2011年03月13日
我が家は渋谷区笹塚にあるマンションの13階。
この日は幼稚園の体操教室で月1回の参観日でした。
「美莉愛と留守番してるからママだけ行けば?」と言ったものの、来週は卒園式。
「最後だし、やっぱり行く!」と14時に家を出ました。
幼稚園に向かって歩いていると、例の耳鳴りがします。
昨日と同じ、右耳で高い音、左耳で低い音。あの時と同じです。
もしかしたら今日あたりでかい地震がくるかも。。。
そんな話をしながら幼稚園に到着しました。
そしてあの時間。
鉄筋鉄骨マンションの1階にあ幼稚園のホールで、ゆらゆらぁ〜と揺れ始めました。
皆は「ぁれ?ゆれてる?」という感じで座ったままでしたが、私はとっさに出入口を開放しました。
すると別の教室にした先生たちが、「安全のため園庭に出て下さいっ!!」と叫んでいます。
あわてず、ゆっくり子供たちを誘導しつつ、親たちも全員園庭に出ました。
近所の木造アパートにお住まいの人たちも次々集まってきます。
次第に揺れも強くなり、私もうんていにつかまりました。
マンションを見上げると全部の部屋の窓がガタガタと大きな音を立てて揺れていて、今にも割れて落ちてきそうでした。
視野に入る建物、電柱、園バス、全部がゆっさゆっさ揺れています。
「ついにきたのか!?これでおわるのか!?」
揺れている時間が長すぎるため、色んな事を考えました。
震源地も規模もわからない。
時々くるいつもの地震と違う、ということ以外何もわかりません。
揺れがおさまり体操教室再開。
親たちは携帯のテレビで震源地などを確認していました。
私のはスマートフォンでテレビが見られないのですが、他のママさんたちのを見ると『宮城県』『震度7』という文字が!!
心臓が止まりそうなほどビックリしました。
祖母も従兄弟も親戚も、ほぼ全員が仙台と気仙沼在住です。
気仙沼のみんなは津波を警戒してすぐに避難したはず・・・。
けど最近杖をつきはじめた85歳のおばあちゃんは津波が来る前に徒歩で高台まで避難できるのか・・・
誰かと一緒にいれば車か支えがあるはずだけど、これだけ大きい地震でも、みんな冷静に避難できるのか・・・
というよりそもそも家が倒壊して下敷きにでもなったのではないか・・・
阪神淡路みたいになったのではないか・・・
テレビを見ていた園長先生から「東京も震度5だったみたいだ」、と聞き、もういてもたってもいられなくなりました。
15時を過ぎてお迎えに来たママたちの話によると、2階や3階でもかなり揺れて物が倒れたとのこと。
Σ(゜◇゜;) ゲッ
13階はどうなっているんだろう・・・
不安はピーク、頭の中は真っ白になりました。
数年前の震度4の時でさえ、水槽の海水は10リットル以上あふれ出て、コピー機は動き、本棚の中身が出てしまいました。
子供たちをママに託し、ダッシュで自宅へ戻りました。
すると甲州街道に出るまでに再度大きな揺れが。。。
幼稚園に引き返すか自宅に戻るか迷いましたが、マンションに戻ることにしました。
甲州街道の歩道は人でごった返していました。
車が普通に走っているのが不思議でしたが、あらゆる建物から次々人が出てきます。
既に笹塚小学校などへ団体ごとに列を作って避難しはじめていました。この周辺は大きな会社も多いので、100人200人という単位で避難していたようです。
マンションにつくとロビーにも人があふれていました。
10階の住人が「部屋の中メチャクチャで逃げてきた」と別の住人と話しているではありませんか。
階段で13階まで息をきらしながら駆けあがりましたが、階段室のいたるところで壁の一部が欠けていました。
この間にもマンションはゆったりと横に揺れていて恐怖を感じました。
部屋に戻らず幼稚園に戻った方が良かったのではないか・・・
でも、8階、9階、10階にはまだ住人の半分が部屋や廊下で様子見をしています。
13階にたどり着き、覚悟を決めて玄関のドアを開けました。
すると、傘立てが倒れていて床一面が水浸しです。
一瞬、「あぁ、やっぱり水槽の水がこぼれたんだな」と思いましたが、よく見るとサンゴと海藻が落ちています。
靴を履いたまま、恐る恐る中へ入ると悲惨な状態でした。
mixiとGREEに写真をアップしましたが、ビデオやCDを収納していた180センチ×30センチの、総重量100キロ以上の棚が倒れていました。
この上に置いていた電子レンジやミニ水槽、加湿器、ポット、何もありません。
向かい合わせに置いてある棚の下に全てが散乱しています。
コーヒーやお茶、砂糖の瓶も全て割れて散らばっています。
スタントミラーも倒れていて、ガラス水槽の破片、中身の海水、とにかくぐちゃぐちゃです。
電子ピアノも倒れていて、色んなものが複雑に絡み合ってお互いを支えているような状態でした。
下手に触るとくずれそうで、手のつけようもありません。
デジカメで現状を撮影して、次の部屋へ。
子供の学習机も引き出しが空いていたり、絵本なども散乱。
床には10個あるおもちゃ箱のうち2つが落ちて中身が散乱。
仕事用の書棚が45度傾斜、中身は床に散乱。
とにかく不安定に置いていたものはもちろん、しっかり固定していたはずのものまで動いていました。
もう1つの部屋の入口はソファーでふさがっています。
ソファが1メートル動いたことになります。
部屋の奥を見ると、ストッパーが外れたコピー機、これも重量は150キロくらいありますが、移動していました。
8畳ある部屋の床は一面に1センチくらいの海水がたまっています。
200リットルの水槽ですが、半分ほど水が抜け、ライブロックやサンゴは水槽内でメチャクチャになっていました。
水浸しになった床に、棚のものや机の上にあったものが散乱。
重要な書類も半分以上が水浸しです。
窓にもヒビが入り、あきません。
他の部屋もふすまや扉が固くて開閉に力が必要な状態です。
あきらかに部屋自体がゆがんだようです。
物が散乱した家中を回り、コンタクトレンズのケースや洗浄液、お金、タオル、歯ブラシ、マスク、消毒液、子供の着替えやおむつ、携帯充電器・・・、小学校の体育館でも2日は過ごせるよう荷物をすぐにまとめ部屋を出ました。
マンションは甲州街道沿いですが、避難所に向かう人の列はこの10分で倍以上。明治神宮の初詣並です。
ママや子供たちも私の後を追うように戻ってきたらしく、幸いすぐに合流できました。
倒壊の危険もある、ということで裏の笹塚小学校へ移動。
途中のローソンで食料と飲み物を買いこみました。
レジに並んでいると次々と客が入ってきて、私たちが店を出る時には弁当やカップラーメンなど食料品の棚はからっぽになりました。
自分たちの身の安全、これも重要ですが、気仙沼の親戚たちと、仙台の親戚たちが心配でなりません。
電話は不通のまま、メールの送受信もできない。両親とも連絡がつかないし、周りには1000人以上の人たちがいるのにもかかわらず、【大都会の真ん中で一家4人で孤立した】かのような感覚でした。
校庭に行くと、さっきまで幼稚園で一緒だった人たちや階下の人、近所でよく見かける人などもいました。友人知人の顔を見るだけでホッとします。
私の母も人づてに笹小にいることを知り、会うことができました。
世田谷区北沢の一戸建てはほぼ無傷だったそうです。
パソコンなどは落ちて壊れたそうですが、大きな被害は無いとのことでした。
結局、15時30分頃から21時まで、皆で小学校の教室を借りて過ごしました。体育館で寝る覚悟でいましたが、北沢の家が無事だということなので子供たちだけそちらへ預け、私と妻はマンションへ戻りました。
妊娠10週ではありましたが、2人休み休み片付けを開始。
何度もくる余震、揺れるたびにきしむ物音におびえながら・・・。
テレビでは23時過ぎ、気仙沼が火の海になっている映像が流れました。地図で確認すると祖母の会社があるあたりです。
けど、他のチャンネルの情報では、そのあたりは全ての建物が津波で流されてしまったようです。
身内の安否もわからず、いつまた大きな余震がくるかもわからず、しかし片付けないわけにもいかず、仕事もやりかけだし、すぐにでも宮城へ飛んでいきたいがこういう時はすぐに行かない方が良さそうだし、それでも行きたいし、卒園式を控えているし・・・
葛藤というか、ミニパニックというか、片付けても片付けても先が見えないし、緊急地震速報なんてのが何度も出るし。。。
現段階でわかっていることは、また聞きではありますが、
「気仙沼ま身内も仙台の身内も全員、生きているらしい」
「おばあちゃんたちの会社は建物も車も全てが流れて何もない」
だけです。
テレビではライフラインについてある程度わかりますが、実際のところどこに避難しているのか、水や食料は確保できているのか、トイレはどうしているのか、暖はとれているのか、体調を崩していないか、そうしたことは何も分からないままです。
我が家でも、息子の優斗はわずかに揺れるだけで「パパぁ〜」としがみついてきます。かなりの恐怖だったらしく、揺れるたびに「ぼく、まだ死にたくないよ」と言います。
娘の美莉愛は2歳のわりにしっかりしていて、「パパもママもみりあが助けてあげるね」とか、「テレビの所に行って、パパとみりあで助けてあげようよ」と言っています。
笹塚では、スーパーもコンビニも弁当や総菜、牛乳、たまご、レトルト食品はほとんどありません。いつも通りの町並みのようにも見えますが、商店街にも人気はほとんどなく静まり返っています。
この日は幼稚園の体操教室で月1回の参観日でした。
「美莉愛と留守番してるからママだけ行けば?」と言ったものの、来週は卒園式。
「最後だし、やっぱり行く!」と14時に家を出ました。
幼稚園に向かって歩いていると、例の耳鳴りがします。
昨日と同じ、右耳で高い音、左耳で低い音。あの時と同じです。
もしかしたら今日あたりでかい地震がくるかも。。。
そんな話をしながら幼稚園に到着しました。
そしてあの時間。
鉄筋鉄骨マンションの1階にあ幼稚園のホールで、ゆらゆらぁ〜と揺れ始めました。
皆は「ぁれ?ゆれてる?」という感じで座ったままでしたが、私はとっさに出入口を開放しました。
すると別の教室にした先生たちが、「安全のため園庭に出て下さいっ!!」と叫んでいます。
あわてず、ゆっくり子供たちを誘導しつつ、親たちも全員園庭に出ました。
近所の木造アパートにお住まいの人たちも次々集まってきます。
次第に揺れも強くなり、私もうんていにつかまりました。
マンションを見上げると全部の部屋の窓がガタガタと大きな音を立てて揺れていて、今にも割れて落ちてきそうでした。
視野に入る建物、電柱、園バス、全部がゆっさゆっさ揺れています。
「ついにきたのか!?これでおわるのか!?」
揺れている時間が長すぎるため、色んな事を考えました。
震源地も規模もわからない。
時々くるいつもの地震と違う、ということ以外何もわかりません。
揺れがおさまり体操教室再開。
親たちは携帯のテレビで震源地などを確認していました。
私のはスマートフォンでテレビが見られないのですが、他のママさんたちのを見ると『宮城県』『震度7』という文字が!!
心臓が止まりそうなほどビックリしました。
祖母も従兄弟も親戚も、ほぼ全員が仙台と気仙沼在住です。
気仙沼のみんなは津波を警戒してすぐに避難したはず・・・。
けど最近杖をつきはじめた85歳のおばあちゃんは津波が来る前に徒歩で高台まで避難できるのか・・・
誰かと一緒にいれば車か支えがあるはずだけど、これだけ大きい地震でも、みんな冷静に避難できるのか・・・
というよりそもそも家が倒壊して下敷きにでもなったのではないか・・・
阪神淡路みたいになったのではないか・・・
テレビを見ていた園長先生から「東京も震度5だったみたいだ」、と聞き、もういてもたってもいられなくなりました。
15時を過ぎてお迎えに来たママたちの話によると、2階や3階でもかなり揺れて物が倒れたとのこと。
Σ(゜◇゜;) ゲッ
13階はどうなっているんだろう・・・
不安はピーク、頭の中は真っ白になりました。
数年前の震度4の時でさえ、水槽の海水は10リットル以上あふれ出て、コピー機は動き、本棚の中身が出てしまいました。
子供たちをママに託し、ダッシュで自宅へ戻りました。
すると甲州街道に出るまでに再度大きな揺れが。。。
幼稚園に引き返すか自宅に戻るか迷いましたが、マンションに戻ることにしました。
甲州街道の歩道は人でごった返していました。
車が普通に走っているのが不思議でしたが、あらゆる建物から次々人が出てきます。
既に笹塚小学校などへ団体ごとに列を作って避難しはじめていました。この周辺は大きな会社も多いので、100人200人という単位で避難していたようです。
マンションにつくとロビーにも人があふれていました。
10階の住人が「部屋の中メチャクチャで逃げてきた」と別の住人と話しているではありませんか。
階段で13階まで息をきらしながら駆けあがりましたが、階段室のいたるところで壁の一部が欠けていました。
この間にもマンションはゆったりと横に揺れていて恐怖を感じました。
部屋に戻らず幼稚園に戻った方が良かったのではないか・・・
でも、8階、9階、10階にはまだ住人の半分が部屋や廊下で様子見をしています。
13階にたどり着き、覚悟を決めて玄関のドアを開けました。
すると、傘立てが倒れていて床一面が水浸しです。
一瞬、「あぁ、やっぱり水槽の水がこぼれたんだな」と思いましたが、よく見るとサンゴと海藻が落ちています。
靴を履いたまま、恐る恐る中へ入ると悲惨な状態でした。
mixiとGREEに写真をアップしましたが、ビデオやCDを収納していた180センチ×30センチの、総重量100キロ以上の棚が倒れていました。
この上に置いていた電子レンジやミニ水槽、加湿器、ポット、何もありません。
向かい合わせに置いてある棚の下に全てが散乱しています。
コーヒーやお茶、砂糖の瓶も全て割れて散らばっています。
スタントミラーも倒れていて、ガラス水槽の破片、中身の海水、とにかくぐちゃぐちゃです。
電子ピアノも倒れていて、色んなものが複雑に絡み合ってお互いを支えているような状態でした。
下手に触るとくずれそうで、手のつけようもありません。
デジカメで現状を撮影して、次の部屋へ。
子供の学習机も引き出しが空いていたり、絵本なども散乱。
床には10個あるおもちゃ箱のうち2つが落ちて中身が散乱。
仕事用の書棚が45度傾斜、中身は床に散乱。
とにかく不安定に置いていたものはもちろん、しっかり固定していたはずのものまで動いていました。
もう1つの部屋の入口はソファーでふさがっています。
ソファが1メートル動いたことになります。
部屋の奥を見ると、ストッパーが外れたコピー機、これも重量は150キロくらいありますが、移動していました。
8畳ある部屋の床は一面に1センチくらいの海水がたまっています。
200リットルの水槽ですが、半分ほど水が抜け、ライブロックやサンゴは水槽内でメチャクチャになっていました。
水浸しになった床に、棚のものや机の上にあったものが散乱。
重要な書類も半分以上が水浸しです。
窓にもヒビが入り、あきません。
他の部屋もふすまや扉が固くて開閉に力が必要な状態です。
あきらかに部屋自体がゆがんだようです。
物が散乱した家中を回り、コンタクトレンズのケースや洗浄液、お金、タオル、歯ブラシ、マスク、消毒液、子供の着替えやおむつ、携帯充電器・・・、小学校の体育館でも2日は過ごせるよう荷物をすぐにまとめ部屋を出ました。
マンションは甲州街道沿いですが、避難所に向かう人の列はこの10分で倍以上。明治神宮の初詣並です。
ママや子供たちも私の後を追うように戻ってきたらしく、幸いすぐに合流できました。
倒壊の危険もある、ということで裏の笹塚小学校へ移動。
途中のローソンで食料と飲み物を買いこみました。
レジに並んでいると次々と客が入ってきて、私たちが店を出る時には弁当やカップラーメンなど食料品の棚はからっぽになりました。
自分たちの身の安全、これも重要ですが、気仙沼の親戚たちと、仙台の親戚たちが心配でなりません。
電話は不通のまま、メールの送受信もできない。両親とも連絡がつかないし、周りには1000人以上の人たちがいるのにもかかわらず、【大都会の真ん中で一家4人で孤立した】かのような感覚でした。
校庭に行くと、さっきまで幼稚園で一緒だった人たちや階下の人、近所でよく見かける人などもいました。友人知人の顔を見るだけでホッとします。
私の母も人づてに笹小にいることを知り、会うことができました。
世田谷区北沢の一戸建てはほぼ無傷だったそうです。
パソコンなどは落ちて壊れたそうですが、大きな被害は無いとのことでした。
結局、15時30分頃から21時まで、皆で小学校の教室を借りて過ごしました。体育館で寝る覚悟でいましたが、北沢の家が無事だということなので子供たちだけそちらへ預け、私と妻はマンションへ戻りました。
妊娠10週ではありましたが、2人休み休み片付けを開始。
何度もくる余震、揺れるたびにきしむ物音におびえながら・・・。
テレビでは23時過ぎ、気仙沼が火の海になっている映像が流れました。地図で確認すると祖母の会社があるあたりです。
けど、他のチャンネルの情報では、そのあたりは全ての建物が津波で流されてしまったようです。
身内の安否もわからず、いつまた大きな余震がくるかもわからず、しかし片付けないわけにもいかず、仕事もやりかけだし、すぐにでも宮城へ飛んでいきたいがこういう時はすぐに行かない方が良さそうだし、それでも行きたいし、卒園式を控えているし・・・
葛藤というか、ミニパニックというか、片付けても片付けても先が見えないし、緊急地震速報なんてのが何度も出るし。。。
現段階でわかっていることは、また聞きではありますが、
「気仙沼ま身内も仙台の身内も全員、生きているらしい」
「おばあちゃんたちの会社は建物も車も全てが流れて何もない」
だけです。
テレビではライフラインについてある程度わかりますが、実際のところどこに避難しているのか、水や食料は確保できているのか、トイレはどうしているのか、暖はとれているのか、体調を崩していないか、そうしたことは何も分からないままです。
我が家でも、息子の優斗はわずかに揺れるだけで「パパぁ〜」としがみついてきます。かなりの恐怖だったらしく、揺れるたびに「ぼく、まだ死にたくないよ」と言います。
娘の美莉愛は2歳のわりにしっかりしていて、「パパもママもみりあが助けてあげるね」とか、「テレビの所に行って、パパとみりあで助けてあげようよ」と言っています。
笹塚では、スーパーもコンビニも弁当や総菜、牛乳、たまご、レトルト食品はほとんどありません。いつも通りの町並みのようにも見えますが、商店街にも人気はほとんどなく静まり返っています。
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