楽しみと日々

あまでうすの気まぐれ迷走日記です。 毎日詩歌やアホ馬鹿エッセイや映画や音楽、読書の感想を書きなぐっております。

2007年07月

小澤征爾音楽塾の「カルメン」を聴く



♪音楽千夜一夜第23回

小田実の死と自公を葬送する嵐のような1日が終わろうとする夜、私は鎌倉芸術館へ行ってビゼーの「カルメン」を抜粋で聴いた。小澤征爾音楽塾オーケストラ&合唱団の演奏である。
はじめはひさしぶりに小澤の指揮に接することができると思っていたのだが、なんのことはない彼が指導する若手のスタッフによる演奏会であった。その代わりといってはなんだが、病気の癒えた御大が演奏の前後に元気にステージにあがって挨拶をするというサービス振りに満員の聴衆は熱狂していた。

小澤といえば今からおよそ20年前、ふぁっちょんビジネスとチンドン屋稼業に飽いた私が、再び中学生時代に好きだったクラシック音楽に夢中になっているのを知ったキャニオンレコードのクラシック担当のNさんが、畑違いの私を同社に引き抜うこうと画策されたことがあった。

説得されてだんだんその気になっていたとき、彼女が担当している小澤とキャスリーン・バトルの芸術家特有のわがまま?についてため息をつきながら語るのを耳にした私は、「こりゃ駄目だ。とてもついていけない」と痛感して転職を断念したのであった。周囲を攪拌し牽引する小澤の猛烈なエネルギーはいまも変わっていないだろうし、黒人であるコンプレックッスを裏返しにしたバトルの放恣な自己主張は彼女のメットからの永久追放という結果を生んだ。

さて昨夜の演奏の指揮者は鬼原良尚という87年生まれの若手であったが、まるで若き日の小澤そっくりのモンキースタイルで、前進するブルドーザー、戦うボクサーのように前奏曲に取り組む。

テンポが異様に速く、熱気であおられたオーケストラは、まるでブラバンのように咆哮する。こんなにうるさくてやかましい暴音はむかしモスクワのオケとロジェストベンスキーで聴いて以来だ。はるか遠くの3階席にいた私は、耳をふさぎながら思わず「おいおいオペラはスポーツではないよ」と言いたくなった。

「恋は野の鳥」、「闘牛士の歌」などの名アリアが続々登場するが、鬼原の指揮は師匠の小澤の悪しきエピゴーネンと化し、まるでヴェートーヴェンの7番を指揮するように、カルメンを指揮するのである。
しかし音楽のタテの線は常に正確無比に守られ、いかなる局面においてもいっさい破綻をしめさない。音楽の外面的な形式の平仄は終始合っているが、カルメンのドラマや内面性はどこにも感じられない。

だからあのフルートとハープで始まる第三幕への前奏曲のそっけないこと。これほど心に沁みないこの曲を私は生まれてはじめて聴いた。ビゼーが聴いたら「俺はこんな無味乾燥な音楽なんか書かなかったぞ」とさぞや嘆いたことだろう。

ビゼーの音楽とは無関係に怒涛のように流れていくおびただしい音符たち……、それは小澤の指揮するサイトウキネンなどと同じ性質のものだ。魔法使いの弟子はあくまで魔法使いと同じメロディを奏でることを知らされた私は、思わず慄然とした。

そして最後は皆様お待ちかね、カルメン(手嶋真佐子)とドンホセ(志田雄啓)の愛の破局である。猛烈にドライブされる最強音の頂点で花火のようにはじけ散ると、案の定超満員の聴衆は口をあんぐりと開き、滂沱の涙と涎を垂らしつつ爆発的な拍手を贈ったのであった。
どうにもこうにもこの発熱についていけない駄目な私を除いて……。

小澤の恩師である斉藤秀雄は「型より入れ。型より出よ」と小澤に教えた。
そこで私は鬼原にいいたい。「小澤より入れ。しかし一日も早く小澤より出よ」と。

會津八一記念博物館にて



遥かな昔、遠い所で第15回&勝手に建築観光22回

昨夜は醜い國を代表する醜い男の連立政権に対し良識あるひとびとの鉄槌が下され、久しぶりにいい気持ちだった。

さて思いは現世を遠く離れてまたしても遠い昔をさまようのである。
たしかここら辺が早稲田大学の図書館だったとうろうろ探しているといつのまにやら會津八一記念博物館に変身していた。

ここはあの根津美術館で知られる今井兼次の設計である。1925年に竣工した大閲覧室部分は、自然光がさしこんでなにやら厳粛な雰囲気が漂っていたが、私は閉架式のこの図書館をほとんど利用したことがないが入ってみると統一のない雑多なコレクションが館内を埋めていた。そのすべてが會津八一の収集物ではないらしい。

會津八一は新潟市古町生まれ。長くこの大学の美術の教授をつとめ1956年75歳で死んだ。歌人としても知られている。

都辺をのがれ来たればねもごろに潮うち寄するふるさとの浜 八艸道人

なんでもこの大学は今年が創立125周年だそうで、それを記念して吉村某氏のエジプト展をこの博物館で堂々開催するらしいが、私はそういういかにも客寄せパンダ風の企画商売第一で考え出すこの学校がますます嫌いになる。

秋山祐徳太子著「ブリキ男」を読む



降っても照っても第40回

今年72歳になった天才的アーチストの自伝である。最初の60年安保闘争時代のハチャメチャな回顧も面白く、二回の都知事選挙の話や新宿青線地帯の乱痴気騒ぎも抜群に面白く、終わりごろの「放尿論」なども抱腹絶倒ものである。(余談ながら作家の風人さんの名前が突然出てきてびっくりさせられる)

つまりどこを取り出して読んでも破格の面白さが満載の自叙伝であり、しかも著者がまったく受けを狙って書いてところが素晴らしい。この人こそ生まれながらのアーチストではないかと思われる。

 美大の卒業制作で最高賞に輝いた著者の彫刻「ブリキの飛蝗」は、後世に燦然と輝く不滅の名作であり、これが彼の芸術家としての出発点になった。

次はかの有名な「グリコのハプニング」である。これは著者がたまたま横須賀線に乗っていたとき、蒲田附近で大きなグリコの看板を見た瞬間に着想をえたという。

「看板に描かれた少年の格好で銀座通りを突っ走ったらどうだろう。グリコのおまけが街を走る…、これこそ私がいままでやって来たハプニングのなかでも代表作になるかもしれない」

そして事実その通りになる。

翌日ランニングシャツとパンツ1枚で両手を挙げながら銀座4丁目の角をまがり数寄屋橋公園を通り過ぎる著者の勇姿を見た大日本愛国党総裁赤尾敏氏は、その演説を中断し、「いま日の丸を背負った青年がここを通って行った。まだまだ日本にはいい青年がいる」と言ったそうだ。

赤尾敏氏と著者の出会いはさらに続き、東京都知事選でともに立候補し、ともに落選するのだが、候補者説明会のあとで著者が赤尾敏氏に銀座の不二家に拉致され、なんとチョコレートパフェをおごられるシーンも忘れがたい。

ちなみに今は亡き赤尾敏氏の兄上は長らく鎌倉御成で耳鼻科を開業しておられ、私のははも家内も何度か治療してもらったそうだが、(あまり腕前は上手ではなかったそうだ)入り口に数本の松が茂ったその昭和初期の古風な洋風住宅が先日無残にも取り壊され、今日も道行く人の涙をさそっている。
 
 それはともかく、本書の終わりに近いところに突然「放尿論」というのが出てくる。このなかで著者は、

「温泉でビールを飲んで尿意を催した私は大浴場の浴槽のなかでで突如尿意を催した。そこで突端を湯面から少し突き出して思い切り放尿すると、尿は噴水のように高く上がり、私は一人歓声を上げた」

と楽しげに書いているが、この楽しさに心から共感できる人だけが著者の友であり、本書の熱烈な愛読者であるといえよう。

気色の悪い日本語



♪バガテルop23

とかく最近の日本語は、私のような世捨て人には格別に不可解である。

その1 立ち位置
『ミラノの3Gと称されたジャンフランコ・フェレが亡くなったが、彼の「立ち位置」はジョルジュ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチとは少し違っていた…』
などと思わせぶりに使われるのだが、活字の見た目も、発音もはなはだ気持ち悪い。
いっそ「立ちションの立ち位置」なら許せそうな気もしますが、それにしても昔から「立場」という立派な日本語があるでしょうに。

その2 読み解く
この奇妙なエセインテリ?言葉は、そもそも出版社の新刊書の腰巻惹句から始まり、つい最近まで乱用されていたが、さすがに少し下火になってきたようでほっとしている。
例えば、
『安いウナギ今年が最後か? マリアナ海溝に潜む生物の謎を本書が読み解く』
『あのアユが、森理世が、ほんとにほんとの日本の美女? 激変する美意識の真相を読み解く』
のように安直に使用されるので、私はこれを「腰巻汚染」とはらり読み解いている。

その3 回収される
回収されるのはペットボトルだけかと思っていたら、ツエムリンスキーまで回収されることになっていたとはついぞ知らなんた。とうとう
『当夜の公演を聴いて改めて感じたのは、ツエムリンスキーを「絶賛批評」的なレトリックへ回収する難しさである。』 
などと、したり顔で書く音楽学者が登場したのである。(7月27日朝日夕刊文化欄岡田暁生氏関西フィル演奏会批評記事より引用)
ひとあじ違う言い回しにひきつけられた私は、岡ちゃんのこの気持ちの悪い文章を仕舞いまで丁寧に読んだが、結局どこのどいつがツエムちゃんを絶賛批評的なレトリックから回収することに成功したのか、脳力に超弱い私にはついぞ分からなかった。
岡ちゃんが自力で開発した言葉なのか、それともどこから盗用したのか知らないが、岡ちゃんはきっとこの最新流行の言葉をどこかで1回使ってみて、それから回収してみたくて仕方がなかったのだろう。 どーだ、やったぞ、決まったぞ! ばんざーい! 
てなもんだろう。極貧にあえぐ三流ライターとはいえ、私だって筆1本で渡世を渡る文筆業者だ。岡ちゃんのそのうれし恥ずかしい気持ちは分からないでもない。
されどこんなちょいと気の利いた当節風の言葉は、あと三年もすれば誰も見向きもしなくなっていると、どうして批評家ともあろう岡ちゃんは気づかないのだろうか? 
もしかして岡ちゃんは、今を去る20年前に「おしゃれなこと」を「ナウイ」とか「イマイ」とか言い、つい先ごろまで「おされな」などと言い換えてマンネリに陥るまいとあがいていた人々を先取りじゃなくて、後追いする人ではないだろうか?

その4 指摘か主張か
作家の柴田翔氏が、最近若者よりも大人の言葉が劣化している証左として、ある新聞が「談合に天の声、検察指摘」と書いたのがけしからんと怒っている。(日経7/24夕刊)
もし新聞が中立不偏の立場なら、検察と新聞の立場を同一視してはならず、(その意見には賛成)、その見出しは「談合に天の声、検察主張」でなければならない、というのである。 
されど、もとより後者のほうが分かりやすいと私も思うが、前者の表現が新聞が検察に肩入れした証拠になるのかどうか。別に指摘と書いたってそれほどの大事とは思えない。
しかしなんといっても言葉の専門家がおっしゃることだ。きっと私も、さうしてくだんの新聞記者も、左脳が超超劣化しているのだらう。

レイモンド・カーヴァー著「ファイアズ(炎)」を読む

 

降っても照っても第39回

原作者のカーヴァーと村上春樹の翻訳の相性は抜群によく、本作のエッセイも、詩も、短編小説もついつい村上が書いているような錯覚に陥りそうになり、電車の中で読んでいても、枕頭で読んでいても、あまりの気持ちよさ、読書の快感のあまりついつい眠り込んでしまいそうになる。まことに不可思議なコラボレーションである。

ちなみに最近協業、協同、提携を意味するこの言葉を、コラボ、コラボと略称するようですが、フランスではコラボは「対独協力者」を意味するそうなので、教養ある良い子の皆さんは、極力コラボレーションまたはコラボラシオンと巻き舌で発音するようにしようではありませんか!?

それはともかく、この2人はさながらあの気色の悪い江原圭之と三輪明宏?のやうに琴瑟相和す深い運命的な間柄だったのであらうし、またさだめし入魂の翻訳なのであらう。

ただ最後におかれた珠玉の名編「足もとに流れる深い川」の村上版タイトルにはほんの少しだが異論がある。原題はSo Much Water So Close To Homeなので、例えば「我が家にひたひた寄せてくる大量の水」とか、「おらっち(家)に迫る奔流」あるいは大江健三郎風に「洪水はわが門前に及び」などのほうがよろしいのではないでしょうか!? 
諸賢の所見をお伺いしたいものである。

強姦され殺害されていた少女を、真冬の氷のように冷たい川に放置したまま釣りを楽しんでいた夫に対する妻の不信の念が、その川の冷たさでひたひたと、ひえびえと押し寄せてくるこの恐ろしさは、やはりカーヴァー独自のクールな世界である。

なお本書のタイトルとなった「ファイアズ(炎)」は、カーヴァーが自らの文学上の恩師であるジョン・ガードナーについて書いた感動的なエッセイである。ジョン・ガードナーは、「作家を志すほどの者は、つねに心中に炎が燃えていなければならない」と説いて、そんな“めらめら”がない小説家志望の凡人どもに深々と止めを刺している。

五木寛之著「21世紀仏教への旅・中国編」を読む



降っても照っても第38回

紀元前5世紀ごろバラモンに対するアンチテーゼとしてインドで生まれたジャイナ教と仏教は栄えるが、次第に仏教それ自身が体制化するようになる。その一方で民衆の奥底に潜入したバラモンがふたたび活力を取り戻してヒンズー教となって体制仏教を弾圧する。

やがて仏教は衰え、再武装して立ち上がり彼らに闘争を挑む。それが大乗仏教である。

その大乗仏教は海陸2つの道を辿って中国に入り、朝鮮半島を経由してわが国に入った。
海を経由して広州に入ったインド仏教は、道教と習合しながら次第に地域性を強め、達磨大師が創設した中国禅として独自の仏教を確立するに至る。

「面壁9年」を敢行した達磨の教えが「以心伝心」と「不立文字」であることはよく知られている。インド仏教が我執を去り、自己滅却による悟りを獲得することを願ったのに対して、中国禅はおのれを凝視する座禅瞑想だけではなく、日常生活の中で自己の真の本性を見きわめる「見性」を重要視した。

達磨から数えて6代目の衣鉢を継いだのが慧能である。目に一丁字なき慧能は本能丸出しの庶民の心性の奥底から「本来無一物」こそが人間存在の、そして禅の本質であると喝破した。

しかし大陸性志向の北部中国に拠点を据えた「北宗漸悟派」の儒教的な青白きインテリ派と、慧能が海洋性志向の南部中国に拠点を据えた直覚現実本能把握を得意技にする「南宗派頓悟禅」との対立は、現在も北京・上海文化対広州文化の対立としていまなお継続されている。

その後栄西が移植した臨済宗も、道元の曹洞宗も、南宗派頓悟禅の流れを汲む中国禅であり、これが「只管打座」によるわが国の禅宗を生み出すきっかけになる。

しかし鎌倉幕府などの権力者によって腐敗堕落したわが国の禅宗に対し、江戸時代になって「渇を入れた」のはかの白隠禅師であった。白隠によって考案された「公案」は日本人による日本独自の禅修業として中国禅とはひとあじ違う三昧を開拓したのであった。

このように進化を遂げた日本禅は、明治に入って今北洪川、釈宗演、鈴木大拙、弟子丸泰仙などの努力によって海外、とくにフランスに新境地を開拓し、カトリックの限界を知った知識人や1968年の5月革命で挫折した学生たちによって新たな教線を拡大している。
以上、本書から私が学んだことども、でした。

小さな勇気と大きな偶然



鎌倉ちょっと不思議な物語68回

パタゴニア社の向かいに聳えるのが思い出深きH芸術学院である。ここは早い話が美容師さんを養成する専門学校であるが、美大受験生のための予備校でもあり、以前はスタイリスト科という講座もあった。

私は二〇〇〇年の1月に職を失って1匹の猫背のムク犬のごとく関東平野をさすらっていたのだが、ある日駅前から見えるそれなりに瀟洒なビルを発見し、「こはいかなる建物なるぞ?」と近付いてみると、それがH芸術学院であった。

八幡様の大通りや、駅のホームからも見えるそのビルは、駅前の醜悪な居酒屋「笑笑」と違って、少しくデザインのセンスが感じられたのである。

名前も「げーじゅつ」だし、こんな鄙びた学校ならもしや私のような風来坊にも講師の口があるかもしれないと思って狭い1階のフロアの傍の階段を昇って2階に至ると、そこは歯医者さんであった。

余は今日は歯医者に用はないぞ、とパスして、グングン3階に昇るとそこに受付があり、二人のおばさんが「あーた、なんですか?」と誰何したので、余があわてて用件を告げると、得たりやおうとばかりに、スピルバーグの映画「スターウオーズ」に出てくるヨーダそっくりの年齢不詳の女性が別室から出てきた。それがH女史であった。
 
私が「今日初めて知ったこのおされなげーずつぐわっこうで21世紀後半のスタイリストさんのためのふぁっちょん講座を開催したい。わたしは他にはなにもできませんが、ことふぁっちょんに関しては斯界最高の講義をちょう格安で提供いたしますぜ」

と単刀直入に申し入れると、お茶ノ水大にて日本服飾史を研鑽されたヨーダ、じゃなかったH女史は、「あーらまあ、ちょうどよかったわ。あーた、早速来週からメンズ講座をお願いできますか」とおっしゃるではないか! 

これはびっくり、門は叩いてみるモンだ。パンツははいてみるもんだ。しかしあまりに話がうますぎる。なにか裏があるのではないかと思ったが、実はかの有名な紳士服飾評論家のT氏がどういうわけだか講師を辞退された直後だったらしい。 

当時フリーターだった私が、“奇跡的一発逆転就活大成功”に興奮していると「ただし授業の前にあなたの大学の卒業証書を持ってきてください」とヨーダがいう。

私は「自慢じゃないがそんな陋劣なものは持ってはいない。されど卒業論文ならどこかにあるはずなのでお目にかけてもよろし」と答えると、「ではそれでも結構」とヨーダが鷹揚に答え、私はすぐに2000円で買った中古自転車で自宅にとって返し、書斎の奥から出てきた懐かしいP・ヴァレリー論!をヨーダに提出し、ヨーダの感動の涙、涙を誘い、かくて私は晴れてH芸術学院のひじょーきん講師に就任したのであった!!
ああ、なんとげーじゅつ的香気かんばしい逸話ではないだろうか?

かくして私は、小さな勇気と大きな偶然と親切なヨーダ女史のお陰で、鎌倉一おされな学校のおされなヒジョーキン講師を1年間にわたって勤め、かの悪名高き小泉政権が推進した下層超下流階級への脱落を、かろうじて崖っぷちすれすれで「自己責任!?」でくいとめることに成功したのだが、その翌年、不幸なことにわがスタイリスト科への入学者が皆無であったために、余はふたたびさすらいの自由業者となったのであった。

出てきた携帯



♪バガテルop22

これで通算4回目か、それとも5回目になるのだろうか? 先週工芸大からの帰途、たぶん新宿から戸塚間の電車内で携帯を落とした私に、およそ一週間経ってなんと小田原警察から拾得の通知があった。正確には小田原警察からの通知を受けたauから私宛に小田原警察へ出頭せよとの通知書が配送されてきたのである。

確か前回は新橋で落としたやつが三鷹で出てきて真夏の街道筋を汗だくでトボトボ歩いてはじめて三鷹警察まで行ったのだった。なんでも親切な若い女性が届けてくださってというので、その女性にひとめお会いしてお礼を言いたいと申し出ると、三鷹署員は私に不純の動機があると思ったのか、急に疑いの眼を向けて、「それは不可です」と冷たく拒んだことをはしなくも思いだした…。

ともあれ出てきたことは慶賀に耐えない。(なんでも2割の人が携帯を落とした経験があり、8割が本人に無事返っているそうだ)
それで昨日は新宿の文化の夏休み前の最後の授業が終るや否や湘南新宿ラインの小田原行きに飛び乗って小田原警察くんだりまで行って、平成十三年製造の苔むした携帯を受け取ってきたのである。

しかし、サラリーマンであった日の私ならばともかく、最近の私には携帯なんて無用の長物である。電車の中で携帯メールやゲームやワンセグにうつつを抜かす連中はほんとうにバカな亡国の民だと思っているので私は絶対にやらないし、電話だって妻以外にはほとんど誰からもかかってこないし、ましてこちらから掛けることもない。

ただ1)時計がなくても時間が分かる。2)以前母親が急死した折に役立ったことがあった。3)たった1度だけこの携帯に小学館から仕事の依頼があった 4)授業日に電車が事故に遭った場合、教務に連絡するには便利だろうと漠然と思っている…の4つの理由からなかなか捨てられなかった。

それで今回の紛失事件をきっかけに、百害あって一利しかないこの文明の利器を断固廃棄処分にしてもう携帯とは縁を切ろうと思っていたのだが、出てきたとなればまあ仕方ない。いちおうまた落っことすまでは可愛がってやろうと思った次第です。

でもよく考えてみれば今でもケイタイなどなくても構わないし、なかった時代のほうがはるかに良い時代だった。私はこんなくだらない玩具を発明して商売の具にした人を軽蔑こそすれけっして尊敬できない。私はケイタイ・ラダイストに賛同する。

鎌倉ちょっと不思議な物語67回


前回紹介した鎌倉の農協連即売所のすぐ傍に、米国のアウトドアアパレルメーカーのパタゴニア社の日本法人がある。

この会社は世界で初めてすべてのコットン製品をオーガニック(有機栽培)に切り替えたり、他社に先駆けてペットボトルからの再生フリースを販売するなど品質と環境を重視する経営で知られるが、“勤務中好きな時間に社員をサーフィンに行かせる”会社としても有名だ。

1938年生まれの創業者イヴォン・シュイナード氏は、登山、サーフィン、フライフィッシング、ダイビングなどを楽しむために1年の半分は世界中を渡り歩いているが、その独特な経営理念はなかなか興味深いものがある。海とスポーツと湘南とファッションを愛する人にはお薦めしたい会社である。(詳しくは話題のフリーマガジン「オルタナ」のインタビュー記事などを参照のこと)

私の近所にもサーフィン大好き人間が住んでいて、台風が来ると水曜日でもないのに朝から海岸に出かけてビッグウエーブを楽しんでいるようだ。仕事なんか忘れて海と戯れる快楽の日々……とは超うらやましい話だ。

瀬戸内寂聴著「秘花」を読む



降っても照っても第37回


世阿彌によれば、推古天皇の御世に、聖徳太子が渡来人の秦河勝に命じて天下保全と諸人快楽のために66番の遊宴を行わせ、これを申樂と称したのが能のはじまりとしている。

申樂はその後河勝の遠孫が相伝して春日・日吉神社の神職となり、和州・江州の輩が両社の神事に従うに連れて盛んになったと、当の世阿彌が「風姿花伝」に書いている。

当初は申樂よりも農事から発した田楽のほうが優勢であった。けれども足利義満公から肉体的・精神的な寵愛を受けた世阿彌は、父観阿弥のあとを継いでわが国の能芸術を大成し、あまたのライバルと闘って申樂と自家観世流の優位を確立したのであった。

しかし栄光の頂点にあった世阿彌は、72歳のとき、突如あの残虐非道の将軍義教によってなんの罪咎もなく都から佐渡に流された。ちなみに世阿彌同様の悲運を被った人々には、菅原道真、源高明、小野篁、在原行平、業平、光源氏(物語人物)、京極為兼、日野資朝、後鳥羽院、順徳院、崇徳院などがある。

後世の検証によって、世阿彌は翌73歳までは同地で生存していたと認められるが、その後の生涯は杳として知れない。この大きな謎に挑んだ著者が、この偉大な芸能感人の最晩年の足跡を「幻視」したのが、この小説である。

著者は資料や先学の研究・論文、現地調査に学びつつも、豊富な恋の遍歴と僧侶としての人生経験、そして作家特有の自由な空想のはばたきによって、「そうあったかもしれない能楽者の最後の軌跡」を、老成した筆致で、あたかも自作の謡をうたい、即興の舞いを舞うように、自在に書き連ねている。

またそのもっとも大きな創作の工夫は、老いたる能楽者に奉仕する若き女人を配したことであろう。彼女は一休に仕えた森女の如く落日の世阿彌の生と性をほのかに彩るのである。

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