alsofor124のblog

喉頭癌と食道癌と共生しながら酒と旅を愛し、わが人生を振り返る。50代の男性。

2015年10月

医師は手術前後、色々医学用語で本人、家族に説明するが本人以外癌の複雑な用語は理解できないのが普通。間違った情報もある。

外科の部長医師は今までの私の疾病履歴、年齢、現状を吟味し貴方は、10年前の喉頭癌の放射線治療は限界までをなさりその後、5年半前に喉頭全摘出を本病院で受けています。確かに血管侵襲が見つかりましたがこれがリンパに転移する可能性は10~15%と思われる。その為に食道切除という手術をすることはQOLを失い仕事もできなくなります。まして食道と気管再生を行っているので尚更危険を伴う。手術中に死に至る可能性も10%あるので、食道発声もそれだけ得とくし元気に働いているのなら残りの癌を取り去れば90%治っているということができる。

無論、リンパ転移の可能性はあるが私は自分の家族であれば内視鏡手術、ESD経過観察を選択すると言われました。無論、再発した時は延命治療の抗がん剤投与となりますが、私は、以前より抗がん剤治療だけは拒否する事をきめていました。そして、2回目の手術は9月末から1週間入院しこれも癌は除去できましたが、経過観察間に最初は禁酒していましたが、いらいらや不安もありビールをかわらず飲んでまし。この病院のカリキュラムですと1週間、自宅療養1週間とせれその後は仕事、飲酒は問題ありませんと。でも、1度目の帰宅後2日目に普通に食事もでき家にいても退屈などで、地元のイベントに出かけたので2度目の帰宅後は4日めには診察結果をもって会社に復帰しました。3度目の手術は来月9日1週間で幅4cm、ESD手術の限界の大きさでしょうか?また、外科の医師のリンパ転移率10%というのは患者をはげます数字でしょうか?私は、過去の経験で死というものが身近で怖くありません。でも、延命治療の苦しみでけは避けたい。川島なお美と北斗の報道を複雑に見ていました。体重増減なし、元気に仕事してます。58歳。


以下、最近の情報サイトとの私の質問と心情。

最後の内視鏡手術。11/9入院、翌日手術。今月の27日に病理の結果がでる。川島なお美、北斗の報道がマスコミをにぎわせているが、2人の癌に対する対峙はとても影響される。誰でもそうだが、癌患者は貴方は癌と言われて初めてその複雑さと恐ろしさを知ることになる。逆に癌イコール死が近いという観念にとらわれる。
勿論、癌には色々な種類あり、肺、大腸、胃、乳がん、など比較的耳にするものと、胆管癌、膵臓癌、私のような喉頭、食道癌など比較的疾病するパーセント低い癌がある。

当然発生率が高い癌は、早期発見し身体に負担のない治療が優先され根治(完治)される時代になった。私は喉頭癌により声を失った時人間でなくなったと思った。2年近くかけて食道発声を取得し現在に至るが、声を取り戻しても社会復帰するには肉体的、精神的ハンデを克服しなければならない。私の場合は比較的食道発声は早い時期、半年くらいでかなりのレベルの発声を習得できた。喉頭を摘出をするとまず、3つのハンデを背をう事になる。気管口という喉仏がない私たちは、首の付け根の中央に十円玉くらいの穴があき、今まで口と鼻で呼吸していたが気管と食道をわけたので、呼吸はこの気管口からすることになる。鼻と口からの空気は全て食道と胃に入る。その空気を逆行させて音にするのが食道発声法だ。ただ、気管口に水が入るとむせるし、肺にまで水が入ると肺炎を起こし死に至る。最初のうちは、風呂に入るのは恐怖の連続だ。それと、嗅覚を失うし鼻水をすする事ができなくなる。

身体のハンデとリンパも摘出した北斗だが、乳がんでも知らないうちにあっというまに末期になり命を失った友人の妹がいる。北斗はリンパを摘出したほうの腕は重い物を持てなくなると涙ながらに報道されていた。でも、私は川島なお美の病魔に対する対峙の仕方に感銘する。セレブ夫婦で華やかであったが病魔に対峙する姿と抗がん剤を使用しない彼女の姿勢に感動した。また、家族のため生きなくてはならない北斗の抗がん剤との戦いにもエールを送りたい。どんなレベルのどんな抗がん剤使用なのかはわからないが、延命だけの抗がん剤使用は個人的には納得できない。癌を収縮するだけで他の身体の衰弱をまねくおそれがある。

そんな気持ちで2人の報道を見ていた。

2回目の食道癌内視鏡(ESD)手術終え10/5退院。本来なら前回の様に、退院後1週間自宅療養。でも、今回は慣れているせいのもあるが、初日にもう気力があれば明日仕事にいけると思ったがまずは自宅待機。でも、午後になると黙っていられず昼飯を食べて外出。数年ぶりにパチンコ屋にゆく。システムが昔と全然違うのでおどろく。千両箱が並ぶ時代しかしらないので、清算の仕方を含め全てファースト。しかし、得てしてファーストラックで2000円投入したところで確変連続。それも、2時間あまり。しめて58000円ゲット。

競馬とのつきあいは20年あまりになるが、確かに1日30万程ゲットし年間の回収率も85%で280万位稼いだ時もあった。ただ、所詮は水物競馬を知るほど大きな穴馬券は取れなくなり回収率も50%をわる。なにより、競馬の楽しみはレースの醍醐味や予想の楽しみなのだが、騎手の好き嫌い含めだんだん興奮することがなくなってゆく。負けた金額を取り戻す時間となる。そうなると勝てる訳がない。そうか、今のパチンコはタバコの煙が充満することもなく競馬場のように酒も飲めない環境衛生ではダントツに良いと思った。そんなとことで、暇なのでこりもせずに翌日も別のパチンコ屋に行った。

また、2000円で25000円ゲット。しかし、何か収益は得たが確変画面見つつ過ごすパチンコは私にはあわないような気がした。これだけ、1日歩いて懸念される症状もないし、かなりの街を距離を歩いているし予定では連休明け10/13仕事復帰の予定であったが10/9に病院からの診断書をもって仕事復帰した。担当課長を含め皆少し驚いていた。労災のこともあるし病気が病気だからだろう。次回最後の手術11/9からということも告げ今日も勤務を終えブログを書いている。

飲んではいけないビールをちびしびとやりながら。明日から3連休さてどうするか。やはり、少し身体を休めるかな。昔なら、近くのSPA温泉施設で岩盤欲だが、喉頭癌で首にエプロンして入浴するのは勇気がいる。DNDでも久しぶり借りに行くか。俺としては病気話よりも早く柳橋の少年時代から現在までの自分の中にある自虐的な
思いと性格形成を文面としてカミングアウトしたいのだが。競馬にのめりこんだのも最終的には孤独な環境から
だろう。

20代から30代前半なら月10万を超える競馬への投資は、最先端のファッション等に使っていたからだ。
あの頃は自分でいうのもおこがましいが、お洒落、スタイルがいいとか会社の女性達は勿論の事、お得意先の
女性達からも目にかけられ求愛されたり本当にもてた。だが、バブルが弾けると同時に自分もどんどんと吸い込まれるように転げ落ちてゆく事になる。



私は隅田川も近い東京柳橋で生まれる。

柳橋、蔵前といえば当然のごとく浅草を含めた下町の文化と情緒を持った場所といえるだろう。確かに、父親の会社はJR浅草橋駅の近くに事務所を持ち、父親の姉は浅草国際劇場で働いていた。父の実家は総武線の平井だったが、母と結婚して浅草橋で生活するようになる。父の兄弟は男5人、女性2人で父は4男ですぐ下に一番仕事、私生活を含めて親しい5男の弟。(以後S男さんと記す)がいた。やがて、俺のが生まれる半月前に厳格祖父はその直前に、おやすみと前日寝に入り、翌日息を引きとっていたらしい。私の父親は幼少のころ母親なくしていたので、母親のかわりはもっぱら姉であったと聞く。

父の兄弟は長男は戦死し、2男は行方不明、3男は病弱な女性結婚の件で父親から間道されしばらくは連絡は疎遠になっていた。父親もS男さんもとても勉学優秀で、父は当時の航空飛行学校である高専に入り、予科練の入隊試験もうけたらしい。しかし、2人とも当時のはやり病でもある結核にかかり夢は叶わなかった。

そして、すぐ終戦を迎える。父は家計を助けるため、創業企業である玩具メーカーのアルバイトをしながら、早稲田大学の美術学部(あるのかな?)に夜間部通うが、美術などでは生活をするのは無理と考え社長の誘いもあり中退し創業企業の生え抜き社員となる。東京の事務所は隅田川縁の事務所と倉庫。そして、埼玉に製造工場があった。主に当時のタカラ、ツクダ、バンダイ等の玩具の鉄筋、ケイプラ等の下請け製造が主たる業務であったと思う。

浅草橋の新居は社長宅の道路挟んだ目の前の3Fのビルで、1Fは会社と社長のガレージ、2Fは社長の2女と3女の勉強部屋を兼ねた寝室、そして、3Fに私たち親子が入居した。まあ、零細企業なりの社宅みたいなものだろう。この近辺にあと2つほど社長のもつ物件ががあり1つは長男が、もう1つは父親と同じ同僚で埼玉の工場の主任的立場の4人家族が住んでいた。

父親の肩書きはいつからか分からないが専務とされていた。さて、私はこの場所で4年近く暮らしその後父親が家督を継ぐということもあり幼稚園から小学5年までは父親の実家で平井で過ごすことになる。話が長くなったがこの浅草橋、柳橋での社長宅との娘さん、長男、社長婦人との母親を含めた良くも悪くも色々な関わりあいが、のちのちまで私に大きな影響をあたえてた事はたしかだ。私はとても社長宅の人々に愛され幼児のころから自宅にいるより、向かいの社長宅に娘さんたちにお呼ばれし過ごすことが日常であったらしい。

母親は生まれて一番そばにおいておきたい時期に、あなたはいつも社長宅につれていかれたといい、私がそこそこの年になたころ聞かされた覚えがある。

そして、私は平井の小学校に入学するが夏休みの大半は柳橋の社長宅に泊りに行き社長の娘、長男さんと寝食をともにし、娘さん達とは映画、遊園地、ある時は美術館、長男さんとは野球をやったり、後楽園での巨人戦観戦に行きON全盛時代のプレー姿は今でも目に焼きついている。この関係は小学6年生まで続く。地元の子供達が親交を深める夏休みに、私はいつも別の場所にいた。それは、誘われたてそうしたのか自身の意思でそうしたにかは、少し複雑な要因がその都度あった。

次回にその背景と自身の当時の心理を振り返ってみたい。そう、父の軽度のアルコール依存症はこの時から表れ始める。極度な振る舞いをする場合もあったらしい。普段は柔和な父親であったが、酔ったときの父は嫌いだし邪魔な存在となる。

ところが、気がつくと私も30代前にあきらかにアルコール依存症の兆候がではじめるのだ。


柳橋物語を続けてお話しするつもりだったが急遽私の病状についてお話しする。私は10年前喉頭癌が見つかり放射線治療で一度は日常生活に戻ったが、5年後喉頭摘出をすることになる。一度は声を失うが食道発声法を覚え再就職し現在にいたる。しかし、喉頭の定期検査で食道癌が見つかりこの8月内視鏡手術を行うも、早期ステージ1にも関わらず血管に転移がみられ再度行う内視鏡手術は中止。消化器内科から外科の医師の説明を来月初旬に受け治療方法を指示される事になった。


とにかく、少し複雑な状態になってしまった。今日は精神的に疲れたのでここまで。明日も仕事に行くので。詳しくはまた。

だだかなり動揺しているのは確か!!

小学生から中学1年までの時間と今回の私のドロップダウンしてゆく私の人生は大きくオーバーラップしている。ですので、ぜひこの間のお話を伝えたい。驚かれること、笑ってしまう出来事を含め大きな要素凝縮されている。ただ、今は今日1週間の入院をへて、2回目の食道癌手術を終えて帰ってきた現状と今後を伝えたい。

私も、5年間の生存率は50%程度と思われるからだ!!

さあ、気分を変えて食事でもしよう。では、また!!

現在の私の状況。先週、早期食道癌の手術が終わり1週間の自宅療養中!!
(下記は入院中の独り言)

次回の入院日が決定したよ。色々心配させたが、今回の内視鏡手術の経過をみて、問題ないと見て次回も残ったもう1つ癌もこの内視鏡(ESD 手術)で行うことが決定した。この手術で成功すれば、難しいとされる食道癌も、早期治療で殆ど通常の身体に戻れる。
入院を含め食事、アルコールなどもも2週間後は何も気にせず飲める事が可能。(あくまでも統計だが)再発率の度合いもかなり安全域となる。(本当に楽観的と自分でも思う)
やはり、1度に2つの癌を治療しなかったのは、もう1つのガンの範囲が幅、縦の浸達が大きい事で今回の手術で充分にマキングをして次回で処理する準備の意味合いもあるらしい。実際、身体的にもきついのも実感したしね。
次回も同じ手術でいきますと言われた時は、少しホットした。これで、飯を1時間かけてたべる胃の吊りあげ大手術はなくなる可能性はある。ただ、あくまでも私の楽観的判断で今回は先がわからない。

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