どこか薄明るさがある。ペンギンのミーシャが象徴するように、どこか現実離れしたユーモアがある。ヴィクトルが引き取る羽目になった女の子ソーニャ、ソーニャの世話係として雇うニーナといった日常的な存在も救いだ。しかし、ヴィクトルは彼らを愛しているかどうかも判然としないまま、生活を続けていく。そのうつろさがかえって印象に残る。

 著者のアンドレイ・クルコフはレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)生まれで、両親とともに少年時代にウクライナの首都キエフに移り住み、ウクライナ人となった。本書はロシア語で書かれ、ウクライナ人によるロシア語文学という位置づけになる(ウクライナにはウクライナ語がある。ロシア語と文字は同じ。語彙も共通するものが多い)。

 この小説もキエフが舞台である。しかし、とくにウクライナについての知識は必要としないだろう。ある国のテロルの時代の暗さを寓意を込めてつづった小説であり、どこの国にも起こりうることだからだ。

 昨日と同じ今日を生きているつもりが、いつの間にか政治的なテロに利用されている。恐ろしいことだが、そのことに気づかずに生きている人間も多いのではないか、とも思う。そんなことを考えながら読んだ。

 ちなみに、旧ソ連からウクライナが独立するということがどういうことかを金融のプロが体験的に描いたノンフィクションがある。西谷公明『通貨誕生』(都市出版)。国家は紙幣ナリ。その困難さは、いまのウクライナにまで続いている。

 また、ウクライナの写真家にボリス・ミハイロフ(Boris Mikhailov )がいる。この人の『CASE HISTORY』という分厚い写真集は好きな写真集である。ただし、めったに見たくない、ハードな写真集だが……。ウクライナ独立後のホームレスたちをモデルにした写真集だが、ヌード写真もある。そのヌードには身体の傷があからさまになっていたり、年老いた醜さが無残なまでにあられもなく写されていて、思わず目をそらせたくなる。しかし、首根っこをつかんでみせられているような、強烈なパワーがある。

■関連する話題のブログ
『ペンギンの憂鬱』の背後(Days of Books, Films & Jazz)
ボリス・ミハイロフの『CASE HISTORY』が出てきて嬉しくなり、ペンギンの憂鬱』を読もうと思った。感謝します。『脳とクオリア』、感想を書こう書こうと思っているうちに、こちらのブログで取り上げていて「先を越された!」と悔しいやら、親しみがさらにわくやら。

ペンギンの憂鬱(1day1book)

(23:42)