「カノッサの屈辱」で1077年1月に越えたアルプスの峠はどこか?
<調査中のメモ>

●皇帝の通常の居場所は?
 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(位1056〜1106)は、ドイツ王、ドイツ国内。
 (ドイツ国内の教会の聖職者はドイツ皇帝=神聖ローマ皇帝が任命する慣習)
 ・ヴォルムスWorms(フランクフルト南西)で国会を開き(1076.1)。
 ・ドイツ諸侯は、マインツMainzの南のトリブール(フランクフルト南西)に集まり、ハインリヒ4世の破門が1年以内に解除されなければ、ハインリヒ4世は教皇が主催するアウグスブルグの国会で王位を追われると決議した(1076.10)。
 

●峠
・「神聖ローマ内の峠」なら、(1097年の地図(吉川弘文館p25)では◎有力ブレンナ峠/Grサンベルナルド/マロヤ?)
・反皇帝派の諸侯によって封鎖された「●アルプスの峠をひそかに脱出」とある。
・「●モン・スニ峠を越え」の記述あり ●●●ここで確定★。
・「ロンバルディアは寒い」の記述はカノッサのこと?


ローマに行ったが、教皇グレゴリウス7世は旅行中

●カノッサ:
場所・・Parma/Reggioの南30km Canossaサノッサ城(Castello di Canossa)


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http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/05_tyusei/05-04_canosa.html

聖職叙任権をめぐる神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇の対立:
・1075年、ハインリヒ4世はイタリアの支配をめざして、ミラノ大司教や中部イタリアのフェルモ・スポレトの司教を次々と任命

・教皇グレゴリウス7世は非難、教皇の権威を無視した皇帝の行為の数々を厳しく叱責し、皇帝が行いを改めなければ帝位を失うことになろうとの書簡を送る。

・ハインリヒは諸侯を集め、教皇の廃位を決定。これに対し教皇も、1076年2月のローマ公会議で皇帝の廃位と破門を宣言して応酬。

・破門の知らせで、ドイツ国内諸侯たちはハインリヒに次々と反旗をひるがえす。あわてたハインリヒは、ローマにおもむいて教皇から破門を解いてもらう決心。

●1077年1月、●ハインリヒ4世は、厳冬の中の●アルプスを越え、●教皇グレゴリウス7世の滞在する北イタリアのカノッサ城に到着した。

ところが、グレゴリウスはなかなかハインリヒに会おうとしなかった。ハインリヒのたび重なる懇願にも心を動かさなかった。しかし、カノッサ城の持ち主トスカナ伯夫人マチルダのとりなしもあって、最後にさすがのグレゴリウスも譲歩した。そのかわり、ハインリヒはカノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求された。

1月25日から27日までの3日間、彼はただひとり、無帽、裸足で、わずかに粗末な修道衣をまとっただけの姿で、カノッサ城の前で雪の上に立ちつづけた末、ようやく教皇に会うことができた。皇帝は十字架の形で教皇の前にひれ伏し、何度も大声で叫んだ。

「おお聖なる教皇様、お許し下さい。おお敬虔なるお方よ、私をどうかお許し下さい─」

「カノッサの屈辱」は、皇帝と教皇の争いの一局面に過ぎなかったかに見える。しかしそれは、この時期に大きく変貌しつつあった西ヨーロッパの運命を予示する象徴的なできごとであった。

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http://www.dokidoki.ne.jp/home2/akira16/index7-1-1.html
・1055年皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征企図、●アルプスを越える。

・1077:皇帝はローマに到着した時、教皇はすでにアウグスブルクへ出立していた。
途中カノッサに滞在することを知り皇帝はそこへ向かう。
●1077年1月25日-27三日繰り返した。
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<●詳しい>
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/108-europe8.html

・グレゴリウス7世はハインリヒ4世を再び破門した(1080)。
・翌年(1081)、軍を率いて●アルプスを越え、イタリアに出兵したハインリヒ4世は、ローマの聖アンジェロ城に立てこもったグレゴリウス7世を取り囲んだ。そして自分の意のままになる聖職者を教皇の位につけ、クレメンス3世と名乗らせ、彼の手からローマ皇帝の帝冠を授けられた(1084)

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http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/hattori/019.htm
・1077年、アウグスブルグに法王を招いて諸侯会議を開き、皇帝の廃位をしようとした。そこで皇帝は廃位を待つよりは、ローマ法王に直訴することを思い立ち、反皇帝派の諸侯によって封鎖された●アルプスの峠をひそかに脱出、諸侯会議出席のためローマ法王が途中滞在していた、トスカナ女伯マチルダの居城カノッサ

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http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/catholic.html
1077年1月 カノッサの屈辱
 ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世に許しを乞うため、厳冬に●アルプス山脈の●モン・スニ峠を越え、トスカナ辺境女伯マティルダの居城カノッサに辿り着いた。ここに教皇グレゴリウスが泊まっていた。
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http://www.cittadisusa.it/compaginagt.asp?id=391&S=20686&C=2
イタリア語→英語訳●●モンスニ峠を越えた

Sua figlia Berta va in sposa ad Enrico IV di Sassonia e la piccola Adelaide a Rodolfo di Svevia.
Quando nel gennaio del 1077 Enrico II attraversa il Moncenisio per recarsi a Canossa dalla marchesa Matilde per riconciliarsi con papa Gregorio VII, Adelaide lo accompagna insieme a Berta ed il piccolo Corrado.
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Its daughter Berta(娘ベルタ) goes in spouse to Enrico IV di Sassonia and the small Adelaide to Rodolfo di Svevia.
When in January of 1077 Enrico II(4世の間違いだろう) he crosses the Moncenisio(モンスニ峠) in order to o to Canossa from marchesa the Matilde in order riconciliar with Pope Gregorio VII(法王), Adelaide accompanies it with to Berta and the Corrado small.
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娘BertaはエンリコIV(di Sassoniaサッソニアの)と結婚、小アデレードの配偶者にはロドルフォ(di Sveviaスヴェヴィアの)になった。
1077年1月、エンリコ4世は、marchesaのMatildeからモンスニ峠を横断し、法王Gregorio VII(グレゴリウス7世)と和解するために 彼のいるカノッサに向かった。
義母アデレード、娘ベルタ、小コラードはそのとき同伴した。


●Castle of Countess Adelaideアデレード伯爵夫人の城 がスーザにある。

アデレード伯爵婦人はここで生まれた。
彼女はOlderico Manfrediオルデリコ・マンフレディの娘(トリノの侯爵)であり、Oddoneオッドーネの妻でした。
(OddoneはUmberto Biancamanoウンベルト・ビアンカマーノの息子、Moriana[ Maurienneモーリエンヌのイタリア名のこと]=とサヴォイアの伯爵)。
ハインリヒ四世皇帝が、彼女の娘ベルタ(モーリッツのベルタ。ハインリッヒ4世との間に3男2女を設け、末子が後のハインリヒ5世)と結婚したとき、彼女は彼の義母になった。


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Matilde di Canossa e il suo tempo

●トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央)