根本陸夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E9%99%B8%E5%A4%AB
根本陸夫伝
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BC%9D&offset
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ここから、抜粋
根本陸夫――。
1950年代、近鉄の捕手だった現役時代は、実働わずか4年で輝かしい実績もない。それが引退後にスカウト、コーチ として経験を積むと、68年から広島の監督に就任。自身は72年のシーズン途中、成績不振から休養、そのまま退団となったが、山本浩二、衣笠祥雄、三村敏 之らの若手を鍛え上げ、のちの75年に初優勝を成し遂げた”赤ヘル軍団”の基礎を固めた。
その後、78年に根本はクラウンライターの監督に就任。シーズン終了後に国土計画の堤義明社長(当時)が球団を買収し、西武ライオンズへと球団名が変わった。根本はそのまま監督として残留し、西武の初代監督となった。
西武監督時代は管理部長(GM)も兼任し、球団代表の坂井保之、スカウト部長の浦田直治らとともに西武の骨格を築いていった。78年のドラフトでは森繁和 を1位で指名し、阪神から田淵幸一、古沢憲司、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得し、自由契約となっていた野村克也を入団させた。
西武
1年目の79年こそ最下位に終わったが、翌80年は後期ペナントレースで優勝争いを演じた。その年のドラフト会議では、石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安倍
理を指名し、ドラフト外で秋山幸二を獲得。根本は81年で監督を退任し、管理部長に専念。後任監督に広岡達郎、ヘッドコーチにのちの監督となる森祇晶を招
聘。根本の後を継いだ広岡は82、83年と2年連続して日本一を達成し、85年もリーグ制覇。その後、86年から監督に就任した森も9年間で8度のリーグ
優勝、6度の日本一を達成するなど、黄金時代を築いた。
根本は93年に西武を退団し、ダイエー(現・ソフトバンク)の代表取締役専務兼監督となる。この年は最下位に終わるが、同年オフ、佐々木誠、村田勝
喜、橋本武広を放出し、西武から秋山幸二、渡辺智男、内山智之を「世紀のトレード」で入団させる。ドラフトでもこの年から採用された逆指名制度で渡辺秀
一、小久保裕紀を獲得。その後も、94年オフに王貞治を監督に招聘し、ドラフトでも井口資仁、城島健司、斉藤和巳、松中信彦、柴原洋ら、のちの黄金期の中
心となる選手を次々と獲得した。
その辣腕ぶりから「球界の寝業師」とも呼ばれ、特に有望新人獲得の手段をめぐっては、球界内で問題になることもあった。
だが、いずれも前身球団から低迷していたライオンズとホークス、ふたつのチームに実力と人気をもたらし、パ・リーグひいては球界全体を好転させたという意味で、根本は「日本プロ野球に革命を起こした男」と言える。
99年1月、根本はダイエーの球団社長へと上り詰めたが、同年4月30日に72歳で急逝している。以来15年が経ったこともあり、20代、30代の野球ファンにはピンと来ない名前かもしれない。
証言者・森繁和(1)
1954年千葉県生まれ。駒大高、駒沢大、住友金属を経て、78年ドラフト1位で西武に入団。83年に34セーブを挙げて最優秀救援投手となるなど、西武の黄金期に活躍した。89年から西武の投手に。その後、日本ハム、横浜、中日でコーチを務めた。
選手をその気にさせるのがうまかった
「いま思えば、根本さんは選手をその気にさせるのがうまかった。『打たれてショックだったら、もう一回行け!』と、そういう教え方の人でした。これは自分
自身、コーチとして、向かってくるような性格のヤツにはそういう教え方も必要だなって思ってやってきました。そういう意味では、オレの性格も何もかも、根
本さんに全部読まれていたかなと。うまいように使われているな、っていうのはところどころで感じていましたね」
巨人に勝つためのスカウト活動
「根本さんが裏技を作ろうとしたのも、球界全体、どこまでいっても巨人には勝てない、という暗黙の了解みたいなものがあったから。他の11球団のスカウト
たちが、『巨人が行く? じゃあ競り合っても負ける』って引き下がる。そういう時代に『そうじゃない。これからのスカウト活動はいろんなところから攻める
んだ』と。親や親戚から攻めたり、恩師から攻めたり。スカウト活動はこういうふうにやってやるっていう、ひとつの基盤を作った人が根本さんだと思う」
返答に困った森は、その時初めて「見とけ」の真意をさとった。新人を含め、ファームにいる投手が17人なら17人、それぞれの長所を生かして伸ばす ために、コーチは1年間、何も言わない。その代わり、それだけの時間をかけて選手個々の修正すべきところを把握し、育成方針、練習メニューまで決めること を求められていた。
「個々の方針を決めるための『見とけ』だったのに、自分はただ単に『見ている』だけだった。そういう苦い経験をしている
から、指導者として『見る』ことを特に大事にしてきました。例えば、一軍のコーチでも、オフに選手を見るのと、2月のキャンプに入ってから見るのとでは当
然、印象も変わってきます。その状況に応じての見方も変わってくるので、『見る』ことは本当に大事だと痛感しました」
「根本さんがそういう人だったから、自分がコーチになった時も、オフに選手が『麻雀やりましょう』『ゴルフやりましょう』って来ると、一緒にやっていまし
た。そういう時は、野球では見せない顔を出しますから。一緒にメシに行ったり、飲みに行ったりする時も同じ。そういう時こそ『見る』なんです。ああ、コイ
ツはこういうところもあるんだってわかると、それが野球にもつながってくるんです」
証言者・土井正博(1)
「最初の頃は、根本さんとわかりませんでした。どこかの紳士的なおっちゃんと思っていたぐらいで(笑)。それから声を掛けてもらうようになって、『体、大きいねぇ』とか、『いいバッティングしているねぇ』とか。あと『ご両親は健在か?』と聞かれたことは覚えています」
土井が入団した当時の近鉄の監督は、巨人の名二塁手として活躍し、「猛牛」と呼ばれていた千葉茂。その異名にちなんで、千葉が監督となった1959年に近鉄パールスから近鉄バファローズになったのだが、就任以来2年連続最下位と低迷していた。
「根
本さんが千葉さんに『土井は大型バッターだから』と言ってくれたみたいなんです。ところが、千葉さんはバットを短く持ってコツコツ打つアベレージヒッター
ですから、『あんなにバットを振り回しているようじゃアカン』と言われて、試合で使ってもらえなくてね。それで僕もふて腐れてしまって……。根本さんは
『頑張っとけばいいことがあるから』と励ましてくれました」
チームが3年連続最下位となって千葉が辞任すると、パ・リーグ初代本塁打王である別当薫が監督に就任。別当は土井の素質を見抜き、一軍で練習させるように
コーチに指示。また、根本もスカウト活動を続けながら、コーチに就任することになった。そこで根本は別当に「土井にはこういういいところがあるから、別
ちゃん頼むよ」と進言し、土井本人には「この人ならお前を育ててくれる」と励ました。
根本の野球――作戦はなしに等しかった。選手たちの感性と自らが出すサインが合致して成功すれば、大量点を取れるという野球。1点を取りにいくため にバントで送るような考えはなかった。だから、サインなど出るはずもない場面で、ベンチばかり見る選手に対して根本は激しく怒り、こんな言葉を浴びせたと いう。
「読めないヤツだな、お前は。こんなところでサインを気にしていたら、自分のリズムで打てないだろ。サインが出る時は出るんだから、それがどういう場面なのか、もっと勉強してこい!」
とにかく「勉強しろ!」が口ぐせだった。事あるごとに、「社会勉強しろ!」「野球の勉強をしろ!」と繰り返した。土井にとって、根本が言ったある言葉が特に印象に残っているという。
「社会勉強して大人になっとるか? 大人の考えにならんことには、いくら野球を考えてやろうとしたって無理だ。もっと大人になれ。一般常識人になれ。野球バカじゃダメなんだ!」
鉄拳こそなくなったが、コーチとなっても土井はよく根本に怒られた。ある時、入団テストで「いいのがいるから」と根本に紹介された選手がいた。土井は田辺徳雄の入団時に匹敵するほど身体能力があると聞かされていた。現にその選手は、田辺を思わせる体つきだった。その時、根本が土井に尋ねてきた。
「田辺が入ってきた時と比べて、どっちや。上か? 下か?」
「よう似たもんですねぇ」
「馬鹿もん! そんなの答えになってない! 上か、下かでいいんだ!」
慌てて土井が「上です」と答えると、根本はすぐさま「じゃあ獲ろう」と言って、獲得する運びとなった。その時土井は、怒られた自分の意見が即採用されたことに驚いたという。
「獲って、その選手がたとえ活躍できなかったとしても、根本さんは『なんだ』ということは言わない。『下です』と答えたら、『じゃあいらない』で終わりです。だから僕は、そういうところが親分なんだと思う」
面倒見がよく、部下の間違いもすべて自らの責任として引き受けたという。親分肌の人間だったと伝えられているが、土井はその気質を、身をもって感じていた。
「反対に、選手を獲って活躍したら、『お前の目、よかったな』と言ってくれる。失敗してもなんにも言わない。そういうところに、僕らは感動する、感銘する。となれば、この人こそは親分だ、と思いますよ。なかなかね、僕ら、真似しようと思ってもできません」
そんな親分肌の根本の言葉は、ときに刺激的な教訓として響いた。「何事も表と裏がある。表ばっかり見ていたら、裏はわからない」と教えられた。特に土井の心に響いたのは、人間の表裏を根本独特の表現で語った言葉だった。
「お
前、前から刺してくるヤツばっかりだと考えたらダメだ。前から刺してくるヤツは、よくわかるヤツだ。堂々とこっちへ来て、どんどん意見してくるから目をつ
ぶっていてもわかるんだ。逆に、後ろから来るヤツがいる。後ろに回られて、ブスっとやられたらそこでおしまいだぞ。野球界にはそういうヤツがいるんだか
ら、注意してやらないと足元をすくわれるぞ」
根本の教えは、「人を見て、勉強しないといけない」というものだった。つまり、勉強を重ねてさえいれば、足元をすくわれることはない、と。
証言者・衣笠祥雄(1)
「いやもう、怖いだけです。怖い人ですよ、僕にとっては。まず目つきが鋭い方でしたし、雰囲気が”親分”という感じだったですからね。最初にお会いした時からハートをつかまれて、『ああ、この人には逆らえないな……』と思いました」
「野球は一生懸命していたんですが、人間的に全然できていない時期。とはいえ、『一軍で使わない』という方針は仕方ないにしても、これから始まるキャンプ
で頑張って一軍を目指そうという時期だっただけに、納得いかない部分もありました。でも、結局は根本さんにハートをつかまれていたから何も言い返せない。
そしたら、根本さんにこう聞かれたんです。『お前、プロ野球の選手だな?』って。『はい』って答えたら、『じゃあ、売り物はなんだ?』って言われて、その
時『なんだろう……』って考え込んでしまった。いくら考えても答えを見つけられなかった自分が恥ずかしかったですね」
とにかく「衣笠」という選手を作ってこい!
一軍で活躍するためには、自分のセールスポイントが必要だ。それがないのであれば自分で作っていくしかない――と衣笠は気づかされた。
「ど
んなに考えても、何も自分の売り物がないんですからね。たとえば、自分が選手として終わりの頃は『プルプル振り回して、プルプル人形だ。三振ばっかりしや
がって。でも、たまに当たるとホームランを打つから面白い』という周りの声もありましたが、当時はそんなものはまったくない時期ですから。根本さんには
『とにかく時間をやるから、衣笠という選手を作ってこい』と言われました」
「結局、自分が置かれた二軍という立場をどう認めるか、っていうことだったと思うんです。要するに、二軍というのは一軍に上がるための売り物を作る場所な
んだということを、初めて理解できました。じゃあ、上がりたければどう考え、何をすればいいのか。いろんなヒントを根本さんにいただき、考える時間を与え
てもらったのがプロ3年目だったと思います」
「食事を終え、部屋に戻られると、僕のところに呼び出しが来るわけです。それで1時間はお説教というか、話を聞く。当然、野球の話がメインですけど、その
中で『どんな人生を作るのか』『プロ野球選手っていうのはこういう考え方をしなきゃいけない』など、どちらかといえば技術面よりも精神面の話が多かった気
がします」
「『現役を終わった後はどうするか?』といった話はもちろん、『お前、60歳になってどんな生活をしたい?』ということもよく言われました。当時の自分に
は還暦なんて想像もつかなかったですけど、根本さんは『60歳になって廊下で寝るような生活をしたいのか、それとも温かい布団の中で寝たいのか、どっち
だ?』と言う。誰だって温かい布団がいいですよね。『だったら、いま頑張らないとそういう生活は手に入らないよ』と。そのような言い方をされていました」
「若い子は、ともすれば、その時しか考えませんよね。だけど、『もっと長いスパンで人生を見たらこうでしょ?』と、そういうふうなことを折にふれ、話して
くださった。だから、怖い人だけど、面白い人でもありましたね。面白いというとなんだか軽い感じがしますけど、根本さんは幅広い人間関係をお持ちでした
し、いろんな方の話を織り交ぜながら話をしていただいたので、聞く側としては面白かったです」
ところで、カープの監督は初代の石本秀一から5代目の長谷川まで、広島県出身者か、もしくは球団OBだった。コーチにしても同様の人選だった。それ が、根本は関東の茨城県出身。学生時代は東京で過ごし、社会人では神奈川のチーム。そしてプロは大阪の近鉄と、広島にはまったく縁がなかったため、それだ けで話題になった。
その中で、一部の野球評論家は、「元パ・リーグのどん尻チームの近鉄のコーチに何ができるか」と言って嘲笑した。口を開けば“べらんめえ調”で、一見、いい加減な人間に見える根本の一面だけを取り上げれば、そう評されても仕方なかった。
しかし、実際には知識欲旺盛で、経営からコンピューター関係、文学と、あらゆるジャンルの書物を読んでいた。当時、根本は「私はいろんな人と付き合う。だから、話題も幅が広い。こっちがいろんな本を読んで知識を持っていなければ、話にならないから」と語っている。
さらに、監督就任に際して、松田恒次オーナーから「企業としてのプロ球団を作ってほしい」と要請されたことに対して、次のような言葉を残している。
「強いチームを作るだけなら、金をかけて外国人を連れてくるなど、どんどん補強すればいい。しかし、企業としてのプロ野球を成功させるためには、そんな小手先の芸ではやれない」
「山内さんはご自身の練習をやるだけでしたが、我々よりはるかに練習されていました。いいお手本、いい教材を目の前に置いていただいたと、今でも思
います。我々からしたら、2000試合近く出場されて、2000本安打も打っておられて、すべてのタイトルを獲られた大選手が『まだこんなに練習するん
だ』というのは本当に驚きでした。特に、これだけの成績を残された方がこんなに頑張るってことは、バッティングってそんなに難しいものなのかと。それを
キャンプで見せてもらったのは、本当にいい勉強になりました」
必然的にキャンプでの練習は激しく、厳しいものになった。根本はまず、選手
たちが猛練習に耐えられるだけの体力をつけるために、1時間のランニング、長い時間をかけてのキャッチボールを課した。「技術の前に必要なのは体力だ。ま
ずは体力をつけてから、次のステップにいく」というのが、根本の考えだった。
「結局、目標としては20本だったんです。根本さんに『お前の売り物は何だ?』と言われてから、『20本のホームランを打つことだ』と自分なりに考えまし
た。20本をクリアすれば試合に出してもらえるんじゃないか、というところまで追い込みました。いつの間にか、僕の頭の中がそうなるように、根本さんに
引っ張られていたわけです。それで何とか、及第点はもらえる数字は残ったかなと。だから、『20本打てたから嬉しい』ではなくて、『やっとクリアできた』
という印象しかなかったです」
肉離れのことは、衣笠本人からトレーナーに伝えていた。衣笠とすれば、トレーナーから根本に伝わっているものと思い込んでいたところに、盗塁、エン
ドランのサインが出て、挙句の果てに殴られた。『何で?』と思っている時に根本さんにこう言われました。『足が痛いのか? 痛けりゃ直接言ってこい。いつ
でも休ませてやるから。別にオレは、お前を無理やり試合に出しているわけじゃない』と」
さらに続いた根本の言葉が、衣笠の胸に響いた。
「お客さんが何を見に来ているかってことを忘れるな! お前が足を引きずっている姿を見に来ているんじゃないぞ。元気にプレイする姿を見に来ているのに、失礼なことをするな!」
試合に出る以上は元気にプレイする姿を観客に見せなければいけない。それがプロだということは、衣笠も頭では理解していた。しかし、現実は足が痛い。ケガ
を完治させて、万全の状態でプレイするために試合を休むという選択肢もあった。監督も「いつでも休ませてやる」と言っている。しかし、当時の衣笠はレギュ
ラーの座を約束されていない立場。一度でも休んだら、今度いつ使ってくれるかわからない。
「『何であの頃はこうだったのですか?』ということも、50歳を過ぎてやっと聞けるようになりました。その時も新たに教えてもらうことはありました。その
中でひとつ、根本さんの根底にあるのは、その選手のいちばんいいところを探して、それを絶えず見る、ということなんですね。欠点を見つけて直すのではな
く、いいところをどんどん伸ばす。持っている長所を伸ばしたら、この先、どんな選手になるんだろうという夢というか、完成予想図を常に持っておられまし
た」
「その選手のいいところを伸ばすために、どういう言葉が必要なのか、どういう練習が必要なのか、根本さんはそういうことをいつも考えておられました。これ
からの野球界にもそういう人材は必要でしょう。やはり、どんなチームも移り変わりがあります。次の時代のチームを作るという時に、若い選手の将来像を見え
ている人がいるのといないのではかなり違うと思いますから」
「永遠の謎ですよね。それに、僕がいろんな記録を作っても、褒めてくれたことは一度もありませんでした。根本さんにしてみれば、『当たり前だろ』という感
じで。そのおかげで長く野球をさせていただきましたし、感謝の気持ちしかないです。今もそうですけど、何かで悩んだ時、根本さんならどう考えるかなと思う
ことがよくあります。それぐらい僕にとっては影響力が大きかった人です。ずっと心の中におられる人です」
証言者・行澤久隆(1)
「あの鋭い眼光がね……僕は根本さんの鉄拳制裁を見たことも、喰らったこともありませんが、あの眼光が鉄拳制裁みたいなものですよ(笑)。グッと睨まれる
と、鉄拳以上の威圧感がありました。もう何も逆らえないというか……。根本さんの前では『はい』か『いいえ』しか言えない雰囲気がありました」
「たしかに、根本さんはミーティングをしませんでした。でも、いつも試合が終わると、たとえ大差で負けたとしても『ご苦労さん』と声をかけてくれました。
これは、なかなか言えることじゃないですよ。普通、監督だったらいろいろと言いたいこともあると思います。そこを根本さんは『ご苦労さん』のひと言で終わ
る。決して、愚痴をこぼすことはありませんでした。コーチには言ってたかもしれませんが、選手には絶対言わなかった。そのあたりの器の大きさが、根本さん
にはあるんです。だからみんな、この人のために頑張らなきゃという気持ちになるんです」
我慢してチームの土台を作り上げていく
西武の監督時代の根本陸夫は、どんなに大差で負けようとも、試合を終えた選手たちに「ご苦労さん」と声を掛けていた。そう証言する行澤久隆だが、監督とは違い、コーチたちは一様に厳しかったようだ。
「バッティングコーチの藤井栄治さ んとは、取っ組み合いになったことがあります(笑)。昔の人は一途で熱心ですから、『これだけ真剣に教えているのに、なんでお前は聞かないんだ!』って なってくるんでしょうね。お互い真剣にやっているからぶつかり合うわけですが、その時だけなんです。あとはケロッとして、仲もいいんですよ。もちろん、 コーチにもいろんな人がいますし、合うコーチ、合わないコーチというのは出てきますよね(笑)」
根気よく教えるコーチ、皮肉交じりにチクチク言ってくるコーチ、紳士的で温厚なコーチ……。様々なタイプがいたが、”根本一派”と言われたコーチ陣がいたからこそ、チームの形が徐々に築かれていった。行澤によると、そのプロセスにおけるキーワードは「我慢」だという。
「振
り返ってみたら、根本さんが西武の監督をしていた3年間(1979~81年)は、チームの土台を作っていた段階でした。その時は徹底的に我慢して、チーム
力を上げていました。じゃあ、なぜそこまで我慢できるかといったら、常に先を見越して、育てる、補強する、ということをやっていたからだと思います。根本
さんは、監督と同時に編成の責任者でもありましたから。大体、そのふたつの仕事を同時にできてしまうところがあの人の凄さだし、チーム力が上がって勝負で
きるという時に監督の座を人に譲るということも、なかなかできることではないと思います」
監督やコーチに言われて動くのではなく、自らの思考と判断によって野球ができる選手。突き詰めると、個人事業主の集まりがチーム、という考え方だ。
「それだけの大人のチームを作るには、時間とお金がかかります。監督だけじゃなく、球団もいろんな面で我慢と努力が必要になってくるでしょう。でも、作っ
てしまえば、それは強い。だから森さんの時の西武は、普通にゲームをやっていると、相手がミスをするんです。西武はほとんどミスがないから、その差という
のは大きいです。先制されても、途中で相手がミスをしてくれるので、最終的に西武が勝っているという試合はかなりありました」
「黄金期ですよね。逆に、根本さんが監督の時というのはミスがいっぱい。ミスばかりのチームです(笑)。やはり、チームを作る上で、少々のミスには目をつ
ぶっていかなきゃいけない。選手を伸ばすためにはとにかく試合で使って、ミスをしても我慢して使わなきゃいけない。本当に強いチームを作るには、それがい
ちばんだということです」
「スカウトとしての心得は教わりましたけど、それもごく短い言葉です。まず、『自分の判断で何でもやれ、動け』ということ。『他人がいたら一緒に見るな。
ひとりで行動しろ。絶対に群れるな』とも言われました。一緒に見ていると、どうしても同じ見方になってしまう。とにかく『ひとりで見て、自分の判断で評価
しろ』と。それがスカウトだと言われました」
「(野々垣を)獲っていただくことになって、根本さんに契約金について電話で話をしました。野々垣の事情を聞いたスカウトとしては、できるだけ多くあげた
かった。それで『契約金、もうちょっといいですか?』と相談したら、『ああ、わかった』と。余計なことは一切言わないですし、理由も聞きませんでした。ス
カウトの意見を第一に尊重してくれました。そういう人って、なかなか野球界では出会えないと思いますね」
「絶えず先を見ることを実践していた方ですよね。それは根本さんが現役の時から始まって、スカウトとしてはもちろん、監督として、フロントとしてもそう。
役職が変わっても、先を見ることだけは変わらなかったと思います。だから、チームが優勝したらそれ以上に戦力アップする、という補強をしていました。そう
しないと勝ち続けられないとわかっていて、実際に実践したからこそ、西武は強い時代を維持できたんだと思います」
「若い選手を指導していると、野球に限らず、いろんな問題が出てきます。だから、そういう時は、拒絶したり、それは違うとはねつけたりするのではなく、一
度、こちらがしっかりと受け止めなければいけない。そのことに気づいた時、『大人になれよ』とはこれか、と自分なりにわかったんです」
「でも、まだまだですね。今の自分は、大学生、子どもたちの前に立つ人間ですからね、もっともっと大人にならなきゃダメだなと思うんです。大学野球部と
いっても、今はいろんな選手がいて、僕らの時代には考えられなかったような感覚の子もいます。そういう子どもたちを相手にして、時々、拒絶するようなこと
もありますから、まだ自分は大人になり切れていないなと、しみじみ思うんですよ」
証言者・石山建一(1)
「根本さんがよく言っていたのは、『この選手は誰の教え子だ?』っていうことです。つまり、選手とその指導者、もしくは先輩との関係をすごく大事にする。
獲りにいく選手の指導者は誰で、誰の後輩か、ということを把握しているんです。私も『誰の教え子だ』というのはわかっていたほうですが、巨人に行って、あ
らためて、根本さんのやり方がいかに大事か、教えられました」
「情報がどんどん入ってくるのも、人脈があるからです。そうした人脈を築いたのも、ひとりひとりを大事にし、ちゃんと面倒を見ていたからです。私が実際に
見た中で忘れられないのが、西武のバッティングピッチャー連中に『お前ら、ちゃんとスコアブックを付けなきゃダメだ』と教えていた姿です。体力がなくなっ
てバッティングピッチャーができなくなっても、先乗りスコアラーとか、次の職に就けるようにしていたわけです。今でこそ、こういう転職は各球団でやってい
ますが、最初に始めたのは根本さんですよ」
証言者・浜田昭八(1)
「根本さんが広島の監督になる前、まずコーチになったときは、当時オーナーの松田恒次さんに認められたんですよ。松田さんとは友人関係にあり、いろんな縁
もあってのことですが、あの人、妙に偉い人に可愛がられるんですよね。話し好きで、話の仕方がいいのか、気に入られたか、重宝にされたか、それとも利用さ
れたかわからないけれど、松田さん、堤さん、中内さん、みんな根本さんに心をつかまれているんですね。そのあたり、監督を決めるような偉い人との付き合い
が上手だったのかなと」
「この苦労を経験して、選手集めにお金を使えなきゃ話にならない、いい駒をそろえなきゃどうにもならないと、根本さんは身にしみてわかったと思います。そ
れで西武になり、お金を使えるようになって、どんどんいい選手を集めていきましたよね。それこそ堤さんはジャイアンツ並みのチームを求めてましたから、
『それにはすごくお金がかかります』と言って、上手く説得していたと思います。あの人は堤さんより8歳も年上ですけど、結構、へりくだった感じでね、そう
いうことを厭(いと)わずに接した。プライドが邪魔をしてへりくだれない広岡達朗さん、森祇晶さんとは違うところですよね」
「その時の根本さんの言い分は、『記者全員が情報を分け合っていたら、野球を見る目が養えない』というものです。とにかくあの人は、みんなで一緒に、とい
うのがダメ。『他と同じことを書くな!』というひと言は、記者の私にとって、いちばん印象に残っている言葉です。スカウトに対してもそうですよね。『絶対
につるんで見るな。ひとりで見ろ!』と命じていましたから。やはり、見識があるんですよね」
証言者・石毛宏典
ただ、耳慣れない「チームリーダー」という呼称に違和感があった石毛は、ある時、「オヤジ」と慕う球団管理部長の根本陸夫に悩みを打ち明けていた。
「オヤジさん、ちょっといいですかね?」
「なんだ?」
「世
間はオレのことをチームリーダーなんて言ってくれるけど、オレ自身はなにもそんな仕事してないよ。自分は本来、水なのに、なんでオレのことをお茶とか、
コーヒーだとかって言うわけ? どうして、オレ本来の水を理解してくれないのかなあ。なんか、こそばゆくて、居心地悪いわ」
「プロ野球には何人の人間がいるんだ?」
「今は750人ぐらいでしょうか」
「そうだなあ。それだけいる選手のなかで、チームリーダーなんて言われる人間はお前ぐらいのもんだろ?」
「はい」
「あ
りがたい評価なんだよ。だから、お前の言うこともようわかるけど、評価ってのは、人がするものなんだ。人がする評価というのは、時として、窮屈なもんだ。
大人というのは、そういう窮屈さを感じながら生きていくものなんだ。枠があって、制約があって、窮屈さを感じていくのが大人の社会。たぶん、お前はそれが
嫌で、居心地悪いって言っているかもわからない。オレはお前の気持ちがわからんわけでもないけど、その考えはまだ幼いな。これからは、大人の考えを持って
取り組んだらどうだ?」
「要は、野球バカじゃダメなんだぞと。スーツを着て人と会う場に行ったら、野球とは違った視点で自分を見つめられるし、社会を見つめられる。そうやって、
いろんなことを知りなさい、一般常識を知りなさい、社会のことを知らないといかんのだ、ということをオヤジは言いたかったんじゃないですかね。でも、当時
の自分は、まだ若すぎてわからなかった。時代を経て、オヤジから伝えられた言葉がだんだんと理解できて、なにかあるたびに、ビクッ、ビクッと気づかされる
ようになりました」
結局、その年の石毛は50試合に出場して打率.200、1本塁打、11打点という成績に終わる。ゲームに出ることが当たり前だった石毛にとって、ずっとベンチにいることがもどかしく、オフには根本に向かって弱音を吐いていた。
「もう、辞めていいですか?」
「なぜだ?」
「いや、もうゲームに出られないし、練習しててもおもしろくないし」
「なに言ってんだ、お前は! 球団はなんて言ってるんだ?」
「もう1年やってほしいと」
「じゃあ、やれ!」
怒鳴られてもすぐには納得できず、石毛は「またベンチで悶々とするのはつまらないんで、嫌なんですよ」と返した。すると、根本はあきれたような顔でこう言った。
「お前らの言うことはいつも感情論だ。つまんねえとか、嫌いだとか。じゃあ、お前に聞くけど、長嶋や王を見て、立派な指導者に見えるか? 立派な監督に見えるか?」
長嶋は巨人監督としてリーグ優勝5回、日本一2回。王は巨人監督としてリーグ優勝1回、ダイエー、ソフトバンク監督としてリーグ優勝3回、日本一
2回。しかし95年当時、王の実績はまだ乏しいもので、長嶋にしても94年の日本一が初だった。石毛の頭には、75年、長嶋が巨人の監督にして就任1年目
に最下位に沈んだシーンが浮かんでいた。いずれも「監督になりたてのころは試行錯誤していた」と気づかされた。根本が言った。
「長嶋も王 も、現役が終わってそのまま同じチームの監督やったんだよ。おおかたの人間は、一度、ユニフォームを脱いで、外から野球を見たいと言うよ。その点、お前の 場合は外から野球を見るんじゃなしに、よそのチームから来て、同じユニフォームを着て、ベンチに入って、監督の采配や選手の動向が見られるじゃないか。そ りゃ、お前の気持ちもわからんわけじゃない。だけど球団が契約してくれるって言うならば、喜んで契約しろ。ベンチの外じゃなく、ベンチの中でしっかり野球 を見ろ」
言われて石毛は、なんとなく「そうなのかな」と思うにとどまった。選手としてベンチに入っている以上、野球は見るものじゃなくてプレイするものじゃないか? という疑問が残っていた。それでも、拾ってもらったオヤジに「やれ」と言われたらやるしかない。
契約更改では、野球協約で定められた25%の減額制限を超える50%の年俸ダウンを受け入れた。根本に見守られながら、石毛は年俸1億円で96年のシーズンに臨むことになった。
この「評価」については、西武時代の石毛が、チームリーダーという肩書きに疑問を感じた時と通じている。根本は悩む石毛に対し、「チームリーダーと
いうのはありがたい評価だ。評価はときに窮屈なものだが、そういう窮屈さを感じて生きていくのが大人の社会なのだ」と言って諭(さと)した。選手だった当
時はその言葉の意味がわからなかった石毛も、引退して間もないこの時には、徐々にわかり始めていたという。
「オヤジの言うことも一理あるな
と思って、『わかりました。じゃあ、お願いします』と。それで僕は、〈ダイエーホークス・オーナー付〉という肩書きの名刺を作ってもらったんです。根本さ
ん曰く『この名刺を持って回れば、石毛は引退してもダイエーの職員であって、球団がちゃんと面倒を見ている。それだけの人物だということを知ってくれる。
そういう評価があるということも知っておけ』と。やっぱり当時、看板を外れるとどうなるかわからんぞ、という思いはあったので、この評価はありがたかった
です」
「急にオヤジが、『ひとりの人間が年間に食う米の量、わかるか?』って聞くんで、『ええ?』って言ったら、『60キロだ』と。『人間なんて、そんなもん
じゃ。大の大人が年間にそれぐらいの量しか食わんのじゃ。それを金に換算しただけのものがあれば、メシは食える。メシ食えりゃ、死にゃあせんのだから』っ
て。僕は思わず『それって、おかずとかないんでしょ?』なんて聞いてしまいましたけど、つまり贅沢はするなってことです。僕のこれからの生活を考えてそう
言ったんだなと、後になってわかりました」
「結果という意味で、僕が常々オヤジに言われたのは『負ける喧嘩はするな』ということです。『我々はひとりで生きていかなきゃならない。だけど、そういう
人間が意気がって、相手も知らずに喧嘩をして負けてしまうと、二度と現場に帰って来れねぇぞ。メシも食えなくなるし、命も落とすぞ。だから、負ける喧嘩は
するな』と。僕はその言葉を、オリックスから監督要請を受けた時にふと思い出したんですよ」
「今、僕がいろいろな場で指導できるのも、常にオヤジに進むべき道を示してもらってきたからです。そして、道を示される時の言葉には必ず、『野球がちょっ
とぐらい上手くてなんぼのもんじゃい』という教訓が含まれていました。そして、野球を通じていかに自己の人間形成をするかなんだと常に言われていました。
僕もその考えを伝え残していきたいですし、薫陶を受けたみんなにもそうあって欲しいなと、強く思いますね」
証言者・関根潤三
「当時、ヤンキースのマイナーに『将来の4番候補』と言われている若手がいたんですけど、そのコーチは彼のバッティングをただ見ているだけなんです。何を
しているんだろうと思って、通訳を連れて聞きに行ったら、『アイツはオレが面倒を見ている。だけど、今のバッティングはおかしい』と言うんです。『おかし
いのなら、すぐに行って直してやりなよ』と僕が言ったら、『ダメだ。そのうちアイツはオレのところに助けを求めに来る。その時に、アイツが理解しやすいよ
うに、今は彼にかける言葉を探しているところなんだ』と言うわけです。『ここがおかしい』と言うのではなく、『ここをこうしたらどうだ』という言葉を探し
ていたんですね」
関根は帰国後、現地で経験したことすべてを根本に話した。その貴重な経験談がもとになったのか否かは定かではないが、この巡回コーチの話は、監督・根本が
新任のコーチを教育する時に、決まって伝えていた言葉を想起される。特に、ファームの若手や新人を指導するコーチに対して命じていた、「何も言わずに選手
を見ておけ」という言葉である。親友である関根からの生きた情報だけに、対話の中で吸収したものはあったのだろう。そんなふたりが再び同じユニフォームを
着るのは、4年後のことだった。
証言者・小枝守
「今にして思えば、当てはまるところはあります。僕の教え子で、中学時代に実績のあった子がプロに行ったというケースはないに等しいんです。たとえば、オ
リックスに行った小川なんて、中学時代は無名の選手。ただ、ものすごい負けん気が強く、目的意識がはっきりしていました。高校から社会人野球のプリンスホ
テルに進むのですが、その時も『大学に行くより社会人で揉まれた方が、高いレベルの野球を早く見につけられる』と言っていました。選手の性格を見抜くの
も、“根本陸夫式”かもしれないですね」
「自分で『この子の、この部分がいいぞ』と思ったら、2~3年後の青写真を描くんです。描かないで育てようとすると、焦りが出ます。『今日こう言ったか
ら、明日はできるようになっているはずだろう』っと。でも、子どもというのは一日経つと変わってしまうので、長い目で見ないといけない。根本さんもよく
おっしゃられていました。『いいものを持っている選手をつぶさないためにどうすればいいか、という考えを持つんだぞ』と。ものすごく懐(ふところ)の大き
い発想だと思います」
自分が立たないと、人を立てることはできない
「『自分が立たないと、人を立てることはできないぞ』とよく言われたことを思い出します。人を育てるには、バックアップする力を自分で培えよ、という意味
だったと私は受け止めています。それに『損得で人と付き合ったらいかんぞ』という話もよくされました。相手に頼みごとをされたら、『ノー』とは言わないで
頼まれたとおりにする。それでいて見返りは求めない。そういう姿を僕たちに見せながら、人の道として何が正しいのかということを教えてくださった方でし
た」
証言者・大久保博元
何かあって、僕が不貞腐(ふれくさ)れる時、怒られた時、そのたびにご自宅に呼ばれました。その時は、絶対に怒らないんです。『すき焼き食え』とだけで。
あの牛乳が入ったすき焼き、たぶん20回以上はいただいています。時には自分からうかがうこともあったので、『お前みたいなヤツは初めてだ』って言われま
した」
球場では根本の教え通り、外野席からも選手を見た。特に根本の教えが生きたのは、キャンプの時だ。グラウンドに降りると選手を間近で見ることができるが、
視界が平面的で全体が見えづらい。そこでスタンドから見ると、投手も野手も立体的に見えて、どの選手がどう動いているのかがよくわかった。そんな中、現場
から求められ、獲得を目指した選手は徹底して追いかけた。「靴底がすり減るまで歩け」という根本の言葉が思い出された。
「大人になれ」高橋安幸●文
「社会勉強して大人になっとるか? 大人の考えにならんことには、いくら野球を考えてやろうとしたって無理だ。もっと大人になれ。一般常識人になれ。野球バカじゃダメなんだ!」
言い換えれば、野球しか知らない”野球バカ”にならず、社会勉強をして、一般常識人になって初めて、自分で考えて野球ができる「大人」になれるということだ。
日本ハムから79年途中に西武に移籍し、内野手として活躍した行澤久隆。彼もまた、何度となく根本の「大人になれ」という言葉を聞いた。
「自分の思考と判断で動ける選手が”大人”ですよね。当時の西武は、根本さんが土台を作ったところに広岡達朗さんが監督で来られて、徹底した厳しさが備わった。
「若い選手を指導していると、野球に限らず、いろんな問題が出てきます。そういう時は、『それは違う』とすぐにはねつけるのではなく、こちらが受け止め
て、吸収してやらないといけない。それに気づいた時、根本さんが言っていた『大人になれ』ってこういうことだったのかと、自分なりにわかったんです」
西武黄金期のチームリーダーだった石毛宏典は、「時代を経て、根本さんに伝えられた言葉がだんだんと理解でき、何かあるたびに気づかされるようにな
りました」と言っている。1988年、石毛が当時まだ数少ない1億円プレイヤーになったシーズンオフのことだ。石毛はいきなり根本からこう言われたとい
う。
「スーツが似合う男になれ」
驚いた石毛が「野球選手はユニフォームでしょう」と反論すると、根本は「バカ野郎!」と一喝した。その上で、一般企業に勤める石毛の同級生の給料に言及し、こう続けた。
「野
球人は温室の中に入っているから、外が暑いのか寒いのか、どんな風が吹いているのか、わからないんだ。シーズンオフは、お前の同級生、仲間と一緒にメシを
食え。お前の仲間は時代とともに生きて、今どんな天気なのか、どんな気温なのか、どんな風が吹いているのか、それがよくわかっているはずだから、メシを
食ってたくさん話をしてこい」
「スーツを着て人と会う場に行ったら、野球とは違った視点で自分や社会を見つめられる。そうやって、『いろんなことを知りなさい』『一般常識を知りなさい』『社会のことを知りなさい』ということをオヤジは言いたかったんじゃないですかね。要は、野球バカじゃダメなんだと」
証言者・森脇浩司
「ホークスがこれからどのような動きをして、どういう歩みをして、どう変わっていくか、当事者なんだけど、客観的な視点で見ておきなさい。客観的に見れば、変化の起点がはっきりわかる。起承転結のような、プロセスの変わり目をよく見ておきなさい」
「シーズン中、伸び悩んでいた下柳を試合前のフリーバッティングで毎日投げさせていました。しかも、毎試合のようにリリーフで登板させるわけです。 今の時代、一軍のベンチに入るピッチャーが打撃練習に投げることなんてありえないのですが、当時の下柳は毎日のようにそれを繰り返していました。キャンプ 中の休みの日には、ブルペンで500球ほど投げさせたこともありました」
周りから「壊れたらどうするんだ」と批判されても、いちいち取り 合わないだけの度量が根本にはあった。それでも森脇は「壊れてしまうかもしれないという気持ちはなかったのですか?」と聞いたことがある。すると根本は 「よく考えろ。アイツがこのままの技量でいったら、どっちみち今年でクビだ。だったら、なんとかしてやらないとどうしようもないだろう」と答えた。
「根本さんにとって選手は我が子であり、チームはファミリーなんです。下柳の練習法、起用法にしても、自分の子どもなんだから放っておけないということなんですね。そういう根本さんの姿は、自分の根底に息づいています」
「組織っていうのは、常々、窮屈なものなんだ。窮屈な中で、どれだけ仕事ができるか、能力を発揮できるかを問われているんだ。そこでしっかり仕事する者こそ、本当のプロの仕事人であって、窮屈さのあまり仕事ができないとなったら、それはアマチュアなんだよ」
「人と会う時は、いろんな角度からその人を見なさい。一側面だけを見ていたら、本来の良さを見つけられないかもしれない。だから多面的に人を見なさい。それができないなら、何もするな」
今も心の中に恩師は存在している。心の中だけでなく、見つめることによって、生前に共有した時間が鮮明に蘇(よみがえ)るものがある。根本の筆で<終わりなき旅>と書かれた一枚の色紙。手渡された時にこう言われていた。
「こ
の先、うまくいかないこともあるだろう。頑張れば頑張るほど、うまくいかない時は落胆するだろう。でも、そこであきらめるのか、それともまた前に進んでい
くのか。前に進めば、やりようによってはなんとでもできるんだ。それで最終的に人の評価を得られるかどうかはわからないけども、投げ出してしまったら終わ
りなんだ。いつもリセットして、挑戦していくんだ。そう考えるのであれば、やり直しのきかない人生はないし、人生に終わりはない。生きている以上は」
「監督がコーチであってはまずいわけだ。たとえば、チームの要となる選手が極度のスランプに陥(おちい)るとする。チームが勝てない焦りも手伝って、打撃
コーチがいるにもかかわらず、監督自ら『ああでもない、こうでもない』と口を挟む。そうなった時、チームはもうメチャメチャに崩れている」
「監督がコーチであってはまずいわけだ。たとえば、チームの要となる選手が極度のスランプに陥(おちい)るとする。チームが勝てない焦りも手伝って、打撃
コーチがいるにもかかわらず、監督自ら『ああでもない、こうでもない』と口を挟む。そうなった時、チームはもうメチャメチャに崩れている」
監督は現場の最高責任者であるだけに、当時のプロ野球ではコーチの職域を侵すケースが少なくなかった。そんな監督のほとんどが失敗していることを、根本はよく知っていた。ゆえに、意思統一した上で責任の所在を明確にさせた。
監督はコーチを信頼し、選手も信頼するが、ベテラン、若手に関係なく、コーチに厳しく指導させる。指導するコーチは、なにより選手のコンディションを把握 しておくことに責任を持ち、選手はプレイに責任を持つ。そうして、各分野の責任の中で、目標達成に向けて努力する。この「責任の分担制」について、のちに マスコミは「何事にも筋を通す根本理論の真骨頂」と評した。筋を通すため、根本はこの言葉を信条としていた。
「結果がどうであれ、最後までやり通す。やりかけたことは、いかなる障害に出くわしても途中で放棄しない」
「ゲーム前は胃袋を空っぽにするぐらいじゃないと、脳に鮮明なものが出てこない!」
一方で根本は、これも自己管理の一環というべきか、酒豪ぞろいの選手たちに向けて短い言葉で厳重に申し渡した。
「タダ酒は飲むな」
地方球団の選手はファームの若手でも周りにちやほやされ、いわゆるタニマチを作りやすい環境にある。このタニマチとの関係が、”黒い霧事件“の再発につながらないとは限らない。根本はあらかじめ発生源を断つように努めた。
そして、いざスタートしたキャンプでは異例の休日なし。その間、コーチの江田孝が脳内出血で急死する不幸もあったが、一次キャンプの福岡・平和台から二次キャンプの長崎・島原へ移動する日も練習した。無休の理由を問われた根本は、厳しさを表に出さずに言った。
「選手の自主性、自覚のための場を、私は提供したいのです」
練習の進め方も型破りだった。当時のプロ野球も今と同じくチームプレイが優先され、キャンプでは序盤から連係プレイ、サインプレイなどに重点を置くチームが大半。しかし根本は違った。
「まず基本だよ。捕ったり、投げたり、走ったりを徹底的にやらなくては。だって、そうだろう。基本が確立されないと、いくらチームプレイを要求したって、そんなもの、やれっこないわな」
最下位脱出を目指す根本が基本を重視し、猛練習を課したのはそうした事情もあり、キャンプ中のみならず、オープン戦に入っても休日はなかった。理由を問われると、ひと言で答えた。
「だって、心臓は休まないじゃないか」
休みをとるのがコンディショニングなら、休まないのもコンディショニング。それが根本の考えだった。同年のクラウンは最大24連戦が予定されていたこともあり、シーズン中の満足に休めない状況に備え、キャンプからその環境作りをやっていたというのだ。
「プロで長くやった目で、いきなりアマチュアの選手を見る。初めて見た時はね、なんでみんな、こんなにヘタなんだろうって思っていた。これじゃあ誰も獲ら
ねぇよ、と。社会人はともかく、大学生は特にそう。高校生にいたっては“なし”ですよ。それがだんだんと、球が速いとか、足が速いとか、肩が強いとか、先
天的なものだけを見るようになる。技術的にいい、悪いは後回しにして、たとえば、これだけの肩はちょっといないぞ、となったらマークしておく。それで次か
らいろんなものを見ていくようになりました」
「普通、部長とスカウトだったら、『この選手、獲れなかったらどうする?』っていう話になりがちです。根本さんは全然、違いました。『全部、オレに任せ
ろ。失敗してもいいからやれ。責任はオレが負うから』って言うわけです。やっぱり、親分ですよね。部下のしくじりを全部、引き受けるっていうのは。だか
ら、我々はやりやすかったし、自然に仕事が速くなりましたよ」
「根本さんがね、『今は野球なんかやってなくていい。とにかく足が速いとか、肩が強いという特長があって、昔ちょっと野球やっていたっていうぐらいのヤツ
がいたら獲って来い』って言うんですよ。それは、なかなか大成はしないでしょうけど、スカウトとしては面白い。それで一度、高校生で柔道の選手を見にいっ
たことがあります。腕力はもちろん、足が速くて肩が強い、体の動きがいい。野球経験もある。結局、柔道で大学に行くと決まって断念したんですが、欲しかっ
たです、あの選手は。いまだに残念だったと思います」
43歳の大ベテラン・野村克也まで獲得した理由
「僕とすれば、ひとつのものが生まれる、新しく作る、という時には、『徐々に変わるのは不可能なんだ』という考え方なんです。やっぱり、極端に変えること
によって変わるんだと思うし、極端に変わる方法として何があるかといえば、まず人ですね。人を入れ替えることによって、自然に雰囲気を変えることができ
る。極端にそれをやるためには、主力でなければいけない」
証言者・下柳剛
リリーフで登板した下柳が、外国人選手を打席に迎えた時のこと。ストライクを先行して追い込んだ後、ベンチからの指示でアウトコースにボール球を投げた。ところがそのボール球を打たれ、タイムリーヒットになった。チェンジになってベンチに帰ると、根本に声をかけられた。
「お前、なにストライク投げてんだよ」
「いや、オレが投げたのはボールです」
「バットに届いて、ヒットになったらストライクなんだよ」
「いえ、オレはちゃんと指示どおりにボールを投げました」
「届く球はストライクなんだ!」
「あれはボール球や。絶対、ボール球や」
「何回言ったらわかるんだ、馬鹿野郎! バットが届くところはストライクゾーンじゃ!」
「いやボール球です」
「まだわからんか!」
意地になって言い返した下柳は、蒸し暑いベンチに立たされたまま、30分近くも延々と根本に説教された。終わると、タオルを持ってきたヘッドコーチの小山正明に、「もっとはよ『はい』って言わんか」と叱られた。
「あ
の時は説教されてもまだ意地張って、このクソジジイって思ってましたけど、年を追うごとに、オヤジの言うことが正解だなと思えました。のちにオレが若い
ピッチャーに言ったのは、『相手からヒットされるようなところにボール球を投げる必要はないやないか』ってこと。『ボールっていうのは、ずーっと向こうま
でボールやのに、なんでそんな近いとこに投げなあかんのや。バットが届いたらダメなんやって、オレも根本のオヤジに言われたんやけどな』って」
「自分がそれだけ長く現役でやれたのも、全部、オヤジのおかげやと思う。オレは死ぬほど不器用な人間だったから、もう『投げろ、投げろ』でしか覚えられな
かった。器用で、頭を使って自分の感覚を身につけることができない人間だった。でも、不器用な人間というのは、感覚を身につけるまでに時間がかかっても、
いったん身についたら長く忘れることはない。オヤジはそれをわかっていたと思うんです。要は、オヤジが作るのは選手じゃなくて、職人だったんじゃないです
かね」
「スカウトの仕事というのは、日本の野球界を隅から隅まで知っ
ていなければならんのです。下は中学校から上はノンプロまでね。そして好選手がいたら、常にその周辺を探知しておく必要があるのです。今の当人の精神状
態、一定期間内にどのくらい腕を上げたか、他の選手との力量の差はどうか、といったデータをいつも手もとに置くわけです。そしていいタイミングの時に、
パッと入団交渉をするわけです」
「1時間のヒマでも無駄にせずに走り回るわけです。スカウトの信条は誠意ですよ。新聞紙上で書きたてられるスカウト合戦なんて、年に一度、あるかなしかのケースで、実際はもっと地味で根気のいる仕事です」
ところで、根本はダイエー監督に就任直後、教え子の松沼雅之(元西武)と対談し、コーチが選手と向き合う時に「素人のスタンス」をとることの重要性を説いている。
「極 論すれば、悲しいかな『玄人は素人にはなれない』ということだな。そして、素人の意見を素直に聞く玄人が、あまりにもなさすぎる。ということは、自分が素 人のスタンスをとれないことを知らないんだ、みんな。マサ(松沼雅之)でも僕でも、我々から見れば、玄人として選手を見ちゃうじゃない。素人として見られ るかといったら、絶対見られないんだよ。では、素人のスタンスを受け容れる素直さをどこで手に入れるかというと、まずは “見る習慣”を身につけないといけない」
具体的に指導する以前に、自分の観察力をどれだけ養うかが問題であり、観察力が向上すれば、選手 の欠点や長所がどこにどれだけあるのかかが見えてくる。しかし現実には、観察する前に自らが動いて、しっかり指導できたと思い込み、自己満足に浸るコーチ が多い。そう嘆く根本はさらに続けた。
「要は、首脳陣は原石を見極める目があるのか、それともないのか、ということ。それには観察の時間を持たなくてはいけないと。だから観察がいちばん最初じゃなきゃいけないんだよ」
近鉄のスカウト時代から、長い時間をかけて選手を観察していた。とうの昔に、素人のスタンスを受け容れる素直さを手に入れていた。そんな根本にとっては、バードドッグも、パートタイム・スカウトも、ごく当たり前の情報源だったのだ。
証言者・大田卓司
「タクな、嫌いな人ほど、電話の一本でもかけてごらん。全然、違うぞ。『元気ですか?』でも、『元気でやってます』でも、なんでもいいじゃないか。電話一本、10円で済むんだから」
いかに「オヤジ」と慕う根本の教えでも、大田にはできなかった。10円で3分話せる公衆電話を使う時代から携帯電話を使う時代に移り変わっても、性格上、無理だった。嫌いな人にも電話できる人間が出世するのだろう、と気づいたのはずっと後のことだった。
最近になって心に響いた根本陸夫の言葉
「タク、人間ってのはなあ、本当のことをずばり言われると、いちばん傷つくんだよ」
誰にでも怖いものなしでストレートに言い放ち、本当のことを言ってなにが悪い、と思っていた大田にとって、この言葉は身にしみた。まして大田自身も、本当のことを言われたら傷つく、と気づかされた。根本はさらに続けて言った。
「人 間、本当のことを言うと角が立つ。でも、その角は削らなくてもいいんだよ。なあ、タク、名刺でも角があるだろ? その角をね、丸く広げていきゃあいいんだ よ。削ると小さくなってしまうから。要は、自分の性格はそのまま残していいんだから。それをね、広げていきゃあいいんだよ。そうしたら角がなくなって、丸 くなるじゃないか」
大田はダイエーを退団した後、2004年に台湾プロ野球・La Newベアーズの監督、07年には韓国プロ野球・SKワイバーンズの打撃コーチを歴任。08年からは3年間、ヤクルトの打撃コーチを務めたのだが、そのと きに初めて、「角を削らずに丸く広げればいい」という根本の教えを実践できた。
「性格は変えようがないけど、やっとわかった。本当のことを言わない方がいいときはあるんだって、心の底から思えた。つい最近の話ですよ。だから、言われた言葉はずっとオレの頭ん中に残ってるし……。あらためてオヤジには、感謝の気持ちしかありません」
証言者・瀬戸山隆三
自分でどうするか、考えろ――これは瀬戸山自身、最初に根本に言われたことだった。
「最初に根本さんから、『お前はチームのことをよう見とけ。そうしてお前が自分でこうしたい、ということを考えてやったらいいんだよ。そのなかで大事なの
はスカウティングだ』と教えられました。『本気で強いチームを作ろうとしているスカウトを集めてこい』とおっしゃって、根本さんご自身、スカウトに対して
非常に厳しく指導しておられた」
この時、根本は逆に「本気で仕事をしていないスカウト」の特徴を伝えた。それは報告にばかり来るスカウトで、「昨日はここへ行って来ました、この選手はこ
うです、あの選手はこうみたいです、と言ってくる奴には気をつけろ」と。特に、自分では実際に見ていない選手を高く評価するケース。たとえば、「あそこの
ピッチャーはすごい球投げますよ」と言われた時、本当に見に行っているのか? と疑問が生じたら、「右投げか左投げか聞いてやれ。見に行っていなかった
ら、うーん……となるから」と教えられた。
コーチについても、要注意人物の典型が示された。いわく、「自分の生計のために選手をうまく利用して、いかにも教えているというポーズを取っている 奴」。そのような無意味な指導がまかり通らないよう、根本はコーチたちに対し、「選手に聞かれるまではなにも教えるな」と指示した。瀬戸山によれば、これ にはコーチも選手も戸惑っていたという。
「秋のキャンプでは最初、コーチはけっこう大変でした。本当に、遠巻きに選手を見ているだけですか ら。もちろんノックとかはするんですけども、『教えるな』と。そのかわり、コーチは選手の動きをしっかり見て、『聞かれたら教えられるように、的確に準備 だけはしとけ』とおっしゃっていましたね」
一方で根本は、選手寮で食事を作る女性や清掃員を大事にするよう伝えた。外部の人間でありながら常にチームの近くにいる人たちは、実は選手の性格をよくわかっている、というのがその理由だ。
たいていの選手は、フロントの人間と接する機会が少ない。いざ面談しても、なかなか本音を言わないから性格がわからない。しかしふだんの生活における言葉や態度には”素の自分”が現れやすい。
その点、合宿所という生活の場で働く人たちは、常に選手たちの”素”に触れている。愛想がないのは誰か、陰日向があるのは誰か、ということもよくわかって
いる。その人たちに少しの心づくしをしてあげて、「この選手どう?」と訊けば、すんなり話して聞かせてくれる、と教えられた。フロントとしてチーム編成に
携わるなら、選手の本当の性格を知っておくに越したことはないわけだが、この根本のやり方は、特に瀬戸山の印象に残った。
「そこまでやって、現場はこうだ、選手たちはこうだと、フロントも知っておかなきゃいけないという教えです。だから根本さんは、フロントの女性の方も大事
にされました。たとえば、シーズン中、順番に5人ぐらいずつ遠征に連れて行かれるんですよ。全部、自分のお金で。それで夕方は球場の食堂で、試合が終われ
ばホテルの食事会場で一緒に食事をする。最初の時には、私に向かって『こういうことが大事なんだよ』っておっしゃっていましたね」
「さすが、根本さんだなと思いました。オーナーの中内功さんの信頼はそれぐらい厚かった。だから、中内さんは勝率3割6分という成績に納得してな かったと思うけれども、辛抱しようという心境になっていたんですね。ただ、中内さんの次男、オーナー代行の中内正さんはまったく納得できなかった。それで いろいろあって、オーナー代行が『根本さんに任しとったら全然や。勝つ気ないだろ、あの人。オレがやる』と。いちばん最初にされたのは打順を決めることで すよ」
94年1月のキャンプ前、オーナー代行と根本、瀬戸山の3人による会食が行なわれ、その席でオーナー代行が独自のチーム構想を披
露。ポジションと打順については、根本に向かって1番から9番までの名前を読み上げ、強い口調で「これでいってください」と申し出た。「攻撃型のチームを
作る」と宣言し、強打者の
山本和範(カズ山本)を2番に置いて「絶対に送りバントをさせない」と言うなど、極めて具体的だった。
経営サイドからの現場介入。しかし根本はすべて「はい、わかりました」と聞き入れた。驚いた瀬戸山が根本とふたりになった時、「反論したほうがいいんじゃ
ないですか? ケース・バイ・ケースで変わることもあるでしょうし」と進言したが、「いいんだよ、それで。坊やの言うとおりにやろうや」と言うばかり。根
本にとって、オーナーの息子である正は「坊や」に過ぎなかったのだ。
証言者・小島弘務
「根本さんにはまず、『フォームが悪い』って言われました。それでキャッチャーの位置に穴開きの小さいネットを置いて、天井すれすれにボールを上げて、そのネットの穴に入るように投げろと。フォーム作りから入るということで、力を入れずに軽く投げるんです。でも、それを多い時は1000球ですから。全部終わるまでに結構、時間かかりますけど、根本さん、つきっきりでずっといるわけですよ、毎日。いろんな意味で『この人、大丈夫かな?』と思いました」
根本自ら用意した30ダースのボールの箱が練習場に積み上げられ、30箱を1セットとする投球練習が始まった。1ダース12球だから、1セットは12×30で360球になる。これを毎日必ず2セットはやらされ、多い時は3セットになったから、360×3で1080球。軽く、とはいえ、毎日1000球前後を投げた経験は小島にはなかった。
「フォームの指導については、根本さん独特のものがありました。というのも、投げ終わった後、頭を体の左側のほうに持ってこないと怒られるんです。『頭はこっち』って、髪の毛をグッと引っ張られる。で、右足で蹴ったその足を残せと。それまでは右側に出るのが自然な流れだと思っていたんですけど、出ると、『足を出すなって言っただろ』って、出てくる足を反対側にバン!って蹴られるんです。もう、たまらんなあと思って。それを2カ月ぐらい、毎日ですよ」
生活面で世話になっている感謝の気持ちも吹き飛ぶほど、小島は根本の指導にムカついていた。西武に入団していないため、根本の職務も立場もよくわからなかったから、「この人、毎日来るけど、仕事ないのかな」とも思っていた。
「でも、毎日なんで……だんだん、この人すごいなあと。なんでオレなんかにこんな熱心に、一生懸命やってくれてるんだろう、というところにたどり着きましたね、最終的に。『仕事ないのかな』と思ってたけど、ないわけないじゃないですか、球団の偉い人であって。だから、自分が西武に入れなくなる事件は起こったけど、根本さんがオレのことを考えてやってくれてるのは間違いないし、なんとかせなあかんな、と思い始めました」